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ベンチャー企業における人事の特徴

2018年から翌年にかけて大阪のベンチャー企業で人事総務を主管しました。大学院の同期で、この会社の顧問をされているIさんからご縁を頂いたのですが、上場を目指すベンチャー企業での人事は初めての経験だったので、日々貴重な経験をさせて頂きました。今回のブログは、私がこの会社で取り組んだ仕事について書きたいと思います。

この会社に入社を決めた理由は、入社前の面接のときに質問された「人事のお困り事」が私にとってすっきりと頭に入ってきて、解決方法までスムーズにイメージできたからです。取締役Kさんと株主から派遣されていたSさんのお困りごとは「離職の多さ」でした。「大西さんだったらだったらどのように解決しますか?」というお二人からの質問に対して、以下のように回答したことを覚えています。

1.一般的に離職原因のほとんどは「処遇面の不満」「人事評価など承認不足」「仕事の目的が不明確」の3つで、これらが複合的に絡み合って継続勤務への不信感が大きくなると思います。

2.まず従業員と会話して、これら3つの原因のうちでどれが最も大きな不満の種かを特定して打ち手を考え、複数の施策をスピーディーに実行します。

3.目に見える効果が出始めれば徐々に組織全体に良い影響を与えていき、小さな問題が自然に解決するのを見届けます。離職が減るのと同時に新しい問題が発生するので対応を仕切り直します。

KさんとSさんも同じことを考えていたようで、この時点ですでに人事の取り組み課題が決まってしまいました。

ベンチャー企業には、ルールもレールもない中で、急成長を実現することが課されています。人事がそれを支える役割を果たすためには、過去の延長線上で未来を描いているだけでは到底、株主、経営の期待に応えることは出来ません。道なき道を強力に前進し続けるための推進力は、人事が経営と目的と目標を共有してしっかりタッグを組むことです。それがこの会社でならできると私は面接の時点で確信して入社を決めました。

大阪に引っ越して真っ先に取り組んだことは「現状と経緯の把握」でした。

採用  求める人材像は明確か?外部人材の獲得に必要な手法は適切か?
配置  受入れ後のフォローアップ、成果創出までに必要な支援が行われているか?
労務  各種規程の整備と運用、適切な労働時間管理など法律を遵守しているか?
育成  環境変化に適応するために従業員の能力、意欲向上に取り組んでいるか?
また、従業員の関係を良好に保つ手立てを講じているか?
評価  従業員の働きに対して、その出来不出来を判定する基準があるか?
定期的に本人へフィードバックを行っているか?
処遇  給与、手当、賞与等、金銭的報酬は労働市場を意識して設計されているか?
昇給昇格のルールに基づいて運用されているか?

診断結果は、残念ながら全てマイナスでした。

そこで、現状とあるべき姿をすべて書き出して、1ヶ月後には経営に報告し、いつまでに、どのような状態にすると約束しました。そして、取締役会で株主に理解を求め、人事施策に必要な金銭的なサポート(予算確保)をお願いしました。

株主からは、各施策に要する費用について説明を求められました。入社前の面接で経営と問題意識を共有していましたので、施策の根拠と、それにかかる金額を合理的に説明することで、感情抜きに理解を得ることができました。しかし、企業によっては、この企業のように「離職の多さ」といったような問題が顕在化していない、若しくは正しく認知されていない場合があり、理解を得るために工夫が必要です。もし、そのような企業で私が人事を担当することになった場合どうするかですが、まずは、しっかりと経営から話しを聞き、今困っていること、そしてこれから未来の漠然とした不安感といったようなものを把握することから始めると思います。程度の差こそあれ、人に関する悩みがまったくない経営者などいないと思うからです。ただ、人によって異なるのは、その悩みの解決の糸口として「人事を生かす」と考える人もいれば、そうでない人もいるということです。前者であれば話は通じるでしょう。

この大阪のベンチャー企業では人事に期待されることが入社前にはっきりしていましたので迷いがありませんでした。しかし、その後勤務したベンチャー企業では、人に関する問題が顕在化しておらず、そもそも人事は何をするのかというコンセンサスも乏しい中で入社したため、入社後にゼロベースで問題探しをしなければならず、その結果を経営になかなか理解してもらえなかったという苦労をしました。結局、経営の主観が優先されて、人事が現場から吸い上げた課題は重要視されませんでした。これは私の深い教訓となっています。

さて、問題解決の方向性は定まりましたので、あとは前に進むだけでした。邁進する中でも一点だけ、私なりに工夫したことがあります。それは、取り組みの進捗を日時、週次、月次で報告し、都度意見を求めて経営者の「安心感を醸成」することでした。そして月一回の取締役会では、株主に対して、計画の進捗状況を報告し、質疑応答の場を提供しました。報告と質疑応答の場であると共に私が意図したのは、株主と経営に人事について理解を深めてもらう目的がありました。その甲斐あって、入社から10ヶ月を経過する頃には、人事にとって大切なこと、外せないポイントについて株主と経営間で共通認識が形成されていたと思います。

とても嬉しかったのは、取締役会の参加者でこれまで多くの企業の立ち上げや経営に携わった皆さんから「大西さんの話しを聞いて人事のことが理解できて勉強になった」とか「人事の重要性について再認識した」といったコメントを頂きました。さらに前述したSさんからは「短い期間で離職がほぼゼロになり当面目指していた成果が出たのは人事だから出来たのではなく、大西さんだから出来たのです」と言っていただいたことが特に嬉しかったです。

ところで、急成長を期待されたベンチャー企業では、同様に人事の立ち上げも最速で行わなければなりません。そのため、一つ一つの施策にじっくり取り組んでいたのではとても間に合わないため、私は、採用~配置~労務~育成~評価~処遇といった一連の「人事サイクル」の各施策に同時に取り組むことにしました。頭の中では、競走馬(仕事)が同時に疾走しているイメージです。とはいえ、一日は24時間で、寝る時間も確保する必要があるため、さらに工夫したことは、各施策に関連性を持たせて有機的な好循環を生み出すことでした。

まず、人事の大目的を定めます。次に、この目的に則って各施策の細部を設計します。そして、各施策を別々に導入、運用するのではなく、それらには一貫性があり、どれ一つとして欠かすことが出来ないものであることを明確に従業員に示します。複数の施策を一斉に導入し運用を開始すると、従業員に変化が伝わります。やがて、各施策が相互に影響を与えながら有機的に結びつき好循環が起き始めます。ここまで出来たらしめたもので、好循環さえ起きてしまえば、あとはいちいち細かいことを管理しなくても、組織が自律的に良い状態を目指して活動してくれます。但し、好循環を継続するためには、細部に目を配り、常に目的との不一致が生じていないか、また一度決めて導入した施策に機能していない部分が無いかを改めるメンテナンスが必要です。

私は、まず人事の大目的として「人材価値の向上と成果の最大化」を掲げました。そして、人材価値とは「能力」「経験」「意欲」の各項目の掛け算で決まると定めました。そして、人材価値を構成する各項目の要件をグレード毎に詳細に定義して、これを人事評価基準、採用基準、人材育成に反映しました。そして、従業員に不公平感が生じないように、信賞必罰のポリシーに基づいて、やっている人、やっていない人を明確にできる、全員が一律で守るべきルールを明確化しました。最後に、人材獲得に不利な状況を解決するために労働市場の賃金水準を調査して支払い必要人件費を給与テーブルに落とし込み、業績連動型賞与制度を導入しました。また、人件費の高騰と負担が増えないように支払い可能人件費の目安である労働分配率を決めました。

以上の取り組みの過程では、何人かの従業員の皆さんに厳しい対応をとりました。従来の仕事の仕方、勤務態度に留まろうとする人もいて、その人たちには処罰を下したり、降格や減給等の処遇変更も実施したりしました。実施する側の人事が強い意識と信念が問われる厳しい仕事を自らに課し精神的にはすこししんどかったですが、その成果もあり、徐々に守るべきルールと基準が従業員に浸透していきました。

振り返ると大阪での経験を通じて、人事という仕事には、個人の感情を丁寧に扱う「情」の部分と、全員が一律に守るべき合理的なルールを定めて順守を求める「理」のバランスが求められることを再認識しました。さらに、ベンチャー企業の急成長を支える人事機能を急速に立ち上げるためには「情」と「理」だけでは不十分で、2つの「信」が不可欠だということに気付きました。

2つの信とは「信用」「信頼」のことです。株主、経営者、そして従業員各々がお互いに生かし、生かされつつ一致協力して、企業目的の実現を目指す上で必要な概念だと思います。デジタル大辞泉によると「信用」「信頼」の意味は次のようになっています。

信用(Credit): それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること
信頼(Trust):  信じて頼りにすること、頼りになると信じること

つまり、

「信用」は、過去の実績や成果に基づいて、客観的であり物質的に生ずるもの         「信頼」は、信用に基づいて未来の行動を信じ期待することで、主観的であり精神的に生ずるもの

と言えます。

ベンチャー企業のように、人も組織もまだ新しく過去の実績を十分に蓄えていない場においては、不確実な未来を描くために、人と人、人と企業の間の「信頼」に重きがおかれます。ただし、「信頼」だけでは不十分で、外部から人材を招き入れたり、新たに取引きを始めたりする時には、過去の実績や力量について十分な情報を集めて「信用」に足るか否かを判断する必要があります。これが、ベンチャー企業には2つの信(信用と信頼)が求められるものの、より「信頼」が重視されると考える理由です。

私の経験から、ベンチャー企業の成否を分けるのは、経営者が従業員の無限の可能性を「信頼」することが出来るかにかかっていると思います。「信頼」された従業員は、期待に応えようと成果を最大化します(注1)。また、中国の古典「孟子」の五倫には、君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならないとあります(注2)。

コロナ禍で、先が見えない今こそ「情」と「理」と共に、それを超える「信頼」がより一層重視されると感じています。企業は人の集まりです。その人々が「信頼」で結ばれているか今一度見直してもらいたいと思います。

(注1)ピグマリオン効果(ピグマリオンこうか、英: pygmalion effect)とは、教育心理学における心理的行動の1つで、教師の期待によって学習者の成績が向上することである。(Wikipediaより抜粋)

(注2)五倫(ごりん)は、儒教における5つの道徳法則、および徳目。主として孟子によって提唱された。「仁義礼智信」の「五常」とともに儒教倫理説の根本となる教義であり、「五教」「五典」と称する場合がある。(Wikipediaより抜粋)

神なき国のユートピア

人事担当者として、これまで多くの職場で「ハラスメント問題」に対応してきました。いわゆる、セクハラ、パワハラ、モラハラのことです。ハラスメントとは、一般的に、上司・上位にある者が、その職務権限・権力を悪用し、部下を精神的に追い詰めること、と定義されています。そんな、本来起きてはいけないはずのハラスメント問題が、年々増えているという印象を受けます。

ずっと前から職場のハラスメント問題はありましたが、私の経験では、発生後の対応が、以前と今とでは全く異なると思います。かつての職場は、メールやチャット等の文字よりも会話による情報交換を重視していたため、自ずと職場内はガラス張りとなり、メンバーは、今起きていることを共有していました。問題を見掛ければ誰から指示されるまでもなく、理解ある先輩や隣の部門の管理職等が声を掛け合って原因を探り、会社としてとるべき対応への橋渡しをしていました。つまり、組織内部には、問題の深刻化を防ぐ「自浄作用」が働いていたと思います。私は「自浄作用」を働かせる根本動機は「仲間意識」だったのではないかと思っています。

大学院の仲間と定期的に行っている勉強会で、ハラスメント問題のことが話題にのぼりました。

ハラスメント問題の解決に取り組んでいるNさんのコメントは「最近気になっていることは、企業の職場に、人に冷たく全く関心がないような雰囲気が漂っていて、そのような職場ではハラスメント問題が起こりやすく」また「職場で起きる問題の原因は、組織ではなく、個人によるものと解釈されてしまうことが多いため、なかなか根本解決に至らず、次々と問題が発生してしまう」とのことでした。

また、Kさんによると、Kさんがかつて勤務した職場でもハラスメントはあったものの個人が追い詰められることはなかった、と。そして、ハラスメントは、仕事のIT化が進み、従業員が孤独になることが余儀なくされ、集団、権限からのパワーを個人がダイレクトに受けてしまうことが原因ではないか、とのことでした。

私は、お二人の意見に完全に同意します。そして、これほどまでに人に無関心な職場が増えてしまった理由と仲間意識が希薄になってしまった原因を考えてみることにしました。

ひとつの原因として考えられるのは、以前と比べて職場の環境そのものが、仲間意識を育みにくくなったということで、それはきっと雇用形態の多様化が影響しているはずです。平成の30年間で職場には、雇用形態が異なる従業員が増え続け、現在は以下のようになっています。

・正社員(期間の定めのない労働契約 正社員・限定正社員)
・契約社員(期間の定めのある労働契約)
・嘱託社員(主に定年退職後再雇用 現在は65歳まで70歳まで法制化される可能性有)
・派遣社員(登録型、常用型、紹介予定)
・パート
・アルバイト
・業務委託(場内・場外)

私が社会に出た平成が始まる頃は、正社員が、総合職と一般職の二系統で、補助的業務はパート社員にお願いするくらいの非常にシンプルなものでした。それが現在のように、同じ職場に様々な形態、異なる処遇で雇用された従業員がいて、派遣社員のよう指揮命令権外の従業員もいます。そして近年では、多様化した雇用形態への不公平感の高まりから、政府は雇用形態間に生じた処遇差に合理的根拠を持たせる「同一労働同一賃金」を講ずるよう企業に求め始めました。政策で生じたことに対して、誰もが納得する意味を後付けしなければならない非常に難しい仕事です。その担当は当然「人事」です。

一方、多様化した雇用形態の下では、一致協力して職場問題を解決することを求めるのは難しいでしょう。そもそも、雇用形態が異なれば働く目的、会社への要望が異なるのは当たり前だからです。その表れとして、労働組合の組織率は低下の一途を辿っています。(1989年25.9%、2019年16.7% 出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構)

では、雇用形態が多様化した背景には何があったのでしょうか。所説あると思うのですが、私の考えは、右肩上がりの経済成長が終焉し、企業には事業継続のリスク回避策として人件費抑制と雇用流動性担保(解雇手段の確保)の必要性が高まり、それを国が政策面で後押ししたことがあったと思います。そのシンボリックな例として非正規雇用が全雇用者の38.2%(2019年男性22.8% 女性56.0% 出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構)を占めるまで増えました。安倍首相は新たに400万人の雇用を生みだしたと胸を張りましたがそのほとんどは非正規雇用です。そして、目下コロナ禍で起きている解雇、雇止めの対象は非正規雇用であり、かつてないほど全雇用者に占める割合が拡大した中で起きていることから、自ずと社会の隅々に様々な影響を及ぼすでしょう。今後の動向を注視する必要があります。

このように経済と政治判断によって生じた問題を現場の個人レベルで解決することは非常に難しく、常に無力感を覚えつつの努力でした。振り返ると、私が向き合ってきたのは、そういった職場に広がる「生きづらさ」の問題をどうやって解決するのかということで、前述したようなハラスメントなど「情」による問題解決を試みましたが限定した範囲内での解決にとどまり根本解決が出来ませんでした。それは、職場問題のほとんどは、組織風土や文化に起因する部分が大きく、時間をかけて複雑に絡み合っている為その扱いは一筋縄ではいかないからです。

そこで、組織の原理原則を学ぶため社会人大学院に通ってアカデミックな領域から知見を得て「理」に基づく問題解決を試みましたが、知識面の充実という面では役に立ったものの、依然として実践的な解決策を導き出すまでには至りませんでした。

考えが行き詰りましたのでちょっと視点を変えたいと思います。

以前ブログにも書きましたが、いま私は聖書を読み進めています。聖書から得られる人間の労苦、つまり「生きづらさ」に関する知見とはなんでしょうか。

旧約聖書では繰り返し、いばらの道、荒野を歩むことが宿命づけられている人間の姿が描かれます。そして、その苦しみから逃れることは出来ないことを諭しています。つまり「生きづらさ」は、たとえ一つ解決してもまた別の問題が現れ、死ぬまでそれが尽きることはない、ということなのです。

人間が、苦しみから逃れようと悪戦苦闘して神の世界に渡ろうと実践した4つの努力とその結末は以下の通りです。

1、知恵を用いる
コリント人への手紙1 1章21節
人間側から神に渡る努力は知恵 しかし結局は到達できなかった

2、義・善行をする
テドスの手紙 3章5節
神のあわれみによる聖霊により我々は救われた 人の義・善行といった努力、施しによるものではなかった

3、法を守る
ローマ人への手紙 3章20節
安息日など十戒を守ろうとしてもすべてを守れる人間は一人もいないばず ひとつでも破れば罪の意識にさいなまれる

4、宗教儀式を行う
コリント人への手紙1 1章17節
イエス・キリストは、バプテスマ(洗礼)を授けるためではなく福音を伝えるために現れた

そして、イエスの登場によって、新約聖書で神の世に至る橋が示されます。

ヨハネの福音書 14章6節
神の存在を信じ、イエス・キリストの言葉(福音)に従えば、神へと至る橋(十字架)を渡り、罪の意識と苦しみから解放され永遠の命が得られる

これが、キリスト教信仰のよりどころになっています。他の多くの宗教でも、大いなるものの存在を信じることで現世における苦しみから解放されると教えているようです。

では、国民の半数が無宗教(49.4%)で、信仰対象として最も多い仏教(34.0%)でさえも、葬式仏教と呼ばれる形式的な仏教しか持たない大多数の、私たち日本人が救われる道はあるのでしょうか。信仰心はあっても、特定の信仰を持たない、言葉を換えれば「神なき国」のユートピアはどこにあるのでしょうか。(参考:NHK放送文化研究所「ISSP国際比較調査(宗教)2008」より)

日本では、厳しくも豊かな自然の中で、人と人、人と自然とを調和させる「知恵」が育まれ、その「知恵」によって、緩やかな信仰心に満たされた風土が醸成されていったのではないでしょうか。そして、この「知恵」は私たちにとっては空気のように当たり前のものなので、普段はその価値を見過ごしがちで、加えて長年かけて自然に獲得したものなので一旦壊れると修復が難しいという特徴があると思います。前述のように、人に無関心で仲間意識が希薄な職場が増えていることは間違いなさそうですので、いまこそ、意図的に「知恵」を生かして人と人を調和して関係性を修復する必要性が高まっているはずです。では、空気のように見る事も触ることもできない「知恵」の存在をどうやって把握することが出来るのか、という課題が残ります。私は、その知見を「音楽」から得ることが出来ると考えています。

8月22日(土)22:00-22:50に、NHK BSで「オーケストラ明日へのアンサンブル」という番組が放映されました。この番組は、緊急事態宣言下で放映された「オーケストラ・孤独のアンサンブル」の続編で、たった一人、孤独の音楽を奏でた13名の演奏家が初めて集い、アンサンブルをするという内容でした。サブタイトルは「心がつながれば 明日は生まれる それを信じて」それにぴったりの内容でした。

仲間と一緒にいることが当たり前だった演奏家の皆さんは、私たちよりも一層仲間とのつながりが断たれたことを重く、深刻に受け留めたのではないかと思います。番組では、演奏家の感情や思いが語られ、それらが発露した演奏はとても感動的でした。

番組で演奏家が語った言葉です。

「1人ではやっぱりどうしてもできないことというのがあって みんなで音を出すことによって生まれるパワーを改めて実感してみたい」

「音楽の力ってみんな考えたと思う。ところで一般の人たちにとって音楽がどれくらい必要だったかを考えなかった音楽家はいなかったんじゃないか。音楽一曲よりもおにぎり一個の方が大事かも、と。とりあえず今を生きる、明日の方が、とかね。だって、4月、5月の時ってどうなるか分からなかった。これからどんどん大変なことになるかもしれないと。」

「未知のウィルスによって人が不安定になって、何かにあたりたくなる現象が起きていると思う。そういう気持ちが落ち込んでいるときに音楽によって何かが変わることがあるとしたらそれがうれしいし、やる(演奏する)価値があるんじゃないかなと思う。」

「そういう中で演奏することによって感じたことは「自分は一人じゃない」と。孤独のアンサンブルをやった時には孤立をさせられた時だった。そして今回みんなが集まって気付いたことは一人じゃない、世の中は誰かと助け合いながら生きているということをものすごく実感した。」

「今、難しいことを強いられていると言えばその通りなんだけど、でも、自分たちの中にある、こういう言い方をすると変かもしれないけど、ミュージックディスタンスみたいのがあるじゃん。人と人とをつなげ、魂と魂をつなげる。そういうものは距離を離れて演奏したとしても変わらないような気がする。」

「円になって演奏するのは簡単なことじゃないかもしれないけど、これだけの音楽家の方々が集まってお互いの呼吸とか気配とかを感じながら音楽を演奏してそれを伝えるということで、聴いて下さる皆さんに心が羽ばたく時期が来るに違いないと、そういうことを信じて自分たちのメッセージとして音楽を届けたいなという気持ちが強いですね。」

これらの言葉と演奏を聴きながら、音楽には本質的に人々に喜びをもたらす力がある。また、演奏家は仲間が集まってアンサンブルする中で、お互いに生かし、生かされつつ、一人では決して到達し得ない深い領域に入りこんでいくようです。音楽を奏でる場は「生きづらさ」とは対極の「理想の世界=ユートピア」なのかもしれないと思いました。

音楽と言えば、私も学生時代に「吹奏楽」に打ち込み、一時は大学院の修士論文のテーマにしたいと考えました。組織論、育成論の視点で、吹奏楽から企業組織の未来を切り拓く知見を得ることが出来ないかと考えたのです。実は、日本はアマチュア吹奏楽の活動が最も盛んな国のひとつで、その演奏レベルも世界最高水準です。吹奏楽は隠れた日本の宝なのです。

○吹奏楽団体数 14,057(2019年10月1日現在 全日本吹奏楽連盟加盟団体数)
○吹奏楽人口  500万人(*)
*朝日新聞デジタル:あの聖地「雲の上の存在」日本有数オケ奏者語る吹奏楽より
 経験者も含めると1,000万人を超えるという説もある

では、アマチュア吹奏楽の現場ではどのような上質な場が生まれているのでしょうか。これをうまく著した一冊の本があります。以下、該当する箇所を抜粋しました。

(出典:金賞よりも大切なこと コンクール常勝校 市立柏高等学校吹奏楽部
    強さの秘密 山崎正彦著)

「彼ら(吹奏楽部員)は自己に与えられた役割を果たせるように必死に頑張る。この自らに与えられた役割を果たすことについて生徒にインタビューしてみると彼らの言葉から浮き彫りになってくるのは「自分ができないことで皆に迷惑を掛けたくない」とする外に向けての意識と「できないと言って済ましてしまう自分でありたくない」という内向けの意識の2つである。なくてはならないものとして自分が認識されてしまう合奏。実に不思議な営みだ。「君は必要だよ」と声高に叫ばなくても演奏に参加している誰もが必要であることが自明となっていて、あるときは自分が誰かの音を頼り、あるときは誰かの音に自分が生かされ、自分も誰かの音を生かす。だから、その生かし合いの場で自分が役割を果たせないことがどんなに他者をがっかりさせ自分自身も傷つけるか。人との協同の営みのなかで自分の役割を果たせないことがどんなに空しいか。彼らは経験のなかから、あるいは本能的にこれらのことを知っているのだ。自分のためだけでなく誰かのため皆のために頑張ろうとするような生き方を必然のなかで身につけていかざるをえない吹奏楽。それは協同表現であって、人に何かを与え、人から何かを与えられることにより、また互いが生かし合うことによって成立していく。その意味では実に社会的な営みでもあり、吹奏楽部は、あたかも小社会のようなものといえるだろう。そうなるとつまりは、吹奏楽部の活動では、高い精度でバランスを保っている音楽という小宇宙の中に一人ひとりが音となってうまく溶け込み、そこで生み出されてゆく音楽に生気を与えるような力とならなければならず、それと同時に、小社会の中に交錯する互いの呼吸や意思のようなものも見過ごすことなく察して、音楽という絶え間なく流れてゆく時間の刻みのなかの自分のあり方を瞬時に決してゆかなければならないのである。教師が多くを語らなくても良い。吹奏楽というものが自ずと持っている教育的な力を見失わないだけで良い。」

吹奏楽経験者であれば、ここで書かれている「場」を、市立柏高校のような高レベルの演奏をする団体に所属していないとしても、簡単に理解できると思います。経験者にしか分からない共通言語だと思います。

私の恩師は、この「場」を「良い人だまり」と名付けました。私にとって実現したい「理想の世界=ユートピア」とは、恩師が求めた「良い人だまり」のことだったのです。そして私は、社会に出てからも、ずっと「良い人だまり」を求めて理想と現実とのギャップに悩みました。

以前、恩師に「良い人だまり」について質問した時のやりとりです。
Q(質問)は私
A(回答)は恩師

Q: 吹奏楽活動の目的とは?
A: 社会教育の一環として人と人とが良い状態(良い人だまり)をつくることにある。
「良い演奏をする」ことを目的化するとうまくいかない。「良い人だまり」が形成された結果「良い演奏」が実現する。良い人だまりに参加すると人生が楽しくなる。音楽をレッスンすることやコンクールに出場することなど、目に見えることは、「良い人だまり」をつくるための手段である。

Q: 「良い人だまり」の必要条件とは?
A: 上質な場を形成するには、その団体を率いる団長が人望や人徳を備え、リーダーシップを発揮し、団員に安心感、満足感を与える必要がある。指揮者(指導者)と団員(奏者)は対等である。従って、きちんと役割分担をするためには団員がひとつにまとまっていなければならない。

Q: 人望、人徳の育て方
A: 人望や人徳は教育できない。頭で理解しても身につかないからだ。実践の場、修羅場体験が人を育てる。人望、人徳があれば、厳しいことを言っても人に受け入れられる。良い叱り方は、その場で判断する。学ぶことではなく本能で分かることだ。

Q: 「良い人だまり」の効用
A: 音楽が好きであると言い合える上質な場となる。一般吹奏楽団体でやりたいことは、当然「音楽」なのだが、その音楽に打ち込む為には、団員が安心感で満たされる「良い人だまり」が不可欠だ。

Q: 今目指していること
A: 持続可能な組織となる。一過性ではなく、人が入れ替わっても組織そのものが変わらない継続する仕組みをつくりたい。

私が理解している「良い人だまり」の条件は以下の通りです。

・人望人徳を備えたリーダーの存在

人に与えることを喜びとし見返りを求めないGive & Giveの人
その存在感がメンバーに伝播して安心安全な場が醸成されていく

・参加メンバーのふるまい

自分さえよければ良いというエゴを慎む
お互いに自分が持っているものを惜しみ無く出し合う
お互いにかけがえのない存在であると認め合う
特定の誰かに依存しない基本的にフラットな人間関係を尊重する
人が入れ替わっても変わらないものを次世代へ引き継いでいく

恩師は、良い演奏やコンクールの成績を目的にするとメンバー間の関係がぎくしゃくしてうまくいかなくなると仰っていました。目的はあくまで「良い人だまり」をつくることで、良い演奏は後からついてくると。

毎年末に全日本吹奏楽連盟主催の合宿が浜名湖であり私も高校在学中に2年連続して参加したことがあります。全国から高校生150名~200名程が集まり1週間合奏練習をしました。講師(恩師もその一人)を務められた秋田南高校、花輪高校、富山商業、浜松商業、愛工大名電校、天理高校、淀川工業、就実高校といった吹奏楽名門校の指導者から直接レッスンを受けたのですが、どなたも異口同音に、良い演奏は結果で、もっと重要なことは「場づくり」であると熱心に語られていました。その時私は、吹奏楽の世界では、表現は違うものの恩師が言う「良い人だまり」は常識になっているんだなと理解しました。

実は私は人から「では、あなたは良い人だまりを経験しましたか?」と尋ねられたら、自信を持って「はい」と答えることが出来ません。恩師から厳しく指導されたにもかかわらず、高校3年間で恩師が求めるレベルに至ることが出来なかったことを今でも悔やんでいます。理由はいろいろありますが、部活の運営面において、特定のメンバーに依存する体質に陥ってしまったという反省があります。その不本意な記憶と心残りから、社会に出てからも私の「良い人だまり」への希求は続きました。しかし、前述したように現実は理想とは程遠いものでした。

市立柏高校の皆さんのように「良い人だまり」を経験した人は、その後どんな人生を送られているのか気になります。きっと「良い人だまり」を経験した人しか得られない「暗黙知」を発揮して、生きづらい世の中にあっても、それを薄めることが出来ているのかもしれませんね。そう信じたいものです。

一方で、私のように「良い人だまり」を目指しつつも経験できなかった人はどうでしょうか。吹奏楽人口は500万人(一説では1,000万人)です。そして、それら多くの吹奏楽経験者が、合奏の「場=良い人だまり」を想起し、今おかれている状況下でその人なりの「良い人だまり」に向けて背中を押され一歩を踏み出したとしたら。。。社会に与えることは決して小さくないと思います。なかば解決をあきらめていた「生きづらさ」の問題を薄めることができる、微かですが希望の光が差してきました。

優れた経営者の条件

前回のブログで、911同時多発テロの発生に際して従業員の安全を第一に英断を下された社長Hさんのことを書きました。今回も引き続きHさんについて書きたいと思います。

世の中には優れた経営者はたくさんいます。人並外れて、新しい事業を産み出す創造力が豊かで、意思決定に際しての判断力や決断力が優れている。一旦始めたことをあきらめない意志の強さ、執着心。そして、あくなき欲望とそれを制御する倫理観、道徳心を兼ね備えていること、等々。要素分解して数え上げたら切りがないと思います。一方、優れた点を数多く備えていれば必ず成功するかというとそうでもなく、リリーフのタイミングが、外部環境に対して自社の強みが発揮し得る状況にあるかどうかなど、その人の能力以前の条件面によって左右するのではないでしょうか。そこで、経営者に求められる最大の資質は「運の強さ」等と言われるのではないかと思います。

私が仕えた社長Hさんはどうだったかというと、カリスマ的な創業者、続いて野武士のような2代目社長と比較すると、最初は「平凡な人」だったのではないかと思います。しかし、その人が業界のカリスマと言われるまでになられたのは何故でしょうか。私が考えるHさんのすごさは「人の心の機微に敏感で、且つそれを繊細に扱って周囲の人を味方にしてしまう卓越した人望の持ち主」だったと思います。徹底的に平凡を極めた人。それが私のHさんのイメージです。私がそのように考えた理由、Hさんとの想い出をたどりたいと思います。

私が初めてHさんと言葉を交わしたのは1995年、入社2年目の春でした。当時の私は、エンジニアの真似事を1年間経験して本社の営業部に戻された直後で、契約書の管理や製造子会社との調整を見様見真似でやっていました。ある日、部長Yさんに、お客さんからの取引条件変更の要望について質問したところ、それは「Hさんの決定事項だから、直接Hさんに質問して」と言われました。Hさんは当時複数の営業部を統括する事業部長(取締役)でした。普通の会社ですと、入社2年目の下っ端が事業部長に直接質問出来るかというとちょっとあり得ないと思うのですが、この会社では割と普通にそういうことが行われていました。私は緊張してHさんの部屋を訪ねました。社長以下、全ての個室はドアを開けておくというルールがありましたので、外から在席されているのを確認してドアをノックし「どうぞ」と言われたので部屋に入りました。

Hさんは机の上にあるたくさんの書類に目を通されていましたが、一旦両手を止めて、私の目を見ました。私は部長YさんからHさんに直接質問するように言われて来たこと。そして、お客さんからの取引条件変更の要望について質問しました。Hさんはすぐに判断して下さり用件は済みました。私は一礼して部屋を出ようとしたところ、Hさんから呼び止められ振り返りました。Hさんは笑顔で私の方を見据えて、

Hさん「君は〇〇部に新しく配属されたんだよね。名前は何と言ったかな?」

とおっしゃいました。

私「大西と申します。どうぞよろしくお願い致します。」

Hさん「そうか、頑張ってね。これから会社はどんどん大きくなるよ。その時、若い君たちの力が必要なんだ。期待しているよ!」

私は、大先輩に交じって自分のような者が本当に役に立てるのだろうか。足手まといにならないかとどこか不安を覚えていたと思います。しかし、Hさんの笑顔と、私に掛けて頂いた言葉を聞いて、その不安は一瞬で消えてしまったような感覚になりました。Hさんは、一瞬で人の気持ちを掴む達人だったのではないかと思います。後にも先にも、就職した会社でこのような方に出会ったことはありません。

その後、九州の製造子会社からOさんが出向で着任されて、私はその方と一緒に仕事をすることになりました。ちょうどそのころ、欧米のお客さんから代理店を介さない直接取引が求められていました。理由は、代理店のエンジニアリングサービスの品質が一向に高まらない事。また設備の改良についてもメーカーである当社に声が届かずお客さんのフラストレーションがたまっていて、そのことがさらなる事業拡大の足かせになっていることが問題視されていました。そこで、野武士のような2代目社長Iさんは、突然「グローバリゼーション」というスローガンをぶち上げ、半年以内に代理店契約を解除し、全ての顧客への直接販売、直接サービスをすると宣言しました。そして、各営業部に対して、取引条件の決定や、欧米の拠点の立ち上げ、人材の配置、保守部品の供給体制の構築を命じたのでした。

社内では「そんなことは不可能だ」とか「人材がいない」とかネガティブな意見が噴出して、上へ下への大騒ぎになりました。しかし、私が所属していた営業部は、売上、利益ともに会社の屋台骨を支える立場にあったことから、いち早く準備を開始しました。そして、上司Oさんと私の二人で、欧米顧客への直販体制構築条件の洗い出しと準備の工程表を作成することになりました。Oさんはエレキ設計を皮切りに製造、品質管理、生産管理を渡り歩いた根っからの工場のスペシャリストでした。工程表を書かせたら誰よりも速く、精緻に仕上げるスキルを持っておられましたので、私はOさんの助手として手ほどきを受け、徐々に仕事が楽しくなっていきました。

工程表の第一稿が完成したところで事業管理部門の課長Tさんに説明をしたところ、これは一つの営業部のものとして使うのでは惜しい。事業部として共有すべきだ、という話しになり、事業部長(取締役)Hさんに報告しようということになりました。私にとっては、前述のHさんとの最初の会話から数ヶ月が経過していて、久しぶりにHさんにお目にかかることが出来るとわくわくして3人(事業管理部門課長Tさん、上司Oさん、私)でHさんの部屋を訪ねました。

Tさんから、上司Oさんと私の仕事のことについて説明が始まりました。最初は、ニコニコ笑顔で話を聞いていたHさんの表情が、Tさんが発したある言葉をきっかけに険しくなりました。それは「この工程表はOさんと大西君が一生懸命に作ったものです」という一言でした。

Hさん「T君、仕事はね、誰がやったなんてことは重要じゃないだ。そんなことを言うとみんな自分が認められたいとか、褒められたいとか、そういうことばかり考えるようになっちゃうんだよ。二度と、誰がやったかなんてことは言わないでくれ!」

Tさんは「分かりました。申し訳ありませんでした」と謝り、我々3人はHさんの部屋を出ました。Tさんは上司Oさんと私に「せっかく良い仕事をしてくれたのにこんなことを言われてしまって申し訳ないです」と言ってくださいました。Oさんも私もその場では「問題ないです」と言いましたが、自席に戻ってもHさんの言葉に納得できず、私に至っては理想としてたHさんのイメージが根底から覆されたのでむしゃくしゃしていました。そして、仕事を早々に切り上げて、Oさんと憂さ晴らしで遅くまで飲みました。

翌朝、やや二日酔い気味で出社した私は午前中前日のこともあり仕事に身が入りませんでした。そして、昼食をはさんで少しエンジンがかかってきたかなという頃に内線電話でHさんから「部屋に来て欲しい」と連絡がありました。上司Oさんと私は、昨日の勢いで再び叱られるのではないかと恐る恐るHさんの部屋を訪ねました。するとHさんは立ち上がって、Oさんと私に昨日のことを詫びたのでした。

Hさん「昨日はT君の手前厳しいことを言ってしまい申し訳ない。Oさんと大西君は良い仕事をしてくれました。僕はそれを認めています。ありがとう。そこで、お二人が作った工程表を事業部共通のものにしたいのですが良いですか。」

Oさんと私は「頑張ったことが報われた」と感じてとてもうれしくなりました。同時に、Hさんの、従業員の気持ちへの配慮に再び感服しました。さらに深く、Hさんに付いて行こうと思ったのはこの瞬間でした。

その後、私は同社を退職して再就職先の会社でシンガポール勤務を経て再びその会社に再就職することになったことは以前のブログで書きましたが、最終面接でシンガポールから東京に来た時、面接官は社長になられたばかりのHさんでした。2年ぶりの再会でした。

Hさん「大西君、久しぶり。いろいろあったと思うけどやっぱりうちの会社がいいかい?」

私「はい、この間、いろいろな経験をして、いろいろなことを考えましたが〇〇〇がいいです。」

Hさん「分かった、では頑張ってね!」

最終面接はこれだけでした。

そして、本社勤務が始まり、シンガポール、台湾への出張を繰り返す仕事をする中で、翌年の春、管理部門を管掌するために台湾現地法人に赴任することになりました。出発前に再びHさんに呼ばれました。

Hさん「台湾の状況(代理店とのいざこざ)はよく知っていると思うけど、大西君が我々の事業にとってベストな判断を、社長になったつもりでやって欲しい。困った時には直接、取締役Nさん、Tさんにエスカレーションしてもいいよ。」

振り返るとHさんにかけて頂いたこの言葉があったからこそ3年間やれたと思います。

Hさんは、私の台湾赴任後も度々声をかけて下さり二人でお話する機会を設けて頂きました。ある日、台湾に出張で来られたHさんは、夕方私に電話をしてこられました。お客さんとの会食が終わったらオフィスに行くので話がしたい、という内容でした。そして、20時頃になってひょっこり一人でオフィスに来られて二人で飲みに行きました。Hさんがその時おっしゃっていたのは、台湾の状況について、部長クラスから上がってくる情報と現場の実態との間にギャップがあるような気がしていて、直接すべての状況に通じている私から話しを聞きたかった、という内容でした。私の前任者と代理店間で生じたぎくしゃくは、私が赴任した後も続いていました、ちょうどその時Hさんが気にされていたことは図星だったのです。

私は正直に見たこと、聞いたこと、そして感じていることを話しました。Hさんは、いつものように私の話しを熱心に聞いてくださり、その一言一言にうなずき、理解を示してくださいました。Hさんが帰国されるやいなや、本社の部長クラスが何人か台湾にやってきまして、ヒアリングしたいと言われました。私はHさんにしたのとまったく同じ話しをしました。その後、組織の見直しと、ポストの新設と任命が行われて急速に問題が終息していきました。

Hさんはこの時以外にも、出向社員全員と会食の場を設けて下さり一人一人から話しを聞いたり、激励されたりしました。また、台湾現地法人と代理店の合同の会議に出席され、最前列に座り、数時間の間じっと発表に集中して熱心に質問をされていました。社長として社員との距離感を感じさせないように努力されていたと思うのですが、これは装ってできるものではなく、きっと心の底から従業員を大切に思っていて、事業責任者としての社長の役割を果たすという強い使命感を以て臨まれていたのだと思います。

Hさんは何故、野武士のような2代目社長の後を継ぐことになったのでしょうか。のちの新聞社の取材では、次のように述べておられます。

46歳で社長に就任しました。当時、東証1部上場企業で40代なかばの社長なんていませんでした。僕はそのとき常務だったのですが、発表の数カ月前に「(次の)社長にするから」といわれたんです。僕としてはそういう目で見てくれるのはうれしかったけれど、戸惑いも大きかった。自分が大切にしている先輩が相当いるし、お客さんの幹部も年上の人ばかりです。ほとんど無理、という思いで「ちょっと考えさせてください」といった。その後も2、3回話をしましたが、まだためらっていました。そうするうちに創業者や社長から、大迫力で決断を迫られた。「だらしない」と。自分たちは20代でこの会社をつくり、入社してくれた人たちも自分より年上ばかりだ、それでも優れた人と働かなければと、その一心でやってきたんだ、君にもそれができるはずではないのか、とこういうわけです。「若さは重要なんだ」ともいわれました。この業界は大きく変化していくので、自分たちも変わりながら変化に挑戦できるエネルギーがこの会社には必要なんだ、と説得されました。最終的には、「ぜひやらせてください」と心を決めたんです。(日経電子版より抜粋)

野武士のような2代目社長Iさんが会長に退かれた後、私はIさんと台湾事業の件でランチミーティングをすることがあり、その際、Iさんは次のようにおっしゃっていました。

Iさん「大西君は社長になりたいか?もしそんなことを考えていたら止めた方がいいよ。社長なんてやるもんじゃない。何かを決めたらみんな文句を言う。うまくいったらみんなのおかげ。しかも、失敗したら社長の責任だ。でも、誰かが社長をやらなければならない。そんな仕事は誰でも務まるものじゃないんだ。僕がH君を次の社長に指名したのはね、H君が 〇〇 だからなんだ。」

私には書くことがはばかられましたので 〇〇 にしました。Iさんがおっしゃりたかったのは、小さいことを気にして、くよくよしたりするような人では社長は務まらない、ということをおっしゃりたかったのだと思います。

Hさんとの想い出は他にもたくさんありますが、とても書き切れないので一旦筆を置こうと思います。短い時間でしたがHさんのような素晴らしい経営者の下で仕事をさせて頂いたことは、私の終生の誇りです。

911米国同時多発テロ

2001年の春に約3年間の台湾現地法人での出向勤務を終えて東京の本社に帰任し人事部に配属されました。確か、取締役のどなたからだったか「台湾で役割を果たしたら、帰任する時は好きな仕事をさせてあげるよ」と言われて送り出されたので、帰任が決まった時、営業部門や営業推進の仕事をしたいと申告したのですが、よりによって最もやりたくない人事になってしまいました。人事を避けたかった理由はいろいろあったのですが、一番大きな理由は、

「私には人事のような守りの仕事は向いていない」

と思っていたからで、今でもそう思っています。

当時の私は、よほど人事に戻りたくなかったのでしょう。募集を始めたばかりの大学院(早稲田大学アジア太平洋研究科)に願書と研究計画書を提出しまして、これが「失敗の研究」という旧日本陸軍の失敗を分析した本の共同執筆者の一人で教授の寺本先生という方の目に留まり入学を許可されました。そこで、人事部長に1年間の休職を認めて欲しいと申し出たのですが、進学理由での休職は認められないと却下されてしまいました。そして、管理部門を管掌されていた常務取締役Tさんに台湾から呼び出され差しで飲みまして「つべこべ言わず俺の言うとおりにしろ」と強引に押し切られ、人事に戻ることになってしまいました。台湾での私の仕事を一番認めて下さったのはTさんだったことを知っていましたし、なにせ一度退職した私を再就職させてくれた恩がある会社です。結局は社命に従って人事に戻ることにしました。その夜、Tさんは非常に酔われてご自宅までタクシーでお見送りしたことを覚えています。

帰任した私は海外人事の担当になり、新しく発足する中国現地法人の人事制度を考えたり、上海で採用活動をしたり、日本からの出向者の生活インフラの整備などをしたり、それなりに台湾での経験が活かせているのかな、などと思っていました。しかし、どこか振り切れない物足りなさを感じていました。もっと人がやったことがない新しいことをしてみたいという、焦りにも似た感覚を常に持っていたと思います。

ただ、人事のメンバーとは仕事を離れても楽しい時間を共有しました。部長代理Nさん、課長Sさん、同期のH君はいつも一緒で、仕事が終わると本社がある赤坂の街に繰り出して、毎晩のように飲みながら仕事の話し、遊びのこと等いろんな話をしました。

最初に連れて行ってもらったのがTOT(トット)というショットバーでした。マスターは当時60歳前後だったと思うのですが、その名を聞けば誰でも知っている電機メーカーの社長秘書のご経験者で、そのためビジネスのことに詳しく、また温厚な方だったので私のちっぽけな悩み事にも嫌な顔一つせず耳を傾けてくださいました。最初は人事のメンバーと一緒に行っていたのですがやがて一人で行くようになり、常連の方々とも仲良くなりました。ある方は広告業界の重鎮、有名な「タンスにゴン」というキャッチコピーを考えた人で、よく冗談で笑わせて頂きました。また、演奏会や演劇などの興行会社の社長さんがいて、その方の親友が、私の大先輩で東京フィルのクラリネット奏者だったことからとてもかわいがって頂きました。マスターは明け方にお店を閉めて私と二人だけで朝まで別の店で飲んだりして、本当に楽しい思い出です。

そして、あの2001年9月11日になりました。その日は月曜日で20時頃に仕事が終わりいつものように人事のメンバーで飲みに行こうということになり、どこかで軽く食べてショットバーTOTで飲み始めました。お店は雑居ビルの2階で、店内には当時まだ珍しかった大画面のプロジェクションTVがあり普段はサッカーや野球を映していました。お酒も進んで22時頃だったでしょうか、同期のH君の携帯が鳴りました。奥さんからの電話でした。「貿易センタービルに飛行機が突っ込んで大変なことになってるよ」という内容でした。それを聞いて私たちは、「羽田空港の離陸か着陸に失敗した飛行機が浜松町の貿易センタービルに突っ込んだのかな」などと言いながらマスターにプロジェクションTVでNHKにチャンネルを変えて欲しいとお願いしました。

次の瞬間映し出された映像をみて言葉を失いました。マンハッタンのワールドトレードセンター・ノースタワーから真っ黒な煙がもうもうと立ち上っている光景が映し出され、アナウンサーが旅客機の衝突を繰り返し報じていました。あまりの衝撃的な映像に、これは現実なのか夢なのか、にわかには信じられず、私たちとマスターの目はテレビにくぎ付けとなり言葉を失いました。そして、課長Sさんが一言「これはテロだ」とつぶやきました。彼はテキサス州にあるアメリカの現地法人に2年程出向勤務して前年に帰任していて、アメリカの事情に通じていたのです。しかし、仮にテロだとしても、どうやってこんな大胆なことが出来たのかにわかには信じられなかったので、Sさんを除く私たちは依然事故だと考えていました。そして、じっと画面を見続けていた私たちの目に、今度はサウスタワーに激突する旅客機の映像が飛び込んできました。そして、私たちは確信しました。「これはテロだ」と。

一気に酔いが覚めた私たちはショットバーを出て、急いでオフィスに戻りました。そして、会議室で対応を打ち合わせました。ラジオからはペンタゴンに別の旅客機が激突したこと。行方不明の一機がホワイトハウスに向かっているようだ等々、次々と情報が入ってきました。

テロは継続して企てられているかもしれない。それは米国本土かもしれないし、日本を含む同盟国のどこかかもしれない。とにかく、全社員に対して、当面旅客機での移動を中止させるべき、との結論になりました。部長代理Nさんは人事部長と取締役に本件を報告。課長Sさんは出張者の情報を関係部署から入手してリストアップしました。そして、全員で手分けして、世界中に展開している海外勤務者、出張者にメールを送信し、飛行機の搭乗を控えている社員には直接電話連絡をしてキャンセルを指示しました。確か連絡を取るべき対象者は100名前後いたのではないかと思います。

17階にある私たちのオフィスからは、国会議事堂、アメリカ大使館が眼下に見渡せました。そこに、続々とパトカーが集まり、建物を取り囲み始めました。永田町一帯は、パトカーのテールランプで真っ赤に埋め尽くされていったことを覚えています。

全ての連絡を終えたのは明け方になっていました。夜が明け始めバルコニーで煙草を一服した時、不気味なほど静まり返った東京のひんやりした空気を今でもはっきり覚えています。やがて8時になり社員が続々と出勤してきました。私たちは一睡もしていませんでしたが、何かあれば速やかに対応する必要があるため自席で待機していました。

11時頃になって役員会議室に集められました。そこには、社長以下取締役全員と営業部門、管理部門の部長が集められていました。私たちはオブザーバーとして同席を命じられたのです。そして、テレビ会議が始まりました。私はてっきり米国現地法人と対応を協議すると思ったのですが、接続先はイスラエルでした。

その年に、当時世界最大だった半導体メーカーとの取引が決まり、数台の装置がこのメーカーのイスラエル工場に納入されました。工場はハイファという港町にあり、装置の設置、稼働のために日本から10名程のエンジニアが派遣されていました。その日もいつも通りお客さんの工場で作業をすることになっていました。

イスラエル側の責任者Eさんに対して発した社長Hさんの次の一言でテレビ会議が始まりました。

Hさん「今回のテロの報復としてアメリカはすぐに戦争が始めるだろう。一方、イスラエルは敵対するアラブ諸国から攻撃されることは十分に予想できる。イスラエルの皆さんのことは心配だし出来る事は全てしたいが、その前に、まずは日本から出張させている10名を速やかに帰国させたいので対応をお願いしたい。」

Eさん「それは待って欲しい。お客さんも私達も安全面では万全の態勢で臨んでいる。いま日本人エンジニアを引き上げるということはせっかく獲得したお客さんとの取引を放棄することになる。それでも良いのですか。」

Hさん「我々は従業員の安全を第一に考えている。日本に帰して欲しい。」

Eさん「なんとか作業を継続できる方法が無いか再考願いたい。」

そんなようなやりとりが10分程続いたのではないかと思います。取締役や営業部長の中には、お客さんとの取引継続は重要で、そのためにエンジニアのイスラエル滞在はやむを得ないと考えている人がいたと思います。しかし、誰もそのことを口にしませんでした。普段は穏やかな社長Hさんの声がだんだん大きくなり決心が堅いことが会議室にいた全員に伝わったからです。

社長Hさんは決定的な一言を仰いました。

Hさん「ビジネスは何度でも取り返せる。しかし、従業員に何かあったら命は取り戻せない。これは経営者として絶対にしてはいけない判断だ。」

Eさん「・・・」

Hさん「イスラエルの人は知らないかもしれないが、私達日本人はアメリカという国を良く知っている。太平洋戦争で、日本人は真珠湾の戦艦数隻と軍事施設を攻撃した。一方アメリカは、その報復として日本のほぼすべての都市を焼け野原にし、原子爆弾を2個投下した。真珠湾攻撃の報復が原子爆弾2個だ。そして今回、本当に怒ったアメリカは何をするか分からない。報復は徹底的に、執拗に、何度も繰り返し行われるだろう。もう待ったなしなんだ。今のうちに出張者は帰国させる。選択肢はない。」

そして、Eさんは、しぶしぶ「分かりました。今日中にフライトを手配して、明日日本に帰国させます。」と返事をして会議は終わりました。会議室にいた私たちは黙って、会議室を出ていく社長Hさんの後姿を見送りました。その世界最大の半導体メーカーとの取引は何年もかかって実現した当社の念願でした。この時、社長Hさん判断でそれが流れてしまいました。では、その判断は正しかったのでしょうか。それは、その後の当社の歴史が証明しています。

2001年当時5,000億円ほどだった売上高は1.3兆円(2019年度)に。5,000円ほどだった株価も現在は30,000円水準です。日経平均株価を決定する主要銘柄として、経済人ならばもはや知らない人はいない会社になりました。世界中の半導体メーカーと取引きがあり、その中にはあの時の世界最大の半導体メーカーも含まれています。会社を大きく育てたHさんはその後会長に。最後は社長と会長を兼務。2016年に退任され、昨年、叙勲を受けられました。テレビで久しぶりにお元気そうなお姿を拝見し、Hさんとの懐かしい思い出に浸りました。

次回は、大変尊敬するHさんに初めてお目にかかった時の思い出から書き始めたいと思います。

921台湾集集大地震

1999年9月21日、深夜の台湾に大きな地震が発生しました。

921大地震(きゅうにいちおおじしん)は、台湾時間の1999年9月21日1時47分18秒(日本時間2時47分18秒)に、台湾中部の南投県集集鎮付近を震源として発生したモーメントマグニチュード(Mw)7.6(USGS、台湾中央気象局はMs7.3)の地震。921大地震のほか、台湾大地震、集集大地震、台湾中部大地震、921集集大地震、台湾大震災、集集大震災、台湾中部大震災などと呼ばれ、台湾では20世紀で一番大きな地震であった。(Wikipediaより抜粋)

私は、前年(1998年)春から半導体関連メーカーの台湾の現地法人に出向し管理部門を主管していました。その日は、なかなか眠りにつけずテレビを見ていたところ突然停電になりました。私の部屋はマンションの7階で、充電式の非常灯が設置されており、停電発生と同時にそれが点灯し、部屋の中はぼんやりとした黄色がかった色に照らされました。そのちょうど1ヵ月前に台湾全土で大停電がありましたので、真っ先に思ったのは「また停電か」という程度でした。後から分かったのですが、1ヵ月前の停電は、9月21日の地震に関連して活断層が動いて送電システムに不具合が生じたことが原因だったようです。

ぼんやりと黄色く照らされた部屋の中はかろうじて見渡せる程度で薄暗く、エアコンもダウンしたので「今夜は寝苦しくなるなあ」などと呑気に構えていました。すると、遠くの方から低く、うなるような「ゴー」という音が近づいてきました。最初はジェット機の音かと思ったのですが、それが徐々に大きくなってきて「これは何か変だぞ」とソファーから立ち上がろうとした瞬間、マンション全体が左右に大きく揺さぶられ始めました。小刻みな振動ではなく、水平に「ざっざっざっざ」と、ものすごい力で押されては引っ張られ振り回される感じで、振幅幅は1メールくらいあったのではないかと思うくらい揺れました。部屋の壁にはビシッと音を立ててひびが入り、私はなすすべもなく座ったまま揺さぶられ続けました。それまでに経験したことのない揺れに、心拍数が上がり、呼吸が激しくなりました。「あー、もう終わりだ。マンションが倒壊してしまう!」と思ったところ、徐々に揺れが収まっていきました。「命拾いした」と放心状態になりました。

放心状態の時間は、実際にはほんの一瞬だったと思うのですがとても長く感じられました。そして、突然はっと我に返りました。当社には、台湾人従業員46名、日本人出向者25名、装置の立ち上げ作業で日本から台湾に来ている出張者が常時150名から200名もいて、みんなのことが急に心配になりました。「私が彼らの安否確認をしなければならない」と、Tシャツと短パンのまま部屋を飛び出し、自転車に飛び乗って10分ほどのところにあるオフィスへ突進しました。

町全体は地震の揺れの影響で一斉に砂やほこりが舞い上がりぼんやりと霧がかかっているようでした。数メートル先もはっきり見えない視界不良の中会社に到着し、自転車を乗り捨てて階段を駆け上がり、2階にある非常灯に照らされた薄暗いオフィスに入りました。一呼吸ついて私が考えたのは、こんな大きな地震が起きたのだから日本でも報道されるに違いない。本社も、私の両親も心配するはず。そこで、まずは本社人事Hさんの携帯に電話し、就寝中のHさんを起こして次の説明をしました。

私「いま台湾で大きな地震が発生しました。停電中ですが町の様子を見たところ建物の倒壊はなくオフィスにも被害はありません。これから従業員と出張者の安全確認を始めます。出社されたらご連絡ください。」

続いて、両親に電話をして私の無事を伝えました。

再び、オフィスを出て1階に駆け下りて自転車に飛び乗りました。向かう先は150名以上の出張者がばらばらに滞在している4つのホテルでした。

当時の台湾では火災が多く、1997年にも顧客の半導体工場で大火災が発生し丸焼けになってしまい、保険会社との交渉で装置の状況確認の為に鎮火後の工場に入りました。また、飲食店、ホテル等、頻繁に火災が発生して、うろ覚えですが、当時の台湾の人口当たりの火災発生率は日本の25倍に達していたと思います。ホテルに到着した私は、火災の発生源として想定されたレストランの厨房の状況をホテルの従業員に確認し、出張者には部屋から出るように促してロビーに集めて次の指示をしました。

私「台湾では火事が多い。ホテルでは厨房からの出火がほとんどなので、安全が確認できるまでロビーで待機すること。もし、不安ならばオフィスに来れば私が対応する。」

出張者とホテルの安全を確認してオフィスに戻った私は、日本人出向者に電話をかけ続けました。当初回線は混雑していて話しが出来ないことがほとんどでしたが、だんだん通じるようになってきて数名を除き安全確認が出来ました。そうこうしている内に独身寮に住んでいる台湾人従業員がオフィスに出てきてラジオをつけて地震の情報収集を始めました。震源地は80キロ先で、紹興酒工場が爆発炎上したとか、マンションが複数倒壊して多くの人が下敷きになっている等、非常に大きな被害が出ていることが徐々に明らかになってきました。

オフィスを台湾人従業員に任せて、再び自転車に飛び乗って安全確認できなかった日本人出向者の社宅を訪ねました。揺れで部屋中がめちゃくちゃになっている等の話しはありましたが全員無事でした。

オフィスに戻ったころには白々と夜が明け始めていました。私はホワイトボードに地震発生から現時点までの安全確認の状況を記入し一旦帰宅して身支度をし、状況報告をするため社長がいる半導体工業団地内のオフィスへタクシーで向かいました。

当社の総経理(社長)Aさんは、営業と装置の保守サービスを委託している代理店の董事長(オーナー)でもありました。Aさんの台湾の半導体業界における影響力に依存していた当社の経営陣は、メーカーである当社が、顧客満足を高めるために現地法人を設立した後も、ビジネスパートナーとして代理店との良好な関係性を保つことを重要視しました。私の前任者である日本からの出向者の総経理が、現地法人として代理店に頼らず単独で台湾市場を押さえることを目論み暴走し、経営から本社に帰任させられました。その後任者である私の役割は、社長から「代理店との良好な関係性保つこと」そして「自分が社長になったつもりで仕事をすること」と諭され台湾に送り出されたのでした。そして、董事長であるAさんが当社の現地法人の総経理を兼務されることになり、私はAさんの部下となりました。

私は毎日、代理店のオフィスビルの最上階にある董事長室を訪ね、Aさんに決裁伺いと現地法人の状況の説明をしました。Aさんは、私が訪ねていくと、決裁は手短に済ませて、台湾のビジネスについて、台湾人について、いろいろなことを教えてくださいました。その中でも特に記憶に残っているのが9月21日朝に見たAさんの姿でした。

その日、董事長室に到着した私はAさんがいらっしゃらないことに気付きました。秘書が戻ってきてAさんに状況報告に来たと伝えると、隣の会議室にいると教えてくれました。会議室のドアをノックし、入室しようとドアを開けたところ、奥の中央にはAさんが陣取り、その両側に代理店の幹部、そして営業、技術のリーダークラスがずらっと居並んで緊張した空気が流れていました。というのも、地震による顧客工場の被害は想定よりも大きく、その一刻も早い復旧は、これは決して誇張ではなく、当時、半導体産業に大きく依存していた台湾経済の落ち込みを最小限に食い止めることが出来るか否かがかかっていました。

Aさんは会議室奥の壁面にある大きなホワイトボードに向かい、顧客名と連絡先、納入装置の製造番号を丁寧に書き出していました。そして、書き終わるたびに担当者に対して、各装置の被害状況の確認と報告を指示し、次々に送り出していきました。そして、最後に幹部に対して、初動の陣頭指揮は自分が行うこと。そして、方向性が固まったら対策本部は営業責任者のJさんを任命し、以後、全ての情報はJさんに集約して報告するように命じました。やがて、代理店側におけるAさんのすべての指示が終わったところを見計らって、私からAさんに、従業員と出張者の安全確認がとれたことを報告しました。Aさんは私の対応をねぎらい、今後は顧客工場の原状復帰に向けて日本からの応援が必要になるので、その連絡窓口をやるように指示されました。Aさんと向きあうと、どんな仕事でもできるのではないかと思わせてしまう不思議な魅力のある方でした。特に、あの時のAさんの姿はリーダーとして非常に頼りになる、この人についていけば絶対に大丈夫だと思わせるオーラが出ていました。私にとっての理想のリーダー像はこの時固まりました。

Aさんから指示を受け、オフィスに戻ろうとしたときに、深夜、私から電話をしておいた本社人事Hさんから電話がありました。私から、全員の安否確認が出来たこととAさんから受けた指示の内容について説明しました。Hさんも私をねぎらい、困ったことがあればいつでも連絡して欲しいと言ってくださいました。

それからしばらくしてHさんの部下Sさんから電話が入り「報告は現地からするもの」と言われたのに続いて、Sさんの口から出た次の言葉に私は耳を疑いました。

Sさん「今後は15分毎に状況を報告すること」

当地では混乱の中、懸命に活動しているのに「15分毎に報告せよ」などとよく言えるなと。私は憤りつつ「状況が変化し報告すべきことができたら報告します」と伝え電話を切りました。その後もひっきりなしに日本側の様々な部門から台湾の状況について問い合わせの電話が入り、その内の大部分は興味本位のものでしたので私は辟易しました。そこで、本社人事Hさんに再度依頼しました。

私「ただでさえ混乱しているのに、興味本位の電話の対応で忙殺されるのは避けたい。日本側で窓口を決め、重要なことのみ連絡するように社内で周知して欲しい。」

Hさんは私の意図を理解してすぐに対応してくれました。

その後、電力の供給が安定するまで数カ月かかったと記憶しています。台湾経済のけん引力である半導体工業団地には優先的に電力が供給され、市街地はいくつかのブロックに分けて半日毎に入れ替えで計画停電がありました。暑い夜をしのぐのは大変でしたがみんなで協力して何とか乗り切りました。日本で同じことをしたら大クレームが発生しそうなものですが、その時見た台湾人の姿は停電をむしろ楽しんでいました。多くの家の軒先に家族、友人が集まり、楽しそうにバーベキューパーティーをしていた光景が忘れられません。

余談ですが、本社からはその後一方的な要求が続きました。顧客工場の復旧応援に出張者を派遣するにあたって、急に台湾の安全性に敏感になったのでしょう。現地法人として予約を勧めているホテルの耐震性と防災基準を満たしていることを証明するように要求されたのです。さもないと出張者を出すことが出来ない、などとどこかの部門が騒いでいると推測できました。そこで私からは、我々がリストアップしたホテルは、消防から許可を得ていることは確認済で、一方、耐震性をどの程度備えているかは建築物の検査が出来ないので客観的な証明をすることは難しいと返答しました。しかし、なかなか納得してもらえず辟易しました。そこで、次のようにやり返しました。

私「台湾人従業員も日本に出張することが多いが、宿泊先として本社が予約を勧めているホテルの耐震性について確認ができていない。客観的なデータを出してもらえないと大切な台湾人従業員を日本に送り出せない。」

本社の担当者は、私に要求していたことの対応の難しさを実感したのでしょう。それ以降は要求して来ませんでした。

距離が離れている本社では、現場で起きていることに実感がわかず当事者意識になれないことは理解できます。しかし、現地は常に想定外のことが起きるので困っていることがほとんどです。本社がその声を受け止めて共感する姿勢さえあれば、信頼関係を築くのはそれほど難しいことではありません。そして、信頼関係さえあれば、当事者として勇気をもって問題の中に飛び込むことさえできます。台湾の地震は、私に「働く人々にとっての信頼関係とは、良い仕事をするために絶対に外すことのできない基本的条件である」ことを強烈に植え付けたのでした。

次回は、もう一つの有事、2001年9月11日に発生した米国同時多発テロに際して、私が最も尊敬する経営者が見せた行動について書きたいと思います。

「知識」だけでは対応できない「危機管理」のはなし

コロナウィルス感染拡大に対する日本政府の対応に懐疑的な声が上がっています。私は、繰り返し報道される打ち手の上手、下手よりも、そもそも政府はどのような「危機管理」のポリシーを掲げてこの件に取り組んでいるのだろうかと疑問に感じています。

例えば、台湾政府の場合ですと「民主主義の理念に従って、市民の協力を最大限得ることが出来るような政策を講ずる」ことをポリシーに掲げてコロナ対策を講じ感染の抑え込みに成功しています。日本政府はどうでしょうか。どこに軸足をおくのかあいまいで、やることがちぐはぐしていませんか。

Go To トラベルキャンペーンを強行したところをみると経済優先のように見えますが、スウェーデンのような集団免疫獲得を目指すような意思表示はどこにも見かけません。一方、医療現場のひっ迫を切実な問題として懸念する自治体の長は、飲食店などに対して営業時間短縮等の自粛を求めています。国と地方が別の視点で政治を行い、分裂状態に陥っているかのように感じているのは私だけはないと思います。私たちが抱えるリスクとは、突き詰めれば、政策の根幹である明確なポリシーを掲げることに消極的なリーダーの存在そのものではないでしょうか。

そこで、これから3回に分けて、有事(想定外の出来事)への対応、つまり「危機管理」について書きたいと思います。今回は、割と最近起きた出来事に関する私の経験を。そして、次回以降は、私が影響を受けたお二人の経営者について書きたいと思います。お二人の経営者は共に有事に際して、「従業員の安全を第一にこれを守る」とのポリシーに基づいた意思決定をされたのですが、そのポリシーがどのような行動として表出したのか私の記憶をたどります。

さて、「危機管理」という言葉の意味をネットで確認したところ、「リスクマネジメント」と「クライシスマネジメント」に分かれていて、それぞれは次のように定義されていることが分かりました。

・リスクマネジメント
危機事態の発生を予防するためのリスクの分析方法等

・クライシスマネジメント
危機事態の発生後の対処方法

つまり、シンプルに言うと「事前の対策」と「事後の対処」のことです。ところで、私たち人事担当者は、従業員の安全を守るという役割を課されていますので、事前に危機を最小化し、且つ、危機発生に際しては迅速に対応する、といった「危機管理担当」を兼務しているといえるでしょう。

以前ブログで、人事の仕事には、

「採用→配置・労務→育成→評価→処遇のサイクルをムリ・ムラ・ムダなくスムーズに回す知見と仕事能力が求められる」

と書きました。ある程度未来が予測できる状況では、知識を使って人事サイクルを回せば一定の成果を出すことが出来ると思います。しかし、有事への対応は知識だけでは足りません。圧倒的に「経験」が必要だと私は考えています。

そこで、「有事には経験がものをいう」ということを示す一つの事例を紹介します。

2009年に発生した奇跡的な生還劇として知られるUSエアウェイズ1549便不時着水事故を映画化した「ハドソン川の奇跡(原題:Sully、クリント・イーストウッド監督・製作、トム・ハンクス主演)は、絶体絶命の危機を回避したサレンバーガー機長を描いています。

USエアウェイズ1549便は、離陸直後に鳥がエンジンに吸い込まれ機能不全を起こすバードストライクが発生し、両エンジンが推進力を失ってしまいます。滑降状態に陥った飛行機を瞬時の判断と、巧みな操縦技術で無事ハドソン川に着水させて、一人の死傷者も出さなかったサレンバーガー機長は時の英雄となりました。

映画では、事故後に開かれた公聴会の場で、サレンバーガー機長が、事故調査委員会が収集した資料を根拠に、ハドソン川に着水する必要はなく、出発地のラガーディア空港や、近郊の空港への着陸が可能だったはず、と厳しく追及される様子が描かれます。

そして、映画のクライマックスでは、サレンバーガー機長による、

「調査委員会の資料には人的な要素が反映されていない。正確な検証をするためには人的要素を加味すべきだ。」

との一言で形勢が逆転します。

予期せぬ事態(両エンジンが同時に推進力を失う)に際して、どのように対処すべきかという訓練を一切受けていない操縦士が意思決定を行うまでには一定の時間を要するはず。にもかかわらず、調査委員会が提出した資料の根拠であるフライトシミュレーターの検証では、あらかじめ近郊の空港に着陸するとの答えが与えられた操縦士が、迷いなく航路変更を行い、しかも複数回練習が行われた。このような実際とは異なる環境下で導かれた結論は正しい検証結果とは言えないはず、とサレンバーガー機長は指摘しました。そして、バードストライクから30秒の間隔をおいて航路変更を行い、着陸を試みるようシミュレーションし直した結果、いずれのケースにおいても飛行機は墜落していたであろうことが明らかになります。

事故調査委員会は、公聴会の最後に、

「あらゆる見地から科学的な調査を行ったが、成功の要因を見つけることは出来なかった。事故を回避できた決定的な要因は、科学で検証できない機長の存在そのもの(ファクターX)だったとしか言いようがない。」

と結論付け、サレンバーガー機長のハドソン川着水の判断は正しかったことが実証されます。

では、サレンバーガー機長の存在そのもの(ファクターX)とは一体なんなのでしょうか。そのヒントは機長役のトム・ハンクスが繰り返し言う、

「私は、何千回という飛行経験から空港への着陸は不可能と判断した。」

との台詞が表しているように、成功要因はサレンバーガー機長の「経験」だったことが暗示されます。そして、映画は、サレンバーガー機長がパイロットとして積んでいった「経験」を丁寧に描いていきます。

サレンバーガー機長の足元にも及びませんが、私も人事担当者として仕事をしてきた中で、いくつかの有事に直面し危機管理を担ったことがあります。その中でも大きな出来事は、1999年9月21日に発生した台湾集集大地震と、2001年9月11日の米国同時多発テロでした。このことについては、次回以降のブログで書くことにして、今回は、割と最近起きた出来事に関する私の経験を書きたいと思います。

2018年3月から大阪のIT系ベンチャー企業の人事総務を主管しました。この企業は複数の大手企業とエンジェル投資家から出資を受け、事業面での急成長が期待されていました。また、それを支える人事面のテコ入れが急務になっていました。そこで、この企業の顧問を務めていた大学院同期のIさんからご紹介頂いたことがきっかけとなり、福岡から単身大阪に行くことを決めました。当初から期間限定のピンチヒッターのつもりでいましたので、急ピッチで人事制度の整備や運用上の不具合解消に取り組んだのですが、特に私が重視したのは「危機管理」でした。

というのも、この企業は大阪市中央区に所在していて、私はこの地域には2つの危機管理上のリスクがあることを知っていたからです。

1つ目は、大阪市内を南北に縦断する上町断層(豊中市から上町台地の西の端を通り岸和田市にまで続く長さ約40キロの断層)を震源とする直下型地震です。内閣府の中央防災会議の報告ではM7.6を想定し、被害が最も大きい場合、死者4万2000人、負傷者22万人、帰宅困難者200万人、全壊棟数97万棟、避難者550万人、経済への被害74兆円と想定されています。

2つ目は、南海トラフを震源とするM9の巨大地震です。大阪市の広報によると、中央区は最大震度6強の揺れが襲います。加えて、海溝型地震ですので津波が発生します。津波は地震発生から約2時間後に大阪湾に到達し河川を遡上。梅田、なんば、天王寺等主要な繁華街をはじめ大阪市中心部が浸水すると想定されています。

いずれにケースにおいても従業員が被災を避けることは不可能と思われました。さらに、この企業には東京支店があり、首都直下地震が発生した場合には、勤務する6名の従業員が被災する危険性も抱えていました。

そこで、私は危機管理の「事前の対策」として、

①従業員安否確認システムの導入と従業員への啓発
②避難用品の備蓄
③自宅で被災した場合の広域避難場所の確認

を行いました。特に、安否確認システムについては、今となっては何故かはわかりませんが、一刻も早く運用を開始する必要があると考え、数日でシステムを選定、契約、導入準備を整えて、従業員に説明会を開きました。その場で私は従業員に以下を訴えました。

「これまで約25年間、私は、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、台湾集集大地震、同時多発テロ、東日本大震災等、様々な自然災害、事件、事故に直面し対応してきました。そんな私も今年50歳です。従業員の皆さんの中には20代の人もたくさんいますね。つまり、これから皆さんが、私が過ごしてきたのと同じ時間を過ごす間には、私が経験したこと、もしくはそれ以上の出来事が必ず起きるんです。会社は皆さんの安全を第一に考えます。そして、皆さんが危険に遭遇した時には必ず助けに行きます。そして、誰がどこで助けを求めているかを、最速で把握するためにこのシステムを導入することにしました。だから皆さん自身の身を守るために運用に協力して欲しい。」

従業員は、概ね私の言葉に理解を示し、6月11日(月)の導入日から5日間でテスト運用を3回繰り返した結果、ほぼ全員の安否確認が出来る状態になりました。

そして、システムが稼働した翌週、2018年6月18日(月)、多くの人が出勤途上の大阪を、大きな揺れが襲ったのです。

大阪府北部地震(おおさかふほくぶじしん)は、2018年(平成30年)6月18日7時58分39秒に、日本の大阪府北部を震源として発生した地震。地震の規模はM6.1で、震源の深さは13キロメートル (km)(ともに暫定値)。最大震度6弱を大阪府大阪市北区・高槻市・枚方市・茨木市・箕面市の5市区で観測した。(Wikipediaより抜粋)

私はこの時、ジムでランニングをしていまして、突然、ドスンという下から突き上げるような揺れで着地を踏み外しそうになりました。ジム内は騒然としていましたが、私はすぐにシャワーを浴び、着替えを済ませて会社があるビルに向かいました。ビルは停電でオートロックがかかったまま通用口が開かなかったため、ビル一階のカフェに入り、前週に立ち上げたばかりの安否確認システムのスマホアプリを起動しました。

システムでは、地震の発生に際して自動的に震源地、震度の情報を登録ユーザーに通知する仕組みとなっていて、私は、震度5以上の地震発生際して登録済の従業員とその家族に安否確認のメールが自動送信される設定をしていました。既に安否確認の一報が出された後でしたので、続々と「自宅で安全が確保できている」や「出勤途上の交通機関の状況」等、返信が入り始めていて、それらの内容をひとつひとつ確認しました。そして、役員とカフェで合流し、状況を報告した上で、「会社は停電で入室が出来ないので全員自宅待機」を指示しました。通勤途上の従業員は、会社が近い場合は一旦出勤し、鉄道の運行が再開された時点で帰宅させました。

幸運にも発生が危惧されていた上町断層の直下型地震は免れました。私は地震が発生した瞬間、「いよいよ来たか!」と感じましたので、揺れがすぐに収まった当初はほっとしました。しかし、高槻市では学校のブロック塀が崩れ、小学生が下敷きになって死亡するなど、6名の方の尊い命が失われ、重症者62名、軽症者400名、住宅被害は一部損壊迄含めると62,000に及んだことで、都市部の地震の危険性をまざまざと見せつけられました。

さて、地震発生から数日経って、仕事も通常に戻った時に、ある従業員が私のところにやってきて次のような会話をしたことを覚えています。

従業員「安否確認システムの運用は先週でしたよね。大西さんは地震が起きるのを予想していたんですか?」

私「私は予言者ではないのではっきりしたことは分からなかったけど、なんとなく、今やらなければならない、という直観のようなものはありましたよ。」

人が何かを感じる時、そこには何かの意味が隠されていると私は考えています。あの時の私のそれは、かつての危機管理の経験がそうさせたのかもしれません。

次回以降のブログでは、私の危機管理のベースとなった2つの経験、1999年9月21日に発生した台湾集集地震と、2001年9月11日の米国同時多発テロに際して垣間見た経営者の姿を書きたいと思います。

仲間たちとの有意義な時間

コロナウィルスの感染が拡大しています。どうやら6月に東京で変異した型が全国に拡散したようですが、ウィルスは一般的に徐々に弱毒化する特徴があるようですね。変異した型に感染して重症化するケースは抑えられているので騒ぐべきではない、と言う人がいたり、PCR検査をどんどん増やすべきだという人がいたり、何が正しい打ち手なのか結果が出るまでもう少し時間がかかりそうです。ただ、そうこうしているうちにも、コロナウィルスは私たちの生活を大きく変えてしまいました。その中でも働く人にもたらした最も大きな変化は「在宅勤務」だったのではないでしょうか。

2010年の秋から2年間、社会人大学院に通い「人と組織」について学びを深めました。当時勤務していた会社で「次世代事業責任者育成プログラム」をつくることになって、圧倒的に知見が不足していた私は、前職の先輩から、ご自身が修了生である大学院への進学を勧められました。結果としてこの判断はとても正しかったと思います。そして、大学院進学によって得られた果実の中で最も大きかったのは、気持ちを一つにする6人の仲間との出会いでした。大学院入学から10年が経過した今年、コロナウィルス感染拡大による社会の激変は、この間の出来事をすべて吹き飛ばすくらいのインパクトがありました。激変の真っただ中にいる今だからこそ一旦立ち止まり、学びを深めたあの頃を振り返る意味があるのではないか。そして、過去の延長線上にはない未来を展望するのは今をおいてほかにないのではないか、との思いが湧いてきました。そこで、10年目の節目にZoom同窓会で久しぶり再会した仲間たちに提案しまして、勉強会を始めることになりました。

8月8日に行った第一回の勉強会のテーマは「在宅勤務」でした。「人と組織」への興味関心が人一倍強い私たちメンバーにとって、コロナウィルス感染の影響で、多くの日本人が満員電車に揺られて通勤するという生活が根底から変わることへの期待感、また、同時に生じる弊害や運用上の課題について深堀りする価値があると考えてこのテーマを選択しました。勉強会に先立ち、事前課題として東洋経済ON LINEの記事「「永久在宅勤務」が日本で主流の働き方になる日」を各自読んで、読後の感想を述べ合い、更にその感想に対してディスカッションしました。

この東洋経済ON LINEの記事のポイントは以下の通りです。

1、「在宅勤務」には適した人、職種があり全員には適用できないと考える経営者が多い

2、一方「在宅勤務」は当然のように会社が講ずるべき対応と考える社員が増えている

3、退職理由や再就職先の条件として「在宅勤務」が挙げられ、企業側もこれを無視できない状況になりつつある

また、勉強会終了後にはロンドン・ビジネススクールのリンダ・グラットン教授(世界的ベストセラー「ライフ・シフト」の著者)による、「在宅勤務」が働き方に与える影響について述べた、以下の日経ビジネスの記事をメンバー間で共有しました。

1、社内のヒエラルキーが薄まり本質的な「信頼関係」が重要となっているようだ

2、また、ヒエラルキーが薄まった会社において「信頼」を得られるのは、明確な目的を掲げ、高いスキルを持ち、嘘偽りのない人となるだろう

3、遠隔地で勤務が可能になり、地方へ移住する人が増えるだろう

以上を見る限りでは「在宅勤務」の広がりは不可避のように見えます。しかし、経営者の中には依然「在宅勤務」を一時的な措置と考えていて、コロナウィルス感染が沈静化するのを見計らって「在社勤務」に戻す動きも出てくるのではないかと予想します。

私は、コロナウィルス感染がひと段落した後も「在宅勤務」をどんどん広げて、大多数の人が当たり前だと思う状態にすることが理想だと考えています。その理由は、ライフイベント(出産、育児、介護、病気療養等)に際して多様な働き方をすることが出来るようになることで、仕方なく退職しなければならなかったような事例は減っていくと思うからです。また、地震等、広域災害発生時に出勤できない状況に陥っても「在宅勤務」の環境さえ整っていれば、事業継続の確実性を高めることが出来るので経営者の視点からもメリットは大きいはずです。

さらに、もっと本質的な意味では、私たちが理想の働き方を獲得するきっかけになるかもしれないと考えています。「在宅勤務」が普及し、新しい働き方の選択肢が出来たことで、自ら理想とする働き方を選択できるんだという意識が芽生えます。そして、働く人の視点に立たない企業はおのずと選別され、徐々に淘汰されていくので、社会が根底から変化するきっかけになるかもしれません。

私が、前述の考えに至ったのは、NHKの番組で立命館アジア太平洋大学の学長「出口治明さん」による学生に向けた講義を偶然目にしたからです。出口さんは、日本経済低迷の実態、背景、原因について以下の持論を展開しておられました。

【低迷の実態】
・コロナウィルス感染拡大前の経済成長率(予想)
中国6% 米国3% EU2% 日本1%
・平成の30年間で日本が世界GDPシェアに占める割合は9%から4%に低下
・平成元年に世界トップ企業50社に占める日本企業は20社あったが現在は0社
・一人当たりGDPは世界26位にまで降下

【低迷の背景】
・日本ではGAFAのようなユニコーン企業が生まれなかった
・GAFAはサービス企業であり、サービス企業の顧客の70%は女性
・日本企業は依然として男性優位(文化的、制度的(配偶者控除、年金制度等)背景から)
・50代、60代の男性が重職を占め意思決定している企業が多い
・そのような企業は若い女性が求めるサービスを産み出せないでいる

【低迷の原因】
・日本は、女性の社会的地位が153カ国中121位 先進国で女性の社会進出の低さで突出
・ダイバーシティ(多様性)が乏しい職場環境でイノベーションが生まれにくい
・慢性的長時間労働(日本2,000時間 欧州1,500時間)で学び直し(大学院進学等)にかける時間が不足

私は、直近の数年間、ベンチャー企業で採用を担当した経験から、規模の小さい会社の経営者は、出産・育児で職場を離れる可能性がある「女性」をキャリア採用するのを避ける傾向があると感じました。結果として、時間に関係なく猛烈に働くという昭和的な労働観が残ってしまうのではないかと思ったのです。そして、仕事に張り付く時間が長い男性は、それを言い訳にしているケースもあるかとも思いますが、家事や育児への参画意欲が高まらないという悪循環が生じているのかもしれません。

尚、勉強会の場では、女性と男性の仕事上での役割の性差が縮まらないのは、家庭における役割の固定化が原因ではないか、との意見も出ました。つまり、童話「桃太郎」の冒頭の有名な出だし、

「昔むかしあるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。」

という男女の役割分担のイメージが、私たちの無意識にすりこまれているのかもしれない、ということにも気付かされました。女性の立場からすれば、従来の「川へ洗濯」に加えて社会進出という「山へ柴刈り」の役割がアドオンされ、家庭の内と外の二重の役割を担わされることになった訳ですからたまったものではありません。とはいえ前述したように、外で昭和的労働を担う男性には家事や育児への協力はあまり期待できませんので解決の糸口がなかなか見つからないのです。尚、大企業を中心に男性社員の育児休業取得を促進する動きも加速していますので、前述の「悪循環」は一例であり、必ずしも一般化できるものではないことをお断りしておきます。

では、女性の家事や育児の負担を軽減する方法はないものでしょうか。参考になるのは、女性の社会進出が進んでいる東南アジア諸国で昔から普及している「メイドさん」の活用はどうか、という意見が出ました。私は1995年にシンガポール、1998年に台湾に駐在勤務しましたが、当時のシンガポール、台湾では、既に家事やオフィス清掃など、フィリピン人、インドネシア人に依存しており、この頃と比較しても今の日本は非常に遅れていると思います。入国管理法や在留資格発給条件など法律上の制約をみても、日本政府が外国人招聘に消極的だということは明らかです。ただ、マンパワー不足ではないもっと根深い問題としてあるのは、日本女性が自らも、また男性からも、家事や育児は女性の仕事だとあたりまえのように考えていて、他人の手を借りることに対する周囲からの厳しい目を気にしたり、家の中を人に見られたり触れられたくないという心理的側面があるのではないか、という意見も出ました。

以上を総合して私の考えをまとめると次のようになります。

・様々な制約はあるが「在宅勤務」を促進することにはメリットがある

・それは、女性の社会進出を阻害する要因(出産・育児+内と外の二重役割)を軽減することにつながるからで

・結果として女性の経営者や事業責任者が増え、新しいサービスが生まれる土壌ができて

・それら新しいサービスからGAFAのようなユニコーン企業が生まれる可能性が高まる

最後に、今回の勉強会では、前述のジェンダーに関するトピック以外にも、人材育成の現場で起きている「リアル研修」と「リモート研修」のメリット、デメリットや課題。また、病気療養による休職からの復職をスムーズに実施する方法等、「在宅勤務」を切り口として様々な意見がでました。そこで、これからも継続的に勉強会を開くことで仲間の意見が一致しましたので、次回の勉強会では、一旦広げた風呂敷の中から、新しい時代の「人と組織」の研究課題(リサーチクエスチョン)を見つけて継続的に研究を続けることになりました。

今後の展開については、逐一このブログで取り上げたいと思います。

人事として知っておきたい信仰のはなし

私は両親から、外では「宗教」と「政治」の話しはするなと教えられましたが、皆さんはどうでしょうか。両親の教えに背くことになりますが、とても大事な話ですので、今回は私が人事の仕事を通じて知った「信仰」に関する知識と、そこから得られる知恵について書きたいと思います。

長年人事の仕事をした人が、定年退職間際に真剣に仏教を学び退職して僧侶になったという話しを聞いたことがあります。仕事柄、従業員と向きあい、深くかかわる中で、人について、人生について深く知りたいという気持ちが強くなったからだと、その方はおっしゃっていたように記憶しています。歳を重ねる毎に信仰の大切さに気付くのは人として自然なことなのかもしれませんが、多くの従業員に接して、喜びや悲しみ、怒りや苦しみを間近に見届ける人事経験者が、若干人よりも早くその思いを抱くのは珍しくないと思います。

私は今、特定の信仰は持っていませんが、昔から関心がありました。高校生の時、吹奏楽部の部長として部活を束ねることができないと悩み、友人のお母さんに紹介してもらった浄土宗のお寺の住職から「思い通りいかない時でも心安らかに、楽しく生きる」ことを教えていただいたことから始まります。それから人生の節目節目で住職の教えを乞うて来たのですが、前のブログにも書いた通り、再就職した会社の社命で東日本大震災の被災地へ赴くことになり、その直前に住職を訪ねました。

住職「人は誰でも持っているものがある。なんだと思いますか。」

私「・・・」

住職「まごころです。しかし、まごころを使える人、つまり、心づかいが出来る人がいる反面、できない人もいます。大西君は被災地で、苦しんでいる人たちに向き合うという厳しい場面に直面することになると思いますが、常に、まごころからの心づかいをすれば大丈夫ですよ。」

2011年は4月から年末まで神奈川と被災地を往復し、住職の教えに従って被災した従業員お一人お一人のために出来ることを最優先に、まごころで接しました。そのような中、日々被災地で目にしたのは、懸命に行方不明者を捜索する自衛隊員の姿や、小学校の校庭が仮埋葬所として掘り起こされ、次々と運び込まれる棺桶と埋葬の光景でした。私は次第に信仰について考えることが多くなっていきました。

話しがさかのぼりますが、私は大学で社会学を専攻しまして、卒業論文の指導教官はN教授(当時は助教授)という方でした。N教授は、NHKスペシャル「未解決事件」に出演し、オウム真理教の特集の中で、麻原が信者を洗脳した仕掛けを、麻原から信者たちへの説法(録音)を使って解説しておられました。N教授がおっしゃるには、麻原が信者に求めた答えは「教団にとって邪魔な人間は全てポア(殺す)すべきだ」だった、と。にもかかわらず、その通りに答えた信者を敢えて無視し、あたかも別の答えがあるように信者たちに思いこませ、不安にさせることで麻原の存在を絶対化する巧みなテクニックを駆使していたようだ、とのことでした。世間を震撼させたオウム真理教は、信者の信仰を悪用した極端な事例です。

一方、私たちの身近にも、麻原と似たようなテクニックを使って従業員を操る経営者がいます。また、その影には指南役の存在があることを知っています。事業の目標を達成するために、経営者が、従業員を思いの通りにコントロールする術を身につけたい、との気持ちを抱くことは理解できます。しかし、オウム真理教の事例が証明するように、コントロールされる側の従業員の身になってみるとどうでしょうか。支配され続けた従業員は常に不安感にさいなまれ、次第に自分で考える力を失っていきます。やがて、心身のバランスを崩し、病気を発症することも多くなります。人を自由に操りたいという欲は人間の本能なのかもしれませんが、経営者として権力を揮える立場となった以上、自制心をもって部下たちと接して欲しいと思います。従業員の不安を利用して使役する手法の乱用は、従業員を苦しめるだけではなく、結局事業の発展にとっても望ましくない結果をもたらすと思っています。

ところで、韓国留学から大学に復学した私は、卒業論文を書き始めることになりました。そこで、指導教官であるN教授に「日本の経済成長の原動力となったものについて書きたい」と相談したところ、真っ先に読むように勧められた本が、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でした。当時の私には理解するのが難しい本で、その参考図書を読んでやっと理解することが出来ました。主旨は以下の3つです。

①カトリック信徒に対してプロテスタント信徒(クリスチャン)は、神様との一対一の直接的関係を重視する。神様の存在を四六時中意識していて、自らの言行のすべてを、神様の望まれることと、その栄光の実現という目的に一致するようと努力する。

②①の結果、プロテスタント信徒は独自のエートス(本人の自覚しない性向(内面的原理))として3つの態度(生活態度、心的態度、倫理的態度)もつに至った。そして、このエートスは、偶然、資本主義の拡大原理(利潤を再投資してさらに利潤を増やす)と一致した。

③よって、プロテスタント信徒が多い国、地域は、カトリック信徒のそれよりも経済的に発展した。

16世紀のドイツは、マルティン・ルターによる宗教改革(カトリックの免罪符批判からドイツ農民戦争に発展)を起点とするプロテスタント発祥の地です。「プロテスタント」とは、農民による抵抗活動(プロテスト)が由来となっています。現在、ドイツ南部を除きプロテスタントが多いドイツはエートスが最も浸透している国と言えるのではないでしょうか。

マックス・ウェーバーは、社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。特に、人間の内面から人間の社会的行為を理解しようとする「理解社会学」の提唱が挙げられる。(Wikipediaより抜粋)

余談ですが、私の卒論のテーマは、「日本の経済成長の原動力となったものを見つけること」だったと書きました。そこで、プロテスタントのエートスに相当するものが日本にあるかを調べたところ、マックス・ウェーバーに影響を受けたとされる、東京大学教授だった丸山眞男が「日本政治思想史研究」という本の中で、「儒教」それも「荻生徂徠の朱子学」が資本主義の原理と一致したと述べていることを知りました。なぜ、「朱子学」が資本主義の原理と一致したかについては別の機会に勉強し直してみたいと思います。

大学を卒業して、私のプロテスタントに関する知識は、前述の教科書的学習の域を出ないまま深まることもなく、徐々に関心も薄れていきました。月日が流れ、2019年に大分の半導体関係の商社で勤務することになり、同僚の韓国人Lさんと出会い、親しくお付き合いするようになって、予期せずプロテスタントのエートスを目の当たりにすることになりました。Lさんご夫妻は、敬虔なクリスチャン(プロテスタント)だったからです。

韓国統計庁が2005年に発表したところによると韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%である。すなわち総人口のうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%となっている。(Wikipediaより抜粋)

韓国では、その歴史等何らかの条件がキリスト教の世界観と一致したことで信者が増え、さらに独特の信仰態度が形成されていったのかもしれません。ちなみに、日本のキリスト教信者数の概数は105万人で、対人口比で0.83%(東京基督教大学の日本宣教リサーチ(2018年))に過ぎず、その差は歴然です。

私とLさんご夫妻の関係は、私が人事としてLさんの採用と受入れを担当したことから始まりました。Lさんは流暢な日本語を使われるのですが、奥様は来日当初、日本語を解せなかったことから、私たち三人の会話は自然と韓国語中心となりました。あと、Lさんご夫妻は中国で生活経験があり中国語が出来ますので、私の妻(台湾人)が会話に加わる時は自然に中国語になります。

さて、私がLさんご夫妻の大分での生活立ち上げのお手伝いや相談に乗るうちに、自然と三人一緒に過ごす時間が長くなっていきました。そして私は、Lさんご夫妻の姿を拝見して、クリスチャンとして大切にしている神様との関係や祈り、他者に向けられる感謝やあわれみといった感情を伺い、また質素倹約な暮らしぶりと身の回りで起きることをありのままに受け入れてベストを尽くすという態度に、次第に感銘を受けるようになっていきました。

今、Lさんは会社を退職し、ご夫妻で大分市内のプロテスタント教会で暮らしています。後で知ったことですが、Lさんはかつて大企業の猛烈サラリーマンで、ある時奥様の勧めで教会に通い信者となり、神学校で牧師の免許を取得後、会社を退職されたそうです。今は、教会の主任牧師O先生と一緒に、協力牧師として信仰に満ち溢れた充実した生活を楽しんでおられます。

そんなLさんと私は、毎週土曜日の午前中にZOOMミーティングをして、一週間の出来事や関心事をシェアし、さらにLさんには私の疑問に答えて頂いています。私からLさんへの質問はもっぱら「今を生きる私たちが聖書から学べること」でして、Lさんは、その一つ一つに対して丁寧に説明をしてくださっています。週一回、牧師さんから直接話しを聞けるというのはなんと贅沢なことでしょう。

私が、Lさんから教えて頂いたことの中で特に深く心に刻まれたのは、

「神様の御心にかなうことをする=神様に喜んでもらうことをする」

という言葉です。

例えば、困っている人に対してあわれみの感情をもち手を差し伸べるのは、その人から感謝されることが目的ではなく、それが、神様が求めている行為であり神様に喜んでもらうことが目的なのだと。そして、神様に喜んでもらえる行いは、全て聖書に書かれていますよ、と教えて頂きました。私は今、Lさんに勧められて毎日聖書を読み進めているのですが、私なりに「神様に喜んでもらう行いとは何か」について理解が深まって来たように感じています。

ひとつはっきりしていることは「自身の非力を受け入れる」こと。そして、大いなるものの存在を信じて、その下でひたすら「恩恵を授けてもらえるような行いをする」ことです。

私が理解した「信仰が持つ力」とは、直面する全ての物事を自分の力だけで解決しなければならないという囚われ、つまり「自己責任論」から自身を解放してくれる鍵です。そして、コロナウイルスの感染拡大や、気候・地殻変動による自然災害の発生など、混とんとして先が見えない時代を生きる私たちにとって、益々重要になってくるのではないかと予想しています。

カレーライスはお好きですか?

日本大使館を巻き込み、工業団地管理局にプレッシャーをかけて、就労許可が正常に発給され始めたことを受け、私はもう一つの問題である、某韓国企業から差別を助長すると指摘された2つの食堂(日本人出向者用とベトナム人従業員用)の扱いをどうするか、あれこれ考えを巡らせました。

仮に、そのままS社の要求に従い、日本人出向者用食堂とベトナム人従業員用食堂を統合しようとすると、日本人出向者だけではなく、日本からの出張者(本社役員含む)からも不評を買い、私は引き続き仕事をさせてもらえなくなるであろうことは容易に想像できました。かといって、当時某韓国企業はベトナム工場にとって唯一といってよい程の重要顧客で、その顧客から「継続して取引を望むならば必ず解決するよう」正式な要求をされてしまった以上、必ず対応しなければなりませんでした。解決できない場合、私は、職責を果たせないことを理由に、引き続き仕事をさせてもらえなくなることも想像できました。

いよいよ某韓国企業による再監査まで1ヵ月を切り、これは絶体絶命のピンチと、食いしん坊の私には珍しく食事がのどを通らなくなり始めていたちょうどその時、思いもよらぬところから解決のヒントを得ることが出来ました。

以前のブログで、私は食堂の責任者として、日本人出向者から、ことあるごとに日本人出向者用食堂で提供する食事の献立や味、量などに関するクレームを受けていたと書きました。ちょうどその日の昼食は週一回のカレーライスの日だったのですが、ある日本人出向者から、「量が少なすぎる」とクレームを受けたのです。「思う存分おかわりをしてください」と言いたいところでしたが、それが言えない事情がありました。というのも、日本人出向者用食堂の食材、調味料等は日本製が多く、ベトナム人従業員用食堂とは別ルートで調達しているものがほとんどで、事前に申し込みがあった人数分だけ用意するよう工夫して運用しなければならないほどコストが高く、そうとも言えず困っていました。その時、ふと頭に浮かんだのは、日本人出向者とベトナム人従業員が一緒にカレーライスを食べている光景でした。

部下のベトナム人従業員にそのことを話したところ、

部下「大西さん、日本人はカレーライスが大好きですよね。でも、ベトナム人は香辛料が効いた食べ物はほとんど食べないんです。だから、カレーライスを食べないと思いますよ。」

と言われてしまいました。

しかし、私はそれでも試してみる価値はあると思い、ルー以外は全てベトナム人従業員用食堂で使っている食材で自らカレーライスを試作してみました。そして、これは日本人出向者用食堂で提供しているカレーライスと遜色ない状態となったことを確認した上で、60人分ほどのカレーライスを用意し、日本人出向者用食堂と、ベトナム人従業員用食堂と両方で同じものを出してみました。

日本人出向者には、某韓国企業による監査結果を受けた対応であること。また、カレーライスの量が少ないとのクレームへの対応として大盛りで食べることが出来ることを説明して、ベトナム人従業員食堂で、部下たちと一緒に食事をしてみてはどうかと勧めました。ベトナム現地法人社長Wさんはじめ、何人かの日本人出向者は私の勧めに応じて、これまで昼食時にはほとんど立ち入ることが無かったベトナム人従業員用食堂に来てくれました。そして、大盛りのカレーライスを食べて「美味しい」と言ってくれました。

肝心のベトナム人従業員の反応は、というと、これまで食べるどころか見たこともない食べ物だったからでしょう、最初は素通りしていつも通りのベトナム食を手にとっていました。しかし、そのような中でも、留学など、日本での滞在経験がある従業員数名は、「カレーライスなんて久しぶりです。嬉しいです。」と言ってくれて、美味しく食べてくれました。手ごたえを感じた私は、毎週水曜日は「カレーの日」と定め、ベトナム人従業員用食堂で日本人出向者も、出張者も、ベトナム人従業員も一緒に食事をすることを目論みました。

その狙いは当たり、回を重ねる毎にカレーライスを食べるベトナム人従業員は増えていきました。労働組合の委員長Hさんは、「こんなにおいしい社食の食事は初めてです。」と本当に喜んでくれました。そして、日本人出向者も数名を除いてベトナム人従業員食堂で一緒にカレーライスを食べるようになりました。

この数名の日本人出向者は、日本人出向者用食堂を決して出ようとはしませんでした。彼らがかたくなにベトナム人従業員と一緒に食事をすることを避けた理由を質問したところ、「ベトナム人従業員食堂はきたない」とか、「日本人出向者用食堂は冷房が効いて快適なので出たくない」といったような返答でした。私は、彼らと同じ出向者として、暗澹たる思いがしました。このような人物に、果たして異文化に囲まれた中で部下を動機づけて成果が出せるのだろうかと。仕事が出来る出来ない以前の問題として、人としてどうなのか、と疑問を抱かざるを得ませんでした。

人事の世界では長らく、「グローバル人材」というスローガンが掲げられ、海外でも持てる能力を存分に発揮して成果を上げることができる人材をどれだけ確保できるかが日本企業の課題だと言われています。しかし、見落としがちな視点として、このような、「自分さえ良ければよい。」というエゴを、どのように戒めるのか、律するのか、ということがあるのではないかと思いました。

私は、某韓国企業に対して、次回の監査は水曜日(カレーの日)にして欲しいとお願いしました。そして、できれば昼食を一緒にとって欲しいと要望しました。彼らは快く応じてくれまして、その日を迎えました。私は、ベトナム人従業員用食堂で監査担当者と以下の会話を交わしました。

私「日本人出向者用食堂は、もともとお客様(VIP)用食堂です。そして、現時点では、ベトナム人従業員用食堂では、お客様が好まれるような献立(和食、洋食等)に対応することが出来ないため、廃止が難しい事情があります。しかし、今回、日本の国民食であるカレーライスを提供したように、徐々に日本食の献立を増やしていき、日本人出向者とベトナム人従業員が一緒に食事が出来る時間を増やしていくことをお約束します。これは、御社の食堂を見学させていただいて、韓国食が提供され、韓国人もベトナム人も一緒に食事をしている様子を見たことからヒントを得ました。そして、食堂業者も御社に合わせ変更しまして安心安全な食事を提供する体制が整いました。」

監査担当者「このカレーライスはとても美味しいですね。従業員の皆さんも喜んで食べている様子がうかがえます。前回の監査では、日本人とベトナム人が完全に仕切られた空間で別々に食事をしていたので、これで正常な職場運営が出来るのだろうかと不安に思ったんです。でも、今日の食事の様子を見て安心しました。引き続き食堂の改善に努力されることを期待しています。」

監査担当者は、再監査の結果、改善要求に「合格」と判断してくれました。根本的解決こそできませんでしたが、なんとか取引中止になるような事態だけは避けることが出来てほっとしました。

ここまで、数回に分けて、食堂不正の疑いへの対応、そして某韓国企業による食堂改善要求への対応について書きました。ここで言いたかったことは、ベトナムでは日々、日本では想像もできないことが繰り返し発生しているということです。そして、これらのほとんどは、実際に現地に出向、駐在勤務しなければ分からないことばかりだということです。いま、チャイナリスク回避でベトナムに多くの日本企業が拠点を移す、または新設する動きが加速しています。そのような企業では、日々、現地の出向者、駐在員から日本側本社へ、にわかには信じがたいような報告や相談が寄せられているのではないかと想像します。そのような時に、先入観なく、ありのままを懐深く受け入れて、一緒に解決の方法を考えてくれるような本社スタッフが一人でも増えて欲しいと、祈るばかりです。私は、そのような人材こそが「グローバル人材」への登竜門だと考えています。

ありがとう!日本大使館 & 本社人事Sさん

今回は、前回からの続きで、日本人出向者の就労許可をめぐる工業団地管理局とのやりとりについて書きたいと思います。

その前に。。。このブログを読まれた方の中には、不正は悪いことだと分かるけど、なぜ私がこんなにムキになったのか不思議に思われた方もいらっしゃったのではないかと思います。私自身、記憶を頼りにこの文章を書いていて、我ながら「サラーリマンとして常軌を逸していたな」と思ったりもしました。しかし、私の中には「不正は正さなければならない」と考えた、明確な二つの理由があったのでした。まず、そのことについて書きたいと思います。

一つ目は、かつて仕えた経営者から、事あるごとに「違法行為は絶対にするな」と口酸っぱく言われていた、ということがあります。私は、その会社の台湾現地法人に出向して管理部門を主管したので、仕事柄特に厳しく指導されました。台湾はいまでこそ民主化が進み、日本がお手本にすべきことも多いと思うのですが、私が着任した1998年当時はまだまだ、すべての法律の細部まで完璧に従おうとすると、現実問題として、とても運用が追い付かないという状況でして、詳しくは別の機会に書きたいと思いますが、そのような台湾的フレキシビリティが必要と思われるときでも、その経営者からは常に「合法的手段に則れ」と命じられたのでした。

今振り返ると、その言葉は本当に正しかったと思います。何故なら、もし「台湾の状況に合わせて柔軟に対応しろ」と命じられたなら、短期的利益を追求するあまり、中長期的視点で物事を考えることが出来なくなってしまっただろうと思うからです。事業の継続を通じて将来にわたる利益を最大化しようとするならば、後々になっても決して後ろ指をさされるような行為をするべきではない、という宣言が「合法的手段に則れ」だったのではないかと思います。その後、同社は台湾での事業規模を大きく伸ばして現地で上場を果たし、優秀な理数系学生が競って入社を希望する有名企業に成長、発展しました。

二つ目は、2011年3月11日に発生した東日本大震災で被災し、仕方なく退職していただいた元従業員の人たちに顔向けできないようなことはしたくない、という思いからでした。私は、神奈川の電子部品メーカー(ベトナム工場と同じ会社)に、震災発生直後の2011年4月1日に入社しました。この会社には、東北3県に工場があり、そのうちの一つは海沿いの工業団地に位置していたため津波の直撃を受け操業再開不能に陥り、さらに従業員もお亡くなりになるという最悪の事態に直面しました。また、別の工場は東京電力第一原発から約20キロメートルの位置にあったことから、事故発生時、全従業員が避難し、その後も避難場所を転々として、最後は神奈川の本社まで逃げてきたという経緯があります。この工場はその後約半年間に渡り操業停止を余儀なくされ、従業員も放射線の健康への影響におびえながらの生活を余儀なくされました。

私は、入社日に、管理部門管掌役員である常務取締役Sさんから呼び出され、「君には被災地へ行って従業員の雇用調整をしてもらう」と命じられました。従業員の中には津波で自宅が流され、家族や親類が犠牲になった人も多くおられて、そのような悲しみに打ちひしがれる人々に対して、会社が当地での事業継続断念を決定したことを理由に「退職同意書に署名してもらう」という困難な仕事を命じられたのでした。さらに、当然のことながら、従業員から一切の訴えを起こされず、且つ、マスコミへの情報リークなどにより当社の信用を傷つけることも生じさせてはならないという条件も付いていました。

「全ての対象者から退職の同意を取り付けるのは生半可なことではできないと思うが、何とかやりぬいて欲しい」

と話す常務取締役Sさんの表情は今でも忘れられません。この仕事を命じられた翌週、私は東北に赴き、様々な活動を展開して、結果として一切の問題も生じさせず、同年12月24日に任務を完遂しました。今振り返ると、役割をまっとうすることができたのは、私が従業員一人一人とまごころで接し、絶望の中にあるその人に少しでも幸せになってもらうことを考え、真摯に向き合ったからだと思います。ただそれ以上に、会社を自ら去る決断をしてくれた彼らが、私のことを、仕事とか役割といったことを超えて、一人の人間として信じて受け入れてくれたことの方が大きかったと思います。彼らと向きあう中で知ったこと、見たこと、聞いたことを、私は一生忘れないと思います。そして、震災という大きな困難を経て事業を継続しているこの会社に残された私は、不本意ながらも退職に同意した人たちの分まで、真面目に働かなければならないと決心したのでした。そのような感覚から、ベトナム工場で目にした、様々な不正行為を到底看過することは出来ないと決心したのです。

さて、話しを元に戻します。工業団地管理局が突然、当社の日本人出向者の就労許可発給を止めると通達してきたのは食堂変更を強行したことへの報復と私は受取りました。ちなみに、申請中だった3名の内1名は私自身でした。このまま就労許可が発給されないと、私は1ヵ月以内に滞在資格を失いベトナムから日本に帰任せざるを得なくなるという状況に追い込まれました。

そのような中、本社人事の係長Sさんが、私が苦境に立たされていると知ったのでしょう。心配して電話をかけてきました。彼のアドバイスは「日本大使館に相談してみては」というものでした。大使館には在留邦人に対する相談窓口があり、電話番号も公開されています。私は、藁にもすがる思いで大使館に電話をしました。受付のベトナム人女性が日本人駐在官に取り次いでくれました。私はこの間の出来事をありのままに話しました。その方は事情を一回で完全に理解してくれまして、直接会っていただくことになりました。私は、経緯をまとめたレポートと、証拠資料を手にハノイの日本大使館に向かいました。

面会に応じて下さった方は、東京の警視庁から外務省へ出向し、大使館に駐在中の警備担当駐在官でした。後で知ったのですが、大使館には防衛省や、経済産業省など、様々な省庁から派遣された駐在官が勤務しており、ベトナムの状況について情報収集し日本に報告する役割を担っているようです。この警備担当駐在官は、まず私の行動について深く理解を示し、従業員第一、健全な事業の実現のために行動している私のことを無条件で認めてくださいました。そして、出来る事は協力を惜しまないと約束してくださいました。

余談ですが、ベトナムには公安省という日本の警視庁、警察庁、公安委員会を一つにしたような巨大な警察治安組織があり、2つの機関(警察機関、治安機関)に分かれています。前者は、一般刑事事件を扱い、後者は国家の安全保障にかかわる犯罪を扱います。さらにその傘下には交通公安、経済公安等、担当部局が細かく区切られていて、それぞれが職権をまたいで活動することはありません。この警備担当駐在官は、どの部局にはどのような人がいて、その職権と権限、また不正への関与もすべて把握していて、その中には私が頻繁に面会を重ねていた人の名前もあり、「ああ、その人は信用できますよ」とか「この人は避けたほうがよいですね」などと詳しくアドバイスをしてくれました。

そして、核心の、工業団地管理局が当社への就労許可発給を止めているということについて、別のルートで就労許可申請が可能であることを教えてくれました。通常、外資企業が本国から社員を招へいする場合は、「計画・投資省(日本の経済産業省に相当)」の傘下である工業団地管理局を通じて就労許可申請をするのが一般的ですが、「労働・傷病兵・社会問題省(日本の厚生労働省に相当)」でも就労許可発給権を持っていることが分かりました。警備担当駐在官は、「私からも連絡をしておくので、そちらで申請をしてみてはどうか」と勧めてくれました。大使館がこんなに頼りになる存在だとは知りませんでした。本社人事の係長Sさんにも感謝、感謝です。

私は、早速、新規出向者3名分の就労許可申請を「労働・傷病兵・社会問題省」のハノイ事務所に持ち込み受理してもらいました。就労許可が発給されるまでヒヤヒヤものでしたが、無事発給されました。私は、就労許可発給をじらす工業団地管理局に対して対決すべく、重要ポストの二人に会食を持ち掛け、その場で一気に解決する作戦を立てました。

私から会食に誘われた二人は、恐らく私が就労許可申請を受理して欲しいと頭を下げに来たと思ったのでしょう。終始笑顔で上機嫌でした。私は二人が大好きだという日本酒の熱燗をどんどん勧めて、二人も私も酔いが回って盛り上がっているときに切り出しました。

私「ところで、当社が申請している就労許可ですが、受理していただけないと聞きました。このままですと私も日本に帰任することになりますが、どんな状況ですか」

役人「就労許可は日本人が多すぎるからです。でも、こちらも絶対に受理しないとは言わない。私たちの要望を受け入れてくれれば対応します」

つまり、役人が求めているのは「お金」です。私は、次のように切り返しました。

私「それでしたら、全ての申請を取り下げますので、申請書類を当社まで返却してください。その代わり、私は日本大使館に連絡して、ベトナムの発展のために尽力している我々の活動が滞っているという訴えをします。それでもよろしいですね」

役人は、私が申請を取り下げると言い出すとは全く予想していなかったのでしょう。そして、日本大使館にこのことが知られてしまうことに非常に焦ったのでしょう。急に狼狽し、酔って真っ赤だった顔が青ざめたように見えました。ベトナムは、特に社会インフラの整備を日本のODA(政府開発援助)に大きく依存しています。大使館の知るところとなれば関係機関からお咎めを受けるどころか、国と国との関係にも影響を及ぼしかねません。二人の役人は、一気に酔いから覚めた様子で慌てて店を出ていきました。そして翌日、工業団地管理局から申請中だった、私の分を含む3名の就労許可が下りたと連絡がありました。余談ですが、この役人二人は交通事故で死んでしまったことを風の便りで知りました。

さて、私にはもう一つ解決しなければならない問題(某韓国企業から差別を助長すると指摘された2つの食堂(日本人出向者用とベトナム人従業員用)への対応)が残っています。私がどのように解決したかについては次回書きたいと思います。