仲間たちとの有意義な時間

コロナウィルスの感染が拡大しています。どうやら6月に東京で変異した型が全国に拡散したようですが、ウィルスは一般的に徐々に弱毒化する特徴があるようですね。変異した型に感染して重症化するケースは抑えられているので騒ぐべきではない、と言う人がいたり、PCR検査をどんどん増やすべきだという人がいたり、何が正しい打ち手なのか結果が出るまでもう少し時間がかかりそうです。ただ、そうこうしているうちにも、コロナウィルスは私たちの生活を大きく変えてしまいました。その中でも働く人にもたらした最も大きな変化は「在宅勤務」だったのではないでしょうか。

2010年の秋から2年間、社会人大学院に通い「人と組織」について学びを深めました。当時勤務していた会社で「次世代事業責任者育成プログラム」をつくることになって、圧倒的に知見が不足していた私は、前職の先輩から、ご自身が修了生である大学院への進学を勧められました。結果としてこの判断はとても正しかったと思います。そして、大学院進学によって得られた果実の中で最も大きかったのは、気持ちを一つにする6人の仲間との出会いでした。大学院入学から10年が経過した今年、コロナウィルス感染拡大による社会の激変は、この間の出来事をすべて吹き飛ばすくらいのインパクトがありました。激変の真っただ中にいる今だからこそ一旦立ち止まり、学びを深めたあの頃を振り返る意味があるのではないか。そして、過去の延長線上にはない未来を展望するのは今をおいてほかにないのではないか、との思いが湧いてきました。そこで、10年目の節目にZoom同窓会で久しぶり再会した仲間たちに提案しまして、勉強会を始めることになりました。

8月8日に行った第一回の勉強会のテーマは「在宅勤務」でした。「人と組織」への興味関心が人一倍強い私たちメンバーにとって、コロナウィルス感染の影響で、多くの日本人が満員電車に揺られて通勤するという生活が根底から変わることへの期待感、また、同時に生じる弊害や運用上の課題について深堀りする価値があると考えてこのテーマを選択しました。勉強会に先立ち、事前課題として東洋経済ON LINEの記事「「永久在宅勤務」が日本で主流の働き方になる日」を各自読んで、読後の感想を述べ合い、更にその感想に対してディスカッションしました。

この東洋経済ON LINEの記事のポイントは以下の通りです。

1、「在宅勤務」には適した人、職種があり全員には適用できないと考える経営者が多い

2、一方「在宅勤務」は当然のように会社が講ずるべき対応と考える社員が増えている

3、退職理由や再就職先の条件として「在宅勤務」が挙げられ、企業側もこれを無視できない状況になりつつある

また、勉強会終了後にはロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン教授(世界的ベストセラー「ライフ・シフト」の著者)による、「在宅勤務」が働き方に与える影響について述べた、以下の日経ビジネスの記事をメンバー間で共有しました。

1、社内のヒエラルキーが薄まり本質的な「信頼関係」が重要となっているようだ

2、また、ヒエラルキーが薄まった会社において「信頼」を得られるのは、明確な目的を掲げ、高いスキルを持ち、嘘偽りのない人となるだろう

3、遠隔地で勤務が可能になり、地方へ移住する人が増えるだろう

以上を見る限りでは「在宅勤務」の広がりは不可避のように見えます。しかし、経営者の中には依然「在宅勤務」を一時的な措置と考えていて、コロナウィルス感染が沈静化するのを見計らって「在社勤務」に戻す動きも出てくるのではないかと予想します。

私は、コロナウィルス感染がひと段落した後も「在宅勤務」をどんどん広げて、大多数の人が当たり前だと思う状態にすることが理想だと考えています。その理由は、ライフイベント(出産、育児、介護、病気療養等)に際して多様な働き方をすることが出来るようになることで、仕方なく退職しなければならなかったような事例は減っていくと思うからです。また、地震等、広域災害発生時に出勤できない状況に陥っても「在宅勤務」の環境さえ整っていれば、事業継続の確実性を高めることが出来るので経営者の視点からもメリットは大きいはずです。

さらに、もっと本質的な意味では、私たちが理想の働き方を獲得するきっかけになるかもしれないと考えています。「在宅勤務」が普及し、新しい働き方の選択肢が出来たことで、自ら理想とする働き方を選択できるんだという意識が芽生えます。そして、働く人の視点に立たない企業はおのずと選別され、徐々に淘汰されていくので、社会が根底から変化するきっかけになるかもしれません。

私が、前述の考えに至ったのは、NHKの番組で立命館アジア太平洋大学の学長「出口治明さん」による学生に向けた講義を偶然目にしたからです。出口さんは、日本経済低迷の実態、背景、原因について以下の持論を展開しておられました。

【低迷の実態】
・コロナウィルス感染拡大前の経済成長率(予想)
中国6% 米国3% EU2% 日本1%
・平成の30年間で日本が世界GDPシェアに占める割合は9%から4%に低下
・平成元年に世界トップ企業50社に占める日本企業は20社あったが現在は0社
・一人当たりGDPは世界26位にまで降下

【低迷の背景】
・日本ではGAFAのようなユニコーン企業が生まれなかった
・GAFAはサービス企業であり、サービス企業の顧客の70%は女性
・日本企業は依然として男性優位(文化的、制度的(配偶者控除、年金制度等)背景から)
・50代、60代の男性が重職を占め意思決定している企業が多い
・そのような企業は若い女性が求めるサービスを産み出せないでいる

【低迷の原因】
・日本は、女性の社会的地位が153カ国中121位 先進国で女性の社会進出の低さで突出
・ダイバーシティ(多様性)が乏しい職場環境でイノベーションが生まれにくい
・慢性的長時間労働(日本2,000時間 欧州1,500時間)で学び直し(大学院進学等)にかける時間が不足

私は、直近の数年間、ベンチャー企業で採用を担当した経験から、規模の小さい会社の経営者は、出産・育児で職場を離れる可能性がある「女性」をキャリア採用するのを避ける傾向があると感じました。結果として、時間に関係なく猛烈に働くという昭和的な労働観が残ってしまうのではないかと思ったのです。そして、仕事に張り付く時間が長い男性は、それを言い訳にしているケースもあるかとも思いますが、家事や育児への参画意欲が高まらないという悪循環が生じているのかもしれません。

尚、勉強会の場では、女性と男性の仕事上での役割の性差が縮まらないのは、家庭における役割の固定化が原因ではないか、との意見も出ました。つまり、童話「桃太郎」の冒頭の有名な出だし、

「昔むかしあるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。」

という男女の役割分担のイメージが、私たちの無意識にすりこまれているのかもしれない、ということにも気付かされました。女性の立場からすれば、従来の「川へ洗濯」に加えて社会進出という「山へ柴刈り」の役割がアドオンされ、家庭の内と外の二重の役割を担わされることになった訳ですからたまったものではありません。とはいえ前述したように、外で昭和的労働を担う男性には家事や育児への協力はあまり期待できませんので解決の糸口がなかなか見つからないのです。尚、大企業を中心に男性社員の育児休業取得を促進する動きも加速していますので、前述の「悪循環」は一例であり、必ずしも一般化できるものではないことをお断りしておきます。

では、女性の家事や育児の負担を軽減する方法はないものでしょうか。参考になるのは、女性の社会進出が進んでいる東南アジア諸国で昔から普及している「メイドさん」の活用はどうか、という意見が出ました。私は1995年にシンガポール、1998年に台湾に駐在勤務しましたが、当時のシンガポール、台湾では、既に家事やオフィス清掃など、フィリピン人、インドネシア人に依存しており、この頃と比較しても今の日本は非常に遅れていると思います。入国管理法や在留資格発給条件など法律上の制約をみても、日本政府が外国人招聘に消極的だということは明らかです。ただ、マンパワー不足ではないもっと根深い問題としてあるのは、日本女性が自らも、また男性からも、家事や育児は女性の仕事だとあたりまえのように考えていて、他人の手を借りることに対する周囲からの厳しい目を気にしたり、家の中を人に見られたり触れられたくないという心理的側面があるのではないか、という意見も出ました。

以上を総合して私の考えをまとめると次のようになります。

・様々な制約はあるが「在宅勤務」を促進することにはメリットがある

・それは、女性の社会進出を阻害する要因(出産・育児+内と外の二重役割)を軽減することにつながるからで

・結果として女性の経営者や事業責任者が増え、新しいサービスが生まれる土壌ができて

・それら新しいサービスからGAFAのようなユニコーン企業が生まれる可能性が高まる

最後に、今回の勉強会では、前述のジェンダーに関するトピック以外にも、人材育成の現場で起きている「リアル研修」と「リモート研修」のメリット、デメリットや課題。また、病気療養による休職からの復職をスムーズに実施する方法等、「在宅勤務」を切り口として様々な意見がでました。そこで、これからも継続的に勉強会を開くことで仲間の意見が一致しましたので、次回の勉強会では、一旦広げた風呂敷の中から、新しい時代の「人と組織」の研究課題(リサーチクエスチョン)を見つけて継続的に研究を続けることになりました。

今後の展開については、逐一このブログで取り上げたいと思います。

人事として知っておきたい信仰のはなし

私は両親から、外では「宗教」と「政治」の話しはするなと教えられましたが、皆さんはどうでしょうか。両親の教えに背くことになりますが、とても大事な話ですので、今回は私が人事の仕事を通じて知った「信仰」に関する知識と、そこから得られる知恵について書きたいと思います。

長年人事の仕事をした人が、定年退職間際に真剣に仏教を学び退職して僧侶になったという話しを聞いたことがあります。仕事柄、従業員と向きあい、深くかかわる中で、人について、人生について深く知りたいという気持ちが強くなったからだと、その方はおっしゃっていたように記憶しています。歳を重ねる毎に信仰の大切さに気付くのは人として自然なことなのかもしれませんが、多くの従業員に接して、喜びや悲しみ、怒りや苦しみを間近に見届ける人事経験者が、若干人よりも早くその思いを抱くのは珍しくないと思います。

私は今、特定の信仰は持っていませんが、昔から関心がありました。高校生の時、吹奏楽部の部長として部活を束ねることができないと悩み、友人のお母さんに紹介してもらった浄土宗のお寺の住職から「思い通りいかない時でも心安らかに、楽しく生きる」ことを教えていただいたことから始まります。それから人生の節目節目で住職の教えを乞うて来たのですが、前のブログにも書いた通り、再就職した会社の社命で東日本大震災の被災地へ赴くことになり、その直前に住職を訪ねました。

住職「人は誰でも持っているものがある。なんだと思いますか。」

私「・・・」

住職「まごころです。しかし、まごころを使える人、つまり、心づかいが出来る人がいる反面、できない人もいます。大西君は被災地で、苦しんでいる人たちに向き合うという厳しい場面に直面することになると思いますが、常に、まごころからの心づかいをすれば大丈夫ですよ。」

2011年は4月から年末まで神奈川と被災地を往復し、住職の教えに従って被災した従業員お一人お一人のために出来ることを最優先に、まごころで接しました。そのような中、日々被災地で目にしたのは、懸命に行方不明者を捜索する自衛隊員の姿や、小学校の校庭が仮埋葬所として掘り起こされ、次々と運び込まれる棺桶と埋葬の光景でした。私は次第に信仰について考えることが多くなっていきました。

話しがさかのぼりますが、私は大学で社会学を専攻しまして、卒業論文の指導教官はN教授(当時は助教授)という方でした。N教授は、NHKスペシャル「未解決事件」に出演し、オウム真理教の特集の中で、麻原が信者を洗脳した仕掛けを、麻原から信者たちへの説法(録音)を使って解説しておられました。N教授がおっしゃるには、麻原が信者に求めた答えは「教団にとって邪魔な人間は全てポア(殺す)すべきだ」だった、と。にもかかわらず、その通りに答えた信者を敢えて無視し、あたかも別の答えがあるように信者たちに思いこませ、不安にさせることで麻原の存在を絶対化する巧みなテクニックを駆使していたようだ、とのことでした。世間を震撼させたオウム真理教は、信者の信仰を悪用した極端な事例です。

一方、私たちの身近にも、麻原と似たようなテクニックを使って従業員を操る経営者がいます。また、その影には指南役の存在があることを知っています。事業の目標を達成するために、経営者が、従業員を思いの通りにコントロールする術を身につけたい、との気持ちを抱くことは理解できます。しかし、オウム真理教の事例が証明するように、コントロールされる側の従業員の身になってみるとどうでしょうか。支配され続けた従業員は常に不安感にさいなまれ、次第に自分で考える力を失っていきます。やがて、心身のバランスを崩し、病気を発症することも多くなります。人を自由に操りたいという欲は人間の本能なのかもしれませんが、経営者として権力を揮える立場となった以上、自制心をもって部下たちと接して欲しいと思います。従業員の不安を利用して使役する手法の乱用は、従業員を苦しめるだけではなく、結局事業の発展にとっても望ましくない結果をもたらすと思っています。

ところで、韓国留学から大学に復学した私は、卒業論文を書き始めることになりました。そこで、指導教官であるN教授に「日本の経済成長の原動力となったものについて書きたい」と相談したところ、真っ先に読むように勧められた本が、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でした。当時の私には理解するのが難しい本で、その参考図書を読んでやっと理解することが出来ました。主旨は以下の3つです。

①カトリック信徒に対してプロテスタント信徒(クリスチャン)は、神様との一対一の直接的関係を重視する。神様の存在を四六時中意識していて、自らの言行のすべてを、神様の望まれることと、その栄光の実現という目的に一致するようと努力する。

②①の結果、プロテスタント信徒は独自のエートス(本人の自覚しない性向(内面的原理))として3つの態度(生活態度、心的態度、倫理的態度)もつに至った。そして、このエートスは、偶然、資本主義の拡大原理(利潤を再投資してさらに利潤を増やす)と一致した。

③よって、プロテスタント信徒が多い国、地域は、カトリック信徒のそれよりも経済的に発展した。

16世紀のドイツは、マルティン・ルターによる宗教改革(カトリックの免罪符批判からドイツ農民戦争に発展)を起点とするプロテスタント発祥の地です。「プロテスタント」とは、農民による抵抗活動(プロテスト)が由来となっています。現在、ドイツ南部を除きプロテスタントが多いドイツはエートスが最も浸透している国と言えるのではないでしょうか。

マックス・ウェーバーは、社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。特に、人間の内面から人間の社会的行為を理解しようとする「理解社会学」の提唱が挙げられる。(Wikipediaより抜粋)

余談ですが、私の卒論のテーマは、「日本の経済成長の原動力となったものを見つけること」だったと書きました。そこで、プロテスタントのエートスに相当するものが日本にあるかを調べたところ、マックス・ウェーバーに影響を受けたとされる、東京大学教授だった丸山眞男が「日本政治思想史研究」という本の中で、「儒教」それも「荻生徂徠の朱子学」が資本主義の原理と一致したと述べていることを知りました。なぜ、「朱子学」が資本主義の原理と一致したかについては別の機会に勉強し直してみたいと思います。

大学を卒業して、私のプロテスタントに関する知識は、前述の教科書的学習の域を出ないまま深まることもなく、徐々に関心も薄れていきました。月日が流れ、2019年に大分の半導体関係の商社で勤務することになり、同僚の韓国人Lさんと出会い、親しくお付き合いするようになって、予期せずプロテスタントのエートスを目の当たりにすることになりました。Lさんご夫妻は、敬虔なクリスチャン(プロテスタント)だったからです。

韓国統計庁が2005年に発表したところによると韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%である。すなわち総人口のうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%となっている。(Wikipediaより抜粋)

韓国では、その歴史等何らかの条件がキリスト教の世界観と一致したことで信者が増え、さらに独特の信仰態度が形成されていったのかもしれません。ちなみに、日本のキリスト教信者数の概数は105万人で、対人口比で0.83%(東京基督教大学の日本宣教リサーチ(2018年))に過ぎず、その差は歴然です。

私とLさんご夫妻の関係は、私が人事としてLさんの採用と受入れを担当したことから始まりました。Lさんは流暢な日本語を使われるのですが、奥様は来日当初、日本語を解せなかったことから、私たち三人の会話は自然と韓国語中心となりました。あと、Lさんご夫妻は中国で生活経験があり中国語が出来ますので、私の妻(台湾人)が会話に加わる時は自然に中国語になります。

さて、私がLさんご夫妻の大分での生活立ち上げのお手伝いや相談に乗るうちに、自然と三人一緒に過ごす時間が長くなっていきました。そして私は、Lさんご夫妻の姿を拝見して、クリスチャンとして大切にしている神様との関係や祈り、他者に向けられる感謝やあわれみといった感情を伺い、また質素倹約な暮らしぶりと身の回りで起きることをありのままに受け入れてベストを尽くすという態度に、次第に感銘を受けるようになっていきました。

今、Lさんは会社を退職し、ご夫妻で大分市内のプロテスタント教会で暮らしています。後で知ったことですが、Lさんはかつて大企業の猛烈サラリーマンで、ある時奥様の勧めで教会に通い信者となり、神学校で牧師の免許を取得後、会社を退職されたそうです。今は、教会の主任牧師O先生と一緒に、協力牧師として信仰に満ち溢れた充実した生活を楽しんでおられます。

そんなLさんと私は、毎週土曜日の午前中にZOOMミーティングをして、一週間の出来事や関心事をシェアし、さらにLさんには私の疑問に答えて頂いています。私からLさんへの質問はもっぱら「今を生きる私たちが聖書から学べること」でして、Lさんは、その一つ一つに対して丁寧に説明をしてくださっています。週一回、牧師さんから直接話しを聞けるというのはなんと贅沢なことでしょう。

私が、Lさんから教えて頂いたことの中で特に深く心に刻まれたのは、

「神様の御心にかなうことをする=神様に喜んでもらうことをする」

という言葉です。

例えば、困っている人に対してあわれみの感情をもち手を差し伸べるのは、その人から感謝されることが目的ではなく、それが、神様が求めている行為であり神様に喜んでもらうことが目的なのだと。そして、神様に喜んでもらえる行いは、全て聖書に書かれていますよ、と教えて頂きました。私は今、Lさんに勧められて毎日聖書を読み進めているのですが、私なりに「神様に喜んでもらう行いとは何か」について理解が深まって来たように感じています。

ひとつはっきりしていることは「自身の非力を受け入れる」こと。そして、大いなるものの存在を信じて、その下でひたすら「恩恵を授けてもらえるような行いをする」ことです。

私が理解した「信仰が持つ力」とは、直面する全ての物事を自分の力だけで解決しなければならないという囚われ、つまり「自己責任論」から自身を解放してくれる鍵です。そして、コロナウイルスの感染拡大や、気候・地殻変動による自然災害の発生など、混とんとして先が見えない時代を生きる私たちにとって、益々重要になってくるのではないかと予想しています。

カレーライスはお好きですか?

日本大使館を巻き込み、工業団地管理局にプレッシャーをかけて、就労許可が正常に発給され始めたことを受け、私はもう一つの問題である、某韓国企業から差別を助長すると指摘された2つの食堂(日本人出向者用とベトナム人従業員用)の扱いをどうするか、あれこれ考えを巡らせました。

仮に、そのままS社の要求に従い、日本人出向者用食堂とベトナム人従業員用食堂を統合しようとすると、日本人出向者だけではなく、日本からの出張者(本社役員含む)からも不評を買い、私は引き続き仕事をさせてもらえなくなるであろうことは容易に想像できました。かといって、当時某韓国企業はベトナム工場にとって唯一といってよい程の重要顧客で、その顧客から「継続して取引を望むならば必ず解決するよう」正式な要求をされてしまった以上、必ず対応しなければなりません。解決できない場合、私は、職責を果たせないことを理由に、引き続き仕事をさせてもらえなくなることも想像できました。

いよいよ某韓国企業による再監査まで1ヵ月を切り、これは絶体絶命のピンチと、食いしん坊の私には珍しく食事がのどを通らなくなり始めていたちょうどその時、思いもよらぬところから解決のヒントを得ることが出来ました。

以前のブログで、私は食堂の責任者として、日本人出向者から、ことあるごとに日本人出向者用食堂で提供する食事の献立や味、量などに関するクレームを受けていたと書きました。ちょうどその日の昼食は週一回のカレーライスの日だったのですが、ある日本人出向者から、「量が少なすぎる」とクレームを受けたのです。「思う存分おかわりをしてください」と言いたいところでしたが、それが言えない事情がありました。というのも、日本人出向者用食堂の食材、調味料等は日本製が多く、ベトナム人従業員用食堂とは別ルートで調達しているものがほとんどで、事前に申し込みがあった人数分だけ用意するよう工夫して運用しなければならないほどコストが高く、そうとも言えず困ってしました。その時ふと、頭に浮かんだのは、日本人出向者とベトナム人従業員が一緒にカレーライスを食べている光景でした。

部下のベトナム人従業員にそのことを話したところ、

部下「大西さん、日本人はカレーライスが大好きですよね。でも、ベトナム人は香辛料が効いた食べ物はほとんど食べないんです。だから、カレーライスを食べないと思いますよ。」

と言われてしまいました。

しかし、私はそれでも試してみる価値はあると思い、ルー以外は全てベトナム人従業員用食堂で使っている食材で自らカレーライスを試作してみました。そして、これは日本人出向者用食堂で提供しているカレーライスと遜色ない状態となったことを確認した上で、60人分ほどのカレーライスを用意し、日本人出向者用食堂と、ベトナム人従業員用食堂と両方で同じものを出してみました。

日本人出向者には、某韓国企業による監査結果を受けた対応であること。また、カレーライスの量が少ないとのクレームへの対応として大盛りで食べることが出来ることを説明して、ベトナム人従業員食堂で、部下たちと一緒に食事をしてみてはどうかと勧めました。ベトナム現地法人社長Wさんはじめ、何人かの日本人出向者は私の勧めに応じて、これまで昼食時にはほとんど立ち入ることが無かったベトナム人従業員用食堂に来てくれました。そして、大盛りのカレーライスを食べて「美味しい」と言ってくれました。

肝心のベトナム人従業員の反応は、というと、これまで食べるどころか見たこともない食べ物だったからでしょう、最初は素通りしていつも通りのベトナム食を手にとっていました。しかし、そのような中でも、留学など、日本での滞在経験がある従業員数名は、「カレーライスなんて久しぶりです。嬉しいです」と言ってくれて、美味しく食べてくれました。手ごたえを感じた私は、毎週水曜日は「カレーの日」と定め、ベトナム人従業員用食堂で日本人出向者も、出張者も、ベトナム人従業員も一緒に食事をすることを目論みました。

その狙いは当たり、回を重ねる毎にカレーライスを食べるベトナム人従業員は増えていきました。労働組合の委員長Hさんは、「こんなにおいしい社食の食事は初めてです」と本当に喜んでくれました。そして、日本人出向者も数名を除いてベトナム人従業員食堂で一緒にカレーライスを食べるようになりました。この数名の日本人出向者は日本人出向者用食堂を決して出ようとはしませんでした。彼らがかたくなにベトナム人従業員と一緒に食事をすることを避けた理由を質問したところ、「ベトナム人従業員食堂はきたない」とか、「日本人出向者用食堂は冷房が効いて快適なので出たくない」といったような返答でした。私は、彼らと同じ出向者として、暗澹たる思いがしました。このような人物に、果たして異文化に囲まれた中で部下を動機づけて成果が出せるのだろうかと。仕事が出来る出来ない以前の問題として、人としてどうなのか、と疑問を抱かざるを得ませんでした。人事の世界では長らく、「グローバル人材」というスローガンが掲げられ、海外でも持てる能力を存分に発揮して成果を上げることができる人材をどれだけ確保できるかが日本企業の課題だと言われています。しかし、見落としがちな視点として、このような「自分さえ良ければよい」というエゴを、どのように戒めるのか、律するのか、ということがあるのではないかと思いました。

私は、某韓国企業に対して、次回の監査は水曜日(カレーの日)にして欲しいとお願いしました。そして、できれば昼食を一緒にとって欲しいと要望しました。彼らは快く応じてくれまして、その日を迎えました。私は、ベトナム人従業員用食堂で監査担当者と以下の会話を交わしました。

私「日本人出向者用食堂は、もともとお客様(VIP)用食堂です。そして、現時点では、ベトナム人従業員用食堂では、お客様が好まれるような献立(和食、洋食等)に対応することが出来ないため、廃止が難しい事情があります。しかし、今回、日本の国民食であるカレーライスを提供したように、徐々に日本食の献立を増やしていき、日本人出向者とベトナム人従業員が一緒に食事が出来る時間を増やしていくことをお約束します。これは、御社の食堂を見学させていただいて、韓国食が提供され、韓国人もベトナム人も一緒に食事をしている様子を見たことからヒントを得ました。そして、食堂業者も御社に合わせ変更しまして安心安全な食事を提供する体制が整いました。」

監査担当者「このカレーライスはとても美味しいですね。従業員の皆さんも喜んで食べている様子がうかがえます。前回の監査では、日本人とベトナム人が完全に仕切られた空間で別々に食事をしていたので、これで正常な職場運営が出来るのだろうかと不安に思ったんです。でも、今日の食事の様子を見て安心しました。引き続き食堂の改善に努力されることを期待しています。」

監査担当者は、再監査の結果、改善要求に「合格」と判断してくれました。根本的解決こそできませんでしたが、なんとか取引中止になるような事態だけは避けることが出来てほっとしました。

ここまで、数回に分けて、食堂不正の疑いへの対応、そして某韓国企業による食堂改善要求への対応について書きました。ここで言いたかったことは、ベトナムでは日々、日本では想像もできないことが繰り返し発生しているということです。そして、これらのほとんどは、実際に現地に出向、駐在勤務しなければ分からないことばかりだということです。いま、チャイナリスク回避でベトナムに多くの日本企業が拠点を移す、または新設する動きが加速しています。そのような企業では、日々、現地の出向者、駐在員から日本側本社へ、にわかには信じがたいような報告や相談が寄せられているのではないかと想像します。そのような時に、先入観なく、ありのままを懐深く受け入れて、一緒に解決の方法を考えてくれるような本社スタッフが一人でも増えて欲しいと、祈るばかりです。私は、そのような人材こそが「グローバル人材」への登竜門だと考えています。

ありがとう!日本大使館 & 本社人事Sさん

今回は、前回からの続きで、日本人出向者の就労許可をめぐる工業団地管理局とのやりとりについて書きたいと思います。

その前に。。。このブログを読まれた方の中には、不正は悪いことだと分かるけど、なぜ私がこんなにムキになったのか不思議に思われた方もいらっしゃったのではないかと思います。私自身、記憶を頼りにこの文章を書いていて、我ながら「サラーリマンとして常軌を逸していたな」と思ったりもしました。しかし、私の中には「不正は正さなければならない」と考えた、明確な二つの理由があったのでした。まず、そのことについて書きたいと思います。

一つ目は、かつて仕えた経営者から、事あるごとに「違法行為は絶対にするな」と口酸っぱく言われていた、ということがあります。私は、その会社の台湾現地法人に出向して管理部門を主管したので、仕事柄特に厳しく指導されました。台湾はいまでこそ民主化が進み、日本がお手本にすべきことも多いと思うのですが、私が着任した1998年当時はまだまだ、すべての法律の細部まで完璧に従おうとすると、現実問題として、とても運用が追い付かないという状況でして、詳しくは別の機会に書きたいと思いますが、そのような台湾的フレキシビリティが必要と思われるときでも、その経営者からは常に「合法的手段に則れ」と命じられたのでした。

今振り返ると、その言葉は本当に正しかったと思います。何故なら、もし「台湾の状況に合わせて柔軟に対応しろ」と命じられたなら、短期的利益を追求するあまり、中長期的視点で物事を考えることが出来なくなってしまっただろうと思うからです。事業の継続を通じて将来にわたる利益を最大化しようとするならば、後々になっても決して後ろ指をさされるような行為をするべきではない、という宣言が「合法的手段に則れ」だったのではないかと思います。その後、同社は台湾での事業規模を大きく伸ばして現地で上場を果たし、優秀な理数系学生が競って入社を希望する有名企業に成長、発展しました。

二つ目は、2011年3月11日に発生した東日本大震災で被災し、仕方なく退職していただいた元従業員の人たちに顔向けできないようなことはしたくない、という思いからでした。私は、神奈川の電子部品メーカー(ベトナム工場と同じ会社)に、震災発生直後の2011年4月1日に入社しました。この会社には、東北3県に工場があり、そのうちの一つは海沿いの工業団地に位置していたため津波の直撃を受け操業再開不能に陥り、さらに従業員もお亡くなりになるという最悪の事態に直面しました。また、別の工場は東京電力第一原発から約20キロメートルの位置にあったことから、事故発生時、全従業員が避難し、その後も避難場所を転々として、最後は神奈川の本社まで逃げてきたという経緯があります。この工場はその後約半年間に渡り操業停止を余儀なくされ、従業員も放射線の健康への影響におびえながらの生活を余儀なくされました。

私は、入社日に、管理部門管掌役員である常務取締役Sさんから呼び出され、「君には被災地へ行って従業員の雇用調整をしてもらう」と命じられました。従業員の中には津波で自宅が流され、家族や親類が犠牲になった人も多くおられて、そのような悲しみに打ちひしがれる人々に対して、会社が当地での事業継続断念を決定したことを理由に「退職同意書に署名してもらう」という困難な仕事を命じられたのでした。さらに、当然のことながら、従業員から一切の訴えを起こされず、且つ、マスコミへの情報リークなどにより当社の信用を傷つけることも生じさせてはならないという条件も付いていました。

「全ての対象者から退職の同意を取り付けるのは生半可なことではできないと思うが、何とかやりぬいて欲しい」

と話す常務取締役Sさんの表情は今でも忘れられません。この仕事を命じられた翌週、私は東北に赴き、様々な活動を展開して、結果として一切の問題も生じさせず、同年12月24日に任務を完遂しました。今振り返ると、役割をまっとうすることができたのは、私が従業員一人一人とまごころで接し、絶望の中にあるその人に少しでも幸せになってもらうことを考え、真摯に向き合ったからだと思います。ただそれ以上に、会社を自ら去る決断をしてくれた彼らが、私のことを、仕事とか役割といったことを超えて、一人の人間として信じて受け入れてくれたことの方が大きかったと思います。彼らと向きあう中で知ったこと、見たこと、聞いたことを、私は一生忘れないと思います。そして、震災という大きな困難を経て事業を継続しているこの会社に残された私は、不本意ながらも退職に同意した人たちの分まで、真面目に働かなければならないと決心したのでした。そのような感覚から、ベトナム工場で目にした、様々な不正行為を到底看過することは出来ないと決心したのです。

さて、話しを元に戻します。工業団地管理局が突然、当社の日本人出向者の就労許可発給を止めると通達してきたのは食堂変更を強行したことへの報復と私は受取りました。ちなみに、申請中だった3名の内1名は私自身でした。このまま就労許可が発給されないと、私は1ヵ月以内に滞在資格を失いベトナムから日本に帰任せざるを得なくなるという状況に追い込まれました。

そのような中、本社人事の係長Sさんが、私が苦境に立たされていると知ったのでしょう。心配して電話をかけてきました。彼のアドバイスは「日本大使館に相談してみては」というものでした。大使館には在留邦人に対する相談窓口があり、電話番号も公開されています。私は、藁にもすがる思いで大使館に電話をしました。受付のベトナム人女性が日本人駐在官に取り次いでくれました。私はこの間の出来事をありのままに話しました。その方は事情を一回で完全に理解してくれまして、直接会っていただくことになりました。私は、経緯をまとめたレポートと、証拠資料を手にハノイの日本大使館に向かいました。

面会に応じて下さった方は、東京の警視庁から外務省へ出向し、大使館に駐在中の警備担当駐在官でした。後で知ったのですが、大使館には防衛省や、経済産業省など、様々な省庁から派遣された駐在官が勤務しており、ベトナムの状況について情報収集し日本に報告する役割を担っているようです。この警備担当駐在官は、まず私の行動について深く理解を示し、従業員第一、健全な事業の実現のために行動している私のことを無条件で認めてくださいました。そして、出来る事は協力を惜しまないと約束してくださいました。

余談ですが、ベトナムには公安省という日本の警視庁、警察庁、公安委員会を一つにしたような巨大な警察治安組織があり、2つの機関(警察機関、治安機関)に分かれています。前者は、一般刑事事件を扱い、後者は国家の安全保障にかかわる犯罪を扱います。さらにその傘下には交通公安、経済公安等、担当部局が細かく区切られていて、それぞれが職権をまたいで活動することはありません。この警備担当駐在官は、どの部局にはどのような人がいて、その職権と権限、また不正への関与もすべて把握していて、その中には私が頻繁に面会を重ねていた人の名前もあり、「ああ、その人は信用できますよ」とか「この人は避けたほうがよいですね」などと詳しくアドバイスをしてくれました。

そして、核心の、工業団地管理局が当社への就労許可発給を止めているということについて、別のルートで就労許可申請が可能であることを教えてくれました。通常、外資企業が本国から社員を招へいする場合は、「計画・投資省(日本の経済産業省に相当)」の傘下である工業団地管理局を通じて就労許可申請をするのが一般的ですが、「労働・傷病兵・社会問題省(日本の厚生労働省に相当)」でも就労許可発給権を持っていることが分かりました。警備担当駐在官は、「私からも連絡をしておくので、そちらで申請をしてみてはどうか」と勧めてくれました。大使館がこんなに頼りになる存在だとは知りませんでした。本社人事の係長Sさんにも感謝、感謝です。

私は、早速、新規出向者3名分の就労許可申請を「労働・傷病兵・社会問題省」のハノイ事務所に持ち込み受理してもらいました。就労許可が発給されるまでヒヤヒヤものでしたが、無事発給されました。私は、就労許可発給をじらす工業団地管理局に対して対決すべく、重要ポストの二人に会食を持ち掛け、その場で一気に解決する作戦を立てました。

私から会食に誘われた二人は、恐らく私が就労許可申請を受理して欲しいと頭を下げに来たと思ったのでしょう。終始笑顔で上機嫌でした。私は二人が大好きだという日本酒の熱燗をどんどん勧めて、二人も私も酔いが回って盛り上がっているときに切り出しました。

私「ところで、当社が申請している就労許可ですが、受理していただけないと聞きました。このままですと私も日本に帰任することになりますが、どんな状況ですか」

役人「就労許可は日本人が多すぎるからです。でも、こちらも絶対に受理しないとは言わない。私たちの要望を受け入れてくれれば対応します」

つまり、役人が求めているのは「お金」です。私は、次のように切り返しました。

私「それでしたら、全ての申請を取り下げますので、申請書類を当社まで返却してください。その代わり、私は日本大使館に連絡して、ベトナムの発展のために尽力している我々の活動が滞っているという訴えをします。それでもよろしいですね」

役人は、私が申請を取り下げると言い出すとは全く予想していなかったのでしょう。そして、日本大使館にこのことが知られてしまうことに非常に焦ったのでしょう。急に狼狽し、酔って真っ赤だった顔が青ざめたように見えました。ベトナムは、特に社会インフラの整備を日本のODA(政府開発援助)に大きく依存しています。大使館の知るところとなれば関係機関からお咎めを受けるどころか、国と国との関係にも影響を及ぼしかねません。二人の役人は、一気に酔いから覚めた様子で慌てて店を出ていきました。そして翌日、工業団地管理局から申請中だった、私の分を含む3名の就労許可が下りたと連絡がありました。余談ですが、この役人二人は交通事故で死んでしまったことを風の便りで知りました。

さて、私にはもう一つ解決しなければならない問題(某韓国企業から差別を助長すると指摘された2つの食堂(日本人出向者用とベトナム人従業員用)への対応)が残っています。私がどのように解決したかについては次回書きたいと思います。

敵を知り己を知れば百戦殆うからず

腐敗認識指数というものがあります。政府・政治家・公務員などの公的分野での腐敗度をスコア化し評価しているもので、Transparency Internationalという団体が毎年調査しています。最新の2019年のデータを確認したところ、ベトナムは調査対象180カ国中96位でした。ちなみに、トップはデンマーク、日本は20位、中国は80位、最下位はソマリアです。ベトナムより下の国は主に、中南米やアフリカ諸国が占めていますので、アジアで最も不正が多い国と言っても過言ではないと思います。その原因の一つに、民間企業に比べて圧倒的に公務員の給料が安いことがあげられると私は思っています。そして、社会主義で権力と冨が一極に集中しやすいことも挙げられます。

そのような国情からベトナムの一般国民は、不正な手段でお金を得ることについても、賄賂で目的を果たすことについても、あまり罪悪感を抱かないようです。むしろ、知恵を働かせてお金を獲得する人をヒーロー。逆に、不正に立ち向かう人は愚かだと思われている節があります。もう一つ付け加えると、中国でも政治絡みの不正、腐敗が多いことは有名ですが、特徴としてベトナムと異なる点は、中国では、不正に得たお金を特定の誰かが独り占めしてしまい、権力構造が変わるたびに不正が摘発されて牢屋に送られるということを繰り返します。一方、ベトナムでは、不正で得たお金を仲間で分け合う(全員一律ではなく階層毎に分け前のレートがある)ので、結果として全員不正に関与することになり、表面化しにくいと言われています。そんな状態ですので、ベトナムで不正に向き合うのは、それこそ命がけで並大抵の努力では解決できないと覚悟していました。

前回のブログで、当社の食堂に関連して解決すべき問題は二つあったことを書きました。一つは、衛生管理もでたらめで当社の誰かがキックバックしたお金が工業団地管理局Cに流れているという疑惑。そして、もう一つは顧客である某韓国企業から差別を助長すると指摘された二つの食堂(日本人出向者向けとベトナム人従業員向け)の扱いです。

まず、私がやったことは、明確にあるべき姿(目標)を設定することでした。それは、食堂業者を入れ替える事。そして、新しい食堂業者は、日本の本社からも、日本人出向者たちからも、大多数のベトナム人従業員たちからも、文句を言われないところを選ぶ、ということでした。そこで、私が選んだ新しい食堂業者とは、某韓国企業で5万人の従業員に食事を提供している会社でした。この食堂業者は韓国資本の会社で、某韓国企業がベトナムに進出をさせたという経緯がありました。この食堂業者はベトナムでは外資企業ですのでキックバックの心配もありません。韓国人駐在員が複数名いて、ベトナム人を介さなくても私が韓国語で直接交渉、打合せ出来る。さらに、当社にとって重要なお客様である某韓国企業がお墨付きを与えた会社であることから、社内で文句を言われる可能性が低いと考えました。

食堂切り替えに際して食堂業者の韓国人駐在員たちが最も危惧したのは、24時間稼働する私たちの工場では、食事の提供を中断することは出来ないことで、果たしてスムーズな引継ぎができるのだろうか、ということでした。戸惑う韓国人たちに私が言い放ったのは、「韓国人はやるときはやる(韓国語で“ハンダ ミョン ハンダ”)でしょ。あなたたちにしかこの仕事は出来ないんだ」という言葉でした。彼らは、最終的には「やる」と言ってくれました。Xデーを決め、深夜食の提供が終わる0時になったら、既存の食堂業者を有無を言わさず追い出し、一斉に韓国の食堂業者の調理スタッフが食堂になだれ込んで調理場を乗っ取り7時からの朝食をつくり始めるという算段でした。この計画は、私の上司でベトナム現地法人社長Wさんと私の部下2名以外、完全秘密にしました。しかし、全く想像しなかったところから計画が発覚してしまったのです。

韓国の食堂業者は、当社の日本人出向者用食堂の調理師を募集するために、工場近隣の村で採用広告を出してしまい、食堂変更が当社の社員にばれてしまいました。すぐさまキックバックの張本人から工業団地管理局Cに報告をしたのでしょう。なんと、私はこのCから直々に食事の誘いを受けたのです。

私と社長Wさん、通訳として部下一名で、局長Cが指定したレストランに乗り込みました。大きな円卓のある個室ではCとその妻が満面の笑みで我々の到着を待っていました。そしてもう一人見覚えのある女性の姿も。その女性は既存の食堂業者の社長でした。当社からの要望(衛生管理や食事の改善等)に対して、のらりくらりとやってきた張本人です。そして、着席するなりCは驚くことを言い出しました。

「この食堂業者の社長はね、私の妻の従妹だ。彼女に改善を求めることがあれば、今日ここで私が立ち会うのでなんでも言って欲しい」

私はCが、当社からのお金の還流が止まることを聞きつけでっち上げた話だと瞬間的に理解しました。しかし、従妹だという以上、それを信じたふりをして会食はなごやかな雰囲気で進みました。

Cはベトナム戦争従軍者で、しかもミグ戦闘機パイロットとしてアメリカの大型爆撃機B52を撃墜したという武勇伝を雄弁に語りました。そして、ベトナム軍の強さは敵の裏をかくこと。敵を油断させて奇襲攻撃で戦意を喪失させることだ、と。余談ですが、ハノイには「軍事歴史博物館」というのがあって、撃墜したB52を保存処理した残骸をモニュメントとして展示しています。このB52はハノイ防衛のために配備されていたソ連製の対空ミサイルによって撃墜されたのですが、Cの話しでは、当初からベトナム軍はソ連を疑っており、ミサイルの射程距離など性能に関する情報はアメリカ側に筒抜けだったと。そして、アメリカ空軍はミサイルを避けるために、その射程距離よりも高いところ航行してハノイを爆撃することを事前につかんでいた。そこで、ベトナム軍は、このミサイルを独自に改造して射程距離が1.5倍に増すように改良した。そうとも知らず従来の射程距離のやや上を余裕満々でハノイ上空に侵入したB52は、このミサイルの餌食となり15機が撃墜されたとのことです。

食事が終わり、Cとその妻を見送りにレストランを出ました。食堂業者の社長が運転する車がレストランの前に停まってCとその妻が車の後部座席に乗り込みました。その瞬間、私はこの女性二人が従妹である、ということは嘘だと見破りました。普通、女性同士ならば、しかも、従妹ならば二人は運転席と助手席に並んで座り話しをするでしょう。明らかにC夫妻の行動は不自然で、食堂業者の社長と役人夫妻の関係に見えました。私は、社長Wさんにそのことを説明しCにおもんばかる必要は一切なく、計画通り実行したいと伝え、許可してもらいました。

その数日後、Xデー当日の昼、私はCに面談を申し出て工業団地管理局の彼のオフィスを訪問しました。私なりに仁義を切っておきたいとの考えがあったからです。Cと会うのはこれが最後になるだろうと思っていましたし、私の考えを伝えておきたかった。

私「Cさん、あなたがもし私の立場で、管理責任がある食堂で社員が嫌な思いをしたり、不安になったりしていることを知ったら何をしますか。そして改善を求めても一向に問題が解決しないとしたらどうしますか。」

局長C「それでも話し合いで解決をするように努力する。」

私「私は、社員に対して果たすべき役割を全うするだけです。それは私の意志で行います。」

そして、管理局を出て帰社し、その時が来るのを待ちました。

夜勤者へ深夜食の提供が終わり、あらかじめ決めておいた手順通り、食堂業者を追い出しました。中には抵抗する人もいましたが当社の警備スタッフを総動員して強制的に排除しました。続いて新しい食堂業者が調理場に入り、食材の在庫チェックとリストアップを始めました。後から不当な賠償請求に応じないようにするためです。(実際に請求された金額は法外で、その根拠は嘘だらけでしたのでこの時のリストアップは役立ちました。)韓国人駐在員たちはいっせいに調理場のチェックを始めました。そして、しばらくして私に「こんなに不衛生で管理されていない調理場は他に見たことが無い」と報告しました。

朝食の調理に向けた準備は粛々と進んでいき、私たちはその様子をずっと見届けました。深夜1時頃だったでしょうか、私の部下に一本の電話が入りました。Cからでした。Cの怒鳴り声は携帯電話から漏れて、近くにいた私にも聞こえてくるほどでした。あとから、部下にその内容を聞いたところ、

「日本人はいまだにパールハーバー(奇襲攻撃)をやるのか?」とか、「あの日本人(つまり私)は正気か?」とか、「これからどうなっても知らないぞ」といったものでした。この時点で、私はCにお金が渡っていたということを確信しました。

朝になって、続々と食堂に集まってきま社員は、いつもと様子が違うことに驚いていました。そして私は、彼らが食事をする様子を見てほっとしました。皆、おいしそうに食事を口に運んでいたからです。実は、このXデーと同日の昼、朝夕の社員の通勤を委託していた「運転手付きレンタカー会社」も一気に入れ替えを行いました。この会社からもキックバックを受けている疑いがあったからです。このことは割愛します。

不正に関与していた社員たちは、まさか食堂が一晩でそっくり入れ替わるとは全く予想していなかったと思います。彼らは、しばらくの間おとなしくしていましたが、作戦を立てたのでしょう、徐々にあからさまな妨害行為が始まりました。まず、食事に異物が混入していると職場で騒ぎ始めました。自分で混入させたのだと思います。そして元の業者に戻せと組合に訴えました。組合の委員長はキックバックのことや、私の対応について理解してくれていたので取り合いませんでしたが。特に過激な行動にでた数名(不正の張本人の子分たち)について、私は別件で処罰を考えていまして、迷わず実行に移しました。

私の赴任前、ベトナム工場では、社員数名に端を発するストライキが発生し、運営が混乱したことがありました。その張本人とされる人物は既に退職していたのですが、裏で操っていたのことが明らかだったのが食堂変更への不満を煽った中の一名だったのです。私は、既に公安(警察)とコンタクトしていて、この社員の携帯電話の通話記録を入手し、ストライキの数日前から当日にかけて、ストライキの張本人とされた元社員に、繰り返し電話をしている証拠をつかんでいました。この証拠をもとに懲罰委員会を開き、組合と従業員代表者同席の下、この社員を出勤停止処分にしました。その結果、次第に食堂変更に対する社内の騒動は収まっていきました。

一件落着に思えたのも束の間、工業団地管理局が突然、日本人出向者の就労許可の延長は認めないと通達してきました。理由は、当社の日本人出向者の数が多過ぎてベトナム人の活躍の機会を奪っているというものでした。確かに日本から50名もの社員を送り込んでいるというのは多すぎると言われても仕方がないと思います。しかし、一方で2,000名に迫る勢いで急速にベトナム人の雇用も進めていましたし、技術移管の段階にある当社ではこれが最適な方法との合理的な抗弁をしました。しかし、我々の主張は受け入れられませんでした。管理局のこの判断を機に、食堂業者変更を進めた私に対する周囲からの風当たりは一気に厳しくなりました。私が余計なことさえしなければ問題は発生しなかったのに、といった空気です。問題の本質はもっと別のところにあるのに、という憤りを強く覚えました。しかし、私はあきらめませんでした。

次回のブログでは、日本人出向者の就労許可をめぐる工業団地管理局Cとの水面下の対決。そして、韓国S社からの2つの食堂(日本人出向者用とベトナム従業員用)の改善要求に対して、私がどのように対応したか書きたいと思います。

たかが食事と思うなかれ 社員食堂が会社の命運を握る

前回のブログに続いて、Eさんのことから書き始めたいと思います。

Eさんは、成果の見込みがないことをするのをとても嫌いました。また、経験の浅いベトナム人従業員に対しては、特に親身に接してその成長を促しました。そんなEさんに対するベトナム人従業員たちの評価は「Eさんは仕事の方法だけでなく、なぜこの仕事をするのかといった目的を、時間をかけてじっくりと説明してくれるのでやる気が出る」という肯定的な内容ばかりでした。

一方、ベトナム人従業員たちの日本人出向者に対する評価は散々な内容で「仕事をやれと言うだけで方法を教えてくれない」とか「教えてくれても一方的にまくしたてるので何を言いたいのかよく分からない」とか「残業しないと意欲がないと言われる」などと、ひどいものばかりでした。人事の私に対して彼らを再教育して欲しいという要望だったのかもしれませんね。同じ日本人出向者としてこんなことを聞かされると複雑な気持ちになりましたが、一方でぼろくそに言われても仕方がないな、ということをしょっちゅう目にしていました。というのは、日本人出向者の何人かは、周囲に響き渡るほどの大声でベトナム人従業員たちを叱責して、さぞベトナム人従業員たちは嫌な気分を味わっているだろうと想像していたからです。しかし、彼らは逆に「日本人はかわいそうだ」と言いました。ベトナムでは、怒って大声で怒鳴る人は感情がコントロールできない「かわいそうな人」だから、と。彼らの方が一段上でしたね。

日本的な喧嘩両成敗的発想で日本人出向者たちにもEさんの印象を質問してみました。彼らのEさんに関する評価は一致していて、異口同音に「理屈っぽい」「理想を言うだけで一向に手を動かさない評論家」「部下に甘い」などという内容でした。Eさんが日本人出向者たち抱いていた印象と面白いくらい真逆だったので、これは水と油の関係で両者が咬み合うことはないはずだと思いました。

ところで、前回のブログで書いたように、この会社では、食堂が現地採用のベトナム人従業員用と日本人出向者用と二つありました。私は両方の食堂を管理する責任を負っていました。ベトナム人従業員用の食堂は500人が一度に食事が出来る規模でした。この食堂では一日に5回(朝食、昼食、夕食、夜食、深夜食)ベトナムの現地食を提供していました。24時間稼働の工場でしたので、製造部は昼夜勤の2交替制(日勤と夜勤を3日おきに繰り返す2直2班制)で(勤務が切り替わる間のなか日はお休み)、ベトナムでも日本と同じく法律で一日の労働時間は8時間と決められていましたので、4時間は残業扱いとしました。通常、24時間稼働の工場は、3直3班(8時間勤務の昼夜勤を3つの班をつくってまわす)だったり、2直3班(12時間勤務の昼夜勤を3つの班をつくってまわす)方法を採るのですが、当社は社長の方針で、工場の稼働率が低下した時に余剰な従業員を抱え込まないために2直2班制を導入していました。しかし、12時間勤務が常態化すると従業員に肉体的、精神的疲労が増していくため、その影響が顕在化しました。特に夜勤時は部門長である日本人出向者たちが不在なので、作業ミスが多い(夜勤時生産の製品不良率が高い)、また、私が不定期に深夜の見回りをする際に、製造のオペレーターが堂々と居眠りをしているところを発見することも度々でした。このような労働環境との直接的な因果関係は不明ですが、めっき工程で火災が発生し一つの建屋が全焼するとの事象も発生しました。そのことについては別の機会に書きたいと思います。

一方、日本人出向者用食堂は、ベトナム人従業員用食堂と同じフロアにあったのですが、入り口は別々で、ベトナム人従業員がそのエリアに立ち入ることはありませんでした。入り口を抜けると右側に10名ほど着席できる会議室兼VIP用の個室(壁はガラス張りで外から内部の確認が可能)が二つありました。この前を通り過ぎると一度に50名程が同時に食事が出来る空間にテーブルと椅子が設置されていました。ベトナム人従業員用食堂はコンクリートの打ちっぱなしの床でしたが、こちらは木目のフローリングがされていて壁にもクロスが張られ日本のレストランと変わらない内装でした。冷暖房はしっかりと効いていて、衛星放送が視れるテレビとソファー、日本の新聞雑誌、マンガを収めたラックも設置され、さながらサロンのような雰囲気でした。セルフサービスでコーヒー、ジュースも提供していました。2週間で一回転するようにメニューを組んで、朝食、昼食、夕食を提供していました。しかし、日本人出向者たちからは量と味に対してクレームが絶えませんでしたが。

前回のブログで書いたように、Eさんがベトナム着任に際して会社から受けた待遇(ホテルや自由に使えるタクシーなど)はとても良いものだったと思います。しかし、彼が偉いのは、会社にいる時はそのような待遇を周囲に自慢することも、見せることもなく、いつもベトナム人従業員たちと一緒に行動したことです。私が、最初Eさんに社内案内した際に、食堂が二つあることを説明し、当然、日本人出向者用食堂で食事されるだろうと思っていたのですが、Eさんはあっさり、食堂が二つある理由は何か?なぜ全員一緒に食事をしないのか?と質問されました。私は詳しい理由は知りませんでしたが、この会社が中国の工場を設立した時から日本人出向者向け食堂は別に設けるようになったと説明しました。Eさんは全くナンセンス、といった反応をして、以後、このエリアに立ち入ることはなく、ベトナム人従業員用食堂で部下たちと食事をしました。

Eさんと日本人出向者たちは、関係改善に決して手をこまねいていたわけではなく、分かり合おうと努力もしていたように思います。同じ電子部品の技術者ですしキャリアのバックグランドや知識面で共有することが多い分、本来は良い関係を築けるはずだと信じていたはずです。でも、見えない溝は一向に埋まらず、力を出し切れなかったと思います。それは、ベトナム人従業員と一緒に食事をするという態度ひとつをとっても根本的な何かが違ったからだと思います。私の退職からしばらくしてEさんはベトナムから帰任したと風の便りで知りました。持っている力を出し切れず不本意な思いをされたのではないかと想像します。Eさんと日本人出向者たちが埋められなかった溝の原因については改めてブログに書きたいと思います。

私も、日本人出向者用食堂で食事をするのは、味のチェックをするために週2回程度と決めていました。それ以外はベトナム人の部下たちと一緒に食事をしました。これは、決してベトナム人従業員と親密になろうとか、良い人と思われようとか、そういった意味ではなく、食堂の機能を把握し、問題を発見したらすみやかに解決するという役割を果たすためでした。中国でも同じことを聞いたことがありましたが、会社経営において、従業員に提供する食事次第でストライキに発展することもある、と私は思っていました。ベトナムでは、これは都市伝説ではなく本当に提供する食事が原因でストライキが発生した日系企業がありましたし、人事総務の最重要ミッションのひとつだと考えていました。

人事総務の責任者である私が、自分たちと一緒にベトナムの食事を食べていることが最初ベトナム人従業員たちは不思議だったようです。「どうして他の日本人と一緒に食事をしないんですか」とか、いろいろ質問されましたが、徐々に食事についての不満を耳にするようになりました。味もさることながら、中には「昆虫が混入」しているとか、「肉が腐っている」とか聞き捨てならない話しがありました。私は、食堂の運営を任せている業者に改善を求めましたが、何故か横柄な態度でまともに取り合おうとしません。そのような中、ある従業員がこの食堂業者と癒着してキックバック(支払代金の一部を還流する不正のこと)を受け取っており、さらにキックバックで得た資金を工業団地管理局Cに提供しているという情報までつかみました。つまり、食堂は、不正の温床となっていて、従業員の健康や満足は二の次として扱われてきたという可能性があることを知り、私は強い義憤を抱きました。

また、前にも書いたように、この工場で生産する電子部品は主に某韓国企業のスマホやタブレットに搭載されていて、納入先は、ベトナム某省にある従業員数5万人を有する大工場でした。同社にとって当社は電子部品のメインサプライヤーでしたので、私たちは同社の担当者から定期的に監査を受けていました。人事総務も例外ではなく、従業員の採用や人材育成、離職防止策などについてこまごまとチェックされました。そのような中で、同社の担当者が最も問題視したのは、当社の食堂の運営についてでした。彼らの指摘は、日本人出向者とベトナム人従業員の食堂が別々に存在していることは差別を助長することにあたり同社の倫理規定に反する。継続的な取引を望むならば改善すべき、との内容でした。

同社の担当者は私を彼らの工場の食堂に招待してくれました。5万人の大部分を占める製造ラインオペレーターは3直3班制なので、一度に食事をする従業員数は15,000名程。それが二つの食堂に分散して30分の時差を設けて食事を開始する仕組みでした。つまり一度に収容できる人数は一食堂で3,500名~4,000名くらいだったのではないかと思います。韓国からの出向者も一緒に食事をしていて、メニューはベトナム食、韓国食、洋食など自由に選べるようになっていました。私は韓国食を選んだのですが、正に本場の味でした。そのような背景から当社の食堂のあり方について改善を求めたのは当然のことだなと納得しました。

私は、帰社し、一人食堂にたたずんで考えました。解決すべき問題は二つあります。一つは、衛生管理もでたらめで不正の温床となっている食堂業者をどうすべきか。もう一つはお客さんに命じられた二つの食堂の改革です。私がどのような対応をしたかは次回のブログで書きたいと思います。

知っているようで知らないドイツ人のお話し

前回のブログで、神奈川の電子部品メーカーのベトナム工場で人事総務を主管していた時、ドイツ人出向者Eさんと親しくなったと書きました。彼のおかげで、私たち日本人が当たり前だと思っていたことが本当に正しいのか、深く考える機会を得ました。今回はそのことについて詳しく書きたいと思います。

日本人とドイツ人は共通点が多い、という言葉をこれまで何度も見聞きしてきました。試しにネットで検索すると、「日本人とドイツ人は共通点が多い。どちらも「生真面目」「時間を守る」「倹約」だ」などと、いまだにそんなことを書いている人がいることが分かりました。確かに日本人から見て、ドイツ人は自分たちに似ていると思う一面があるかもしれません。しかし、ドイツ人はどう思っているのでしょうか。私は、ずっと、日本人とドイツ人は全然違うと思っていました。その理由について述べます。

私は大学生の時に1年間、韓国のソウルに留学しました。留学中仲良くなった日本の報道機関のソウル支局の人がいて、私の帰国後、その人のドイツ人の友人が日本に行くので東京の良いところを案内してあげて欲しいと頼まれました。そのドイツ人の女性はCさんという人で、理由は忘れましたが、吉祥寺を案内しました。吉祥寺駅から井之頭公園まで続く道の両側に焼き鳥屋さんが並んでいて、至る所から煙がモクモク出て良い香りがしているのを見て、彼女は「ドイツでは考えられない」と、本当にびっくりしていたのを覚えています。彼女曰く、ドイツでは、公共の場でにおいを発するものを出すことは法律で禁じられており、また、洗濯物も外に干すことが出来ない等、公共のルールは多岐に及び息が詰まりそうだ。日本や韓国は自由でいいなあ、と言っていました。その後私は、新卒で入社した会社を2年ちょっとで退職してしまいまして、せっかく得た自由を有意義に使おうと、再就職までの5カ月間、ヨーロッパをバックパッキングしました。その時、井之頭公園でKさんが言っていた「息が詰まりそうだ」というのはどういうことなのか自分なりに理解したいと考え、ドイツ各地を訪れました。そして、「息が詰まる」というよりも、「ドイツ人の厳格さ」を目の当たりにしました。

ケルンでは、私がうっかりして、厳格に決められている歩行者用道路、自転車用道路の区別が分からず、若干、自転車道路に足を踏み出して歩いてしまったのだと思います。自転車で近付いてきた若者から、ものすごい剣幕で叱られました。私は最初は意味が分からずポカンとしていたのですが、「ルールを守れない人間は死ね」くらい言われていたのかもしれません。また、ロマンチック街道の始点であるローテンブルグに行ったときは、第二次世界大戦で完膚なきまでに破壊しつくされた町が、完璧に中世の街並みに復元されたことを知りました。様々な職人が集まって、古い写真を頼りに、細部に至るまで、完璧に古く見えるように作り直したということを知って、日本だったら全部新しく作り直してしまうだろうな、と想像したことを思い出します。これ以外にも、見るもの聞くもの、何から何まで彼らは、根本的に私たち日本人と全く異なる思考、行動原理を持っていると感じました。しかし、その後ドイツ人と深く交わる機会がなかったため、それが何に起因するものなのか分からずじまいでしたが、ベトナムで、初めてドイツ人と深く交わることになりましたので、私は彼らのことを深く知りたいと考えました。

ベトナムで一緒に仕事をすることになったドイツ人出向者Eさんは、フランクフルト郊外に住む生粋のゲルマン人で、電子部品の技術者でした。彼は正式赴任前、出張でハノイに来て、その時が彼との初対面だったのですが、ハノイを案内しながらいろんな話をしまして、私は、最初からこの人とは気が合うな、という印象を得ました。というのも、私とEさんには共通点があり、お互いの考え方に共感できたからです。私たち二人の共通点とは、

①自分も部下も、無理せず効率的に成果を上げる方法を考えるのが好き
②失敗しない方法をあれこれ考え抜いて実行することを当たり前と思っている
③人の考えや意見を尊重し、それらを活かしてモチベーションを保つことを大切にする

でした。そして、1週間ほどの出張期間が終わり、彼は一旦ドイツに帰国しました。

その後、ドイツの技術提携先の会社から、Eさんの給料情報、出向期間中のその他の処遇について連絡がありまして、私はびっくりしました。まず、Eさんは部長クラスの技術者であるにもかかわらず、給料は当社の取締役かそれ以上の水準でした。さらに、住まいはホテルのサービスアパートメントが指定され、出退勤時、また奥様も含めてプライベートで常時利用できる運転手付きの車を用意するよう求められました。さらに、3カ月に一回、奥様も一緒にビジネスクラスでドイツへ一時帰国できるオプションもあること、ベトナム語の学習機会の提供等々。私たち日本人出向者は、住居の上限額は900米ドル程度(それでも現地の物価と比べればすごいですが)、出退勤も乗り合いバスで、一時帰国は1年に一回エコノミークラスで、給料も日本国内給与は日本国内で日本円で支給し、海外勤務手当としてベトナム通貨ドンで定額支給するという制度でした。私の疑問は、同業者でありながら、どうしてこのドイツの会社はこんなに社員に対する待遇が良いのか。高付加価値で利益率が高い製品をつくっているとは聞いていましたが、こんなことをして本当に大丈夫なのか、逆に心配になったくらいでした。しかしその後、私の驚きは更に度を増していくことになります。

Eさんが奥様と正式に着任する前に、ドイツの会社の組合のメンバーがハノイに来るという知らせを受けました。私は、組合役員が、現地視察を建前にベトナム観光でもするつもりなのかな、くらいに思っていたのですが、想像もしないことになりました。ハノイのノイバイ国際空港に迎えに行って、飛行機を降りてきた組合役員は6名もいました。それぞれ、健康、処遇、環境等担当者が決まっていて、全員、出向者であるEさんと奥様の生活環境について細かくチェックし、改善すべき点があれば要求をするという役割をもっていました。ハノイに到着するやいなや、当社の工場に来社した6名と会議を行いました。3日間の滞在中のスケジュールは既に分刻みで決められていて、同行と説明を求められました。住まいであるホテルのサービスアパートメントの視察を皮切りに、移動手段と通勤経路の確認、会社の食堂と衛生管理の状況、オフィスの環境、デスクや椅子、さらに余暇の過ごし方について、ハノイ市内への移動経路や、レストラン、その安全性等、あらかじめ用意されていたチェックリストに基づいて現地視察が行われました。事前に手配しておいたタクシーの運転が危険だと言われドライバーの変更を求められたり、奥様の日常の生活についても退屈しないような配慮を求められたりもしました。私は、同じ駐在員で、それも社員の身分で、どうしてここまで配慮してもらえるのか違和感を覚えていましたが、後日その理由が分かりました。

ドイツでは、日本における「株式会社」が「有限会社(GmbH)」であり、少し古いですが2014年のデータでは、ドイツにおける「株式会社(AG)」2,320社に対して、「有限会社(GmbH)」は73,036社と圧倒的に多く、一般的です。ちなみに最も多いのが「個人企業」で569,699社となっています。ドイツの技術提携先の会社もはこの「有限会社(GmbH)」でした。さらに、「有限会社(GmbH)」は、取締役会、社員総会(組合)、監査役会(設置は任意)で構成されていて、最高意思決定機関は「社員総会(組合)」であり、その権限はすべての事項(年度決算書の確定、利益処分、取締役の選任・解任、経営管理の監査及び監督等)に及び、その決議はすべて社員総会(組合)で行われると、法律で定められています。つまり、組合代表者は、経営責任者であり、日本のような労働者の権利を代弁し会社に対して団体交渉を担う機能とは全く異なるということです。ドイツ人出向者Eさんが、ベトナムで勤務し最大限の成果を発揮できるような環境を整えるのは、会社が果たすべき当然の責務であり、それが社員総会(組合)の意志に基づくものであることを知り驚いたのと同時に、仕事のことだけ説明を受けて、スーツケースひとつで取り敢えず赴任させて仕事に就かせることも多い日本の会社とは、労働に対する思想、哲学が根本的に異なることを思い知らされました。尚、私の友人で、長年オランダの航空会社で勤務した方から聞いたのですが、その方は、福岡~オランダ(アムステルダム)路線が開設されるにあたり、成田から福岡に転勤となり、福岡の責任者を務められました。そこで、福岡にオランダからクルーを迎え入れるにあたって、事前に本社から組合メンバー複数名が福岡に来て、ホテルや食事の環境、空港からホテルまでの移動経路、余暇の過ごし方などきめ細かくチェックをされたと言っていました。人事の世界では、ジャーマン・ノルディックという言葉があり、アメリカを中心とする資本家優位の労働政策とは一線を画す、労働者の権利を最大限保護する労働法をもつ国々として、オーストリア、ドイツ、ルクセンブルグ、オランダ、北欧諸国があり、日本でも研究の対象となっています。残念ながら日本は、その歴史的経緯からかアメリカの影響を強く受け、終身雇用と長期的な成果主義を大切にしてきた日本の労働政策も遠い過去のものとなりつつあります。

組合代表者がドイツに帰国し、いよいよEさんと奥様がハノイにやってきました。Eさんは知識、経験、士気がいずれも高く、とても頼りがいのある方だと思いました。奥様も気さくで私の妻ともすぐに打ち解けて仲良くなりました。さあ、あとは当社社員とEさんとが一致協力して合弁事業を軌道に乗せるだけです。しかし、Eさんが着任して1カ月ほど経過した頃から問題が起き始めました。それは、Eさんと日本人出向者達との間で、仕事の進め方に対する考え方の違いから、双方に不信感が芽生え始めたのです。特に、Eさんの悩みは深刻で、日本人出向者達との意識のギャップは、自分が、日本語ができないことが原因かもしれないなどと考え始め、実際に日本語を勉強し始めるなど努力していました。しかし、しばらくするとEさんは私に対して、日本人出向者達に対する愚痴を言うようになりました。その内容は、「どうして日本人は綿密な計画なく安易に仕事を始めてしまうのか」とか、「どうして日本人はきちんと結果を検証せず、必要な対策を講じないまま次の仕事にとりかかってしまうのか」や、「どうして日本人はベトナム人社員に仕事の負荷をかけて残業させることを良くないことだと思わないのか」等々。私は、Eさんに、日本人一般の仕事の癖について理解してもらえるよう説明を尽くしました。しかし、それでも尚、Eさんの疑問と憤りは大きくなる一方でした。結局、私はEさんがベトナムにいる間に退職してしまいましたので、Eさんご夫妻と私たち夫婦で食事をしたことが最後の思い出です。その時のEさんの残念そうな表情は今でも忘れられませんし、なぜ、もっときちんとEさんの悩みに向き合ってあげることが出来なかったのかという後悔があります。

次回のブログでもEさんのことについて書きたいと思います。

従業員ファーストの本当の意味

神奈川県の電子部品メーカーのベトナム工場で人事総務を主管しました。それまで何回か海外勤務をしたので大抵のことには驚かない耐性は備えているつもりでしたが、ベトナムで経験したことはそれまでの海外勤務経験を一度に上書きするくらい強烈な体験でした。すべての体験を一度に書くことは難しく、また、ストレートに表現することが難しい微妙な内容が多く含まれますので、これから何回かに分けて工夫して書いていきたいと思います。今回は、その中でも数少ない、嬉しかった出来事について書きたいと思います。

前々回のブログで、これまで私は、尊敬する経営者の方々、また、お客様から「ありのままの自分」を受け入れて頂いた、心底嬉しい経験を2回したことがあると書きました。その1回がベトナムでの勤務中の出来事でした。電子部品メーカーのベトナム現地法人の人事総務を主管することになり、2013年の6月に首都ハノイの郊外にある工場に赴任することになりました。前任者から引き継いだのは、50名ほどいた日本からの出向者の対応がメインで、特に、食事の件は重要でした。というのは、この工場では、日本人出向者向けの食堂で日本食が提供されていて、日本人出向者からみると、人事総務は食事メニューの希望を聞き、まずいとか、量が少ないといったクレームに対応する人と認識されていたのではないかと思うからです。さらに、日本人出向者は、ベトナム語ができない人たちがほとんどで、会社の一歩外に出るとコミュニケーションが取れない赤ちゃん同然でしたので、その移動に際しては、平日、休日問わず人事総務が車を手配してあげる必要がありました。ベトナムでは日本のように計画通りに進まないことが当たり前であるにもかかわらず、時間通りに車が来なければ即、私の携帯にクレームの電話が入りました。空港への出迎え、見送りが深夜、早朝になることもあり、都度、私が対応していましたので、着任当初は気が休まる余裕が全くありませんでした。そのような中でも、私には、人事総務としてなすべきことは、現地採用するベトナム人社員の対応であり、ひそかに日本人出向者に関わる業務は必要最小限にする、という目標をもっていました。部下を束ね、協力会社に厳しく指導をし、それでも改善されない場合は契約を打ち切る等、多少強引なこともしましたが、その成果はすぐに表れ、突発的トラブルは減り仕事は安定していきました。

私は、着任当初より、前任者から引き継いだ既定路線である、「人事総務の役割=日本人出向者へのおもてなし」というみんなの認知を変える必要があると考えていました。その背景として、当時、某韓国企業からスマホやタブレットに使用する電子部品の注文を受注しまして、生産能力を高めるために現地採用のベトナム人従業員を増員し、2,000名に迫るまで一気に拡大させる必要性が生じており、人事総務はその実現に大きな責任を負っていたからです。従業員が増えれば、当然予想しない新しい問題が次々に発生するはずです。それらを速やかに解決する対応力も備えておく必要があるため、ある程度先(半年~1年程度)を見越して、人事総務機能のレベルアップと標準化を同時に実施するという難しい状況になると予想していました。そこで、人事サイクル(採用~配置・労務~人材育成~評価~処遇)の各段階における課題を抽出し、同時に、それらを網羅的に取り組むマップをつくって、そのマップに従って、自分の頭の中で日々、詰め将棋のように駒を進める作業を積み重ねていきました。そのような思考と行動をしていることは日本側の本社も、ましてや日々顔を合わせる日本人出向者は全く気付かなかったと思います。彼らに見せる私の顔は、相変わらず彼らの考える「日本人出向者をおもてなしする人」でしたから。しかし、そんな私の仕事が突然スポットライトを浴び、認められる出来事が意外なかたちで訪れました。

前述の通り、ベトナム工場のメイン顧客は某韓国企業で、同社のスマホとタブレット向け電子部品の供給が主たる事業でしたが、チャイナリスクを避けたい企業が次々とベトナムに進出する中で、それまで取引のなかったお客さんからの引き合いも増えていきました。特に、自動車向け電子部品は有望で、自動車電装系メーカーからの引き合いが増え、彼らが取引条件とする基準を当社が満たしているか否かを判定する「工場監査」を受ける機会が増えていきました。工場監査は通常2つの視点で行われます。1日目は、当社が認定を受けているISO(国際品質基準)通りに、工場の全工程の作業標準書が整備されているかのチェックが行われます。2日目は、整備された作業標準書通り実際に現場で作業が行われているか、お客さんが製造ライン等を歩きながら実地でチェックします。そして、3日目は、質疑応答と総括が行われて、計2.5日ほどで行われるのが一般的です。日系の名だたる大企業数社からは、ほぼ同じような方法で監査を受けました。毎回、製造、技術視点での監査でしたので、私のような人事の人間が監査の席に呼び出されることは皆無でした。製造や品質保証部門の管理者(日本人出向者)は人事総務の仕事は、監査で来社されるお客さんの昼食を提供してくれていればよい、くらいに考えていたと思います。

ちょうど同時期に、私たちの会社がドイツの同業メーカーと技術提携することになりました。このドイツの会社は、技術力と品質に定評がある自動車向け電子部品の専業メーカーで、彼らの製品は、名だたるドイツの高級車に搭載されていました。そして、ベトナムの工場内に、私たちと技術提携先のドイツの会社と合弁で自動車向け電子部品製造の合弁会社を立ち上げることになり、ドイツからお一人出向者を受け入れました。この方と私はとても気が合いまして、彼の眼を通して私たち日本人が陥りがちな考え方や仕事の癖を気付かせて頂きました。

ドイツの会社との合弁会社の設立により、ドイツを代表する国際的な某電装メーカーから引き合いがあり、監査を受けることになりました。私はいつもの監査の時と同じように、お客様の宿泊先のホテルから当社までの車の手配をしたり、極力口に合うような食事のメニューを考え、時間通りに温かい食事が提供できるように監督したり、会議室で提供するコーヒーやお菓子を手配し、出来る限り監査がスムーズに、円満に進むように裏方に徹していました。

監査2日目が終わり、3日目の朝、私が出勤し自席に着くやいなや、品質保証部の責任者が慌てて私のところにやってきて、「お客さんが監査の締めくくりに人事責任者のプレゼンと質疑応答を求めている。対応を準備して欲しい」と言われました。その人も、なぜお客さんが会議に、それもクロージングで人事と話しをしたがっているのかさっぱり分からない様子でした。私は、取り急ぎプレゼン資料を用意して午後一の会議に出席しました。名刺交換をして分かったのですが、お客さんは3人で、ドイツ本社の品質保証部門の取締役、調達部門のディレクター、アジアパシフィック本部(シンガポール)の責任者でした。

私は、まずベトナムの労働市場の現状(有効求人倍率、失業率、賃金上昇率等)について説明し、経済成長率と照らして今後の見通しについて説明をしました。続いて、当社の採用人数と採用方法、離職人数と離職率、離職引き留め策、労働組合活動と日常的な労使コミュニケーションの方法、また、労務問題発生時の対応方法について説明しました。さらに採用後の研修と配属先決定方法、管理者の育成と課題、人事考課と昇給昇格の連動、人件費コントロールの方法、人事制度全般の課題感について一気に説明しました。最後に、近い将来起こり得る労務管理上のリスクについて正直に説明してプレゼンを締めくくりました。

お客さんからは、私の説明内容一つ一つについて熱心に質問を受けまして、さらに丁寧に回答していくにつれて、最初は厳しかったお客さんの表情も次第に和らぎ、場がなごやかな雰囲気に包まれました。そして、クロージングの発言として、品質保証部門の取締役の方からだったと思うのですが、「大西さんのプレゼンは素晴らしかったし、私たちの質問に対する回答も的確でとても安心しました。大西さんがこの工場で人事をされている限り安心です」と言っていただきました。その場には、当社の社員が10名ほど同席していました。英語ができない人が多かった、という理由もあると思うのですが、それ以上に、人事のことについて、聞いたことも考えたこともなかった人ばかりだったからでしょう。また、私が、日本人出向者のおもてなしをしているだけと考えていたのでしょう。なぜお客さんが喜んでいるのかさっぱり分からず終始ぽかんとしていた様子が忘れられません。

私は、当たり前のことをしたまでで、そこまで認めて頂けると思っていなかったのでとても嬉しかった半面少し拍子抜けしたのですが、ふとお客さんに聞いてみたいことが思い浮かびました。

私「これまで日本のお客さんから幾度となく監査を受けてきましたが、人事にプレゼンを求められたのは初めてです。どうして、監査の締めくくりが人事だったのですか?」

お客さん「人事が最も重要だからに決まっているじゃないですか。製造や品質の標準書を確認して現場の見学をしても、それは過去の取り組みの結果を確認するだけで監査として不十分だからです。この会社と取引をしても良いかは、将来にわたって、高い品質の製品を安定的に供給してもらえる、という確認ができないと判断できません。そして、将来を決めるのは、設備や仕組みではなく、従業員の存在、仕事ぶりだけなんです。だから、その従業員のことを最もよく知る人事の責任者に話しをしてもらうのですよ。」

私は、お恥ずかしながら、このお客さんの話しを聞くまで、人事が何のために存在するのかを明確に説明することが出来なかったと思います。本当に目からうろこが落ちた瞬間でした。そして、この日以降、ドイツの提携先企業からベトナムに来ていたドイツ人出向者Eさんと私の関係がぐっと近くなりました。彼を通じて気付かせてもらった様々なことは次回のブログで書きたいと思います。

人事考課制度に対する経営者の万能感

私たち人事担当者が最も頭を痛めるのが「人事考課制度の設計」ではないかと思います。その理由は、経営者は、一般的に人事考課制度に万能感を求める傾向があり、この要求に応えることが人事担当者として当然の務めと思われてしまうからです。経営者が持つ人事考課制度に対する万能感とは、制度さえ導入すれば、従業員の能力、成果、意欲等、諸要素を完璧に明らかにすることが出来て、さらに、誰が評価しても同じ結果になるような信頼性が高い、誰一人としてその結果に異を唱えない、公平公正が担保されたものであるべき、という感覚です。人事考課の結果に基づいて人件費を適性に配分し、従業員に不平不満を一切生じさせないような、完璧な人事考課制度をもつことに、経営者がこだわるのは当然のことだと思います。しかし、人事考課制度の設計運用の実務を担当する人事担当者の身としては、この要求に応えることは本当に難しいのです。果たして、そのような万能な制度をつくることは出来るのだろうかと私は考え続けてきました。

人事業務、また、社会人大学院での学び(注)を通じて、私はある結論に達しました。それは、理想の人事考課制度を運用するためには、その大前提として以下の3つの条件を整えておく必要があるということです。

①従業員と共有したい思いが明確になっている(共通善としての事業の目的と目標の言語化)
②従業員に事業の目的と目標の説明を尽くして納得感が醸成できている
③従業員がお互いを理解し合う社内環境になっている

①は経営者、②はライン長、③は人事が、それぞれ役割分担して取り組みます。ポイントは、「従業員起点で発想すること」そして、「組織開発に真剣に取り組むこと」です。

人は誰でも、行動前に「発想」します。そして、人は、それぞれ異なる「発想の起点」をもっています。私が考える「発想の起点」とは、「意図」と「願い」です。これらは、その人の人間観、世界観、宇宙観、宗教観等に影響されますので、発想と行動はおのずとパターン化していきます。そこで、これからは、これまでのパターン化した発想と行動を一旦脇に置いて、「従業員だったらどう思うか」という視点から発想、行動することが有効だと思います。その理由は、「不可逆的な社会の変化」があるからです。私が考える「不可逆的な社会の変化」とは、

「経営者が信じるたったひとつの答え(例:売上・利益の限りない増大)を基準にして中央集権的に組織をコントロールする時代から、あらゆる情報にアクセスできて自ら妥当解を出し得るようになった従業員に権限を与え、その考えと意欲を最大限発揮できるような自律分散的組織への変化」

です。「従業員起点で発想する」とは、好き嫌いに関わらず、全ての組織が無視することができない「時代の要請」なのです。

「組織開発」とは、人と人との関係性に着目し、それをより良い状態にする取り組みのことです。一方、「人材開発」とは、その人の能力、意欲を高めて活躍を促進することですので、両者は似て非なるものです。従来、日本の企業文化では、組織開発は現場力に委ねられてきました。社会の隅々にまで、従業員間の関係性を良好に保つ取り組み(レクリエーション)が慣習的に行われてきましたが、近年、様々な要因で機能しなくなってきました。そこで、多くの企業で、「組織開発」に政策的に取り組む必要性が認識されるようになっています。私は、組織開発は人事担当者が担うのが相応しいと考えています。その理由は、採用~配置・労務~人材開発~評価~処遇という役割を通じて、従業員一人一人の多面的な情報を知り得る役割を担っているからです。ポイントは、人事担当者だからこそ知り得る情報を、どのようにして組織開発に活かすのか、ということです。

そこで、前掲で、理想の人事考課制度の運用の条件として述べました、「③従業員がお互いを理解し合う社内環境になっている」に対して、人事担当者が担うべき役割について書きたいと思います。

司馬遷が、前漢の時代に著した中国の歴史書「史記」にある「刺客伝」に、「士為知己者死」(士は己を知る者の為に死す)という逸話があります。「立派な男子であれば、自分の真価をよく知ってくれて、認めてくれた人のためなら命を惜しまず死んでもよいと思うものだ。」という意味です。戦国時代の晋に予譲という人がいて、かつて仕えていた恩人である智伯の仇を討つときにいった言葉が、「士は己を知る者の為に死し、今、智伯は我を得る」だったそうです。「命を惜しまない」というのは、現代風になおせば、一個人の利益や損得を超えて・・・」という程度に表現の内容をやわらげて受け取るのが適切でしょう。私は、電機機器メーカーの人事部で勤務していた時に、管理職研修にお招きした講師Tさんから、部下との信頼関係を築く秘策としてこの言葉を教えて頂き、以後、この言葉を行く先々で出会う方々と共有しました。同時に、私なりの方法で、簡単にこの言葉を実践する方法も紹介しました。それは、その人が大切にしていることを「いいね」と受け入れて認めてあげる、というシンプルな方法です。例えば、部下が「フィギュア」のコレクターだったら、たとえ自分が全く興味が無かったとしても、関心を示し、心から「いいね」と言ってあげるのです。この効果は絶大です。その人の本当の価値を認めてあげるというと少し難しい感じがしますが「いいね」を伝えることでしたら、いつでも、どこでも簡単に出来そうですよね。そして、人事担当者が旗振り役となって、従業員同士が「いいね」を自然に交換するような仕掛けをしていけば、徐々に経営者が理想とする、全員一丸となって事業の発展に取り組む組織へ変容していくのではないかと思います。

まとめます。一般論として、経営者が人事考課制度に完璧さを求めることと、その理由を書きました。次に、完璧な人事考課制度を目指す前に3つの条件を整備しておくことが有効との持論を述べました。そして人事が、「条件③:従業員がお互いを理解し合う社内環境になっている」の実現の旗振り役を担うべきであること。それは、人と人との関係性に着目し、それをより良いものにする「組織開発」の一環として取り組むべきことであること。組織開発は、決して難しく考える必要はなく、まずはお互いの大切にしていることを「いいね」と認め合うことから始めて、その発想を仕掛けに反映することをお勧めしました。

(注)多摩大学大学院「特定課題研究論文」(株式会社M社の研究 急成長企業と労働意欲の関係 自律分散型組織への転換)において、筆者である私は以下の仮説を立て、検証した結果一定の解を導くことが出来ました。

仮説1 転換期において混沌としている会社にとってふさわしい組織の形態として、自律分散型組織がふさわしいのではないか。

仮説2 自律分散型組織においては、社員の労働意欲が根幹にある。社員の労働意欲の向上を図る上で最も有効な方法は、社員の帰属意識を高めることであり、そのための人事制度上の取り組みが必要とされるのではないか。

第一部では、当社の現状を把握しつつ、他社事例から、成長する企業が環境変化によって直面する問題を取り上げ、その克服の方法として、社員の帰属意識と労働意欲を高める人事制度上の取り組みとして人材育成が必要であるとの課題を提起しました。

第二部では、社員の労働意欲をベースとする経営システムへの転換の方法として自律分散型組織を取り上げ、その事例として福岡県北九州市の美容室チェーン、バグジーを取り上げ、同社が社長トップダウンの中央集権と、各店舗が主体となった自律分散の両立に成功していて、社員の動機づけを仕組み化し、持続的に労働意欲を維持、向上している事例を紹介し、これを「中央集権・自律分散一体型」と名付けました。さらに、自律分散型組織の事例として、指揮者をおかないオーケストラ、オルフェウス室内管弦楽団が、「完全自律分散型」であること。また、マネージャーを置かない世界最大のトマト加工業者、モーニング・スター社は「中央集権・自律分散共存型」であることを論じ、いずれも、中央集権と自律分散とを適切に組み合わせ、若しくは取捨選択しながら、所属員の労働意欲を高めることに成功していることが分かりました。そして、そのいずれにおいても、従業員各々の情報(能力、業務、成果指標等)を従業員間で共有する政策的な取り組みがあることを明らかにしました。

第三部では、自律分散的な活動を通じて労働意欲を高める動機づけの方法として、職務記述書の整備と導入を掲げ、当該企業における取り組みの方法を考察しました。

第四部では、第三部で論じた職務記述書の整備と導入に対する意見を当該企業の部門長に求め、概ね協力的な回答を得ました。さらに、益々不確かとなっている経済、ビジネス環境に適応するためには、組織の硬直化を防ぎ、迅速な意志決定と行動を可能とする、トップダウンを、より一層機能するようにしなければならないとの課題を提起し、トップの特命事項を専任で担い、全社横断的に最適な人材を組織し、成果創出に権限を委譲される、プロジェクト・マネージャー制度の提言を行いました。

人から言われたくない嫌いな言葉が持つ力

私の曽祖父は明治5年に倉敷で生まれました。両親が他界し、山陽本線が倉敷まで延伸するのを待って二十歳の時に小田原に出て洋服職人になりました。明治35年に小田原を襲った高潮を機に東京に出て、独立して日本橋区北島町(今の八丁堀の交差点付近)で洋裁店を営みましたが、大正12年の関東大震災で被災し、翌年他界しました。祖父は明治45年(同年8月1日に大正に改元)、日本橋で生まれ、関東大震災で焼け出されて小田原に越し丁稚奉公に出されたようです。若いころは丹奈トンネル工事に動員されて危険な目に遭ったり、陸軍に徴兵されてパプアニューギニアで負傷し九死に一生を得たりして苦労しました。戦後は、丹沢山系から切り出した木材を横浜に運搬するトラック運転手として生計を立てつつ印刷のブローカーとなり、運搬した木材を使って横浜に工場を建て印刷業を起業。商売は順調でしたが、私が小学校1年生だった昭和50年に胆石の手術が原因で63歳で他界しました。父は横浜生まれ、横浜育ちの生粋の横浜っ子で、物心ついたころには祖父の仕事も安定したのでしょう。何不自由なく育ったと言っています。そんな父と話していて気付いたことがあります。それは、「人から絶対に言われたくない嫌いな言葉が持つ力」についてです。

何が原因か忘れましたが、あるとき友達から「おまえ、せこいね」と言われ嫌な気持ちになりました。私も父と同じく、生まれも育ちも横浜なのですが、どうも、私だけでなく横浜っ子というのは「せこい」という言葉に敏感に反応するのかもしれません。そう気づいたのは、福岡に来て、福岡っ子(一般的に博多っ子と呼ぶのかもしれませんが)は、「せこい」よりも、「ダサい」という言葉により敏感に反応するようだと分かったからです。

以下は、私の私見であることをお断りして書きます。福岡市内(博多、天神、大名)を歩いていると、男女、年齢問わず外見(おしゃれ)に気を使っている人が多いと感じます。私見ですが、夏の風物詩、博多祇園山笠は男の格好良さを競う祭りのように見えますし、博多美人は、素の美しさもあるのでしょうが、それをもっと美しく見せる方法に長けているからこそ全国的に有名なのだと思います。ある時、福岡の職場で同僚の女性社員にそのことを話したら、「子供のころ母親に、いつ、どこで、どんな人と会うか分からんけん。いつでもきれいにしとかんといかんよ、としつけられた。私だけではなく、土地柄として身だしなみには気を遣うと思う」と説明されました。そこで、福岡の人たちはどんな言葉にネガティブ反応するのか急に知りたくなりまして、「せこい」と「ダサい」のどちらを言われるとより嫌な感じがするか、何人かに質問してみました。結果は、どちらも嫌だが、「ダサい」の方がより嫌だ、という人が多いということが分かりました。これは、「せこい」にネガティブ反応する私にとっては驚きでした。試しに、横浜に帰省した際、父親と旧友にも同じ質問をしたところ、あっさり「せこいに決まってるでしょ」との反応でした。横浜も福岡も同じ港町。来るものを拒まず、新しいもの好きが集まるという共通点があると思うのですが、どことなく雰囲気が違うと私が感じるのは、そういう「その土地で共有されている文化の違い」が影響しているからかもしれません。私は、これまで、東京→北陸→シンガポール→台湾→中国→神奈川→宮城→ベトナム→福岡→大阪→大分と、次々と仕事場を変えてきました。いつもそうでしたが、新しい土地の生活開始に際しては、関連する本を読んだり、人から話しを聞いたりして、その土地の人たちが大切にしていること、守ってきたこと、嫌がること等の把握に努めました。よそ者であることをわきまえ、謙虚にその土地の文化を尊重しなければ決して良い人間関係を築くことは出来ず、良い人間関係がなければ仕事上の信頼関係は築けません。そして、信頼関係がなければ、仮に私が、求められる期待と役割に十分に応えることが出来る高い能力を持っていたとしても、それらを満足に発揮して成果を上げることは出来ないでしょう。これを書いている今も数々の失敗の場面が思い浮かんできます。自戒の念を込めて。。。

さて、話しが遠回りしましたが、私には、実は「せこい」よりもっと言われたくない言葉がありまして、それは、「使えないやつ」という言葉です。

私は、中学校で友達に誘われて吹奏楽部に入り、寝ても覚めても楽器演奏に熱中しました。3年生になって、高校になったら吹奏楽コンクールの全国大会に出場したいと真剣に考えるようになり、当時、神奈川県で全国大会に出たければ進学先の選択肢は2つ(私立男子校、県立共学校)あったのですが、バンカラな雰囲気に憧れて私立の男子校に進学することに決めました。この高校は神奈川県で最も歴史の古い私立の男子校で、吹奏楽部も全国で2番目に古く、伝統を重んじる部活でした。(現存する最古の吹奏楽部は旭川商業。)もともと楽器演奏が好きだったので、朝から晩まで続く練習は苦になりませんでした。一方、しんどいと思ったのは非常に厳しい規律の方で、先輩の指示に対応できないと「使えないやつ」とひどく叱られ、ダメの烙印を押されました。恩師である顧問の先生も、「この部活に3年いれば、勉強ができないおまえたちでも立派に社会に通用する人間になる」と明言しておられましたし、今考えると部活動の真の目的は、演奏してコンクールで勝つことではなく、「使える人間を養成すること」だったのではないかと思います。

高校3年間の強烈なすりこみの成果でしょう。私は長く無自覚でしたが、社会に出てからもずっと「使えないやつ」と思われないよう、言われないようにしてきたことに気付きました。それが、ある時はポジティブに頑張る原動力にもなりましたし、またある時は物事をネガティブに捉え過ぎて視野狭窄に陥る原因にもなりました。加えて、人事という仕事柄でしょうか。自分がやっていることが意味あるのか、それともないのか、なかなか判断ができないことに悩みました。人事の仕事は、やって当たり前、うまくできて当然、と思われてしまうところがありますから、良い仕事をしても言葉によるフィードバックを受けている人は案外少ないかもしれませんね。

そんな私ですが、ありのままの自分を受け入れて頂いた、心底嬉しい経験を2回だけしたことがあります。四半世紀でたった2回の、尊敬する経営者の方々、また、お客様との忘れられない思い出については、改めて書きたいと思います。