“私“とは ②「私は私、他の誰でもない」っていう気持ちはどこから来るの?

③左脳の作る「私」という物語
 誰もが、「私は私、他の誰でもない」と考えています。私という人格は一つであるという感覚は、当たり前で普通でとてもとても強い感覚です。ですので、「私は一つの人格ではなく、複数の人格の集合体」と言われると、強い抵抗を感じてしまうでしょう。複数の人格の集合体としての自分を実感できないのです。
 では、どうして、私たちは、自分を自分だ、一つの人格で、他にはないと感じるのでしょうか。現実的に複数の人格の複合体として存在しているとしたら、それらを私たちはどうやって統合し、一人のようにふるまっているのでしょう?
 この問いに対するヒントも、分離脳研究の実験が示唆してくれています。

 分離脳患者の左目と右目に同時に異なる2枚の絵を見せます。右目(左脳)には「ニワトリの足」の絵を、左目(右脳)には「雪景色」を見せるのです。続いて、患者に見た絵と関連するものをそれぞれの手で選ぶように指示します。すると、右手(左脳)は「ニワトリ」の絵を選びましたが、左手(右脳)は「ショベル」の絵を選びました。なぜその絵を選んだのかを尋ねたところ、右手(左脳)が選んだニワトリに関しては、「簡単なことですよ。ニワトリの足だからニワトリにしたんです。」と答えました。それでは、左手(右脳)が選んだ「ショベル」に関しては、どう理由を説明したのでしょう?被験者は、こう言ったのです。「ニワトリ小屋の掃除にはショベルを使いますからね」
 質問に答えている自分(言語野のある左脳)は、右脳が見た雪景色が分かりません。だから、右脳がショベルを選んだ正確な理由はわからないのですが、無理やりその理由を作り上げたのです。

 他の実験では、右脳に「歩け」というカードを見せると、被験者は立ち上がり部屋を出ていきました。右脳は指示を受けて直ちに行動を起こしましたが、左脳はそのプロセスが分かりませんので、自分の行動を説明できないはずです。しかし、その後医師が「なぜ部屋を出ていったのですか?」と問うと、「のどが渇いたのでコーラを取りに行ったのです」と答えたのです。

 ここで注目してもらいたいことは、両方の事例ともに「分かりません」とは答えなかったことです。左手がショベルを選んだ理由は左脳はわかりませんし、部屋を出ていった理由は左脳はわかりません。しかし、その理由を問われると、ただちに、つじつまの合いそうな上手な理由を後付け作り上げたのです。
 左脳には、こうした雑多な情報を関連付けて一連の物語として出来事を把握していきたいという強烈な衝動があると考えられています。そして、その働きをするシステムを「左脳のインタープリター(解釈装置)」と呼びました。

 インタープリター機能は、自分の中に起こる情動、感情の後付けの解釈にも発揮されます。ある女性の分離脳患者の左目(右脳)に男性が燃えさかる炎に飲み込まれるビデオの一場面を見せた後で、何が見えたかを聞いたところ「白い閃光が光っただけで、何だったかわかりません」と答えました。さらに気分の変化を聞いたところ「理由はわかりませんが、恐ろしく、落ち着かない気持ちです。この部屋が悪いのか、はたまた、先生のせいなのか…。」彼女は、後にスタッフの一人にこう語ったそうです。「ガザニガ先生のことは好きですけど、いまはなぜだか怖く感じます。」
 この事例からは、右脳の感じる不安や恐怖感を、左脳は、自分が知っている事実(怖い気持ちがある、ここにはザガニガ先生しかいない)を組み合わせて自分が納得しやすい形で理由付けし、心の安定を保とうとしている様子がうかがえます。
 つまり、人は、自分の内面で起こっているさまざまな反応、自分の中の小さな自分の表現、たくさんの声や要望を、左脳のインタープリター(解釈装置)の機能によって後付けで一連のつじつまの合う物語として統合させて、他者に対して自分の物語として表現していると考えられています。「私」という統一感や感覚は、この左脳のインタープリターによって支えられ、作られているのではないかと考えられているのです。

④左脳の私は本当の私ではなく、私のスポークスマン
 前述の通り、分離脳研究の成果として、他者に向き合うときに浮かび上がってくる私という意識は、左脳のインタープリターによって作り上げられていることが分かってきました。
 ただ、左脳が織りなす私の物語は、左脳以外の私の多くの部分が体験している真実でもなければ、起こっている事実と必ずしも一致しているわけではなく、思い込みや勘違い、時には捏造やでっち上げが織り込まれているストーリーとなります。
 なぜならば、左脳のキャッチできる情報は、右脳などの他の部位が起こした反応の結果であり、そこが見たもの、感じたこと、気持ち等の真相、真実は分かりません。ですので、左脳は、ありのままを知ってそれを整理しているのではなく、理由はわからないけれども自分が起こしてしまった出来事を、つじつまが合うように後付けで解釈しているだけだからです。左脳には、そうした自分を保つため、自分を守るため、問われたら説明できるようにするための仮説化や合理化の強烈な衝動があるのです。

 ここで一つ確実なことは、左脳の解釈している私は、言葉の鎧をまとうための私であって、決して真実の私ではないということです。左脳の解釈する私は、「今ここのありのままの私」ではありえません。なぜならば、いつも後付けだからです。
 起こったことを言語化すること自体が今ここのリアリティと同時ではなく、必ずリアリティの後のプロセスとなる上に、言語化された断片的な情報をもとにつじつまを合わせるべく物語化するので、時間的にも空間的にも作られた物語はありのままの現実ではありえないのです。

 また、私には、多様な側面があります。左脳と右脳、身体と感情と思考、さまざまな側面が織りなす私という場、まるで私という場は、たくさんの人たちが働く会社のようです。
 もし私という存在を会社に例えるとしたら、左脳の私は、決して社長ではありません。なぜならば、社員のことをよくわかっていないからです。社員がほんとうに見たこと感じたこと気づいたことを感知せずに、見たいものだけを見て独りよがりで解釈してしまう人は、社長とは言えませんよね。

 左脳のインタープリターは、脳梁が切断された後で、右脳と離れたことを寂しがったり懐かしがったりすることはありません。右脳からの膨大な情報が遮断されたのでそれに気づいてもよさそうなものですが、何も問題を感じないし、逆に好調であると主張します。ですので、脳梁の切断以前から右脳の存在を感知していなかったと考えられます。
 右脳からの情報は、問題が起こっている時だけ関心を向けるだけで、普段はいてもいなくても知ったことではない、感知しないのです。どうやら左脳の関心は、私の内面で何が起こっているかを理解することではなく、対外的な脅威からわたしを守り、わたしを維持し、表現することのようです。
 業績や人からどう見られるのかの外見ばかりに気を取られて、社員に興味や関心がなく、いなくなっても何とも思わない、そもそもそこにいることすら分からないほど社員に関心がない人は、社長とは言えませんよね。

 左脳の私は、言葉を通して他者とコミュニケーションをとることができるので、自分そのもののように感じますが、決して本当の私ではありません。なぜならば、本当の私が見て聞いて感じたことは、左脳の私が言っていることと一致していないからです。それは、あくまでも、対外的に自分というあり方を守り、表現するための言葉の鎧であって、自分そのものではありません。それはあたかも、会社のスポークスマン、広報部長のような存在なのかもしれません。

<“私“とは 関連記事>

私の人格は一つではない

「私は私、他の誰でもない」っていう気持ちはどこから来るの?

広がる私の可能性

内的家族システムによるセルフリーダーシップの考え方

Selfとパーツの関係がもたらす「私」の3つの状態

私が私らしく生きるために

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)