月別アーカイブ: 2023年11月

アトランティックプロジェクト紹介動画

 当社のホームページ上に、アトランティックプロジェクトに関する紹介動画をアップしました。

 以前は、体験説明会を開いて、ご体験いただきながらプログラムの詳細をご案内するイベントがあったのですが、コロナをきっかけとして休止しております。

 コロナ禍も随分収まってきたので、そろそろ再開しなければならないと思いながらも、忙しさにかまけてなかなか思い通りにはなりません。

 その代わりと言ってはなんですが、ご案内用の動画を作成し、サイト上でご覧いただけるようにしました。

新入社員研修「アトランティックプロジェクト」紹介動画

経営シミュレーション実習「アトランティックプロジェクト」紹介動画

実習をご体験いただくことが一番プログラムをご理解いただく良い方法ではありますが、動画による解説でもずいぶん雰囲気はご理解いただけるのではないかと思います。

 自画自賛ではありますが、アトランティックプロジェクトは、人を癒し、勇気づけるとても良いプログラムだと思っております。多くの企業さんの教育研修のお役に立てると信じております。当動画が、少しでも多くの皆さんとのご縁につながりますように!

 

せっかくですので、本ブログでも、動画自体をアップします。

新入社員研修プログラム「アトランティックプロジェクト」ご案内の動画

・プログラムの概要のご案内_体験型新入社員研修プログラム「アトランティックプロジェクト」

 

・プロジェクト編のご案内_体験型新入社員研修プログラム「アトランティックプロジェクト」

 

・キャリアヴィジョン編のご案内_体験型新入社員研修プログラム「アトランティックプロジェクト」

 

・起業編のご案内_体験型新入社員研修プログラム「アトランティックプロジェクト」

 

経営シミュレーション実習「アトランティックプロジェクト」ご案内の動画

 

義母の百箇日にちなんで

 昨日は、亡くなられた妻の母親、私にとっての義母の百箇日の法事の日でした。法要を執り行ってくださったのは、横須賀の長願寺のご住職、海法龍師でした。

 長願寺は、妻の実家のお墓をお世話頂いている浄土真宗のお寺であり、ご住職は、以前から妻の実家の法事など、何かととてもお世話になっている方です。

 今年の7月末に義母が亡くなった時にも、心を込めたご葬儀を執り行ってくださって、その後、初七日、四十九日を経て、昨日百箇日の法要と、一連の法要を営んでいただきました。

 昨日も、いつも通り、長願寺の厳粛で精妙であたたかく優しい雰囲気の中、お経をあげてくださって、故人を偲び、供養することができました。本当にありがたいことでした。

 ご住職とは、妻のおばあちゃんが亡くなった時、いまから23年前、2001年からのご縁であり、今年の義母のご葬儀からずいぶん深いお話もさせていただき、私の会社にも関心を持ってくださって、いろいろとご意見ご感想を頂いて勇気づけていただいております。

 昨日の百箇日においても、読経の後の講和で、亡くなった義母に多大なお世話になった当社ヴィーナスアソシエイションにちなんだお話をしてくださり、いたく感じ入った次第です。

 ご住職は、当社の理念である「元気と勇気と信頼の回復」ということは、教典的にも的を得ているとおっしゃってくださったのです。

 せっかくのお話でしたので、当ブログでもご紹介したいと思います。ただ、あくまでも私の解釈であり、ご住職のお話そのものではないことをご了承いただきたいと思います。私が覚えている範囲内で整理しており、そこには勘違いや誤解があると思います。間違えたところもあるかもしれません、それはあくまでも私の解釈の間違い、誤解であります。その点ご了解いただければ幸いです。

 ご住職は、浄土真宗の経典である無量寿経(むりょうじゅきょう)というお経の中では、元気と勇気と信頼の回復と言うことは、本来の自分に帰れ、浄土に帰れということを意味しており、的を得ているとおっしゃってくださったのです。

 無量寿の無量とははかり知れないということ、無限であるという意味であり、寿の意味は、命、ですから、無量寿経の意味は「無限である命の教え」ということになります。

 経典の中に、「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」という一文があります。文中の「如来」はいわゆる如来さまのことです。如来さまは高い叡智と慈悲と徳を持たれた存在で、偏在されている存在ですが、象徴としての仏像で表現され、如来と言う名前でお呼びしているとのことです。

 しかし、「如来」と言う言葉には「のごとくが来る」と言う意味もあるとのこと、いわゆる「気高い叡智と慈悲と徳を持たれた存在のごとくが(あなたに)来る」という解釈もできるということ。いわゆる私たちにも如来としての可能性があって、いつかそうなれるという約束を意味する言葉でもあるのだと解釈できるということです。言い換えれば、本来の自分の本質こそが如来と言う存在なのだともいえるのだろうと思います。

 ですからその意味を踏まえると「帰命無量寿如来」とは、「無限なる命である本来の自分へと立ち返れ」と理解することもできるとのこと。まさに、当社の理念である元気と勇気と信頼の回復に通じるものがあるので、当社の理念は決して間違えていないとおっしゃっていただけました。とてもありがたいお言葉を頂けました。とてもありがたく、光栄なことだと感じ入った次第です。

 また、われわれを取り巻く世界には、娑婆と浄土とがあるとのこと、娑婆は、愛が不足している恐怖の強い世界であり、人と人とがばらばらであり、人は他人と距離を置き、うそや隠し事をして都合の良いように他人を操作し支配し、他から力を奪う世界であり、苦しみから逃れられない耐え忍ぶ世界であるとのこと。

 一方で、浄土とは、母のおなかの中にいた時のような絶対の安心と信頼のある世界であり、みな仲良く親しい兄弟として受け入れ、正直さを通して理解し共感しあい、協力し合って幸せな社会をつくっていける世界であり、関係性を通して限りない命と力と光を引き出す、光輝く世界であるとのこと。

 現代は、五濁悪(ごじょくあく)と呼ばれる汚れと濁りのある末法の世界であり、苦しみの世界であるけれども、一人一人がしっかりと学び成長することによって、この世を浄土としていかなければならないとも仰っていただきました。信頼の回復と言うことは、まさに、浄土の回復につながると言うことなのだとも仰っていただきました。とても光栄なことです。

 ちなみに「帰命無量寿如来」の後には「南無不可思議光(なむふかしぎこう)」と言う言葉が続きます。南無は、帰依するという意味、信じ拠り所とするという意味です。不可思議とは思議、すなわち思考や考えでは及ぶことができないという意味です。ですから、意訳すると「ちっぽけな思考では及びもつかない偉大なる光を信じ、拠り所とする」と言う意味になると思います。

 偉大なる光と言うものは存在しているが、それは思考では認識することも理解することもできない。だから、思考を主として生きている私たちの煩悩だらけのエゴでは及びもつかないし、ましてやそれに気に入ってもらおうとか、自分に取り込もうとか、術を使って利用しようとか、一切の操作やコントロールはできない存在であり、できることは、ただひたすら帰依すること、信じ、拠り所とすること、すなわちせわしなく自己防衛に勤しむエゴを降伏させて身命を捧げるという意味なのだろうと解釈しています。そういうことこそが他力本願と言う意味なのかもしれません。そうだとしたら、他力本願は、他人任せの気楽な生き方と言うよりは、自分のすべてをかけた命がけの営み、ごまかしようのない厳しい真実の道と言うことなのだろうと思います。

 今回は、そうした道を歩まれているご住職から、貴重でありがたいお言葉を頂きました。とてもうれしかったし、光栄でした。ありがとうございました。

 願わくば、疫病が広がり、超過死亡が普通となり、第三次世界大戦がはじまりそうな瀬戸際にいる、まさに世紀末の様相を呈している現代の社会が、ご住職が言われるように、一人一人が自立し、学習し、成長することによって、浄土の社会となりますように。