月別アーカイブ: 2005年10月

リッツカールトンが大切にする「サービスを越える瞬間」を読みました

“リッツカールトンが大切にする「サービスを超える瞬間」”(高野登 著 かんき出版)を読みました。
リッツカールトンは、世界的に高い評価を常に獲得しているホテルであり、時に神秘的とまで言われる顧客満足を提供していると言われています。
本書は、リッツカールトン日本支社長を務める高野登さんによって書かれたものであり、そのすばらしさの秘訣が、わかりやすい文書で惜しみなく書かれており、新しい時代の経営哲学、マネジメントスタイル、会社のあり方などを学ぶ上で大変参考になる本だと思いました。
今回は、特に私が参考になった部分を抜粋して、ご紹介したいと思います。

○従業員満足から始める経営哲学
リッツカールトンでは、従業員を”内部顧客”と呼び、お客様としてお互いを理解し、尊敬してもてなすと言ったサービス哲学があるとのことです。
ちなみに、”リッツカールトンで学んだ「仕事でいちばん大事なこと」”(林田正光 あさ出版)によると、年に数回、全世界のリッツカールトンで「従業員満足度調査」が実施されるとのこと、無記名のアンケートで、毎回変わる80から90項目の設問に答えることになっており、従業員は正直に心境を回答していきます。アンケート結果は、すべてアメリカの本社に送られて、ホテルごとやセクションごとの満足度一覧が明らかになり、その結果によって、セクションマネージャーが、コミュニケーションやリーダーシップの問題を指摘され、改善命令を受けることになるそうです。
弊社でも、従業員満足が新しい経営哲学の骨子のひとつと考えておりますが、その点、リッツカールトンはそれをすでに実践し、定着させていることになり、進化した会社のすばらしい事例といえましょう。

○コミュニケーションからすべてが始まる
リッツカールトンでは、「紳士淑女にお仕えする我々も紳士淑女です」と言うモットーがあり、お客様と同じ目線で、積極的にコミュニケーションをとっていこうとする風土が根付いているとのこと、通常は、「失礼にはならないだろうか」などの懸念で、自分から進んでお客様に声を掛けることが苦手とする人が多いのですが、そのようなことでは、お客様との間に壁を作ってしまい、逆にお客様からも「こんなことまで頼んでもいいのだろうか」と言う遠慮を生んでしまうので、安心感の持てる親しさで、かといってなれなれしくなく、程よい距離感の中で声をかけ、信頼関係を築いていけるように心がけているとのことです。
このような人間関係の機微、かかわりを持つときにどうしても生じる懸念を上手に乗り越えていくためのスキルは貴重であり、簡単そうに見えて、とても精妙で繊細な気持ちを取り扱っていくと言った高度なスキルでもあると思います。また、出会いの瞬間の出来事なので、あまり意識的に丁寧には取り扱われることは一般的にはありませんが、この瞬間を雑で乱暴に過ごしたり、背を向けてさりげなく避けていったりすることと、リッツカールトンのようにこの難しさに直面し、逃げずに丁寧に挑戦していくこととでは、やはりお客さんの感じる信頼感はまったく違ってくるでしょう。このスキルは、目立たなく瞬間的であるがゆえに、とっても大切なことであり、今後、他のあらゆるサービス業の差別化につながっていく重要な要素となっていくと思います。

○チームワークの良さが最高のサービスをつくる
コミュニケーションが大事なのは、お客様に対してだけではなく、従業員同士のコミュニケーションがサービスに大きく影響するとのこと、従業員同士の小さな心配りが、「神秘的」とも呼ばれるリッツカールトンのサービスを生み出すとのことです。

○誇りと喜びを持てば意欲が湧く
従業員とお客様の心温まる出来事を「ストーリー・オブ・エクセレンス(別名 ワオ・ストーリー)」と称して週に二回朝礼の中で全従業員に紹介しているそうです。
このような逸話を配信することを通して、リッツカールトンの求めるサービスのあり方を教育すると同時に、従業員に誇りと喜びを感じてもらうことを働きかけているとのことです。
従業員の仕事ぶりを尊敬し、称えるからこそ本当の意欲が湧いて来るのであり、従業員の本気は、きっと最高のサービスをもたらすことにつながるのでしょう。

本には、まだまだすばらしいヒントが書かれているのですが、今後またチャンスを見てご紹介していきたいと思います。
リッツカールトンは、間違いなく進化した新しい時代の企業モデルだと思います。
今後も注目していきたいと思います。

ムスタンで起こした近藤享さんの奇跡

10月5日、日本テレビ「笑ってこらえて」で、近藤享さんとおっしゃるすばらしい生き方をされている方の活躍ぶりが放送されていました。私自身とても勇気をもらったので、ご紹介します。

近藤さんは、1921年新潟県の生まれで、ずっと農業に携わってこられたのですが、70歳のときに、「白い米を腹一杯食べさせてやりたい」という志のもと、ネパールの奥地ムスタンに単身乗り込み、何年もの失敗の後、不可能と言われた不毛の土地での稲作に成功し、貧しかったムスタンの人々にそのすばらしい農業技術と成果を提供しています。

ムスタンは、ヒマラヤのふもと、標高約3,000mに位置するところで、冬はマイナス40度になり、台風なみの強風が吹き付けます。また、雨はほとんど降らず、水は、ヒマラヤからの雪解け水に頼る状況で、ほとんど木がなく、植物もまばらにしか生えていません。
ムスタンに暮らす人々は麦、粟、蕎麦、わずかに生えている草の根や茎を食べる貧しい生活を強いられており、厳しい環境のもと、ネパール政府や各国援助機関もなんとも手の打ちようがなく、半ば見放されてきた状況にあったとのことです。

そんな中、貧しいムスタンの人たちにおいしい米を食べさせてあげたいと願い、反対を押し切って、なんと70歳という年齢で単身乗り込み、稲作に挑戦したのです。
70歳です。車も入り込めない不毛の山岳地帯の秘境で、まったく不可能と思われていた稲作に挑戦すること自体、大変な勇気が必要であるにもかかわらず、70歳にして立ち、大変な労力を承知の上でそのような不可能に挑戦するということは、なんという大胆な挑戦でしょうか。私は、いたく感動してしまいました。

いずれにしても近藤さんは、ムスタンに赴き、単身稲作に挑戦します。しかし、雪解け水の冷たさ、不毛の大地、強風や過酷な寒さなどで、失敗が続き、3年間は、努力が実らず、稲穂を実らせることが出来なかったそうです。しかし、あきらめることなく作業を続けていく近藤さんの努力を見て心を動かされたムスタンの村人の協力が加わったり、ビニールハウスなどの数々の工夫を凝らすことなどによって、4年目にしてようやく奇跡が起こったとのことです。
それ以来、毎年ムスタンでは、農作物に恵まれるようになり、ムスタンの村人に喜びと笑顔をもたらしているとのことです。
近藤さん(と国際NGOボランディア団体”MDSA”)のムスタンへの支援は、農業指導だけに限らず、学校や病院、橋の建築などの地域に密着した援助を行い、現地の人々からは、心から慕われ愛されている様子が放送されていました。

近藤さんの生き方は、凄みがあります。強烈な意思と努力と勇気の必要な偉業の割には、自然で飄々としており、偉業を自慢することなく謙虚で質素に暮らし、現地の人たちとともに本当に楽しそうに生き生きと生活し、本当にうれしそうに笑っているその笑顔に私は参ってしまいました。

このようなすばらしい人がいること自体が、私には奇跡のように思えるし、とっても大きな勇気をくれるようです。私もこんな美しい生き方がしたいなぁと、改めて願ったしだいです。

衣笠に来てます

昨日から、妻の実家である横須賀市衣笠に来ています。

衣笠には、最近「のぼり雲」と言う日帰りの温泉施設ができまして、私は、ここが大のお気に入りなのです。

衣笠に来ています_e0020993_8544629.jpg

 

 

 

施設内は、結構広く、食事所、休憩所、売店だけでなく、理髪店まであります。

衣笠に来ています_e0020993_9211922.jpg

 

衣笠に来ています_e0020993_858471.jpg

 

 

 

 

浴槽は、写真撮影が禁止されているのでご紹介できませんが、泉質は、炭酸水素塩泉で、少し緑色がかった透明できれいなお湯です。アルカリ泉で「美人の湯」とも言われており、ぬるぬるしていかにも効きそうです。

衣笠に来ています_e0020993_859789.jpg

 

 

 

私は、ここで、サウナ⇒水風呂⇒温泉⇒休憩を4~5回繰り返すのです。そうすると、何ともいえない至福感に包まれるのです。疲れが取れて、ちょっとだけ若返ったような気がするのです。私の健康の秘訣なのです。

 衣笠は、私が大学生の頃、学習塾で講師としてアルバイトをしたところです。
 当時、私は、あまり自慢のできる生き方をしておらず、先生として人前に立つなど思いもよらなかったことだったのですが、時給の良い仕事を探していたので、背に腹は変えられず応募し、たまたま採用されたのでした。
 当時の私は、18歳の時(塾の講師になる1年前)にガス爆発事故に合い、両手上腕部が大やけどをして、その傷跡が痛々しく、今でこそずいぶん見やすくはなりましたが、当時は、ちょっとびっくりするような変色や傷跡が残っていました。ですから、できればそのような傷を人前にはさらしたくなかったのですが、お金のために背に腹は変えられず、講師のアルバイトを始めたしだいです。
 演壇に立つ前は、中学生である生徒たちが、どうこの傷や私を受け止めるのか分からず、とっても心配していたのですが、ふたをあけると、傷跡に対しては何の反応もせず、むしろ自信なさげな私に共感してくれたのでしょうか、数回教えていくと心から私を受け入れてくれるようになってきました。
 当時の衣笠近辺の中学生は悪ガキが多く、非行問題が良く取りざたされていましたが、私自身がちょっと前まで問題の多い非行少年だったので、なんとなく子供たちが共鳴しやすかったのかもしれません。

 当時私は、こんな私のような者が30名以上の子供たちを前に授業ができることが全く奇跡のように思っていました。正直大怪我のダメージから心が回復できていなかったのです。
しかし、仕事を続けていくうちに、子供たちとの関わりあいを通して、次第に私の中の絶望がときほぐれていき、隠してはいたけれども暗かった心の内面にわずかな光が差し込んできたことを覚えています。
 私は、子供たちに英語を教えていたのですが、逆に、子供たちから何か途方もないほど大切なことを学んだような気がしています。今の私がこのような仕事をして楽しく暮らせているのも、当時の子供たちのおかげであると思います。
 当時の子供たちも今はもう30代になっています。どうしているだろう、みんな?みんなのおかげで今も似たような仕事をして人生を謳歌しています。本当にありがとう!そしてありがとう温泉「のぼり雲」、ありがとう衣笠!