新時代の幸福論(回遊魚として生きる①)

私は、自分のことを「回遊魚」だと思って生きてきました。「回遊魚」とは、成長段階や環境の変化に応じて、生息場所を移動する海や川に生息する魚のことです。特定の地域、組織に縛られず、自由に生きることを優先して、その時々に人とのご縁を得て職場を変え続けました。

そんな私が最近、尊敬するメンターSさんの紹介で、私の経験を「さすらいの人事マンとして働いてきた見聞録」というタイトルでお話しする機会がありました。資料作成をする過程で、回遊魚である私が、これからも良い回遊をし続けるためには、3つの座標軸をしっかりグリップしておく必要があることに気づきました。そして、この3つの座標軸を持つとそれらが交わる「座標」を獲得できること。また、「座標」を持つと、「いまここ」への納得感、安定感が増して、自ずと「回遊」が始まり、自分と他者とを隔てる「境界」を楽々乗り越えていく。そんなモデルが浮かんできました。

私が考える「3つの座標軸」とは、①良い人間関係 ②好きな仕事 ③人生の目的 です。この内のどれかが欠けても「良い回遊」は出来ません。仮にどれかが欠けた状態で「回遊」を始めてしまうと、「死滅回遊」してしまいます。

回遊性を持たない動物が、海流や気流に乗って本来の分布域ではない地方までやって来ることがある。これらは回遊性がないゆえに本来の分布域へ戻る力を持たず、生息の条件が悪くなった場合は死滅するので、死滅回遊(しめつかいゆう)と呼ばれる。(Wikipediaより)

「死滅回遊」はいわば「回遊もどき」です。人間社会では「死滅回遊」してしまう人が多いことに気づきます。そんな人たちに欠けていたことを考えてみてください。おそらく前述の座標軸の内、どれかが欠けた状態で回遊を始めようとしてはいなかったでしょうか。

そこで、私の座標(3つの座標軸の接合点)を言葉にしてみました。

「一人でも多くの人が、身近な人との親密な関係を築き、一人一人が持つ才能と能力を、人の為、仲間の為、家族の為、社会の為、地球の為に存分に発揮して、イキイキ、ワクワクした人生を手に入れることに関わること。」

こんなことを言うと、

「何を青臭いことを言っているんだ。」「仕事なんて給料をもらうためにやっているんだ。」「生きていくためには好きなこと、やりがいなんて言っていられない。」

など私をたしなめる声が聞こえてきそうです。

しかし、考えてみてください。コロナウィルス感染拡大によって、私たちには「最も大切なこと」が問われていますよね。「最も大切なこと」とは、言葉を変えれば、「一人一人にとっての幸福とは何か?」ということでしょう。

私は、「幸福」とは、①良い人間関係 ②好きな仕事 ③人生の目的 という3つの「座標軸」を持つこと。そして、それらの接点である「座標」を持ち「回遊」して自由を得ること、という考えを持っています。

一方、これまでの日本の労働観は、仕事とそれ以外の二元論に単純化されており、それは、会社員が過ごした場所と時間の使い方に如実に表れています。

長時間勤務で職場にいる時間が圧倒的に長く人間関係も職場中心。家には寝るためだけに帰るという人は相変わらず多いのではないでしょうか。そして、職場以外の時間は、家でくつろいでいるか、趣味で気分を紛らわせる程度です。そこには明確な個人の目的がない。それが、日本を支えてきた圧倒的多数の会社員の人生だったのです。

大多数の会社員が、当然誰でも抱く疑問を封印出来たのは、終身雇用と年功序列によって、先々起きることをある程度想定出来る、人生の目途が立ったからです。それが、国、社会、企業、個人にとって合理的な生き方だったし、企業の社員囲い込みが経済成長に果たした役割も大きく、生活水準も高くなった。しかし、平成の30年間が終わり、令和になって、それは非常識になりました。

いま、私たちには、企業組織に属して社会の一構成要素として受け身で生きるのではなく、人間の本来の姿に立ち返った生き方が求められていると思います。

私が考える人間の理想の生き方とは、

「身近な人との親密な関係を基盤にして、好きな仕事が出来ていて、人生の目的を意識していること。」

です。それが、私たちの基本的な欲求であり、原点ではないでしょうか。

そこで、今回から3回に分けて、3つの人生の座標軸、つまり、①良い人間関係 ②好きな仕事 ③人生の目的 について、考えてみたいと思います。

今回は ①良い人間関係 についてです。

繰り返しになりますが、今、世界中がコロナウィルスに翻弄されています。ソーシャルディスタンスで人と人との間の物理的だけではなく精神的な距離が生まれ、個人の行動も制限され、雇用も不安定となり、所得格差がますます広がる中で、私たちの社会が「分裂」や「分断」の危機に直面していることを私は強く感じています。

但し、コロナ禍以前にも、日本の多くの職場では、「人間関係の希薄化」が蔓延していました。さらに、頻繁に見聞きするようになった「生きづらさ」という言葉。それがコロナ禍により、一層問題が深刻化しているようです。

コロナ渦以前に既にあった、職場の人間関係の希薄化の原因は何か。諸説あると思いますが、私は、急速に進んだ「雇用形態の多様化」、つまり、非正規雇用社員の増加が決定打だったと考えています。

現在、正社員、契約社員、派遣社員、パート(アルバイト)など、様々な形態で雇用される人が同じ職場で机を並べています。もはや、一人一人の「働く目的」を一致することは難しくなりました。

正社員と、非正規雇用社員との間に所得格差が生じて、ランチや職場の会食を一緒に楽しむこともできなくなっています。一体感を感じにくくなった職場において、もし早急に解決を要する問題が生じた場合どうなるでしょうか。恐らく、多くの職場では、

「問題は放置されている」

もしくは、

「単純化した解決策を一方的に行っている」

のではないかと想像します。

「雇用形態を多様化」して「非正規雇用社員」を増やしたことは、経営視点では人件費の適正化のために一定の成果があったと思います。しかし、物事には必ずリアクションを伴います。その結果としての「人間関係の希薄化」と、それに関連した問題に対しては有効な方策がとられていないように見えます。

「雇用形態の多様化」がもたらした問題とは何でしょうか。

いくら働いても生活保護水準、もしくはそれを下回る程度の賃金しか得られない「ワーキングプア―」。雇止めへの不安から、結婚できない、子供が作れないという人々が増え、人口減少が止まらない社会。そして、職場内の人間関係の希薄化によるメンタル不全やハラスメントの問題、等々。
これらの現象が日本社会の不安材料だということは誰でも知っているはずです。しかし、ほとんどの人は自分事として捉えていないように見えます。

まず、非正規雇用社員の人は、他人のことに構っている余裕がなく自分のことで精一杯でしょう。また、雇用を保証された正社員からするといつ仕事を失うかもしれないという不安の実感がわかない、という感じでしょうか。しかし、これまで目の前の問題に対して積極的に対応してこなかった正社員にも大きな変化の波が訪れています。

昨今のリモートワーク導入を契機として、大企業を中心に高度経済成長以降、日本企業で一般化していた「メンバーシップ型」と呼ばれる人事制度を刷新し「ジョブ型制度」に改めようとする動きが活発化しています。

「ジョブ型制度」とは、各自やるべき仕事と、期待される成果を明確化して、出来ている人(こと)、出来ていない人(こと)をはっきり区別することを意味していて、「働き方改革の総仕上げ」とも言える雇用の大変化です。

私見ですが、その実態は、正社員の峻別をしたい企業経営者と、雇用流動性を高めて産業間にあるマンパワーの過不足を調整したい政治との思惑があると思います。

ジョブ型制度が普及すると、やるべき仕事がはっきりする反面、契約で決められたこと以外の仕事はしなくても良いという理由が労働者に与えられます。例えば、目の前で困っている人がいても手を貸しても貸さなくても評価は変わらない。逆に、自分が困っていても周囲に助けを求めることを躊躇するようになります。結果として、自己責任がより増していき、益々職場の人間関係が希薄化するという悪魔のサイクルに陥る可能性があります。

人間関係の希薄化がさらに進むとどうなるでしょうか。ますます孤立した個人によって社会の「分裂」と「分断」が一層深刻な事態になります。失業者と生活困窮者が増え、自死を選ぶ人も増えます。犯罪が増えて治安が急速に悪化する可能性もあります。すでにその兆候は表れていませんか。

私たちの社会がこのような最悪な状況に陥らないようするためには、私たち一人一人の関与が必要だと思います。それが、今回のテーマである一つ目の座標軸、「良い人間関係を築く」ということです。言葉を換えれば「身近な人との親密な関係を築く」ことです。

人間は、かつて大きな環境変化に何度も直面しながら、その都度適応して新しい生き方へと踏み出す「叡智」を備えた存在です。

私が考える「叡智」とは、

「他人を他人と思わず、他人と自分とを隔てる境界線を乗り越え、あらゆる人と親密な人間関係を築く」

実践知です。

前述した雇用形態の多様化で、既に職場には、自分とは「立場が異なる」大勢の人たちがいます。その、かつてはマイノリティーだったはずの非正規雇用社員は、もはや全就労人口の30%を超えてマジョリティー化しています。まずは、その人たちとの向き合い方をどう変えるかです。

「自分は正社員で雇用が守られているから非正規社員のことは関係ない」

「自分の雇用は守られているから当面は安全だ」

などと、他人事で済ませていてはいけないということです。

これは職場に限ったことではありません。私たちは、身近な人々が必要としていること、困っていること、助けて欲しいと思っていることの理解に努めて、何らかの関わりを持とうとしているでしょうか。他人だから、関係ないからといって無視してはいないでしょうか。あらゆる人間の集まりにおいて同様のことが言えると思います。

私は、政府主導で進めてきた「働き方改革」は、結局私たち一人一人に本当の幸福感を与えていないし、むしろ「生きづらさ」の原因にさえなったのではないかと考えています。ただし、悪者探しをしていてもなにも始まりません。政府に答えを求めることは一旦脇に置いて、私たち一人一人が今おかれた環境で、身近で起きる問題を自分事として捉え、その解決に向けて主体的に関わることが出来るかが、未来を決定する分水嶺です。

いま、ここから「身近な人とのかかわり方を変える」ことが重要です。

そして、ネット上の情報や報道を観ると、人との親密な関係構築をベースとしてイノベーションを起こしているフロントランナーたちがいることを知り大変心強く思います。彼ら、彼女たちは、地域社会において「身近な人との結びつき」を大切にしながら、強い意志をもって、その範囲を拡大していく特徴があります。しかし、どんなに関係の範囲が広がっていっても、その本質である「身近な人との親密な関係」を失いません。

私が取り組みたいことは、ひとつでも多くの組織に、身近な人々同士の親密な人間関係を育み、それをベースにして、会社、社会全体に良い人のつながりを広げることです。

次回は、人生の座標軸 ②好きな仕事 について書きたいと思います。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑧)

韓国留学の想い出話は今回が最終回です。

これまで8回に渡って当時の記憶を呼び出し、文字起こしを続けてきました。すっかり忘れていたことをひとつ思い出して書いてみると、芋づる式にいろんな情景が浮かんできて、人間の記憶力というのはすごいものだと改めて気付かされました。

おぼろげだった韓国の記憶を文字にすることで得られた最も大きな気づきは、

「身近な人との親密な関係の大切さ」

を、二十歳そこそこだった私は、韓国の皆さんから教えてもらったんだな、ということでした。私にとって後にも先にもない超濃密な1年間に、たくさんのかけがえのない経験をさせてくれた皆さんに、今は感謝の気持ちでいっぱいです。

一方、韓国の皆さんに対する感謝の気持ちと裏腹に、昔も今も変わらない日本の課題を再認識することになりました。

私が韓国に留学することになったきっかけは、横浜の実家の隣にあった新聞販売店に住み込みで配達員をしながら日本語の勉強をしていた二人の韓国人留学生との出会いだったと「韓国留学①」で詳しく書きましたが、私と会うまで、彼らには日本人の友達が一人もいなかった、という事実はとても重いものでした。

留学の目的は、学校で勉強するだけではなく、人々との交流を通じて様々な文物に触れ、学び、その国を包括的に理解することだと思います。そのような意味で、日本の社会は留学生に、私が韓国で経験させてもらったような「身近な人との親密な関係」を提供出来ていたかというとそうとも言えず、今でもその状況はあまり変わっていないのかも知れません。ちなみに1990年に4万人ほどだった留学生の数は2019年には30万人を超えました。数は増えていますが、留学生の心理的満足度はどうなのか気になるところです。

ところで、私達の生活に意識を向けると、ネットが人類の認知力を上回る速度で発達し、普通に暮らす上で特に必要性を感じない情報の洪水の中で、私たちの間になんともいいようのない生きづらさが蔓延したようです。

またAIの普及により、我々のうかがい知らないところで、個人情報が抜き取られ解析されてメニューが作られます。そして、本来自由で多様であるはずの生き方さえ、誰かが決めたメニューの消化を、自発的、非自発的に従うよう操られています。
仕上げは、DX(デジタルトランスフォーメーション)といって、従来、生身の人間が果たしてきた仕事を、生産性というもっともらしい言葉によって、デジタル空間に移管されていきます。その結果、働くことによって得られる人間の根元的な幸せまでもが奪われつつあるように感じています。

このような時代だからこそ我々は、

「誰にも奪われない守り通すべきことを決める」

必要があると思うのです。

そして、この「守り通すべきこと」とは、私が韓国から学んだ、

「身近な人との親密な関係」

だということに気づいたのです。

但し「過去を忘れたい日本人」と「過去を忘れがたい韓国人」が親密な関係を築き保つことは並大抵のことではありません。これまで、たくさんの先輩方が努力を続けましたが、時々の政治や社会の空気に阻まれ失敗を繰り返しました。それでも諦めずに問題に向き合い続けて来れたのは、困難を乗り越えて結ばれた絆は揺るがないという信念があったからではないかと思います。さらに、困難を乗り越える知恵は、日韓関係のみならず、世界の分裂と分断を防ぐことにも生きるということを知っていたからではないかと思います。混とんとした先の見えない今だからこそ、日本人として韓国から目を背けず向き合い続ける必要があると思うのです。

さて、最後に、留学生活最後の3ヶ月間の出来事について書いて締め括りたいと思います。

1991年の12月になり、どんどん気温が下がって氷点下になり、シンリム(新林)洞のチョンさん家からの通学がいよいよきつくなってきました。留学に残された時間を出来るだけ有意義に過ごしたいと考えた私は、年末でチョンさんの自宅を出て再びシンチョン(新村)の下宿に移ることにしました。留学当初、韓国語が出来なかった私は先輩に助けもらって下宿を探しましたが、それから8ヶ月ほど経ち、一人で探すことが出来るようになっていました。

シンチョン(新村)には、門塀にハスク(下宿)と表示されたレンガ造り戸建の家がたくさんありました。最初の下宿の位置から、もっと延世大学に近い付近を中心に、ハスク(下宿)と表示された家を一軒ずつ訪ね、部屋を見せてもらい、下宿費を確認して回りました。下宿費は、食事+洗濯+掃除込みで、トㇰパン(独房)と呼ばれる一人部屋が最も高く1ヶ月25万ウォン程したと思います。パンヂハ(半地下)になると値段が下がり、さらに、洗濯以外のサービスを外すと一ヵ月20万ウォンを下回るくらいの金額になりました。私は、パンヂハ(半地下)のトㇰパン(独房)、食事、掃除無しの条件で入居しました。

私が入居したとき、隣の部屋には既に女子学生姉妹が住んでいました。上はイファヨジャデ(梨花女子大)の3年生。下はソガンデ(西江大)の1年生でした。入居してすぐに歓迎会があり、私と女子学生姉妹が住むパンヂハ(半地下)から、上層階に住む下宿生全員と交流する機会があり、一緒にお酒を飲んで語り合いました。男子学生は全員、軍務に就く前で、女子学生も含めて全員私よりも年下でした。よって、彼ら、彼女たちは私を「ヒョン(男⇒男)」「オッパ(女⇒男)」と呼びました。特にパンヂハ(半地下)で隣の女子学生姉妹はしょっちゅう私の部屋のドアをノックして、「オッパ(お兄ちゃん)、スルマシロカジャ(お酒のみに行こう)」とか、「オッパ(お兄ちゃん)ヨンファポロカジャ(映画観に行こう)」等と誘われました。シンチョン(新村)ロータリー(交差点)には、当時、映画館や市場、デパートが集まっていて、また夜になるとポジャンマチャ(幌馬車)と呼ばれる屋台の飲み屋が出てました。映画を観て、ポジャンマチャ(幌馬車)でマッコルリや焼酎を飲みました。

年が明けて1992年は異常低温の冬でした。気温は氷点下18度まで下がりハンガン(漢江)は完全に凍りました。

そんなある日、ポジャンマチャ(幌馬車)で一人マッコルリを飲んでいて、すっかり酔いが回り気持ちが良くなってきて店を出て、すぐ裏のハニル(韓一)銀行の入り口にあった、数段の大理石の階段にしゃがみこみじっとしていたら、さらに気持ち良くなり意識が遠のきました。今考えてみると、氷点下20度近い環境で眠れば誰でも凍死してしまいます。凍死する前は眠くなって気持ちよくなると映画「八甲田山」で知りましたが、本当にその通りでした。

しばらくして、二人の若いお巡りさんが近寄ってきて、

「お兄さん、こんなところで寝ると死んでしまうよ。家はどこですか?」

と声をかけて起こしてくれました。二人は私の両腕を抱きかかえて持ち上げ立たせてくれました。意識もうろうとしていたので、どうやって二人に行先を説明したのか記憶がないのですが、自分の下宿ではなく、Aさんの下宿に連れて行ってもらいました。その後のことはよく覚えていないのですが、朝起きたらAさんの部屋にいました。二人の若いお巡りさんは私の命の恩人なのです。

また、誰から言われたか忘れましたが、「シンチョン(新村)に若い日本人の女性が住んでいて、毎朝、極寒の中を新聞配達している。非常にみすぼらしい服装で、ひょっとすると困っていることがあるかもしれない。同じ日本人として一度会って欲しい」と、その女性を紹介されたことがありました。

カフェで待ち合わせをして現れたのは、目がぱっちりした小柄の可愛い女性でした。しかし、彼女が身に付けていたのは、だぶだぶのズボンと薄汚れたジャンパー。その容姿のアンバランスさにびっくりしたことを覚えています。彼女は韓国に来て半年。ある宗教法人が発刊する新聞の販売店で住み込みで働き、毎朝夕配達の仕事をしながら韓国語を勉強していました。そして彼女はその宗教の信徒でした。「朝は寒いし配達はとても大変でしょう」と私が質問すると、「教祖様の教えがあるので傍からどんなに大変だと思われても苦しいとか辛いとか思ったことはありません」とのことでした。私も韓国留学する前に新聞配達のバイトをしたので、その大変さは理解しているつもりでしたが、彼女の場合は極寒で、しかも自転車での配達なので私の経験など全く比較にならない条件でした。

「困ったことがあればいつでも連絡してください」

と下宿の電話番号を渡しましたが、結局、電話がかかってくることはありませんでした。

他にも本当に多くの皆さんとの出会い、交流がありました。

Kさんに紹介してもらったソウル市立舞踏団のトップダンサーの男性。セジョン(世宗)文化会館に公演を観に行き、その後一緒に食事をしたことが想い出されます。当時、セジョン(世宗)文化会館の裏手には小さい平屋の木造家屋が並んでいて、その中に彼は住んでいました。ものすごくカッコよい人でしたが、ちょっとびっくりすることがあって。。。

KBS(韓国放送公社)の職員で台湾駐在時に台湾人アナウンサーの女性と国際結婚して、ヨイド(汝矣島)にあった、当時はまだピカピカだった現代アパート(日本のマンションに相当)に住んでいたご夫婦。お二人を訪ねて食事をご馳走になりました。台湾人の奥さんがものすごい美人でびっくりしたのと、二人はよく喧嘩をするのだが、その原因は常に韓国と台湾のカルチャーの違いだという面白い話を聞かせてもらいました。その時は、私が台湾人と結婚するなど夢にも思いませんでした。

チョンノ(鐘路)にあった有名な映画館、ピカデリー劇場の向かいの雑居ビルの中で、パンソリ、コムンゴ、カヤグムといった韓国伝統音楽を女性たちに教えている人間国宝のおじいさんがいらっしゃいました。練習を見学させてもらったのですが、ものすごい音圧に圧倒されました。また、女性たちが一生懸命、伝統音楽を練習する姿に感銘を受けました。

国立中央博物館の主席研究員で韓国民謡研究家のイ・ソラ先生。先生は朝鮮半島全土に口伝で伝わるアリラン研究の第一人者として有名な方でした。アリランの中のアリランは、「ミリャン(密陽)アリラン」だと。

아리아리랑 스리스리랑 아라리가 났네
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ

と唄われました。とても笑顔が素敵で、研究に生涯を捧げるために結婚はとうの昔に放棄したのよ、と笑っておられたその時の声が今でも聞こえてきそうです。

そして、ユン・ソㇰフンさん。ウエスティンチョスンホテルにオフィスがあった、トラベルジャーナルという旅行雑誌の記者でした。ユンさんとの交流はその後ずっと続き、私が帰国後、今度は彼が日本語を勉強しに日本に留学することになり、私の実家に2年間ホームステイをしました。日本で知り合った女性が韓国帰国後にパティシエになり、二人は結婚しました。お嬢さん(アイドルグループのリーダーとして活躍)と息子さんに囲まれて幸せに暮らしています。4年前、偶然連絡が取れたユンさんと、シンチョン(新村)のトㇰスリタバン(今はトㇰスリカフェ)で20年ぶりに再会した時は、二人で抱き合って泣きました。私にとってただ一人のヒョン(兄貴)です。

他にも私の記憶の中には韓国で出会ったたくさんの皆さんの笑顔と声があります。それらはきっと私が人生の最後を迎える瞬間に鮮やかによみがえることでしょう。その時、私はきっと、そのお一人お一人に向けて「ありがとう」と感謝の言葉を贈ると思います。韓国と出会ったことで、人生の深遠さや友情や愛やいろいろなことを学び私の人生は何倍も面白くなりました。これからもずっと、チャルプタカムニダ(よろしくお願いします)❗

終わり

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑦)

シンチョン(新村)の下宿から、友人のコ・ミョンチョルさんに紹介してもらったチョンさんの家に引っ越すことになりました。日本からソウルに到着した時と同じくスーツケースひとつを転がして、地下鉄シンチョン(新村)駅で地下鉄2号線に乗りハンガン(漢江)を渡ってシンリム(新林)駅へ30分。そこで、市内バスに乗り換えてナンゴク市場迄20分。バスを降りて徒歩10分。やっと目的地のチョンさんの家に着きました。

チョンさん家族は、奥さんと赤ちゃん(イニョンという女の子)の3人家族でした。建物は3階建ての構造で1階と3階は別の家族が住んでおり、2階部分の50平米程のスペースがチョンさんの家でした。チョンさんはがっちりした体格の人で、奥さんは切れ長の目の典型的な韓国美人でした。玄関を入って右が居間で、その奥が夫妻の寝室。私は、玄関の正面奥の4畳半ほどの部屋をあてがわれました。お風呂はトイレと一体化したユニットタイプで、韓国ではどこの家庭でもそうですが、浴室に大きなたらいがあり、そこに水をためておいて、その水を用を足した便器に注いで流すのです。また、下水浄水場の機能上の制約だと思いますが、おしりを拭いたトイレットペーパーはトイレに流すことは出来ず、トイレ横の小さなバケツに畳んで積み上げていきました。シンチョン(新村)の下宿でも同じでしたが慣れるまでは抵抗がありました。

チョンさん宅でホームステイが始まってすぐに気づいたのが、専業主婦の奥さんは愚痴ひとつ言わず、しっかりと子育てと家事をこなしている人だということでした。赤ちゃんが夜泣きをして睡眠不足でも、必ず5時半に起きてチョンさんと私のために朝食をつくってくれました。授業が休みの時、終日家にいたことがあったのですが、朝食を終えてチョンさんを送り出すと、休む間もなく赤ちゃんをおんぶしてあやしながら炊事、洗濯、部屋の掃除と手際よくこなしていきました。たまには友達とお茶でもしないのかなと不思議に思うくらい主婦業に徹していた人だったと思います。

ある時、奥さんに付き添って近所のナンゴク市場へ肉、魚、野菜、米の買い出しに行きました。スーパーマーケットがない地域だったので付近の主婦たちはこの市場で買い物をしていました。主婦たちは競うように商品を手に取り、店主と値引き交渉をしていました。スーパーでなら欲しいものを買い物かごへ入れるだけのことなのに、ひとつの商品に対して何分もかけて買い物をしていたのです。主婦たちにとって、買い物は決して楽しいものではなく、ある意味「戦い」のようなものだったのだと思いました。

引越しの結果、通学は大変になりました。毎朝6時半のバスに乗り、渋滞する車に阻まれながらシンリム(新林)駅まで30分程かかることもありました。信号システムの問題なのか、主要幹線道路である南部循環道路に出る交差点のところで大渋滞になるのです。そして、地下鉄に乗り換えると車内は東京の朝の通勤時間帯並みの大混雑状態でした。すし詰めの車内を押し合いへし合いしながらやっとホンデアプ(弘大前)駅に到着。地上に出て深呼吸すると空気が新鮮でした。夏から秋、秋から冬への気温の変化が激しいソウルでは、地下鉄の駅から地上に出た時の空気の違いを日々感じることが出来ました。そして、延世大学のキャンパスに向かって歩いて行く途中にあるモギョクタン(沐浴湯=銭湯)に寄りました。

朝7時半頃に入ると既におじさんたちが朝風呂を楽しんでいました。脱衣エリアには売店があり飲み物や食べ物が売られており、テレビではニュースが映されていて、その前ではひとっ風呂浴びたおじさんたちが自由な姿勢でくつろいでいました。浴室には、熱い湯、ぬる湯、水風呂の3つの浴槽があり、大きなサウナがありました。サウナは高温室とスチーム室に分かれていて、どちらにも床には砂利が敷き詰められていていました。ここ入ると必ずと言ってよい程、誰かと会話をしました。その会話が結構、韓国語の勉強になりました。

そして、たまにテミリ(垢すり)をテミリアジョシ(垢すりおじさん)にお願いしました。競技用のスイミングウェアのようなパンツをはいた筋肉質のアジョシ(おじさん)が、すごい力で体中の垢をこすりだして、あっという間に洗い流してくれます。そして、サウナで汗をしぼり出して水風呂に入り、売店で牛乳を買い一気飲みして外に出ると、身も心も軽くなって本当に気持ちが良かったです。そうやって9時前に教室に到着するという生活を、学期の間の休みをはさんで6ヶ月続けました。

ホームステイ開始当初、チョンさんは夕食を家でとり、食後、私が日本語を教えていたのですが、徐々にお酒を飲んで深夜に帰宅することが多くなり日本語を教えることも少なくなっていきました。奥さんには、私のためだけに夕食を用意してもらうことが申し訳なくなってきたので、授業が終わると大学の図書館で勉強して、バスでセジョンノ(世宗路)に移動し、ソウル新聞社ビルの上層階にあった日本人会に寄って食事をすることが増えました。

日本人会には日本語が上手な親切なアジュマ(おばさん)がいて、ドリップコーヒー(ホット・アイス)とカレーライスの食券(10枚つづり)を売っていて、それでカレーライスを食べて帰宅しました。当時、ソウルでもカレーライスを食べることは出来ましたが、妙に黄色くて、ルーも粉っぽくてあまりおいしくなかったので、アジュマ(おばさん)が作ってくれた日本のカレールーで作った完璧に日本味のカレーは本当においしかったのです。日本人会の大きなフロアにあるテレビにはNHK BS放送が常時映されていて大相撲中継をいろんな会社の日本人駐在員と一緒に観ました。

深夜に帰宅するチョンさんは、突然友人を連れて帰ってくることがありました。それでも奥さんは嫌な顔一つせず、お酒とつまみを用意してもてなしました。私も声を掛けられて飲み会に参加するように求められました。韓国では男性は友達から求められたら断らないという常識があるので、奥さん同様、私も嫌な顔を見せずお酒に付き合いました。

一緒に飲んでいるといろいろなことを質問されました。日本社会のこと、学校のこと、家族のこと、就職や給料等々。当時、経済的繁栄を謳歌していた日本への関心は非常に高かったのだと思います。そして、酔いが回ってくると必ず口に出たのが「あらゆることに関する日本の責任問題」でした。このトピックはとてもセンシティブなので書くことがためらわれたのですが、日韓関係を考える上で避けて通れないことですので書くことにしました。以下のことは今まで両親にも友人にも妻にも話したことがありません。

私が考える、韓国の多くの人々が日本に求めていることは以下の通りです。

1、日本政府による大韓帝国併合と統治期間に行われた非人道的行為への具体的な謝罪。

2、日本の非人道的行為の対象であるすべての韓国人とその遺族に対する、全日本人による謝罪と具体的行動(天皇による正式な謝罪、金銭的補償等)の継続的実行。

日本が国際法に照らして主張している「補償問題は解決済」の根拠は、日韓基本条約締結によって実行された円借款と技術供与を前提にしています。しかし、韓国の多くの人々の心情としては、それはあまたある謝罪の一部分にしか過ぎず、両国間の問題を根本解決する必要条件とは認識されていません。

しかも、日韓基本条約締結時の政権は軍事政権であり、その政権が主導した時代は経済発展の名の下で政財界が癒着し、個人の権利や人権が無視されたという負の記憶が重なっています。その忌むべき時代の背景に日本政府とそれに迎合した企業がいたということが、現在の革新政権の誕生の背景になっているという複雑な事情があることを、私たちは理解しておく必要があります。

私は、朝鮮半島に残る神話、古代から中世に至る日韓関係の歴史、明治維新から韓国併合に至る経緯、日本統治下および戦前戦中の朝鮮半島の状況、日本の戦後復興と韓国及び韓国人への対応、朝鮮戦争と軍事クーデター、同政権による戦後復興、ハンガン(漢江)の軌跡と呼ばれる高度経済成長とソウルオリンピックの開催、民主政権の誕生とアジア通貨危機、革新政権誕生へと至る経緯を、日本と韓国両国の視点から学び、両国からみた事実の捉え方の理解に努めてきました。そこから得た知識によって、韓国の方々から「全日本人による謝罪」を求められたとき、大部分の日本人が、情と理の両面から総合的に判断して、果たしてその求めに素直に応ずるだろうか、と徐々に考えるようになっていきました。

統治に至る過程、また統治下の朝鮮半島で日本(旧朝鮮総督府)が、被支配者である韓国の人々に対して人間の尊厳を踏みにじるような非人道的行為をしたという事実があったことは事実だと思います。よって、多くの韓国の人々が「日本」が犯したことに対して謝罪し続けるべきと考えていることは十分理解できます。その一方で「過去から現在に至る全日本人が、主に旧朝鮮総督府が行った行為について全責任を負っており、そのことに対して謝罪し続けるべきだ」という解釈には、やや飛躍があり、多くの日本人には受け入れることは難しいだろうという考えを持っています。

私が「全日本人の全責任論」を受け入れるのを難しいと考える理由は、大多数の日本人自身も、太平洋戦争と日中戦争の大敗北。空襲で国土のほとんどを焼き尽くされた筆舌に尽くしがたい絶望と不幸を味わった「被害者」だからです。

では、私が考える、日本人が韓国の人々に謝罪すべきこととは何かというと、当時の日本人が、政府と軍部の行動を止めることが出来なかったこと。また、嘘の情報に踊らされ軍を支持し、被支配者に対する差別的、時に暴力的な態度をとったこと。もしくは、傍観者として見て見ぬふりをしたことだと思っています。しかし現実的には、明治憲法下における個人の権利は現在よりも制限されていた上に、軍は天皇の統帥権の下で独立し、超然とした存在となっていて、たとえ内閣でも口出しが難しく、ましてや一国民が軍部の指導に従わない、または阻止する行動をとることは命を捨てる覚悟でもない限り非常に難しかったと考えます。

一方、今を生きる私たち日本人はどうでしょうか。いまの政府がやることをきちんと監視しているでしょうか。過ちに対して明確に反対の意思表示をしているでしょうか。選挙権や情報請求権という民主憲法下で認められた基本的な権利を与えられているにも関わらず、それを活かし切れていないのではないでしょうか。私はそのことが、過去の出来事から学びきれていないという点で、日本人が韓国の人々に対して謝罪すべきことだと思っています。

ドイツのヴァイツゼッカー大統領が1985年5月8日の演説で、

「過去 に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

と述べました。

日本人は、隣国の人々に指摘されるまでもなく、日本が滅亡の寸前にまで至ったという歴史の事実から目を背けることなく、徹底的にそこから教訓を得て未来に活かさなければならないと思います。

そのことを理屈では理解していても、そういう私も、面と向かって昔の出来事、しかも、会ったこともない人々の行為について謝罪を求められても、それを素直に認めることは簡単ではないことを身をもって体験しました。

夏休み、ホームステイ先のチョンさん家族とその友人達10数名でオープンしたばかりのムジュ(茂朱)リゾートに行きました。日中何をしていたかは記憶にないのですが、夜は歌謡ショーがありチョー・ヨンピルの歌を聞きました。そして、宴会の場で例の「日本のあらゆることに関する責任問題」が話題になったのでした。

リゾートの部屋で車座になって食事とお酒を楽しんでいる最中、チョンさんの友人の一人が突然私に向かって「日本人が韓国人にしたことをどう思っているんだ?」とすごんだのです。それに便乗して他の4名~5名も畳みかけるように私をつるし上げにかかりました。

私は彼らの言っている言葉の意味を理解しようと必死に聞こうとしたのですが、チョルラド(全羅道)の方言がきつくてなかなか聞き取れない。しかも、私に対して日本に責任があると思うか? とYes or Noの返答を求められる。さらに、どの程度責任を感じているのか? と非常に難しいことを言ってくる。勝手に旅行に誘っておいて、その場に一人しかいなかった日本人の私を、まるで全日本人の代表者のように見立てて、寄ってたかってやり込めるなんていま考えてもあんまりだなと思います。でも、それくらい韓国の人たちの怒りが大きいということなんです。

私は、モルラヨ(分かりません)と言ってその場を離れようとしました。すると今度は、「日本人は教育されていないから分からないんだよ」というもっと辛辣な言葉を浴びせ掛けられました。前述したように、日韓両国の歴史については恐らく彼らよりも私の方が詳しい部分が大きかったのではないかと思います。私が、モルラヨ(分かりません)と言ったのは、「何があったか分からない」という意味ではなく、「日本人がかつて韓国の人々に対して行った行為について現代を生きる全ての日本人が責任を負っていて謝罪し続けるべきと思うか」というと分からないという意味だったのです。

結局、ホストのチョンさんが中に入ってくれて「楽しい旅行でそういった話題は相応しくないのでやめよう。大西さんは日本から韓国に来て韓国のことを学んでいる貴重な存在じゃないのか?」と言ってくれてその場は収まりました。

私は普通日本人が経験しないような極端な経験をしました。今振り返るとこの経験によって、就職後に仕事で訪れた、シンガポール、台湾、香港、中国、ベトナム等の国々で直面した同様の場面(あらゆることに関する日本の責任問題の質問や詰問)においても、ひるまずに、自分の考えをはっきり述べることができるようになりました。

私が韓国留学で得た最も大きな学びは、「真実はひとつではない」ということ。そして、一人一人が、各々が持つ「異なる真実」を述べ合い「すりあわせをする」ことの大切さです。そこにかける時間や手間を惜しまず続けることは、隣人との良好な関係を維持する上で絶対に必要だと思います。

今回は、日韓に横たわる核心的な問題について勇気をもって書きました。これらはあくまで私が経験を通じて得た教訓ですので必ずしも正しいわけではありません。日韓関係を真剣に考えてきた一人の人間の見聞録として読んでいただければ幸いです。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑥)

「人は2度死ぬ」という話しを聞いたことがあります。1度目は実存の死。そして、2度目は人々の記憶から消える時。ソウルで過ごした1年間に出会った方々は、皆さん強烈な個性を放っていて、それぞれに忘れがたい想い出があります。その中でも特に深く刻まれた想い出は、1991年当時、既にご高齢だった皆さんのことです。今となっては既にお亡くなりになられている可能性が高く、再会は叶わないかもしれない皆さん。私の記憶の中で今でも元気に生き続ける皆さんのことを書き留めておくことにしました。

・深夜の誤報

1991年当時、ソウルでは月一回(確か15日)の正午過ぎに、20分間のミンバン(民防)というものがありました。北朝鮮からの攻撃を想定した防空訓練のことです。ソウル中にサイレンが鳴り響き、二度目のサイレンが鳴るまでの間、歩行者は建物の中、地下道等の退避所に入りじっとしていなければなりません。また、自動車、バスもすべて運行を止めて路上で待機しなければならず、従わないと逮捕されると聞きました。ミンバン(民防)の前には、ミンバン(民防)委員が街中に出てきて、うろうろしている人がいないか監視をします。私たち留学生も、ミンバン(民防)開始前には食堂に入るなど待ちぼうけを食わないように対処しました。計画的な訓練ですので、混乱ひとつなくスムーズに運用していたと思います。

シンチョン(新村)の下宿で過ごしていたのある日のこと。日付は忘れましたが、気候も暖かくなっていたので6月だったのかもしれません。皆が寝静まった深夜に、突然ソウル中にミンバン(民防)のサイレンが鳴り響いたのです。就寝中だった私はサイレンの音に驚いて目を覚ましました。続いて、階下から階段を駆け上がってくる音がしたかと思うと、下宿の主人(おじさん)が私の部屋のドアをすごい勢いで開けて、

「逃げるぞ!今すぐ荷物をまとめて!」

と叫んだのです。私は熟睡中を突然起こされて何が何だかさっぱりわからず、ぼーっとしていたのですが、隣の部屋の日本人のおじさん(韓国の児童文学の研究者)、また、向かいの部屋の相部屋の韓国人2人(ロッテデパートの会社員と、ソガン(西江)大学の大学院生)の部屋からは、ごそごそと何かを始めたような音が聞こえてきて、これは本当に何かが起きたのでは、と目が覚めました。

大急ぎで服を着て、パスポートと財布をバッグに入れ、階段を降りると、おじさんは興奮気味に、韓国語でおばさんに何かを話していました。そして、下宿生全員が集まったところで、次のように言いました。

「これは北朝鮮が攻めてくることを知らせるものだ。とにかくハンガン(漢江)の南へ行こう。ハンガン(漢江)を渡らないと北側に取り残されて北朝鮮に殺されるぞ!」

私は、おじさんが鬼のような形相で興奮して話す様子を聞いて唖然としました。

ソウルを東西に横切るハンガン(漢江)には、いくつかの大きな橋が架かっているのですが(その中のひとつソンス(聖水)大橋は1994年10月21日に事故で崩落)、それらすべての橋の中間地点に設置された詰め所にはダイナマイトが仕掛けられており、韓国軍は有事にはこのダイナマイトで橋を爆破して、北朝鮮軍が南に進行するのを食い止めると聞いていました。大きなリュックを背負ったおじさんとおばさんを先頭に私たちは外に出ました。その時、再びサイレンの音が鳴り響きました。おじさんとおばさんは、外に出ていた近所の人たちと話を始めました。そして、私たちのところに戻ってきて、

「誤報だったみたいだ」

と言いました。その時のおじさんの安堵した表情を忘れることが出来ません。そして、おじさんは居間に戻った私たち下宿生に昔話を始めました。

朝鮮戦争の時、北朝鮮軍に追われ南へ南へ逃避行して、とうとう釜山まで逃げた。逃げ遅れた人は捕まってひどいことをされた。だから、いまでも北朝鮮が襲ってくる夢でうなされることがある。釜山を除く朝鮮半島をすべて北朝鮮軍に占領された韓国は絶体絶命の危機に陥った。そして、マッカーサー率いる国連軍がインチョン(仁川)に上陸し占領地を奪回していった。38度線の北側へと北朝鮮軍を押し上げていき南が優勢になったところに、中国軍が参戦して一進一退となり、38度線が停戦ラインに定められた。

1991年当時は、朝鮮戦争を経験し、その記憶がまだ生々しい世代がご健在でした。ミョンドン(明洞)など繁華街では、戦争で負傷して腕や足を失った人たちが腹ばいになって、アンプ付きのスピーカーにつなげたマイクで歌を唄い、募金を求めているのも日常の光景でした。1991年、日本が太平洋戦争終結後46年を迎えたその年、韓国は朝鮮戦争停戦後38年を迎えました。その違いはたったの8年間です。しかし、両国の戦争に対する危機感は天と地ほどの開きがありました。朝鮮半島は休戦状態。目と鼻の先にいる北朝鮮がいつ攻めてくるかと戦々恐々としている人がまだまだ多かった時代でした。深夜の誤報は、普段見ることが出来ない朝鮮半島の緊張状態を見せつけられた出来事でした。

・地下道のおばあさん

次は、日本統治下で生まれ、2つの戦争を生き抜いた一人の女性の話しです。

学校帰り、また、前述したミンバン(民防)のとき、私は、延世大学正門前の大通りの下を潜り抜ける地下道の真ん中にあった「売店」のおばあさんを訪ねました。初登校の時にこの売店にふと立ち寄り牛乳を買ったとき、おばあさんは私に向かって「日本人だね。日本人が好き」と言いました。それ以来、私にとても親切にしてくれて、いろんな話しを聞かせてくれたおばあさん。この方が歩んでこられた人生の断片を知って、韓国という国は決して一枚岩ではなく、様々な価値観と、ものの考え方が複雑に絡み合って成り立っている国なのだ、ということを学びました。

おばあさんは1991年当時、既に70歳を超えていたと思います。日本統治下のソウルで生まれ育ち、太平洋戦争開戦(1941年)の時は既に結婚していたので、大正生まれだったのかもしれません。 おばあさんが持っていた日本人像は「律儀」「親切」「正直」「真面目」。少し買いかぶりすぎかなと思いましたが。。「それにひきかえ・・人は」というのが口癖でした。おばあさんは、私と話しをする時には流暢でとてもきれいな日本語を使いました。「ですます」ではなく「ございます」。尊敬語、謙譲語、丁寧語も完璧に使い分けて、まるで国語の先生から正しい日本語を教えてもらっているようでした。

一方、とても和やかな私たちの日本語の会話の合間に、大学生が売店にやってくるとおばあさんの表情は豹変し、激しく辛辣な韓国語で叱りつけました。まだ、韓国語をきちんと理解できなかった私でしたが、叱りつけられた学生の表情を見て、相当こっぴどく言われたんだなということが分かりました。そして、おばあさんは私に「韓国では躾がなっていない。これじゃ先が思いやられるよ」と愚痴をこぼしました。

おばあさんが日本人を美化したのは、日本統治下のソウルでの美しい想い出があったからです。

小学生のとき担任の先生は優しい日本人の女性だったそうです。その先生は、お弁当を持ってこれない生徒がいると自分のお弁当を分けて食べさせていた。そして、先生と一緒に歌を唄ったり、お遊戯をしたり、絵をかいたり、夢のような楽しい時間を過ごしたと。そんな話しをしているときのおばあさんはまるで少女時代に戻ったように穏やかな表情をしていました。そこに学生が来ると鬼のような表情になって叱りつける。その豹変ぶりを横で見ていて面白く、何度もふき出しそうになりました。戦争が激化し、日本の敗戦で日本人は本土に引き上げていき、朝鮮半島は南北に分断され、政情不安であちこちで物騒なことが起き始めた。そんなときにいつも思い出したのは少女時代、小学校の先生と一緒に過ごしたときのことだったそうです。朝鮮戦争でご主人を無くし、息子を連れて逃避行して命をつなげた。戦後は女手一つで息子を学校に通わせ、今、息子夫婦はアメリカにいて孫もでき幸せに暮らしていると。自慢げに写真を見せてくれたおばあさん。でも、どことなく寂しい表情を浮かべていました。いろんな複雑な事情があるのだろうと察しました。

おばあさんとの交流は私の留学中ずっと続きました。そして、日本に帰国後、就職した最初の年に韓国への2ヵ月間の連続出張があり、その時もおばあさんを訪ねました。就職して戻ってきたと話すとおばあさんはとても喜んでくれました。そして、1997年のアジア通貨危機で韓国経済が大混乱に陥った時、再びソウルを訪れた私は地下道のおばあさんを訪ねました。しかし、売店の入り口は鉄板でふさがれ、固く南京錠で閉ざされていました。その後、2000年代に入り、ソウルを訪れるたびに地下道へおばあさんを探しに行きましたが結局再会は叶いませんでした。

「日本びいき」というと、留学の最後に偶然乗ったタクシーの運転手さんのことを思い出します。私が話す韓国語で外国人と分かった運転手さんは「日本人ですか?」と質問してきました。私が「はい、ソウルに一年いました」と答えると次のことを話し始めました。

「一年の間に、いろいろ嫌な思いをしたでしょ。日本人だから悪いとか、どうとか言われませんでしたか? 私の母はね、日本統治下で生まれ育ったんですが、私たち兄弟にね「日本人だからという理由で悪く言ったりしてはいけないよ。私はとても良い日本人を知っている。韓国にも日本にも良い人もいれば悪い人もいる。だから、偏見で決めつけてはだめだよ」とね。だから、ずっとそう言われて育った私は母にとても感謝しています。」

私はタクシーの後部座席からじっと運転手さんの話しに耳を傾けました。1年間を振り返り、いろいろなことが頭に浮かんできて涙が出そうになりました。

・謎の外国人

以前のブログで紹介した、足掛け9年ソウルで過ごした勇者、Kさんが住んだ最初の下宿は、チョンノ区チェブ洞といって、李氏朝鮮時代の王宮キョンボックン(景福宮)の西側に広がる、ハノク(韓屋)と呼ばれる韓国式家屋が軒を連ねる歴史地区の中にありました。その北側には大統領府チョンワデ(青瓦台)、韓国で最も有名な道路と言っても過言ではないセジョンノ(世宗路)まで徒歩で行けるソウルのど真ん中でした。街に一歩足を踏み入れると、チャングムやファンジニのようなTV時代劇の世界にタイムスリップしたかのような街並みが残っていて、ここがとても好きになった私は、Kさんの下宿に度々お邪魔してご飯をご馳走になりました。下宿のおばさんは嫌な顔一つせず、いつも温かく迎えてくれました。

下宿は、まず門をくぐるとマダンという中庭があり、それをぐるりと取り囲むように6畳ほどの部屋が並んでいる平屋構造になっていました。トイレとシャワーは離れになっていて、その壁面にある階段で屋根に昇ると、ぐるりと周囲の家々を見渡すことが出来ました。満月の夜、ここでお酒を飲みながら、ハノク(韓屋)独特の屋根が延々と続く景色を眺めながら月見をした時の光景はため息が出るほど美しかったです。この地区は、その後再開発の対象となり、すっかり古い建物が取り壊されてしまったようです。本当に残念です。

この下宿にはKさんともう一人下宿人がいました。お名前は「ジミーCハンさん」という韓国系アメリカ人でした。がっちりとした体格で身長は180センチ近くあったでしょうか。短く切った髪、肌は艶々していて若々しい人でしたが、ご自身の言葉では70歳だと言っていたような。。ベイビーフェイスで親しみを覚える方でした。

ハンさんは、語学堪能で、英語、韓国語、中国語、日本語、ロシア語を使いこなしました。普段はずっと部屋にこもっていたのですが、たまに出てこられるとKさんの部屋を覗いて私たちと会話をしました。ハンさんの部屋にはいろいろな言語の新聞、本、そして無線機のような機械が置かれていました。時々、ハンさんの部屋から中国語やロシア語が聞こえてきて、いったい何をしている人なんだろうとKさんと不思議に思っていました。

ある日、ハンさんは私たちの疑問に答えるように自身のことを話し始めました。

アメリカ大使館に所属して軍関係の仕事をしている。朝鮮戦争の時、インチョン(仁川)上陸作戦にマッカーサーの副官として参加した。マッカーサーと並んで上陸した時の写真を私たちに見せながら自慢気に語りました。日本が好きで、力道山が友達だった。後ろから見るとハンさんは力道山と体格、背丈が一緒なのでよく間違えられた。力道山はヤクザに刺されて死んでしまって残念だったとしみじみ語っていました。

先日、Kさんと28年ぶりに再会した時、ハンさんのことが話題になって、Kさんが「あの人は本当に存在していた人だったのか、それとも夢だったのか迷うことがあるんですよね」と。私たちにとってハンさんはそのくらい不思議な存在だったのです。確かにそこにいたはずなのだけど、夢か幻かと思ってしまうような人というのは、私にとっては後にも先にもハンさんお一人だけです。ハンさんはその後、下宿を出てアメリカ軍の基地近くに引っ越してしまいました。一度、食事をご馳走になったのですが、それ以来一度もお目にかかっていません。

下宿のおじさん、地下道のおばあさん、謎の外国人(ハンさん)は、今、私が心の底から会いたい人たちです。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑤)

1991年4月、ソウルでの留学生活が始まりました。韓国語学堂の授業の特徴は、韓国語以外の言語を一切使わず、先生が、韓国語で韓国語を教えることです。カリキュラムは、文章と読解、会話、リスニング、ハングル文字の学習に分かれていて、計4時間の授業を受講することで体系的に韓国語をマスターしていきます。そのメソッドは素晴らしいものでした。そして、毎日、新しく学んだ構文を使って、5つ以上の例文をつくるという宿題が出されました。伝えたいことを表現するためには、新しい単語を調べなければならず、辞書とにらめっこしなければなりません。そうやって語彙も少しずつ増えていきました。

語学は3の倍数で上達する、と聞いたことがあります。私の実感でも、最初の3週間でぐっと伸びて一旦停滞。3ヶ月でぐっと伸びてまた停滞。そして、6ヶ月目に上達を実感する。これを繰り返しながら、徐々にいろいろな言葉が理解できるようになっていきました。「分かる」ことは喜びにもなりますが、反面、分かったことで生じる戸惑いもあり、喜びと戸惑いが、ほぼ同時に増えていくような感覚を味わっていたと思います。

日々の上達のスピードは非常にゆっくりなため変化を感じることはほとんどなかったのですが、留学開始から3ヶ月ほど経ったある日、バスの車内から外を眺めていて、次々に視界に入っては離れていく店舗や道路標識、看板等に書かれているハングル文字を瞬時に読み取っている自分に、何の前触れもなく気付いきました。学ぶことは「自分が変わること」だと初めて実感した瞬間でした。

地下鉄に乗っていると、駅名や乗り換えの案内以外にもいろいろな車内放送が耳に入ってきました。そして、バスには、新聞やガムを売りに乗ってくる子供たちが次々と乗ってきて、大きな声で何かを訴えていました。何を言っているのか皆目見当がつきませんでしたが、この子供たちは一つか二つの停留所の区間だけ乗っては下車していきます。そうやって恐らくソウル中のバスの乗り降りを繰り返していたのでしょう。運転手はそんな子供たちからは乗車賃は取りませんでした。そして、前述と同じく留学開始から3ヶ月ほど経ったある日、今まで全く聞き取れなかった言葉の意味が突然理解できました。

地下鉄の車内放送は、政府機関からの通達で「怪しい人物(北朝鮮のスパイ)を見つけたら連絡をしてください」などと繰り返し放送していることが分かりました。また、バスの車内で新聞やガムを売る子供たちは、乗客に挨拶をして、自分の身の上を語り、(新聞等を)買ってくださいと懇願していることが分かってきました。意味が分かり始めると、それまで傍観者でいた自分の中にいろいろな感情が湧きあがってきました。

韓国と北朝鮮は休戦中で、いつ戦争が始まるかもしれないという緊張感。当時のソウルには多くの孤児がいて、悪い大人たちに操られて物売りをさせられていたりすることも分かり心が揺れました。他にも、ソウルで生活している以上、知らなかったでは済まされないことが次々と分かってきて、それら一つ一つの情報を一旦は受け入れ、次に自分なりに解釈した上で整理するのに精一杯だったことを覚えています。

しかし、留学生活の始まり時期における出来事で、けた違いにインパクトが大きかったのは「学生によるデモ」でした。

今振り返ると1991年という年は、日本にとっても韓国にとっても、また世界史的な意味でも、従来の秩序が変わるターニングポイントの時期だったと思います。

日本では、同年2月に、みんなをお金儲けに血眼にしたバブル経済が終わりを迎えました。

バブル景気(バブルけいき、英: bubble boom)は、好景気の通称で景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。情勢自体はバブル経済と同一であり、バブル経済期(バブルけいざいき)または、バブル期(バブルき)や平成景気(へいせいけいき)、平成バブル(へいせいバブル)とも呼ばれる。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環(内閣府の景気基準日付)という通称で指標を示している。(Wikipediaより)

また、12月には、ソビエト連邦が解体され東西冷戦が事実上幕を閉じました。

ソ連崩壊(ソれんほうかい、露: Распад CCCP)とは、1991年12月のソビエト連邦共産党解散を受けた全ての連邦構成共和国の主権国家としての独立、ならびに同年12月25日のソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビエト連邦が解体された出来事である。(Wikipediaより)

そして、韓国では、80年代半ばから始まった国民的な運動(軍事独裁政権から民主政権への移行の要望)が最高潮に高まり、大詰めの時期を迎えていました。そのような中、4月にソウルのミョンチ(明知)大学の1年生の学生が、デモの最中に機動隊(別名:戦闘警察)により殴打され死亡するという事件が起きました。もともと私が通っていた延世大学はデモのメッカだったのですが、この事件をきっかけに学生の怒りに火がついて一気に激しいデモへ発展しました。東京大学東洋文化研究所の真鍋祐子教授が、当時のことをシンポジウムで語られていますので以下引用します。

私は韓国の民主化運動についてずっと研究をして参りました。それで1987年から88年にかけて、一年間ソウルに留学をして、1991年から93年にかけて2年間、大邸(テグ)にある大学で日本語教員をやっておりまして、その間、民主化運動はまだまだ激しい時期でした。ちょうど大邱にいた時分に民主化運動の現場で抗議の焼身自殺というのが一ヶ月で11件も続いた、そういう時期を過ごしました。それは1991年のことです。4月にソウルにある明知大学の一年生がデモのさなかに機動隊に殴り殺された事件をきっかけに、抗議の焼身自殺が全国に広がったのです。私がいた大邸というところは、保守的な土地柄で、あまり学生運動が盛んなところではないのですが、在職していた大学のエントランスホールには、どこかで抗議の焼身自殺者が出る度に焼香台が設置されて、その台の上に亡くなった学生なり労働者なりの遺影と、ときには黒焦げの遺体の写真、あるいは燃えているさなかの写真が飾られていて、お焼香ができるように線香が立ててある。これが4月から5月にかけて約ひと月、10人以上も亡くなっているので、非常に私にとってもハードな経験でした。(2018年6月2日(土)東京シンポジウムでの講演「死者への追悼と社会変革―韓国民主化闘争を振り返る」より)

真鍋教授は、このシンポジウムの講演の中で、後追いで焼身自殺するというショッキングな行動の原因について、韓国人が持つ独特な精神の中にある「死者への弔い」がそうさせていると述べておられます。このことについて私は何かを語る知識を持ち合わせていませんので言及はしませんが、延世大学の学生会館にも、自死した学生の遺影と焼香台が増えていくのを見ましたし、日本から飛行機でわずか2時間程しか離れていない距離にあるところで起きていることとは、にわかには信じ難いと思った記憶があります。

学校の構内では喪章をつけた学生を多く見かけるようになり、至るところで集会が開かれていてリーダーらしき学生が拡声器で何かを叫んでいる姿が目立ち始めました。大学の正門では、亡くなった学生への弔いと、民主政権実現を実力行使で訴えようと、シンチョン(新村)の街に今にも押し出そうとする学生の一団と、道路の反対側でその動きをけん制する機動隊のにらみ合いが何日間も続きました。私はその様子を横目で見ながら下宿と学校を往復しました。当時、韓国でもデモは認められていたようですが、事前の届け出が必要なことと、実施場所は学校等の敷地内に限定されていたようです。よって、敷地から一歩外に出ると違法行為となるため、国家権力は暴力的な手段を用いてでも徹底的に排除を試みました。韓国には徴兵制(1991年当時は2年半)がありますが、機動隊も徴兵で集められた若者で構成されていて、真偽は定かではありませんが、デモで捕まった学生が徴兵されると真っ先に機動隊に回され、昨日まで一緒にデモをしていた仲間たちを鎮圧する役割を担わされたと聞いたことがあります。

そして、我慢の限界を超えた学生たちは、ついに大学の正門を突破し機動隊と乱闘になりました。

私は正門から大学構内に入ることが出来なくなり、隣のイファ(梨花)女子大学の方へ遠回りをして通学しました。そのような中、恐らく、あちこちの大学から学生が集まってきたのでしょう。小競り合いだった程度だったデモの規模がどんどん大きくなって、シンチョン(新村)の街中で衝突するようになり、機動隊は装甲車を出動させて道路を封鎖し、催涙弾を発射して町中が白煙に包まれることもありました。催涙弾は暴動鎮圧のために各国で使われていますが、当時の韓国では特に大量に使われたのではないかと思います。これも真偽は定かではありませんが、最も強力なフィリピン製を使っていると聞いたことがあります。

そんなある日の夕方、シンチョン(新村)の街の中にある食堂で一人食事をしていた私は、意図せずデモに巻き込まれてしまいました。

食事の最中停電になり店内は真っ暗になりました。警察か市政府電力の判断かは分かりませんが、デモ鎮圧のため一時的に電力供給を止めたのです。そのようなことは以前にもあったため驚きませんでした。食堂のアジュマ(おばさん)は、何も言わずろうそくに火をつけ皿に乗せ、各テーブルに置き始めました。私の目の前にもろうそくが置かれて、真っ暗な店内がゆらゆらとしたろうそく明りに照らされました。その光景はデモの真っただ中とはいえ、幻想的で美しく、今でも脳裏に焼き付いています。食事を終え会計を済ませて外に出ようとした時、アジュマ(おばさん)が「まだ、危ないからここで待っていたほうがいいよ」と諭してくれました。しかし、早く下宿に帰りたかったのでお礼をして店を出ました。

店の外に出ると、左手の坂の下の方から大きな音が聞こえてきました。そちらに目を向けると、大勢の学生が機動隊に追われて逃げてくる様子が目に飛び込んできました。その勢いに圧倒された私は、あれよあれよという間に学生の一団に巻き込まれてしまいました。そして、一緒に走り始めました。機動隊は後ろから迫ってきているはずだし、足元は暗くて良く見えないし、もし捕まったりしたらこん棒で殴られ、留置所へ入られ、日本に帰されるかもしれないなどと、いろんなことが頭に浮かびました。但し、方向感覚だけはしっかりしていて、この道を走り通せば逃げ切れるはずだということもはっきり分かっていました。そして5分ほど走ったでしょうか。イファ(梨花)女子大学の方角へと続く坂を一気に上り切り、後ろを振り返ると既に学生たちは散り散りになったようで姿がありませんでした。また、機動隊の姿も見えませんでした。ほっとしました。

しばらくじっとして呼吸が整うのを待ちました。そして、どうやって下宿に戻ろうかと考えました。その場所から見ると下宿は、先程までいた食堂の正反対にあり、まっすぐ行くとデモのまっただ中を突破しなければなりません。さすがに無理だと考えた私は、地下鉄2号線の真上を走る大通りに出て地下鉄で移動できないか試してみることにしました。イデ(梨大)駅の階段を駅の構内に向けて降りて行くと学生がたくさんいて騒然としていました。駅員が何やら拡声器で叫んでいる声が耳に入ってきて、はっきりとは聞き取れませんでしたが「シンチョン(新村)駅は通過して隣のホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅まで停車しない」と言っているようでした。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅とは、ホンイク(弘益)大学がある駅で、その頭文字をとって普通はホンデ(弘大)と呼ばれています。今では、活気あふれる若者文化の創造、発信基地ですが、当時は、駅を降りると大通り沿いに台所用品の問屋さんとか、ボイラーの代理店などしかなかった記憶があります。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅から下宿までは歩いて20分程の距離ですし、シンチョン(新村)駅があるロータリー近辺は機動隊と学生が激突して、催涙弾がまかれているのでとても近付けないと考えた私は、地下鉄で移動することにしました。

地下鉄に乗ると、ソウルの中心部で働く帰宅途中の会社員が大勢乗っていて、不安(不満?)そうな顔をしていたことを覚えています。そして、電車は真っ暗なシンチョン(新村)駅のホームを通過していきました。通り過ぎる地下鉄の車内から見えた駅のホームには、座り込む学生が大勢いたように記憶しています。機動隊から逃れてきたのかもしれません。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅で地下鉄を下りた私は階段で地上に出ました。坂を上り、次にやや下って左折し路地に入り、坂を上って銭湯の前を通過して急な坂を下っていくと遠くに下宿が見えてきました。この辺りはシンチョン(新村)の街を見下ろす高台でしたので、そのあたりまで来たら灯りが消えた真っ暗な街が見えてきて、白くもやがかかっているようでした。

下宿も停電で真っ暗でした。玄関に入り「タニョワッスㇺニダ(ただいま帰りました)」と言うと、アジュマ(おばさん)、続いてアジョシ(おじさん)が出てきて、泣きそうな顔で「今までどこにいたんだ?本当に心配したよ。でも無事でよかった」と言いました。他の下宿生も皆戻ってきていました。

さっきまでは下宿に戻ることだけに集中していたので気付かなかったのですが、靴を脱いで居間に入ると、顔がひりひり、目がしょぼしょぼして涙が出ることに気付きました。そのことをアジョシ(おじさん)に言うと、それは催涙ガスを浴びたんだと教えられました。そして「今晩、どんどんヒリヒリして痛くなるけど、決して水で濡らしてはいけないよ。ガスの成分は水と反応して皮膚が炎症するんだ」と言われました。それから翌朝迄の数時間は本当にきつかったです。顔や腕がヒリヒリして涙は出るし、むせるように息苦しく自室の布団の中でじっと我慢しました。

学生デモはその後も規模が拡大して、場所もシンチョン(新村)などの学生街からミョンドン(明洞)や市庁舎前、チョンノ(鐘路)といったソウル中心のオフィス街、繁華街へ飛び火していきました。別の日にロッテデパートにいた時にも、ミョンドン(明洞)の道路が封鎖されるくらい大きなデモがあり半日ほどその場にとどまったことがありました。そんな活発なデモは7月頃まで続いたのではないかと思います。

ちょうどその時、日本で知り合った韓国人(新聞奨学生)の二人の内の一人で、ソウルに帰って来たばかりのコ・ミョンチョルさんから

「友人の家にホームステイしないか?日本語を教える代わりに下宿代は安くしてくれるそうだよ」

と誘われました。デモに少しうんざりしていましたし、学校と図書館と下宿の往復の生活にも少し飽きてきていた私は、よく考えた末に最初の下宿を離れ、韓国人の家にホームステイをすることに決めました。

ホームステイ先の住所は、クァンアクグ(冠岳区)シンリムドン(新林洞)。シンチョン(新村)からみると、ハンガン(漢江)の反対側に位置していて、地下鉄2号線のシンリム(新林)駅で下車し、バスで南部循環道路を西に向かい、左折してナンゴクノ(路)にはいり、ナンゴクシジャン(市場)というバス停で降りたところ。クァンアクサン(冠岳山)のふもとの小さな家に、ホストファミリー(チョン(鄭)さん、奥さん、小さな女の子の赤ちゃんの3人)が暮らしていました。私にあてがわれた4畳半くらいの小さな部屋で暮らした期間は1991年7月から12月末までの6ヶ月間。その間、バスと地下鉄を乗り継いで、片道1時間半の道のりを通学しました。今振り返ると、この6ヶ月間に、留学生同士の付き合いだけでは到底分からなかった、韓国人のものの考え方や生活習慣に直接触れることが出来たと思います。日本とは全く違うので戸惑うことがほとんどしたが勉強になりました。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学④)

9月19日(土)、山口県防府市で、ソウルで一緒に勉強したKさんと28年ぶりに再会しました。15時に約束して日付が変わった明け方3時まで一緒にいて、ホテルに戻り6時間ほど寝まして、その日は10時に再び会って21時まで、1日半の間に約24時間一緒にいたことになります。その間、当時の想い出、また、28年という長い歳月の間にお互いにいろんなことがありましたので、話題は尽きず、一時も会話が途切れることはありませんでした。

Kさんは私がソウルに1年いて日本に帰国した後も韓国に残り、ソウルの大学に進学、卒業⇒韓国で就職⇒日本へ帰国し仕事⇒再びソウルに戻り大学院へ進学、結婚、そして日本に帰国と、足掛け9年間韓国で暮らした「勇者」です。大学院生の時から、通訳・翻訳者として活躍し、特に芸能関係の通訳の仕事を通じて経験された話は私にとって何もかもが驚きの連続でした。Kさんは今、ご家族で営む事業に打ち込んでおられますが、その一方でずっと韓国と日本の架け橋として「人と人とを結びつける活動」に取り組んで来られました。その経験は「真実は小説よりも奇なり」。いずれ映画やテレビで多くの人に知られる日が来るのではないかと思うくらいです。私は、Kさんの唯一無二の経験にスポットが当たるように、実現の可能性を模索したいと思っています。

ところで「人と人との結びつきを邪魔するもの」とはなんでしょうか。私は、人と人との間には、家と家とを隔てる「境界線」のように、普段は意識していないけれど、確実にそこに存在しているようなものがあると思っています。そして、私たちの周囲には実に多くの「境界線」が張り巡らされていることが分かります。年齢や職業、収入や学歴、地縁等々。それらによって「不自由」を感じている人もいるでしょうし、特に問題意識も持たずにあっさりと受け入れてしまっている人もいるでしょう。「境界線」は、自分が何者であるかを自覚する上で必要なものとも考えられますが、本来ひとつになれるはずの他者と自分とを分離する負の面を持っていることは見逃せません。

また、「境界線」は私たちが望んでできたものではなく、誰かが別の目的で作ったことが多いことにも注意が必要です。私たちは自分の意志とは裏腹に「境界線」を意識して考え、判断し、発言し、行動することを求められます。そして、そのシンボリックな例が、日本と韓国の関係です。一方、私たちの身近なところにもたくさんの「境界線」があります。本ブログでも度々取り上げた「生きづらさ(排他性)」を生むのも突き詰めれば人と人との間に存在する「境界線」だと思います。

Kさんの話しを聞いていて、彼はこの「境界線」をあまり意識していないこと。むしろ「境界線」を楽しみ、それをまたいで回遊する「自由」を体現しているように感じました。そこで、「生きづらさ」から解放されたい私たちが、彼の生き方からどんなヒントを得ることができるか考えてみました。

Kさんが「境界線」をまたいで回遊するエピソードとして通訳・翻訳の仕事をしていた時の経験があります。求められる役割を果たしたにもかかわらず、さらに自腹を切るようなことがあっても、ほとんど報酬を受け取れなかったことが度々あったそうです。その時は嫌だったけれど、それがきっかけで後から良い仕事が舞い込むようになったので、結果的に仕事を受けるのを止めなくてよかったとのことでした。「損して得取れ」の典型例です。

また、通訳者として日本人と韓国人の間に入り、両者が対立するような場面があり、韓国語から日本語、日本語から韓国語を伝える際に言葉のニュアンスを変えて、両者の関係がうまくいくように取り持ったりもしたそうです。これは統計的に唯一の「正解」を導くよう仕組まれたAIには到底出来ないことです。良い人間関係の構築を目的に、臨機応変に最適解を出すのは人間でなければ出来ないことです。加えて、Kさんには両者の関係を良い状態にしたいという強い動機があったと思います。

いま、私たちは、いつでも、どんな時でも「正解」を求められます。繰り返し「やって意味があるのか」「メリットがあるのか」と質問され続けると癖になり、誰かに言われなくても自ずと意識するようになります。でも、得すること、メリットがあることだけをやれば本当に成功するのでしょうか。また、そんな世の中は楽しいでしょうか。私はそう思いませんし、仮に、計画的に成功がもたらされるのであれば、世の中は成功者だらけになってしまいます。でも、現実にはそうなってはいません。成功を強く求められて挑戦しづらくなった現在において、むしろ成功者は減っているのかもしれません。

Kさんのように、自分と他人とを隔てる「境界線」や、「成功」と「失敗」とを分ける「境界線」、また国籍とかジェンダーとか、金持ちだとか貧乏だとか、そういった誰かが決めた「境界線」を鵜呑みにせず、内側からの興味とワクワク感で面白がってやってみる。自らの「思い」をごまかさず、無理と分かっていても飛び込んでいく感覚は今の時代だからこそとても貴重です。実はこの感覚は、Kさんに限らず、あの時ソウルで一緒に勉強した仲間の中には、多かれ少なかれ共有されていたと思います。なぜ、私たちは、はたから見れば危なっかしいこと、今振り返るとちょっと恥ずかしいことでも、思いっきりやることが出来たのでしょうか。

当時、私たちが通っていた語学堂には、アジア各国、欧米諸国から韓国語を学びに来る多くの人が在籍していました。短大や大学のように2年とか4年間のサイクルではなくて、1学期は10週間程でしたので、出会いと別れが数週間おきにやってくるような世界でした。ほとんどの学生は多感な青春時代真っ只中の若者でしたので、当然、恋に落ちます。それが遠く離れたところから来た2人であればあるほど、二度と会えないかもしれないという感傷的な気持ちから恋愛が盛り上がるのです。そして、限られた時間の中で普段ではとてもできないようなストレートな告白(共通語が韓国語なので少ない語彙で懸命に思いを伝える)をしたり、ドラマチックな愛情へ急進展したりしました。インターネットや携帯電話が普及するずっと前でしたので連絡手段は固定電話の呼び出しか手紙しかなく、リアルタイムにお互いが何をしているのか、どこにいるのか知ることもできず、その間は想像の世界で悶々として、次に会う時迄、期待と不安が交互に襲ってきます。そういう制約条件の下でお互いの気持ちをパンパンに膨らませて、いまにも破裂しそうな人たちがたくさんいました。そして、残念なことに、結局はなかなか結ばれない運命(因縁)が多かったように思います。

あの時、あの場所で出会い、あふれ出る「思い」から乗り越えることが出来た2人の間にある「境界線」は、実は、ソウルを離れた途端、乗り越えることが困難な、受け入れざるを得ないものであることを認めることになるのです。やがて、寝ても覚めても消えない感傷的な気分や憧れといった感情が時間の経過と共に記憶の奥深くにゆっくりと沈殿して鍵付きの小さな箱に収まります。そして、その箱は長年開けられることがなく、ひっそりと保管されています。そして、ある時、ある瞬間に、当時の歌や、映像が鍵の役割をして蓋が空いて、当時のほろ苦い思いと共に鮮明な記憶が一気にあふれ出すのです。私たちがソウルで経験したことは、そのようにして、あの時間を共有した仲間、一人一人の記憶の奥底にしっかりと保管されているはずです。

結局、Kさんは、多くの学生が最終的には受け入れざるを得なかった「境界線」に負けませんでした。足掛け9年間という長い韓国生活で身につけた「常識を鵜呑みにしない力」がそれを可能にしたのかもしれません。日本に帰国後、様々な困難に直面しながらも、終始一貫、徹頭徹尾、「境界線」をまたぎ続ける半生を歩んでこられました。そして、その行動は周囲の人々に伝わり、人と人とが結びつき、縁を紡ぎ出す「触媒」の役割を果たしてこられたのだと、私は再認識しました。きっと、これからもKさんは「境界線」をもろともせず、ぶれない人生を歩んでいかれるでしょう。

Kさんとの28年ぶりの再会という幸運に恵まれた私はとても刺激を受けました。記憶の奥底に保管していたソウルで学んだスピリットも久しぶりに味わうことが出来ました。この得難い機会をきっかけに、これからは、こだわりや先入観のない、愉快で、豪快な人生を歩んでいきたいと思います。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学③)

外国生活の始まりに、まず乗り越えなければならないことは「食べ物の匂い」ではないでしょうか。その国に着いて飛行機を降りると、まず感じるのは、この匂いは一体何だろうという感覚です。私の場合、住んだことがある国、韓国ではニンニク、シンガポールではスパイシーな香辛料、台湾ではハッカク、中国では豆板醤、ベトナムではハーブとヌクマム(魚醬)の匂いを感じました。逆に、日本を訪れる外国人は、空港で醤油や味噌の匂いを感じると聞いたことがあります。私が下宿生活を始めるにあたって、まずは「匂い」の洗礼を受けなければなりませんでした。

下宿が決まった私は、チャンミ・ヨグァン(薔薇旅館)をチェックアウトしました。受付のハルモニ(おばあさん)は、なかなか先輩と連絡が取れない私を心配してくれて差し入れもしてくれました。頂いた恩というのは何年経っても忘れないものです。いまでも感謝の気持ちでいっぱいです。

スーツケースを転がしてしばらく歩くと延世大学の正門からシンチョン(新村)駅があるロータリーへとまっすぐ延びる通りがあり、両側には学生街らしく洋服屋さん、ファストフード店、飲み屋さん、タバン(カフェ)等が軒を連ねていました。当時はコンビニが無かったので、その代わりに食品から洗剤、歯ブラシまで何でもそろう「クモンカゲ」と呼ばれるお店があちこちにありました。

通りを渡って路地に入りしばらく行くとチャンチョン(滄川)国民学校(日本の小学校)があり、その脇の坂をずっと登っていって登りきったところを左折してしばらく歩くとクモンカゲがあり、その手前、左手に私が入居する下宿がありました。チャイムを押すと中から笑顔でアジュマ(おばさん)が出てきて「よく来たね」と。玄関で靴を脱いで入ると居間があり、奥には台所。ちょっと強面のアジョシ(ご主人)が私のことを待っていました。お二人から下宿生活のルールについて説明を受けました。

下宿代25万ウォンは月末に前払い。朝食は月曜日から土曜日の7:30から。台所にはインスタントラーメンが置いてあるから勝手に食べて良い。日曜日は教会へ礼拝に行くので、その前にお金を渡すので昼食は中華料理屋(韓国式)からジャジャンメンの出前を取ること。トイレとシャワーは共用なので綺麗に使って長時間占有はしない事。玄関の鍵を渡すので門限はないが遅く帰ってきたら静かに入ること。洗濯物は部屋にまとめておくこと。洗濯して乾かした服は畳んで机の上に置いておく、等々。「よろしくお願いします」と挨拶をして2階の自室に上がりました。2階には部屋が3つありました。私の部屋は右側の奥、6畳程の部屋の窓側には机と椅子がおかれていて、それ以外は何もなくがらんとしていました。窓を開けて下を見ると先程入ってきた玄関の真上だということが分かりました。ここで新しい生活が始まるんだなと少し感傷的な気持ちになりました。

下宿生は私を入れて4人。一人目は軍務免除されたロッテデパートの社員。韓国では会社員でも学生と一緒に下宿生をしている人が多かったです。韓国では3世代一人息子が続くと三大特赦といって軍務が免除される仕組みがありそれに該当した温厚な人でした。二人目は軍務を終えて戻って来たばかりの大学院で怒りっぽい人でした。この二人はハッㇷ゚パンとよばれる相部屋でした。三人目は日本の中学校を退職してソウルの大学院で韓国の児童文学の研究をしている40代のやさしいおじさん。この方はその後岡山の方で日本へ帰国後、韓国児童文学の研究者として活躍されたようです。そして私。

その日は彼らが下宿に戻ってくるのを待って、私の歓迎会がありました。アジュマ(おばさん)が作ってくれた料理を食べ、お酒を飲みました。韓国がまだまだウリ(我々)文化一色だったこの頃は、何をするのもみんなで一緒。一人で食事をすることなど考えられない時代でした。この下宿は小さかったのですぐ打ち解けましたが、大きな下宿だと地上4階建てで数十部屋というようなところもざらにあり、しょっちゅう下宿生が入れ替わるので月に何回も歓迎会をしているようなところがありました。私は1年間で2回引越ししたのですが、3番目の下宿では歓迎会をしてもらいました。シンチョン(新村)近辺の大学の1学年ばかりで私が一番年上でしたので、一緒に映画を観に行ったり、飲みに誘われて恋愛相談をされたりして、いろんな思い出があります。

下宿生活の2日目は、本を読んだりしてゆっくり過ごそうと思い、朝食後部屋でゴロゴロしていました。すると、1階の台所でアジュマ(おばさん)が料理を始めたようで、その直後に酸っぱいような、甘いような、辛いような、何とも言えない(私にとってはきつい)匂いが漂ってきました。それが何だったのか、ひょっとするとテンジャン(韓国味噌)料理をつくっていたのかもしれませんが、今でも何なのかはっきりしません。いずれにせよ私にとっては非常に耐え難いその匂いはどんどん強烈になっていって、窓を開けても締め切っても何故か部屋に充満しました。私は耐えられなくなってトイレで嘔吐しました。そして、すっかり食欲がなくなり、匂いから逃れるようにして外に出ました。

夕方まで街をぶらぶらして下宿に戻り部屋にいると、今度は夕食の準備が始まり、また同じ匂いが部屋に充満しました。私は再びトイレで嘔吐しました。すっかり参ってしまった私はじっとしているしかないと思い部屋で一人耐えました。夜中もその匂いのことが頭から離れず、思い出しては吐き気を催す始末。やがて、アジュマ(おばさん)が料理をしていないのにその匂いが下宿中至るところにて染みついているような気がして、寝ても覚めても吐き気に襲われました。そんな状態で過ごした3日目、翌日から学校が始まる日曜日の夜にアジュマ(おばさん)がいつものように料理を始めて「ああ、まただ」と思った瞬間、全く匂いが気にならなくなっている自分に気付きました。「あれ、全然気持ち悪くないぞ」と。それからというもの、韓国で、匂いが原因で気持ちが悪くなったことは一度もありません。匂いにも免疫のようなものがあるのかもしれません。

下宿生の中で一番年下だった私は、週末のラーメンづくりを任されました。児童文学研究者の日本人のおじさんから何かを指図されることはありませんでしたが、2人の韓国人下宿生はちょっと厳しかったです。韓国では誕生日がたとえ一日でも早いとヒョン(兄貴:弟から兄へ)と呼ばなければならず、どこにでもタテ社会が存在あります。そこで、一番年下の私はラーメン当番をやらされることになったのです。例の匂いで気持ちが悪い中、台所に立ち、いまでは日本でも有名になった辛ラーメンを3人分つくりました。鍋に水を入れて沸かして煮込んで出来上がり。鍋を卓袱台の真ん中において、各自それを箸で突っつくという韓国スタイルで食べたのですが、韓国人下宿生2人は口に入れるやいなや、

「マドプソ!(不味い)」

と言いました。日本のインスタントラーメンの感覚でつくったので水が多すぎてしまったのです。そして児童文学研究者の日本人のおじさんが、

「韓国では日本のインスタントラーメンをつくる時の半分くらいの量の水が適量なんだよ」

と教えてくれました。そして、麺を食べ終わると今度は白飯を入れて雑炊のようにして汁迄食べ切るのです。それ時以来今日までずっと、辛ラーメンづくりは妻にも任せません。2人の韓国人下宿生の「マドプソ(不味い)」という言葉が聞こえてくるような気がして、水加減には注意してつくっています。

いよいよ登校初日です。授業は9時始まりで、下宿から学校までは30分程の距離でしたが、少し早めに下宿を出ました。

下宿を出て右に曲がり両側にレンガ造りの一軒家(ほとんどが「下宿」と張り紙がされていました)が連なる道をずっと歩いていきます。その道の突き当りのところが3~4メール程の急な下り坂になっていて、下りきって左折すると鉄道の線路があり、そのトンネルをくぐってすぐ右側の階段を上がると目の前に延世大学の正門が見えました。後から分かったのですがこの数メートルの急な下り坂は異常低温と言われ氷点下18度まで気温が下がったその年の冬、雪が降って凍結した時には、手すりがないので下りることも上ることもできず、目の前の下宿(3番目)に非常に遠回りをして戻った記憶があります。

延世大学の正門を大通りの向こう側に見ながら緩やかな坂を下っていくと、右側にキオスク(売店)がありました。新聞や雑誌、ガムや飲み物、たばこ、テレフォンカード、市内バスのトークン、座席バスの切符等々、何でも売っていました。日本と違うのは、たばこを1本ずつばら売りしていたことです。封を切った煙草が入ったケースが店番のアジュマ(おばさん)の目の前に置かれていて、次々に学生が来て「タンベ(タバコ)ハンキャピ(1本)ヂュセヨ(ください)」と言っては1本引き出し、上からひもでぶら下げたライターで火をつけ、プカーっと吹かして次々と立ち去っていくのです。その様子を見て「かっこいいな」と思った私は少し後から真似するようになりました。

売店(キオスク)の隣には靴磨き小屋。おじさんたちが黙々とお客さんの革靴を磨いています。当時、軍務を終えて戻ってきた男性は一目で見分けがつきました。まず、雰囲気が年齢不相応におじさんぽい。そして何故かスラックスと革靴をはき、革のバッグを持っていました。

売店と靴磨き小屋の前にはバス停がありました。次々とすごい勢いてバスが突進してきて、本来停車すべき位置とは離れた位置に急ブレーキで停車していきます。その度に人々が猛ダッシュしてバス前方の乗車口に殺到し、我先にと乗り込み始めます。バス停は、大きく市内バス(定額180ウォン)と座席バス(定額470ウォン)に分かれていて、バス停の掲示板には、それぞれ、すごい数のバスの番号、1桁から4桁までがびっしりと書き込まれていました。また、バスの車体側面には、始点から終点までの主要なバス停が書き込まれていて、当時ハングルがほとんど読めなかった私は、どこに行くバスなのか全く見当がつきませんでした。

しばらく歩くと大通りを潜り抜けて延世大学の正門に出る地下道がありました。地下道の階段を下りていくと薄暗い通路の中央には売店がありハルモニ(おばあさん)が店番(オーナー?)をしていました。私が店の中を覗くと、手前には商品が積まれていて、奥の小上がりの2畳ほどの狭い空間にはストーブに当たりながらテレビを視ているハルモニがいました。私は冷蔵庫から牛乳をひとつとって「イゴチュセヨ(これ下さい)」と言いました。当時も牛乳の種類は豊富で、ソウル牛乳、ヘッテ牛乳、そしてヨンデ牛乳(延世大学の牧場で飼育している乳牛の牛乳)があり、さらにコーヒー味、バナナ味、イチゴ味等々、様々なフレーバーがありました。ハルモニはテレビを視ていた眼をこちらに向けて、ちょっと変な顔をして日本語で、

「あんた日本人か?」

と尋ねてきました。

「はい、日本人です。横浜から来ました。」

と答えました。おばあさんは、それまでの険しい表情を急に緩めてニコッと笑い、

「そうか、よく来た。」

と言われました。お金を払おうとすると、大学生が売店に入ってきてパンを手に取り、ぶっきらぼうに、

「オルマエヨ?(いくら?)」

と尋ねました。ハルモニは再び険しい顔になって、ぶっきらぼうに値段を言いました。学生が出ていくとハルモニは再び笑顔になり日本語で、

「日本人は礼儀正しく優しいので好き、またおいで」

と言いました。そしてお金を受け取りませんでした。私はお礼をして店を出ました。このハルモニとの交流は結局1年間に渡って続きました。ハルモニから聞いた興味深い話は改めて書きたいと思います。私は地下道を通り抜けて正門から大学の構内に入りました。

延世大学の構内は中央に片側1車線の車道とそれに並行してポプラ並木と歩道がまっすぐ伸びています。道路の上には途切れることなく横断幕がかかっていて、ずらっと並んだハングルの最後には「!」や「!!」と書かれていたので、何やら学生への檄文のようでした。その時は全く意味が分かりませんでした。まっすぐ進むと左側に図書館、更に進むと右手に学生会館がありました。学生会館の1階には大食堂(ポックンパプ(チャーハン)等、800ウォン)、売店、銀行、2階は軽食と売店、カフェテリア、床屋、旅行会社、中央にコーヒーの自販機(50ウォン)、3階より上は怪しい雰囲気の、サークルか何かの部室があり近寄りがたい雰囲気を漂わせていました。

突き当り迄行くと、今も昔も多くの映画ドラマの撮影ロケに使われているアンダーウッド館(本館)があり、その右側には緩やかな坂が伸びていて森の中に入っていきます。延世大学の敷地の背面は小高い山があり、森に入る道の左手には登山道があり、お年寄りが次々と山から下りてきました。

韓国の人は今も昔の何故か山登りが大好きです。昨年、プサンに行ったときにその理由を質問したのですが、

「じっとしていられないから」

というのが回答でした。しかも、ただ登るのではなく、ヤクス(薬水)と呼ばれる湧水を汲みに行くので、小さめのポリタンクを抱えています。日本だと水汲みは沢など下に降りて行きますが、韓国では山に登るのです。お年寄りがこんなに重いものを平気で運ぶなんてすごいなと思いました。また、休みの日にはグループで食事とお酒をもって山に登り、山頂で唄い、踊ります。下宿のおじさんとおばさんも土曜日には朝早く出かけて山登りをして酔って帰ってくることがありました。転んだりしないのかなと心配でしたが全然平気な様子でした。

森の中の道を抜けると後門があり、その先の坂を下りて行くと左側に大きな校舎が現れます。目的地の「韓国語学堂」です。新しい校舎が完成して最初の学期だったので、まだピカピカでした。正面玄関から入ると受付があり、名前を名乗ると教室を教えてくれました。階段で2階に上がり教室に入りました。黒板を中心に、教室をぐるりと取り囲むように扇状に椅子と一体になった机が並んでいて、既に、何人かが到着していました。ぱっと見て日本から来た人、アジアのどこかの国から来た人、ちょっと見当がつかない人がちょっと緊張して椅子に座っていました。私は「ハロー」と言うべきか「アンニョンハセヨ」と言うべきか「おはようございます」と言うべきか迷って、結局黙っていました。

やがて、用意された椅子がすべて埋まって9時になり、先生が入ってきました。とてもきれいな(可愛い)若い女性です。彼女は元気よく「アンニョンハセヨ!」と言いました。私たちが黙っていると、もう一度「アンニョンハセヨ!」と返事を促しました。私たちも「アンニョンハセヨ!」と挨拶をしました。この一言から私たちの韓国語の勉強が始まりました。今でも忘れられない先生の名前は「ミン・ヂスクさん」。延世大学を卒業してチェイル(第一)銀行に勤めた後、退職して語学堂の先生になったと話されていたことを思い出しました。恐らく20歳代半ばくらいだったと思います。私と同じクラスで一緒に勉強を始めたKさん(語学堂卒業後、韓国の大学、大学院に進学し修了。足掛け9年間ソウルで暮らした勇者)と明後日、約30年ぶりに再会するのですが、Kさんの話しによるとミン先生は、まだ語学堂で韓国語を教えていらっしゃるとのこと。コロナウィルス感染が終息したら是非二人で先生に会いに行きたいねと彼と二人で盛り上がっています。楽しみがまた一つ増えました。

次回は韓国語の勉強と忘れられない人々について書きたいと思います。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学②)

今回は、留学前の準備期間に起きた出来事と留学直後の様子について書きたいと思います。

留学資金を貯めるため、私は新聞配達(朝刊)のアルバイトを始めました。1990年2月のある日、配達の初日は年に一回あるかないかの大雪でした。明け方の3時に起床して防寒具を着て外に出たところ、外は一面の銀世界、深夜から降り続いた雪が5センチほど積もっていました。よりによって新聞配達の初日に雪が降るとは。。。

配達の事前練習で、バイクの前後に山のように新聞を積むのでバランスを採るのが難しく、ちょっとしたことで転倒してしまうことは理解していたものの、降雪時での運転は経験がないので途端に不安になりました。配達店の人からは「チェーンはつけているけど転倒しないように、これ以上ゆっくりできないというくらい、ゆっくり走るように」と言われました。

私の配達先はマンションがほとんどで、しかも坂の上にあったため、配達店を出て走り始めてすぐに「あの坂登り切れるかな」と不安になってきました。順調に坂の下まで来て、いよいよ坂を上り始めました。横浜市戸塚区にお住まいの方はご存知でしょうが、雲林寺というお寺があり、そこを回りこむように延々と昇っていく坂があり、てっぺんにはバイパスが走っています。

最初、お寺の前まではそろりそろり順調に登ってきたのですが、左方向に向きを変えると坂の勾配がきつくなるのでアクセルをふかして一気に登り切ろうとした瞬間、バイクの前輪が地を離れて私もバイクも後方にひっくり返ってしまいました。前方のカゴからすべての新聞が飛び出し、ひもで荷台に括り付けていた新聞も一気に崩壊して道路に散乱しました。言葉を失って数秒間途方に暮れて「はっ」と我に返り、無我夢中で散乱した新聞を集めて路肩に積み上げました。そして、バイクを起こして路肩に移動しました。携帯電話がない時代ですのでSOSを出すこともできません。自分で解決しなければならないと焦りました。

路肩に積み上げた新聞を運んで再びバイクのカゴに収め、荷台にひもで括り付けました。エンジンをかけて先程よりもさらに慎重にゆっくりと坂を登り始めました。しかし、路面は凍結していたのでしょう。新聞の加重で車輪がスリップしてしまい、バイクが徐々に後ろずさりを始めました。そして2度目の転倒。今度は1回目よりも新聞が大きく散乱して回収が大変でした。半ばやけくそになってもう一度挑戦しましたが3度目の転倒。さすがにこれは無理だと思いました。

ふと頭をよぎったのは、どうしてこんなことになったのか。韓国に行くなどと決めなければこんなバイトをしなくて済んだわけだし。。。

「神様は韓国に行くことに反対なのかな」

などとブツブツ独り言を言いつつ、新聞を目立たない場所に仮置きして、配達店まで戻り既に配達を終えていた人に助けを求めました。

彼らの助けを得て、お客さんのクレームに発展することもなく何とか配達を終えることが出来ました。放心状態で帰宅した私をみて両親はびっくりしたと思います。「無理しなくても良いのでは」と言われましたが、結局1年間続けました。転倒はその時の一回限り。でも、1年の間には、今考えるとあれは幽霊だったんじゃないかというものを見て怖い思いをしました。一方で、親切なお客さんからは、クリスマスやバレンタインデーの時には「いつもご苦労様」と書かれた手紙とプレゼントが郵便受けに置かれていてありがたく頂戴したりしました。直接会ったことも、話したこともない人からの心づかいは深く私の心を揺さぶりました

4月になって大学の新年度が始まり、私は早速、教務課に留学の相談に行きました。韓国に行きたいと話したところ留学先としていくつかの選択肢があることが分かりました。私の通っていた大学もソウルに提携する大学があり、交換留学をしていて単位が認められるということでした。但し、事前に韓国語をマスターしておく必要があり、願書の提出に間に合わなさそうなので断念しました。そこで、改めて留学の目的として、

1.韓国語をマスターすること。
2.韓国の人と社会を理解すること。
3.大学で社会学の講義を聴講すること。

を掲げました。そして、教務課から勧められたのが、延世大学語学堂(言語研究教育院)でした。韓国のトップ私立大学である延世大学の付属機関で、もともと海外からの宣教師に対して韓国語を教えることを目的に設立され、現在は世界中から多様な人たちが学びに来ているとのことでした。私は直感で「ここで学びたい」と思いました。教務課の方は続いて、留学するには韓国人の保証人を決めて事前に就学ビザを申請する必要があること。国際学部のA教授に相談するように勧められました。A教授の電話番号をもらい、アポを取って研究室を訪問しました。

A教授は韓国の政治経済の研究者で、当時40歳くらいだったと思います。穏やかな方で私が韓国に行きたくなった理由を説明したところ真剣に話しを聞いてくれました。そして、

「大西君は韓国で良い経験をすると思うし応援する。でも、時には嫌な思いもするかもしれないけど大丈夫かな。」

と言われました。私は数年前まで高校の吹奏楽部で相当しごかれていて多少のことなら耐えられる自信があったので、

「はい、大丈夫です。」

と答えました。

A教授は私に次の3つのことをしてくださいました。

1.A教授の友人で韓国人の方に保証人を頼んでくれた。
2.延世大学語学堂の入学に関する資料一式を提供してくれた。
3.ソウル到着後に下宿探し等の手助けしてくれる日本人留学生を紹介してくれた。

1と2はスムーズに進み入学が許可され、1991年3月の最終週にいよいよ出発することになりました。友人達は送別会を何度も開いてくれて、そのたびに、

「どうして韓国へ行くのか?」

と質問攻めに合いましたが、いくら説明しても彼らには全く理解できなかったと思います。

一方、友人のM君が、

「笑顔は世界の共通語。常に笑顔を絶やさず。」

という言葉を色紙に書いてくれました。この言葉はとても本質をついているし、貴重な言葉としていまでも大事にしています。

そして、成田空港を出発し金浦空港に到着。68番という市内へ向かう座席バス(470ウォン)に乗り、延世大学があるシンチョン(新村)で下車し、事前に日本人留学生から聞いていた旅館にチェックインしました。オンドルの床には花柄のせんべい布団が敷かれ、トイレとシャワーがついていました。この旅館はいわゆる日本のXXホテルで、名前をチャンミ・ヨグァン(薔薇旅館)と言いました。延世大学のマ・クヮンス教授という人が著して出版した「カジャ チャンミヨグァン ウロ(行こう、薔薇旅館へ)」という本がベストセラーになり、そのタイトルとして50代以上の韓国人なら誰でもその名を知っている有名な旅館です。

馬 光洙(マ・クァンス、마 광수、1951年4月14日 – 2017年9月5日)は、韓国の小説家である。ソウル特別市の出身。1951年4月14日、ソウル生まれである。延世大学の国文科と同大学院修了。延世大学の国文科の教授を歴任した。1977年 『現代文学』に 「ヘソに」、「あぶれ者」などの6篇の詩が推薦され、登壇した。それから、詩集『狂馬の家』(1980)、『行こう、バラ館へ』(1989)などの作品を発表した。1992年には、小説『楽しいサラ』により筆禍事件となった。評論集としては、『尹東柱の研究』(1984)、『馬光洙の評論集』(1989)、『カラルシスとは何か』(1997)などがある。2017年9月5日、ソウルの自宅で首を吊って亡くなっているのが発見された。(Wikipediaより)

国際学部のA教授がつないでくれた「日本人留学生」というのは、私と同じ大学を卒業して延世大学の大学院に通っていた方で、当時25、26歳くらいだったと思います。この方は日本に帰国後、新聞記者になりました。私の到着日と到着予定時刻を前もって知らせていたので、すぐに連絡がつくと思っていましたが、なかなか電話に出てくれません。そして公衆電話と旅館の部屋を往復する羽目になりました。

ほぼ韓国語能力ゼロだった私は1日、2日と時間が経ち1週間後の入学式の日も近づいてきてだんだん不安になっていきました。食べ物の買い方も分からないし、いったいどうしたら良いのかと。私の両側の部屋には毎晩酔っ払ったカップルがやってきて騒がしいし、これは早速とんでもないことになったと。しかも、その旅館はまだボイラーではなく練炭を使っていて、後から知ったのですが、韓国では毎年冬になると一酸化炭素中毒で死ぬ人が大勢いると。日本語を少し話す受付のハルモニ(おばあさん)から「(一酸化炭素の充満を防ぐ為に)窓を5センチ程度空けて寝ること」また「(乾燥を和らげるために)水を入れたコップを床に置くこと」を教えてもらいました。

ソウルに着いて3日目の夜だったと思いますが、夜中にふと目を覚ますと、体が全く動かないことに気付きました。

「あれっ、これってもしかして???」

焦って目玉だけはぐるぐる動き、左斜め上の方を見上げると締め切った窓が見えました。

「まずい、このままだと死んじゃう。勉強も始める前に死んじゃうのか。どうしよう、どうしよう。。。

体は動かないのですが目玉と頭の中だけは異常に活発に動きました。しばらくして、足の指差に力を入れたところ少し動き、次に手の指先が動き、徐々に体がほぐれていきました。そして、なんとかはいつくばって動けるようになり、窓に手を伸ばし思い切って窓を開けた瞬間、外から冷気が「ざーっ」と部屋の中に流れ込んできました。ほっとしたのと、疲れとで一気に頭の中が真っ白になり、そのまま眠ってしまいました。

翌日も、その翌日も先輩と連絡がとれませんでした。その内、受付のハルモニ(おばあさん)が心配してくれて、パンや牛乳を差し入れてくれました。私もさすがにこんなことをしていてはいけないと街を散策することにしました。

ハングルもまともに読めな上に、当時のほとんどの店は外から店内が見えないように黒いフィルターのようなものがガラスに貼られていたのでさらに何の店か推測すらできませんでした。ただ、ビビンパやチゲなどの軽食を出す店だけは、道路に面して入り口を開放していて、アジュマ(おばさん)が赤いゴム手袋をつけて忙しく出入りしているので何の店かすぐに分かりました。

ある一軒に入り、ビビンパと書かれた壁に貼られた紙を指さし、イゴチュセヨ(これ下さい)と言いました。アジュマ(おばさん)は「ネー(はい)」と言って厨房に入り、しばらくしてたくさんのキムチと一緒にビビンパが出てきました。3.500ウォン、とても美味しかったことを覚えています。少し自信がついてきたので、延世大学へ行き校舎、学生会館、学食等を散策してチャンミヨグァン(薔薇旅館)に戻りました。

ソウルに到着して5日目の夜、先輩に電話をしたところ突然着信しました。相手からはおもむろに「ヨボセヨ(もしもし)」とやる気のない声が。私は自分を名乗り、約束していたことを伝えました。一瞬間があって、先輩は、

「ごめん、すっかり忘れていた。」

と。それから先輩は旅館に飛んでやってきて私に謝りました。その焦る姿を見て、

「この人、本当に忘れてたんだな。」

と分かりました。

翌日、先輩は再び旅館にやってきて、当時ポクトパンと呼ばれていた不動産屋に一緒に行ってくれました不動産屋のおじさんに下宿費の予算と条件を説明したところ候補として3軒案内してくれて、その中から一軒を選択しました。選んだ理由は、下宿のアジュマ(おばさん)がやさしそうだったからです。

ソウル特別市ソデムング(西門区)チャンチョンドン(滄川洞)が、私の最初の下宿先となりました。下宿代は一人部屋で一ヵ月25万ウォン(朝食・洗濯・掃除付)でした。先輩は、

「困ったことがあればいつでも相談してね。」

と一言残してシンチョン(新村)の街の中に消えていきました。結局、先輩とはその後一回も会うことはありませんでした。

次回は下宿生活と学校のことについて書きます。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学①)

「人事担当者が扱うテーマとは何か」を考えています。

教科書的には、経営者と従業員のニーズにマッチした制度をつくったり、運用したりすること。また、勤怠管理や給与計算といった事務仕事を正確に、スピーディにこなすこと、となるでしょう。それらは確かに重要ですが、より重要なことは、

「人事とは人間学そのものである」

ということではないかと思います。

人間学とは、文字通り「人間に関する学問」です。そして、その中心的なテーマは、職場に限らずあらゆる人間の集まりにおいて発生する「対立」を「回避」することではないかと考えています。大きくは国家間、民族の対立。身近なところでは友人間、家族内で生ずる不和等があります。人には本来、人とつながりたい、良い関係を築き保ちたいという本能がありますが、一方では、自分(達)と人との違いを見つけて線を引いたり、無視したり、時には排除までしてしまうものだということを理解しておく必要があります。
私が人事担当者としてずっと向き合ってきたのは、職場内で連鎖的に発生する人間関係のトラブルと、その原因である排他的な感情でした。私の目標は、そういったネガティブな感情に支配さされずに、人との「分裂」や「分断」を嫌い、憎み、自制して、意識的に良い行いが出来るようになることです。
そこで、私は、他者との境界線をはっきり意識できるような、ややもすると対立が生じやすい環境に身をおくことを選びました。そして、自分と他者とを隔てる境界線をまたいで「異質なもの」と向き合い、乗り越えようと苦心することに生き甲斐を感じるようになっていきました。
「違う環境に身を置き、異質なものと向き合った」中でも、特に思い出深いのは、韓国ソウルで過ごした1年間(1991年4月~翌3月)でした。

これまで私はソウルでの思い出を、どこか封印してきたのかもしれません。留学を終えて帰国した時、友人から、

「韓国に行って意味なんてあったの?」

と質問されました。その時とっさに出た言葉は、

「知らずに済むのなら知らない方がよいこともあるよ」

でした。たった1年間の短い時間でしたが、そこで過ごした濃密な時間は、人に話してもなかなか理解してもらえる内容ではないですし、それだったら敢えて話さないと決めていたのかもしれません。

当時の韓国は軍事政権から民主化への大きなうねりの中にあり、人々が新しい社会と秩序を模索していた時期でした。デモの鎮圧で街が機動隊に占拠され、学生と見れば機動隊に追いかけられ、捕まると輸送車に押し込まれて留置所に連れていかれるような日常が、バブル最盛期の浮かれた日本からやってきた私の目にはどのように映ったのか、30年前の記憶を辿ります。日本にとって最も近い外国であり、両国の歴史認識の違いから時に対立し、時に近づいたりする韓国。同じ民族でありながら政治体制の異なる南北国家に分断され、統一への気運が高まったり冷めたりを繰り返す、日本と切っても切れない国、韓国への思いを「人間学」の視点から書きたいと思います。

1.韓国人との初めての出会い

1年浪人して大学に入学したものの勉強に身が入るわけでもなく、バイトと社会人吹奏楽団での楽器演奏に明け暮れて、何となく1年半を過ごした1989年12月のこと。横浜の実家の隣で新聞販売店を経営していた大叔父(祖母の弟)から

「お店でクリスマスパーティーをやるんだけど、かっちゃん(私のあだ名)来ない?実は、お店に韓国の若者2人が奨学生として住み込みで新聞配達をしながら日本語学校に通っていてね。日本に来て1年も経つのに日本人の友達が出来ないと寂しがっているんだよ。だから、一緒にお酒を飲んであげてくれないかな」

と誘われました。私は、彼らが1年間日本にいるのに日本人の友達がいないということにとても驚き、可哀そうになりました。少しでも役に立つのならと考えて

「喜んで行きます」

と返事をしました。大叔父がもし私を誘っていなかったとしたら。クリスマスイブに別の用事があって大叔父の誘いを断っていたとしたら。。。私のその後の人生、就職先も結婚も、すべてが書き換わっていたと思います。私に訪れた最初の人生の分岐点でした。

クリスマスイブの夕方に新聞配達店に行きました。普段は折込チラシを新聞に挟む作業をする台の上に、たくさんの食事とお酒が用意されていて、配達員の皆さんと韓国人の2人(オク・ヨンハンさん、コ・ミョンチョルさん)が私を待っていました。乾杯して楽しく時間を過ごすうちにオクさん、コさん、私の3人で彼らの部屋で2次会をすることになりました。

オクさんは韓国のソガン(西江)大学在学中に軍務に就き、除隊して卒業後日本に来たこと。家族全員がクリスチャンで、下の名前のヨンハンというのは、使徒ヨハネからとったもの、とのことでした。

コさんは専門学校を卒業して軍務に就き、除隊して一旦就職したものの日本語をマスターしたいと退職し日本に来ました。

私はそれまで韓国人と会ったことも話したことも無く、彼らの言動一つ一つが日本人と違うので興味が湧きました。行動が速いこと、そして、大きな声でよくしゃべる。日本語はとても上手でした。あと、キムチの匂いの記憶が鮮明に残っています。まず、彼らは日本に来て1年経つのに、新聞配達と日本語学校の往復だけの生活で、加えてテレビもなく、日本社会のこと、日本人のことについて圧倒的に情報が不足しているようでした。彼らの目を通して見た日本理解の中には、一方的な思い込みの部分もあり、私は都度その説明と修正をしました。彼らとはとても気が合いましたので、これからもちょくちょく会いましょうということになりその場はお開きとなりました。

私は、横浜の磯子区で生まれて小学校1年生まで過ごしました。近所に自転車屋さんがあり、その息子と同級生でした。ある日、彼と一緒に遊んでいた時に、近所のおじいさんがやってきて「あの子とは遊ばないほうがいいよ」と言われました。私は、仲の良い友達と遊んでいるだけなのに、どうしてその子とだけ遊んではいけないのか、さっぱり意味が分かりませんでした。その後、市内の戸塚区に引っ越してしまいましたので、その記憶もすっかり薄れていたのですが、二人の韓国人との出会いがきっかけで、急に近所のおじいさんが発した言葉「遊んではいけない」の背景に「差別」があったことが分かってきました。なぜ、あの人はそんなことを言ったのか。なぜ、彼は私と違うというのか。疑問が次々と湧いてきました。そして、本屋に入り浸っては、朝鮮半島の古い歴史や近現代史について理解しようと本を読み漁りました。近現代史については学校でも基礎的なことは学びますが圧倒的に知識が不足していることが分かってきました。日韓併合の経緯や統治の実態、また日本敗戦後の朝鮮戦争、そして在日韓国、朝鮮の人々がどのような立場で暮らしてきたか、徐々にその輪郭がはっきりとしてきました。私の「韓国のことをもっと知りたい」という素朴な動機は、初めて知り合った韓国の2人との交流から始まったのでした。

2.初めての韓国旅行

年が明けて、その日も韓国人2人の部屋を訪れていろんな話をしていた時にコさんから、

「大西さん、今度旧正月で一時帰国するんだけどソウルに来ない」

と誘われました。私は、二人を通じて既に韓国に興味を持っていたので、迷わず、

「行きます」

と答えました。

当時、韓国入国には短期滞在ビザの事前発給が必要でした。航空券を予約して磯子の韓国領事館に出向きビザの申請をしました。パスポートを預けて3日後に発給されました。コさんは先に帰国していましたので、単身、成田空港からソウル・キンポ(金浦)空港に飛びました。キンポ空港に到着して駐機場に飛行機が停まり、窓の外に整備や荷物を運ぶスタッフが次々に現れた時、そんなに多くの韓国人を見たことが無かったので、ちょっと緊張したことを覚えています。飛行機を降りてターミナルビルに入ると、全体的に古びていて照明は薄暗く日本の地方都市の空港のようなイメージでした。入国審査官はぶっきらぼうで警察で取り調べを受けているような気持になりました。荷物検査を終えて到着ロビーに入ると自動小銃をもった軍人二人が巡回しているのに驚きました。その時、韓国と北朝鮮は準戦時下の休戦状態にあるということを痛感しました。そして、出迎えに来てくれたコさんに会いました。

二人でバスに乗り市内に向かいました。後に下宿することになる、ヨンセ(延世)大学があるシンチョン(新村)に着き、旅館に荷物を置いてすぐに観光を始めました。ソウルの主要な観光地(キョンボックン、チャンドックン、チョンミョ、インサドン、ナンデムン、トンデムンなど)をほぼ巡りました。印象としては、高2の時に吹奏楽部の演奏旅行で訪問した中国北京の歴史的な文化施設の建築様式や朱色を基調とした色彩が似ていると感じました。コさんは学んだ日本語で目に入るもの、ことについて一生懸命に説明をしてくれました。

そして、ソウル駅から特急列車のセマウル号に乗って古都キョンジュ(慶州)へ。仏教建築と仏像は洗練されていて、日本の仏教の源流はここにあるのだと思うと目が釘付けになりました。

ソウルに戻り次は一般の鉄道(ディーゼル機関車の列車)で38度線近くのイムジンガク(臨津閣)へ。パンムンジョム(板門店)ツアーは大韓旅行社という旅行会社が独占するツアーに申し込まなければならず、加えて韓国人は参加できない決まりだったため、鉄道で行ける休戦ライン(38度線)ギリギリのところへ行くことにしたのでした。途中駅に停まると弁当やお菓子、お酒を売りに来ました。窓を開けてキンパㇷ゚(韓国海苔巻き)と焼酎、ゆで卵を買いました。ゆで卵をひたすら食べているコさんの姿が印象的でした。韓国人は外出すると必ずゆで卵を食べますが何故なんでしょう?イムジンガク(臨津閣)にある展望台からは緑ひとつない荒涼とした土地とイムジンガン(臨津江)、そしてその先に北朝鮮が見えました。

そんなことをしている内に旅行も終わりに近づき、ソウルでコさんの友人と3人と食事をしました。その時彼に言われたことがずっと忘れられませんでした。

「大西さん、韓国を見てどう思いましたか? 発展しているでしょ? 日本に負けてないでしょ?」

と。私は正直言って、当時のソウルが東京と同じかと言われるとそう思わなかったので答えに困りました。でも、当時の韓国人にとって日本は、いつも意識して目指すべき存在。いつか必ず追い越さなければならない目標でもあり、宿敵でもあるのだな、と。さらに、韓国語はよくわかりませんでしたが、コさんはその友人からしきりに日本について質問をされているようでした。そして、コさんが少し困ったような顔で返事をしている姿が印象的でした。その時思ったのは、韓国人の中にも日本のことを知っている人、知らない人がいる。でも、日本のことを知らない人も、何となく知った気持ちになっているのではないか。そして、間違った日本に関する情報が広がっていて、その脚色された情報の方がより刺激的で、地味な真実より韓国人の頭の中にすりこまれやすいのでは、と感じました。

終始同行してくれたコさんのおかげで、この旅行は私が韓国の今を知るとても充実したものとなりました。一方で、人との距離感が日本人よりも近い(知らない人に話しかけたり、話しかけられたり)ことや、男性の行動が強引で、ちょっと乱暴な感じがしたりして、ここで生活するのは私には無理だなと思って帰国しました。
しかし、時間が経つにつれて、どうしても気になってしまうのです。韓国のこと、韓国人のことをもっと知りたいという気持ちが次々湧いてきます。それがどうしてなのかよくわかりませんでした。理屈ではなく、引き寄せられる感じでした。

コさんが日本に戻ってきて、そのことを話したら「じゃあソウルに留学したら」と勧められました。それで、私の方向性は決まりました。両親にそのことを話したら最初父は反対しました。留学するなら英語圏、若しくは台湾はどうだと。韓国は勧めないという言葉でした。なぜ父がそう言ったのか。韓国のことを知らない父には育ってきた過程でまだ偏見があったのだと思います。そんな父の韓国に対する印象は、私の留学が始まった後ソウルに遊びに来た時に「韓国は面白い」という見方にすっかり変わってしまいました。

しかし、当初、父は賛成ではなかったので、学費と休学にかかる費用は自分で工面することになり、バイト代が良いので新聞配達店で朝刊の配達をすることにしました。また、4年で復学するので、極力単位は取っておこうと考えてそれまでになく勉強しました。そして、留学先の学校と保証人探しを並行して行いました。

次回は、留学の準備と留学直後の出来事について書きたいと思います。

従来の「改善」を超える方法

前回のブログで、従業員の「仕事の煩雑さを解消してほしい」という要望から、社内の内線電話網を拡張することを思いつき、大きなコスト削減を実現したことを書きました。他にも同じように従業員の何気ない一言、また仕事ぶりの観察を起点にして実現した改善がありますので書き留めておくことにしました。

事例1:タクシーチケットの導入

台湾の現地法人で管理部門を主管しました。経理、資金繰りから人事総務、物流、輸出入等、全ての間接業務を担いました。その中で、業務が特に煩雑でスタッフの残業が最も多かったのが「経理」でした。その原因は、システム化の遅れにありました。今となっては信じられない話ですが、私の着任時には経理ソフトが未導入で、手書き伝票をひたすらExcelで仕分けして処理していました。その様子を横で見ていて、社員が継続的に増えて会社が大きくなることも見えていましたし、このまま業務のやり方を変えずにいると遠からずパンクすると考えました。そこで、現状の人員(2名)を増やさずに業務量の増加に耐えうる方法を講ずることにしました。

まず当面策として、伝票処理の大半を占める「駐在員のタクシー代」の立替精算にメスを入れました。駐在員には、自家用車やバイクでの移動を安全面から禁止していましたので、移動に際しては毎回タクシーを利用しなければなりませんでした。駐在員25名が、平均して一日に2回タクシーを利用したとすると、月稼働22日として乗車回数1,100回になります。すると毎月1,100枚の領収書が経理に回ってきて、一件ずつ伝票に起こし、現金で精算する必要が生じます。この作業を延々と続けていました。私は、タクシー会社に、当社が独自に作成したタクシーチケットの利用を認めるように交渉しました。市中のタクシー会社3社の内、2社がこの要求を受け入れました。駐在員にタクシーチケットの利用方法を説明して導入を開始しました。当初は、タクシー会社のドライバーに新ルールが浸透しておらず、降車時にトラブルになることがありましたが、1ヶ月ほどすると定着して経費処理の工数が劇的に削減できました。

続いて、経理ソフトを導入しました。従来のExcelによる仕分け作業をなくし、更に、各部門のアシスタントに経理ソフトの機能を一部開放して部門毎に経費伝票の起票を任せて経理スタッフは入力情報のチェックと承認だけをすることにしました。その結果、経理スタッフの業務は激減し、その空いた時間を決算作業や経費の分析に充てることが出来ました。

事例2:職場レイアウトの変更

ベトナムの現地法人で人事総務を主管しました。着任して自席に座り目の前に部下がずらっと座っている姿を見て、とっさに頭に浮かんだのは「この人たちを幸せに出来るかな」という言葉でした。日常の仕事は回っているし、まずは様子を観察して、急いで対処すべきことと、じっくりと取り組むべきことを把握しようと考えました。

まず気になったのは、私の目の前にずらっとならんだキャビネットでした。人の腰の高さくらいのものが右は総務、左は人事のスタッフを分断していました。どのような意図で職場を二つに分けたのか不明でしたが、真っ先に違和感を覚えました。しばらくすると、総務のスタッフがやってきて、人事のスタッフへの不満を訴えました。職場で対応しなければならないことがあっても、人事のスタッフは見て見ぬふりで協力的でないというのです。そこで、人事のスタッフにも話しを聞いてみました。彼女たちの言い分は、総務からいろいろ言われていることは知っているけれど、人事と総務とでは仕事の内容が違うし、私たちも遊んでいるわけではないのに協力的でないと言われても納得できない、というものでした。

さて、どうしようかなと思っていた時に、ふと目を上げると前述のキャビネットが目に留まりました。以前、心理学を学んだ時に、心理的な壁を物理的に解消できる、ということを知っていたので、ひょっとすると、人事と総務を隔ているこのキャビネットの存在が対立を生じているのではないかと考えました。最初、課長にその話しをしたところ、スタッフの仲が悪いのは性格が原因でキャビネットを取り払ったからといって解消するとは信じられない。キャビネットにはたくさんの書類が格納されていて、動かそうとすると大変な作業になるので出来れば避けたい、とのことでした。しかし、私はきっとうまくいくのでやってみようと説得し休日にそれまで職場の中央に陣取っていたキャビネットを左右に移動しました。

月曜日になって出社したスタッフたちは当初少し戸惑っている様子でしたが、翌日には違和感も薄まったようでした。私は、スタッフの動きを観察していました。すると、それまでキャビネットがあったため迂回しなければならなかった職場の導線が直線になり、スタッフがお互いの席のすぐ横を通り過ぎるようになりました。やがて、誰からとなくお互いに言葉を掛け合って会話もしている様子が目に留まるようになりました。明らかにスタッフの表情が変わり職場の雰囲気が和やかになったようでしてあ。そして、1ヵ月程経って、人事と総務のスタッフに職場の雰囲気について質問したところ「以前のような不信感とか懸念がなくなったような気がする」という返事が返ってきました。

ただ単にキャビネットを動かしただけにもかかわらず、このような成果が出るとは私もびっくりしました。そして、その時私が感じたのは「人間は本来、人と仲良くしたいと思っている。しかし、それを何かの条件が邪魔しているのではないか。楽しむことに注目するのではなく、楽しめない原因に注目した方がうまくいく」ということでした。

以上の私の経験を振り返り、私たちに合った「改善の方法」について考えてみました。

まず「改善」と「改革」という似て非なる言葉の意味について調べてみました。(出典:Wikipedia)

改善: 誤りや欠陥、ミスを是正し、より良い状態にする事、行為。日本の製造業で生まれた工場の作業者が中心となって行う活動・戦略のことである。日本国外でも通用する言葉であり、本来の意味と区別するためにカイゼン、Kaizenとも表記される。

改革: ある対象を改め、変化させること。革命とは異なり、現時点での基本的な体制を保ちつつ、内部に変化を作ることをいう。変革とも呼ばれる。

また、私は、それぞれの実行の主体と目的を以下のように理解しています。

改善: 従業員によるボトムアップ。目的は業務の部分最適化。

改革: 経営によるトップダウン。目的は複数部門にまたがる全体最適化。

これをみると、私が考える「良い改善」とは、実行の主体は、従業員によるボトムアップで、目的は全体最適という、ちょうど「改善」と「改革」の中間に位置するイメージをもっています。適切な言葉を探しましたが、ベトナムの経済・社会思想政策「ドイモイ」の日本語訳「刷新」がぴったりします。

私が考える改善(刷新)のステップは以下の通りです。

1.上司(マネージャー)は、部下(従業員)の言葉をよく聴き、仕事の様子を観察して先入観抜きで「ありのまま」に受け入れる。そして、「自分だったらどう感じるか、どうするか」を自問自答する。

2.顕在化した問題の一段上の視点から問題発生の本質を把握する。顕在化した問題の解決と同時に本質的な問題にメスが入る方法を検討する。

3.社内外を見渡し、問題解決に有効な素材を見つけて、それらを組み合わせた打ち手を講ずる。

一段上のレベルで本質的な問題に気付くと、既存の問題はおのずと問題ではなくなります。例えば、人間関係がこじれた場合、当事者と同じレベルにいては良い解決策を導くことは難しいですが、一段上のレベルに立ちそこから俯瞰すると、実は人間関係は問題ではなく、人間関係がこじれた背景と真因、そして解決策が思い浮かぶことはよくあると思います。坂本龍馬が薩長同盟を成立するために、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の双方がお互いに武器と米を融通し合うことを提案したという話は有名です。

このようなステップで問題を特定すると一般的な、誤りや欠陥、ミスを是正し、より良い状態にするという「改善」より一段上の、組織に変化をもたらす「改革」レベルに近づく解決が可能となります。

また、職場の人間関係に基づいた従業員起点の発想が有効な理由があります。

1.従業員の気持ちに配慮してあぶり出した問題解決の方が、理解と協力が得られやすく、結果的に早く成果を出せるため。

2.日本人は「関係構築」を重視するため。

1.は理解しやすいと思います。一方、2.については心理学者の河合隼雄さんの言葉が参考になります。

河合さんは日本の心理学の先駆けとしてアメリカとスイスで心理療法を学び、これを日本に導入しました。しかし、欧米で効果を発揮した手法が日本では必ずしもうまくいかないことに気付き、その原因を探索する中で、日本の文化の源流(神話や宗教)をたどり始めました。そして、箱庭療法など、日本的環境や日本的心性に合った心理療法を考案しました。そんな河合さんが、日本と欧米の違いを分かりやすい例で説明しています。

日本人と欧米人が大勢の聴衆を前にしてスピーチに臨むとき、二人は異なることをすると河合さんは指摘しました。

・欧米人はジョークで場を和ませる。

これは欧米人が「自我」を第一と考え、一人一人異なる「自我」もった人間の集まりにおいては、まず自分が何者であるかを伝える事。そして、また親近感をもってもらうためにジョークを多用する。

・日本人は、開口一番うやうやしく「一段高いところから失礼します」と挨拶する。

日本人はスピーチの役割を担うことによって、自分と聴衆との関係に変化が生じることを恐れます。そして「私はこれからスピーチをするけれども、だからといって皆さん(聴衆)と私の関係はこれまで通りですよ」というアピールをする。

私達日本人が自然に共有してきた「関係構築」重視の文化は、強みであると同時に、時として弱みになることもあります。それは、日本人が、自分の意志とは別に、与えられた共同体内の人間関係を大切にする反面、自分の自由意志で、他者とつながり関係性を広げることは苦手とするからです。

環境変化の少ない安定期にあっては、身近な人との「関係性を保つ」ことは有効でしょう。何故なら、現状を継続的にメンテナンスして部分最適(改善)することは、派手さはないものの、確実だからです。

一方、環境に激変が生ずると、部分最適(改善)活動では効果が限定されます。そこで、従来にはない発想で全体最適(改革)の実行が求められます。「改革」とはある意味、人(従業員)よりも、事(打ち手)をより重視する取り組みです。企業組織を優先して、これは表現が不適切かもしれませんが、従業員の納得感を得られなくても実行することを優先するものです。

では、環境の激変期に必要とされる全体最適とは、ボトムアップでは実現できないものなのでしょうか。そこに、私たちが乗り越えていくべき課題があると思います。

私は、従業員一人一人が求めている、漠然とした情報の中にこそ、組織が最優先で取り組むべき潜在的な問題を先取りするヒントが隠されていると思っています。

「細部に神は宿る」という言葉があります。見えないところこそ念入りに掃除をしろと上司から言われたとき、併せてこの言葉を教えて頂きました。小さいことを無視したら大きな方向性を見失うよ、と。

万物の最小単位である素粒子の誕生の謎はまだ解明されていないようです。素粒子には、まるでその一つ一つが精密にプログラミングされているように仕組みが備わっていて、それは神の手によってつくられたのではないかと考える研究者さえいるようです。

このことは、我々が重視すべき基本単位が、これ以上分割できない一人一人の人間だということを示唆しています。組織視点の「あるべき論」を従業員に押し付けるのではなく、一人一人の人間が、生きるために求めていること、感じていることを決して無視すべきではないのです。

「改善」の目的は部分最適に非ず。働く私たち一人一人がお互いに、生かし生かされつつ、共に手を携えてより良い人生を実現するという、究極の「全体最適」を目的に定めるべきではないかと私は考えます。