人には大きな可能性と言うものがある。
その偉大さは、今の認識では及びもつかないもの、想像をはるかに超える大きな存在である。
仏教ではそれを仏性と言う。
蓮華の花は、泥の中に根と茎を置き、それを越えて大きな花を咲かせる。
人は、泥の中でもがいて生きており、それが自分でありそれが人生だと思い込んでいる。今の意識では、水面上を見る目が未だ開いておらず、認識することができない。泥の中の世界しか認識できないので、汚れて醜い自分や他人、相互に傷つけ合い奪い合う関係性を世界の全てだと思い込んでいる。
しかし、今の人の狭い了見ではわかりようのない世界は存在して、そこに自分の大輪の花は確かに咲いているのだ。
太陽が存在しないわけではない、あまりに厚い雲(恐怖、怒り、悲しみ、恨み、無知、など)が覆っているので太陽が見えなくなっているのだ。
しかし、人が太陽の存在を信じようが信じまいが、太陽は存在している。いつでもどこでも片時も休むことなく我々を照らしてくれている。
しかし、仏性は、我々が世界を認識する道具となっている思考では決してとらえることができない。いわゆる不可思議(思考で把握することが不可能)な存在である。
それは今ここに実在する存在なのだが、精妙すぎるので五感では感じることができない。また、それを思考で理解することもできない。仏性、神性、光、愛、慈悲、魂などと名付けたところで、それらは、単なる名前であって、それそのものではない。
そもそも思考は、リアリティの後付けの説明に過ぎない。リアリティそのものを体験しているわけではなく、起こってしまったことを後付けで言葉にしている。思考は言葉によってなされる行為であり、常に真実の後付けであり時差があるので、今ここにはなり得ない。だから、今ここの実在を思考でとらえることは不可能なのだ。
だから、仏性は、人間の狭い了見の中では、体得することは容易ではない。しかし、努力することによって少しずつ気づき、開発していくことができる。そのためには、仏性に対する信頼と近づこうとする意識的な努力が必要である。
仏性は、あらゆる人にまどろんでいる可能性である。
お釈迦様も、私も、くだまく酔っ払いも、例え過ちを犯してしまった犯罪者にも、内面には天才をもっている。
仏性は努力して作るものではなく、人間存在であれば最初から設置されているのだ。
しかし、それに気づくことができて、その力を開発しなければ、それは機能しない。
お釈迦さまは、それに気づき、体得して、それを生きられた。
わたしたちは、それに気づけておらず、それを生きることができていない。
お釈迦様と私たちは、同じ仏性を持つ存在であり、その意味で同じ尊さを持つ存在だが、認識と意志によって全く違った生き方となってくる。
仏性に気づけなければ、無いのと同じことになる。正しい認識と志は、人にとっての最大の武器なのだ。
だから、その神性が自分や他人ににあるということを信じて生きることが大切であり、光に少しでも近づこうと意識的に努力することが大切だ。
仏性を信じられるからこそ、困難にあっても立ち上がり、前向きに生きることができる。
他人をエゴとしてではなく聖なる部分がある存在として見れるからこそ、欠点ある他人を尊敬することができる。
泥の上の存在を信じることができなければこの世は地獄である。人はみな自分勝手で嘘つきで自分に害をなそうとする鬼にしか見えない。自分も対抗するために醜くあさましく生きる鬼のような存在としか感じられなくなる。人間関係は、お互いに傷つけ合い、奪い合う戦場となる。
狭い了見で誤解し、思い込んでしまった地獄の様相を幻想と言う。
決してそうした幻想を信じ込んではいけない。狭い了見で勘違いの迷妄を生きてはいけない。
太陽は、あなたが信じようが信じまいが存在する。それを信じられないのは、あまりに厚い雲(恐怖、不安、怒り、など)に覆われているからだ。
自分と人の仏性を信じ、目につくエゴではなく、意識的に聖なる魂を見ようと努力してみることが大切だ。
かすかに感じる良心、善意、やさしさ、思いやりを大切にして、意識的に光に向かって生きようと決意してそう生きることが大切だ。
たしかにこの世は地獄の側面がある。人を平気で傷つけ、虐待し、搾取する鬼的な存在は決して少なくない。人は、誰もが聖なる部分もあるが獣性も同居しいる複合的な存在であり、どちらを選んで生きるかは個人の自由である。進化成長の段階や速度は人それぞれであり、自分の仏性を信じられずに、獣性を選んで他を犠牲にして利己的に生きる生き方も許されており、地球上では多様な在り方が混然一体となっており、全体的にいまだ幼稚園にもなり得ていない。
だからと言って自分も低い意識に感染してはいけない。恐怖に首をたれてはいけない。朱に交わらない気高さを持つべきだ。虐待や搾取を許してはいけない。立ち向かって打ち勝つ強さを持つべきだ。
天国の中で天使として生きるのは簡単だ。だれでもできる。
しかし、地獄の中で恐怖や絶望に身を委ねずに魂の純粋さをもって生きるのは並大抵ではない。
だからこそそういう生き方がかっこいいのだ。
人は生まれながらにして仏性を持った勇者だ。
だからこそ、光ない闇の中にあっても、痛みと絶望の世界の中にあっても勇者としての自分を見失わずに自分らしく堂々と生きる姿が輝かしいのだ。
恐怖や絶望にやりたい放題にさせてはいけない。立ち向かう勇気をもとう。
一隅を照らす光、それこそがあなたの本性だから。