カテゴリー別アーカイブ: ⑥心理学

現代社会の基盤となっている思想の検討  ⑥人と社会の大きな可能性

人には、他者と共感し、一体感を感じることができる能力があります。その力は、他者とは他人であるという強い分離感があるときには潜在化してしまい、機能不全となりますが、凝り固まった分離感の思い込みから自由になり、肩の力を抜いて、素直に他者と向き合おうとしたときに自然に発動します。

・サッカー場で応援する人たちの一体感。
・コンサートホールで共に歌い、ともに踊り、共に楽しむことによって増幅される感動。
・教会で結婚する二人をみんなで応援しようとするときの聖なる祝福の瞬間。
・愛し合う2人の間で起こる言葉の必要ない相互理解。

そのような状態の中では、人は他者をもはやどうでもよい他人とは思えません。他者の痛みは、自分の痛みであり、他者の喜びは自分の喜びとなる。他者がほほ笑むと、私も微笑み、他者が悲しみで涙を流す時には、自分の胸も悲しみが満ちて涙が流れる。他者が苦しんでいた時には、見返りがほしくて助けるのではなく、他者の苦しみが自分でも体験できるから手を差し伸べざるを得ない。

こうした共感の能力は、人間の新しい可能性と言えます。それらの体験は、日常的ではないかもしれませんが、決して不自然ではありません。

もしも、すべての人が、自分と他人とが違う人ではなく、本当に体験や感情を分かち合える同士であることを直覚したならば、強いリアリティと喜びの中で、すべての人や世界と一体感を感じながら生きることができたとしたならば、世界は、一瞬で途方もない変容を遂げることでしょう。

そのような世界の中では、他人と感情や考えを深いレベルで共有できるので、うそや詐欺、犯罪や搾取、独裁や支配、自然破壊や戦争は、もはや不可能となります。

人の新しい可能性、大いなる夢、わくわくする未来を感じることができます。
現代の目を覆いたくなる悲惨な現実とは全く異なる可能性ですが、決して不可能な未来ではありません。

分離感とういう幻想に迷い込んだら見えなくなる境地があります。分離感の幻惑を見極めて、素直になれたとき、その時にこそ、人の本来の偉大なるあり方が開花するのかもしれません。それこそが、人と人の社会の新しい可能性なのではないでしょうか。

私は、そうした未来を信じてみたい。

確かに現代社会は、疫病、戦争、貧困、悲しみに満ちた社会ではありますが、天国の中で天使として生きることは簡単で、誰でもできることでしょう。しかし、困難や障害、痛みや苦悩がある中で、絶望せずに天使として生きることは容易ではありません。だからこそ、そういう生き方がかっこいいのだと思います。

私は、そうしたかっこいい大人として、新しい未来に向けて少しでも進んでいきたい。

みなさんも、そうしたかっこいい大人になりませんか。皆さんの本質は、獣ではありません。ですから獣の掟は皆さんの生き方ではありません。皆さんの本質は、自分で気づいているほどちっぽけな存在ではありません。皆さんには、想像をはるかに超える潜在性、無限の可能性がまどろんでいる。まさに、皆さんの本質は、気高い勇者なのです。自分らしく気高い勇者として、ともに未来をに向けて力強くたくましく生きようではありませんか。

 

<現代社会の基盤となっている思想の検討 シリーズ記事>

戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ⑤自然界の本当の姿

動物学者フランス・ドゥ・バール氏は、動物たちが自然に持っている社会性を研究しています。この節では、以下、ドゥ・バール博士が目撃した動物たちの共感の力・徳性が発揮された事例をご紹介しましょう。
<以下、「共感の時代」フランス・ドゥ・バール著(紀伊国屋書店出版)より引用>

・たとえば、二匹のサルに同じ課題をやらせる実験で、報酬に大きな差をつけると、待遇の悪いほうのサルは課題をすることをきっぱりと拒む。・・・どんなに少ない報酬でも、もらえないよりはましなので、猿も人間も利潤原理に厳密に従うわけではないことが分かる。(サルの不公正を嫌う性格について)

・野生の馬やジャコウウシは、オオカミに襲われると、幼い者たちの周りをぐるっと囲んで守ってやる。

・アルゼンチンのブエノスアイレスでは、あるメス犬が、捨てられた人間の男の子を自分の子たちと一緒に世話をして救って有名になった。オオカミに育てられたという双子、・・・このような異種間の養子関係は、動物園ではよく知られている。ある動物園のベンガルトラのメスは、豚の子供たちを引き取って育てたという。母性本能は、驚くほど寛大なのだ。

・人間や動物は、利己的な理由からしか助けあわないということにはならない。・・・たとえば、人間が見知らぬ人を救うためにレールの上に身を投げ出したり、犬が子供とガラガラヘビの間に飛び込んで重傷を負ったり、サメが出没する海域で泳ぐ人の周りをイルカが囲んで守ったりする。

・猫のオスカーは、・・・老人用診療所で、毎日アルツハイマー病やパーキンソン病などの患者のために回診する・・・オスカーは、部屋から部屋へと回りながら、患者を一人一人注意深く観察し、その匂いを嗅ぐ。誰かがもうすぐなくなると判断すると、その傍らで身を丸め、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、そっと鼻を押し付ける。そして、患者が息を引き取ると、ようやく部屋を後にする。オスカーの見立ては正確そのものなので、病院のスタッフにすっかり頼りにされている。・・・彼が患者の脇で番を始めると、看護師はすぐに家族に電話をかけ、家族は・・・急いで病院に駆けつける。オスカーはこうして25人以上の死を予測してきた。・・・スタッフは、彼が救いの手を差し伸べているのだと解釈している。

・私(動物学者コーツ博士)が泣きまねをして、目を閉じ涙を流すふりをすると、ヨニ(チンパンジー)は、自分のしている遊びなどの活動を直ちにやめ、興奮して毛を逆立てながら、急いでかけてくる。家の屋根や織りの天井といった、家の中でも特に離れていて、しつこく読んだり頼んだりしても降りてこさせられなかったような場所からやってくるのだ。・・・私の周りをせわしなく走る。私の顔をじっと見て、一方の手のひらで優しく私の顎を包み、指で顔にそっと触れるのは、何が起きているのかを理解しているかのようだ。・・・・私がいかにも悲しそうに、絶望したように泣くほど、ヨニはますます同情を示す。・・・ヨニは、(両手で目を覆う)その手を取りのけようとし、彼女の顔に向けて唇を突き出して、じっと見入り、かすかに唸り、鼻を鳴らす。

・ラブラドール・レトリバーのマーリー・・・ジョン・グローガンの『マーリー 世界一おバカな犬が教えてくれたこと』に出てくる暴れん坊でお騒がせの札付き犬だが、グローガンの妻ジェニーが、流産したのがわかって泣いていたときは、頭を彼女のおなかにぴったりと押し付けて、微動もせずに立っていた。

・子供をライオンにさらわれたバッファローが、ライオンを攻撃して助ける

・水路に落ちた猫を犬が体を張って助ける

・ライオンに捕まった小象を種が異なるバッファローが助ける

事例にもある通り、動物には、生来の正義感、思いやり、自己犠牲もいとわない気高さ、勇気、共感の力を持っています。本能的に生きる動物でさえこうした社会性を持っているのですから、社会性において群を抜いて進化している人間存在の場合は、もっともっと豊かな関係性、信頼、平和で幸せな社会を作れる潜在性があるはずです。こうした事例から見ると、前述の戦いの哲学は、必ずしも真実とは言えません。

・弱い者は、滅びるままにすべき
・強いものが弱いものを犠牲にして成長することが正義
・思いやりや愛は、不自然であり、間抜けな人の特徴
などの考え方は、断じて自然界の法則ではなありません。

しかし、一部の学者、企業家、政治家たちが語り、もっともらしく理論化されてきたそれらの考え方は、広く報道され、教育され、私たちの頭に深く沁みとおり、悪く言えば洗脳され、私たちの人生哲学の一部となってしまっているところがあるのではないでしょうか。
しかし、これらの考えは、権力者にとって都合のよい詭弁であり、決して自然界の真実ではないことを忘れてはいけません。

優秀と言う言葉は、やさしさに秀でていると書きます。ですから、弱肉強食や適者生存の考え方は優秀ではありません。やさしくないからです。

強欲の資本主義が間違っており、反省すべきだと考えられてきたのは、つい最近のことではないでしょうか。以前は、「人道的な会社は間抜けであり、利益を出せない」と考え、なりふり構わずに利益を出す企業がもてはやされる時代もありましたが、現代では、そのようなあさましい企業は、不祥事を起こし、顧客から見放され、業績が悪化すると同時に株価が下がり、窮地に追い込まれる事例が頻発しています。強欲な資本家や倫理観の無い起業家が市場を制覇するのではなく、善良な市民、消費者の健全な意識が市場に大きな影響を与える時代になりました。

21世紀の資本主義は、強欲の資本主義ではなく、もっと自制心と思いやりのある高い意識の資本主義に変わるべきだと考える人たちが多くなってきています。分離の哲学の幻想から抜け出し、本当のことに気づく人が増えてきたのではないでしょうか。今、時代は、古くて冷酷で偏った偏見や思想が力を失い、分離感の幻想から目覚め、本当のことに気づき始める大きなうねりが起こっているのだろうと言えます。

 

<現代社会の基盤となっている思想の検討 シリーズ記事>

戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ④曲解された思想の強大な影響

弱肉強食にしろ適者生存にしろ、誤解と歪曲によって原典とはかけ離れてしまった考え方ですが、それが真理のように私たちの社会に深く根付いている、強く影響を与えていることに注目してみましょう。
よく、ダーウィンの名言として引用される言葉があります。

「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか?そうではない。最も頭のいいものか?そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ。」

この言葉は、ダーウィンのが語ったと信じ込まれており、厳しい生存競争を生き残るための指針として、変化に適応するための努力を促す働きかけを正当化する原理として、多くのリーダーや政治家に頻繁に引用される言葉です。

しかし、実は、ダーウィンは、このようなことは、言ってません、この言葉は、進化論を独自に解釈したルイジアナ州立大学のレオン・メギンソン教授の言葉なのです。

もっともらしい主張で、耳障りがよく、進化論らしい主張のように思えますが、実は、ダーウィンの考え方とは違います。自然選択説と適者生存説、とても似ているように思える考え方ですが、全く違うのです。ダーウィンの自然選択説の視点からは偶然と多様性こそが進化の源泉であり、無駄のように見える多くの多様性こそが進化をもたらす大切な資源となりますが、メギソン教授の言う適者生存は、多様性を尊重しません。変化への適応能力に優れた選び抜かれた優秀な者だけが生き残り、弱いものや不完全なものは無駄なものと考えらえれて淘汰されて消えていくのが定めと考えます。

適応能力こそが存続と進化のカギだとすると、愛と慈悲に恵まれた環境にいた場合は、思いやりややさしさに満ちた存在が淘汰を生き残ることになりますが、暴力と残虐に満ちた環境にいた場合は、よりあさましく手段を択ばない醜い存在が優秀となり、未来を担うことになります。現実に、エンロン社のように、適者生存や弱肉強食の思想を真に受けて、社内で厳格な無慈悲な能力考課制度を敷いた企業が存在しますが、そのような企業では、最終的に出世し生き残った者たちは、こうした人の足を引っ張ることが得意で、仲間の業績を奪い自分のものとすることを何とも思わない、悪意と悪だくみを武器とするあさましい人材でした。結果的に業績は劇的に悪化し、破綻するか制度の見直しを余儀なくされています。

障碍者や社会的弱者、病気で苦しんでいる方々に対する見方も違います。適者生存の考え方では、障碍者や社会不適応者、社会的弱者は、能力が劣っているから淘汰されて当然という考え方になります。しかし、ダーウィンの進化論では、多様性こそが進化の源泉と考えるので、障碍者や社会的弱者は多様性を構成する一員であり、とても大切な可能性なのです。狭い了見の社会的な価値基準ではなく、自然という偉大な見地からは、自然淘汰を残り超えて生き残るのは、そのような人たちなのかもしれないのです。

ダーウィンは、キリスト教徒であり、リベラルな進歩主義者であり、奴隷制に反対していました。ですから、平和と平等、多様性を愛し、尊重する良き市民であり、ダーウィン自身は、弱肉強食、適者生存、優生思想と言ったいわゆる「社会ダーウィン主義」的な考えを否定していました。

彼の考える自然の在り方は、たくさんの不思議と偶然と無駄のように思える多様性から成り立っており、ゆっくりとたおやかな生命の進化が起こる奇跡に満ちている世界でもありました。そのような考え方が真実かどうかは別として、進化論を都合の良いように解釈し、歪曲して、科学的進化論のトラの威を借りて語った適者生存や優生学は、ダーウィンの考え方では無かったことだけは事実です。

ですから、私たちも、社会的進化論を、当たり前のように正しいと信じ込んでいるあり方を、検討していく必要があります。それらは、自然を観察した結果として導き出された科学ではなく、一部の人が都合よく解釈して歪曲した誤解を含んだ見解なのですから。
さまざまな自然をありのままに観察すると、自然界は、決してそのようなゆがんだ競争社会ではないことが分かります。もっと愛と思いやりとやさしさ、気高さや社会性のあるものであり、弱肉強食や適者生存、優生学は、自然界のほんの一部の暗い側面だけを取り出して、人間社会のひずみを正当化しようとしたこじつけ、極論すれば詭弁であると言えます。

弱者や貧者は、滅ぶのが社会のためだなんて、いったいどんなサイコで悪趣味の考え方なんだろうかと思ってしまいます。しかし、このようなゆがんだ思い込みの信念を持ったエリートたちや富裕層、権力者や政治家が、実際にこうした考え方、思い込みに基づいて施策をとってきたし、現在もとっていることは、恐ろしいことです。

また、そうした権力者たちの考え方に影響され、同調している人たちも決して少なくありません。2016年に神奈川県相模原市にある障害者施設で多くの障碍者の方々が殺害される陰惨な事件が起こりました。事件を起こした犯人は、「意思の疎通が取れないような重い障碍者は、安楽死させたほうが良い。彼らは人々を不幸にするだけだから」と語りました。

彼のこの考え方は、ここまで極端ではないとしても、似たような考え方を持つ人は少なくないのではないでしょうか。「貧困は自己責任」、「ホームレスがどうなろうと知ったことではない」、「生きるに値しない命は助ける必要はない」、「適者生存に反する障碍者や弱い人を助ける福祉は必要ないしお金の無駄」。少なからずの人たちがこうした考え方を是としているように思えます。しかし、それらの根拠、正当化の基盤となる思想は、決して真実ではありません。それは、誤解なのです。

ゆがんだ思想を真実だと信じ込み、それを原理として生きることを狂信と言います。私たちは、狂信の隘路にはまり込んでいるのかも知れません。私たちは、自分たちの考え方の基盤となっている思想をもう一度見直す必要があるのではないでしょうか。

 

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戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ③適者生存の検討

また、自然界の掟は、「弱肉強食」ではなく「適者生存」なのだと主張する論調も存在します。「適者生存」という考え方もずいぶん強く私たちの心の根底に根付いているのではないでしょうか。「適者生存」とは、イギリスの社会学者ハーバート・スペンサー(1820 – 1903)が「Principles of Biology(生物学の原則)1864年」で発表した言葉です。これに先立って発表されたダーウィンの進化論の中で語られている「自然選択」という概念を言い換えた言葉でもあります。
適者生存とは、生存競争の中で、環境に最も適したものだけが生き残って子孫を残しうること、適応できないものは淘汰されていくという自然界の厳しい掟についての考え方を言います。スペンサーは、ダーウィンの言う「自然選択」よりも自分が名付けた「適者生存」の方が的確な言葉だと主張しています。スペンサーは、この適者生存の考え方を、単に生物学としてだけではなく、社会学として、人間の世界に応用できる理論として展開していきました。現在では、適者生存という言葉は世界中に広がり、多くの人たちのよりどころ、考え方の基盤となっています。しかし、彼の適者生存の考え方は、本当に正しいのでしょうか?

実は、そもそもの原点となっている進化論を書いたダーウィンは、この「適者生存」という言葉が好きではありませんでした。スペンサーの考え方は拙速であり、自然に対する観察がまだ十分ではないと考えていたのです。ダーウィンの自然選択説は、適応するために意図的に努力したものが生き残るとは言ってません。彼は、偶然に起こった遺伝子の変異によって多様化が起こり、多様性の中から自然環境との相互作用により淘汰が起こり、生存するものの方向性、進化の方向性が現われてくると主張しています。つまり、意図的な努力ではなく、偶然の変化による多様性が進化をもたらすと考えたのです。

一方で、スペンサーの言う適者生存は、生存のためには適応しようとする意図や能力が介在すると考えています。進化は、偶然ではなく、意志が強く能力が高いものに起こると考えるのです。ダーウィンの自然選択説では、淘汰されるものは、努力や意図が弱かったからではなく運が悪かったからと考えられますが、スペンサーの適者生存では、弱かったから、能力が低かったからだということになります。
スペンサーは、ダーウィンが自然の観察から導き出した不確実性による進化の法則を人間の力による進化の法則に書き換えたことになります。しかし、このことは、良かったことなのでしょうか?

ダーウィンが考える自然選択説のエンジンとなる不確実性や偶然には、人間の狭い了見では計り知れない要因、不思議、人知を超えためぐり合わせが進化を導くという可能性がありますが、スペンサーは、そのような可能性は排除されてしまいます。ダーウィンは、運がよかったから生き残ったのだと考えるのに対して、スペンサーは、能力があったから生き残ったのだと考えます。スペンサーの言う適者生存の考え方では人間の狭く限定された“適応”という価値観が絶対となり、適応至上主義、能力至上主義の世界観となるのです。そこにはもはや不確実性、可能性、不思議さ、奇跡の介在がもはや存在しません。そこにあるのは、純粋に力の価値観だけなのです。
そのような言い換えが起こると、自然界の摂理の名のもとに、人間界の都合、強者や権力者の都合や価値観を押し通す少々強引な理論、つじつま合わせが可能となります。
「成功者は、適応の意欲と能力、努力があったから成功した、優れた選び抜かれた存在だから成功したのだ。だから、どんなに法外な資産の独占であっても、それは自然で当たり前の報酬であり、非難に値しない。また、敗北者は、適応の努力が欠けており、またその意志も弱く、能力ががないから失敗した。それらの人たちは、淘汰され、、退場していくことが自然の掟であり、同情したり助けたりすべきではない。」
こうした考え方は、資本主義社会の基盤となる市場経済、自由競争のあり方を正当化する考えとなります。私個人的には好きな考え方ではありませんが、現代社会がこういうありかたで存在していることが正しいことを証明する拠り所となっているのだろうと言えます。
また、こうしたスペンサー的な考え方が、優生学を生み出す土壌ともなりました。優生学は、ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴルトン(1822年-1911年)によって提唱され始めました。
優生学とは、「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし,悪質の遺伝的形質を淘汰し,優良なものを保存することを研究する学問(広辞苑)」です。優生学では、優秀な人や社会的に有益な人を繁栄させるために、そうではない人たちを人為的に淘汰、排除していくことが必要です。優秀とか有益とか、そうした一部のエリートの勝手な価値基準で、人間の命を扱おうとする考え方であり、ひどい人種差別や暴力につながる邪悪で恐ろしい思想でもあります。しかし、この優生思想は、第二次世界大戦の際のドイツのホロコーストの拠り所とされた理論です。こうした考え方が、ついに実態を持ち、多くのユダヤ人たちの命を奪った暴力につながってしまいました。
また、日本において1948年から1996年に至るまで優生保護法という法律が存在していました。優生保護法では、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するために、遺伝する病と考えられた病気にかかっている人や障碍者、精神障害者や知的障害者などの不良な遺伝子と考えられた人たちの不妊手術(断種)、中絶、避妊を合法化しています。この法律をもとに、多くの人たちが不本意な強制不妊手術をされています。仙台市在住の飯塚淳子さん(70代・仮名)は、誤解によって精神薄弱のレッテルを張られ、周囲の大人の思惑によって、16歳の時に本人の同意なしに強制的な不妊手術を受けさせられたと、謝罪を求めて国を訴えました。この優生保護法によって不妊手術を受けさせられた人たちは、総計で2万4993人に登ります。
現在では、人権侵害、憲法違反、障碍者差別、などと非難される法律ですが、つい最近まで存在し、私たちの生活に大きな影響を与えていたことを忘れてはいけません。

 

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戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ②弱肉強食の検討

競争原理のよって立つ原則ともなっている「弱肉強食」の理論を検討していきましょう。私たちが使う「弱肉強食」は、弱者の犠牲の上に強者が栄えること、又は、そのような闘争の世界観を意味します。この弱肉強食という言葉があるからこそ、世界の総資産の50%を1%の富裕層が所有し、残りの50%を99%の人たちでシェアするという極端な所得格差が、不自然ではなく当たり前のように感じるのだろうと思います。一方で、3秒に一人の子供たちが飢餓で亡くなることがあまり注目を集めず、何年も放置されている問題も、弱いものが犠牲になること、退場することは当たり前、自然なことと思われていることが原因なのかもしれません。
しかし、弱肉強食の語源は、実は、そうしたあさましい獣的な在り方の正しさを主張したものではないのです。「弱肉強食」という言葉は、中国の唐の時代に活躍した文人、韓愈(かんゆ)によって作られたものです。韓愈は、儒教の学者であり、礼節を重んじることの重要性を訴えていました。彼は、友人に、獣たちの世界とは違って人が人として生きる上で大切な礼節があるということを伝えようとして、以下の言葉を送ります。

夫鳥俛而啄、仰而四顧。
夫獸深居而簡出。
懼物之爲己害也。
猶且不脫焉。弱之肉,強之食。
今我與文暢安居而暇食、優遊以生死。
與禽獸異者、寧可不知其所自耶。

【意訳】
鳥は、餌をついばむときには、四方を見回す。
獣が山奥から出てきて、自分を害するかもしれないと恐れるからだ。
しかし努力しても害を免れない。
弱いものの肉は、強いものの食べ物である。
しかし、今、私と文暢(友人の名)は、やすらかに暮らし、ゆっくりと食事をし、悠々と生きて死ぬ。
獣や鳥のあり方と、人の在り方との違いを知らないでよいだろうか。

「弱肉強食」という言葉は、上記の詩の四行目によるものです。詩の全体を読むと分かりますが、韓愈は、弱肉強食の世界が人間界の宿命だなんて言ってません。ましてや、そうあるべき、そう生きるべきだなんて言ってません。韓愈がこの詩を通して言いたかったことは、獣のルールである弱肉強食と人間の在り方は違うということを言ってます。人間の在り方の本質には礼節があり、その礼節こそが、獣と人間を分ける分水嶺となるのだと主張されているのです。
ですから、人間の世界で、この弱肉強食の現象が起こることを、決して肯定しているわけではないということを忘れないでください。弱肉強食の語源は、人間の礼節の重要性、思いやりや気高さの重要性を主張するものだったのです。
韓愈の哲学からすると、現代社会の様々なひずみ、極端な貧富の差、ホームレス、飢餓、戦争、虐待、などなど、それらが弱肉強食の世界ゆえに仕方がないことだと考えることは、間違いであることが分かります。
そもそも、もし弱肉強食が真実であるならば、強いものが繁栄し、生き残るのが自然の摂理となりますが、それならば、なぜライオンが絶滅危惧種に指定されているのでしょうか、同様にトラやチーターといった食物連鎖のトップにいる存在も絶滅の危険があると懸念されています。逆にウサギは、肉食獣のような強さは持ち合わせていませんが、世界中で繁殖しています。ですから、強いからと言って必ずしも生き残れるわけではないのです。
語源からして意味を勘違いしている言葉であり、しかも、自然界の真実を語っているわけでもない、そういう勘違いが独り歩きしたような言葉「弱肉強食」ですが、この言葉の力は相当強く私たちの心に影響を与えているのではないでしょうか。弱い人、障碍のある人、苦しんでいる人、飢餓で死のうとしている人、それらの人たちに同情する気持ちをどこかに置き忘れてしまい、むしろ、困っていても仕方がない、亡くなるままにするのが正しい、それが自然の掟と言い訳をする。強い人はどんなに所有しても許される、強い人が多くを所有し生き残ることが自然だから、自分も多くを所有する者になりたい、と独占する人たちを崇め奉りあこがれる。これは、まさに、韓愈の言う獣の世界観であり、人の本分である礼節を忘れてしまっている人らしくない世界観ともいえるのではないでしょうか。私たちは、一見真実とも思える「弱肉強食」世界観を、もう一度検討する必要があるのではないでしょうか。

 

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戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

曲解された思想の強大な影響

自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

現代社会の基盤となっている思想の検討 ①戦いの哲学の検討

最近、ある芸能人が、「ホームレスの命はどうでもいい」と語り物議を醸しだしています。人権を無視した発言だと批判、炎上しています。しかし、考えてみると、ここまで極端ではなくとも、このような考え方を是とする人は、意外に多いのではないでしょうか。

私は、このような考え方は、ある意味、現代の競争社会の基盤となっている思想の一つになっているようにも思えます。

今回は、この市場原理、競争原理の基盤となる考え方について検討していきたいと思います。

「人は、本質的に戦いの生き物であるので、闘争に基づいて生きなければならない。」
「人は、本質的に社会的な生き物なので、愛や思いやりを大切に生きるべきだ。」
現代社会においては、2つのまったく志向の違う考え方があります。いったいどちらが正しいのでしょうか?

まずは、前者の「戦いの哲学」から検討してみましょう。戦いの哲学は、現代社会に大きな影響を及ぼしているいくつかの考え方、思想に基礎をおいていることが分かります。

「弱肉強食」、「適者生存」、「自然淘汰」、「生存共存」、「進化論」…、

それらは、現代社会が基盤としている哲学や考え方であり、私たちは、そうした理論が真実で、よって立つべき基盤、それが自然の法則であると当たり前のように考えています。そして、それらの考え方は、私たちの日々の生活や行動、仕事、企業経営や政治に大きな影響を与えています。

しかし、それらの考え方は、ほんとうに真実なのでしょうか?ほんとうに自然界はそのような法則で成り立っているのでしょうか?私たちは、それらを哲学として生きる基盤にして大丈夫なのでしょうか?

<現代社会の基盤となっている思想の検討 シリーズ記事>

戦いの哲学の検討

弱肉強食の検討

適者生存の検討

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自然界の本当の姿

人と社会の大きな可能性

時代を導くリーダーとなる

人には、全く性質の異なる2つの動機がある。
一つは、『自分には、何かが欠けている。欠けているものを手に入れなければ苦痛であり、恐怖であり危機である。 だから何としてでも獲得しなければならない。』と言う信念に基づく欲求だ。
それは、不安と恐怖にたきつけられる渇望であり、欠乏動機と呼ばれる。

もう一つは、『自分には充分な力と価値がある。自分の素晴らしさを表現したい。未知なることに挑戦したい。』 と言う信念に基づく欲求だ。
恐怖の束縛から自由となった人に訪れる情熱であり、人本来のまさに魂の欲求、実存動機と呼ばれる。

多くのマネジメントは欠乏動機を利用してきた。
欠乏動機による管理とは、あめとムチによる管理とも言える。
恐怖心に働きかけるリーダーシップは、やろうと思えばだれにでもできる簡単な方法であり、
一旦行い始めると確実に効くこと、安定的であり将来の予測を立てやすいと言う強みがある。
しかし、反面、メンバーのモチベーションは低下し、
防衛的かつ攻撃的風土を助長するので、官僚主義が跋扈し、生産性や成長性は、必ず頭打ちとなる。

多くのリーダーは、厳しい競争にさらされており、不安と恐怖の中にいる。
強力な圧力が常にかけられており、心無い攻撃により、心身ともに満身創痍だ。
だから、その多くが、自尊心の糸が切れると、いとも簡単に恐怖心に首を垂れることになる。
『自分は、みじめで孤独な力ないダメ人間だ。自分もそうであるように、他人もそうだ。 自分は被害者であり、こんなに苦しんでいるのだから自分を守るためなら、人を傷つけても許される』 と信じ込み、恫喝を使うことに躊躇がなくなる。
自らが恐怖の代理人となるのだ。
あめとムチを使い始めた当初は、目覚ましい効果が出るので、どんどんその傾向を強めるが、 遅かれ早かれ、必ず頭打ちとなり、結果的には、自ら奮った力によって滅ぼされることになる。

しかし、その困難を乗り越えて、実存動機を哲学とするリーダーも存在する。
実存動機によるリーダーシップとは、人を大切にして、人の持っている素晴らしい潜在性と可能性を信じ、 引き出そうとするリーダーシップだ。

実存動機を哲学とするリーダーの歩む道は平坦ではない。
人を大切にしたからと言って、相手がそれに応えてくれる保証はない。
そうしたからと言って、誰にも褒められるわけでも応援されるわけでもない。
むしろ、皮肉屋から冷笑されることもあるだろう。
実存のリーダーには、そんな痛み、不信感を乗り越える勇気が必要だ。

また、人の心からのやる気と能力は、本質的に不安定だ。
良い時は奇跡的な成果を出すが、悪い時は、永く無力だ。
実存のリーダーには、そんな浮き沈みをものともしない強い忍耐力と信念が必要だ。

さらに、人の可能性にかけるということは、将来の見通しも立ちづらいと言うことだ。
実存動機による成長は、まさにイノベーションによる成長だ。
まったく新しい商品の開発、新しい顧客との出会いによる、ある意味で奇跡による成長だ。
しかし、奇跡は、コントロールはできない。
奇跡を、事前に予測することはできない。
だから、未来の計画を立てることができない。
本質的に、実存動機は、管理とは相性が合わないのだ。

しかし、ひとたび実存動機が機能し始めた組織には、奇跡が起こる。
メンバーのハートは鼓動し始め、目の輝きが明らかに変わる。
分離感が癒され、心が開かれ、情熱と叡智が交流を始める。
現状の課題と問題点が、偏見によるゆがみを経ることなく、その真実が分かり、対処される。
今までは想像もしなかったような全く新しいアイデアや工夫が、 日常のあらゆる仕事の場面で創造され、実践されて、あっという間に現実が変わっていく。
結果的に、生産性と創造性は、想像を超えて高まり、奇跡的な成長を遂げていくことになる。

今、時代は大きく変わろうとしている。
むき出しのエゴイズムは、消費者から嫌われ、高い意識の経営が評価され、株価を上げる時代となっている。
強欲な資本主義から、高い意識の資本主義へと、静かに、ゆっくりと変わろうとしている。

そのような中で、求められるリーダーシップは、まさに、実存動機を哲学とするリーダーシップだ。
しかし、あめとムチによる欠乏動機のリーダーシップではなく、人間本来の可能性を引き出す実存動機のリーダーシップ という理想を担える存在は、そう多くはない。

その数少ない存在の中の一人は、あなただ。

被害者意識に甘えて、強い分離感に身を任せてはいけない。
勝つべきものは、相手ではなく、自分自身なのだ。

皆がそうだからと言って、絶望に身を染めてはいけない。
一隅を照らす光となるのだ。

あなたには、泥沼に落ちようとしている仲間を救い出す責任がある。
知っているなら、あきらめても手を緩めてもいけない。
真に仲間を守る戦士になるのだ。

あなたは、断じて欠点だらけの無力な存在ではない。
あなたの潜在性と可能性は、今の想像をはるかに超えて大きい。
その可能性を信じてみよう。
自分にするように、仲間の可能性も信じてみよう。
奇跡への一歩はそこから始まるのだから。

ポリヴェーガル理論④「人が人として生きられない時 トラウマの呪い」

ポリヴェーガル理論の視点から見ると、人が人らしく創造的に活躍できる時とは腹側迷走神経系が活性化し、社会交流モードが主導している時であると言えましょう。

前述の通り、人の自律神経系は、

①背側迷走神経系(リラックスと休息モード:危機状況では絶体絶命モード)

②交感神経系(闘争・逃走モード)

③腹側迷走神経系(社会交流モード)

の3種類があり、哺乳類以降に進化した最新バージョンが腹側迷走神経系だからです。

ちなみに、背側迷走神経系は原始的な生命から魚類に至るまで進化したものであり、交感神経系は爬虫類以降動物に至るまでに進化したものであり、どちらも哺乳類以降の社会性の中で進化してきた腹側迷走神経系に比べると、より古いバージョンと言えます。

ですので、人が人として生活している時には、腹側迷走神経系(社会交流モード)が主導している状態が普通と言えるのですが、必ずしもその普通のことが普通にできるわけではありません。

前述の通り、ストレスが高じると、モードシフトが起こり、交感神経系の闘争・逃走モード、背側迷走神経系の絶体絶命モードとなります。

モードシフトは劇的であり、スキャンを使った実験によると、脳内の血流が、モードシフトとともにがらりと変わります。

脳神経学者ベッセルヴァン・デアコーク氏とスコット・ローチ氏は、1994年、当時最新の脳画像技術を駆使して、フラッシュバックと呼ばれる過去の痛み、苦痛の体験を思い出し、過去同様に苦悩する現象が起こるときに、人の脳内で何が起こっているのかを突き止めようとある実験をしました。

実験は、くつろいでいる被験者が脳内スキャンをかけられている間に、被験者が体験した悲劇を再現する台本を読み聞かせ、被験者がフラッシュバックを起こす際に、脳内の活性がどのように変化するのかを調べると言うものでした。

その時の被験者は、マーシャという40代の女性で、自ら起こした交通事故により、5歳の娘と妊娠していた胎児をなくしてしまうという悲劇を体験していました。

実験が開始され、マーシャに交通事故を起こした時の台本が読み聞かされると、脳内で劇的な変化が起こりました。

変化の一つは、脳内の前頭葉におけるブローカ野と呼ばれる部分が急激に活動を低下させたことがあげられます。

ブローカ野とは脳の言語中枢の一つであり、そこの活動が停止すると、気持ちや体験を言葉にすることが大変困難になります。ものを上手に考え、言葉にして伝えることが出来なくなるのです。言葉にならない恐怖とは、まさにこのことを言うのでしょう。

変化のもう一つの特徴は、大脳辺縁系と呼ばれる感情脳(恐怖、怒り、悲しみ、など)が活性化したことです。

マーシャは、台本を聞かされた瞬間に、ものを考えられなくなり、強烈な恐怖と悲しみ、怒りに圧倒されるような体験をしていたことになります。まさに、人格自体がシフトしたのです。

マーシャの体験した交通事故は、13年前の過去の記憶なのですが、脳内の反応においては、今ここで体験をしているような反応が起こっており、まさに、最悪の事故をいまここで再体験していたことになります。悲惨な体験は、体験した時だけで終わるのではなく、その後も何度も何度も反芻するたびに、思い出すたびにその時と同様な苦痛を体験することになるのです。

心理学的には、こうしたいつまでも繰り返し体験する苦悩をトラウマ(心的外傷)と呼んでいます。

トラウマの厄介なところは、苦痛は体験した時だけにとどまらないということです。

その時に感じていた匂い、ふと目にした光景やアイテム、聞こえた音、雰囲気は、記憶の中にしっかりと残っており、それ以降に、それらの記憶のかけら、断片をふと体験した瞬間にフラッシュバックがやってきて、悲劇を体験した時のまったく同様な生理的反応が起こってしまいます。すなわち心拍数、血圧が上がり、ものを考えられなくなり、言葉がつかえなくなり、激怒し、恐怖におびえ、嘆き悲しみ、正気を失うのです。

トラウマに浸食されていない状況では、人は通常の社会交流モードで日常生活を人としての幸せを感じながら営むことが出来ますが、トラウマを背負っている場合は、そうはいきません。

ある時には、常に脅威にさらされているような不安と危機感が、脳内の雑音のように流れており、どのような恵まれた環境であっても臨戦態勢となります。すなわち闘争・逃走モードとなるのです。前述の通り、闘争・逃走モードになると、ものを考えづらくなると同時に、感情脳が活性化しており、怒りや恐怖、悲しみなどの感情が高ぶり、感情にすっぽりと支配されている状態となります。

さらにトラウマが深刻化した場合は、最後の砦となる背側迷走神経系が目覚め絶体絶命モードが常態モードとなります。

心拍数や血圧が低下し、動かなくなる、またはのろのろの不活性の状態になると同時に、感覚遮断という特別な変性意識状態となり、痛みを感じづらくなるのです。解離状態とも言われ、自分を自分自身から解離させて、自分を自分とは思えなくなる状態となります。

ですので、解離状態にある場合は、人は鏡で自分を見ても、自分とは思えない違和感を感じたり、過去の痛みを思い浮かべても、それを体験した人は自分ではなく他者であると認識するのです。

人が人らしく生きていこうと考えた場合は、まずは、こうしたトラウマの働きをしっかりと見つめ、理解し、癒していく必要があります。

ややもすると、人の乱暴なふるまい、怠惰な態度は、責められることが多く、矯正を迫られることも多いのですが、トラウマ心理学的に言うと、そんなに簡単にはいきません。もう少し人間理解を深めて優しくならないといけないのです。

ややもすると、自分のどうにもならない感情を責めたり、意欲がわかずにふさぎ込んでしまう自分の弱さを嘆き、否定し、自責や自虐の念に駆られることがありますが、それもトラウマ心理学的には自分に対してずいぶん暴力的で無理難題を言っていることになります。

自分がそのような状況になるのには超古代から伝わってきている深い深い“わけ”があるのです。そのような大自然から生まれた太古の昔からの危機対応方法として学んできた生命の叡智を、自分の狭い了見で裁き、責めてはいけないのです。

「闘い、逃げること」「ふさぎ込み、動けなくなり、感じなくなること」、それは、決して弱さではなく、むしろ誇らしいこと、サバイバルの叡智の結果として起こっていることで、受け入れて、逆に感謝して、尊重するべきものなのだと言えましょう。

 

【参考文献】

・「ポリヴェーガル理論入門」ステファン・W・ポージェス 著 春秋社

・「身体はトラウマを記録する」べッセル・ヴァン・デア・コーク 紀伊国屋書店

・「身体に閉じ込められたトラウマ」ピーター・A・ラヴィーン 星和書店

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人は、系統進化的に3種類の自律神経ネットワークを宿しており、

①背側迷走神経(古代の副交感神経系、消化、睡眠、排泄、生殖機能、身体の回復などを司どる。リラックスと休息モード)

②交感神経(爬虫類以降に進化、感情、身体を活発に覚醒、行動させる。闘争・逃走モード)

③腹側迷走神経(哺乳類以降に進化した社会交流システムとしての副交感神経系、呼吸、心臓、表情、発声、聞き取りを司る。社会交流モード)

以上の3種類のモードが時と場合に応じて機能すると考えられています。

通常、人が人として健全に社会生活を営んでいくときには、③腹側迷走神経 が最も活性化しています。他者に微笑みかけ、話しかける力、他者の表情や言動ふるまいから他者の内面を理解する力、お互いに豊かで平和な人間関係を営み、時に困難にあるときでも他者と関係性の中で協力し合い打開していく力の源泉こそが、この社会交流システムとしての副交感神経複合体なのです。

しかし、環境や状況が悪化し、トラブルが発生した場合、人に助けを求めることで解決しない場合には、②交感神経系が目覚め、闘争・逃走モードに変わります。感情エネルギーが爆発的に発露されて、捕食者のような脅威に対して、攻撃するか逃げるかの命がけのアクションを起こすのです。

さらに、そのような対応でも打開できない場合、③背側迷走神経が目覚めます。危機対応のために背側迷走神経複合体が活性化すると、絶体絶命システムが発動し、「凍り付き」「不動」「解離(心と体の解離)」と言う現象が起こります。死んだふりをすることによって危機を乗り越えようとするサバイバル戦略なのです。

通常、こうした危機対応は、脅威に直面した時に起こることであり、それが去れば、神経系に流れた強烈なエネルギーを身体の震えなどを通して解放することによって通常のモード(社会交流システム)に戻れるのですが、ストレスが強すぎたり、繰り返しストレスに被爆することが続くと、神経ネットワークに過剰な興奮とエネルギーが滞留してしまい通常モード(社会交流システム)にもどれなくなってしまいます。たとえ危険が去っても常に危機状態にあると心身が感じているので、命がけのサバイバルモードは続き、「凍り付き、解離モード」として抑うつ、心も体も動かない不活性、無表情、自己喪失感などの問題を引き起こしてしまうのです。

運よく癒しが起こり、背側迷走神経に滞留したストレスが解放されると、次の進化ステップとしての交感神経系の危機対応である「闘争・逃走モード」にシフトします。すなわち、興奮し、感情的になり、激怒して攻撃的になったり恐怖におびえて過剰に防衛したり逃亡したりなどの瞬発的な行動を引き起こすのです。

この交感神経系の興奮がおさまり、安全が確保されると、ようやく人間性の社会交流システムとしての腹側迷走神経系主導となり、人として他者と平和的にかかわり、やさしさ、思いやり、信頼の中で豊かな人間関係を築けるのです。

では、こうしたモードのシフトは、どのようにして起こるのでしょうか?私たちは、どのようにして危険を判断し、それぞれのモードで対応することを選んでいるのでしょうか?

ポージェス博士は、このようなシフトの前提となる環境のアセスメントは、自我による認識や判断ではなく生理的なものだと考えました。

「安全であること」または「危険性のレベル」に関する評価は、言語で大脳が判断することによって起こることではなく、大脳辺縁系や脳幹レベルのもっと原始的な部位によるアセスメントであり、心身の自動反応的なものと考え、そうした心身の生理的反応を「ニューロセプション(神経知覚)」と呼びました。

旧来の心理学やセラピーの考え方では、うつや心身症などの心の不健康を回復、治療する際に必要なことは、ものの見方考え方を変えることだと主張されていましたが、ポリヴェーガル理論的に言うと、こうした信念は少々的外れであると言えます。

言葉で慰めたり、いさめたり、目標を立てたり、努力して変えようとしても、問題となっている反応や行動を直接的に抑えたり変えたりすることはできないし、モードのシフトは意のままにはコントロールできないことになります。

例えば、塩酸に水を入れたときの爆発的な化学反応を意志の力で止められないように、ものの見方考え方を変えたとしても、おびえ切っている心身の反応(抑うつ、凍り付き、緊張、激情)は容易には止めることはできないのです。

【参考文献】

・「ポリヴェーガル理論入門」ステファン・W・ポージェス 著 春秋社

・「身体はトラウマを記録する」べッセル・ヴァン・デア・コーク 紀伊国屋書店

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今までの神経科学では、自律神経には、交感神経と副交感神経の2種類があると考えられていました。

交感神経とは、覚醒、緊張、興奮、闘争と逃走など、ストレスや脅威に対抗するために必要な働きをつかさどる神経ネットワークであり、

副交感神経とは、逆に、鎮静、消化吸収、生殖、睡眠、など、休息や回復と関わる神経ネットワークです。

交感神経は、捕食や防衛のために必要な神経ネットワークですが、心身にインパクトを与えるストレス要因ともなってしまいます。交感神経の興奮による疲労や不調和を調整するのが副交感神経で、副交感神経は、心身に保護的、調和、回復をもたらす良いものと考えられていました。

しかし、新生児の命を脅かす「徐脈(心拍数が極端に低下する)」「無呼吸」が起こるときは、実は、副交感神経が活発になっており、副交感神経の働きのすべてが心身の健康に良いもの、保護的なものであるとは言えなかったのです。

ポージェス博士は、この矛盾に注目し、なぜ副交感神経が時に健康に悪影響を及ぼすのかについて探求を進めました。その結果として、副交感神経(が大半を占める迷走神経)には2種類のネットワークがあること、そしてそれぞれの機能が異なっていることを発見したのです。

神経細胞は、主に「樹状突起」と呼ばれる細胞の主要部分と「軸索」と呼ばれる情報を伝達するための長い神経線維でできています。

軸索には、むき出しになっているものと、髄鞘(ずいしょう)とよばれる円筒形の膜で覆われているものの2種類があり、髄鞘のないものを「無髄神経」、あるものを「有髄神経」と呼んでいます。

有髄神経は、銅線のビニールの保護膜のように一様に全体的に髄鞘に覆われているのではなく、ソーセージのように飛び飛びにミエリンと呼ばれる絶縁性のリン脂質の短い円筒に包まれています。伝わる神経パルスは、ミエリン鞘部分を飛び越して、とぎれている所を飛び飛びに伝わるので、情報が早く伝わります。

進化的には、最初に出来上がった原始的な神経細胞が無髄神経であり、より進化した高速通信システムが有髄神経となるのです。

迷走神経(副交感神経)にも、無髄神経と有髄神経があります。

無髄神経の迷走神経ネットワークは、「背側迷走神経」と呼ばれ、主に横隔膜から下の臓器の制御を司っており、有髄神経の迷走神経系は「腹側迷走神経」と呼ばれ、主に横隔膜から上の臓器や表情筋などを司っています。

ポージェス博士は、同じ副交感神経(迷走神経)であっても、原初的な背側迷走神経と、進化型の腹側迷走神経では、役割と機能が異なっていることを発見したのです。

ポージェス博士によると、人間は、系統発生的に進化のプロセスに従って、3階層(種類)の自律神経ネットワークを宿しています。

最も原初的なネットワークは、「背側迷走神経」であり、消化吸収、睡眠と回復、生殖を司ります。原始的な生命から魚類に至るまでに進化した神経ネットワークです。

爬虫類以降の進化に伴って作り上げられた神経ネットワークが「交感神経」であり、行動、攻撃、防衛、などのアクティブな活動を司ります。

哺乳類以降になって、社会性が発達することに伴って進化した神経ネットワークが「腹側迷走神経」であり、心臓や肺に影響を与えるとともに、表情やアイコンタクト、言語や声色などを表現したり読み取る社会交流システムとして複雑な社会的、絆行動を司ります。

この3種類の自律神経は、時と場合に応じて活性化し、人の反応を司っていきます。

人が危機的な出来事に遭遇した時に、まず働くネットワークは、腹側迷走神経です。社会交流システムが活性化し、人間関係を通して危機を乗り越えようとします。すなわち「助けてください」と言うのです。

そのような社会性の対応で問題が解決できない時、次に目覚める自律神経が、「交感神経」です。交感神経が活性化すると、大脳辺縁系の感情中枢が興奮し、怒りや恐怖などの強烈な感情が起こり、闘争、又は逃走のサバイバルモードの具体的な行動を促します。

さて、そうしたサバイバルモードで対処しても事態が解決できない時には、最後の砦となる最も原初的なネットワークが発動します。すなわち背側迷走神経です。

背側迷走神経が危機対応で働くとき、「不動」「シャットダウン」という状況が起こります。動かなくなる不動状態となると同時に、心拍数が低下し、呼吸が浅く最低限となり擬死状態(死んだふり状態)となります。

ポージェス博士によると、この「不動」「徐脈」「無呼吸」による擬死(死んだふり)は、太古の脊椎動物の防衛機構だと考えられます。

爬虫類を観察するとこのことは良くわかると思います。じっとしてあまり動きません。爬虫類にとっては、この不動状態が基本的な防衛体制なのです。

このことは哺乳類においても良くあることです、草食動物などが捕食者に襲われて倒れると、動かなくなります。運よく難を逃れた後も、しばらくはそのまま不動の状態にありますが、間もなく呪縛が解けたようにブルブルっと身震いし、後交感神経系の逃走モードとなり走って逃げていくのです。

こうした擬死状態になるのには2つのメリットがあります。一つは捕食される可能性が低下するということ。死んで腐敗した食べ物を捕食者が嫌い、よりも活きのいいもの選ぶ可能性があるので、消極的ではあるものの生き残る可能性が高まるのです。

2つ目は、たとえ捕食されたとしても、擬死による“無感覚”という変性意識状態(又は、解離状態)にあり苦痛を感じなくて済むというメリットです。切ないメリットではありますが、最悪の状態における慈悲の状態ともいえるでしょう。

新生児の生命を危険にさらす可能性のある徐脈(脈が遅くなる)や無呼吸は、この背側迷走神経の危機対応反応が原因となっているとポージェス博士は考えたのです。

「不動」「徐脈」「無呼吸」は、魚類や爬虫類にとっては有効です。前述の危機対応となると同時に、数分呼吸が停止しても十分に回復することが出来るからです。しかし、哺乳類は酸素を大量に必要としており、この状態が長く続くことは危険です。ですから、太古の防衛機構は、必ずしも哺乳類にとって適応しているとは言えないのですが、生命を脅かすような危険にさらされたときには、そうした反応が起こるのです。

もちろん大人でも、同様に危機的状況にさらされたときには不動化の反応が起こります。人は、最新の社会交流システムと言う進化した神経ネットワークと同時に、闘争逃走を司る動物的なシステム、更には太古の脊椎動物の防衛機構も同時に宿しているのです。

【参考文献】

・「ポリヴェーガル理論入門」ステファン・W・ポージェス 著 春秋社

・「身体はトラウマを記録する」べッセル・ヴァン・デア・コーク 紀伊国屋書店

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