内なる瞑想者は、自我とは全く異なる副人格ですが、2者択一ではありません。お互いに矛盾する立ち位置ですが、同居は可能です。内なる瞑想者は、決して自我を否定したり抑制したりしません。
自我には自我の役割があります。この世知辛い世の中で生き残っていくためには、自分を守りつつ社会的に上手に立ち回っていこうとする自我の役割は必須です。自己を防衛する力が無い人は、単なるお人よしのおバカさんになってしまいます。
ですから、内なる瞑想者を育むために自我を否定する必要もないし、自我としての認識と表現を遠慮する必要もありません。自我は自我として元気に活動させていくことが大切なのだと思います。
ただ、自分が自我だと勘違い、同一化してしまい、自我が自分自身を乗っ取ってしまうことは、決して健康なことではありません。自分の主体は、自我ではなくSelfにあるからです。脅威があるからと言って、自我の自己防衛的な活発な活動に身を任せ、固く心を閉じてしまう生き方も自分らしい本来の幸せな生き方とは言えないでしょう。人には、心を開いて他者と意義深い豊かな関係を開く能力と可能性があります。その可能性を捨ててしまってはいけないのです。
前述の通り、Selfは、積極的に意識していかなければ、活発な自我の働きの影に隠れてしまい、力を失ってしまいます。
内なる瞑想者は、自分と自我の同一化にくさびを打ち込みます。瞑想者が育つことによって、自分自身と自我の間にスペースができあがり、自我を客観視することができるようになります。それと同時に、Selfの視点である自分の内面のすべての要素の統合者としての視点、自我を超える高い意識を活性化することができるのです。
Selfは、自我を束縛しませんが、無関心無放縦にもしません。自我のありのままを観察し受け入れ、自我の痛みや渇きをいやすことを通して、過度な興奮を鎮めていきます。自我は、ある意味で戦士であり、Selfはその君主です。戦士は、君主に見放され、恐怖と不安にさいなまれて絶望に首をたれてしまうとその獣性が目覚めて、暴力をもって略奪を図る無法者となりますが、君主に愛され、信頼されると、人間性を内包した強さをもって本来の役割を果たす誇り高い騎士になるのです。
残念ながら、日常を送る多くの私たちは、Selfによって自我を上手に従えていくことができていません。自分の中の君主が目覚めておらず、自我は暴君として、自分自身を乗っ取り、自己防衛と攻撃を繰り返す生き方をしてしまっているのではないでしょうか。自我に支配されている時の自分は、決してそれが正しいとも思っていなければ、安心や深い喜びを感じてもいません。自信を持てずに心の中は絶えず不安と不満のノイズが流れている日常になってしまっているのではないでしょうか。
内なる瞑想者は、そうした自我のふるまい、たとえそれが愚かだと言われていることであったとしても、社会的外面的なレッテルを張ることなく、淡々と正確にありのままに観察し、理解を深めます。自我を裁いたりコントロールしようとせずに、そのままにしておいて、そのダイナミックな嵐のような動きを受け入れ、味わいます。
瞑想者の視点は、初めは小さく弱い砦であり、容易に大波にさらされて見失ってしまう拠点ですが、見捨てることなく確保し、守り通すことを通して、徐々に育ち、大きくなっていきます。自我一色に染まってしまった自分の内面にスペースを作り、Selfを呼び起こす場をととのえていくのです。
Selfは、激しい自我の活動の中で、普段は埋没してしまっているので、多くの人は、自分の中にSelfがあることに気づけていません。
Selfは、窓の外で流れるそよ風の音であるのに対して、自我の放つ音は、ハードロックのコンサートの最大ボリュームの音楽です。だから、いつも関心を向けてしまうのは自我の放つ騒音であり、意識して聞こうとしなければ、Selfのささやきは決して聞くことはできません。
Selfは、雲間に見える薄暗い光であるのに対して、自我は、暑い雲であり、暴風と暴雨、大嵐です。ですから、心が奪われてしまうのは嵐の脅威であり、意識して見ようとしなければSelfを知覚できません。太陽の存在を信じることがでなくなるのです。
Seifは、深海の静けさであるのに対して、自我は、絶えず荒れ狂う荒波です。ですから、荒波にもまれて、その対処に大忙しでいる間は、決して深海の静けさは理解できません。自ら潜水していく努力が必要です。
内なる瞑想者は、そうした、通常意識では認識が難しいSelfへの橋渡しをしてくれます。自我の活動とは別に、内なる瞑想者の安定した継続的な活動によって、徐々に、少しずつ強くSelfを自覚できるようになってくるのです。
また、内なる瞑想者は、今ここで起こっているリアリティに対して、一切の抵抗をしません。自我が「答えは自分が持っている」と思い込んでいるのに対して、内なる瞑想者は、今ここのリアリティには自分ではわかりようのない大いなる謎があることを知っており、真実の声に耳を傾け、ただひたすら観察し、謙虚に教えを乞うのです。ですので、自我のレベルでは、起こる出来事を感知したその刹那に良い悪いを評価し、即対応しようとしますが、そのような拙速を慎み、判断を保留して、今ここの現実をより深く正確に理解するように努めます。まさに、正見を志すのです。
ですから、問題に対する対処の仕方も、自我のレベルとは次元が異なるより優れた方法をとれるようになります。自我は、表面的な出来事をもとに過去に成功した自分のやり方やプログラムの枠組みに出来事を押し込めて、安易な対応、時に対処的で独りよがりで小手先な恐れのある対応を取るのに対して、内なる瞑想者は、表面には現れていない潜在的なニーズや要因を正確に理解することによって、より本質的で的を得た関わる全ての人が満足できるような問題解決策を取ります。
例えていうなら、自我は、球筋をいち早くわかった気になって思い込み、球をよく見ないでやみくもにバットを振るので、決して打率は高くないのに対して、内なる瞑想者は、決して早とちりしません。じっくり球筋を見て、最善最高のタイミングでバットを振って、高い打率を実現するのです。
こうして、内なる瞑想者は、眠れるSelfを目覚めさせて、本当の自分らしさ、真の自分自身によるセルフリーダーシップを促すと同時に、問題解決能力を高め、生活や人生そのもののクオリティを高めていくことにつながるのです。
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