後悔と反省は違う。似て非なるものである。
後悔の背景には恐怖と怒り、反省の背景には信頼と希望がある。
後悔は、自分が失敗したことを受け入れてない。自分に欠点や至らない点があることを他人に暴露されることが恐ろしいのだ。
「役に立つ人間、すごい人間、完璧な人間」でなければ他人に認められない、又は、存在を許されないとかたくなに恐れており、使える完全無欠な人間であるようにふるまい、他者にも自分をそう見てもらえるように操作的に関わる。
しかし、すごい自分を演じている自分が実はすごくないことを一番よく知っているのは自分だ。そして、自分の中のみじめで役立たずで不完全で醜いと思い込んでいる自分を隠し、憎み、恥じている。
だから、自分の至らない点を受け入れることができない、と同時に、起こった出来事をありのままに受け入れることができない。それが起こったのは自分のせいではない、他人、環境、社会のせいであって自分の落ち度ではない。そもそもこんなことは起こるべきじゃなかった。自分は不条理な被害を受ける被害者であり、言われないそしりを受ける弱者である。と思い込み、自己防衛と復讐に奮闘努力するのだ。
結果、後悔には偽善、欺瞞によって塗り固められた自画像を固く死守することにこだわり、一切の変化や成長は封じ込められてしまう。暗く閉ざされた巣穴に引きこもり、光が差し込むことはない。
反省は、後悔とは違う、似て非なるものである。
後悔は痛みであり、反省は癒しである。
反省は、痛みを伴うどのような体験であっても、決して目をそらすことなくありのままに見ようとする。どのような現実であれ、現実を肯定し、そのままに受け止めようとする。良くも悪くも起こる出来事は、起こるべくして起こったことであり、それ以上でもそれ以下でもない寸分も狂いもないものであると受け止めている。
出来事に対して、不平や文句を言わずに受け止めるには信念と覚悟がいる。
自己防衛と言い訳に勤しむ自分を慎み、自分の成長の可能性を信じて未知に挑戦し、変化し成長しようとする覚悟。
出来事の全ては天の采配であって、天が自分に与えてくれた良き教材だと信じる信念だ。
それはシンプルなものであり決して理解が難しい考え方ではないが、体現することは簡単ではない。その高い壁を乗り越えられる人はそう多くはない。しかし、その大きな分水嶺を乗り越えた人にこそ癒しはやってくる。
反省は、自分に痛みを与えた出来事、人、環境を許し、同時に、そのようなみじめな体験をした自分自身をも許す。自他のコインの両面を許すのだ。
許されたものは、ありのままの真実を開示する。狭い了見のエゴで捻じ曲げて解釈していた時には分かりようのなかった秘密が打ち明けられるのだ。
それは、かたくなに隠し通されてきた痛み、怯え、罪悪感、恥、封じ込められていたさまざまな悪霊が解放され、許され、癒されていくということ。
それは、まったく知らなかった偉大なる仕組みや法則や可能性が開示され、自分の立場や視野の新しいリアリティ、次元が拡大するということ。
それは、自分を縛り付けていた呪縛から解放されて、自分らしい成長を喜ぶということなのだ。
結果、反省は、ありのままの自分を見つめ、反省し、どうすればよいかを考え、挑戦していく。
光は傷口から差し込んでくる。
反省は、内面に光をもたらす。内面に真実の光が差し込むことによって、人の痛みや苦悩がやさしく温かく癒されていくことになる。
希望は絶望の後にやってくる。
反省は、絶望の痛みがあったからこそ、それを乗り越えた人にやってくる希望に満たされる。
それは、歓喜であり、全く新しい自分の偉大なる可能性である。
後悔してはいけないということではない。時に膝を抱えて休むことも必要である。しかし、いつまでも自己憐憫に浸ることは慎まなければならない。どんなに嘆いても事態は改善しないからである。
ひと時休んだら、反省に取り組まなければならない。
見ても見ず、聞いても聞かず、理解しないのではなく、しっかりと見て聞いて理解しなければならない。
逃げてばかりでなく踵を返して前を向かなければならない。
立ち上がって戦士となってドラゴンに向き合わなければならない。
なぜならば、あなたは勇者だからだ。
あなたは、魂を持った偉大なる勇者であって、決して卑屈な負け犬ではない。
あなたには、今の未熟なありかたから脱皮し、成長する宿命がある。
いつまでも大きな芋虫ではいけない。
あなたは、蝶となって自由に大空を舞うことが使命なのだ。
決して忘れてはいけない、あなたは今あなたが思っているようなちっぽけな存在ではない。
あなたは、成長を使命とする魂を持ったたぐいまれなる個性を持った魅力的で力ある勇者なのだ。
あなたには、あなたと同じように苦しんでいる人を助ける使命があることを忘れてはいけない。
いまこそ、あなたの魂、その使命に耳を傾けるとき。