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日常の中のロゴス 5.教育と日常哲学

第5章 教育と日常哲学

かつて私は人が嫌いだった。
人は、ずるがしこくて悪くて嫌な奴ばかりであり。
人間関係は食うか食われるかの闘いだった。
そんな中で、やさしさや思いやりは、間抜けなお人よしの弱みだと思って抑圧してきた。
そして、一番嫌いだったのは、そんな私だった。

だから、私の人間関係はボロボロだった。
時に居丈高、操作的であり、時に対人恐怖症的であった。

粋がって強がっているくせに、いざ人前に立つと、赤面し、いやな汗を止められず、何も言えなかった。
人の話だっていつもうわのそらだった。自分の心の中の暴風雨で手いっぱいであり、受け止める隙間なんて少しもなかった。

そんな私も、少しずつ少しずつ変わってきた。

家族に恵まれ、お客様、友人、仕事、本との出会いに恵まれて、私の中の呪いが、少しずつ少しずつとけて、楽になってきた。

大学時代、大やけどをした直後で両手が異形な斑になっているにもかかわらず、大学に受かったとはいえ、高校時代遊び惚けて基礎力をすっかりと失ってしまっていたにもかかわらず、時給が高いからと言って、がらでもない塾の英語の先生になった。
むろん、教え方はへたくそであり、加えて、間違えばかり教えていた。
当然、嫌ってしかるべき生徒たちは、ちょっとやんちゃなところに共感してくれたのだろうか、そんな私を受け止め、好いてくれて、静かに授業を聞いてくれた。それだけではなく、私の間違いを紙に書いて教室を回し、みんな自主的に主体的に勉強するようになり、何と、私の教室は、塾で一番成績を上げたのだ。
私は、子どもたちに英語を教えたが、教えられたのは私だった。子供たちからは、教科書には書いていない何か貴いものを教えていただいた。

社会人になって初めて営業に出て、お客様の前でまともに話すことができずに、商品説明の際、顔を真っ赤にして汗だらけになってしどろもどろで話した。普通は、こういう営業からは商品を買わないものだが、そんな私をからかいながら、そんな私からでも、そのお客様は商品を買ってくれた。
私は、お客様から、完璧じゃなくても何とかなる。自分の不完全さ受け入れる勇気を教えていただいた。

仕事で大失敗して、多くの人に恥をかいて、みすぼらしく敗北し、近くの仲間たちも距離を置いて背を向け始め、チームの失敗だったものが全部私の責任にされて、力を失った上に非難攻撃された時、一人、決して私を見捨てずに、そんなあなたが大好き、って言ってくれた家族。あなたを好きなことではだれにも負けないと言ってくれた。
私は、家族から、真の愛を学んだ。

こうした体験を通して、私の中の自己不信や自己嫌悪、悲観主義が力を失い、人は嫌な奴ばかりではないかもしれない、自分も捨てたものではないかもしれない、そういう明るい光を取り戻してきた。

今では、人前に立ってお話をさせていただける貴い仕事をさせていただいている。大学や学校でも話すことがあるので、時には1,000人を相手に話すこともできるようになった。

そして、あんなに苦手だった人間関係が、今では私の仕事になっている。

さらに、仕事を進めていくうちに、単に癒されたと言うだけではなく、もっと前向きで思いもよらない希望や可能性が見えてきた。

グループワークの中で、お互いの懸念や恐怖、防衛の鎧としての敵意を正直に語り、非難するのではなく、私もそうだと受け止め、恐怖や不安を乗り越えたのちに心が開かれた時の、言葉にはできない不思議な雰囲気、エネルギー、場の力。
そこにあるものは、弱肉強食や戦いではなく、あたたかく柔らかく生き生きとした、みずみずしく爽やかで、明るく楽しくパワフルで、静かで穏やかで、そこにいるだけで癒されて、元気を取り戻せる精妙で尊い平和な場だった。
私は、人間関係を誤解していた。人を嫌い、自分を嫌い、人間関係を何よりも重苦しく疲れるものと思っていたけど、その本質は決してそういうものではなかった。
私は、仕事を通して、質の高い人間関係に起こるものは、愛、勇気、信頼であり、恐怖や不安にとらわれない自由を獲得し、自分らしく力強く生きる後押しをしてくれる貴い何かであり、まさに、潜在化していた偉大なる可能性、ロゴスの実在を学ぶことができた。

真の教育とは、単に知識や技能を教えるものではなく、こういうことを教えるものであるべきではないだろうか。

謙虚さ、勇気、真の愛、共感、そしてロゴスとの関係性。これらのものは、本当に人をかえることができる。いや変えるのではなく帰るのだ。その人そのものが目覚め、本来の自分に戻るのだ。

現在の世界は、意図するとせざるとにかかわらず、偶像崇拝的だ。
今のあなたは十分ではない。何かが足りない。そのままでは価値がない、許されない。
だから、私を頼りなさい、この薬を頼りなさい、保険があれば安心、この壺があれば幸運になる、このブランドはあなたの不足を補う、風水を整えないからあなたは不幸だ、この石は…、この本を読めば…、この水が無いと…、などなど、人の恐怖と不安を刺激する偶像でいっぱいだ。

教育も、決してこの姿勢を越えることができていない。
外側にある「正解(偶像)」を頭に詰め込み、いかに効率よく従順な労働力として役に立つかを競わせるシステムとなっている。
システムは、教祖になりたいのだ。システムに取り込まれてしまうと、親や先生は、子どもたちに内在する貴い可能性を封じ込め、かわりに、AIで調べればわかることを強制的に暗記させてしまう。それが権威に受け入れられる方法だからだ。子供たち一人一人が、ひずみの中で感じる痛みに謙虚に耳を傾ける代わりに、制度を作り、個性ではなく均一化を図る。見ても見ず、聞いても聞かず、知らない。その無思考の戦略が安全な戦略となる。
そして、私自身が、そのシステムの中で育ち、傷ついた一人だ。

しかし、
こんなに高い子供たちの自殺率に目を背けるべきではない。
不登校で悩み苦しむ子供たちの声を無視するべきではない。
真に育ちたい、成長したいと願う魂の叫び声の存在を知らないふりをすべきではない。

教育とは、机の上の知識だけでは完成しない。
食事の支度も、掃除も、仕事も、会話も、日常の営みはすべて、貴重な学びの場となりうる。
そこに心を込め、注意深く、誠実に関わる者の中で、自尊心は自然に育つ。
学ぶとは、単なる情報の取得ではなく、日常の営みの中で、世界の秩序と意味、その真・善・美を自分の体で感じ取る営みである。

たとえば、雨に濡れた葉の美しさに目を止め、自然の理を感じることも学びだ。
料理を作り、味と香りを確かめながら工夫することも学びだ。
人と真摯に向き合い、相手の言葉と感情に耳を傾けることも学びだ。

学びを通してロゴスに触れた者は、自尊心を失わない。
失敗や痛みの中にも理を見出し、学び、成長する。
学ぶ者自身が光となり、その周囲を照らす。
一人の学びが、家族や仲間、社会全体に微妙で確かな影響を与える。

教育とは、形式や権威に従うことではない。
人の中に潜在化している大きな可能性に気づき、信頼し、自分のものとして生きるお手伝いをすることこそが教育なのではないだろうか。

人は断じて欠点だらけの無力な存在ではない。
その可能性は、狭い了見の人の認識をはるかに超えて偉大だ。
それは、秩序であり、真理であり、ことわりであり、ロゴスである。

教育とは、学ぶ者が内なるロゴスを信じ、探求する勇気を持つことを可能にする営みである。
もし真の教育がなされることができたら、世界はその日を境に劇的に変わるだろう。
ロゴスに気づき、ロゴスを学ぶ者は自分自身の尊厳を取り戻す。
そして、その尊厳をもって世界に向き合う者は、自由に、誇りを持って生き、世界をもゆっくりとそして確実に変えることができるのだ。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

新年あけましておめでとうございます(2026)

 新年あけましておめでとうございます。

 ここ横須賀市長浦町では、とても静かで穏やかな年明けとなりました。

 同様に、今年一年、平和で穏やかな年となりますように!

 今年は、いろんなことに挑戦しようと思っています。

 にわかにいろいろなチャレンジテーマが起こってきていて、この年末年始も、いろいろと準備が進んでいます。その詳細は、追って、順番にご報告していきたいと思いますが、ワクワク感のある年明けとなっています。

 みなさまにとっても良き一年でありますように!

今年一年ありがとうございました

 とうとう年末ですね、今年1年、ありがとうございました。

 おかげさまで、とても素敵な1年を過ごすことができました。いろんな挑戦があって、うまくいったこともあったし、まったくうまくいかなかったこともありました。どの体験も、とても素晴らしい挑戦であり、学びでした。

 こうした学びを続けていられるのも、支えて下さるお客様、取引関係者の皆様、応援して下さる皆さん、そして家族のおかげです。ほんとうにありがとうございました。

 とはいえ、年末年始と、いろいろとやりたいことがたくさんあって、休みだからこそじっくり時間をとってやりたいこと、やらなければならないことがどんどん出てくるんですよね…、奥さんごめんなさい。

 家族旅行で温泉に入ってのんびりと…っていう年末年始にならないかもしれませんが、家族仲良く、元気で、楽しく新年を迎えたいと思います。

 当ブログを読んでくださっている皆さん、今年一年応援してくださって、ほんとうにありがとうございました。私たちがこうしていられるのも、ひとえに皆さんのおかげです。あらためて感謝申し上げます。来年も、いろいろと挑戦していきたいと、元気でがんばっていきたいと思っています。来年もどうぞよろしくご指導ご鞭撻のほどお願い申し上げます。

 皆さんも、どうぞ、良いお年をお迎えくださいませ!

2025年度後期授業が始まります

 明日から担当している大学で、後期授業が始まります。後期は、キャリア関係の授業を2科目担当しています。うち一科目が2コマあるので、全体で3コマ、月火と2日間が授業日となります。

 今期も、たくさんの学生たちが受講してくれています。すでに他の授業を受けてくれていた懐かしい面々いれば、私の授業には初めて参加してくれている生徒もたくさんいます。講座は、1年生向けと2年生向けとなっていますが、3年生も結構多く、意外なのが4年生も少なからず受講してくれています。みんな夏休みの就活の状況はどうだったのでしょうか。多くはすでに内定をいくつか得ているとは思いますが、これからと言う学生もいるかもしれません。

 担当する授業は、1科目目は、就活準備と言うよりは、生き方講座であり、長い人生を自分らしく幸せに生きるための知識、スキルを学ぶ講座です。就活には直接結びつかないとはいえ、これはこれで、とても大切なことであり、生き方の基盤をしっかりと固めていける授業にしていきたいと思っています。

 もう1科目は、業界や企業研究がテーマとなっている授業で、マーケティングの視点から企業研究をすると同時に、業界の人事担当者をお呼びする講座でもあり、就活とも直結する授業でもあります。実際に過去の授業の参加者から、ゲストスピーカーの会社に内定を得て活躍している先輩もいます。受講するメンバーにとって、貴重な体験やチャンスとなる講座だと思います。特にまだ就活が終わってない4年生にとっては、絶好のチャンスでもあります。彼ら彼女らの就活の少しでもお役に立てるようにしっかりとがんばっていきたいと思っています。

 今期も、充実した楽しく意義深い授業になりますように!

明日から出張

 明日から新入社員研修がらみの出張に出かけます。おかげさまで4月1日から5月の頭まで続きます。

 当社では、アトランティックプロジェクトという経営シミュレーションによる新入社員研修プログラムを発表しており、主に、そちらのプログラムを担当させていただきます。

 アトランティックプロジェクトは、モジュールが5つあり、目的と状況に応じて組み合わせることによって半日から3日間までプログラムを組むことができます。

 もちろん、半日や1日の研修もいくつか担当させていただいておりますが、ことしは、5月頭までに、3日間のプログラムを3回も担当させていただきます。社会人としての第一歩としての大切な新入社員研修を担当出来るだけでも光栄なのに、限られた新人研修の中の3日間も担当させていただけるなんて、なんていう栄誉でしょうか。大切な大切な時間とプログラムを委ねていただけて、大きな信頼を寄せていただけてとてもうれしく光栄に思っております。逆にその大切な役割に身が引き締まるような気持ちです。

 大切な研修、楽しく、充実した、意義深い研修になるようしっかりとがんばっていきたいと思います!

 また、アトランティックプロジェクトは、当社の講師による講師派遣だけではなく、内製化も支援しており、企業の人事教育担当の方々にもご活用いただいております。内製化によるアトランティックプロジェクトも多くのご注文を頂いており、4月からどんどん始まります。ご担当の皆さん、何もできませんが、応援しております!みなさん大成功されますように!

 どうぞ、この忙しい時期を、元気で楽しく乗り越えられますように!

 

 

 

人の可能性について

人には大きな可能性と言うものがある。

その偉大さは、今の認識では及びもつかないもの、想像をはるかに超える大きな存在である。

仏教ではそれを仏性と言う。

蓮華の花は、泥の中に根と茎を置き、それを越えて大きな花を咲かせる。

人は、泥の中でもがいて生きており、それが自分でありそれが人生だと思い込んでいる。今の意識では、水面上を見る目が未だ開いておらず、認識することができない。泥の中の世界しか認識できないので、汚れて醜い自分や他人、相互に傷つけ合い奪い合う関係性を世界の全てだと思い込んでいる。

しかし、今の人の狭い了見ではわかりようのない世界は存在して、そこに自分の大輪の花は確かに咲いているのだ。

太陽が存在しないわけではない、あまりに厚い雲(恐怖、怒り、悲しみ、恨み、無知、など)が覆っているので太陽が見えなくなっているのだ。

しかし、人が太陽の存在を信じようが信じまいが、太陽は存在している。いつでもどこでも片時も休むことなく我々を照らしてくれている。

 

しかし、仏性は、我々が世界を認識する道具となっている思考では決してとらえることができない。いわゆる不可思議(思考で把握することが不可能)な存在である。

それは今ここに実在する存在なのだが、精妙すぎるので五感では感じることができない。また、それを思考で理解することもできない。仏性、神性、光、愛、慈悲、魂などと名付けたところで、それらは、単なる名前であって、それそのものではない。

そもそも思考は、リアリティの後付けの説明に過ぎない。リアリティそのものを体験しているわけではなく、起こってしまったことを後付けで言葉にしている。思考は言葉によってなされる行為であり、常に真実の後付けであり時差があるので、今ここにはなり得ない。だから、今ここの実在を思考でとらえることは不可能なのだ。

だから、仏性は、人間の狭い了見の中では、体得することは容易ではない。しかし、努力することによって少しずつ気づき、開発していくことができる。そのためには、仏性に対する信頼と近づこうとする意識的な努力が必要である。

 

仏性は、あらゆる人にまどろんでいる可能性である。

お釈迦様も、私も、くだまく酔っ払いも、例え過ちを犯してしまった犯罪者にも、内面には天才をもっている。

仏性は努力して作るものではなく、人間存在であれば最初から設置されているのだ。

しかし、それに気づくことができて、その力を開発しなければ、それは機能しない。

 

お釈迦さまは、それに気づき、体得して、それを生きられた。

わたしたちは、それに気づけておらず、それを生きることができていない。

お釈迦様と私たちは、同じ仏性を持つ存在であり、その意味で同じ尊さを持つ存在だが、認識と意志によって全く違った生き方となってくる。

仏性に気づけなければ、無いのと同じことになる。正しい認識と志は、人にとっての最大の武器なのだ。

 

だから、その神性が自分や他人ににあるということを信じて生きることが大切であり、光に少しでも近づこうと意識的に努力することが大切だ。

仏性を信じられるからこそ、困難にあっても立ち上がり、前向きに生きることができる。

他人をエゴとしてではなく聖なる部分がある存在として見れるからこそ、欠点ある他人を尊敬することができる。

 

泥の上の存在を信じることができなければこの世は地獄である。人はみな自分勝手で嘘つきで自分に害をなそうとする鬼にしか見えない。自分も対抗するために醜くあさましく生きる鬼のような存在としか感じられなくなる。人間関係は、お互いに傷つけ合い、奪い合う戦場となる。

狭い了見で誤解し、思い込んでしまった地獄の様相を幻想と言う。

決してそうした幻想を信じ込んではいけない。狭い了見で勘違いの迷妄を生きてはいけない。

太陽は、あなたが信じようが信じまいが存在する。それを信じられないのは、あまりに厚い雲(恐怖、不安、怒り、など)に覆われているからだ。

自分と人の仏性を信じ、目につくエゴではなく、意識的に聖なる魂を見ようと努力してみることが大切だ。

かすかに感じる良心、善意、やさしさ、思いやりを大切にして、意識的に光に向かって生きようと決意してそう生きることが大切だ。

 

たしかにこの世は地獄の側面がある。人を平気で傷つけ、虐待し、搾取する鬼的な存在は決して少なくない。人は、誰もが聖なる部分もあるが獣性も同居しいる複合的な存在であり、どちらを選んで生きるかは個人の自由である。進化成長の段階や速度は人それぞれであり、自分の仏性を信じられずに、獣性を選んで他を犠牲にして利己的に生きる生き方も許されており、地球上では多様な在り方が混然一体となっており、全体的にいまだ幼稚園にもなり得ていない。

だからと言って自分も低い意識に感染してはいけない。恐怖に首をたれてはいけない。朱に交わらない気高さを持つべきだ。虐待や搾取を許してはいけない。立ち向かって打ち勝つ強さを持つべきだ。

 

天国の中で天使として生きるのは簡単だ。だれでもできる。

しかし、地獄の中で恐怖や絶望に身を委ねずに魂の純粋さをもって生きるのは並大抵ではない。

だからこそそういう生き方がかっこいいのだ。

 

人は生まれながらにして仏性を持った勇者だ。

だからこそ、光ない闇の中にあっても、痛みと絶望の世界の中にあっても勇者としての自分を見失わずに自分らしく堂々と生きる姿が輝かしいのだ。

恐怖や絶望にやりたい放題にさせてはいけない。立ち向かう勇気をもとう。

一隅を照らす光、それこそがあなたの本性だから。

後期授業の開始(2024)

 私は、横浜のとある大学で授業を担当していますが、後期は2科目を担当しています。そのうちの1つの授業が今日から開始します。

 キャリア関係の授業であり、単なる就活講座ではなく、長い人生をどう生きるのか?自分らしく幸せに生きるためにはどのようなことが必要になるのか?をテーマとする授業となります。

 考えてみれば、私は決して人様に自慢できるような人生を生きてきているわけではありません。むしろ、失敗の数ならば、人に引けを取らないかもしれません。そんな人が大学で人生を語るのはおこがましいようにも感じております。しかし、こうしたご縁を頂いて、毎年たくさんの学生たちが聴講に来てくれているのは、本当に光栄なこと、ありがたいことだと思います。きっと、天から失敗の多い人だからこそ、人の痛みが分かるはずだから、人を癒し、勇気づけなさいと使命を頂いているのかもしれません。教えることは学ぶことでもあり、失敗が多いからこそ学生たちと共に学びなさいと課題を頂いているのかもしれません。

 おかげさまで、本授業も2006年から担当しているので18年目となります。本年度も充実したパワフルで楽しく意義深い授業になりますように!

 では、行ってきます!

体験学習とは? 1.体験学習とは

1.体験学習とは

 体験学習とは、本や理論など、既に一般化されたモデルから学ぶのではなく、自分が体験したさまざまなことを大切にして、そのような今ここの生きた体験から学ぶ学習方法です。その歴史は古く、1940年代に社会心理学者K.レヴィンによるグループダイナミックス研究の一環として開発されたトレーニング方法に端を発しています。
 主に、コミュニケーションやリーダーシップと言ったヒューマンスキルトレーニングに適していると言われており、現在では、企業教育はじめ、
学校や病院、さまざまな組織におけるソーシャルスキル、ヒューマンスキルトレーニングの方法のひとつとして広く一般的に活用されています。
 体験学習を深く理解していくために、ここでは、体験学習を、モデル学習との対比の中で見ていきましょう。

体験学習とモデル学習

 通常、私たちが“学ぶ”ときの学び方は、“モデル学習”といえるでしょう。モデル学習とは、既にある答えや先生の示す見本から学ぶ方法であり、私どもはそのような正解やモデルから学ぶ方法をモデル学習と呼んでいます。
 モデル学習の学習プロセスは、基本的に漢字の書き取りと同じで、先生が“見本(モデル)”を示し、生徒は、それを“複写”し、何回も“練習”をして、“記憶”し、自分のものにする。そして、当初先生の示した見本が、自分のものになったときに、さらに新しく高度な“見本(モデル)”を提示してもらうと言ったサイクルを繰り返していくことになります。
 そのようなプロセスを通して、学習者は、より高度な知識やスキルを体得していくことになるのです。モデル学習は、先哲の叡智や成功モデル、長い歴史から育まれてきたエッセンスを短期間で習得するための非常に効率の良い方法であり、さまざまな学習に応用が可能です。また、どんな教育機関、組織、文化でも行われている教育方法であり、汎用的で一般的であるといえましょう。

 しかし、そのように効果的な方法であるモデル学習も、決して万能で完璧な方法とはいえません。実は、モデル学習は、限界があり、どんなことでもこの方法で学べるわけではないのです。
 たとえば、一流のプロスポーツ選手を思い浮かべてください。彼ら彼女らは、大変パフォーマンスが高く、一流であり、モデルとするにはもってこいの人たちですが、しかし、モデル学習のように、彼ら彼女らの物まねをしたからといって、その技術を得られるわけではありません。
 また、一流になればなるほど、その技術はユニークであり、一般的ではありません。有名なプロ選手の成功の秘訣は、一様に個性的であり、全く画一的ではありません。ですから、一流であるための型にはまったモデルは存在しないのです。
 匠の技、というものがあります。一流の職人芸は、大変みごとであり、見習いたいスキルであります。しかし、残念ながら、見取り稽古には限界があり、同じようにやってみても、同じようにはできません。その技は、その人独自のきれをもっており、その人にしかできない独特なものだからです。

 

 一方、教育研修の大きなテーマでもあるリーダーシップやコミュニケーションは、いかがでしょう?私どもの認識では、リーダーシップやコミュニケーションと言ったいわばヒューマンスキルは、個性の現われと考えております。その際、個性には、当然のことながらあるべきモデルや正解はありません。リーダーシップやコミュニケーションについても同様であり、すばらしいヒューマンスキルのあり方と言った場合、美しいあり方は、一輪だけではなくて、百花百様であり、個性の数だけ美しい花が咲く可能性があると言えましょう。
 そのような多様な可能性のあるヒューマンスキルを学ぶ際には、画一化したモデルをもとに学ぼうとする従来のモデル学習では、効果的に機能しづらいと言えましょう。

 

 一方、体験学習とは、従来のモデル学習とは違って、既に一般化された知識やモデルから学ぶのではなく、自分の体験を大切にし、そこから宝を導き出す学習方法です。体験するということは、生身の私が、感じ、考え、反応し、気づくということであり、過去や未来の虚構ではなく、“今ここ”のリアリティを味わうということです。ですから、それはリアルであり、作り物ではない真実味があると言えましょう。
 まさに“体験”は、既に出ている過去の枯れた理論よりも、ずっとずっと生き生きとした信頼に値する、頼りになる情報と言えるのではないでしょうか。

 ただし、その自分自身の体験も、本当の真実とは言えません。なぜならば、人間の認識する力は、大変優れてはいますが、完全ではないからです。人間の認識力には限界があり、ありのままの全てを理解できるわけではありません。
 私たちは、とっても勘違いしやすいのです。実感では、太陽が動いているように見えますが、真実は、太陽ではなく、地球(自分)が動いているのです。

 では、この個人の認識力の限界を超えて、本当のことを知り、真実に基づいてよりよい方法を学んでいくためにはどのようなことが必要なのでしょう。体験学習では、この個人の認知バイアス(偏向)を修正し、本当のことを理解して行くために、個々人の認識を“分かち合う”ことをします。
つまり、チームで共通に体験したことに対して、個々人がどのように感じたのかの内面の出来事を発表し、個々人の内面のプロセスをオープンにしていく作業を実践するのです。
 内面をオープンにするためには、信頼関係が必要ですが、信頼関係がはぐくまれている中で、体験の分かち合いがなされると、隠れていた個々の内面に光が差し込み、本当のことが次第に明らかになっていくことになるのです。
 人間関係は、複雑であり、広く大きく奥行きが深いものです。自分が、それを“青”と認識しても、他人がそのように認識するとは限りません。“黄色”と見る人もいるだろうし、“緑”と見る人もいるでしょう。しかし、そのどれかが正解で、他の見解が間違えているということではありません。なぜならば、いずれも複雑なものの、ある側面を見ているわけであって、立場から見た見え方に間違いが無いからです。ただ単に、見方が部分的なだけなのです。
 同じ町を、東から見るのと西から見るのとでは、違った町に見えますが、実は、同じ町を見ているのです。
 同じ町を、低地から見るのと、山の上から見るのとでは、違った町に見えますが、実は、同じ街を見ているのです。
 しかし、それぞれの見え方を集めて行くと、本当の町が観えてきます。それぞれの認識を分かち合って行くと、どんなに広く深く大きな対象
であっても、その全体像、真実に近づくことができるでしょう。

 内面の体験は、自分にとっては大切な宝物ですが、それを相手に伝えたとき、相手が宝物として扱ってくれる保障はありません。ですから、内面の体験を分かち合うことは、とっても勇気が必要であり、相互信頼が必要ではありますが、もし、本当に信頼が起こって、人と人とが、本当の体験を正直に語り合うことができたとしたら、きっと隠された真実に光が当たるのではないでしょうか。

 体験学習は、以上のように、体験したことを観察し、個人で感じたこと気づいたことをチームで分かち合い、さまざまな視点から本当のことを明らかにしていくことを通して、真実の理解や、よりよいあり方の探求をしていくことができる学習方法です。
 また、ありのままの現実を淡々と観察していく方法でもあり、「こうあるべき」や「こうあるべきではない」と信じ込んでいる考え方から離れ、自然で等身大の自分自身をみつめ、本来の自分らしさを探求していくことができるので、自由になる、本来のエネルギッシュで生き生きとしている
自分を取り戻す方法ともいえましょう。

 技術の進歩が早く、変動の大きい時代にあって、変化に柔軟に対応し、智恵を生み出し、創造的に問題解決を図るための質の高いコミュニケーションやリーダーシップの能力育成が求められている現代では、主体性や個性を重んじて、その限りない潜在性を引き出す支援をする体験学習方法は、非常に強力な戦略的なツール、学習方法と言えるのではないでしょうか。

【体験学習とは シリーズ】

1.体験学習とは

2.体験学習の学習プロセス

3.体験学習の効果

4.体験学習の原点

5.Tグループの誕生

6.日本におけるラボラトリーメソッド

7.Tグループの実際

8.私のTグループ体験

9.体験学習の留意点とポリシー

10.体験学習のお勧め