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緊急入院顛末記

 先日、3月15日の日曜日、救急車で搬送され、そのまま1泊入院することになりました。
 4月の新入社員研修シーズンの準備で、教材類をセット組して出荷できる準備をしている最中に、腰をかがめてダンボールの中を探している最中に、突然、強烈なめまいに襲われたんです。
 それはもう、人生の中で体験したことのないようなめまいで、通常言われているようなめまいとはぜんぜん違う、桁違いにひどい最凶最悪のめまいに襲われたんです。
 壊れたロボットのように目が勝手に動いて、よく目が回るっていうじゃないですか、文字通り、目が勝手にぐるぐる回るのです。
 止めようとして止まらないもので、目が動くとおりに、景色もぐるぐる動いて、とても立っていられないし、目を開けていられない状態になってしまったのです。

 おどろいたなぁ、こんな体験はしたことがないし、こんなに激烈なめまいが存在するとも思ってもいなかったので、何が起こっているのかさっぱりわからなかったのです。
 結論から言うと「良性発作性頭位めまい症(りょうせい はっさせい とうい めまいしょう)」という病気だそうです。
 人は、姿勢の制御や運動の際の身体バランスを整えるための器官として、内耳に前庭という部分があるそうです。そこでは、耳石という炭酸カルシウムが固まった極小の石が、ゼラチンのようなもので前庭にくっついており、その石の加速度や位置で、自分のバランスを整えているそうです。
ところが、その耳石は、はがれてしまう事があるそうです。
 耳石がはがれると、前庭に直結している三半規管というカタツムリのような器官に入ってしまうことになり、三半規管は、平衡感覚や回転を感知する敏感な感覚器であるので、実際は回転してないにもかかわらず、体が回転しているって勝手に解釈して、目や平衡感覚に異常が起こるそうです。

 吐き気もひどかったなあ。脳は、姿勢や回転の異常事態を毒物のせいかもしれないと判断して、食べたものを全部嘔吐させるそうです。まったくその通りで、何度も何度も、胃の中のもののみならず、小腸に入ったものまで出尽すような状態だったんです。

 当時は、そんな知識もなく、ただただおどろいて、内耳の問題と言うよりは、脳神経や脳血管の病気を疑ったので、至急救急車をよんでもらい、搬送してもらった次第です。

 なんていうのか、トラブルは、泣きっ面に蜂のようにやってくるもので、実は、昨年の年末から、思いもよらない困難やけがやトラブルが頻発していて、しかも、そのどれもが簡単には解決できないものばかりで、ちょっとストレスがたまっていたのです。
 問題があるからと言って、ただただ落ち込んで休んでもいられない状態で、と言うのも、この4月~5月は、創業以来初めてのたくさんのお仕事を頂いており、その準備(テキスト印刷や製本、教材のセット組、梱包や出荷作業、お客様との打ち合わせやプログラム作り、研修の予習など)で大忙しで、くじけそうな心に鞭打って頑張っていた次第です。

 無理に無理を重ねていたのだろうと思います。とどのつまりは、劇症のめまいが起こって、強制ストップ、強制休養をとらざるを得ない、というかとらせていただくことになった次第です。

 現在は、退院が16日ですので、7日目となり、おかげさまでめまいはずいぶんおさまってきました。
 本当は、車を使った用事やお約束が何件かあったのですが、キャンセルをさせていただき、こうして、自宅で待機、体のならし運転を始めたところです。

 本事件をふりかえってみて、こうした出来事は、決して偶然の不運で起こったわけではないんだなあということがよくわかります。
 そのままでいたらもっと大きな問題が起こるから、神様が強制的に一時休止させるべく、病気をプレゼントしてくれたような気もします。
 私は、ピンチや逆境になると、焦りなのか負けん気なのかはわかりませんが、というか両方なんだろうと思いますが、ますます頑張ってしまうんですよね。頑張ることはやぶさかではありませんが、頑固になって人の意見を聞かなかったり、体の悲鳴を無視したり、的外れなことをやったり、事を急ぎすぎたりなど、流れに呼応するのではなく、強引に進めてしまうのは問題で、私には、実はそうした課題が未解消で、時々顔を出すのです。

 ネガティブケイパビリティというスキルが最近話題になっています。問題があってもすぐに安直な結論に飛びつかないで、不安の中にいて、不安と戦わずに不安を受け止めながら、じっくりと問題の本質に目を向け、本質的な解決策を探ろうとする能力で、シェークスピアなどの天才的な創造や、達人の優れた仕事をする人が持っている特有のスキルと言われています。

 私は、このネガティブケイパビリテイは、知識では知っていましたが、多分まったく実践できていなかったのだと思います。問題や不安が立ち上がると、1分1秒でも早くその問題から抜け出したいと思って、拙速に手を打って強引に解決しようとする。そんなところが、人生の中でもよくあったし、いまでもよくあるのです。

 今回、妻にも本当にとんでもないほどの負担と迷惑をかけてしまって、頭が上がりません。
 救急車を呼んでもらって、入院手続きをしてもらって、搬送から入院までの長い時間をずっとただひたすら寒い病院の廊下でまっててもらって、ちょっとだけ病室に顔を出して私を元気づけてくれた後で、夜中の病院で道に迷って出口を探して、ようやくタクシーで家に帰ってきたのです。
 多分、こんな冒険は、生まれて初めてだったと思います。
 そういえば、その妻の意見を、実は最近あんまり聞いてなかったなぁとつくづく感じました。と言うのも、妻は、以前から、私に無理しすぎていると指摘していたのです。「そんなこと言ったってやんなきゃいけないことはやんなきゃいけないだろう、プロなんだから!」なんて言って、警告を無視し続けてこの結果です。

 多分、ネガティブケイパビリティでいう、プロセスを信じて身を任せてみると言う勇気、度量が足りなかったんだろうと思います。だから、焦って、自分のやり方にこだわって、妻の意見も拒絶し、ただひたすら体力勝負の対応をしていたんだろうと思います。

 実は、不思議なことに、強制ストップによってエゴの独走が止まり、コントロールを手放し、なるようになるしなかないさ!なんてうそぶいて少し流れに身を任せたら、ここ数日で、今年に入ってから絶望視していた問題が、次々と好転し、解決、または解決の糸口をつかめたのです。
 あんなにいそがなければと思っていた研修の準備も、3日~4日休んだのに、昨日から慣らし運転をして妻と二人で協力し合ったら、何と、あっという間に処理出来て、本日、ほぼ終了となりました。

 本当に不思議なものです。狭い了見の危機感(エゴ)で何とかしようとして、無茶苦茶頑張っても一向に目標に近づけないのに、一旦緊張をほぐして、意固地にならずに人に協力を募り、正直に弱みを告白して相談し、プロセスに身を任せたら、あっという間解決していく、ある意味、奇跡のような変化が起こってくる。
 まさに、ネガティブケイパビリテイ、達人達の秘密、を体験を通して学べた気がします。

 4月の本番に向けて、あと1週間。もちろん、無理をすると奥さんから叱られてしまうので、50%~60%の無理をしない仕事ぶりをしばらくは続けるつもりです。
 病気はとてもとても苦しくて、つらいものではありましたが、それに勝る勉強をさせていただいた気がしています。
 これから、4月の本番に向けて、ちょっとだけ反省し、ちょっとだけ成長した自分で立ち向かえそうです。

 共に危機を乗り越えてくれた妻と、心強く助けてくださった救急隊員の皆さん、心配そうに救急車を見守ってくれていたご近所の方々、献身的に看病してくださった病院の看護師さんと先生、そして、この大事件に感謝!

日常の中のロゴス 6.ロゴスへの帰還(最終章)

第6章 ロゴスへの帰還

自分らしく幸せに生きるためには、流される生き方では難しい。
ただ周囲に合わせ、首を垂れて生きるだけでは、主体的な人生とは言えない。
自分らしく輝くためには、自分を裏切らずに生きる勇気が必要である。

それは特別な英雄のための勇気ではない。
日々の生活の中で、少しずつ実践される小さな勇気である。

・自分の感じていることを権威の言う言葉で否定しないこと。
・納得できないことには安易に従わないこと。
・自分の日々の営みを丁寧に行うこと。
・世界や他者に誠実に向き合うこと。

そうした小さな実践の中で、人はロゴスに触れていく。

この世界は必ずしも天国ではない。
しかしそれが何だと言うのだろう。
天国で天使として生きるのは簡単だ。
みんなそうだし、誰でもそうできる。

しかし、痛みと恐怖に満ちた世界で天使として生きるのは並大抵ではない。
朱に交われば赤くなる。
良いと分かっていても脅迫されてしまえば良心に従い続けることは難しい。

しかし、だからこそ、困難や逆境の中で気高い勇者として生きる生き方がかっこいいのだ。

暴風雨の中であっても深い海の底は静かで穏やかであるように、
不条理や困難も少なくない世界ではあるが、それでも世界には秩序があり、意味があり、人の営みの中にはロゴスが息づいている。
ロゴスは決して地獄を見捨てない。

よく日常はつまらないと言われることがある。
しかし、つまらないのは日常ではなく、我々の感受性かもしれない。
今ここには、不安にとらわれてよそ見ばかりしている人には気づきようのない、汲みつくすことのできない魅力が存在している。

よくよく日常を愛し、観察していけば、そこには、確かにロゴスが静かにたたずんでいることに気づくだろう。

日常の仕事も、学びも、人との関係も、創作も、すべてがロゴスと出会う場になりうる。
だからこそ、元気を出して生きてみよう。
気概を持って生きてみよう。

あなたは断じて欠点だらけの無力な存在ではない。
あなたはこの絶望の世界にあえて生まれてきた勇者なのだ。

取り越し苦労をして、つまらないことを考えているときではない。
いまは、戦いのどらを鳴らすときである。

勇ましく胸を張って、剣を大空に高らかと掲げ、駿馬にまたがり、第一歩を踏み出そう!
今こそ、王の帰還の時、ロゴスとの和解の時である。

ロゴスを感じながら、自分を裏切らず、自分らしく生きてみよう。
それは決して大げさなことではない。
日々の営みの中で、誰もが始めることのできる人生の実践である。

世界は必ずしも天国ではない。
だからと言って嘆き悲しんでばかりではいけない。
だからこそ、この世界で気高く生きようとするあなたの人生は、美しいのだから。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

日常の中のロゴス 5.教育と日常哲学

第5章 教育と日常哲学

かつて私は人が嫌いだった。
人は、ずるがしこくて悪くて嫌な奴ばかりであり。
人間関係は食うか食われるかの闘いだった。
そんな中で、やさしさや思いやりは、間抜けなお人よしの弱みだと思って抑圧してきた。
そして、一番嫌いだったのは、そんな私だった。

だから、私の人間関係はボロボロだった。
時に居丈高、操作的であり、時に対人恐怖症的であった。

粋がって強がっているくせに、いざ人前に立つと、赤面し、いやな汗を止められず、何も言えなかった。
人の話だっていつもうわのそらだった。自分の心の中の暴風雨で手いっぱいであり、受け止める隙間なんて少しもなかった。

そんな私も、少しずつ少しずつ変わってきた。

家族に恵まれ、お客様、友人、仕事、本との出会いに恵まれて、私の中の呪いが、少しずつ少しずつとけて、楽になってきた。

大学時代、大やけどをした直後で両手が異形な斑になっているにもかかわらず、大学に受かったとはいえ、高校時代遊び惚けて基礎力をすっかりと失ってしまっていたにもかかわらず、時給が高いからと言って、がらでもない塾の英語の先生になった。
むろん、教え方はへたくそであり、加えて、間違えばかり教えていた。
当然、嫌ってしかるべき生徒たちは、ちょっとやんちゃなところに共感してくれたのだろうか、そんな私を受け止め、好いてくれて、静かに授業を聞いてくれた。それだけではなく、私の間違いを紙に書いて教室を回し、みんな自主的に主体的に勉強するようになり、何と、私の教室は、塾で一番成績を上げたのだ。
私は、子どもたちに英語を教えたが、教えられたのは私だった。子供たちからは、教科書には書いていない何か貴いものを教えていただいた。

社会人になって初めて営業に出て、お客様の前でまともに話すことができずに、商品説明の際、顔を真っ赤にして汗だらけになってしどろもどろで話した。普通は、こういう営業からは商品を買わないものだが、そんな私をからかいながら、そんな私からでも、そのお客様は商品を買ってくれた。
私は、お客様から、完璧じゃなくても何とかなる。自分の不完全さ受け入れる勇気を教えていただいた。

仕事で大失敗して、多くの人に恥をかいて、みすぼらしく敗北し、近くの仲間たちも距離を置いて背を向け始め、チームの失敗だったものが全部私の責任にされて、力を失った上に非難攻撃された時、一人、決して私を見捨てずに、そんなあなたが大好き、って言ってくれた家族。あなたを好きなことではだれにも負けないと言ってくれた。
私は、家族から、真の愛を学んだ。

こうした体験を通して、私の中の自己不信や自己嫌悪、悲観主義が力を失い、人は嫌な奴ばかりではないかもしれない、自分も捨てたものではないかもしれない、そういう明るい光を取り戻してきた。

今では、人前に立ってお話をさせていただける貴い仕事をさせていただいている。大学や学校でも話すことがあるので、時には1,000人を相手に話すこともできるようになった。

そして、あんなに苦手だった人間関係が、今では私の仕事になっている。

さらに、仕事を進めていくうちに、単に癒されたと言うだけではなく、もっと前向きで思いもよらない希望や可能性が見えてきた。

グループワークの中で、お互いの懸念や恐怖、防衛の鎧としての敵意を正直に語り、非難するのではなく、私もそうだと受け止め、恐怖や不安を乗り越えたのちに心が開かれた時の、言葉にはできない不思議な雰囲気、エネルギー、場の力。
そこにあるものは、弱肉強食や戦いではなく、あたたかく柔らかく生き生きとした、みずみずしく爽やかで、明るく楽しくパワフルで、静かで穏やかで、そこにいるだけで癒されて、元気を取り戻せる精妙で尊い平和な場だった。
私は、人間関係を誤解していた。人を嫌い、自分を嫌い、人間関係を何よりも重苦しく疲れるものと思っていたけど、その本質は決してそういうものではなかった。
私は、仕事を通して、質の高い人間関係に起こるものは、愛、勇気、信頼であり、恐怖や不安にとらわれない自由を獲得し、自分らしく力強く生きる後押しをしてくれる貴い何かであり、まさに、潜在化していた偉大なる可能性、ロゴスの実在を学ぶことができた。

真の教育とは、単に知識や技能を教えるものではなく、こういうことを教えるものであるべきではないだろうか。

謙虚さ、勇気、真の愛、共感、そしてロゴスとの関係性。これらのものは、本当に人をかえることができる。いや変えるのではなく帰るのだ。その人そのものが目覚め、本来の自分に戻るのだ。

現在の世界は、意図するとせざるとにかかわらず、偶像崇拝的だ。
今のあなたは十分ではない。何かが足りない。そのままでは価値がない、許されない。
だから、私を頼りなさい、この薬を頼りなさい、保険があれば安心、この壺があれば幸運になる、このブランドはあなたの不足を補う、風水を整えないからあなたは不幸だ、この石は…、この本を読めば…、この水が無いと…、などなど、人の恐怖と不安を刺激する偶像でいっぱいだ。

教育も、決してこの姿勢を越えることができていない。
外側にある「正解(偶像)」を頭に詰め込み、いかに効率よく従順な労働力として役に立つかを競わせるシステムとなっている。
システムは、教祖になりたいのだ。システムに取り込まれてしまうと、親や先生は、子どもたちに内在する貴い可能性を封じ込め、かわりに、AIで調べればわかることを強制的に暗記させてしまう。それが権威に受け入れられる方法だからだ。子供たち一人一人が、ひずみの中で感じる痛みに謙虚に耳を傾ける代わりに、制度を作り、個性ではなく均一化を図る。見ても見ず、聞いても聞かず、知らない。その無思考の戦略が安全な戦略となる。
そして、私自身が、そのシステムの中で育ち、傷ついた一人だ。

しかし、
こんなに高い子供たちの自殺率に目を背けるべきではない。
不登校で悩み苦しむ子供たちの声を無視するべきではない。
真に育ちたい、成長したいと願う魂の叫び声の存在を知らないふりをすべきではない。

教育とは、机の上の知識だけでは完成しない。
食事の支度も、掃除も、仕事も、会話も、日常の営みはすべて、貴重な学びの場となりうる。
そこに心を込め、注意深く、誠実に関わる者の中で、自尊心は自然に育つ。
学ぶとは、単なる情報の取得ではなく、日常の営みの中で、世界の秩序と意味、その真・善・美を自分の体で感じ取る営みである。

たとえば、雨に濡れた葉の美しさに目を止め、自然の理を感じることも学びだ。
料理を作り、味と香りを確かめながら工夫することも学びだ。
人と真摯に向き合い、相手の言葉と感情に耳を傾けることも学びだ。

学びを通してロゴスに触れた者は、自尊心を失わない。
失敗や痛みの中にも理を見出し、学び、成長する。
学ぶ者自身が光となり、その周囲を照らす。
一人の学びが、家族や仲間、社会全体に微妙で確かな影響を与える。

教育とは、形式や権威に従うことではない。
人の中に潜在化している大きな可能性に気づき、信頼し、自分のものとして生きるお手伝いをすることこそが教育なのではないだろうか。

人は断じて欠点だらけの無力な存在ではない。
その可能性は、狭い了見の人の認識をはるかに超えて偉大だ。
それは、秩序であり、真理であり、ことわりであり、ロゴスである。

教育とは、学ぶ者が内なるロゴスを信じ、探求する勇気を持つことを可能にする営みである。
もし真の教育がなされることができたら、世界はその日を境に劇的に変わるだろう。
ロゴスに気づき、ロゴスを学ぶ者は自分自身の尊厳を取り戻す。
そして、その尊厳をもって世界に向き合う者は、自由に、誇りを持って生き、世界をもゆっくりとそして確実に変えることができるのだ。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

日常の中のロゴス 4.自尊心の本質

第4章 自尊心の本質

自尊心とは、ダメな自分を見捨てないと言うこと。優秀さや強さを信じることではない。
自尊心とは、ありのままの自分を受け入れ、愛し、信じることができる健全なる心。
だから、自分ができることや実績、優れたところを誇る心を自尊心とは言わない。
can do ではなく beingを尊ぶことができる心情であり、自分の存在を愛し、信じる心を自尊心と言う。

「他人より優れているから」「目標を達成したから」という条件付きの肯定は、常に外部の評価という「偶像」に首を垂れている状態であり、決して主体的な世界観ではない。
人の内面には、あらゆる社会的な都合、評価をはるかに超える価値がある。

「一切の衆生、ことごとく如来の智慧・徳相を具足す(すべての人は、生まれながらにして仏と同じ素晴らしい知恵と能力を備えている)」(仏陀)

「あなたがたは皆、いと高き者の子らである。」(旧約聖書)

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、それよりも大きな業を行うようになる。」(イエスキリスト)

「梵我一如(宇宙を司る神聖な力は、他ならぬあなた自身の中に流れている)」(ウパニシャッド)

古代の賢者たちは、共通して、人の中には偉大なる可能性があることを示唆してきた。
論理、文学、会計、対話の中にロゴスがあるように、人の中にもロゴスがまどろんでいるのだ。

自尊心とは、ありのままの自分がロゴスと無関係ではないことを知り、内なるロゴスの可能性を信じ、探求する勇気である。

いま、私が私だと思っている自分は、エゴと呼ばれている。
エゴは、大きくて複雑で矛盾する、途方もなく偉大で、途方もなく罪深く、つかみどころのない自分を、人間関係の枠に型どる自分だ。
だから、エゴは社会の中で戦う自分だ。
内にも外にも手におえないことばかりのなかで満身創痍になってがんばっている自分だ。

しかしエゴは、実は何も分かってない。
内にも外にもエゴには分かりようのない真実が隠されている。
真実は、あらゆる想像を越えて大きく、精妙で、いのちの奇跡に満ちている。

だからエゴは、もっと謙虚であったほうがいい。
だからエゴは、もっと肩の力をぬいたほうがいい。

自尊心とは、エゴが完璧になろうとすることではなく、内なるロゴスに対してどこまでも誠実であろうとする態度を指すのだ。

エゴこそが私であるという同一化を緩めて、内なるロゴスの可能性を探求する。

・自分の行為が、内なる真理(ロゴス)と共鳴しているか
・考えることと言うこととすることに秩序と整合性があるか
・世間的色眼鏡で見るのではなく、正見出来るか
・歓迎しない出来事や失敗、痛みの中にも理を見て学び成長することができるか
そうした問いかけが内なるロゴスを呼び起こす。

ロゴスの炎を自覚できる人は、もはやエゴのみでは生きてない。
エゴがため込んできた痛み、傷跡、悲しみ、憎悪に光が差し込み、癒やされ、もはや支配力を及ぼすことはできない。まさに、光は傷口から入るのだ。
天地自然の理を宿し、自然に生きて、自然に営む、その肉体は宇宙の秩序が通り抜ける聖なる管となり、その日常の営みが、人を癒し、前向きな創造につながる。
今ここに対して文句を言わず、受け入れ、共鳴し、天地と繋がる堂々たる紳士淑女として生きる。

もはや、彼、彼女を支配できるものはいない。すべての恐怖から自由になり、自分らしく幸せに生きる。

自分だけが特別なのではなく、他のあらゆる人たちにロゴスが存在することを信じ、尊重する。
・依存し、奴隷のように生きている人、
・うそをつき、人を操作して、狡猾に生きる人、
・暴力を振ることを厭わない人、
・傲慢な人…
あらゆる人、たとえ愚かな極みの人たちであっても、自分の中にロゴスがあることを知っているように、その中に存在するロゴスを知っており、その可能性を決して絶望しない。

ロゴスと関わることを通して、人は、より自由になり、より自分らしく輝くようになる。
一隅を照らす人になる。
一人が輝けば、周囲が変わる。
ロゴスを見出した人は、かかわる人たちが、次第に、微妙に、根本的に変わってくることに気づくだろう。

ロゴスは、決して絶望しない。
「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない」フランクルの言葉の通り、
「あなたがあなたを嫌い、自分自身に絶望しても、ロゴスは決してあなたに絶望しない、決してあなたを見捨てない」のだ。

だから、ロゴスを自分の中に探求する勇気を放棄してはいけない。
あなたが意識できようとできまいと、あなたの人生にはロゴスがついてくる。
飲んだくれて暴れまわる自分、煙草をくわえてパチンコに没頭する自分にもロゴスはともにある。
ロゴスは決して裁かない。しかし、あなたの帰還を待っている。あなたが内なるロゴスに目を向けることを待っている。
あなたが一歩ロゴスに近づけば、ロゴスは百歩近づいてくれるだろう。

自尊心とは、内なるロゴスを裏切らないこと。
今こそ自尊心を取り戻す時、
文句を言って嘆いてばかりいてはいけない。
どんなに最悪な状況でも、いまここは、あなたのまいた種なのだ。
だから、いつでもどこでもそこから始めなくてはいけない。

そこにもきっとロゴスは潜んでいる。
あなたとロゴスの関係を割こうとするものの力を信じるのではなく、
自らロゴスと近づく力を信じる。
自分を見捨てないで自尊心を持って生きる。
その生き方こそが、閉塞感ある人生の突破口となるのだ。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

日常の中のロゴス 3.偶像崇拝の罠

第3章 偶像崇拝の罠

ロゴスは日常に、いまここ、そこかしこに存在しているが、それに気づくためには主体的な探求が必要である。

しかし、自分はロゴスと関係を持ちえないと思い込み、ロゴスを見出そうとする気概を失うと、偶像崇拝の罠にはまる。

偶像とは、像ではない。
神と人とのあいだに立ち、関係を独占しようとする構造である。

それは外部にも現れる。
制度、権威、象徴、教義…。

しかし同時に、それは内部にも生まれる。

誰かに従うことで安心しようとする心、
探求心を忘れ他人の考えを鵜呑みにする態度、
不安や恐怖を隠すための強さの仮面、
自分の気づきよりも権威の主張を信じる思考停止…。

偽神は、外からのみやってくるのではない。
人の恐れと結びついたとき、
内と外のあいだに形をとる。

ロゴスとの関係性は、本来、直接的である。
それは代理を必要としない。

だが人は、自由よりも安心を選ぶことがある。
問い続ける緊張よりも、完成された答えを求めてしまう。
その原因は、恐怖だ。
不安は、外部の出来事に由来しない。
その出来事に対して、うまく対処できないかもしれないという妄想、自信のなさに由来する。
時に人は、自尊心ではなく恐怖に首を垂れることがある。
偶像は、その隙間に入り込むのだ。

偶像は、安心を与える。
だが同時に、ロゴスと向き合う気概を奪う。

人は、神と直接に関わることができる存在だという気概を忘れてはならない。
世界が壊れていることを理由に、「だから神はいない」と結論づける人もいる。しかし、私は逆にこう考える。
世界が功を成さず、歪みを抱えているのは、私たちが神と向き合う気概を失ったからではないのか。
神を論理の外に追い出し、ロゴスを抽象概念に縮小し、宗教を制度に閉じ込め、そして自分は無関係だと退いてきた。
その結果、人間関係は警戒と取引の場となり、組織は損得の構造になり、対話は勝敗になった。
我々は、ロゴスと向き合う気概を失うと同時に、日常の中のロゴスを見捨ててしまったのだ。

しかし、ロゴスは、人が向き合おうと向き合うまいとにかかわらず、常に今ここにある。いつでも、どこでも、我々がどんなに愚かな状態であっても、1mmもずれずに、1秒もはなれることなく、我々とともにある。
裁かず、嫌わず、操らず、見捨てず、原子がひどいありさまの我々を見放さないように、ロゴスは今ここで微動だにせず我々と共に在る。

我々は、ロゴスとの関係性を取り戻す必要がある。
不安に首をたれて、自信を失い、偶像に依存していたとしても、ロゴスは決して見捨てない。放蕩息子がもう一度戻ってくることを辛抱強くいつまでも待っている。
我々がどんなにみじめで愚かな状況であっても、我々に内在するロゴスとの糸は決して切れることはない。
世界が混乱し、既存の価値観が揺らぎ、生き方の方向性を見失いはじめている今こそ、我々は、その偉大な可能性への信頼、自信を取り戻す必要があるのではないだろうか。
自らに内在するロゴスと向き合う勇気と気概を取り戻す必要があるのではないだろうか。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

日常の中のロゴス 2.ロゴスを語源とする言葉

第2章 ロゴスを語源とする言葉

ロゴスが、どこか遠く手の届かないところに鎮座する抽象的な権威ではなく、むしろ私たちの日常の営みの中に息づいている存在ではないか――そのことを示唆してくれるのが、ロゴスを語源とする言葉である。

実は、ロゴスを語源とする語は意外に多い。

① 理論・論理(logic、λογική)

ロジックという言葉は、日常でも頻繁に用いられている。この語は、ギリシャ語の λογική(logikē) に由来し、λόγος(ロゴス) に形容詞語尾 -ικός が付いた語で、「ロゴスに関するもの」「理に関わるもの」という意味を持つ。

私たちは「ロジックが通らない」「ロジックに合っている」と言うが、それは単なる計算的合理性の問題ではない。本来の意味に立ち返れば、それは「真理にかなっているか」「真実に沿っているか」という問いでもある。

ロジックとは、冷たい科学的手法というよりも、本来はロゴスに耳を澄ます営みなのである。

② 文学(λογοτεχνία)

ギリシャ語の λογοτεχνία(logotechnia) は、λόγος(ロゴス) と τέχνη(technē:技術・わざ) から成る語である。すなわち文学とは、「ロゴスを扱う技術」という意味を含んでいる。

古代ギリシャにおいて、言葉は単なる表現手段ではなかった。それは存在や神々とつながる媒介であり、文学とは、言葉を通してロゴスに触れ、秩序や真理に参与する営みでもあった。

一方、英語の literature はラテン語 littera(文字)に由来し、文字による表現という側面に重心が置かれている。

もちろん、ラテン語的伝統が文学を矮小化したわけではないが、ギリシャ語の持っているロマンや言葉の背景にある生命感、みずみずしさが失われてしまった。 この差異は、文学観や人生観に微妙な違いをもたらしているように感じる。

③ 学問(-logy)

現代の学問の多くは、語尾に -logy を持つ。

biology(生物学)
psychology(心理学)
theology(神学)
sociology(社会学)

これらはすべて、ギリシャ語の λόγος(ロゴス) に由来する。

たとえば biology は、βίος(生命)+ λόγος。
「生命についてのロゴス」である。

psychology は、ψυχή(魂・心)+ λόγος。
「心についてのロゴス」である。

学問とは、対象を支配することではない。
対象に潜むロゴスを丁寧に読み取ろうとする営みである。

生物学者は、生命の背後にある秩序を探る。
心理学者は、心の働きに通底する理を見つめる。
神学者は、神についてのロゴスを思索する。

学問とは、世界に意味があるという前提の上にしか成り立たない。

もし世界が完全な混沌であれば、
そこに「学」は成立しない。

私たちは無意識のうちに、
世界がロゴスに満ちていることを前提にして研究している。

④ 会計(λογισμός)

ロゴスから派生した語に、λογισμός(logismos) がある。
これは「計算」「勘定」「理性的思考」を意味する。

ここから英語の logic や logistics も生まれている。

会計とは、単なる数字の処理ではない。
そこには「整合性」という厳格な秩序がある。

貸借は必ず一致する。
数字は嘘をつかない。

そこには、見えないが確かな理が通っている。

帳簿を整えるという行為は、
混沌を秩序に変える行為である。

また、会計はその質が高ければ高いほど、現在の問題を浮き彫りにし、未来を予測する。
会計は、預言にもなりうるのだ。
それは経済活動の中にロゴスを呼び戻す営みとも言える。

⑤ 対話(διάλογος)

διάλογος(dialogos)は、
「διά(〜を通して、~の間を)+ λόγος (ロゴス)」から成る。

対話とは、「ロゴスを通して交わること」である。

それは単なる意見交換ではない。
対話とは、二人のあいだにあるロゴスを共に探る行為である。

20世紀の量子物理学者であり哲学者でもあったデヴィッド・ボームは、その著書『対話(On Dialogue)』の中で、ダイアローグの語源を「ロゴスが通り抜けていく(through)」と解釈した。

人間関係の質によっては、そこに単なる言葉だけではなく、真実や真理、神聖が流れてくると言う意味であり、アートになりうるものなのだ。

真の対話の中では、人は、その場にいるだけで癒され、自分を取り戻し、成長することができる。

人間関係の中で、正直さと安心、相互理解と共感、楽しさや喜び、思いやりと静かで穏やかな愛、関係性の中にとてつもなく精妙でパワフルなものが流れるその瞬間、ロゴスが姿を現している。

人間関係は、炎のようなもの。

温度が足りなければ、不完全燃焼を起こす。

煙が立ち上り、目を刺し、空気を濁らせる。

疑い、警戒、さぐり合い、遠慮、計算。

それらは不完全燃焼の煙である。

しかし、十分なエネルギーが生まれたとき、

炎は明るく、あたたかく、力強く燃える。

そこでは煙は消え、場は明るく照らされ、

人は安心し、率直になり、あたたかさや活力を取り戻す。

対話とは、この炎を起こす営みである。

そして、その炎を通してロゴスは臨在するのだ。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

日常の中のロゴス 1.ロゴスとは何か

第1章 ロゴスとは何か ~ 世界に秩序はあるのか~

私たちは、日々さまざまな営みを行っている。
働き、学び、人と語り、数字を扱い、言葉を書き、誰かを思い、決断をする。

しかし、こうした営みの背後に、ひとつの問いがある。

この世界には、秩序があるのだろうか。
それとも、ただ偶然が積み重なっているだけなのだろうか。

もし世界が、いままさに起こっているように無秩序で、意味もなく、ただ力の強いものが勝つだけの場所だとしたら、私たちの努力や誠実さは何の意味を持つのだろう。
逆に、この世界に何らかの秩序や理(ことわり)が流れているのだとすれば、私たちの営みは、その理や秩序と触れ合う行為になりうるのかもしれない。

古代ギリシャ人は、この世界を貫く理を ロゴス( λόγος ) と呼んだ。

ロゴスとはよく日本語で言葉と訳されるが、単なる「言葉」の意味ではない。
それは、論理であり、秩序であり、真理であり、気高い意識、神聖さでもある。

理解できるという事実。
論理が整然と通るという経験。
数式が成立するという驚き。
誠実さが信頼を生むという実感。

それらすべての背後に、ロゴスがある。

ロゴスは、どこか遠くにある神秘的な概念ではない。
それは、私たちが「なるほど」と感じる瞬間に現れる。
混乱が整理され、矛盾が解け、筋道が通るとき、私たちはロゴスに触れている。

しかし現代において、ロゴスはしばしば「言葉」とだけ訳され、その深みを失ってきた。
「言葉」という訳語は間違いではないが、あまりにも狭い。

ロゴスは、世界が理解可能であるという前提そのものなのだ。

もしロゴスが存在しないなら、
学問は成立せず、会計も成立せず、法律も倫理も、対話も成り立たない。
理解できるという信頼そのものが崩れてしまう。

つまり私たちは、無意識のうちにロゴスを前提にして生きている。

だが問題はここから始まる。

ロゴスは、どこにあるのか。

一般的によく言われているように、
権威の中にあるのか。
制度の中にあるのか。
宗教的象徴の中にあるのか。

それとも、

実は、もっと身近な、
例えば、私たちの営みの中に静かにまどろんでいるのか。

本書は、この問いから始まる。

ロゴスは特別な権威ある人間だけが扱える縁遠い存在ではなく。
それは、日常の営みの中にひそみ、我々の質の高い行為によって我々の目に映るようになるのではないか。

ロゴスは、いつでも、どこでも、どんな時にでも我々と共に在るが、我々がそれを知らないだけなのではないか。

次章では、ロゴスがどのように日常の営みの中に息づいているのかを探っていく。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還