「随処に主となれば 立処皆真なり
汝 ただ現今用うる底を信ぜよ」 臨在禅師
(読み方)ずいしょに しゅとなれば りっしょ みなしんなり
なんじ ただ げんこんもちうるていをしんぜよ」
(意味)あらゆるところで自分自身として主体的に生きれば、立つところみな真実となる。いまここの自分の本質を信じなさい。
「随処に主となれば 立処皆真なり
汝 ただ現今用うる底を信ぜよ」 臨在禅師
(読み方)ずいしょに しゅとなれば りっしょ みなしんなり
なんじ ただ げんこんもちうるていをしんぜよ」
(意味)あらゆるところで自分自身として主体的に生きれば、立つところみな真実となる。いまここの自分の本質を信じなさい。
朝日新聞 2014年6月26日より
記事によると、日本の先生は、本アンケート参加の34ヶ国中、生徒指導の自信の度合いが最低だったとのことです。
非常に興味があったので、OECD国際教員指導環境調査(TALIS)のオリジナルデータを国立教育政策研究所のwebページで詳細を確認してみました。
国立教育政策研究所 OECD国際教員指導環境調査(TALIS)のポイント
http://www.nier.go.jp/kenkyukikaku/talis/imgs/talis_points.pdf より抜粋
データによると、日本の教員の自己効力間に関する設問に対する回答が、世界平均と比較すると著しく低いことがわかります。
私の考えでは、良い仕事ができるかどうかの根源となる基盤が自己信頼であると考えており、その視点から見ると今の日本の教育の現場では、大変酷いことが起こっている心配があると、私は思います。
自己イメージが与える影響は、その人の仕事ぶりのみならず、キャリアや人生、寿命にまで影響を及ぼすといわれています。教員の自己イメージが健全で、高い自尊感情を持っている場合には、生徒たちに対して愛と情熱をもって関わり、質の高い教育に誇りをもって取り組んでいる、すばらしい教室運営をされている可能性が高くなりますが、もしも、教員の自己肯定感が低い場合には、うつ気質となっているので生徒に対する愛や教育への情熱は、絶望の雲でかげってしまっており、十分に効果的な教室運営がなされていないだけではなく、多くの問題を引き起こしている可能性があります。
自尊感情の欠如は、生産性の低下を招くだけではなく、事故や深刻な問題を引き起こす可能性もあるのです。生徒への暴力や性的虐待、いじめ問題の放置や各種依存症など、最近の新聞をにぎわす教師たちの暴挙は、このあたりからきているのかもしれません。
ちなみに、国立教育政策研究所では、こうした傾向は、「謙虚さや高い目標を設定しているが故の傾向」であるとの解釈がなされており、大した問題ではないようなニュアンスの主張がなされていますが、私は、もっと真剣に現場の悩みに耳を傾けるべきだと思いますね。そうした解釈が、真実であるならば問題はないと思いますが、もし誤解だったとしたら、これは大変な問題ですよ。
謙虚さと自虐は違います。
謙虚さは、自分も尊いと感じているからこそ相手も尊い存在だと思う心情ですが、自虐は、自分を尊いとは思っていません。人は自分にするように他人にするものですから、自虐の人は、最終的には必ず他人に仇をなすなど、問題を起こすようになるでしょう。
自己効力感が低いということは、自罰的となっているということであり、それは、疲弊しており、絶望感にさいなまれているということであり、決して健全で健康的なことだとは言えません。せっかくこうした調査で、現状の大問題が見えてきているにもかかわらず、こじつけや曲解で現実を見ようとしないとしたならば、大きな問題だと思いますよ。
何しろ、自己肯定感の問題は、学級崩壊やいじめ、自殺問題など、多くの深刻な問題にかかわっており、そうした問題は、自己信頼の回復がなくして、根本的な問題解決にはならないのですから。
ちなみに、アンケートの設問で、「生徒に勉強ができると自信を持たせる」の設問に対して、ハイと答えた先生の割合が、世界平均では85.8%ですが、日本では17.6%と著しく低下しています。その通り、自信のない人に自信は教えることはできないのです。
データからすると、日本の教育現場は、崩壊寸前だと私は思います。原因は、さまざまな要素があるとは思いますが、これは先生たちの問題と言うよりは、先生たちを絶望に追い込んでいる古くて瑕疵あるシステムの問題なのだろうと思います。
いずれにしても、こうしたデータから、教育現場からの悲鳴が聞こえてくるようです。政府は、そうした悲鳴に謙虚に耳を傾けて、真剣に対策を練り直す必要があると思いますよ。何しろ、教育こそが国力の根源なのですから。
「勇者とは恐れを知らない人間ではない。
恐れを克服する人間のことだ。」
ネルソン・マンデラ
実に痛快な本を読みましたので、ご紹介します。
「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。」カレン・フェラン著 大和書房出版
著者のカレンさんは、アメリカにおいて長年にわたりコンサルタントとして活躍されている方です。
本書では、ご自身の体験から、ビジネスの常識として適用されている多くの経営理論やモデルは誤りであり、思った通りの効果を発揮することはないだけではなく、思いもよらない逆効果を発揮して経営の足を引っ張るという衝撃的なことを語っています。
彼女によると、「目標による管理」「競争戦略」「コアコンピタンス」「業績給」「能力主義的人事制度」「プロセスエンジニアリング」などの今を彩る様々な経営手法は、多くの場合、専門家同士の評価や第三者による検証がなされておらず、その正しさを証明できるものはほとんどないとのことであり、多くのダイエット手法と同じように、ブームにはなるものの、テクノロジーを導入しても成功しないことの方が多いだけではなく、逆に、職場から人間性を奪うものであり、生産性や創造性の足を引っ張るという論旨を展開なさっています。
彼女は、コンサルタントとして、多くのコンサルティング案件を手掛けてきましたが、コンサルティング案件として受注するために、「在庫管理システムの構築」「工場におけるプロセスエンジニアリング」などの専門用語を使ったテクノロジーを駆使したように見せかけてはいたけれど、本当に業務改善が起こったとしたら、それは、職場の人間性の回復とコミュニケーションの改善による信頼関係の回復によるものだったと暴露しているのです。
私も、実は、この仕事を始めたのは、学卒後に就職した会計事務所からであり、当初は、経営コンサルタントとして企業の戦略や業務改善を担当していたので、彼女の告白は、本当によくわかります。
私は、大学時代、経営コンサルタントの仕事がかっこいいと思っており、そんな憧れをもって、とあるコンサルタント会社系列の会計事務所に入社した次第です。あこがれていた仕事ですので、それは一生懸命に勉強し、若いながらもがんばってコンサルティングの仕事にいそしんでおりましたが、頑張れば頑張るほど、何かがおかしいことに気づくようになってきました。端的に言うと、どんどん心が冷たくなっていったのです。まさに、新興宗教収益性教、効率性教、強者必勝教のバリバリの信者となり、それと同時に、何か大切なこと、優しさや思いやり、情熱や気高い思いをどんどん失っていったように思えます。
そんな体験から多くの疑問と問題意識を感じ、私は、仕事自体はやりがいがあり、おもしろかったのですが、もっと本質的に大切な人間そのものを応援できる教育研修の業界に転職して現在のキャリアをはぐくんでいくことになりました。
ちなみに、私が所属していた経営コンサルタント会社は、その後、多くのクライアント企業をプロデュースし、有名にして上場まで導き、一世を風靡した時代を築いたのち、あまりの強欲さと強引さと酷薄さによって顧客から見放され、あっという間に倒産してしまいました。
まさに、力によって成長したものは、ふるったその力によって滅びるのです。因果応報の理は、どんな人も組織も逃れることはできないのです。
カレンさんは、経営は科学ではないと言い切っています。科学的に分析し、数値的に把握し、管理すれば経営はうまくいくはずだという経営学の常識は、間違いであり、そんなことを真に受けてまじめに突き進むと、とんでもない隘路にはまってしまうだろうと警告されているのです。
彼女によると、経営とは、人なのです。装置や建物や経営テクノロジーがどんなに立派でも、それ自体がイノベーションを起こすことなどなく、要するに「非理性的で感情的で気まぐれで、クリエイティブで、面白い才能や独創的な才能を持っている人間たち」こそが、未来を開いていくのであって、そのような人間が、理論どおりに動くはずがないと言っています。私もまったくその通りだと思います。
カレンさんは、「大切なことは、モデルや理論などは捨て置いて、みんなで腹を割って話し合うことに尽きる」と主張されています。様々な経営理論や手法が、本当に良いものだったら家族に適応してみることを検討してみると良いとも言っています。例えば、業績考課制度。本気で業績考課制度を家族に導入してみたいと思っている人がいるでしょうか?そんなことを子供たちに適応してまじめに運営したら、きっと子供たちは病気で精神科にかかってしまうだろうと書かれています。本当にその通り、自分の家族にできないことを職場の仲間にやるということは、やっぱりどうかしていると思われても仕方がありませんよね。
本書には、私自身、大いに勇気づけられました。創業以来15年間、はやりの冷たい経営テクニックに流されることなく、元気と勇気と信頼の回復をテーマとして、人とチームが本当にそう生きたい生き方の後押しをすること、真に役に立つ応援をすることをモットーに頑張ってまいりましたが、そのやり方が、決して間違えではなかったといってくれているようです。
この本のメッセージの通り、これからも、コミュニケーションの改善と信頼関係の促進、元気と勇気と信頼の回復をテーマとした、本当に良い研修を展開していきたいと改めて思った次第です。
素敵な本に感謝です!
歯科医院にて、イノベーティングプロジェクトを担当してきました。概要は以下の通りです。
【歯科医院によるイノベーティングプロジェクト概要】
<テーマ>「共有のビジョンを設定し、それに向けて医院全体で問題解決を図る体制を作る。」
<ねらい>
1.強いチームとなるためのポイントを学ぶ。
2.より強いチームとなるための課題を明らかにする。
3.チームとしての共有のビジョンを明確化する。
4.ビジョンを実現するための協力体制とアクションプランを確定する。
<内容>
1.チームの強み
①強いチームの基盤となる自尊心の重要性
②話し合いのルール
③チームの強み
2.チームの課題
①前向きな生き方の重要性
②チームの課題
3.チーム共有のビジョン
4.イノベーティングプロジェクトの発足
イノベーティングプロジェクトとは、弊社の問題解決ミーティングのプログラムです。職場の現状を整理して、課題を抽出し、共有のビジョンを設定すると同時に、目標に向けて一致団結して事に当たるための協力体制を作るといった展開となります。
イノベーティングプロジェクトの特徴は、超前向きな問題解決プログラムであるということでしょうか。通常、問題解決プログラムは、私が感じるには、深刻で重くて暗いというイメージがありますが、本プログラムは、明るく元気で、根本的かつ軽快な雰囲気で進められていきます。
そんな陽気でたくましい風土の中で話し合い、目標に向けた協力体制を作り上げることによって、従来のやり方では思いもつかなかったような新しい可能性を引き出そうとする試みです。今までの延長線上では思いもつかなかったようなまったく新しい可能性とは、それはすなわちミラクルなのです。本プログラムは、まさにミラクル=奇跡を引き出すことに挑戦しようとする試みなのです。
こちらの歯科医院さんは、弊社とずいぶん長くお付き合いをいただいています。もうかれこれ十数年になるのではないでしょうか。その間で、幾度も研修を担当させていただき、チームビルディングやリーダーシップの開発、組織風土の分析や改善に関わらせていただいております。
こんなに大切な様々な事柄を担当させていただいていることは、本当に光栄に思っております。寄せてくださっている深い信頼に心から感謝しております。
実は、当医院は、昨年、自前の病院施設(土地建物)を購入されて、新社屋に移転されました。その建物がとても素敵なのです。純和風の建物であり、病院の通常のイメージとは全く異なった木のぬくもりと落ち着き、温かい雰囲気が漂っているのです。
とても立派で大きな和風建築です。歯科医院さんには見えませんが、立派な歯科医院なのです。
この落ち着いた和風の暖かい雰囲気は、建物だけではなく、内部も同様です。
写真にはありませんが、治療中、特に子供たちが治療を怖がらないように、一台一台の椅子の天井にテレビがつけられていたり、絵や花、水槽、ぬいぐるみが備え付けられていたりなど、さまざまな配慮がなされています。さらに、当医院は、こうした見えている部分だけではなく、治療器具や消毒、水道水などにもきめ細やかな配慮がなされています。たとえば、当医院で使っている水は、すべて殺菌処理されているのです。
立地上、都心から離れていることもあり、引っ越し伴う不安も大きかったのですが、実際に移転してみると、その懸念の多くが杞憂に終わっており、患者さんが減るどころか、むしろより一層増えている状況にあります。患者さんが少ないことではなく、多すぎることが現在の心配の種となっている状況です。
引っ越しから1年経過し、ある程度落ち着きを取り戻した現在で、今回の研修が企画されました。新しい病院で、新たな気持ちで仕事に向き合うための一つのきっかけとしたいという願いから、前向きな問題解決プログラムとしてイノベーティングプロジェクトを実施することになった次第です。
今回の研修には、10名の医院スタッフが参加してくれました。メンバーは、多くは長年にわたってスタッフとして働いている方々であり、私も、十数年にわたってメンバーのみなさんと関わらせていただいております。一人一人がご縁を感じる方々ばかりであり、久しぶりにファミリーに再会したように私は感じております。
メンバーのみなさんは、明るく、元気で、てきぱきとしており、やさしく深い配慮と思いやりのある素敵な方々です。まさにそうしたあり方が建物になったならば、こうなるであろうと思える建物こそが新社屋なのです。
気のおけない仲間であり、率直、かつ正直で、明るく思いやりを持った風土が確立されているので、問題解決の話し合いも、まさに、オープンで、陽気に、しかも本音で根本的な問題にも向き合いながら進んでいきました。
長時間にわたる話し合いの結果、共有できる短期的戦略ヴィジョン=チャレンジングでわくわくする半年後までの目標とそれを実現するための組織=協力体制を確立することができました。
私のスケジュール見積もりに甘いところがあり、予定時間をかなりオーバーするなど、メンバーに負担をかけてしまったことが心残りですが、疲れた顔一つもすることなく快くプログラムを受け入れてくださって、楽しくプログラムに参加してくださったメンバーに心から感謝したいと思います。
完成した目標と管理体制は、今後の毎週のミーティングにて進捗が管理されていくことになりますが、このメンバーでしたら、半年後に見事な成果を出されることだろうと確信しました。
研修が終わって、日本にも、こうした素晴らしい医院があるんだということを、もっと多くの人たちに知ってもらいたい。そんな気持ちになりました。メンバーのみなさん、本当にありがとうございました。設定したヴィジョンに向けて、共にがんばっていきましょう!
先日、弊社の家族のコミュニケーション講座「伝説の車を復元せよ」が、テレビで放映されました。その模様が、youtubeでアップされています。
どうぞご覧下さい。
写真の放映にご協力いただいた皆さん、撮影に参加してくれたFさん、出演の山口さん、きのせさん、応援してくれたあらゆる皆さん、本当にありがとうございました。
おかげさまで、良い映像ができたと思います。
多くの場で、このプログラムが活用されて、多くの子供たちに元気と勇気と信頼を届けられますように!
日本の若者が、単身、韓国や中国に行って、フリーハグに挑戦。
勇気ある挑戦、私は、とても感動しました。この青年に感謝です。
労働組合のコミュニケーション研修を担当してまいりました。概要は以下の通りです。
【労働組合コミュニケーション研修】
<テーマ> 「コミュニケーションとチームビルディング」
<ねらい>
1.コミュニケーションの基盤となる自尊心の重要性を学ぶ。
2.コミュニケーションの重要性を学ぶ。
3.コミュニケーションの改善ポイントを学ぶ。
<内容>
1.自尊心の重要性
・古から伝えられてきた自尊心の重要性
・現代においても重要なテーマである自尊心
・自尊心を巡る誤解
・自尊心の日本における現状
・欠点を責めるのではなく長所を伸ばそう
・できないという呪いにとらわれてはいけない
・人の可能性は想像をはるかに超えて大きい、自尊心をもって堂々と生きよう。
2.コミュニケーションの重要性
・コミュニケーションは、信頼関係をはぐくむ。
・信頼関係は、チームの偉大な力と可能性を引き出す。
3.コミュニケーションの改善ポイント
・機関車型のチームと新幹線型のチーム
・新幹線型のチームとなるために必要なコミュニケーション
・コミュニケーションスキルは、技術ではなく生き方
・自尊心、勇気、あきらめない心
会場は、都内。約70名のメンバーのみなさんで実施いたしました。
本研修は、不思議なご縁をもとに開催に至った研修です。
実は、私は、30年くらい前に、とある研修プログラムの講師養成のビデオに出演しているのですが、今回の研修の主催のリーダーである執行委員長が、そのビデオをご覧になられて、しっかりと覚えていてくださっていたのです。そんなご縁もあり、いろんな話し合いのプロセスを経てまとまった企画でした。
執行委員長は、哲学の通った人間性を大切にするリーダーです。小賢しいテクニックを嫌い、正直で飾らないコミュニケーション、思いやりや人間性を大切にしたポリシーを大切にされていることが、よくわかります。
リーダーとして、コミュニケーションや人間性を大切にするスタンスを取ることは、そんなに簡単なことではありません。どちらかと言えば、冷たく、頭がよく、アメとムチで厳格に部下たちをコントロールできる人の方が、高い評価を受ける時代です。人間性を前面に押し出したからと言って、それに応えてくれる保証なんかありません。忍耐強く、人の情熱に本当の火がつくことを待たなければなりません。その間、効率一辺倒の現代の風潮のプレッシャーや攻撃にさらされることもあるでしょう。そんなリスクに立ち向かってでも、自分の信じる大切なもの、思いやりや信頼と言った哲学を揺るがせずに貫く必要があるのですから。
委員長は、まさに、そんな人間性のリーダーです。だからこそ、弊社のようなコンセプトに共感して、大切な研修の場を担当させていただけるのです。大変光栄なことだと感謝しております。
それから、この研修のご縁を取り持ってくれた友人のTさん。なんと、私と誕生日が同じなのです。同じ年の生まれと言うだけではなく、月も日も同じなのです!私も長く人生生きておりますが、そこまで誕生日が一致する人と出会ったのは初めて。顔も体つきも性格も何もかも全然違う2人ですが、なぜか何となく共通するものを感じるのは、運命なのでしょうか?本当に不思議なご縁の巡り会わせに感謝です。
さて、研修ですが、午後1時半から5時までと言う短い時間でしたが、組合リーダーのみなさんのものすごいパワーと個性と明るさで、本当に楽しく、エネルギッシュで、暖かい雰囲気の、知的で元気な場となりました。
70名の参加者は、男性であり、全国の組織のリーダーのみなさんです。要するに、親分ばかりであり、研修開始当初は、親分たちの男っぽさと迫力でむんむんしており、気の小さい私は、少々圧倒されて、いったいどうなることかと少々心配しておりました。
しかし、いったん対話が起こり、仲間として活動が始まると、快くメンバーを受け入れ、陽気に課題に立ち向かい、見事に問題を解決してくれました。
今回のプログラムは、そうそうたるメンバーが集まるとのことだったので、弊社として、最も難易度の高い実習を用意しており、今回のように即席のチームで事に当たった場合、クリアーできる可能性は、ほとんど少なく、成功することはミラクルに近いものがあったのですが、実際の結果は、ほぼ全チームが成功であり、まさにミラクルが起こりました。
体験学習の場合は、実習がうまくできようができまいが、それは大した問題ではなく、成功であれ失敗であれ、体験から学ぶことが大切で、できたできないはとやかく言うべきではないのですが、今回のメンバーの皆さんの見事な結果には、本当にびっくりしました。
問題解決型の実習であり、それを解決するためには、きちんと話すこと、しっかりと聴くことと言った基本はもちろん、アイデアを生かす、問題解決のための工夫をする、戦略的な見地に立つ、へこたれない、あきらめない、挑戦する、などの高度なスキルが必要であり、今回のメンバーのみなさんは、そうした素晴らしいスキルを兼ね備えた方々なんだということがよくわかります。
結果的には、明るく陽気で力のある、個性的でクールで情熱的で、厳く顔に似合わず優しく温かい、楽しく一致団結したよきチームだなぁと実感した次第です。
こうした、素敵な場を共にできましたこと、本当に光栄に思っております。ご協力いただいたスタッフのみなさん、共に学んだメンバーのみなさん、本当にありがとうございました。今後とも、ともに頑張ろうではありませんか!
自尊心という言葉を巡って、とても多くの誤解があるように思えます。
さまざまな勘違いや思い込みによって、「自尊心」や「気高く生きる」、「矜持」といった、本来美徳とされるべき価値が傷つけられているように思えます。
「自尊心」と「傲慢さや自惚れ」は違います。
自尊心は、自分を信じ、愛して、自分らしく輝いて生きるということ。傲慢さや自惚れは、自分の本質を信じられないがゆえに、自分を嫌い、うそやはったりでごまかして生きるということ。両者は、まったく異なった意味を持っているにもかかわらず、日本においては、たいていの場合、同じものと信じ込まれており、自尊心の重要な価値にあやをつけられているように思えます。
そうした誤解によって、日本では、「自分を大切にすること」「自分の人生を祝福すること」「自分の大きな可能性を信じること」、そんな当たり前のことができなくなってしまっているのではないでしょうか。自分を愛することが、あたかもタブーであるかのように感じ、自分を大切にすることは罪であるという呪縛にかかって不自由な人生を強いられている人たちが多いのではないでしょうか。
自尊心は、努力をして育むような能力ではありません。自然に生得的に与えられている基盤であって、誰もが根底に持っている美徳です。自尊心がないように感じるのは、生まれつきそれが少ないからではなく、ネガティブな思い込みや有害な信念が阻害しているからです。太陽がないのではなく、厚い雲が光を遮っているから暗く感じるのです。
ここでは、そうした、多くの誤解に光を当てていきたいと思います。
1.「自分を愛する」ことと「自己愛」は違う
自己愛性パーソナリティ障害と言う専門用語もあり、自分を愛することは、いけないことなんだという信念を持っている人も多いと思いますが、それは、誤解です。
自己愛性パーソナリティ障害とは、ありのままの自分を愛することができない病です。長所もあれば欠点もあり、おっちょこちょいでカッコ悪いところも有り、人より劣っているところもある、そんな等身大の自分自身に満足できずに、一切の欠点と劣等性を否定し、自分にはそんなものはないと思い込み、優れて特別で力ある無敵の自分という幻想を信じ執着する病であって、決して自己信頼からくるものではありません。
ナルシスが愛したものは、きらきらする水面に映った外面であって、ありのままの全体ではありません。手を差し伸べれば消えてしまう影であって、実体ではありません。
自己愛が愛しているのは幻想であって現実ではないのです。
一方で、自分を愛するということは、ありのままの自分を愛するということ、等身大の人間としての自分を受け入れるということ、発展途上の自分を信じるということです。
ありのままの自分を愛しているので、欠点がばれないように強がる必要もなければ、自分の本当の姿を(醜いと思っていないので)隠してうそをつく必要もありません。
自分を愛することができる人は、無理して背伸びする必要もなければ、人に良く見てもらおうと意気込んで肩に力が入ることもありません。
明るく正直でオープンであり、そこには暗さや病が付け入るすきはありません。
「自分を愛する」ということには、まったく病理や陰はありません。むしろ、自分らしく力強く生きていくうえでの重要な基盤の一つ、美徳の一つとなると言えましょう。
2.「こだわり」と「頑固さ」は違う
こだわりと頑固さは、違います。
頑固さは、何につけ、背景の動機には恐怖があります。頑固な人は、本音でそうしたいというよりは、そうしないと怖いからそれに執着するのです。
「そうしないと欠乏が満たされない」「そうしないと自分を保てない」「そうしないと苦痛に耐えられない」・・・、焼けつくような渇望や危機意識があるので、良きにつけ悪しきにつけ、たいていの場合その欲求に逆らうことはできません。他人に迷惑がかかろうが、どんなに説得されようが、明らかな問題があろうが、そうせざるを得ないのです。
一方で、こだわりは、そうしないと怖いからするのではなく、シンプルにそうしたいからするのです。自分が愛し、挑戦したいと願っていることだからこそ、情熱的に集中力をもってそれにこだわるのです。
自分のハートの奥から湧き起ってくる情熱であり、たいていの場合、その欲求は気高く、美しく、真理をついており、他人に賛同はされるものではないかもしれませんが、他人を傷つけるものであることは、滅多にありません。
こだわりの人は、決してぶれません。得だからと言ってすべきでないことに手を出すこともなければ、損だからと言ってすべきことから逃げたりはしません。
こだわりの人は、決してあきらめません。自分の魂からの欲求であり、使命感があるので、例え艱難辛苦が立ちはだかっても、簡単にあきらめるわけにはいかないのです。
頑固であってはいけませんが、こだわりを持つべきです。そもそも、自分が大好きで、心から愛するものを、そんなに簡単にあきらめてはいけません。それが正しい道であれば、必ず道は開けてくる。チャンスとピンチは準備が整った人にやってくるもの。だからどんなに高い壁でも、乗り越えられない壁などないのですから。
3.「謙虚さ」と「自虐」は違う
謙虚さは、自分が尊く大切だからこそ、相手も尊び、敬う心を言います。
自虐は、一見腰を低くする謙譲さと勘違いされることがありますが、それは卑屈さであって、決して謙虚さではありません。
それは、自分を嫌うこと、自分を卑下することであって、決して自分を尊いとは思っていないからです。
人は、自分にするように人にするものです。自分を尊いとは思えない人は、本当のところ他人を尊いとは思えません。そのふりはできますが、本音では、そうは決して思えないのです。
心理実験で、人の不幸を喜ぶ人にはどんな特徴があるのかを調べた実験がありまが、その結果わかったことは、人の不幸を快感に感じる人は、一様に自尊心が低かったということがわかりました。
自尊感情が高い人たちは、人が苦しみ悲しんでいる姿を痛みと感じ、共感的、同情的でしたが、自尊心が低い人たちは、それを見て、喜んだのです。
自虐や自己卑下は、決して美徳ではありません。むしろ、慎むべき性向であって、その傾向が強まれば強まるほど、依存症、自傷行為、いじめ、虐待、ストーキング、など様々な問題や犯罪につながっていくでしょう。
4.「自分にまける」のは「弱い」からではない
自分に負けるのは、弱いからではありません。
自分に負けるのは、自分と戦うからです。
自分の一部を嫌悪し、矯正する戦いを挑み、勝とうとするから負けるのです。
戦いの当初は、作戦や対策を練り、一生懸命に頑張って、いくつかの勝利を得られるかもしれませんが、永遠に勝ち続けることなんかできません。戦いを続ける限り、いつかは敗北の憂き目を見るでしょう。
「完璧な自分」になれないことが問題なのではなく、「完璧な自分」になろうとすることが問題なのです。
「非の打ちどころがない自分」「無敵な自分」「一切の欠点がない自分」・・・
それは、たいていの場合、無理難題であって、強引であって、優しくありません。
それは、たいていの場合、頭ごなしであって、専制的であって、民主的ではありません。
そんな不自然な目標や理想を信じ込んで、本気でそうあろうと取り組んでも、ハートと体は、その欺瞞に気づいており、永遠に従い続けてはくれません。ハートや体は、正直であり、思考の狂気につきあうつもりなんか無いのです。
失敗は、成功へのステップであって、排除すべき無駄ではありません。
ネガティブな思考は、思いついて当たり前であり、退治すべき敵ではありません。
ネガティブな感情は、人として当たり前の感情であり、けがらわしい罪ではありません。
誘惑に負けるのは、誘惑に勝てない弱い人だからなのではなく、それに勝ち続けようという無謀な戦いに疲れ、絶望し、やけくそになったからであって、むしろ自暴自棄の絶望にはまり込んでしまうほどの強い意志で自己否定の努力を続けた強い人こそが、最も誘惑に負けやすい人なのです。
内面に、強い分離感と葛藤と痛みを抱える限り、決して誘惑には勝てません、誘惑に勝てるのは、我慢強いからではなく、誘惑に魅力を感じない時、その必要を感じない時です。
十分に満足を感じているとき、十分に幸せを感じているとき、内面が平和である時、愛し愛されているときこそ、誘惑の甘い罠を撃退できるのです
自分を不自然な物差しで裁き、窮屈な型枠に押し込めようとするのではなく、ありのままの自分を受け入れ、大切にするべきです。
自分を大切にすることは、自分に甘いことではありません。自分自身のリーダーとして、自分の内面に責任を持つこと、むしろ、時には自分に厳しくあることこそ自分を大切にすることなんだろうといえましょう。
よきリーダーに必要なことは、フォロアーを受け入れ、理解し、愛すること。自分の人生のリーダーとして自分らしく輝いて生きるために必要なことは、まさに、自分をいつくしみ、大切にすることなのです。
5.「自分を信じる」ための条件なんかいらない
「○○をやり遂げたから自分を信じられる」「○○ができるから自分を信じられる」「○○ができれば自分を信じられる」など、自分を信じるために条件が必要であるかのうような思い込みがありますが、それは誤解です。
信じられる自分になる必要なんかありません。すでに十分に信頼に値する自分なのですから。信頼に値しないのは、自分自身なのではなく、自分を裁くものさしです。
人を裁く評価基準にいったい何の権威があるのでしょうか?
いったい何の権威があって、良いだの悪いだのと評価を下せるのでしょうか?
評価基準に従ったならば、本当によき人生を歩めるのでしょうか?
たいていの場合、人を測る物差しは、個人のニーズではなく、社会のニーズ、権力者のニーズであり、人が人らしく力強く生きることを目的としたルールと言うよりは、人を支配、コントロールするためのテクノロジーです。
そんなものに個人の人生を支配されてはいけません。人は、他の権威に従うのではなく、自分のこころざしに従うべきなのです。自分を愛するために、自分を変える必要なんかありません。自分を信じるための条件なんかありません。そのままで十分に尊く、かけがえのない大切な存在なのです。
「あなたは、この世に望まれてきた大切な人。
あなたがなんであり、どこの国の人であろうと、
金持ちの人であろうと、貧乏であろうと、それは問題ありません。
あなたは、同じ神様がおつくりになった、同じ神様のこどもです。」 マザーテレサ
マザーテレサの言葉通り、人の存在は、尊くかけがえのないものだといえましょう。
そんな存在を大切にすることの、どこがいけないのでしょうか?
私たちは、難しいことを考える前に、まずは肩の力を抜いて、自分自身を信じ、大切にするべきなのではないでしょうか。
冷たく攻撃的な皮肉屋たちの言葉に惑わされてはいけません。毒のある信念をうのみにして勘違いの人生を生きるべきではありません。
堂々と自分を大切にし、愛し、信じ、力強く生きようではありませんか。
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今日は、奥さんの第○○回目の誕生日です。
結婚したのが、奥さんが20歳の時なので、一緒になってから、早くも○○年(危なく書くところでした)です。本当に早いものです。
共に暮らし始めてから、いろんなことがありまして、いろんな苦労をかけたりかけられたり、けんかをしたり仲良くなったり、
ほんといろいろありましたが、今は、私にとっては、かけがえのない最高のパートナーです。
最近は、特に業績が不安定だったり、出費が多かったりなど、経営のかじ取りが大変だったと思います。そんな中、明るく元気に、文句の一つも言わずに楽しそうに仕事をし、生きている姿に勇気づけられています。
とても感謝です!
今日は、ささやかな誕生日のお祝いをしようと思います。
はっぴバースデー!