第3章 偶像崇拝の罠
ロゴスは日常に、いまここ、そこかしこに存在しているが、それに気づくためには主体的な探求が必要である。
しかし、自分はロゴスと関係を持ちえないと思い込み、ロゴスを見出そうとする気概を失うと、偶像崇拝の罠にはまる。
偶像とは、像ではない。
神と人とのあいだに立ち、関係を独占しようとする構造である。
それは外部にも現れる。
制度、権威、象徴、教義…。
しかし同時に、それは内部にも生まれる。
誰かに従うことで安心しようとする心、
探求心を忘れ他人の権威を鵜呑みにする態度、
不安や恐怖を隠すための強さの仮面、
自分の気づきよりも権威の主張を信じる思考停止…。
偽神は、外からのみやってくるのではない。
人の恐れと結びついたとき、
内と外のあいだに形をとる。
ロゴスとの関係性は、本来、直接的である。
それは代理を必要としない。
だが人は、自由よりも安心を選ぶことがある。
問い続ける緊張よりも、完成された答えを求めてしまう。
その原因は、恐怖だ。
不安は、外部の出来事に由来しない。
その出来事に対して、うまく対処できないかもしれないという妄想、自信のなさに由来する。
時に人は、自尊心ではなく恐怖に首を垂れることがある。
そのとき、偶像は生まれる。
偶像は、安心を与える。
だが同時に、ロゴスと向き合う気概を奪う。
人は、神と直接に関わることができる存在だという気概を忘れてはならない。
世界が壊れていることを理由に、「だから神はいない」と結論づける人もいる。しかし、私は逆にこう考える。
世界が功を成さず、歪みを抱えているのは、私たちが神と向き合う気概を失ったからではないのか。
神を論理の外に追い出し、ロゴスを抽象概念に縮小し、宗教を制度に閉じ込め、そして自分は無関係だと退いてきた。
その結果、人間関係は警戒と計算の場となり、組織は損得の構造になり、対話は勝敗になった。
我々は、ロゴスと向き合う気概を失うと同時に、日常の中のロゴスを見捨ててしまったのだ。
しかし、ロゴスは、人が向き合おうと向き合うまいとにかかわらず、常に今ここにある。いつでも、どこでも、我々がどんなに愚かな状態であっても、1mmもずれずに、1秒もはなれることなく、我々とともにある。
裁かず、嫌わず、操らず、見捨てず、原子がひどいありさまの我々を見捨てないように、ロゴスは今ここで我々と共に在る。
我々は、ロゴスとの関係性を取り戻す必要がある。
不安に首をたれて、自信を失い、偶像に依存していたとしても、ロゴスは決して見捨てない。放蕩息子がもう一度戻ってくることを辛抱強くいつまでも待っている。
我々がどんなにみじめで愚かな状況であっても、我々に内在するロゴスとの糸は決して切れることはない。
世界が混乱し、既存の価値観が揺らぎ、生き方の方向性を見失いはじめている今こそ、我々は、その偉大な可能性への信頼、自信を取り戻す必要があるのではないだろうか。
自らに内在するロゴスと向き合う勇気と気概を取り戻す必要があるのではないだろうか。