人が人として輝いて生きることが出来る状態は、ポリヴェーガル理論的に言うと、腹側迷走神経系が主導している社会交流モードであると言えます。
しかし、社会交流モードに、意図的になることはできないとされています。
ポージェス博士によると、危機対応によって人は、社会交流モードから闘争・逃走モードやシャットダウンモードに変化するとされています。
この防衛反応を起こす際の評価は、思考や意思ではなくニューロセプションと呼ばれる反射反応的な防衛機構が判断していると考えられています。
特に、トラウマと呼ばれる心理的外傷に関わる反応は、トラウマを体験した時とは全く関係のない時と場所であったとしても、その体験に似たあらゆる要因(匂い、風景、色、感覚、などなど)がきっかけとなり、トラウマの記憶をフラッシュバックさせて苦痛を再体験せざるを得なくなるのです。トラウマは既に過ぎ去ったことなのですが、その人の中では、まだその呪いは息づいており、何度も何度も色あせることなく繰り返し苦悩を体験することになってしまうのです。
そして、フラッシュバックは、人の意志や考え方では止めることはできずに、危機対応モードに自分自身が乗っ取られてしまいます。
人が意図も希望もしない反応を避けることも止めることもできずに、自分らしさからかけ離れた手負いの獣的、爬虫類的、魚類的あり方にハイジャックされ、コントロールされてしまう…。何とも厄介で過酷な試練ではないでしょうか。
では、どうすればこうした意のままにならない反応を食い止め、コントロールを取り戻すことが出来るのでしょうか?
ポージェス博士は、まずはこうした反応を嫌い、呪うのではなく、古代から伝わってきたサバイバルの叡智の結晶から生まれた事であり、誇りに思うべきだと仰っています。そうした反応に抵抗し、やっつけ、矯正しようとするのではなく、まずは受け入れるべきだと私は解釈しています。
また、ポリヴェーガル理論やトラウマ心理学の流れの中で、とても優れた素晴らしい方法が、どんどん編み出されています。
ヨガ、ニューロフィードバック、ソマティックエクスペリエンス(身体に働きかける療法)のさまざまな方法、マッサージ、内的家族システム療法、スキーマ療法など様々なカウンセリング技法、マインドフルネス、アート、ダンス、音楽セラピー、鍼灸鍼療法、経絡ツボ療法、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理療法)、などなど。
どの方法も素晴らしい方法であり、大きな可能性があると言えます。
ただ、どれも絶対の完璧なものではなく、発展途上であると同時に、相性もあると思います。興味のある方法をご自身の目と感覚で探求していけば、きっとより良いご縁が出来てくるのだろうと思います。
私も、さまざまな本を読み、お勧めのエクササイズを実践してみて、少しずつ学ばせていただいております。中には、ずいぶん入れ込んで探求を進めたものもあります。どれも今の私にとっては、貴重な学びです。
あくまでも参考としてですが、今の私にとって、大変役に立ってくれている瞑想と言う方法をここではご紹介したいと思います。瞑想は、古来から伝えられてきた方法であり、とてつもない高さ、深さ、広さがあると思っています。
よく瞑想は、潜水に例えられることがあります。潜れる深さの範囲内でしか世界を認識することが出来ない。深く潜る力があればあるほど、見える世界が広がり、気づきが深く大きくなっていく。そして、気づきの深さには際限がないのです。だから、瞑想のスキルも、想像を絶するような高い境地があるのだろうとも思っております。
私の場合は、水辺でぴちゃぴちゃと遊んでいる程度だろうと感じておりますが、そのようなレベルであっても、私にはずいぶん役に立っております。今でも毎日欠かさず行っている日課の一つです。
以下、一番基礎的で安全な方法をご紹介します。参考にしていただければ幸いです。
以下、「To be a Hero ~自分を生きる勇者となる~」より抜粋
<エクササイズ 「受け入れる瞑想」>
瞑想は、古来から伝わる自己探求の方法です。瞑想は、心の中のノイズを静め、過去や未来に向かってしまう心の焦点を今ここに戻し、今ここの自分自身を探求する方法です。今ここの自分自身には、通常の自分の顕在意識では認識できない繊細さ、精妙さ、大きなエネルギー、偉大なる可能性がまどろんでいると考えられています。瞑想は、そうした今ここの本来の自分とアクセスし、自分らしく輝いて生きていく生き方を後押ししてくれます。
なお、今ここの本来の自分とアクセスするためには、瞑想の立場では、決して特殊なことは必要ないと考えています。本来の自分は、作ったりどこかに探しに行くものではなく、今ここにいつでも存在していると考えています。それにアクセスできないのは、普段私が私だと思い込んでいる私の一部の活発な活動が障がいとなっているためであって、雑音を静め、思い込みを緩めていけば、自然に見えてくると考えています。太陽が存在していないわけではないのです。あまりに厚い雲で光がさえぎられているので、太陽の存在を感じ取れないのです。ですので、太陽を見たければ、雲を払うことが大切なのであって、太陽を作ろうとしたり、太陽を探そうと努力することは的外れなのだと言えます。
瞑想は、素晴らしい自分を作ろうとしたり探し求めたりはしません。ただひたすら雲を払う、私の中の適応や生き残りのための騒がしい活発な活動を静め、自分に対する固定観念を解きほぐしていく作業を進めていきます。劇的な変化というよりはゆっくりと一歩ずつ進めていく方法ですので、時間はかかりますが、確実に成長につながる方法と言えましょう。
私は、10年以上にわたって毎日コツコツと瞑想を続けています。別に実績を自慢している訳ではありませんが、日々の瞑想を通して、ずいぶん生きやすさ、元気を頂いている実感があります。信頼できる方法でかつ効果を期待できる方法だと思っており、本書でもご紹介したいと思っています。
私が瞑想を気に入っている理由は3つあります。
①何にも依存しない…瞑想は一人でできますので、お金も、物も、人間関係も必要ありません。もし、自分らしく輝いて生きるために、何か自分以外のもの、例えばお金や貴金属、愛する人や本、などが必要であった場合は、輝いて生きるためにはそれらに依存しなければなりません。他の何かに依存する生き方は、自分自身を信じて自分自身によって立つ自分らしい生き方とは言えませんよね。その意味で、瞑想は、特別な場所や物、お金や宝石など、他の何物も必要としません。身
一つで手軽に実践できる方法です。
②安全でジェントル…瞑想は、基本的には、ただ座ってじっとしている方法ですので、泣いたり、叫んだり、気を失ったり(寝てしまうことはありますが…)、などの浸食的、激情的な現象が起こることはありません。一切の暴力が排除されているシンプルな方法ですので、安全で穏やかで静かな方法です。また、長時間しなければならないなどの約束や縛りもありませんので、自分の気の向くまま、無理なくできる方法でもあります。だからこそ、長く続けることができるのだと思います。
③ちょっとずつ確実に効果が現われる…瞑想は、たとえ短時間であっても、実践を続ければ続けるほど効果が出てきます。ただ、悟りを開くとか超能力が身につくとかそうした劇的な効果は期待しない方がよいと思います。私が感じている効果は、日常のささやかなことです。一切やる気が出なかったけど掃除をする気になってやってみた、いつも不機嫌だったけど最近はよく笑うようになった、素直に人の話が聞けた、普段は感じない花の香りを感じて花がきれいに見えた、文句ばっかりだったけどありがたみを感じた、肩のコリが和らいで少し楽になった、姿勢がよくなった、少しやさしくなった、瞑想していること自体が楽しくなった、気づいたら風邪をひかなくなっていた、人と話すことが苦でなくなってきた、などなど、瞑想は、今までの生き方の延長上ではない、ほんとうにささやかではあるけれども思いもよらない変化が、ちょっとずつ確実に起こってくるように実感しています。私にとっては、こうした思いもよらない小さな変化こそがちょっとした奇跡であり、大切な大切な気づき、人としての成長につながっていくのだろうと思っています。自己探求には近道や王道はありません。逆に簡単にできる近道を唄う方法には、必ずどこかに落とし穴があるように思います。瞑想は、その意味で、地味ではありますが、楽しみながらコツコツと長く続
けてできる方法であり、ゆっくりと確実に効果が出てくる努力を裏切らない方法です。
以上の理由で、私は、瞑想を気に入っており、実践しております。百ある方法の一つであり、最善最強の方法というわけではないのですが、参考にしていただけると感じておりますので、本書でも、瞑想の方法をさまざまな節でご紹介していきたいと思います。ここでは、瞑想の中でも最も基本的で大切な「受け入れる瞑想」をご紹介します。以下のステップを参考にして、自分自身を探求していきましょう。
1.姿勢を正す
椅子などに腰掛け、ヘソを前に突き出し、あごを引いて姿勢を正します。手は、もっとも置きやすい形(伏せるなど)で置きやすい場所(腿の上など)に自然に置きます。
2.重力を受け入れる
受け入れる第一ステップとして、まずは、重力を受け入れていきます。重力は普段は意識しませんが、とてもパワフルであり、確実に私たちに働きかけてくれています。その存在のおかげで地球での生活が確保できるのですから。その重力を丁寧に感じて身をゆだねていきます。
まずは、左腕から左手のひら、左指にかけて重みを感じてみます。重みを感じることが少しでもできたならば、左手を重力に委ね、力を抜きます。ホッと力を抜くときに、左手の血流を感じ、温かさ、ジーンとする感覚を感じることがあるかもしれません。もし感じることができたら、その感覚を大切にしてください。
以降、右手→左足→右足→頭→首→胸→おなか→腰と重力スキャン、脱力を進めていきます。その際、力を抜くからと言って、姿勢を崩さないようにしてください。しっかりと姿勢を保つだけの力だけは確保しておきます。
重力を受け入れ、身体の温かさ、ジーンとする心地よい感覚に身を包まれながら、地球のやさしく安定した力強い重力という力で生かされていることに思いをはせ、感謝します。
3.環境を受け入れる
受け入れる第二ステップとして、今ここで置かれている環境を受け入れていきます。今いる場所がどこであれ、静かなところであれ騒がしいところであれ、その場所への文句や不満(あれば)を静め、緊張を解き、今ここの環境を「それでよし」とひとまず受け入れてみます。存在する地面、家、人、家具、空気を、今ここで感じている温度、におい、音を、「起こるべくして起こっている、何一つ過不足はない」という心境で受け入れ、抵抗や緊張を緩めていきます。
逆にそれらの存在があるからこそ今ここで瞑想できることに意識をはせてみます。実際に、床があるから座っていられます。その床は私が作ったものではなく誰かの努力で作られたものです。
実際に空気があるから呼吸ができます。その空気は自分 が作ったものではなく他の存在によってもたらされたものです。
実際に適度な温かさがあるから座っていられます。その温度は私が作ったものではなく他の存在によって提供されたものです。普段は当たり前過ぎて意識していませんが、よくよく考えて みると、それが無ければ一瞬たりとも生きることはできません。しかし、自分で努力して集めたわけではないのに、今ここでこうしていることに必要なものは全て満たされています。それが存在していることが実に不思議であり、ありがたいことだと分かります。もしかしたら、私は思いのほか周囲から守られ、愛されているのかもしれません。
今ここの環境を受け入れ、「今ここで私は守られている」「今ここで私は愛されている」と周囲を感じ、感謝します。
3.自分を受け入れる
受け入れる第三ステップとして、今ここの自分を受け入れていきます。今ここの自分は、私が自分だと思い込んでいる自分にはないミステリーがあります。自己探求はよく潜水に例えられます。自分は自分が潜れる範囲内でしか自分を認識できないので、それが自分のすべてだと思い込んでしまいます。1mしか潜れない人は、水深1m分の自分を自分の全てだと思い込み、それ以上の自分の可能性は全く認識できません。しかし、実際にはもっともっと深いリアリティが存在し、それは、探求されるまでは開示されることはないのです。今ここの自分にも、今の自分が自分だと思っている範囲をはるかに超える領域が存在します。そこには、今の自分では及びもつかないような素晴らしい可能性もあれば、封じ込めてしまった痛みや悲しみも存在しているのです。第三ステップでは、それらの自分という場で起こるあらゆる出来事を受け入れていきます。
①身体を受け入れる
まずは、自分の身体を受け入れます。自分の身体感覚に集中していきましょう。手、足、頭、首、胸、おなか、腰、足、呼吸などをモニターし、今ここで感じている感じ方のありのままを受け入れます。その際、こうあるべきだという思いでコントロールしようとすることは慎みましょう。時に、流れの悪さ、皮膚の痒み、居心地の悪さ、コリや痛み、などを感じることがあります。痛み
や痒さなど、体の位置を変えたり動かしたりなどで対応できるものに関しては、実際にそうして対処すればよいでしょう。一切体を動かしてはいけないというルールはありませんから。ただし、そういうことでは対処できない居心地の悪さ、イライラ、コリなどは、それをなおそうとしたり、無くそうとするのではなく、まずは、その存在を許し、受け止めて、よくその感じを味わってみることが大切です。
もしそれを手放したければ、しっかりと手で捕まえなければ遠くへ投げられません。もし遠くに打ち返したければ、球筋をよく観察しなければ空振りしてしまいます。いきなり操作コントロールしようとするのではなく、まずは受け入れてよく見て観察し、理解する必要があるのです。
なお、この身体感覚に集中するステップは、全ての基盤、基礎となります。何かに迷ったり、道を見失った場合は、いつもこの場所に戻ってくるようにしましょう。身体感覚は、うそをつきません。必ずしもそれが真実というではありませんが、真実への方向性を指示してくれる重要な羅針盤となります。今ここに戻ろうとした場合は、いつもこの身体感覚から始めるとよいでしょう。
②思考を受け入れ、手放す
瞑想を始めると、自分の内面に意識が向かいます。そして、瞑想の当初は、自分の内面の騒がしさに驚くかもしれません。
気になることや考え事がわいてきて、連鎖的にいろいろな考えが巻き起こり、とめどなく考えに耽ってしまう、瞑想中は、そういうことがよく起こります。考え事に集中していることに気づいたら、それを気前よくやめて、今ここの身体感覚に戻ってくるようにしましょう。
思考は、決して今ここのものではありません。思考は言葉によって出来上がっていますが、言葉は実態ではありません。ビールという言葉はビールそのものではありません。あくまでも本物に張られた名前なのです。名前はいつでも実態の後で貼り付けられるものであって、同時ではありません。ですので、言語化した時点で言葉はリアリティの後付け、“いま”ではなく“先ほど”の存在となります。思考は言葉によってできていますので、それはいつでも今ここを認識できません。それは、いつも過去のこと、未来のことを考えるのであって、今ここをありのままに感じ、味わうことはできないのです。
瞑想は、今ここの自分を探求する方法ですので、思考に集中してしまうと、瞑想ができなくなります。ですので、考え事に集中していると分かったら、そこから離れて、今ここに戻ってくる必要があります。その際、思考を止めようとしたり、思考する自分を責めたり罰することは慎みましょう。人であれば思考は好むと好まざるとにかかわらず必ずわいてくるものです。湧き出る自然の
湧水を止められないように、思考の出現も止められません。だから、止めようと努力することも無駄ですし、それができない自分を責めるのも自分に無理難題を押し付けていることになり、良いことではありません。できることは、思考が湧き出ることを許し受け入れること、そして、執着せずに手放すこととなります。
ですから、瞑想中は、思考を観察し、出てきたらそれにどっぷりつからずに手放す作業を繰り返します。思考を観察することによって、私は思考そのものではなく、思考から距離をおいた存在、思考を観察する存在となります。同時に、思考の世界である過去と未来にとらわれるのではなく、自分の意志で今ここに戻ってくる自由を獲得することができるようになります。この努力は、筋トレのように毎日繰り返すとどんどん強くなり、スキルが高まります。
思考を観察し、考えていることに気づいたら身体感覚に集中し、今ここに戻ってくる。単調な作業ではありますが、この繰り返しが、自己探求と言うとても大切な能力と力を伸ばす大きな意義のあるレッスンであることを理解しましょう。
③感情を受け入れ、共感する
瞑想中に、思考だけではなく、時に感情が沸き起こることもあります。考え事に触発される、嫌いな人(動物)の声が聞こえてイライラする、その日の気分としてうつうつとした感情がノイズのように流れている、など、瞑想中に、否定的な感情が沸き起こることも良くあります。自分の中の感情に気づいたら、その感情を抑圧しようとしたり変えようとするなど、コントロールや操作は慎みましょう。
後述しますが、トラウマのような痛みの記憶は、身体エネルギーの流れのどこかに記憶され、解放されるまではその人に悪影響を及ぼすと考えられています。ですから、自分の感情に気づくということは、自分の中にある癒されない痛みに気づくということ、それは、癒しや成長の絶好のチャンスでもあります。ですので、瞑想中の感情を触発する出来事は、福音なのかもしれません。自分の感情に気づいたら、それが起こることをを許し、受け入れ、それを操作コントロールしようとせず、それに伴って起こっている身体感覚=胸がふさぐ、手が汗ばむ、背中が痛む、みぞおちが重くなる、浮足立つ、などなどさまざまな身体感覚に集中し、その感覚の推移を味わってみましょう。但し、無理は禁物です。あまりにもつらい場合は、いったん中断してください。
癒しは、一気に全部起こるわけではありません。人の抱える痛みは一気に全部癒やせるほど、扱いが容易なものではありません。不用意に近づきすぎるとやけどをする可能性もあります。ですから、欲張って無理をしてはいけません。一歩ずつ近づき、一滴ずつ癒やす、そういうアプローチがちょうどよいのだと思います。
ただ、方向性としては、感情の痛みをすぐに治そうとしたり、無視しようとしたり、コントロールしようとするのではなく、それを許し、受け入れ、共感することが大切です。痛みの感情にも意地があるのです。それから逃げようとしたり、無視したり、消そうとしたりコントロールしようとすればするほど、それは大義名分を得て力を増して反撃してきますが、その存在を許し、あたたかく受け入れ、共感すれば、その痛みが癒され、蓄積されていた痛みの感情エネルギーが解放されて、それ以降は影響を与えることは少なくなるでしょう。
以上のステップを参考にしながら、自分の身体感覚に集中することを通して今ここの自分を感じてみることを続けていきます。最初のころは5分~10分、慣れてきたら30分程度続けてみるとよいでしょう。
瞑想を始めた最初のうちは、瞑想中に、かゆみ、痛み、苦痛、いらいら、落ち着きのなさ、など、瞑想の目的の一つである心の落ち着きでどころはなく、逆に不快感を感じる場合がよくあります。そうした不快な体験を受けて、「私には瞑想は合わないのだ」と思い込んで、続けるのをやめてしまう人が結構多くいらっしゃいますが、それはとても残念なことです。
瞑想をしたから不快感が起こってきたのではないのです。それは、瞑想をする前から自分の中で起こっていたことであり、普段は気づかなかったことが、瞑想で浮き彫りになったということなのだと思います。そうした心の中の不快感に気づき、受け入れ、味わうこと自体が、深い癒しにつながり、健康と成長につながっていくものですので、簡単にはあきらめずに続けていくことが大切です。
瞑想で不快感ばかり感じてしまう人は、瞑想が合わないのではなく、逆に効果が大きすぎるのです。ですので、あまり無理せず、5分程度の短時間でも構わないので、その不快感と向き合ってみてはいかがでしょうか。「座禅は安楽の法門」と言う言葉があります。瞑想も慣れてスキルが高まってくると、気持ちよさを感じ、ストレスの解消や疲労回復、能力のアップにつながってくると言われていますので、簡単にあきらめずに、少しずつでも構わないので継続してみましょう。
瞑想は、長時間座って達成感を感じられたとしても、気まぐれで時々であればあまり効果はありません。無理のない範囲内の時間で毎日コツコツと続けたほうが効果的です。また、瞑想をした後で必ず心が安らぎさわやかな気分になるとは限りません。時には、癒やされた実感を全く感じなかったり、逆にすっきりしないモヤモヤが残るかもしれません。それはそれでよいのだと思います。そんな瞑想にも必ず価値がある。どんな瞑想でも、瞑想は瞑想、瞑想は裏切りません。必ずそこには意義があります。3勝2敗程度のおおらかな気持ちで、大きな期待を寄せずに、毎日の洗顔のような習慣のつもりでコツコツと続けるとよいでしょう。
瞑想を続けると、次第に緊張感が和らぎ、ストレスに影響されづらくなり、不安感や恐怖感から解放されやすい免疫力を養うことができます。きっと続けて数か月もたてば疲れづらい元気な心身の状態を回復してくることに気づくでしょう。ぜひ挑戦してみましょう。
瞑想の最後には、この瞑想という場を提供してくれた環境と自分自身に感謝して、終了します。
【参考文献】
・「ポリヴェーガル理論入門」ステファン・W・ポージェス 著 春秋社
・「身体はトラウマを記録する」べッセル・ヴァン・デア・コーク 紀伊国屋書店
・「身体に閉じ込められたトラウマ」ピーター・A・ラヴィーン 星和書店
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