カテゴリー別アーカイブ: ①哲学

“私“とは ②「私は私、他の誰でもない」っていう気持ちはどこから来るの?

③左脳の作る「私」という物語
 誰もが、「私は私、他の誰でもない」と考えています。私という人格は一つであるという感覚は、当たり前で普通でとてもとても強い感覚です。ですので、「私は一つの人格ではなく、複数の人格の集合体」と言われると、強い抵抗を感じてしまうでしょう。複数の人格の集合体としての自分を実感できないのです。
 では、どうして、私たちは、自分を自分だ、一つの人格で、他にはないと感じるのでしょうか。現実的に複数の人格の複合体として存在しているとしたら、それらを私たちはどうやって統合し、一人のようにふるまっているのでしょう?
 この問いに対するヒントも、分離脳研究の実験が示唆してくれています。

 分離脳患者の左目と右目に同時に異なる2枚の絵を見せます。右目(左脳)には「ニワトリの足」の絵を、左目(右脳)には「雪景色」を見せるのです。続いて、患者に見た絵と関連するものをそれぞれの手で選ぶように指示します。すると、右手(左脳)は「ニワトリ」の絵を選びましたが、左手(右脳)は「ショベル」の絵を選びました。なぜその絵を選んだのかを尋ねたところ、右手(左脳)が選んだニワトリに関しては、「簡単なことですよ。ニワトリの足だからニワトリにしたんです。」と答えました。それでは、左手(右脳)が選んだ「ショベル」に関しては、どう理由を説明したのでしょう?被験者は、こう言ったのです。「ニワトリ小屋の掃除にはショベルを使いますからね」
 質問に答えている自分(言語野のある左脳)は、右脳が見た雪景色が分かりません。だから、右脳がショベルを選んだ正確な理由はわからないのですが、無理やりその理由を作り上げたのです。

 他の実験では、右脳に「歩け」というカードを見せると、被験者は立ち上がり部屋を出ていきました。右脳は指示を受けて直ちに行動を起こしましたが、左脳はそのプロセスが分かりませんので、自分の行動を説明できないはずです。しかし、その後医師が「なぜ部屋を出ていったのですか?」と問うと、「のどが渇いたのでコーラを取りに行ったのです」と答えたのです。

 ここで注目してもらいたいことは、両方の事例ともに「分かりません」とは答えなかったことです。左手がショベルを選んだ理由は左脳はわかりませんし、部屋を出ていった理由は左脳はわかりません。しかし、その理由を問われると、ただちに、つじつまの合いそうな上手な理由を後付け作り上げたのです。
 左脳には、こうした雑多な情報を関連付けて一連の物語として出来事を把握していきたいという強烈な衝動があると考えられています。そして、その働きをするシステムを「左脳のインタープリター(解釈装置)」と呼びました。

 インタープリター機能は、自分の中に起こる情動、感情の後付けの解釈にも発揮されます。ある女性の分離脳患者の左目(右脳)に男性が燃えさかる炎に飲み込まれるビデオの一場面を見せた後で、何が見えたかを聞いたところ「白い閃光が光っただけで、何だったかわかりません」と答えました。さらに気分の変化を聞いたところ「理由はわかりませんが、恐ろしく、落ち着かない気持ちです。この部屋が悪いのか、はたまた、先生のせいなのか…。」彼女は、後にスタッフの一人にこう語ったそうです。「ガザニガ先生のことは好きですけど、いまはなぜだか怖く感じます。」
 この事例からは、右脳の感じる不安や恐怖感を、左脳は、自分が知っている事実(怖い気持ちがある、ここにはザガニガ先生しかいない)を組み合わせて自分が納得しやすい形で理由付けし、心の安定を保とうとしている様子がうかがえます。
 つまり、人は、自分の内面で起こっているさまざまな反応、自分の中の小さな自分の表現、たくさんの声や要望を、左脳のインタープリター(解釈装置)の機能によって後付けで一連のつじつまの合う物語として統合させて、他者に対して自分の物語として表現していると考えられています。「私」という統一感や感覚は、この左脳のインタープリターによって支えられ、作られているのではないかと考えられているのです。

④左脳の私は本当の私ではなく、私のスポークスマン
 前述の通り、分離脳研究の成果として、他者に向き合うときに浮かび上がってくる私という意識は、左脳のインタープリターによって作り上げられていることが分かってきました。
 ただ、左脳が織りなす私の物語は、左脳以外の私の多くの部分が体験している真実でもなければ、起こっている事実と必ずしも一致しているわけではありません。左脳は、“私”として生き残るため、対外的な“私”の体面を保つためであるならば、思い込みや勘違いを気にしませんし、時には捏造やでっち上げですら厭わないのです。
 なぜならば、左脳のキャッチできる情報は、右脳などの他の部位が起こした反応の結果であり、そこが見たもの、感じたこと、気持ち等の真相、真実は分かりません。ですので、左脳は、ありのままを知ってそれを整理しているのではなく、理由はわからないけれども自分が起こしてしまった出来事を、つじつまが合うように後付けで解釈しているだけだからです。左脳には、そうした自分を保つため、自分を守るため、問われたら説明できるようにするための仮説化や合理化の強烈な衝動があるのです。

 ここで一つ確実なことは、左脳の解釈している私は、言葉の鎧をまとうための私であって、決して真実の私ではないということです。左脳の解釈する私は、「今ここのありのままの私」ではありえません。なぜならば、いつも後付けだからです。
 起こったことを言語化すること自体が今ここのリアリティと同時ではなく、必ずリアリティの後のプロセスとなる上に、言語化された断片的な情報をもとにつじつまを合わせるべく物語化するので、時間的にも空間的にも作られた物語はありのままの現実ではありえないのです。

 また、私には、多様な側面があります。左脳と右脳、身体と感情と思考、さまざまな側面が織りなす私という場、まるで私という場は、たくさんの人たちが働く会社のようです。
 もし私という存在を会社に例えるとしたら、左脳の私は、決して社長ではありません。なぜならば、社員のことをよくわかっていないからです。社員がほんとうに見たこと感じたこと気づいたことを感知せずに、見たいものだけを見て独りよがりで解釈してしまう人は、社長とは言えませんよね。

 左脳のインタープリターは、脳梁が切断された後で、右脳と離れたことを寂しがったり懐かしがったりすることはありません。右脳からの膨大な情報が遮断されたのでそれに気づいてもよさそうなものですが、何も問題を感じないし、逆に好調であると主張します。ですので、脳梁の切断以前から右脳の存在を感知していなかったと考えられます。
 右脳からの情報は、問題が起こっている時だけ関心を向けるだけで、普段はいてもいなくても知ったことではない、感知しないのです。どうやら左脳の関心は、私の内面で何が起こっているかを理解することではなく、対外的な脅威からわたしを守り、わたしを維持し、表現することのようです。
 業績や人からどう見られるのかの外見ばかりに気を取られて、社員に興味や関心がなく、いなくなっても何とも思わない、そもそもそこにいることすら分からないほど社員に関心がない人は、社長とは言えませんよね。

 左脳の私は、言葉を通して他者とコミュニケーションをとることができるので、自分そのもののように感じますが、決して本当の私ではありません。なぜならば、本当の私が見て聞いて感じたことは、左脳の私が言っていることと一致していないからです。それは、あくまでも、対外的に自分というあり方を守り、表現するための言葉の鎧であって、自分そのものではありません。それはあたかも、会社のスポークスマン、広報部長のような存在なのかもしれません。

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“私“とは ①私の人格は一つではない

 当社では、自尊心をもつことは、自分らしく輝いて生きていく上でとても大切な要素であると言わせていただいております。しかし、その自尊心や自分を信じるの対象となっている“私”って、どういうことなのでしょうか?

 私とはいったい何を指すのか?私と他の境界ってどこなのかについては、さまざまな検討がなされており、実は、明確な答えは出ておりません。

 今目の前にある水は、私ではありませんが、飲んでしまったら私になります。暑くて汗をかいたときの汗は、私なのでしょうか?私じゃないのでしょうか?今、部屋に存在している空気は私ではありませんが、呼吸によって吸い込むと私になります、また、息を吐くと部屋に戻って私じゃなくなります。では、部屋のどこまでの空気が私でどこまでが私じゃないのでしょうか?

 こうして考えると、自分の存在や、自他の境界と言うものは、思っている以上にあいまいになってしまいます。

 これは、哲学的、宗教的テーマにもなっている重くて大きなテーマであり、いまだ一般的な共通認識としての科学的な答えは見つかっておりません。

 ただ、心理学的にとらえた“私“について、大脳生理学や心理学の進化発展によって、ずいぶん解明されてきたことがあります。

 本シリーズでは、心理学的な立場から見た“私“について、探求していきたいと思います。

 なお、本シリーズは、当社から出版しております電子書籍“To be a Hero”からの抜粋となっております。

1.「私」の人格はひとつではない
①分離脳研究
 分離脳とは、右脳と左脳をつなげる脳梁を切断し、左右の脳の情報のやり取りをできなくさせた状態のことを言います。
 脳梁の切断は、癲癇の治療として1940年から行われている方法です。左右の脳の情報伝達を断つことによって、発作につながる電気信号が左右どちらかの脳にとどまり、全身にいたる深刻な発作を食い止めることができるようになるのです。いわゆる対処療法ですが、発作が60~70%も減少し、中には完治する人もいると言われています。1日に数十回という難治性のてんかん発作に苦しむ患者さん達にとっては、この切断治療が最後の切り札となっているのです。
 さて、脳梁を切断したからと言って左右の脳の連絡が完全に断たれるわけではありません。さらに深い次元に存在する脳幹という共通部分があるので、内臓の働きや呼吸、睡眠など生命維持にかかわるものは支障なく機能し、左右の脳は同時に眠り、同時に覚醒します。しかし、より上位の意識活動に関しては、左右の脳の連絡が完全に断たれてしまうので、そうではない健常な人とは違ったさまざまな現象が起こることになります。
 米カルフォルニア工科大学のロジャー・スペリー博士は、1961年より、分離脳となった方々を対象に、さまざまな実験を展開してこの分離脳のもたらすさまざまな興味深い現象を調査しました。それらの研究により、人の意識に関する多くの新しい発見がなされ、より深く複雑な人間理解、新しい人間観をもたらしてくれたのです。スペリー博士は、それらの実験の成果によって1981年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

②分離脳研究から分かってきたこと
 分離脳実験が行われたころには、すでに以下の事柄が明確となっていました。

・言語機能は左脳が担っている。
・脳の左右と身体の左右の連動は交差しており、左脳は、右半身の運動機能をつかさどり、右側の視覚、聴覚、触覚、痛覚、の情報を受け取る。逆に右脳は、左半身の運動機能をつかさどり、左側の視覚、聴覚、触覚、痛覚の情報を受け取る。

 ですから、右目に入った情報は左脳で認識され、左目に入った情報は右脳で認識されることになります。左脳は言語中枢があるので、右目で見たものは直ちにそれが何なのかを答えられるはずですが、左目で見たものは右脳が認識し、右脳には言語化の機能はありませんので、それが何なのかを問われたらどのように答えるのでしょうか?
 分離脳手術を行った方に、右目(左脳)にスプーンの絵を一瞬見せた後、「何か見えましたか?」と質問すると、ただちに「スプーン」と答えが返ってきました。
 次に、同じ人の左目(右脳)に絵を一瞬見せた後、「何か見えましたか?」と質問すると、「何も見えませんでした」と答えたのです。
 それは、「分かりませんでした」ではなく「何も見えませんでした」ということですので、右脳で見た「絵」を言葉にできませんということではなく、絵そのものの存在を認識できなかったということを意味します。脳梁を切断しているので、右脳で得た情報を左脳がキャッチできないので、左脳は、右脳の反応を認識できないということが分かりました。

 次に、右脳がしっかりと視覚情報を受け取っているかどうかを確認する実験をしました。前述の通り、右脳は左目の情報を受け取ると同時に、左半身の運動をつかさどります。ですので、「光を感じたら左手でモールス信号のキーを押してください」と言った上で、左目(右脳)に一瞬光を見せたところ、即座に左手(右脳)はキーを押しました。右脳はしっかりと視覚情報をキャッチしていることが分かったのです。
 さらに、この反応を左脳がどう答えるのかを確認したところ、「何も見えませんでした」と答えました。左手がスイッチを押しているにもかかわらず、左脳は「何も見なかった」と主張し、右脳の光を見た認識を全く知ることはできませんでした。
 また、左目(右脳)に「フライパン」の文字を見せて、そのあとで「何を見ましたか?」と聞くと、「何も見えませんでした」と答えましたが、「見たものを目をつぶって左手で書いてください」と指示すると、フライパンの絵をかきます。目を開けた上で「これは何ですか?」と聞くと「フライパン」と答えるのです。
 さらに実験は続きます。分離脳患者の右目と左目に同時に絵を見せて、どのような反応になるかを調べました。モニター画面の右側には「ハンマー」の絵を、同時に左側には「のこぎり」の絵を一瞬見せます。そのあとで「何を見ましたか?」と問うと、左脳(右目)が認識した「ハンマー」と答えます。
 しかし、「目をつぶって見たものを左手(右脳)で書いてください」と言って左手にペンを持たせて目をつぶったまま紙に書かせると左目(右脳)が見た「のこぎり」の絵を書くのです。目隠しを取って自分の書いたものを見せて、「これは何ですか?」と問うと「のこぎりです」と答えます。さらに「何を見たんでしたっけ?」と繰り返すと「ハンマー」と答えます。「なぜこれ(のこぎり)を書いたのですか?」と聞くと「分かりません」と答えます。
 これらの実験から、分離脳の左半球と右半球は、それぞれ独立に情報処理が行われており、一方の半球は、他方の半球を全く感知しておらず、お互いに何をしているのか分からないということが分かったのです。

(以上の実験が行われている様子が動画でありますので、ご紹介します。動画の中で解説をされてらっしゃる方は、スペリー博士の教え子、マイケル・ザガニガ博士です。)

 ここで、問題は、「私」の所在についてでしょう。一連の実験では、対話している主体である左脳(言語中枢)が「私」を名乗っており、「私」が体験したこと、理解したことを語っていますが、言葉を持たない右脳も絵を描くことによって、認識し記憶し表現する主体であることが分かります。つまり、右脳も独立した人格を持っていると言えるのです。対話する主体となっている左脳の「私」と右脳の物言わぬ「わたし」が同時に共存していることになります。

 この二重の人格の問題を明確にするための実験が続きます。分離脳患者でありながら右脳の言語機能を持った男性に「卒業したら何になりたいですか?」と聞いたところ、返ってきた答えは「建築家です。そのための勉強をしています。」でした。しかし、右脳にだけ聞いたところ「カーレーサー」という答えが返ってきました。公式的な答えである「建築家」は、左脳の考えによる目標でしたが、右脳は「カーレーサー」という異なった夢を持っていたことになります。
 さらに、男性に、「子供のころにいじめられていた体験をどう思いますか?」の問いに対して、左脳は「もう気にしていない」と答えたのに対して、右脳は「まだ怒っている」と答えたのです。

 左脳と右脳で解釈とやりたいことが異なる事例として、他にも、左手が「妻を憎んでいる」と書き妻を殴ろうとしたところ、右手がそれを阻止したという事例もあります。

 一連のデータを見ると、一人の人の中に、異なる目標、感情、意図を持った複数の人格が存在している可能性が見えてきます。一連の分離脳の実験をスペリー博士とともに行ってきたガザニガ博士は、こう語っています。
 『WJ(分離脳被験者の名前)から4年後、私はこの研究をさらに掘り下げて次のような結論に達した。「大脳の正中切開によって正常な統一意識が分裂し、分離脳患者は左神経と右神経の(少なくとも)二つの神経を持つことになる。それを裏付ける証拠をわれわれはこの十年積み上げてきた。それは結合双生児が完全に独立した人格であるように、完全な二つの意識体として共存している』「〈わたし〉はどこにあるのか――ガザニガ脳科学講義(マイケル・S・ガザニガ著 紀伊国屋書店出版)」より引用

 ガザニガ博士は、人の人格は、少なくとも2つ以上存在していると明言しています。実はその後のスキャンや実験方法など科学技術の進化に伴い、新しいデータを集めた結果、半ば主体を持ったシステム(人格)は、右半球にも左半球にも無数に存在し、複数のサブシステム(副人格)のダイナミックな集まり集まりとして「わたし」をとらえることが一般的となってきています。

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私の人格は一つではない

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広がる私の可能性

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Selfとパーツの関係がもたらす「私」の3つの状態

私が私らしく生きるために

現代社会の基盤となる考え方の検討

「現代社会の基盤となる考え方の検討」をテーマとした動画をyoutubeにアップしました。

大学のオンデマンド授業で活用した動画の一部となります。

私たちが当たり前のように常識だと思っている弱肉強食、適者生存、等の考え方を検討し、それらの考え方にまつわる勘違いや思い込みを解消していく展開となります。

決して派手ではない、演出もない素朴なものですが、大切なことだと思っています。よろしければご覧ください。

 

 

 

 

現代社会の基盤となっている思想の検討  ⑥人と社会の大きな可能性

人には、他者と共感し、一体感を感じることができる能力があります。その力は、他者とは他人であるという強い分離感があるときには潜在化してしまい、機能不全となりますが、凝り固まった分離感の思い込みから自由になり、肩の力を抜いて、素直に他者と向き合おうとしたときに自然に発動します。

・サッカー場で応援する人たちの一体感。
・コンサートホールで共に歌い、ともに踊り、共に楽しむことによって増幅される感動。
・教会で結婚する二人をみんなで応援しようとするときの聖なる祝福の瞬間。
・愛し合う2人の間で起こる言葉の必要ない相互理解。

そのような状態の中では、人は他者をもはやどうでもよい他人とは思えません。他者の痛みは、自分の痛みであり、他者の喜びは自分の喜びとなる。他者がほほ笑むと、私も微笑み、他者が悲しみで涙を流す時には、自分の胸も悲しみが満ちて涙が流れる。他者が苦しんでいた時には、見返りがほしくて助けるのではなく、他者の苦しみが自分でも体験できるから手を差し伸べざるを得ない。

こうした共感の能力は、人間の新しい可能性と言えます。それらの体験は、日常的ではないかもしれませんが、決して不自然ではありません。

もしも、すべての人が、自分と他人とが違う人ではなく、本当に体験や感情を分かち合える同士であることを直覚したならば、強いリアリティと喜びの中で、すべての人や世界と一体感を感じながら生きることができたとしたならば、世界は、一瞬で途方もない変容を遂げることでしょう。

そのような世界の中では、他人と感情や考えを深いレベルで共有できるので、うそや詐欺、犯罪や搾取、独裁や支配、自然破壊や戦争は、もはや不可能となります。

人の新しい可能性、大いなる夢、わくわくする未来を感じることができます。
現代の目を覆いたくなる悲惨な現実とは全く異なる可能性ですが、決して不可能な未来ではありません。

分離感とういう幻想に迷い込んだら見えなくなる境地があります。分離感の幻惑を見極めて、素直になれたとき、その時にこそ、人の本来の偉大なるあり方が開花するのかもしれません。それこそが、人と人の社会の新しい可能性なのではないでしょうか。

私は、そうした未来を信じてみたい。

確かに現代社会は、疫病、戦争、貧困、悲しみに満ちた社会ではありますが、天国の中で天使として生きることは簡単で、誰でもできることでしょう。しかし、困難や障害、痛みや苦悩がある中で、絶望せずに天使として生きることは容易ではありません。だからこそ、そういう生き方がかっこいいのだと思います。

私は、そうしたかっこいい大人として、新しい未来に向けて少しでも進んでいきたい。

みなさんも、そうしたかっこいい大人になりませんか。皆さんの本質は、獣ではありません。ですから獣の掟は皆さんの生き方ではありません。皆さんの本質は、自分で気づいているほどちっぽけな存在ではありません。皆さんには、想像をはるかに超える潜在性、無限の可能性がまどろんでいる。まさに、皆さんの本質は、気高い勇者なのです。自分らしく気高い勇者として、ともに未来をに向けて力強くたくましく生きようではありませんか。

 

<現代社会の基盤となっている思想の検討 シリーズ記事>

戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ⑤自然界の本当の姿

動物学者フランス・ドゥ・バール氏は、動物たちが自然に持っている社会性を研究しています。この節では、以下、ドゥ・バール博士が目撃した動物たちの共感の力・徳性が発揮された事例をご紹介しましょう。
<以下、「共感の時代」フランス・ドゥ・バール著(紀伊国屋書店出版)より引用>

・たとえば、二匹のサルに同じ課題をやらせる実験で、報酬に大きな差をつけると、待遇の悪いほうのサルは課題をすることをきっぱりと拒む。・・・どんなに少ない報酬でも、もらえないよりはましなので、猿も人間も利潤原理に厳密に従うわけではないことが分かる。(サルの不公正を嫌う性格について)

・野生の馬やジャコウウシは、オオカミに襲われると、幼い者たちの周りをぐるっと囲んで守ってやる。

・アルゼンチンのブエノスアイレスでは、あるメス犬が、捨てられた人間の男の子を自分の子たちと一緒に世話をして救って有名になった。オオカミに育てられたという双子、・・・このような異種間の養子関係は、動物園ではよく知られている。ある動物園のベンガルトラのメスは、豚の子供たちを引き取って育てたという。母性本能は、驚くほど寛大なのだ。

・人間や動物は、利己的な理由からしか助けあわないということにはならない。・・・たとえば、人間が見知らぬ人を救うためにレールの上に身を投げ出したり、犬が子供とガラガラヘビの間に飛び込んで重傷を負ったり、サメが出没する海域で泳ぐ人の周りをイルカが囲んで守ったりする。

・猫のオスカーは、・・・老人用診療所で、毎日アルツハイマー病やパーキンソン病などの患者のために回診する・・・オスカーは、部屋から部屋へと回りながら、患者を一人一人注意深く観察し、その匂いを嗅ぐ。誰かがもうすぐなくなると判断すると、その傍らで身を丸め、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、そっと鼻を押し付ける。そして、患者が息を引き取ると、ようやく部屋を後にする。オスカーの見立ては正確そのものなので、病院のスタッフにすっかり頼りにされている。・・・彼が患者の脇で番を始めると、看護師はすぐに家族に電話をかけ、家族は・・・急いで病院に駆けつける。オスカーはこうして25人以上の死を予測してきた。・・・スタッフは、彼が救いの手を差し伸べているのだと解釈している。

・私(動物学者コーツ博士)が泣きまねをして、目を閉じ涙を流すふりをすると、ヨニ(チンパンジー)は、自分のしている遊びなどの活動を直ちにやめ、興奮して毛を逆立てながら、急いでかけてくる。家の屋根や織りの天井といった、家の中でも特に離れていて、しつこく読んだり頼んだりしても降りてこさせられなかったような場所からやってくるのだ。・・・私の周りをせわしなく走る。私の顔をじっと見て、一方の手のひらで優しく私の顎を包み、指で顔にそっと触れるのは、何が起きているのかを理解しているかのようだ。・・・・私がいかにも悲しそうに、絶望したように泣くほど、ヨニはますます同情を示す。・・・ヨニは、(両手で目を覆う)その手を取りのけようとし、彼女の顔に向けて唇を突き出して、じっと見入り、かすかに唸り、鼻を鳴らす。

・ラブラドール・レトリバーのマーリー・・・ジョン・グローガンの『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』に出てくる暴れん坊でお騒がせの札付き犬だが、グローガンの妻ジェニーが、流産したのがわかって泣いていたときは、頭を彼女のおなかにぴったりと押し付けて、微動もせずに立っていた。

・子供をライオンにさらわれたバッファローが、ライオンを攻撃して助ける

・水路に落ちた猫を犬が体を張って助ける

・ライオンに捕まった小象を種が異なるバッファローが助ける

事例にもある通り、動物には、生来の正義感、思いやり、自己犠牲もいとわない気高さ、勇気、共感の力を持っています。本能的に生きる動物でさえこうした社会性を持っているのですから、社会性において群を抜いて進化している人間存在の場合は、もっともっと豊かな関係性、信頼、平和で幸せな社会を作れる潜在性があるはずです。こうした事例から見ると、前述の戦いの哲学は、必ずしも真実とは言えません。

・弱い者は、滅びるままにすべき
・強いものが弱いものを犠牲にして成長することが正義
・思いやりや愛は、不自然であり、間抜けな人の特徴
などの考え方は、断じて自然界の法則ではなありません。

しかし、一部の学者、企業家、政治家たちが語り、もっともらしく理論化されてきたそれらの考え方は、広く報道され、教育され、私たちの頭に深く沁みとおり、悪く言えば洗脳され、私たちの人生哲学の一部となってしまっているところがあるのではないでしょうか。
しかし、これらの考えは、権力者にとって都合のよい詭弁であり、決して自然界の真実ではないことを忘れてはいけません。

優秀と言う言葉は、やさしさに秀でていると書きます。ですから、弱肉強食や適者生存の考え方は優秀ではありません。やさしくないからです。

強欲の資本主義が間違っており、反省すべきだと考えられてきたのは、つい最近のことではないでしょうか。以前は、「人道的な会社は間抜けであり、利益を出せない」と考え、なりふり構わずに利益を出す企業がもてはやされる時代もありましたが、現代では、そのようなあさましい企業は、不祥事を起こし、顧客から見放され、業績が悪化すると同時に株価が下がり、窮地に追い込まれる事例が頻発しています。強欲な資本家や倫理観の無い起業家が市場を制覇するのではなく、善良な市民、消費者の健全な意識が市場に大きな影響を与える時代になりました。

21世紀の資本主義は、強欲の資本主義ではなく、もっと自制心と思いやりのある高い意識の資本主義に変わるべきだと考える人たちが多くなってきています。分離の哲学の幻想から抜け出し、本当のことに気づく人が増えてきたのではないでしょうか。今、時代は、古くて冷酷で偏った偏見や思想が力を失い、分離感の幻想から目覚め、本当のことに気づき始める大きなうねりが起こっているのだろうと言えます。

 

<現代社会の基盤となっている思想の検討 シリーズ記事>

戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ④曲解された思想の強大な影響

弱肉強食にしろ適者生存にしろ、誤解と歪曲によって原典とはかけ離れてしまった考え方ですが、それが真理のように私たちの社会に深く根付いている、強く影響を与えていることに注目してみましょう。
よく、ダーウィンの名言として引用される言葉があります。

「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか?そうではない。最も頭のいいものか?そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ。」

この言葉は、ダーウィンのが語ったと信じ込まれており、厳しい生存競争を生き残るための指針として、変化に適応するための努力を促す働きかけを正当化する原理として、多くのリーダーや政治家に頻繁に引用される言葉です。

しかし、実は、ダーウィンは、このようなことは、言ってません、この言葉は、進化論を独自に解釈したルイジアナ州立大学のレオン・メギンソン教授の言葉なのです。

もっともらしい主張で、耳障りがよく、進化論らしい主張のように思えますが、実は、ダーウィンの考え方とは違います。自然選択説と適者生存説、とても似ているように思える考え方ですが、全く違うのです。ダーウィンの自然選択説の視点からは偶然と多様性こそが進化の源泉であり、無駄のように見える多くの多様性こそが進化をもたらす大切な資源となりますが、メギソン教授の言う適者生存は、多様性を尊重しません。変化への適応能力に優れた選び抜かれた優秀な者だけが生き残り、弱いものや不完全なものは無駄なものと考えらえれて淘汰されて消えていくのが定めと考えます。

適応能力こそが存続と進化のカギだとすると、愛と慈悲に恵まれた環境にいた場合は、思いやりややさしさに満ちた存在が淘汰を生き残ることになりますが、暴力と残虐に満ちた環境にいた場合は、よりあさましく手段を択ばない醜い存在が優秀となり、未来を担うことになります。現実に、エンロン社のように、適者生存や弱肉強食の思想を真に受けて、社内で厳格な無慈悲な能力考課制度を敷いた企業が存在しますが、そのような企業では、最終的に出世し生き残った者たちは、こうした人の足を引っ張ることが得意で、仲間の業績を奪い自分のものとすることを何とも思わない、悪意と悪だくみを武器とするあさましい人材でした。結果的に業績は劇的に悪化し、破綻するか制度の見直しを余儀なくされています。

障碍者や社会的弱者、病気で苦しんでいる方々に対する見方も違います。適者生存の考え方では、障碍者や社会不適応者、社会的弱者は、能力が劣っているから淘汰されて当然という考え方になります。しかし、ダーウィンの進化論では、多様性こそが進化の源泉と考えるので、障碍者や社会的弱者は多様性を構成する一員であり、とても大切な可能性なのです。狭い了見の社会的な価値基準ではなく、自然という偉大な見地からは、自然淘汰を残り超えて生き残るのは、そのような人たちなのかもしれないのです。

ダーウィンは、キリスト教徒であり、リベラルな進歩主義者であり、奴隷制に反対していました。ですから、平和と平等、多様性を愛し、尊重する良き市民であり、ダーウィン自身は、弱肉強食、適者生存、優生思想と言ったいわゆる「社会ダーウィン主義」的な考えを否定していました。

彼の考える自然の在り方は、たくさんの不思議と偶然と無駄のように思える多様性から成り立っており、ゆっくりとたおやかな生命の進化が起こる奇跡に満ちている世界でもありました。そのような考え方が真実かどうかは別として、進化論を都合の良いように解釈し、歪曲して、科学的進化論のトラの威を借りて語った適者生存や優生学は、ダーウィンの考え方では無かったことだけは事実です。

ですから、私たちも、社会的進化論を、当たり前のように正しいと信じ込んでいるあり方を、検討していく必要があります。それらは、自然を観察した結果として導き出された科学ではなく、一部の人が都合よく解釈して歪曲した誤解を含んだ見解なのですから。
さまざまな自然をありのままに観察すると、自然界は、決してそのようなゆがんだ競争社会ではないことが分かります。もっと愛と思いやりとやさしさ、気高さや社会性のあるものであり、弱肉強食や適者生存、優生学は、自然界のほんの一部の暗い側面だけを取り出して、人間社会のひずみを正当化しようとしたこじつけ、極論すれば詭弁であると言えます。

弱者や貧者は、滅ぶのが社会のためだなんて、いったいどんなサイコで悪趣味の考え方なんだろうかと思ってしまいます。しかし、このようなゆがんだ思い込みの信念を持ったエリートたちや富裕層、権力者や政治家が、実際にこうした考え方、思い込みに基づいて施策をとってきたし、現在もとっていることは、恐ろしいことです。

また、そうした権力者たちの考え方に影響され、同調している人たちも決して少なくありません。2016年に神奈川県相模原市にある障害者施設で多くの障碍者の方々が殺害される陰惨な事件が起こりました。事件を起こした犯人は、「意思の疎通が取れないような重い障碍者は、安楽死させたほうが良い。彼らは人々を不幸にするだけだから」と語りました。

彼のこの考え方は、ここまで極端ではないとしても、似たような考え方を持つ人は少なくないのではないでしょうか。「貧困は自己責任」、「ホームレスがどうなろうと知ったことではない」、「生きるに値しない命は助ける必要はない」、「適者生存に反する障碍者や弱い人を助ける福祉は必要ないしお金の無駄」。少なからずの人たちがこうした考え方を是としているように思えます。しかし、それらの根拠、正当化の基盤となる思想は、決して真実ではありません。それは、誤解なのです。

ゆがんだ思想を真実だと信じ込み、それを原理として生きることを狂信と言います。私たちは、狂信の隘路にはまり込んでいるのかも知れません。私たちは、自分たちの考え方の基盤となっている思想をもう一度見直す必要があるのではないでしょうか。

 

<現代社会の基盤となっている思想の検討 シリーズ記事>

戦いの哲学の検討

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曲解された思想の強大な影響

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人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ③適者生存の検討

また、自然界の掟は、「弱肉強食」ではなく「適者生存」なのだと主張する論調も存在します。「適者生存」という考え方もずいぶん強く私たちの心の根底に根付いているのではないでしょうか。「適者生存」とは、イギリスの社会学者ハーバート・スペンサー(1820 – 1903)が「Principles of Biology(生物学の原則)1864年」で発表した言葉です。これに先立って発表されたダーウィンの進化論の中で語られている「自然選択」という概念を言い換えた言葉でもあります。
適者生存とは、生存競争の中で、環境に最も適したものだけが生き残って子孫を残しうること、適応できないものは淘汰されていくという自然界の厳しい掟についての考え方を言います。スペンサーは、ダーウィンの言う「自然選択」よりも自分が名付けた「適者生存」の方が的確な言葉だと主張しています。スペンサーは、この適者生存の考え方を、単に生物学としてだけではなく、社会学として、人間の世界に応用できる理論として展開していきました。現在では、適者生存という言葉は世界中に広がり、多くの人たちのよりどころ、考え方の基盤となっています。しかし、彼の適者生存の考え方は、本当に正しいのでしょうか?

実は、そもそもの原点となっている進化論を書いたダーウィンは、この「適者生存」という言葉が好きではありませんでした。スペンサーの考え方は拙速であり、自然に対する観察がまだ十分ではないと考えていたのです。ダーウィンの自然選択説は、適応するために意図的に努力したものが生き残るとは言ってません。彼は、偶然に起こった遺伝子の変異によって多様化が起こり、多様性の中から自然環境との相互作用により淘汰が起こり、生存するものの方向性、進化の方向性が現われてくると主張しています。つまり、意図的な努力ではなく、偶然の変化による多様性が進化をもたらすと考えたのです。

一方で、スペンサーの言う適者生存は、生存のためには適応しようとする意図や能力が介在すると考えています。進化は、偶然ではなく、意志が強く能力が高いものに起こると考えるのです。ダーウィンの自然選択説では、淘汰されるものは、努力や意図が弱かったからではなく運が悪かったからと考えられますが、スペンサーの適者生存では、弱かったから、能力が低かったからだということになります。
スペンサーは、ダーウィンが自然の観察から導き出した不確実性による進化の法則を人間の力による進化の法則に書き換えたことになります。しかし、このことは、良かったことなのでしょうか?

ダーウィンが考える自然選択説のエンジンとなる不確実性や偶然には、人間の狭い了見では計り知れない要因、不思議、人知を超えためぐり合わせが進化を導くという可能性がありますが、スペンサーは、そのような可能性は排除されてしまいます。ダーウィンは、運がよかったから生き残ったのだと考えるのに対して、スペンサーは、能力があったから生き残ったのだと考えます。スペンサーの言う適者生存の考え方では人間の狭く限定された“適応”という価値観が絶対となり、適応至上主義、能力至上主義の世界観となるのです。そこにはもはや不確実性、可能性、不思議さ、奇跡の介在がもはや存在しません。そこにあるのは、純粋に力の価値観だけなのです。
そのような言い換えが起こると、自然界の摂理の名のもとに、人間界の都合、強者や権力者の都合や価値観を押し通す少々強引な理論、つじつま合わせが可能となります。
「成功者は、適応の意欲と能力、努力があったから成功した、優れた選び抜かれた存在だから成功したのだ。だから、どんなに法外な資産の独占であっても、それは自然で当たり前の報酬であり、非難に値しない。また、敗北者は、適応の努力が欠けており、またその意志も弱く、能力ががないから失敗した。それらの人たちは、淘汰され、、退場していくことが自然の掟であり、同情したり助けたりすべきではない。」
こうした考え方は、資本主義社会の基盤となる市場経済、自由競争のあり方を正当化する考えとなります。私個人的には好きな考え方ではありませんが、現代社会がこういうありかたで存在していることが正しいことを証明する拠り所となっているのだろうと言えます。
また、こうしたスペンサー的な考え方が、優生学を生み出す土壌ともなりました。優生学は、ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトン(1822年-1911年)によって提唱され始めました。
優生学とは、「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問(広辞苑)」です。優生学では、優秀な人や社会的に有益な人を繁栄させるために、そうではない人たちを人為的に淘汰、排除していくことが必要です。優秀とか有益とか、そうした一部のエリートの勝手な価値基準で、人間の命を扱おうとする考え方であり、ひどい人種差別や暴力につながる邪悪で恐ろしい思想でもあります。しかし、この優生思想は、第二次世界大戦の際のドイツのホロコーストの拠り所とされた理論です。こうした考え方が、ついに実態を持ち、多くのユダヤ人たちの命を奪った暴力につながってしまいました。
また、日本において1948年から1996年に至るまで優生保護法という法律が存在していました。優生保護法では、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するために、遺伝する病と考えられた病気にかかっている人や障碍者、精神障害者や知的障害者などの不良な遺伝子と考えられた人たちの不妊手術(断種)、中絶、避妊を合法化しています。この法律をもとに、多くの人たちが不本意な強制不妊手術をされています。仙台市在住の飯塚淳子さん(70代・仮名)は、誤解によって精神薄弱のレッテルを張られ、周囲の大人の思惑によって、16歳の時に本人の同意なしに強制的な不妊手術を受けさせられたと、謝罪を求めて国を訴えました。この優生保護法によって不妊手術を受けさせられた人たちは、総計で2万4993人に登ります。
現在では、人権侵害、憲法違反、障碍者差別、などと非難される法律ですが、つい最近まで存在し、私たちの生活に大きな影響を与えていたことを忘れてはいけません。

 

<現代社会の基盤となっている思想の検討 シリーズ記事>

戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ②弱肉強食の検討

競争原理のよって立つ原則ともなっている「弱肉強食」の理論を検討していきましょう。私たちが使う「弱肉強食」は、弱者の犠牲の上に強者が栄えること、又は、そのような闘争の世界観を意味します。この弱肉強食という言葉があるからこそ、世界の総資産の50%を1%の富裕層が所有し、残りの50%を99%の人たちでシェアするという極端な所得格差が、不自然ではなく当たり前のように感じるのだろうと思います。一方で、3秒に一人の子供たちが飢餓で亡くなることがあまり注目を集めず、何年も放置されている問題も、弱いものが犠牲になること、退場することは当たり前、自然なことと思われていることが原因なのかもしれません。
しかし、弱肉強食の語源は、実は、そうしたあさましい獣的な在り方の正しさを主張したものではないのです。「弱肉強食」という言葉は、中国の唐の時代に活躍した文人、韓愈(かんゆ)によって作られたものです。韓愈は、儒教の学者であり、礼節を重んじることの重要性を訴えていました。彼は、友人に、獣たちの世界とは違って人が人として生きる上で大切な礼節があるということを伝えようとして、以下の言葉を送ります。

夫鳥俛而啄、仰而四顧。
夫獸深居而簡出。
懼物之爲己害也。
猶且不脫焉。弱之肉,強之食。
今我與文暢安居而暇食、優遊以生死。
與禽獸異者、寧可不知其所自耶。

【意訳】
鳥は、餌をついばむときには、四方を見回す。
獣が山奥から出てきて、自分を害するかもしれないと恐れるからだ。
しかし努力しても害を免れない。
弱いものの肉は、強いものの食べ物である。
しかし、今、私と文暢(友人の名)は、やすらかに暮らし、ゆっくりと食事をし、悠々と生きて死ぬ。
獣や鳥のあり方と、人の在り方との違いを知らないでよいだろうか。

「弱肉強食」という言葉は、上記の詩の四行目によるものです。詩の全体を読むと分かりますが、韓愈は、弱肉強食の世界が人間界の宿命だなんて言ってません。ましてや、そうあるべき、そう生きるべきだなんて言ってません。韓愈がこの詩を通して言いたかったことは、獣のルールである弱肉強食と人間の在り方は違うということを言ってます。人間の在り方の本質には礼節があり、その礼節こそが、獣と人間を分ける分水嶺となるのだと主張されているのです。
ですから、人間の世界で、この弱肉強食の現象が起こることを、決して肯定しているわけではないということを忘れないでください。弱肉強食の語源は、人間の礼節の重要性、思いやりや気高さの重要性を主張するものだったのです。
韓愈の哲学からすると、現代社会の様々なひずみ、極端な貧富の差、ホームレス、飢餓、戦争、虐待、などなど、それらが弱肉強食の世界ゆえに仕方がないことだと考えることは、間違いであることが分かります。
そもそも、もし弱肉強食が真実であるならば、強いものが繁栄し、生き残るのが自然の摂理となりますが、それならば、なぜライオンが絶滅危惧種に指定されているのでしょうか、同様にトラやチーターといった食物連鎖のトップにいる存在も絶滅の危険があると懸念されています。逆にウサギは、肉食獣のような強さは持ち合わせていませんが、世界中で繁殖しています。ですから、強いからと言って必ずしも生き残れるわけではないのです。
語源からして意味を勘違いしている言葉であり、しかも、自然界の真実を語っているわけでもない、そういう勘違いが独り歩きしたような言葉「弱肉強食」ですが、この言葉の力は相当強く私たちの心に影響を与えているのではないでしょうか。弱い人、障碍のある人、苦しんでいる人、飢餓で死のうとしている人、それらの人たちに同情する気持ちをどこかに置き忘れてしまい、むしろ、困っていても仕方がない、亡くなるままにするのが正しい、それが自然の掟と言い訳をする。強い人はどんなに所有しても許される、強い人が多くを所有し生き残ることが自然だから、自分も多くを所有する者になりたい、と独占する人たちを崇め奉りあこがれる。これは、まさに、韓愈の言う獣の世界観であり、人の本分である礼節を忘れてしまっている人らしくない世界観ともいえるのではないでしょうか。私たちは、一見真実とも思える「弱肉強食」世界観を、もう一度検討する必要があるのではないでしょうか。

 

<現代社会の基盤となっている思想の検討 シリーズ記事>

戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ①戦いの哲学の検討

最近、ある芸能人が、「ホームレスの命はどうでもいい」と語り物議を醸しだしています。人権を無視した発言だと批判、炎上しています。しかし、考えてみると、ここまで極端ではなくとも、このような考え方を是とする人は、意外に多いのではないでしょうか。

私は、このような考え方は、ある意味、現代の競争社会の基盤となっている思想の一つになっているようにも思えます。

今回は、この市場原理、競争原理の基盤となる考え方について検討していきたいと思います。

「人は、本質的に戦いの生き物であるので、闘争に基づいて生きなければならない。」
「人は、本質的に社会的な生き物なので、愛や思いやりを大切に生きるべきだ。」
現代社会においては、2つのまったく志向の違う考え方があります。いったいどちらが正しいのでしょうか?

まずは、前者の「戦いの哲学」から検討してみましょう。戦いの哲学は、現代社会に大きな影響を及ぼしているいくつかの考え方、思想に基礎をおいていることが分かります。

「弱肉強食」、「適者生存」、「自然淘汰」、「生存共存」、「進化論」…、

それらは、現代社会が基盤としている哲学や考え方であり、私たちは、そうした理論が真実で、よって立つべき基盤、それが自然の法則であると当たり前のように考えています。そして、それらの考え方は、私たちの日々の生活や行動、仕事、企業経営や政治に大きな影響を与えています。

しかし、それらの考え方は、ほんとうに真実なのでしょうか?ほんとうに自然界はそのような法則で成り立っているのでしょうか?私たちは、それらを哲学として生きる基盤にして大丈夫なのでしょうか?

<現代社会の基盤となっている思想の検討 シリーズ記事>

戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

新入社員研修に自尊心教育が必要な訳

 新入社員研修プログラムアトランティックプロジェクトの目的の一つは、”企業人としての心構えを学ぶ”と言うことです。企業人として活躍していくために必要な心構えには、様々なものがありますが、弊社では、”自尊心”が特に重要であると考えています。

 『何とかなる』『大丈夫』と考えることができるからこそ、粘り強さ、前向きな姿勢、高い志、チャレンジ精神を生み出すことができるのだろうと考えているからです。

 ただ、この自尊心は、とても勘違いされやすいものでもあります。よく、「新入社員には自尊心なんていらないよ」などと言われることがありますが、これは、傲慢さや自惚れと混同されているからこその誤解であり、私どもにとっては、この自尊心は、不要のものどころか、最近の若年層の問題となっている早期離職や成長格差、メンタルヘルスなどのあらゆる経営問題を解決するカギとなる重要テーマであると考えております。

 自信と傲慢さは、明らかに違うものです。日本では、「自信のある人、自尊心の高い人」と言う言葉は、ほめ言葉と言うよりは、陰のある言葉として認識されているようで、自信や自尊心は、持つべきではないというニュアンスがあるように感じます。しかし、英語では、この2つは、はっきりと違うものと認識されています。

 自尊心はSelf-esteem、傲慢さやうぬぼれはPrideであり、両者は、まったく違うもので、Prideには影がありますが、self-esteemは、持つべき美徳であると認識されていているのです。

 うぬぼれや傲慢さは、決して自信からは生まれません。むしろ、自信の欠如から生まれます。傲慢な人は、『自分の本質は、いやなやつで、ダメ人間だ』と思い込んでおり、そんな本当の姿がばれてしまったら、誰からも相手にされるわけがないと思い込んでいるので、本当の自分の姿が絶対にばれないように強がりで煙幕を張っているだけであり、その根底にある心情は、自信ではなく劣等感です。

 本当に自尊心を持っている人は、決して自惚れないし傲慢にもなりません。腰が低く、友人が多く、謙虚です。しかし、だからと言って決して卑屈ではない。堂々たる紳士淑女であって、誇り高き存在なのです。

 真の自信に裏付けられている人は、ぶれません。生きる機軸がしっかりしているので、目先の損得で振り回されたり、人によってコロコロ態度を変えたりしません。だから、周囲からは、分かりやすく信頼できる人と感じられます。

 また、真の自信に裏付けられている人は、簡単にあきらめません。困難にぶつかり窮地に陥っていても、未来の可能性を信じているうえに、使命感があるので簡単にはあきらめることなんかできないのです。だから、周囲からは、頼りがいのある存在と思われるので、リーダーとして活躍することが多いと言えましょう。

 様々な考え方の一つに過ぎませんが、私どもは、人が力強く輝いて活躍していくために必要な要素として、最も大切なものが、そのような意味での自尊心であると考えております。

 新入社員がたくましく成長していく基盤となる重要なメンタリティもしかりであり、私どもは、健全な自尊心を育むことによって、若者の様々な問題(=早期離職問題、成長格差問題、メンタルヘルス問題)を根本から解決していくことができると考えています。

 そのような考え方をもとに、アトランティックプロジェクトでは、折に触れてそうした考え方やメッセージを提供しています。本プログラムを通して、新入社員が自らの力でたくましく輝くキャリアへの第一歩を踏み出す後押しをしていきたいと願っております。