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ネガティブケイパビリティ ②不完全である勇気、失敗する勇気

1.失敗に不寛容な社会
私たちは、いつの間にか、「失敗しないこと」を強く求められる社会の中で生きています。

間違えないこと、期待に応えること、成果を出すこと、ちゃんとできること。

学校でも、仕事でも、SNSでも、「できる人」が評価されやすい時代です。
逆に、ちょっとした失敗であっても、インターネット上などで炎上しがちであり、よってたかって失敗した人を責めがちな社会的な雰囲気があります。

だから人は、失敗を恐れます。

恥をかきたくない、否定されたくない、能力がないと思われたくない。

その結果、本当は挑戦したいことがあっても、一歩踏み出せなくなる。

そして、いつの間にか、「やりたいことに挑戦する人生」よりも「失敗しない人生」を目指すようになってしまうのです。

2.完璧主義という鎧
もちろん、向上心を持つことは悪いことではありません。

より良くなりたい、成長したい、誰かの役に立ちたい。

その気持ちは、とても尊いものです。

けれど、時に、向上心は「完璧でなければならない」という苦しさへ変わります。

失敗してはいけない、迷ってはいけない、弱さを見せてはいけない。

そうやって、自分を厳しく追い込み続けてしまう。

でも、本当に苦しいのは、「失敗そのもの」ではなく、失敗した自分が他者から見下されることによって、“失敗した自分には価値がない”と思い込んでしまうことなのかもしれません。

3.人は、未完成のまま生きている
そもそも人間は、決して完全な存在ではありません。

迷う日もある、間違えることもある、感情に振り回されることもある、うまくできない日だってある、…。
そういうことが当たり前の存在です。

それを、「私にはそんなことがない」と言いくなる衝動は、希望と言うより恐怖に由来します。
迷い、間違い、みにくく、失敗する、そういう自分が非難され、見下され、見捨てられるのではないかと言う関係上の不安や懸念があるからこそ、強がって背伸びをしてしまうのではないでしょうか。

完璧主義は必要な戦略の一つでもあり、時には「自分は悪くない」と自己防衛することは大切ですが、なににつけ人のせいにしているうちは成長はありません。完ぺきなふりをするということは、成長の可能性を拒絶することにもつながります。
だからこそ、自分が未完成で不完全であることを受け入れることが大切です。
人は、発展途上であってゴールにいるわけではありません。成長し変化することは、人として必然であり、ある意味で運命とも言えましょう。
未完成だからこそ、悩み、失敗し、それでもあきらめずに学び、成長することがかっこいいのではないでしょうか。

4.「失敗しない」より、「向き合う」
ネガティブ・ケイパビリティとは、
「うまくできない自分」
「答えを出せない自分」
「不完全な自分」
から逃げずに向き合う力でもあります。

失敗した時、人はつい、言い訳をしたくなり、誰かのせいにしたくなり、自分を責め続けたくなるものです。
そういう自分がいるのは当たり前で、否定すべきことではありません。

でも、本当に大切なのは、失敗しないことではなく、「失敗したあと、どう向き合うか」なのではないでしょうか。

ネガティブ・ケイパビリティとは「何もしないで放置する」ということではありません。むしろ、安易な答えに飛びつきたくなる衝動を抑え、宙吊りの状態に留まり続けるという、極めて強いエネルギーを必要とする「能動的な行為」です。

白黒はっきりさせたい、早く楽になりたいという心の叫びに抗い、未解決のまま抱え続けること。その「耐える時間」こそが、新しい視点や真の解決策が芽吹くための「熟成の期間」となるのです。

失敗した自分を「ダメ人間」と安易にさばくのではなく、真摯に向き合う。その静けさの中から、本当に大切で本質的な思いもよらなかった問題解決の方法、未来の可能性が立ち現れてくるのですから。

5.挑戦した人だけが持てる痛み
挑戦には、必ずリスクがあります。
目立つことによって非難され、ちょっとした失敗を責められて恥をかき、理不尽にも思い通りにいかない、…。
失敗の痛みがあるからこそ、人は、安全な場所に留まりたくなる。

けれど、挑戦しなかった後悔もまた、人を静かに苦しめます。
「あの時、一歩踏み出していれば…」
そんな思いを抱えながら生きる人も少なくありません。

「失敗と向き合えばいい」「不完全なまま前へ進め」というメッセージは正しいかもしれませんが、言うのは易しで行うは難しと感じられる方もいるかもしれません。

その感覚はとてもよくわかります。これは個人の問題と言うよりも、社会的なとげとげしい雰囲気の問題でもあるとも言えるでしょう。

でも成長を拒否した社会の風土に遠慮して、自分もそうなる必要はありません。

失敗の痛みは、挑戦した人だけが持つ痛みです。
光は傷口から入るものです。痛みがあるからこそ、人の痛みが分かるようになり、より深いところから反省し、ゆっくりと成長していくことができるのです。

そして、この不完全な自分を受け入れることは、自分一人の成長にとどまるものではありません。不思議なことに、自分が自分の失敗を許せるようになると、他者の失敗に対しても、自然と寛容な眼差しを向けられるようになります。

「自分も不完全、あなたも不完全」。そう思える人が増えていくことは、ギスギスした社会のトゲを一本ずつ丸くしていくことにつながります。自分の弱さを認める勇気は、結果として、他者にとっても心理的安全性、信頼関係を育める場を広げることにつながるのではないでしょうか。

6.不完全なまま、前へ進む
人生は、「完成してから始まる」ものではありません。
道がないからと言って、誰かがつくってくれるまで待つ必要はありません。
自信がなくても、迷いながらでも、不器用でも、準備が完ぺきでなくとも、人は、そのままで一歩を踏み出していく。

ネガティブ・ケイパビリティとは、“不完全な自分を抱えたまま、生きる力”とも言えるのかもしれません。

失敗してもいい、迷ってもいい、すぐに答えが出なくてもいい。

大切なのは、それでも、自分を見捨てないこと。
そして、未完成のままでも、そのありのままの人生と向き合い、前へ進もうとすることなのではないでしょうか。

 

ネガティブケイパビリティ ①ネガティブケイパビリティとは

1.ネガティブケイパビリティとは
私たちは、いつの間にか「すぐ答えを出せる人」が優秀だと思い込むようになりました。

迷わない人。
即決できる人。
何でも説明できる人。

問題が起きたら、即解決。
不安があれば、すぐ安心材料を探す。
わからないことがあれば、検索して、結論を得る。

もちろん、それ自体は悪いことではありません。
けれど、人間の人生には、「すぐに答えを出さない方がいい問い」があります。

たとえば、
なぜ、あの人はあんな態度を取ったのか?
この苦しみには意味があるのか?
本当にこの道でいいのか?
自分とは何者なのか?

こうした問いに、拙速な答えを与えると、かえって本質を見失うことがあります。

そこで大切になるのが、「ネガティブ・ケイパビリティ」という力です。

ネガティブ・ケイパビリティとは、19世紀の詩人、ジョン・キーツが残した言葉です。

簡単に言えば、

「不確かさや曖昧さの中に、耐えながら留まる力」

のこと。

シェークスピアのような偉大な表現者たちは、こうした力を持っていたと言われています。
それは、芸術家や哲学者だけでなく、人生を深く生きる人たちに共通する力なのかもしれません。

すぐに白黒つけない。
理解しきれないものを、無理に理解した気にならない。
不安を、即座に消そうとしない。

それは、消極的な諦めではありません。

むしろ、「わからなさ」と誠実に向き合う勇気です。

2.現代社会は「待てない」

今の時代は、とにかくスピードが求められます。

すぐ結果。
すぐ成果。
すぐ説明。
すぐ正解。

SNSでは、一瞬で意見を求められ、
ニュースには即断が飛び交い、
人間関係ですら、「わかりやすさ」が優先される。

でも、本当に大切なものほど、時間がかかるのです。

信頼も。
成長も。
悲しみの癒えも。
人の理解も。

発酵するように、ゆっくり深まっていく。

ネガティブ・ケイパビリティとは、その「熟成を待てる力」なのかもしれません。

3.弱さを認めることから始まる
ネガティブ・ケイパビリティの難しさは、「自分の無力さ」に触れるところにあります。

答えが出せない。
うまくいかない。
理解できない。
変えられない。

そんな自分を受け入れるのは、簡単ではありません。
しかも現代社会では、
「早く答えて」
「結論は?」
「つまり何が言いたいの?」
と、答えを急かされる場面が少なくありません。

だから人は、焦って答えを作ります。

誰かを悪者にしたり、
単純な理屈に飛びついたり、
「わかったつもり」になったりする。

でも、本当の成熟は、「わからないままでいられること」の中から生まれることがあります。

4.「問い」を持ち続ける人
人生には、答えよりも、問いの方が大切な時があります。

「どう生きるか」
「何を大切にするか」
「人を愛するとは何か」

これらは、一度答えを出して終わるものではありません。

むしろ、問い続けることで、人は深くなっていく。

ネガティブ・ケイパビリティとは、
問いを急いで閉じない力とも言えるでしょう。

5.不完全なまま、人生に向き合う
勇者とは、完璧な人ではありません。

不安を抱えながらも、
傷つきながらも、
答えのない現実に向き合おうとする人です。

人生に訪れる出来事や人は、礼儀正しいお客様ばかりとは限りません。
時には、足を引っ張り、牙をむき、罠に陥れようとすることだって少なくありません。
人生は、まさに、向かい風の中を進む如しです。

それでも、自分を見捨てずに進もうとする。
それでも、あきらめずに立ち上がり、一歩踏み出す。
そこに、人間の尊さがあるのだと思います。

時に、すぐに答えが出ない眠れない夜があります。
何を信じればいいのかわからない絶望の時があります。

でも、そんな時間は、無意味ではありません。

曖昧さに耐え、
不安を抱え、
それでも人生から目を逸らさない。

その力は、静かだけれど、とても強い。

ネガティブ・ケイパビリティとは、
「答えを急がない勇気」なのかもしれません。

日常の中のロゴス 6.ロゴスへの帰還(最終章)

第6章 ロゴスへの帰還

自分らしく幸せに生きるためには、流される生き方では難しい。
ただ周囲に合わせ、首を垂れて生きるだけでは、主体的な人生とは言えない。
自分らしく輝くためには、自分を裏切らずに生きる勇気が必要である。

それは特別な英雄のための勇気ではない。
日々の生活の中で、少しずつ実践される小さな勇気である。

・自分の感じていることを権威の言う言葉で否定しないこと。
・納得できないことには安易に従わないこと。
・自分の日々の営みを丁寧に行うこと。
・世界や他者に誠実に向き合うこと。

そうした小さな実践の中で、人はロゴスに触れていく。

この世界は必ずしも天国ではない。
しかしそれが何だと言うのだろう。
天国で天使として生きるのは簡単だ。
みんなそうだし、誰でもそうできる。

しかし、痛みと恐怖に満ちた世界で天使として生きるのは並大抵ではない。
朱に交われば赤くなる。
良いと分かっていても脅迫されてしまえば良心に従い続けることは難しい。

しかし、だからこそ、困難や逆境の中で気高い勇者として生きる生き方がかっこいいのだ。

暴風雨の中であっても深い海の底は静かで穏やかであるように、
不条理や困難も少なくない世界ではあるが、それでも世界には秩序があり、意味があり、人の営みの中にはロゴスが息づいている。
ロゴスは決して地獄を見捨てない。

よく日常はつまらないと言われることがある。
しかし、つまらないのは日常ではなく、我々の感受性かもしれない。
今ここには、不安にとらわれてよそ見ばかりしている人には気づきようのない、汲みつくすことのできない魅力が存在している。

よくよく日常を愛し、観察していけば、そこには、確かにロゴスが静かにたたずんでいることに気づくだろう。

日常の仕事も、学びも、人との関係も、創作も、すべてがロゴスと出会う場になりうる。
だからこそ、元気を出して生きてみよう。
気概を持って生きてみよう。

あなたは断じて欠点だらけの無力な存在ではない。
あなたはこの絶望の世界にあえて生まれてきた勇者なのだ。

取り越し苦労をして、つまらないことを考えているときではない。
いまは、戦いのどらを鳴らすときである。

勇ましく胸を張って、剣を大空に高らかと掲げ、駿馬にまたがり、第一歩を踏み出そう!
今こそ、王の帰還の時、ロゴスとの和解の時である。

ロゴスを感じながら、自分を裏切らず、自分らしく生きてみよう。
それは決して大げさなことではない。
日々の営みの中で、誰もが始めることのできる人生の実践である。

世界は必ずしも天国ではない。
だからと言って嘆き悲しんでばかりではいけない。
だからこそ、この世界で気高く生きようとするあなたの人生は、美しいのだから。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

日常の中のロゴス 4.自尊心の本質

第4章 自尊心の本質

自尊心とは、ダメな自分を見捨てないと言うこと。優秀さや強さを信じることではない。
自尊心とは、ありのままの自分を受け入れ、愛し、信じることができる健全なる心。
だから、自分ができることや実績、優れたところを誇る心を自尊心とは言わない。
can do ではなく beingを尊ぶことができる心情であり、自分の存在を愛し、信じる心を自尊心と言う。

「他人より優れているから」「目標を達成したから」という条件付きの肯定は、常に外部の評価という「偶像」に首を垂れている状態であり、決して主体的な世界観ではない。
人の内面には、あらゆる社会的な都合、評価をはるかに超える価値がある。

「一切の衆生、ことごとく如来の智慧・徳相を具足す(すべての人は、生まれながらにして仏と同じ素晴らしい知恵と能力を備えている)」(仏陀)

「あなたがたは皆、いと高き者の子らである。」(旧約聖書)

「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、それよりも大きな業を行うようになる。」(イエスキリスト)

「梵我一如(宇宙を司る神聖な力は、他ならぬあなた自身の中に流れている)」(ウパニシャッド)

古代の賢者たちは、共通して、人の中には偉大なる可能性があることを示唆してきた。
論理、文学、会計、対話の中にロゴスがあるように、人の中にもロゴスがまどろんでいるのだ。

自尊心とは、ありのままの自分がロゴスと無関係ではないことを知り、内なるロゴスの可能性を信じ、探求する勇気である。

いま、私が私だと思っている自分は、エゴと呼ばれている。
エゴは、大きくて複雑で矛盾する、途方もなく偉大で、途方もなく罪深く、つかみどころのない自分を、人間関係の枠に型どる自分だ。
だから、エゴは社会の中で戦う自分だ。
内にも外にも手におえないことばかりのなかで満身創痍になってがんばっている自分だ。

しかしエゴは、実は何も分かってない。
内にも外にもエゴには分かりようのない真実が隠されている。
真実は、あらゆる想像を越えて大きく、精妙で、いのちの奇跡に満ちている。

だからエゴは、もっと謙虚であったほうがいい。
だからエゴは、もっと肩の力をぬいたほうがいい。

自尊心とは、エゴが完璧になろうとすることではなく、内なるロゴスに対してどこまでも誠実であろうとする態度を指すのだ。

エゴこそが私であるという同一化を緩めて、内なるロゴスの可能性を探求する。

・自分の行為が、内なる真理(ロゴス)と共鳴しているか
・考えることと言うこととすることに秩序と整合性があるか
・世間的色眼鏡で見るのではなく、正見出来るか
・歓迎しない出来事や失敗、痛みの中にも理を見て学び成長することができるか
そうした問いかけが内なるロゴスを呼び起こす。

ロゴスの炎を自覚できる人は、もはやエゴのみでは生きてない。
エゴがため込んできた痛み、傷跡、悲しみ、憎悪に光が差し込み、癒やされ、もはや支配力を及ぼすことはできない。まさに、光は傷口から入るのだ。
天地自然の理を宿し、自然に生きて、自然に営む、その肉体は宇宙の秩序が通り抜ける聖なる管となり、その日常の営みが、人を癒し、前向きな創造につながる。
今ここに対して文句を言わず、受け入れ、共鳴し、天地と繋がる堂々たる紳士淑女として生きる。

もはや、彼、彼女を支配できるものはいない。すべての恐怖から自由になり、自分らしく幸せに生きる。

自分だけが特別なのではなく、他のあらゆる人たちにロゴスが存在することを信じ、尊重する。
・依存し、奴隷のように生きている人、
・うそをつき、人を操作して、狡猾に生きる人、
・暴力を振ることを厭わない人、
・傲慢な人…
あらゆる人、たとえ愚かな極みの人たちであっても、自分の中にロゴスがあることを知っているように、その中に存在するロゴスを知っており、その可能性を決して絶望しない。

ロゴスと関わることを通して、人は、より自由になり、より自分らしく輝くようになる。
一隅を照らす人になる。
一人が輝けば、周囲が変わる。
ロゴスを見出した人は、かかわる人たちが、次第に、微妙に、根本的に変わってくることに気づくだろう。

ロゴスは、決して絶望しない。
「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない」フランクルの言葉の通り、
「あなたがあなたを嫌い、自分自身に絶望しても、ロゴスは決してあなたに絶望しない、決してあなたを見捨てない」のだ。

だから、ロゴスを自分の中に探求する勇気を放棄してはいけない。
あなたが意識できようとできまいと、あなたの人生にはロゴスがついてくる。
飲んだくれて暴れまわる自分、煙草をくわえてパチンコに没頭する自分にもロゴスはともにある。
ロゴスは決して裁かない。しかし、あなたの帰還を待っている。あなたが内なるロゴスに目を向けることを待っている。
あなたが一歩ロゴスに近づけば、ロゴスは百歩近づいてくれるだろう。

自尊心とは、内なるロゴスを裏切らないこと。
今こそ自尊心を取り戻す時、
文句を言って嘆いてばかりいてはいけない。
どんなに最悪な状況でも、いまここは、あなたのまいた種なのだ。
だから、いつでもどこでもそこから始めなくてはいけない。

そこにもきっとロゴスは潜んでいる。
あなたとロゴスの関係を割こうとするものの力を信じるのではなく、
自らロゴスと近づく力を信じる。
自分を見捨てないで自尊心を持って生きる。
その生き方こそが、閉塞感ある人生の突破口となるのだ。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

日常の中のロゴス 3.偶像崇拝の罠

第3章 偶像崇拝の罠

ロゴスは日常に、いまここ、そこかしこに存在しているが、それに気づくためには主体的な探求が必要である。

しかし、自分はロゴスと関係を持ちえないと思い込み、ロゴスを見出そうとする気概を失うと、偶像崇拝の罠にはまる。

偶像とは、像ではない。
神と人とのあいだに立ち、関係を独占しようとする構造である。

それは外部にも現れる。
制度、権威、象徴、教義…。

しかし同時に、それは内部にも生まれる。

誰かに従うことで安心しようとする心、
探求心を忘れ他人の考えを鵜呑みにする態度、
不安や恐怖を隠すための強さの仮面、
自分の気づきよりも権威の主張を信じる思考停止…。

偽神は、外からのみやってくるのではない。
人の恐れと結びついたとき、
内と外のあいだに形をとる。

ロゴスとの関係性は、本来、直接的である。
それは代理を必要としない。

だが人は、自由よりも安心を選ぶことがある。
問い続ける緊張よりも、完成された答えを求めてしまう。
その原因は、恐怖だ。
不安は、外部の出来事に由来しない。
その出来事に対して、うまく対処できないかもしれないという妄想、自信のなさに由来する。
時に人は、自尊心ではなく恐怖に首を垂れることがある。
偶像は、その隙間に入り込むのだ。

偶像は、安心を与える。
だが同時に、ロゴスと向き合う気概を奪う。

人は、神と直接に関わることができる存在だという気概を忘れてはならない。
世界が壊れていることを理由に、「だから神はいない」と結論づける人もいる。しかし、私は逆にこう考える。
世界が功を成さず、歪みを抱えているのは、私たちが神と向き合う気概を失ったからではないのか。
神を論理の外に追い出し、ロゴスを抽象概念に縮小し、宗教を制度に閉じ込め、そして自分は無関係だと退いてきた。
その結果、人間関係は警戒と取引の場となり、組織は損得の構造になり、対話は勝敗になった。
我々は、ロゴスと向き合う気概を失うと同時に、日常の中のロゴスを見捨ててしまったのだ。

しかし、ロゴスは、人が向き合おうと向き合うまいとにかかわらず、常に今ここにある。いつでも、どこでも、我々がどんなに愚かな状態であっても、1mmもずれずに、1秒もはなれることなく、我々とともにある。
裁かず、嫌わず、操らず、見捨てず、原子がひどいありさまの我々を見放さないように、ロゴスは今ここで微動だにせず我々と共に在る。

我々は、ロゴスとの関係性を取り戻す必要がある。
不安に首をたれて、自信を失い、偶像に依存していたとしても、ロゴスは決して見捨てない。放蕩息子がもう一度戻ってくることを辛抱強くいつまでも待っている。
我々がどんなにみじめで愚かな状況であっても、我々に内在するロゴスとの糸は決して切れることはない。
世界が混乱し、既存の価値観が揺らぎ、生き方の方向性を見失いはじめている今こそ、我々は、その偉大な可能性への信頼、自信を取り戻す必要があるのではないだろうか。
自らに内在するロゴスと向き合う勇気と気概を取り戻す必要があるのではないだろうか。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

日常の中のロゴス 2.ロゴスを語源とする言葉

第2章 ロゴスを語源とする言葉

ロゴスが、どこか遠く手の届かないところに鎮座する抽象的な権威ではなく、むしろ私たちの日常の営みの中に息づいている存在ではないか――そのことを示唆してくれるのが、ロゴスを語源とする言葉である。

実は、ロゴスを語源とする語は意外に多い。

① 理論・論理(logic、λογική)

ロジックという言葉は、日常でも頻繁に用いられている。この語は、ギリシャ語の λογική(logikē) に由来し、λόγος(ロゴス) に形容詞語尾 -ικός が付いた語で、「ロゴスに関するもの」「理に関わるもの」という意味を持つ。

私たちは「ロジックが通らない」「ロジックに合っている」と言うが、それは単なる計算的合理性の問題ではない。本来の意味に立ち返れば、それは「真理にかなっているか」「真実に沿っているか」という問いでもある。

ロジックとは、冷たい科学的手法というよりも、本来はロゴスに耳を澄ます営みなのである。

② 文学(λογοτεχνία)

ギリシャ語の λογοτεχνία(logotechnia) は、λόγος(ロゴス) と τέχνη(technē:技術・わざ) から成る語である。すなわち文学とは、「ロゴスを扱う技術」という意味を含んでいる。

古代ギリシャにおいて、言葉は単なる表現手段ではなかった。それは存在や神々とつながる媒介であり、文学とは、言葉を通してロゴスに触れ、秩序や真理に参与する営みでもあった。

一方、英語の literature はラテン語 littera(文字)に由来し、文字による表現という側面に重心が置かれている。

もちろん、ラテン語的伝統が文学を矮小化したわけではないが、ギリシャ語の持っているロマンや言葉の背景にある生命感、みずみずしさが失われてしまった。 この差異は、文学観や人生観に微妙な違いをもたらしているように感じる。

③ 学問(-logy)

現代の学問の多くは、語尾に -logy を持つ。

biology(生物学)
psychology(心理学)
theology(神学)
sociology(社会学)

これらはすべて、ギリシャ語の λόγος(ロゴス) に由来する。

たとえば biology は、βίος(生命)+ λόγος。
「生命についてのロゴス」である。

psychology は、ψυχή(魂・心)+ λόγος。
「心についてのロゴス」である。

学問とは、対象を支配することではない。
対象に潜むロゴスを丁寧に読み取ろうとする営みである。

生物学者は、生命の背後にある秩序を探る。
心理学者は、心の働きに通底する理を見つめる。
神学者は、神についてのロゴスを思索する。

学問とは、世界に意味があるという前提の上にしか成り立たない。

もし世界が完全な混沌であれば、
そこに「学」は成立しない。

私たちは無意識のうちに、
世界がロゴスに満ちていることを前提にして研究している。

④ 会計(λογισμός)

ロゴスから派生した語に、λογισμός(logismos) がある。
これは「計算」「勘定」「理性的思考」を意味する。

ここから英語の logic や logistics も生まれている。

会計とは、単なる数字の処理ではない。
そこには「整合性」という厳格な秩序がある。

貸借は必ず一致する。
数字は嘘をつかない。

そこには、見えないが確かな理が通っている。

帳簿を整えるという行為は、
混沌を秩序に変える行為である。

また、会計はその質が高ければ高いほど、現在の問題を浮き彫りにし、未来を予測する。
会計は、預言にもなりうるのだ。
それは経済活動の中にロゴスを呼び戻す営みとも言える。

⑤ 対話(διάλογος)

διάλογος(dialogos)は、
「διά(〜を通して、~の間を)+ λόγος (ロゴス)」から成る。

対話とは、「ロゴスを通して交わること」である。

それは単なる意見交換ではない。
対話とは、二人のあいだにあるロゴスを共に探る行為である。

20世紀の量子物理学者であり哲学者でもあったデヴィッド・ボームは、その著書『対話(On Dialogue)』の中で、ダイアローグの語源を「ロゴスが通り抜けていく(through)」と解釈した。

人間関係の質によっては、そこに単なる言葉だけではなく、真実や真理、神聖が流れてくると言う意味であり、アートになりうるものなのだ。

真の対話の中では、人は、その場にいるだけで癒され、自分を取り戻し、成長することができる。

人間関係の中で、正直さと安心、相互理解と共感、楽しさや喜び、思いやりと静かで穏やかな愛、関係性の中にとてつもなく精妙でパワフルなものが流れるその瞬間、ロゴスが姿を現している。

人間関係は、炎のようなもの。

温度が足りなければ、不完全燃焼を起こす。

煙が立ち上り、目を刺し、空気を濁らせる。

疑い、警戒、さぐり合い、遠慮、計算。

それらは不完全燃焼の煙である。

しかし、十分なエネルギーが生まれたとき、

炎は明るく、あたたかく、力強く燃える。

そこでは煙は消え、場は明るく照らされ、

人は安心し、率直になり、あたたかさや活力を取り戻す。

対話とは、この炎を起こす営みである。

そして、その炎を通してロゴスは臨在するのだ。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

日常の中のロゴス 1.ロゴスとは何か

第1章 ロゴスとは何か ~ 世界に秩序はあるのか~

私たちは、日々さまざまな営みを行っている。
働き、学び、人と語り、数字を扱い、言葉を書き、誰かを思い、決断をする。

しかし、こうした営みの背後に、ひとつの問いがある。

この世界には、秩序があるのだろうか。
それとも、ただ偶然が積み重なっているだけなのだろうか。

もし世界が、いままさに起こっているように無秩序で、意味もなく、ただ力の強いものが勝つだけの場所だとしたら、私たちの努力や誠実さは何の意味を持つのだろう。
逆に、この世界に何らかの秩序や理(ことわり)が流れているのだとすれば、私たちの営みは、その理や秩序と触れ合う行為になりうるのかもしれない。

古代ギリシャ人は、この世界を貫く理を ロゴス( λόγος ) と呼んだ。

ロゴスとはよく日本語で言葉と訳されるが、単なる「言葉」の意味ではない。
それは、論理であり、秩序であり、真理であり、気高い意識、神聖さでもある。

理解できるという事実。
論理が整然と通るという経験。
数式が成立するという驚き。
誠実さが信頼を生むという実感。

それらすべての背後に、ロゴスがある。

ロゴスは、どこか遠くにある神秘的な概念ではない。
それは、私たちが「なるほど」と感じる瞬間に現れる。
混乱が整理され、矛盾が解け、筋道が通るとき、私たちはロゴスに触れている。

しかし現代において、ロゴスはしばしば「言葉」とだけ訳され、その深みを失ってきた。
「言葉」という訳語は間違いではないが、あまりにも狭い。

ロゴスは、世界が理解可能であるという前提そのものなのだ。

もしロゴスが存在しないなら、
学問は成立せず、会計も成立せず、法律も倫理も、対話も成り立たない。
理解できるという信頼そのものが崩れてしまう。

つまり私たちは、無意識のうちにロゴスを前提にして生きている。

だが問題はここから始まる。

ロゴスは、どこにあるのか。

一般的によく言われているように、
権威の中にあるのか。
制度の中にあるのか。
宗教的象徴の中にあるのか。

それとも、

実は、もっと身近な、
例えば、私たちの営みの中に静かにまどろんでいるのか。

本書は、この問いから始まる。

ロゴスは特別な権威ある人間だけが扱える縁遠い存在ではなく。
それは、日常の営みの中にひそみ、我々の質の高い行為によって我々の目に映るようになるのではないか。

ロゴスは、いつでも、どこでも、どんな時にでも我々と共に在るが、我々がそれを知らないだけなのではないか。

次章では、ロゴスがどのように日常の営みの中に息づいているのかを探っていく。

 

【「日常の中のロゴス」シリーズ】

1.ロゴスとは何か

2.ロゴスを語源とする言葉

3.偶像崇拝の罠

4.自尊心の本質

5.教育と日常哲学

6.ロゴスへの帰還

後悔と反省の違い

 後悔と反省は違う。似て非なるものである。
 後悔の背景には恐怖と怒り、反省の背景には信頼と希望がある。

 後悔は、自分が失敗したことを受け入れてない。自分に欠点や至らない点があることを他人に暴露されることが恐ろしいのだ。
 「役に立つ人間、すごい人間、完璧な人間」でなければ他人に認められない、又は、存在を許されないとかたくなに恐れており、使える完全無欠な人間であるようにふるまい、他者にも自分をそう見てもらえるように操作的に関わる。
 しかし、すごい自分を演じている自分が実はすごくないことを一番よく知っているのは自分だ。そして、自分の中のみじめで役立たずで不完全で醜いと思い込んでいる自分を隠し、憎み、恥じている。
 だから、自分の至らない点を受け入れることができない、と同時に、起こった出来事をありのままに受け入れることができない。それが起こったのは自分のせいではない、他人、環境、社会のせいであって自分の落ち度ではない。そもそもこんなことは起こるべきじゃなかった。自分は不条理な被害を受ける被害者であり、言われないそしりを受ける弱者である。と思い込み、自己防衛と復讐に奮闘努力するのだ。
 結果、後悔には偽善、欺瞞によって塗り固められた自画像を固く死守することにこだわり、一切の変化や成長は封じ込められてしまう。暗く閉ざされた巣穴に引きこもり、光が差し込むことはない。

 反省は、後悔とは違う、似て非なるものである。
 後悔は痛みであり、反省は癒しである。
 反省は、痛みを伴うどのような体験であっても、決して目をそらすことなくありのままに見ようとする。どのような現実であれ、現実を肯定し、そのままに受け止めようとする。良くも悪くも起こる出来事は、起こるべくして起こったことであり、それ以上でもそれ以下でもない寸分も狂いもないものであると受け止めている。
 出来事に対して、不平や文句を言わずに受け止めるには信念と覚悟がいる。
 自己防衛と言い訳に勤しむ自分を慎み、自分の成長の可能性を信じて未知に挑戦し、変化し成長しようとする覚悟。
 出来事の全ては天の采配であって、天が自分に与えてくれた良き教材だと信じる信念だ。
 それはシンプルなものであり決して理解が難しい考え方ではないが、体現することは簡単ではない。その高い壁を乗り越えられる人はそう多くはない。しかし、その大きな分水嶺を乗り越えた人にこそ癒しはやってくる。
 反省は、自分に痛みを与えた出来事、人、環境を許し、同時に、そのようなみじめな体験をした自分自身をも許す。自他のコインの両面を許すのだ。
 許されたものは、ありのままの真実を開示する。狭い了見のエゴで捻じ曲げて解釈していた時には分かりようのなかった秘密が打ち明けられるのだ。
 それは、かたくなに隠し通されてきた痛み、怯え、罪悪感、恥、封じ込められていたさまざまな悪霊が解放され、許され、癒されていくということ。
 それは、まったく知らなかった偉大なる仕組みや法則や可能性が開示され、自分の立場や視野の新しいリアリティ、次元が拡大するということ。
 それは、自分を縛り付けていた呪縛から解放されて、自分らしい成長を喜ぶということなのだ。

 結果、反省は、ありのままの自分を見つめ、反省し、どうすればよいかを考え、挑戦していく。

 “光は傷口から差し込んでくる。”
 反省は、内面に光をもたらす。内面に真実の光が差し込むことによって、人の痛みや苦悩がやさしく温かく癒されていくことになる。

 “希望は絶望の後にやってくる。”
 反省は、絶望の痛みがあったからこそ、それを乗り越えた人にやってくる希望に満たされる。
 それは、歓喜であり、全く新しい自分の偉大なる可能性である。

 後悔してはいけないということではない。時に膝を抱えて休むことも必要である。しかし、いつまでも自己憐憫に浸ることは慎まなければならない。どんなに嘆いても事態は改善しないからである。
 ひと時休んだら、反省に取り組まなければならない。
 “見ても見ず、聞いても聞かず、理解しないのではなく、しっかりと見て聞いて理解しなければならない。

 逃げてばかりでなく踵を返して前を向かなければならない。
 立ち上がって戦士となってドラゴンに向き合わなければならない。
 なぜならば、あなたは勇者だからだ。
 あなたは、魂を持った偉大なる勇者であって、決して卑屈な負け犬ではない。
 あなたには、今の未熟なありかたから脱皮し、成長する宿命がある。
 いつまでも大きな芋虫ではいけない。
 あなたは、蝶となって自由に大空を舞うことが使命なのだ。

 決して忘れてはいけない、あなたは今あなたが思っているようなちっぽけな存在ではない。
 あなたは、成長を使命とする魂を持ったたぐいまれなる個性を持った魅力的で力ある勇者なのだ。

 あなたには、あなたと同じように苦しんでいる人を助ける使命があることを忘れてはいけない。

 いまこそ、あなたの魂、その使命に耳を傾けるとき。

“私“とは ⑥私が私らしく生きるために

 ⑦セルフリーダーシップを回復するために
 前節で、自分らしく幸せに生きるためには、Selfとパーツが信頼しあい、協調しあえる調和の状態であることが必要だということが分かりましたが、では、どのようにすれば、そのような調和や統合が可能なのでしょうか。以下、IFSの考え方を参考にして、セルフリーダーシップを確立し、自分らしく輝いて生きるための方法について検討していきましょう。

⑴人は、あたかも難しい大企業の経営を営んでいる社長のよう

 IFSの視点からは、人は、好むと好まざるとにかかわらず、すでに多くの部下を従えた大企業の社長のような存在として難しい経営を営んでいるように見えます。ですから、自分らしく生きることは実は簡単ではないのです。もし、いま、生きづらさを感じているとしたら、それは当たり前のことであり、大企業の社長としての修行、成長のプロセスなのだと理解すべきでしょう。

⑵SELF を主体として生きることが自分らしく輝いて生きるということ

 IFSの考える“私”とは、Selfと多くのパーツを含めた全体像を言いますが、自分らしく幸せに生きれている状態と言うものは、あくまでもSelfが王座に座り、王国全体が調和的にある状況を言います。パーツは大切な自分の一部ですが、決して主人ではありません。パーツを玉座に据えてしまうと、本来の自分らしい生き方と言うよりは、客人による生き方、Selfのもっている気高さ、輝きを失った本来の自分らしくない生き方となってしまうでしょう。パーツを否定してはいけませんが、決して無関心、無放縦にしてもいけません。Selfによるリーダーシップを通してありのままを観察し受け入れ、パーツの持っている痛みや渇きをいやすことを通して、過度な興奮を鎮めていくこと、パーツとの信頼関係を育むこと、そしてSelfによる内面の王国のリーダーシップが確立していくことが大切だと言えます。

⑶自分の中のあらゆる自分を認める

 IFSでは、まずは、自分の中に、自分が見捨ててしまったパーツがあることを受け入れること、そして傷ついたインナーチャイルド、追放者と和解し、癒し、再統合を図ることが必要だと考えています。どのパーツも見捨てずに歓迎する、全てのパーツに尊厳と感謝をもって癒しを深めていく自己への共感によるヒーリングが必要だと考えているのです。

 私の中の追放者は、私が見捨ててしまった小さな私であり、私の顕在意識の手の届かないところに追いやってしまったために、もはやコントロールすることはできません。戦うことはもちろん、突き放す、無視する、脅す、褒美を与える、取引する、など、追放者が自分の一部ではなく分離した対称という認識を持ったままでは、どのようなテクニックを弄しても、問題を解決することはできません。
 本質的な問題解決に必要なことは、もともと私だった追放者を再び迎え入れること、私の中の痛みの存在を認め、ありのままを受け入れ、共感し、再び自分として統合を図ることなのだと言えましょう。

⑷光は傷口から入ってくる

 傷ついているパーツ、腹を立てているパーツなど、全てのパーツを見捨てずに尊重し、その痛みや弱さを思いやりをもって癒し救うことが、SELFの目覚めにつながります。

 追放者や追放者を巡る私の中の管理者、消防士たちは、過去の痛みや傷から自分自身を守るために育くまれてきた自分の中の防衛機構です。いわば、かさぶたであり、古傷であり、残ってしまっている痛々しい傷跡です。時に、社会的なやっかい事を引き起こす原因となる者たちですが、それはあくまでも私を守る使命を全うしようとするが故の懸命な活動からくるものなのです。ですから、それらを決して見捨ててはいけません。都合が悪いからと言って嫌ったり抑圧したり無視したり排除しようとする試みは、決して成功しません。むしろ事態を悪化させてしまうでしょう。

 自分で自分を嫌うということは、IFS的に言うと、パーツがパーツを嫌うといういわゆる兄弟げんかのような状態です。どちらが正しくてどちらが間違えていると言うことはありません。強いて言えばどちらも不完全なのです。どちらが勝っても調和はとれませんし、どちらが負けても問題は解決しません。内的に分離と葛藤を起し激化させることは、ますます事態を混沌とさせていくことでしょう。

 最も大切なことは、あらゆるパーツを見捨てないこと、パーツゆえの使命を認め、受け入れ、愛すること、かつてのみじめで悲しい自分を認め、受け入れ、だきしめることこそが内定調和をもたらすことを理解する必要があります。まさに、光は傷口から入ってくるのです。パーツの痛みや渇望を受け止め、愛し、癒すことこそが、本来の自分であるSelfの目覚めを促し、内的な癒しと調和をもたらし、本来の自分の徳性、魅力を引き出すのです。。

⑸権威は自分の内面にある

 癒しや問題解決の源泉(SELF)は、他でもない自分の内部にあります。内的な調和を失うと、Selfの存在を見失ってしまい、自分にはSelfなど存在しないと思い込んでしまいがちです。あたかも、厚い雲に覆われてしまって、太陽の存在を見失ってしまうことと似ています。

 しかし、権威はあなたの中にこそあるのだということを忘れてはいけません。自分の内面の太陽を信じられないからこそ、それを他に求めて、まがい物の石やツボ、教えや偶像に全財産をつぎ込んでしまうのです。しかし外面に権威を求めても決して救われることはありません。だって、Selfはあなたの中にしかないのですから。

 それがどんなに強くて大きくても、自分の玉座を外部の権威に明け渡してはいけません。 あなたは、あなたの人生の王様や王女様であり、決して脇役や召使いではありません。
 
  今のあなたは、貧しく、小さく、頼りない状況かもしれません。 しかし、だからと言って、熱いハートを失う必要はありません。他人の考えをうのみにするのではなく、自分で考え、自分で決断するのです。
 
  貧しいからこそ、大きな夢をもって気高い理想を貫くのです。
  小さいからこそ、可能性を信じ、成長を楽しむのです。
  弱いからこそ、胸を張って勇気を持って生きる生き方がかっこいいのです。

 ありのままの自分、かっこいいところもあればかっこ悪いところもある自分を受け入れること、大切にすること、慈しみ、愛することからすべては始まります。

 そもそも、追放者は、困難な人生を生き残るための適応方法として生み出されたものであり、それが無ければ私は生きてこれなかったかもしれないのです。
 私の中の管理者は、自分勝手であり不完全な存在ですが、わたしを社会的な危機から守るために一生懸命なのです。それは管理者としての性であり、醜いことでも直すべきことでもなく、そうあることが当たり前なのです。私の中の消防士は、なりふり構わずに痛みを消そうとするので、時に反社的であり、時に不本意な問題を引き起こす厄介者のように感じますが、実は、私が生き残るために体を張って戦ってくれている戦士であり、私を愛してくれている大切な家族なのです。
 私の中のパーツたちと向き合うために必要なことは、暴力ではなく、ひとえにおもいやり、やさしさ、共感であり、高い精神性なのだと言えましょう。

 あなたは、断じて欠点だらけの力ない敗北者ではありません。あなたは、たぐいまれなる個性と美徳をもって生まれてきた勇者なのです。あなたの可能性は、今の想像をはるかに超えるほどの偉大さをまどろませています。その可能性を信じること、自尊心をもって生きることこそ、自分らしく生きる生き方を導くカギとなるのです。

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 Selfとパーツの関係の在り方によって、本書では、「私」は、⑴調和の状態 ⑵葛藤の状態 ⑶機能不全の状態 の3つの状態に変容していくと考えています。それぞれの状態の特徴について以下解説していきましょう。

⑴調和の状態
 Selfの働きによってパーツが十分に癒され、ネガティブのエネルギーの束縛から解放されると同時に、Selfとパーツの信頼関係が育まれて、基本的な安心感、世界と向き合う上での確固たる基盤が出来上がります。
 また、世界に対する信頼感、前向きな思いを取り戻し、チャレンジ精神や粘り強さ、明るさや勇気といった本来の美徳、問題解決能力を取り戻して、たくましく力強く人生を切り開いていきます。
 この状態こそが、人本来の可能性が表現されている状態であり、もっともその人らしく幸せに輝いて生きている状謡といえます。

⑵葛藤の状態
 Selfは、活発なパーツの活動に打ち消されて、背景に隠れてしまい、もはや主導権を失った状態です。
 Selfを自覚できなくなると、私は、一部のパーツと同一化し、一部のパーツを私と認識するようになります。しかしそのパーツは、Selfとは違い、癒す力や人徳によるリーダーシップを発揮する能力はありません。時には、取引や計算高さ、あめとムチ、脅しや操作などの質の悪い管理者のするようなふるまいで他のパーツをリードすることはあるでしょうが、決してSelfの特性は期待できません。リーダーとしての限界があるのです。
 また、パーツは、内面に複数存在し、その目的や利害が一致しているわけではなく、かならずしも同一化したパーツに、他のパーツがすなおに従うわけではありません。ですから、一部のパーツが主導権を握った「私」の内面は、反論、抵抗、攻撃、など、パーツ同士が絶えず主導権を巡って戦いあう葛藤状態となります。
 パーツ同士の葛藤が深まり、分離が強くなればなるほど、「私」の自己イメージは悪化し、自尊心を損ない、自己嫌悪が激しくなっていきます。
 この状態になると、パーツの主導権が、頻繁に移行するようになります。要するに、ニコニコ笑っているかと思うと、いきなり怒り始め、暴言を吐くなど、他者から見ると、まるで人格が変わったような(実際に変わっているのですが…)現象が起こるのです。
 

⑶機能不全の状態
 自分で自分だと認めたくない部分、自己嫌悪の対象、追放者が多くなればなるほど、自分の領域は狭くなり、自分は不自由で制限のあるふるまいしかできなくなり、無力感は増していきます。また、追放者を扱う管理者や消防士などのプロテクターにもエネルギーを注がなければならないので、自分のエネルギーはどんどん枯渇し、常に疲労している不活性な状態になります。そして、次第に自分の内面をマネジメントすることに対して絶望し、責任を持てない混乱の状況になっていくのです。
 この状態になると、パーツ同士は、協調するというよりは、自分勝手にふるまい始め、相互の分離感は強く、壁が厚くなり、主導権を争う葛藤も激しくなります。
 また、「自分」は、増々無力で不活性状態になっているので、容易にパーツの影響を受けるようになり、主導権を奪われ、自分の意思というよりはパーツの意思で生きるようになってきます。
 この段階になると、解離が強くなり、記憶の連続性が失われることもあります。「私」は、私の場で起こっているすべてのことを把握することが出来づらくなってしまう、まさに無秩序、混乱の状態、「私」の機能不全の状態となってしまうのです。

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