初詣(2025)

 本日、会社として初詣に行ってまいりました。

 当社では、毎年、1月11日の11時にこちらの神社さんでご祈祷をしていただいております。

 毎年の行事であり、かれこれもう10年以上続いています。

 以前私どもは、東京都稲城市に住んでおり、事務所も家の一部屋に構えておりました。最寄り駅が小田急線の新百合ヶ丘駅で、かれこれ20年近く活動していた大好きな拠点です。

 こちらの神社さんは、その近くにある金神神社さんです。

 初めてお参りした時に、売上がぐっとあがったこともあり、縁起を担いで、毎年の恒例行事としております。

 こちらは、当神社さんにお祭りされている大黒天様です。一本の欅の巨木から作られており、総高は235cm。一刀彫りの大黒天像としては日本一で、川崎市の地域文化財に指定されたそうです。お顔が暗く映ってしまって恐縮ですが、めちゃくちゃ大笑いされています!

 今年も、例年同様、良いご縁をたくさんたくさんいただいて、良いお仕事をたくさんたくさんできますように!!

あけましておめでとうございます(2025)

 あけましておめでとうございます。
 昨年中は、いろいろとお世話になりありがとうございました。
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます!

 昨年末、仕事納めを予定していた日に、インフルエンザにかかってしまいましたが、その後、ゆっくり休んで、早めの病み上がりとなりました。今では、もうすっかり好調です!!

 おかげさまで、妻にもうつることなく二人仲良く元気に新年を迎えることができました。

 今年は、この調子で、家族や友人みな健康で、仲良く、楽しく過ごしていきたいと思いました。何やら新年早々、とくにアメリカで荒っぽい事件が頻発して、不安定この上ない世情ですが、振り回されずに、のびのびとくつろいで、良心に従って幸せに生きることをモットーとしたいと思います!

 お仕事も、いろいろと頂いており、意外と忙しい年明けです。おかげさまで、一気に6月に向けて突っ走るスケジュールです!これも、家族や友人、お客様に恵まれているからこその充実です。本当にありがたいことと感謝申し上げます。

 では、今年一年、私ども、元気でがんばってまいります!本年もどうぞよろしくお願い申し上げます!

今年一年ありがとうございました

 私どもも今日で仕事納めとさせていただきます。

 お世話になった皆さん、本当に一年ありがとうございました。おかげさまで、とても充実した一年となりました。

 実は、2日前の27日に仕事納めにして本ブログでご挨拶をと思っておりましたが、なんと、最後の最後でインフルエンザにかかってしまいました。今、ものすごく流行っているですってね、薬局から取り寄せた診断キットで調べたところ、見事にA型にかかっておりました。とうとう私も、その一人となってしまいました。

 こうなったら覚悟を決めて、ゆっくり休みます。

 年末年始は、寝正月です!

 皆さんも、どうぞくれぐれもお体大切に、ご自愛くださいませ。

 改めて本年一年、ありがとうございました!良いお年を!

人の可能性について

人には大きな可能性と言うものがある。

その偉大さは、今の認識では及びもつかないもの、想像をはるかに超える大きな存在である。

仏教ではそれを仏性と言う。

蓮華の花は、泥の中に根と茎を置き、それを越えて大きな花を咲かせる。

人は、泥の中でもがいて生きており、それが自分でありそれが人生だと思い込んでいる。今の意識では、水面上を見る目が未だ開いておらず、認識することができない。泥の中の世界しか認識できないので、汚れて醜い自分や他人、相互に傷つけ合い奪い合う関係性を世界の全てだと思い込んでいる。

しかし、今の人の狭い了見ではわかりようのない世界は存在して、そこに自分の大輪の花は確かに咲いているのだ。

太陽が存在しないわけではない、あまりに厚い雲(恐怖、怒り、悲しみ、恨み、無知、など)が覆っているので太陽が見えなくなっているのだ。

しかし、人が太陽の存在を信じようが信じまいが、太陽は存在している。いつでもどこでも片時も休むことなく我々を照らしてくれている。

 

しかし、仏性は、我々が世界を認識する道具となっている思考では決してとらえることができない。いわゆる不可思議(思考で把握することが不可能)な存在である。

それは今ここに実在する存在なのだが、精妙すぎるので五感では感じることができない。また、それを思考で理解することもできない。仏性、神性、光、愛、慈悲、魂などと名付けたところで、それらは、単なる名前であって、それそのものではない。

そもそも思考は、リアリティの後付けの説明に過ぎない。リアリティそのものを体験しているわけではなく、起こってしまったことを後付けで言葉にしている。思考は言葉によってなされる行為であり、常に真実の後付けであり時差があるので、今ここにはなり得ない。だから、今ここの実在を思考でとらえることは不可能なのだ。

だから、仏性は、人間の狭い了見の中では、体得することは容易ではない。しかし、努力することによって少しずつ気づき、開発していくことができる。そのためには、仏性に対する信頼と近づこうとする意識的な努力が必要である。

 

仏性は、あらゆる人にまどろんでいる可能性である。

お釈迦様も、私も、くだまく酔っ払いも、例え過ちを犯してしまった犯罪者にも、内面には天才をもっている。

仏性は努力して作るものではなく、人間存在であれば最初から設置されているのだ。

しかし、それに気づくことができて、その力を開発しなければ、それは機能しない。

 

お釈迦さまは、それに気づき、体得して、それを生きられた。

わたしたちは、それに気づけておらず、それを生きることができていない。

お釈迦様と私たちは、同じ仏性を持つ存在であり、その意味で同じ尊さを持つ存在だが、認識と意志によって全く違った生き方となってくる。

仏性に気づけなければ、無いのと同じことになる。正しい認識と志は、人にとっての最大の武器なのだ。

 

だから、その神性が自分や他人ににあるということを信じて生きることが大切であり、光に少しでも近づこうと意識的に努力することが大切だ。

仏性を信じられるからこそ、困難にあっても立ち上がり、前向きに生きることができる。

他人をエゴとしてではなく聖なる部分がある存在として見れるからこそ、欠点ある他人を尊敬することができる。

 

泥の上の存在を信じることができなければこの世は地獄である。人はみな自分勝手で嘘つきで自分に害をなそうとする鬼にしか見えない。自分も対抗するために醜くあさましく生きる鬼のような存在としか感じられなくなる。人間関係は、お互いに傷つけ合い、奪い合う戦場となる。

狭い了見で誤解し、思い込んでしまった地獄の様相を幻想と言う。

決してそうした幻想を信じ込んではいけない。狭い了見で勘違いの迷妄を生きてはいけない。

太陽は、あなたが信じようが信じまいが存在する。それを信じられないのは、あまりに厚い雲(恐怖、不安、怒り、など)に覆われているからだ。

自分と人の仏性を信じ、目につくエゴではなく、意識的に聖なる魂を見ようと努力してみることが大切だ。

かすかに感じる良心、善意、やさしさ、思いやりを大切にして、意識的に光に向かって生きようと決意してそう生きることが大切だ。

 

たしかにこの世は地獄の側面がある。人を平気で傷つけ、虐待し、搾取する鬼的な存在は決して少なくない。人は、誰もが聖なる部分もあるが獣性も同居しいる複合的な存在であり、どちらを選んで生きるかは個人の自由である。進化成長の段階や速度は人それぞれであり、自分の仏性を信じられずに、獣性を選んで他を犠牲にして利己的に生きる生き方も許されており、地球上では多様な在り方が混然一体となっており、全体的にいまだ幼稚園にもなり得ていない。

だからと言って自分も低い意識に感染してはいけない。恐怖に首をたれてはいけない。朱に交わらない気高さを持つべきだ。虐待や搾取を許してはいけない。立ち向かって打ち勝つ強さを持つべきだ。

 

天国の中で天使として生きるのは簡単だ。だれでもできる。

しかし、地獄の中で恐怖や絶望に身を委ねずに魂の純粋さをもって生きるのは並大抵ではない。

だからこそそういう生き方がかっこいいのだ。

 

人は生まれながらにして仏性を持った勇者だ。

だからこそ、光ない闇の中にあっても、痛みと絶望の世界の中にあっても勇者としての自分を見失わずに自分らしく堂々と生きる姿が輝かしいのだ。

恐怖や絶望にやりたい放題にさせてはいけない。立ち向かう勇気をもとう。

一隅を照らす光、それこそがあなたの本性だから。

美しい紅葉

 紅葉真っ盛りです。

 私が授業を担当している大学の関係するお寺にある紅葉です。

 昨日、同じもみじの11月の様子をアップしましたが、12月に入ると様子が変わりました。紅葉真っ盛りです!

 これは同じ寺院内にあるちょっと種類の違うもみじ?(なのかな)

これはイチョウ

 

そして寺院内の別の場所の紅葉

 なんてきれいなたたずまいなのでしょう!見事な秋、すがすがしいありようです。

 気分がリフレッシュしますね!

 

 

紅葉の変化

 私が授業を担当している大学に併設されている寺院での紅葉の写真をご紹介します。
 毎週通っているので、11月の紅葉の週ごとの変化が分かります。

11月11日

11月18日

11月25日

 ほんとうに、ちょっとずつ色づいていくのが分かります。

 明日も大学の授業日なので、ついでに写真を撮ってきます。同様変わりしているかが楽しみです!

狂気の終わり

 お釈迦様は、自分の没後、2,000年後に「末法の時代」が訪れると警告されたそうです。

 その時代には、人々は慈しみの心を忘れ、我欲をむさぼり、争いが絶えない世の中となるとのこと。悪業がはびこり、奇病が蔓延していくと語られたそうです。

 お釈迦様の没年は紀元前500年くらいと言われています。ですので、いまは、ちょうど没後2500年くらいでしょうか。

 お釈迦様の予言は、まんざらはずれてもいなようです。

 人々の中には、慈しみを忘れ、平気で人を殺し強盗をする者たちも現れました。

 疫病がはやり、人は不安で短気になり、人を嫌うこと躊躇せず、敵意と悪意に歯止めが効かなくなってきました。

 他国に攻め入り、罪のない人たち、特に子供や女性を平気で殺害する国も出てきて、その国の狂気の暴力を諫めるのではなく、膨大な援助をして外道の火に油を注ぐことが正義と主張する偽善や詭弁もまかり通っています。

 まさに、地獄への道は善意で敷き詰められているのです。

 正義の化粧をした憎悪と悪意が、圧倒的な権力で我々に牙を向けてくる時代。狂気と非道が正当化される時代。まさに今は末法の時代のように感じます。

 しかし、光に勝る闇はありません。どんなに技巧を弄しても嘘は真実には勝てません。邪悪、憎悪、悪意は、どんなに力をもったとしても決して勝ち抜くことはできません。最終的には自らふるった刃でうち滅ぼされてしまうでしょう。狂気は終わりを迎えることが定めなのです。

 アメリカでは、大統領選が行われ、トランプさんが勝利を収めました。とても記念すべき勝利だと思います。マスコミからは散々な物言いをされ、言いがかりのような訴訟を起こされ、挙句の果てには3度にもわたる暗殺未遂を乗り越えての勝利です。本当におめでとうございます。

 トランプさんは、自分のためと言うよりは母国のため、世界のために使命があるので不退転の決意で戦ったとのこと。タフな戦士、立派な将軍、勇者なのだろうと思います。

 どういう性質のものかはわかりませんが、いずれにしてもこの勝利によってアメリカのみならず、世界は大きく変化すると思います。もちろん日本も例外なく激動に突入していくのだと思います。

 願わくば、狂気が終わりを迎えますように。正気を取り戻すことができますように。ウソや欺瞞、隠しごとに光が当たり、本当のことが明らかになりますように。戦争が終わりますように。正義が貫かれますように、そして平和が実現しますように!

正しいということ

 先月10月10日に妻の父、私の義父が亡くなりました。仕事などの関係上、葬儀を10月16日通夜、17日告別式を執り行いました。

 実は、昨年の2023年7月31日に妻の母、私の義母が亡くなっており、続けざまの不幸であり、私どもにとって、特に妻にとっては実母と実父の不幸なので、そのショックと痛みは相当なものだったと思います。それを乗り越えて葬儀をみごとに努め上げました。とても立派だと思います。おつかれさまでした。

 葬儀を主催してくださったのは、妻の実家が檀家となっているお寺、長願寺のご住職 海法龍師と若様です。師には、妻のおばあちゃん、母、そして、今回の父親の葬儀を主宰していただいている縁の深いご住職です。とても立派な私どもが尊敬するご住職です。

 そのご住職に、戒名を頂きました。義父の本名には“正”の文字が含まれており、その一文字を使った素敵な戒名を頂きました。

 戒名の発表の折に、“正”についての解説があり、その法話がとても印象に残ったので当ブログでもご紹介したいと思います。

 ご住職は、“正”という文字は、“いちにとどまる”と書かれており、対立、争いではなく、ひとつであること、共感すること、平和であることを意味するのだとおっしゃるのです。

 私は、それを聞いてとてもびっくりしました。

 私は、“正”と言う文字は、正義や正解を意味するものであり、悪や誤りに対峙するものであって、悪を滅ぼし、誤りを正すものであると思い込んでおり、あくまでも白黒2元の対立する世界の中の一方の在り方、力だと思っていたのですが、ご住職は、そうではないとおっしゃるのです。それは、分離したものではなく、一つであること。お互いに響き合える平和的な一体感、“和を意味するものだとおっしゃったのです。

 そうなんだ、正しいということは、悪者をやっつけて、正義を勝ち取るものではなく、悪者と決めつけずに、裁かないということ。距離を置いて分断せずに、関係の糸を切らないということ。それは、とてもやさしいということなんだと初めて知ったのです。

 私は、そのことを知って、ちょっと打ちのめされてしまいました。

 私にとって“正”とは、悪に勝利することであり、邪を正すこと、けがれを祓い清めることだと思っており、私にとって正しく生きるということは、戦いでもあったのです。

 ウルトラセブンが怪獣をやっつける、ガメラが体を張って悪をやっつける、人が勇気と協力でゴジラをやっつける、こういうことが正義だと思っており、ひそかにそういうヒーローにあこがれていた(る)のです。また、心の奥深くで、そうやって悪をやっつけたい、正義のヒーローになりたいという情熱をもっていたのです。

 しかし、ご住職は、そういう考えは、正しく“正”を理解していないとおっしゃるのです。相対二元の世界になると必ず争いが起こる。故に、二になること分離すること自体が誤りである。ひとつにとどまること、分離しないこと、やな奴だと裁かないこと、人を他人だと思わないこと、和をたっとぶことこそが“正”なのだとおっしゃるのです。

 ちなみに、この“正の意味に興味をもって、“悪”の文字の由来を調べてみました。悪は「亜」と「心」によってできていますが、亜と言う漢字は、「次ぐもの、2番目」と言う意味があるそうです。いわゆる悪とは、2番目の心、分離した心と読み取ることができます。

 また、“誤”と言う漢字の由来も調べてみました。そのままではよくわからないところがあったので、つくりである“呉の旧漢字を調べてみると、“吴”となり、上の“口”は、「神への祝詞を入れる器」と言う意味であり、下は、“人”と“二”で構成されています。(“天だと思いましたが、横棒の上下の長さが逆です)

 ですから、“誤”をわたしなりに分析すると、「神に言うことと人に言うことが異なり、二つになる」こと解釈することができます。(あくまでも私独自の解釈です。学者さんに言うと怒られるかもしれません。)

 なんと、悪と言う文字は、1つにとどまらずに二つになること、誤と言うことは、誰にも同じことを言うのではなく、神と人とで違えてしまうこと、つまり、悪は心が分離すること、誤は言うことが分離すること、どちらも“一つであることを捨てて分離することだと私は解釈しました。

 そうすると、ご住職が仰る“正”の意味がよくわかります。そして、私が解釈していた正のありかたが、いかに間違えていたかがよく分かります。

 なんと、私が正しいと思い込んでいた正義や正解は、決して正しくなかったのです。相手とどこかでつながっている一つの存在と言う感覚を捨てて、一線を引いて敵と認識すること自体が誤りであり、「悪をやっつける、邪を正す」と攻撃することは、まさに悪であったのです。正義の杖を振りかざして悪を責めるときに感じるあの快感は、決して天のものではないということが痛烈にわかりました。私は、反省しなければなりません、ある意味、正義を貫くという生き方がかっこよく感じ、そう生きていましたが、知らず知らずのうちに道を誤ってしまっていたかもしれません。悪だと決めつけた人を責めた時から、私が悪になってしまったのかもしれません。

 ご住職の法話を通して、そうしたとても強くて痛くてありがたい学びをさせていただきました。今後は、対峙してやっつける強さではなく、理解して受け入れて癒やすやさしさを身につけていきたいと思います。なんとなく漠然とは感じていたことですが、和尚さんのお話をお聞きして、はっきりと分かりました。義父の葬儀を通して、とてもありがたい学びを頂くことができました。ありがとうございます。

 義父は、まさに“正”の人だったと思います。人の欠点や間違いに寛容で、いつもフレンドリーでいてくれました。考えてみれば、生意気で攻撃的な私をも、ふわっと包んでくれていた、決して見捨てることはなかった、そんな気がします。長年にわたってご縁を頂けて、とても光栄に感じています、いろいろと不快な思いをさせたこともあったと思いますが、どうぞご容赦ください。

 父ちゃん、わたしには気づけなかったけど、いろんな愛をくれていたんだね、やさしさをありがとう。心から感謝申し上げます。

 父ちゃん、長年にわたり本当にごくろうさまでした。そして、ありがとうございました。 合掌

 

後期授業の開始(2024)

 私は、横浜のとある大学で授業を担当していますが、後期は2科目を担当しています。そのうちの1つの授業が今日から開始します。

 キャリア関係の授業であり、単なる就活講座ではなく、長い人生をどう生きるのか?自分らしく幸せに生きるためにはどのようなことが必要になるのか?をテーマとする授業となります。

 考えてみれば、私は決して人様に自慢できるような人生を生きてきているわけではありません。むしろ、失敗の数ならば、人に引けを取らないかもしれません。そんな人が大学で人生を語るのはおこがましいようにも感じております。しかし、こうしたご縁を頂いて、毎年たくさんの学生たちが聴講に来てくれているのは、本当に光栄なこと、ありがたいことだと思います。きっと、天から失敗の多い人だからこそ、人の痛みが分かるはずだから、人を癒し、勇気づけなさいと使命を頂いているのかもしれません。教えることは学ぶことでもあり、失敗が多いからこそ学生たちと共に学びなさいと課題を頂いているのかもしれません。

 おかげさまで、本授業も2006年から担当しているので18年目となります。本年度も充実したパワフルで楽しく意義深い授業になりますように!

 では、行ってきます!

後悔と反省の違い

 後悔と反省は違う。似て非なるものである。
 後悔の背景には恐怖と怒り、反省の背景には信頼と希望がある。

 後悔は、自分が失敗したことを受け入れてない。自分に欠点や至らない点があることを他人に暴露されることが恐ろしいのだ。
 「役に立つ人間、すごい人間、完璧な人間」でなければ他人に認められない、又は、存在を許されないとかたくなに恐れており、使える完全無欠な人間であるようにふるまい、他者にも自分をそう見てもらえるように操作的に関わる。
 しかし、すごい自分を演じている自分が実はすごくないことを一番よく知っているのは自分だ。そして、自分の中のみじめで役立たずで不完全で醜いと思い込んでいる自分を隠し、憎み、恥じている。
 だから、自分の至らない点を受け入れることができない、と同時に、起こった出来事をありのままに受け入れることができない。それが起こったのは自分のせいではない、他人、環境、社会のせいであって自分の落ち度ではない。そもそもこんなことは起こるべきじゃなかった。自分は不条理な被害を受ける被害者であり、言われないそしりを受ける弱者である。と思い込み、自己防衛と復讐に奮闘努力するのだ。
 結果、後悔には偽善、欺瞞によって塗り固められた自画像を固く死守することにこだわり、一切の変化や成長は封じ込められてしまう。暗く閉ざされた巣穴に引きこもり、光が差し込むことはない。

 反省は、後悔とは違う、似て非なるものである。
 後悔は痛みであり、反省は癒しである。
 反省は、痛みを伴うどのような体験であっても、決して目をそらすことなくありのままに見ようとする。どのような現実であれ、現実を肯定し、そのままに受け止めようとする。良くも悪くも起こる出来事は、起こるべくして起こったことであり、それ以上でもそれ以下でもない寸分も狂いもないものであると受け止めている。
 出来事に対して、不平や文句を言わずに受け止めるには信念と覚悟がいる。
 自己防衛と言い訳に勤しむ自分を慎み、自分の成長の可能性を信じて未知に挑戦し、変化し成長しようとする覚悟。
 出来事の全ては天の采配であって、天が自分に与えてくれた良き教材だと信じる信念だ。
 それはシンプルなものであり決して理解が難しい考え方ではないが、体現することは簡単ではない。その高い壁を乗り越えられる人はそう多くはない。しかし、その大きな分水嶺を乗り越えた人にこそ癒しはやってくる。
 反省は、自分に痛みを与えた出来事、人、環境を許し、同時に、そのようなみじめな体験をした自分自身をも許す。自他のコインの両面を許すのだ。
 許されたものは、ありのままの真実を開示する。狭い了見のエゴで捻じ曲げて解釈していた時には分かりようのなかった秘密が打ち明けられるのだ。
 それは、かたくなに隠し通されてきた痛み、怯え、罪悪感、恥、封じ込められていたさまざまな悪霊が解放され、許され、癒されていくということ。
 それは、まったく知らなかった偉大なる仕組みや法則や可能性が開示され、自分の立場や視野の新しいリアリティ、次元が拡大するということ。
 それは、自分を縛り付けていた呪縛から解放されて、自分らしい成長を喜ぶということなのだ。

 結果、反省は、ありのままの自分を見つめ、反省し、どうすればよいかを考え、挑戦していく。

 光は傷口から差し込んでくる。
 反省は、内面に光をもたらす。内面に真実の光が差し込むことによって、人の痛みや苦悩がやさしく温かく癒されていくことになる。

 希望は絶望の後にやってくる。
 反省は、絶望の痛みがあったからこそ、それを乗り越えた人にやってくる希望に満たされる。
 それは、歓喜であり、全く新しい自分の偉大なる可能性である。

 後悔してはいけないということではない。時に膝を抱えて休むことも必要である。しかし、いつまでも自己憐憫に浸ることは慎まなければならない。どんなに嘆いても事態は改善しないからである。
 ひと時休んだら、反省に取り組まなければならない。
 見ても見ず、聞いても聞かず、理解しないのではなく、しっかりと見て聞いて理解しなければならない。
 逃げてばかりでなく踵を返して前を向かなければならない。
 立ち上がって戦士となってドラゴンに向き合わなければならない。
 なぜならば、あなたは勇者だからだ。
 あなたは、魂を持った偉大なる勇者であって、決して卑屈な負け犬ではない。
 あなたには、今の未熟なありかたから脱皮し、成長する宿命がある。
 いつまでも大きな芋虫ではいけない。
 あなたは、蝶となって自由に大空を舞うことが使命なのだ。

 決して忘れてはいけない、あなたは今あなたが思っているようなちっぽけな存在ではない。
 あなたは、成長を使命とする魂を持ったたぐいまれなる個性を持った魅力的で力ある勇者なのだ。

 あなたには、あなたと同じように苦しんでいる人を助ける使命があることを忘れてはいけない。

 いまこそ、あなたの魂、その使命に耳を傾けるとき。