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kindle本「自尊心が全てを変える」①「自尊心とは」

最近出版したkindle本「自尊心がすべてを変える」は、少しずつですが、購読してくださる方が増えてきています。

また、仕事柄、こうした自尊心関係の講話をさせていただく機会も増えてきており、まさに時代が健全な自尊心の回復を求めているのではないかと思います。

当書は、自尊心への誤解を解消し、健全な自尊心を回復するとともに、自分本来の個性や力強さを引き出すきっかけとなるとても良い本だと思います。

もっともっと広く多くの人に読んでもらいたい、そんな願いがあり、当ブログでも、少しだけ当書籍を紹介していきたいと思います。

当書籍は、自尊心をどう回復するのかを「自尊心回復の7原則」と題して書いておりますが、そのテーマに向けての序章として、自尊心の重要性や回復の意義について書いている部分をシリーズでご紹介していきたいと思います。

今回はその第一回目、「自尊心とは」です。

【①自尊心とは 「自尊心がすべてを変える」より抜粋】

①自尊心とは
「自尊心」と聞いて、みなさんは、どう感じますか? 自尊心と言うものに対して、どんなイメージを持っているでしょうか? 「自尊心が高い人」ってどんな人だと思いますか? あなたは、「自尊心の高い人」を友達にしたいと思いますか?

実は、日本においては、自尊心と言う言葉を巡って、とても大きな誤解が起こっているのです。

日本においては、自尊心とは、傲慢さやうぬぼれ、思い上がり、と言った意味で解釈されることが多く、持つべきものではない性格だと認識されることが多いのではないでしょうか。

しかし、欧米においては、自尊心は、self-esteemと呼ばれており、それは育むべき美徳であって、傲慢さやうぬぼれの意味も含まれるprideとは違うものだと認識されています。そう、欧米においては、自尊心は、「勇気」「誠実」「やさしさ」などと言った美徳と同列に扱われており、子供のころから育むべき徳性であると考えられているのです。

心理学上の自尊心とは、ありのままの自分を無条件で受け入れることを言います。

ありのままですので、自分の欠点、おっちょこちょいで、間抜けなところがあり、よく失敗をする自分の弱い側面も含まれることになりますが、そういうあまり好きにはなれない自分をも受け止めることができるメンタリティが自尊心なのです。

心理学では、この自尊心は、大変重要な要素であり、コミュニケーションやリーダーシップ、キャリアや結婚、健康や寿命にまで、良くも悪くも大変大きな影響を及ぼすと考えられています。

前著の「自尊心の重要性」でも書きましたが、不健康でネガティブな自尊心は、凶悪少年犯罪、幼児虐待、ドメスティックバイオレンス、依存症、うつ、自殺、などなど、現代社会を彩る様々な病理の原因とも考えられている一方で、力強く健全な自尊心は、その人のたくましく輝かしい生き方、リーダーシップを発揮する生き方、自分らしく主体的な生き方を導くとも言われています。

 

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自尊心を回復するための方法 ③誤解を解く

自尊心という言葉を巡って、とても多くの誤解があるように思えます。

さまざまな勘違いや思い込みによって、「自尊心」や「気高く生きる」、「矜持」といった、本来美徳とされるべき価値が傷つけられているように思えます。

「自尊心」と「傲慢さや自惚れ」は違います。

自尊心は、自分を信じ、愛して、自分らしく輝いて生きるということ。傲慢さや自惚れは、自分の本質を信じられないがゆえに、自分を嫌い、うそやはったりでごまかして生きるということ。両者は、まったく異なった意味を持っているにもかかわらず、日本においては、たいていの場合、同じものと信じ込まれており、自尊心の重要な価値にあやをつけられているように思えます。

そうした誤解によって、日本では、「自分を大切にすること」「自分の人生を祝福すること」「自分の大きな可能性を信じること」、そんな当たり前のことができなくなってしまっているのではないでしょうか。自分を愛することが、あたかもタブーであるかのように感じ、自分を大切にすることは罪であるという呪縛にかかって不自由な人生を強いられている人たちが多いのではないでしょうか。

自尊心は、努力をして育むような能力ではありません。自然に生得的に与えられている基盤であって、誰もが根底に持っている美徳です。自尊心がないように感じるのは、生まれつきそれが少ないからではなく、ネガティブな思い込みや有害な信念が阻害しているからです。太陽がないのではなく、厚い雲が光を遮っているから暗く感じるのです。

ここでは、そうした、多くの誤解に光を当てていきたいと思います。

 

1.「自分を愛する」ことと「自己愛」は違う

自己愛性パーソナリティ障害と言う専門用語もあり、自分を愛することは、いけないことなんだという信念を持っている人も多いと思いますが、それは、誤解です。

自己愛性パーソナリティ障害とは、ありのままの自分を愛することができない病です。長所もあれば欠点もあり、おっちょこちょいでカッコ悪いところも有り、人より劣っているところもある、そんな等身大の自分自身に満足できずに、一切の欠点と劣等性を否定し、自分にはそんなものはないと思い込み、優れて特別で力ある無敵の自分という幻想を信じ執着する病であって、決して自己信頼からくるものではありません。

ナルシスが愛したものは、きらきらする水面に映った外面であって、ありのままの全体ではありません。手を差し伸べれば消えてしまう影であって、実体ではありません。

自己愛が愛しているのは幻想であって現実ではないのです。

一方で、自分を愛するということは、ありのままの自分を愛するということ、等身大の人間としての自分を受け入れるということ、発展途上の自分を信じるということです。

ありのままの自分を愛しているので、欠点がばれないように強がる必要もなければ、自分の本当の姿を(醜いと思っていないので)隠してうそをつく必要もありません。

自分を愛することができる人は、無理して背伸びする必要もなければ、人に良く見てもらおうと意気込んで肩に力が入ることもありません。
明るく正直でオープンであり、そこには暗さや病が付け入るすきはありません。
「自分を愛する」ということには、まったく病理や陰はありません。むしろ、自分らしく力強く生きていくうえでの重要な基盤の一つ、美徳の一つとなると言えましょう。

 

2.「こだわり」と「頑固さ」は違う

こだわりと頑固さは、違います。

頑固さは、何につけ、背景の動機には恐怖があります。頑固な人は、本音でそうしたいというよりは、そうしないと怖いからそれに執着するのです。

「そうしないと欠乏が満たされない」「そうしないと自分を保てない」「そうしないと苦痛に耐えられない」・・・、焼けつくような渇望や危機意識があるので、良きにつけ悪しきにつけ、たいていの場合その欲求に逆らうことはできません。他人に迷惑がかかろうが、どんなに説得されようが、明らかな問題があろうが、そうせざるを得ないのです。

一方で、こだわりは、そうしないと怖いからするのではなく、シンプルにそうしたいからするのです。自分が愛し、挑戦したいと願っていることだからこそ、情熱的に集中力をもってそれにこだわるのです。

自分のハートの奥から湧き起ってくる情熱であり、たいていの場合、その欲求は気高く、美しく、真理をついており、他人に賛同はされるものではないかもしれませんが、他人を傷つけるものであることは、滅多にありません。

こだわりの人は、決してぶれません。得だからと言ってすべきでないことに手を出すこともなければ、損だからと言ってすべきことから逃げたりはしません。

こだわりの人は、決してあきらめません。自分の魂からの欲求であり、使命感があるので、例え艱難辛苦が立ちはだかっても、簡単にあきらめるわけにはいかないのです。

頑固であってはいけませんが、こだわりを持つべきです。そもそも、自分が大好きで、心から愛するものを、そんなに簡単にあきらめてはいけません。それが正しい道であれば、必ず道は開けてくる。チャンスとピンチは準備が整った人にやってくるもの。だからどんなに高い壁でも、乗り越えられない壁などないのですから。

 

3.「謙虚さ」と「自虐」は違う

謙虚さは、自分が尊く大切だからこそ、相手も尊び、敬う心を言います。

自虐は、一見腰を低くする謙譲さと勘違いされることがありますが、それは卑屈さであって、決して謙虚さではありません。

それは、自分を嫌うこと、自分を卑下することであって、決して自分を尊いとは思っていないからです。

人は、自分にするように人にするものです。自分を尊いとは思えない人は、本当のところ他人を尊いとは思えません。そのふりはできますが、本音では、そうは決して思えないのです。

心理実験で、人の不幸を喜ぶ人にはどんな特徴があるのかを調べた実験がありまが、その結果わかったことは、人の不幸を快感に感じる人は、一様に自尊心が低かったということがわかりました。

自尊感情が高い人たちは、人が苦しみ悲しんでいる姿を痛みと感じ、共感的、同情的でしたが、自尊心が低い人たちは、それを見て、喜んだのです。

自虐や自己卑下は、決して美徳ではありません。むしろ、慎むべき性向であって、その傾向が強まれば強まるほど、依存症、自傷行為、いじめ、虐待、ストーキング、など様々な問題や犯罪につながっていくでしょう。

 

4.「自分にまける」のは「弱い」からではない

自分に負けるのは、弱いからではありません。

自分に負けるのは、自分と戦うからです。

自分の一部を嫌悪し、矯正する戦いを挑み、勝とうとするから負けるのです。

戦いの当初は、作戦や対策を練り、一生懸命に頑張って、いくつかの勝利を得られるかもしれませんが、永遠に勝ち続けることなんかできません。戦いを続ける限り、いつかは敗北の憂き目を見るでしょう。

「完璧な自分」になれないことが問題なのではなく、「完璧な自分」になろうとすることが問題なのです。

「非の打ちどころがない自分」「無敵な自分」「一切の欠点がない自分」・・・

それは、たいていの場合、無理難題であって、強引であって、優しくありません。

それは、たいていの場合、頭ごなしであって、専制的であって、民主的ではありません。

そんな不自然な目標や理想を信じ込んで、本気でそうあろうと取り組んでも、ハートと体は、その欺瞞に気づいており、永遠に従い続けてはくれません。ハートや体は、正直であり、思考の狂気につきあうつもりなんか無いのです。

失敗は、成功へのステップであって、排除すべき無駄ではありません。

ネガティブな思考は、思いついて当たり前であり、退治すべき敵ではありません。

ネガティブな感情は、人として当たり前の感情であり、けがらわしい罪ではありません。

誘惑に負けるのは、誘惑に勝てない弱い人だからなのではなく、それに勝ち続けようという無謀な戦いに疲れ、絶望し、やけくそになったからであって、むしろ自暴自棄の絶望にはまり込んでしまうほどの強い意志で自己否定の努力を続けた強い人こそが、最も誘惑に負けやすい人なのです。

内面に、強い分離感と葛藤と痛みを抱える限り、決して誘惑には勝てません、誘惑に勝てるのは、我慢強いからではなく、誘惑に魅力を感じない時、その必要を感じない時です。

十分に満足を感じているとき、十分に幸せを感じているとき、内面が平和である時、愛し愛されているときこそ、誘惑の甘い罠を撃退できるのです

自分を不自然な物差しで裁き、窮屈な型枠に押し込めようとするのではなく、ありのままの自分を受け入れ、大切にするべきです。

自分を大切にすることは、自分に甘いことではありません。自分自身のリーダーとして、自分の内面に責任を持つこと、むしろ、時には自分に厳しくあることこそ自分を大切にすることなんだろうといえましょう。

よきリーダーに必要なことは、フォロアーを受け入れ、理解し、愛すること。自分の人生のリーダーとして自分らしく輝いて生きるために必要なことは、まさに、自分をいつくしみ、大切にすることなのです。

 

5.「自分を信じる」ための条件なんかいらない

「○○をやり遂げたから自分を信じられる」「○○ができるから自分を信じられる」「○○ができれば自分を信じられる」など、自分を信じるために条件が必要であるかのうような思い込みがありますが、それは誤解です。

信じられる自分になる必要なんかありません。すでに十分に信頼に値する自分なのですから。信頼に値しないのは、自分自身なのではなく、自分を裁くものさしです。

人を裁く評価基準にいったい何の権威があるのでしょうか?

いったい何の権威があって、良いだの悪いだのと評価を下せるのでしょうか?

評価基準に従ったならば、本当によき人生を歩めるのでしょうか?

たいていの場合、人を測る物差しは、個人のニーズではなく、社会のニーズ、権力者のニーズであり、人が人らしく力強く生きることを目的としたルールと言うよりは、人を支配、コントロールするためのテクノロジーです。

そんなものに個人の人生を支配されてはいけません。人は、他の権威に従うのではなく、自分のこころざしに従うべきなのです。自分を愛するために、自分を変える必要なんかありません。自分を信じるための条件なんかありません。そのままで十分に尊く、かけがえのない大切な存在なのです。

「あなたは、この世に望まれてきた大切な人。

あなたがなんであり、どこの国の人であろうと、

金持ちの人であろうと、貧乏であろうと、それは問題ありません。

あなたは、同じ神様がおつくりになった、同じ神様のこどもです。」   マザーテレサ

マザーテレサの言葉通り、人の存在は、尊くかけがえのないものだといえましょう。

そんな存在を大切にすることの、どこがいけないのでしょうか?

私たちは、難しいことを考える前に、まずは肩の力を抜いて、自分自身を信じ、大切にするべきなのではないでしょうか。

冷たく攻撃的な皮肉屋たちの言葉に惑わされてはいけません。毒のある信念をうのみにして勘違いの人生を生きるべきではありません。

堂々と自分を大切にし、愛し、信じ、力強く生きようではありませんか。

 

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 「自灯明、法灯明」

 お釈迦様が入滅される直前に弟子たちに伝えられた教えと言われています。

 「他を頼るのではなく、自らを頼りとしなさい。自然(真理)の法を頼りとしなさい。」という意味だと私は解釈しています。

 自尊心を回復するための方法を考える際に、真っ先に指針とすべき言葉なんだろうと私は思っています。自分を大切だと思うために他を当てにすべきではないと考えているからです。

 もし、自分自身を大切だと思うために、他人の称賛が必要だとしたら、その人は、他人の称賛に依存して生きなければいけません。他人の称賛だけではなく、優しさや愛情にしても同じです。

 また、豊かな資産があるからこそ自分の尊さを実感できるという人は、自分の価値を認識するために豊かな資産に依存することになります。資産だけではなく、地位や名誉、権威やお金にしても同じです。

 さらに、自分のアイデンティティを国家や宗教、理想的な人物に委ねるとしたならば、自分を信じて生きるのではなく、外部の権威を笠に着て生きることになり、依存的な生き方となってしまいます。

 自分の価値を実感するために、他人の働きかけや他の権威、力に依存すると、それが得られているときには、比較的安定していられるでしょうが、減少し、欠乏感を感じ始めたら、自分自身が無価値であるように感じてしまい、大変な苦痛を体験することになってしまうでしょう。

 自分を癒し、自尊心を回復するコントロールセンターは、自分自身の内面にあるべきです。

 コントロールセンターが、自分自身にないとしたら、それは、外部にあるということであり、結果的に外部のパワーに自分自身が支配されることになってしまうでしょう。そのような生き方は、決して自尊心に裏付けされた自分らしい生き方とは言えません。

 自分らしく力強く生きようとこころざした場合には、まずは、自分自身に依って立つという覚悟が必要です。自尊心を回復しようとこころざした場合には、まずは、一切の依存心を手放し、自分で何とかしようとする覚悟が必要なんだろうと思います。

 これは、かつて体験した不条理、過酷な痛み、悲惨な体験においても同じなのだろうと思います。そのような心の傷があるからこそ自尊心を損なってしまい、回復できないという状況においても同じことが言えるのだろうと私は思います。

 かつて自分に仇をなした他者に謝罪してもらう、自分を傷つけた奴に報復し痛い思いをさせる、愛されなかったことによって空いた心の空虚さを誰かの愛で埋める、・・・、

 もし本当に意義のある自尊心の回復を図ろうとする場合は、過去のトラウマをいやすために他を頼ろうとするあらゆる企図を放棄する必要があるでしょう。

 なぜならば、そのような試みは、まさに、他者依存の混迷を深めると同時に、例え実現できたとしても、本質的な心の痛みは癒えることはないからです。

 たいていの場合、心の中には、痛みが先に存在しており、さまざまな出来事は、その痛みを顕在意識で体験していくためのトリガーにすぎないからです。

 また、心の中にある痛みは、他者から植えつけられたのではなく、自らが受け入れたからこそ存在しているのであって、痛みが自分の内面に存在することの責任を他人に押し付けるのではなく、自分ですべてを引き受けなければなりません。

 そして、自分の内面の傷を癒し、手放すことができる人は、自分だけであり、自らの意志と努力によって、自分の内面を健全化する必要があるのです。

 逆に言えば、人には、自分自身を癒すための十分な力があるのだろうと思います。

 仏教では、「人は、生まれながらにして仏である」とも言われています。

 人の内面には、自らを浄化し、自由に生きるための十分な力が、生まれながらにして宿っているということなんだろうと私は思います。

 自尊心を回復するために必要なことは、まず第一に、そうした、自分の内面にある力を拠り所とするのだという覚悟なのだろうと言えるでしょう。

 

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 私は、企業研修や大学の講座などにおいて、自尊心の重要性を訴えてきているわけですが、かく言う私自身が確固たる自尊心をもっているかと言えば、決してそうだとは言えません。

 私は、もともとは、決して自信と誇りを十分に持っていたわけではありません。

 私自身は、高校生、大学のころまでは、自分が好きではありませんでした。

 『本当の自分はだらしなく醜くいやな奴であり、自分の本性がばれたら、必ず人に嫌われる』と思い込んでいたので、人と関わるときは、本音を隠したり演技をしたりして生きていました。

 『本当の自分は、劣っており、弱くて人に勝てる要素なんかない』と思い込んでいたので、そんな自分をさらけ出さないように逆に強がって生きていました。

 自分と同様に、他人も嫌いでした。当時の私にとって、他者は、信頼のおけない怖い存在であり、たとえ友人であっても、心から気を許すことはありませんでした。私にとって、人間関係は、楽しくなく、疲れるものであり、苦痛以外の何物でもなかったのです。

 ですから、私は、まったくと言って良いほど人間関係が苦手で下手くそでした。驚くほどKYであり、そもそも空気を読むとはどういうことかもわかりませんでしたから。(もっとも今でもよくわかっていないのですが。)

 そんな私でも、人生における様々な出会いや体験を経て、少しずつ固さが取れ、不安と絶望が解けていって、少しずつ楽になり、少しずつ自信と他者に対する信頼が回復してきた様に思います。

 現在では、自分も捨てたものではないことを知っており、家族や友人たちも、信頼に値する大切な存在であることを理解しています。人間関係においても、他者に対して少しずつ正直に、素直になり、心を開けるようになってきたように思えます。

 こうした変化は、まさに、すばらしい体験や家族や友人のおかげであり、今あらためてそのありがたさに感謝したいところなのですが、そのような変化は、たしかに周囲の愛や温かさが重要な要素ともなりますが、決定的に重要なポイントは、まさに本人の自尊心であると思います。

 人は断じて無力な存在ではありません、その潜在性や可能性は、想像をはるかに超えて大きいものがあります。

 もし人が輝けていないとしたら、それは、その人の能力や才能がないからではなく、封じ込められているからです。

 太陽が照っていないからではなく、雲が遮っているからなのです。

 だから、立ちこめている暗雲を払い、絶望を癒し、出来ないという呪いを解くことができれば、もともと持っているその人の素晴らしい潜在性が、見事に開花するのだろうと思います。

 そして、立ち込める暗雲を吹き放つものこそが、自尊心なのです。

 私は、自分についての不自然な思い込みや勘違いを解きほぐし、自分自身の素晴らしい輝きに気づいていくための基盤こそが自尊心なのだと考えているのです。

 このシリーズでは、この大切な自尊心をどう回復していくのかをテーマとしていきたいと思います。
 自分自身の体験を交えながらその方法を探求していけたらと思っております。

 願わくば、これを読んでくださっている方々の体験談や方法、考え方も紹介していければとも願っております。

 何しろ、このブログは、コメントをするための設定が面倒くさいのですが、不可能ではありませんので、よろしければ、投稿をお願い致します。

 

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あらゆる心の闇は自尊心の欠如より生まれる‐②

 なぜ自尊感情の欠如が、ストーキングや虐待などの心の闇につながるのでしょうか?その根本原因を一言で表すとすると、「人は、自分にするように人にする」という言葉に還元できるといえましょう。

 人の人間関係のとり方やマナーは、その人が自分に対して常にしている態度の反映となります。

 私は、自分とどう向き合っているのでしょうか?

 私は、自分の身体や感情、感覚や思考に対して、どうかかわっているのでしょうか?それらとどう向き合っているのでしょうか?

 たとえば、感情をコントロールするために自分の内面で行っているマネジメント手法はどのようなものでしょうか?抑圧的でしょうか、開放的でしょうか、強権的でしょうか受容的でしょうか、やっかいな感情を拒絶しているのでしょうか受け入れているのでしょうか、湧き起ってくる気持ちに対して敵対的なのでしょうか共感的なのでしょうか、感情に向き合う態度は厳格なのでしょうか寛容なのでしょうか?

 自分の身体機能をコントロールするために自分はどんなことをしているのでしょうか?酷使しているのでしょうかいたわっているのでしょうか、自分の身体要件に文句を言っているのでしょうか感謝しているのでしょうか、自分の欠陥に厳罰を下しているのでしょうか勇気づけているのでしょうか?

 自分の人生に対して自分はどう考えているでしょう?祝福しているでしょうか?苦々しく思っているでしょうか?感謝しているのでしょうか?呪っているのでしょうか?

 まさに、そうした内面で行われている自分の自分に対するマネジメントのあり方や方法が、外面の人間関係や社会性に反映していくことになります。自分を大切にしている人は、基本的に自分にするように人を大切にしますし、自分に厳しい人は、基本的に自分にするような厳しさを他人にも求めるでしょうし、自分を攻撃する人は、他人にも攻撃的となるでしょう。

 自尊感情が欠如している人は、概して自分に対して抑圧的、拒絶的、攻撃的です。自分は何かが欠けている力のない価値のない存在であると思い込み、欠乏を満たさなければ苦痛や死の危機に見舞われると信じ込んでおり、不安と恐怖にたきつけられて、必死に自分の内面をコントロールしようとしています。自分の欠点などの不快な側面を嫌悪し、攻撃し、言うことを聞かせようと操作的、脅迫的に関わる一方で、影と戦って影を消滅させることができないように、その努力は、永遠に報いられることはなく、結果として、自分の内面で強い分離意識と絶えざる葛藤に苦しめられることになります。

 そのようなプロセスを経て、自尊感情が欠如しており、自己否定が強烈な人は、自分の内面をマネジメントすることに対して絶望しており、責任を持てない混乱の状況にあります。まさに、心神喪失の状況にあり、自分の中で発生する悪感情をもてあまし、絶えざる苦痛と痛みを体験することになるのです。

  ストーキングや虐待などの問題行動は、まさにそうした内面の不安と恐怖、痛みと絶望の反映と言えましょう。

 また、そうした犯罪行為は、関係性が自分に近いと認識できればできるほど激化、頻発します。

 自分とは遠い存在であり、他人であると認識する人には、自分にするような劣悪なマナーで関係を持つことは控えがちとなります。なぜならば、自分の内面で起こっていることは、健全で正常だとは思っておらず、自信がないので、そのような方法を、社会的な人間関係に反映させることは自分にとって得にはならないし危険だと考えているからです。

 しかし、自分と近い存在であり、自分の延長上の存在だと認識する相手に対しては、話は全く違ってきます。まさに、相手は他人ではなく自分であり、自分にふるう暴力を相手にふるうことに対して遠慮や躊躇がなくなります。自分にするように、相手の不快と感じる側面を嫌悪し、攻撃し、言うことを聞かせようと操作的、脅迫的に関わるのです。

 悲劇なことは、ストーキングにしろ虐待にしろ、相手が憎くてやっているのではなく、根本的には、相手が自分だと思えるくらいに愛するからこそやってしまっていることです。

 なんと、相手を愛するからこそ相手を攻撃してしまうのです。相手を愛すれば愛するほど葛藤は深まり、相手を傷つけてしまうことになります。

 この不幸なダイナミズムは、早く終わらせなければなりません。

あらゆる心の闇は自尊心の欠如より生まれる‐①

虐待、ストーキングなど、日々のニュースで悲しい事件が頻発しています。

なぜこうした事件が起こるのでしょうか?

様々な視点からこうした事件の原因となる加害者の特徴や心理が研究されています。

私どもは、数ある考え方の一つとして、あらゆる心の闇の根本原因は、自尊感情の欠如より生まれると考えています。

健全なハートは、「自分の存在は、根本的に価値があり、尊ぶに値する大切な存在である。」と感じており、「欠点を含めてありのままの自分を受け入れて愛することができる」ので、それほど嘘や虚飾で自分を飾りたてる必要性も感じないし、「自分の人生は、十分な力があり、今後も何とかなる、大丈夫」と感じているので、それほど強烈に自己防衛を強める必要を感じる必要がなく、また、何かを武器と防具として、自分以外のものに依存する必要性も感じないので、基本的にオーブンでこだわりが少なく、人間関係の場でも過剰な緊張はしません。

しかし、何らかの理由で自尊感情を損ねてしまい、自分はダメ人間で生きる価値などないと強く思い込んでしまった人は、事情が全く変わってしまいます。

自尊心の低い人は、その人の内面で、自分自身を攻撃する思考が常に自分を傷つける言葉を放っており、まさに、自己嫌悪の状態にあります。自己嫌悪と謙虚さとは、全く異なるものであり、謙虚さは健全であり、自分も大切だからこそ相手も大切だと認識していますが、自己嫌悪は自分を全く受け入れずに嫌っているという決して健康的ではない心情です。

そして、自分の内面で起こっているそうした強烈な葛藤は、時を経て、外部へと問題が波及してしまうことになるのです。

自信と誇りの重要性⑤ 健全な自信と誇りを持とう

6.健全な自信と誇りを持とう

私たちは、断じて欠点だらけの無力な存在ではありません。私たちの可能性は無限であり、本気を出せば、どんな人でも途方も無い力を発揮することができるものです。

私たちは、自分らしく輝いて生きるに値する十分な力量と能力を持っています。

そして、地球は広いといっても、私のような顔と体を持っている人は、私一人であり、宇宙の歴史が長いといっても、私の人生は、それがどのようなものであれ、今までも、今後も、たったの一回であり、とてつもなく尊く価値があるのです。

基本的な態度として、自分の力と可能性と価値を信じるべきであると言えましょう。

自分を信じるからこそ、他人も信じることができるでのです。

  自分を大切にすることができるからこそ、他人も心から大切にできるのです。

自分を信じ、大切にして、元気に人事を尽くすものにこそ天命が下るものではないでしょうか。

自分を大切にする生き方こそが、魅力的に輝く活躍する社会人の基本といえましょう。

自分の可能性を信じること、キャリアの主人公としての自分の力を信じること、そして自分をかけがえのない価値ある存在として受け入れ大切にする事、そんな生き方をお勧めします。

 

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4.自己イメージとリアリティ

さて、ここで問題となることが、「はたして、自己イメージは、本当のこと(真実)なのだろうか?」という問いでしょう。

結論から申しますと、心理学上では、自己イメージは、決して本当の自分を反映しているわけではないとされています。自己イメージは、自分がそうだと思い込んでいる自分であり、その人の本当の姿と一致しているわけではないのです。

 

5.日本人の自己イメージ

特に、日本人の自己イメージは、諸外国に比べて、矮小で貧弱で、自分に対してとっても手厳しい
というデータが出ております。

財団法人日本青少年研究所の行った高校生の生活意識に関する調査である「高校生の未来意識に関する調査(2002年)」によると日本、中国、アメリカの高校生の自己イメージに関する興味深い意識の違いを読み取ることができます。

内容を見ると、「自分はだめな人間だと思うことがある」という質問に対して、「YES」と答えた生徒の割合が、中国の生徒36.9%、アメリカの生徒48.3%と比較的低いのに対して、日本人の生徒は73.0%と高くなっていることが分かります。

また、「計画を立てるときは、それをやり遂げる自信がある」という質問に対して「YES」と答えた生徒の割合が、中国の生徒73.5%、アメリカの生徒86.3%に対して、日本人の生徒は38.0%
と低くなっていることが分かります。

要するに、日本の高校生の73%が、自分はだめな人間だと思うことがあり、計画をやり遂げる自信のある生徒は38%しかいないことを示しています。

この自己イメージが事実であるならば、事実を人生の基軸としているので問題はないのですが、はたして、これらの自己イメージは事実なのでしょうか。

もし、計画をやり遂げることができる優秀な生徒の割合が、中国人は73.5%、アメリカ人86.3%に対して、日本人38.0%であることが事実であるならば、事実をありのままに認識していることになるので問題は無いのですが、果たしてそれは事実でしょうか?

当然のことながら、まったく事実ではありません。

身長や体重が違ったとしても、もって生まれた才能や潜在性、可能性に違いがあるはずがありません。

人は断じて欠点だらけの無力な存在ではありません。本気を出せば、一部の天才だけではなく、誰もが素晴らしい仕事を成し遂げる力をまどろませていることは、大脳生理学上の間違いのない事実です。

できないと信じているのは自分だけの思い込みであって、もともと持っている可能性に優劣などあるわけがありません。

しかし、全く同じ人物であっても、一方は「必ずできる!」と信じて、もう一方は「絶対にできない」と信じて長年活動したとしたら、結果には大きな違いが出てきてしまうでしょう。

私たちは、私たちの自己イメージをよく見直してみる必要があります。

「できない」と思い込んでいることは、事実する能力が無いのでしょうか?

「価値が無い」「資格が無い」と思い込んでいることは、いったい誰が決めたことなのでしょう?はたしてそれは真実なのでしょうか?

グリム童話で、呪われてカエルに変えられた王子様のように、自分で受け入れてしまい信じ込んでしまった自己イメージで自分を罰し、投獄してしまい、自分の可能性を閉ざしてはいないでしょうか?

自分の自己イメージを再検討してみましょう。(続く)

 

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自信と誇りの重要性③ 自己イメージのポジティブな影響

②自己イメージのポジティブな影響

しかし、一方で、自己イメージは、人間の偉大で気高い生き方を導くこともあります。

20世紀の卓越した経営者である松下幸之助(パナソニックの創始者)は、その大きな成功を遂げた理由を問われた時に、いつも答えていたことは「私は運が良い」でした。

確かに彼の成し遂げた偉大なる成功の結果だけをみれば、「なるほどそうかもしれない」と思いますが、しかし、松下幸之助の人生を振り返ってみると、決して運が良い人生とは言えない出来事がとても多いことが分かります。むしろ、思いもよらない不幸の数ならば、決して他人と引けはとらないと言えましょう。

しかし、どんな困難に直面しても、「私は運が良い」ことを信じて、決してあきらめることなく努力し、問題に正面から立ち向かっていった結果、とてつもなく大きな成功を切り開いて来たと言えるのです。まさに、自分への信頼が可能性を拓いた事例といえましょう。

次に、尊敬すべき偉大なる先哲がどのように自分自身を認識していたかの事例を書きますので、参考に見てみましょう。

<リーダーたちの自己イメージ>

「誰よりも自分が期待している。自信がなければこの場にいない。重圧がかかる選手であることは誇りに思う。」シアトルマリナーズ イチロー

「老後にとっときます。」(CMの出演料の使いみちを聞かれて)きんさん、ぎんさん104歳の時

「この世は何と美しく、人の命は何と甘美なものなのだろう…。」 瀬戸内寂聴著「釈迦」より

「あなたは、この世に望まれてきた大切な人。あなたがなんであり、どこの国の人であろうと、金持ちの人であろうと、貧乏であろうと、それは問題ありません。あなたは、同じ神様がおつくりになった、同じ神様のこどもです。」  マザーテレサ

いかがでしょうか?

いずれにしても、尊敬すべきリーダー達は、決して自分を卑下したり、罰したり、否定したりすること無く、むしろ、大切にし、心から愛し、信じていたことをうかがい知ることができます。

自己イメージが健全でパワフルである場合、人の輝かしい生き方を導く可能性があるのです。

これまでの事例から、自己イメージは、良くも悪くも、人の健康や職業、生き方、人生の様々な側面に、とても大きな影響を与えるということが分かりました。(続く)

 

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2.自己イメージとは

「あなたは誰ですか?」と問われたら、あなたは、どう答えるでしょう。

きっと名前、性別、職業、年齢、経歴、健康、性格など様々な答えが思い浮かぶことと思います。心理学的には、それらの自分なりの答えを”自己イメージ(アイデンティティ)”と呼びます。

自己イメージは、人生におけるさまざまな経験、周囲からの期待、役割などを通して、自分の内面にはぐくまれていく自画像いえましょう。

 

3.自己イメージが人生に与える影響

この自画像ともいえる自己イメージは、そのあり方によって、その人の仕事、対人関係、家族、健康、性格、など、人生のあらゆる側面に大きな影響を及ぼすと言われています。それが、肯定的なものであれ否定的なものであれ、良くも悪くも相当大きな影響を与えることになるのです。

以下、自己イメージが与える影響について探究していきましょう。

 

①自己イメージのネガティブな影響

まずは、否定的な自己イメージが本人に与える影響について事例をご紹介していきます。

近年、犯罪が低年齢化しており、少年少女たちが驚くほどの残虐な手口で犯罪を犯す事件が頻発しております。それを受けて、家庭裁判所調査官など有識者が集まり、凶悪少年犯罪の事例を研究し、レポートを発表しました。レポートは、「重大少年事件の実証研究」と題して司法協会より平成13年に出版されています。このレポートによると、凶悪犯罪を起こす少年に共通する特徴の一つとして「自己イメージの悪さ」が挙げられています。

少年が、自分自身を、「価値の無い人間」「愛される資格が無い人間」であると(真実ではないのに)思い込むことによって、対人関係に問題が起こり、結果的に犯罪につながってしまったのではないかと考えられているのです。

否定的な自己イメージは、少年犯罪だけではなく、他の様々な問題の背景にあると考えられています。

近年、幼児虐待に関する事件も多発するようになってきていますが、なぜ、母親が愛するわが子に虐待を繰り返してしまうのか、その理由について様々な調査がなされています。調査の結果、虐待を繰り返す母親に共通する心理的な特徴に、”自尊感情の欠如”があることが分かりました。「自分は愛されてない」「自分は愛される資格がない」「自分に価値があるとは思えない」と心の底で思っている母親たちが、自分自身に厳しく自罰的であるように、自分自身の延長と認識している子供に牙をむいてしまうのではないかと考えられているのです。

また、近年クローズアップされてきたメンタルヘルスの問題、自殺問題、学校における学級崩壊、いじめ問題、など、現代を彩る様々な諸問題の背景に、このネガティブな自己イメージが影を落としていると考えられているのです。

このように、自己イメージが否定的な場合は、人の健康や生き方に重大な悪影響を及ぼす可能性があるのです。(続く)

 

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