産労総合研究所「企業と人材」誌に2007年12月号に執筆した記事「人と組織を進化させるチェインジエージェントになる」の原稿を数回にわたってご紹介します。今回は、3回目です。
3・教育担当者の留意点-学習性無力感の教え
新しい時代の教育を考える上で参考になる理論として「学習性無力感」の理論があるので紹介しよう。
学習性無力感とは、米国心理学者であるM.セリグマン(1943~)によって発表された心理理論であり、教育に携わる者にとっては、多くの教訓を示してくれている。
1.心理学を志す
セリグマンは、13歳の時に、父が病気により体が麻痺すると同時に、うつ状態となり、不幸な晩年を送ったことを契機に、父親のような人たちの助けとなりたいと思い、心理学を志すようになり、1964年、ペンシルバニア大学の大学院に進学した。
その頃の、心理学は、”行動主義”と呼ばれる考え方が主流となっていた。
行動主義とは、「おおよそ、生物は、”刺激→反応”のパターンを観察、計測し分析することで、その行動を説明し、コントロールすることが出来る。」と言う考え方に基づいた心理学である。
現代では、生命は、そのような単純なものではなく、”刺激→有機的存在→反応”と言う複雑なプロセスを経て主体的かつ個性的な行動をする存在であると言う考え方が主流であり、行動主義心理学は、心や意識を無視し、主体性をないがしろにしているとの理由で批判されることが多いのだが、当時は、一種の暗黙の規範のように、「”行動主義的”な考え方でなければ心理学ではない。」と言えるほどの強い権威を持った考え方だったのである。
2.きっかけとなった心理実験
セリグマンが、進学時に大学院で行われていた実験も、まさにこのような”行動主義心理学”に基づいた実験だった。
実験は、「パブロフの犬」に代表される条件付けの実験であり、犬に”刺激→反応”のパターンを学習させることを目的とした実験だったのである。
実験は、3段階で構成されており、まず、第一段階として、”高い音”をならした直後に電気ショックを与えることを繰り返し、犬が、高い音と不快なショックを結びつけるようにして、後で、犬が音を聞いただけでショックを受けたときと同じように恐れて反応することを学習させると言った条件付けを行なう。
第二段階として、犬は、シャトルボックスに入れられる。シャトルボックスは、2区画に仕切られ、間に低い仕切り板があり、犬が望めば、飛び越えることが出来る高さとなっている。
実験は、シャトルボックスの片側にいる犬に、電気ショックを与えるが、仕切り板を飛び越えて、隣室に入るとショックが止まることを繰り返し、「電気ショックが起これば、仕切り板を飛び越え、隣室に入ると、ショックを止めることが出来る」ことを学ばせることだ。
そして第三段階は、電気ショックを与えずに、高い音がなれば、音だけで仕切りを飛び越えることができるかどうかを試みることが実験企画の全体の内容だった。
セリグマンが、大学院に進学したそのときに、ちょうどこの実験が行われていたのだが、実は、実験はもくろみの通りに進んでおらず、諸先輩が、困惑しているところだった。
第二段階において、犬は、電気ショックを与えても、ただ鼻を鳴らしているだけで、ショックから逃げるために、シャトルを仕切る板を飛び越えようとせずに、ただ座り込んでいたのだった。
その時、セリグマンは、犬の様子を見て、「父のうつ状態」と似ていると直観した。
セリグマンは、この実験の犬は、どんなに逃げても、この電気ショックからは逃れられないことを理解し、無力感にさいなまれ、うつ状態になったのではないかと考えたのだ。
3.学習性無力感
セリグマンのこの直観は、行動主義心理学に教化されていた諸先輩からは、「勘違いだ」「動物が、そんなに高度な精神活動はしていない」と否定されたが、セリグマンは、めげずに、実験を繰り返し、ついに「動物であっても、自分でコントロールできない避けがたい出来事を多く体験すると、無力感を学習し、無抵抗なうつ状態になる」ことを論文で発表することになった。
この論文は、支配的だった行動主義の考え方に強烈な一撃を加えることになり、当時の心理学会に大反響を与えることになったのである。
犬が体験したうつ状態は、後に「学習性無力感」と呼ばれ、このセリグマンの考えは、広く一般に認知される心理学の理論となった。
4.学習性無力感の教え
学習性無力感は、ある意味、「”あめとムチ”で他者をコントロールしようとする試みは、決して教育にはつながらず、結局他者をうつ状態にしてしまうことにつながってしまう」ことを証明する理論でもあると言えよう。
学習によってうつ状態になるとは、なんと皮肉なことだろう。
人は、自分らしく輝いているときには、想像もつかないような大きな仕事をやり遂げる力があるけれども、うつ状態に陥れば、考えられないような失敗や問題行動を起こしてしまう可能性があるのだ。
厳罰によって従業員の行動を教育しようとしたJR西日本の尼崎における大事故は、そのことを象徴しているようにも思える。
我々も、そのつもりはなくとも、生産性やパフォーマンスの向上の名のもとに、知らず知らずのうちに、学習性無力感を引き起こしてはいないだろうか。教育の仕事に携わる我々は、この実験結果と理論を厳粛に受け止めなければならない。真剣に自分自身のあり方、教育スタイルを見直す必要があると私は考えている。
本当のところ、人は、パンのみにて生きているわけではない。人は、やはり、やりがい、愛、情熱、喜び、価値ある人間性や美徳のためにこそ本気になれるのである。そして、人は本気になったら、どんな人でも、想像をはるかに超えたすばらしい仕事をやり遂げることができる。人は、すばらしい力と可能性をその内面にまどろませており、開花できるチャンスを今か今かと待ち構えているのである。
厳罰や脅しによって管理しようとする時代はもはや終わった。ディスクローズの時代、大容量の情報がやり取りされる高度情報化社会においては、操作や隠し事、鞭は通用しない。むしろ、そのような試みは、自らの首を絞めると同時に、すばらしい未来への可能性の芽をつんでしまうのだ。
我々は、なんとしても人や組織の無限の可能性や潜在性に光を当てていく必要がある。そのためにも、本当に人を大切にする教育、人を思いやる教育、人が自分らしく輝いて活躍し、力強いキャリアをはぐくんでいく後押し、支援ができる教育を実現する必要があるのだ。