勇者
勇者は、本当に自分が生きたい人生を生きる。
勇者は、自分の本当の気持ちを良く知り、それを実行する。
自分の本当の感情や思考を愛し、信じているので、それをごまかしたり、拒否したりする必要はなく
ありのままに生きるので、その言葉も行動も人生も、力に満ち輝いたものとなる。
彼(彼女)は、りきみがなく、柔軟性に富んでおり、その反応は自然である。
彼(彼女)は、ワンパターンでプログラミングされているやり方で反応したり、「こうあるべきだ」と思込んでいる枠組みで答えを出したりしない。
彼(彼女)は、現実のありのままの自分の反応を愛し、そして表現するのである。
彼(彼女)は、自分の選ぶ道が、勝利の栄光につながっている事を確信している。
数知れない苦難や障害は、大いなる冒険につきものの乗り越えられるべき課題であり、その事で絶望するなどとは夢にも思わないのである。
従って、彼(彼女)は、勇気をもって危険に立ち向かっていく。
時には、失敗し、希望が見えない窮地に追い込まれるかもしれないが、決してあきらめたりくじけたりする事はない。
勇者は、障害や苦痛、痛みや絶望が、自分の成長のためにあることを知っている。
その不幸にとらわれて、復讐を試みたり、自分を罰したり、人の同情をかったりすることの無意味さを良く知っており、また、それは、道草であり、時間の無駄使いであり、あい路へと向かう甘い誘惑である事を知っている。
彼(彼女)は、「勝利の女神は、多くの苦難と無数の敗北の後にやってくる」ことを知っているのである。
勇者は、大いに笑い、そして素直に楽しむ。
自分の仕事や遊び、食事や生活、仲間との語らい、家族とのふれあい、自然のありさまや自分の創造作品を心から楽しむ事ができる。
また、彼(彼女)は、人との間に、基本的にオープンな関係を築く。
他者に対して、率直で正直であり、また、よく聴く心を持っている。
彼(彼女)は、相手が自分をどう認識しようが、まったく相手の自由であり、それをコントロールする事は本質的にできない事を知っている。
だから、ふりをしたり、うそをついたり、他者を支配しようとはしない。
相手の自由を心から受け入れ許すことができるのである。
勇者は、”今ここ”に集中しており、自分や家族、仲間や世間の出来事に深い関心を持っている。
“今ここ”で起こっている出来事のすべてを、嫌いだからと言って拒絶することなく、ありのままに観察し理解しているので、より良くしていくために打つ手は適切である。
勇者は、強い意志をもって自分や、自分の関わるすべてをよりよくしていこうと努力している。
彼(彼女)は、まさに自分の最善を尽くして愛するもののために戦う勇者なのである。
暴君
暴君は、自分を”犠牲の子羊”であるかのように思っている。
「自分は無力であり、運が悪く、嫌われており、望みはなく、見捨てられており、死んだ方がいい」と思い込んでいる。
暴君は、自分に対する最悪の呪文を真実であると確信している。
“負け犬、罪人、みにくい、疲れきっている、死にそうだ、犠牲者、できそこない、…”
暴君は、このような言葉で、自分を投獄する檻をつくり、自分の勇気をくじき、自分をのろい、結果的に自分自身に不幸をもたらしている事に気づいていないのである。
暴君は、”苦難”が”栄光に向かうステップ”である事を忘れている。
彼(彼女)にとっての人生の目的は、”苦難に対する復讐”であり、”苦難を受けて当然であるといった自分や他人の罪深さの証明”であり、”蓄積した悲しみや怒りや憎しみの表現”である。
彼(彼女)は、終わってしまった苦悩にこだわり、過ぎ去ってしまった過去にとどまり、そこから一歩も進もうとはしない。
過去の悲劇を憎み憎悪しているにもかかわらず、過去の悲劇が彼(彼女)の人生の基盤になってしまっている。
まさに暴君は、悲劇に依存しているのである。
暴君は、”過去”に生きる。
彼(彼女)にとっての過去は、不幸ではあるが、危険のない居心地の良いすみかである。
そこにいれば、自分は犠牲者で悪者ではなく、自分の責任も限られており、起こる出来事も決まっているのでリスクが少なく安心していられる。
暴君は、”恐怖の未来”にも生きる。
暴君は、決して未来を信じる事はない。
彼(彼女)にとって未来は、不幸であった過去の焼き直しであり、それ以外の幸福のイメージは見えないし、見ようとしない。
また、例え大きな夢をもっていたとしても、それは、単なる過去の不幸の反動であり、それは本音の志ではないし、その実現を全く信じてはいない。
だから、暴君のビジョンは、「ひどい不幸にならないこと」であり、人生の目的は、「恐怖や不安から逃れる事」になる。
彼(彼女)の心は、心配と不安でいつも圧倒されているのだ。
病気になったらどうしよう、傷ついたらどうしよう、攻撃されたらどうしよう、
交通事故にあうかもしれない、会社をリストラされたら、見捨てられたらどうしよう…、
暴君の心は、希望の光が差し込む余地が無いほどに恐怖の亡者で満たされており、
結果として、変化を好まずに、チャンスを逃し、古い悲劇を反復するだけの人生を生きる事になるのである。
暴君の不安や恐怖は、現在をもゆがめる。
怖がり、萎縮しているので”今ここで”のありのままの出来事をじっくりとおちついて味わい、観察する事ができない。
蝶が飛ぶ美しい花畑にいても、病気のことで頭がいっぱいであり、素晴らしい香りに気づくことはない。
仲間と一緒にいても、仕事の不安に気をとられて、友達からの友情や愛に気づくことはない。
彼(彼女)は、あせっており、現実をゆがめて解釈し、打つ手のタイミングも対策も的はずれで強引なものになってしまうのだ。
暴君は、このような自分の内面に満足してないし、自信もないので、人に対して決して内面をさらすことはない。
彼(彼女)は、演技をしたり、ふりをしたり、仮面をかぶったりして人と操作的に関わる。
彼(彼女)は、自分の不幸な体験を巧妙に利用する。
「こんなに不幸なのだから同情される権利がある。」
「こんなにひどく傷つけられたのだから、やり返してもかまわない。」
「こんなに運が悪いのだから、勝利するはずはなく、またしなくてもいい。」
など、たくみに人をコントロールしたり、自分の暴力を合理化したり、責任を回避することに自分の自己イメージを利用するのだ。
暴君は、分かり合い、愛し、愛される暖かい関係を築き上げる事が苦手である。
彼(彼女)は、根強い不信感と敵意を手放す事ができないので、信頼や愛を体験した事もなければ、それを求めようともしない。
その代わりに自分の期待通りに人を巧みに操作しようと務め、また、相手の期待にそうように卑屈な奴隷となる。
結果として彼(彼女)のユニークさや潜在能力は発揮されず、その才能は開花する事はない。
逃げ惑い、自ら固く閉ざした扉で光が差し込む事はない。
こうして、暴君は、本来そうではなかった全く不本意な悲劇の人生を歩むことになるのである。
自分を生きる勇者となるために
人生における困難、みじめな敗北、胸をふさぐ悲劇、など、
人生に訪れる事実は目を覆うばかりの出来事であることが少なくない。
しかし、この世に乗り越えられない苦難はないことを忘れてはいけない。
人の中には、人が想像する以上の途方も無い程の力がまどろんでいる。
その力を解放するキーワードは”勇気”である。
自分らしく輝いて生きるためには勇気がいる。
・安心できる過去の習慣から抜け出し、新しい未知の可能性に踏み出していく勇気
・他の人々と直接的に正直に関わる勇気・集団の力に対抗してでも自分の確信を選ぶ勇気
そして、もっとも大切な勇気は、”いまここ”の真実の自分を信頼し、自分にうそをつかずに、誘惑と危険に怯むことなく、真実の自分を生き抜く勇気である。
人には、勇者として生きるに値する途方もない可能性が眠っている。
人は、大いなるヴィジョンに向けて、肩の力を抜き、自分らしく勇気を持って生き抜こうとしたときには、想像を絶するほどの偉大なる力が発揮されるだろう。
新しい船出は、必ずしも安全が保障されているわけではない。
しかし、変化を恐れず、自分を信じて一歩踏み出せば、必ずや道は開ける。
そのときにはじめて気づくであろう、自分がもともと勇者であったことを。