カテゴリー別アーカイブ: 06.人材教育の理論・情報

体験学習とは? Tグループの誕生

<Tグループの誕生>
 Tグループは、1946年夏、コネティカット州ニューブリテン市の州立教育大学で、コネティカット州教育局人種問題委員会とマサチューセッツ工科大学集団力学研究所共催で開催されたワークショップ「公正雇用実施法の正しい理解とその順守を促進する地域社会のリーダー養成」での偶然の出来事に端を発しています。

 当ワークショップの参加者は、ソーシャルワーカー、教育関係者、産業界の人や一般市民で、「人種差別をなくすためにはどのようなことが必要なのか?」についてのテーマのもとで、グループ討議やロールプレイングなどでプログラムが展開してくことになります。
 レヴィンは、そのワークショップがより効果的に運営されるように、他の研究員と共に、スタッフとして参加したのです。

 さて、一日目のプログラムが終わった後、Tグループ誕生の発端となる出来事が起こります。
 初日のプログラム終了後、K.レヴィンの発案で、グループの状況をより正しく認識するためのスタッフミーティングが行なわれました。話し合うメンバーは、もちろんスタッフですが、そのミーティングに興味を持っている数人のワークショップに参加している受講メンバーが、スタッフミーティングに参加することを希望し、傍聴者として参加することを許可されたのです。

 ミーティングでは、当初、ワークショップ中にグループ討議をしているときのメンバーの言動や様子、感情の動き、リーダーシップやコミュニケーション上の出来事に関するさまざまなプロセスの観察報告がなされていました。しかし、観察データの報告の最中に、そのミーティングを傍聴していたワークショップ参加メンバーから、報告されていた観察事実の解釈に対して異議が唱えられたのです。それをきっかけに、観察報告だけではなく、グループ討議の中で起こっていたワークショップ参加者の生の体験や本当に感じたこと、気持ちが開示されるようになり、人間関係のありのままのプロセスについて、さまざまな人から意見が出てきて、結局は、リーダー、調査研究者、メンバー全員が、一堂に会して、3時問にも及ぶ討議となったのです。

 報告された観察事実の解釈の一例を挙げると以下のようになります。

 「午前10時、X夫人はグループリーダーに攻撃を加えた。Y氏はリーダーの弁護につとめた。そのため、X夫人はY氏と激論を戦わすことになった。また他のメンバーの中には、この論争に巻き込まれてどちらかの味方をするはめになった者もいた。他のメンバーは恐怖を感じ、2人の激論を平穏におさめようと努力しているように思われた。しかし、それも激論中の2人からは無視された。10時10分、リーダーは、激論のために忘れられていた話題に注意をひきもどした。X夫人とY氏は、その後の討論でも互いに反駁しあった」。 『人間関係トレーニング』(津村俊充・山口真人編 ナカニシヤ出版)P11より引用

 このような観察報告に対して、グルーブメンバーが体験した感情や心の動き、他者や出来事に対する自分の認識や反応などのデータを率直に出し合って、その場で起こっていた本当のことをオープンにして、全員がありのままに認識することができるようになってきたと同時に、以前のグループ討議のことではなく、今ここのスタッフミーティングで起こっているプロセスにも焦点が当たるようになり、今ここで感じているお互いの正直な気持ちが開示されると同時に率直なフィードバックが行われ、コミュニケーションが深まることを通して、メンバー同士の深い相互理解が起こったのです。

 この出来事は、メンバーにとって、人種差別をなくすこと、人間尊重、相互理解や相互信頼ということについて、体験を通した深い理解と学習を促進し、メンバーやスタッフにとって非常に大きなインパクトを与えると同時に、貴重な学習の機会となったのです。

 レヴィンや参加メンバーは、この出来事を通して、人間関係やグループの学習は、既に一般化された知識や概念の学習よりも、”いまここ”の場で起こっているリアルな体験を学習素材に用いる体験学習の方が、はるかに効果的であることに気づいたのです。

 この出来事がヒントになって、レヴィン没後、翌1947年夏、メイン州、ベセルにおいて、前記ワークショップと同じトレーニングスタッフで、3週間のセッションが開催されました。
 このプログラムは、BST(Basic Skil Training)とよばれ、翌年の1948年以降は、NTL(National Training Laboratories)が主催し、”Tグループ”と呼ばれるプログラムとして、開催されるようになりました。

 以後、Tグループは、様々な技法を取り入れて、ラボラトリーメソッドと呼ばれる教育技法として、全世界に広がっていったのです。

<参考文献>
 「TグループQ&A(1990年3月)」 星野欣生 『人間関係』南山短期大学人間関係研究センター刊
 「人間関係トレーニング」 津村俊充・山口真人編 ナカニシヤ出版

体験学習とは? 体験学習の原点

<体験学習の原点>

 体験学習の歴史は、K.レヴィン(Lewin,K,.1890-1947)の活動に端を発しています。
 レヴィンは、社会心理学の偉人であり、小集団の人間関係(コミュニケーション、リーダーシップ、信頼関係など)がそのパフォーマンスに大きな影響を与えているだろうとの考え方をもとに、多くの小集団の実践研究を展開し、グループダイナミクスと呼ばれる小集団の社会心理学の分野を創始しました。

 彼の研究を通して発見された理論や方法は、大変効果的で有用なものが多く、『パーソナリティの力学説』『アクションリサーチ』『力の場の理論』『グループダイナミックス』など、現在でも多くの理論や技術が幅広く活用され、応用されています。
 その技術の中の1つに、Tグループと呼ばれる人間関係を学ぶことを目的とした学習方法があります。

 Tグループは、「人間関係スキルの向上、個人の人間的成長、リーダーシップなどのグループスキルの向上」などを目的として開催される集中セッションであり、通常5泊6日程度の合宿で開催されることが多いといえます。
 プログラムは、主に、Tセッションと呼ばれる80分にわたる集中セッションが、休憩を挟んで1日4~5回程度繰り返される展開となります。
 Tセッションでは、椅子だけが人数分円形に並べられており、ファシリテーターとメンバーは、自由に着席します。実施内容は、何も決められておらず、すべてがその場で起こったことを元に進められていきます。学習の素材は、「いまここ」であり、今ここで起こっている気持ちや人間関係、ダイナミックスを個々人が言語化して、お互いに対話することを通して理解を深めていく展開となるのです。
 主に、昼食後の午後一番には、Gセッションと呼ばれるセッションが実施されることがあります。Gセッションとは、Tセッションとは違った状況の中で、プロセスへの理解を促進するために実施されるセッションで、あらかじめ構造化された実習やツールを使用して自分について、自他の影響関係について学ぶことになります。実習は、たいていよく工夫されており、刺激的で、楽しいことが多く、グループで起こっている人間関係やダイナミックスが浮き彫りになり、とても探求しやすくなることが多いといえましょう。

 体験学習とは、実は、このTグループを応用した学習方法であります。
 現実的に6日程度の日程を研修に使えない企業や組織の事情を背景に、もっと短時間で効果的な方法をということで、主に、Tグループにおける午後一番で実施される構造化された実習を元にしたGセッションだけを集めて実施するようになったものが、体験学習だったのです。

体験学習とは? 体験学習の効果

体験学習の目指すもの、そのねらいは、主に、個人の領域と集団の領域に分けることができます。

1.個人の領域
 体験学習は、ありのままの現実を良く観察することを通して、本質や可能性を探究してく方法であり、個人が本来持っている自然でリアルで限りない力や可能性と出会い、本当にそう生きたい生き方や自分らしく輝いて生きる生き方を後押し、支援ができる優れた方法です。
 体験学習を通して個人が学ぶことができる要素の代表として、私どもは以下の項目を考えております。

①主体性
自分自身が感じたことや気づいたことを信じ大切にして、その体験をもとに学ぶことを繰り返すことで、自分のコントロールセンターを、他者の権威に置くのではなく、自分自身でつかみとり、ついには自分の人生を自分らしく輝いて生きる主体性を獲得することにつながります。

②自己信頼と自尊心の回復
等身大で、ありのままの自分自身を探求することを通して、自分の注意すべき点に気づくと同時に、思ってもみなかったような輝かしく大きな存在としての自分自身に気づくことが多く、自分の中に深く根付いている否定的な自己概念が解かれて、よりリアルで自然で健康的で偉大な存在としての自己を回復することにつながります。

③落ち着きと集中力
ありのままを一旦受け止めてみること、現実をそのままで観察してみることを繰り返すことで、その場で起こっているありのままの現実を嫌ったり恐れたり拒絶したりすることによる内面の騒がしい反応が静まり、落ち着いてよく場や現実を観察する能力や集中力が格段に向上します。またその落ち着きと集中力は、個人の潜在化しているさまざまな能力やスキルを表に出す強烈な力となるのです。

④創造性(Creativity)
内面で起こった気づきやひらめきやアイデアを大切にして、それを書とめて、実際に表現していくことを通して、次第に個人の表現力のスキルが高まり、個人の創造性も同時に開花していくことになります。

⑤チャレンジ精神
体験学習は、実践を通して学ぶ方法であり、試みる学習方法でもあります。
ですから、個々人のさまざまな挑戦や試みは、守られ奨励される風土の中で、新しい自分を発見し、その可能性に挑戦していくスキルも身につけることができます。

2.集団の領域
  体験学習は、リアルに起こる人間関係のプロセスを通して、そのより効果的なあり方を探究していく方法です。ですから、人間関係(チーム、組織)のより良いあり方を学ぶと同時に、実際に場のメンバーのコミュニケーションの改善やリーダーシップスキルの向上が起こり、受講チームの生産性や創造性が大幅に高まることが多いといえます。
 学習と改善が同時に起こる体験学習方式は、職場ぐるみで実施するなどを通して、実際の現場を改善していくことができる実践的な現場変容のツールともなるのです。

①コミュニケーションの改善
コミュニケーションは、安全性や生産性、創造性に大きな影響を及ぼす要素ですが、体験学習は、この職場のコミュニケーションを改善し、開放的でオープンな風土を醸成することにつながります。

②チームビルディング
  チームとして協力し、チームパフォーマンスを高めるための実践学習を通して、チームの優れた可能性を引き出すことにつながります。

③基本的な信頼関係の育成
深くて正確なコミュニケーションを通して、メンバー相互の懸念や誤解を解消し、相互理解を促進すると同時に、共に協力し合って課題を成し遂げるために必要な基本的な信頼関係を育成することができます。

④生産的、創造的な組織風土の醸成
体験学習の学習目標である、オープンなコミュニケーション、相互に信頼しあえる関係、共通のヴィジョン、自己実現に関する学習を通して、組織全体としての力、生産的で創造的な組織風土の育成につながります。

体験学習とは? 体験学習の学習プロセス

 体験学習は、先生の講義や理論モデルから学ぶと言うよりは、体験から学ぶ方法であり、通常の場合、まず、チーム活動や個人ワークのような”実習(structured experiences)”と呼ばれる体験エクササイズを実施します。
 各種の実習は、さまざまなレパートリーがあり、楽しく熱中して参加できるように工夫されています。たとえばチーム活動のような実習を実施すると、チームコミュニケーションは一気に活性化し、文句なく楽しいことが多いので、メンバーの参加度合いは増し、凝集性は高まることが多いといえましょう。
 しかし、ややもすると、このような刺激的な実習の側面だけをとらえて体験学習と呼ばれることが多いのですが、単に体験だけでは、本当の意味での学習にはつながらないと私どもは考えております。
 体験学習は、単に体験で終わるのではなく、体験したあとに、体験プロセスをじっくりと丁寧にふり返り、観察していくことを通して、普段は隠れて見えることがない人間関係の中で起こっているさまざまなことがらに光を当てて、思い込みではなく、関係性の真相やありのままのリアリティを理解していくことを試みる学習方法なのです。ですから、どちらかと言うと、刺激的で興奮する学習方法ではなく、粛々と淡々と内面や関係性をみつめ理解を深めていく方法であり、その学習がうまく行くときは、たいていの場合、静かで穏やかな雰囲気になることが多いのです。
 その具体的なプロセスは、以下のとおりです。

①体験
  体験学習の場合には、まずは、体験することから学習が始まります。具体的には、グループワークやエクササイズなどの実習を体験します。

②観察
日常の生活では、体験の連続で、体験をふりかえることは、特別な場合を除いて少ないと言えますが、体験学習の場合には、丁寧に体験を観察していきます。また、忙しい日常生活の中では、あらかじめどう行動すべきか、どう考えるべきか、などといった自分なりの仮説や正解、態度をもって体験とかかわりますが、体験学習の場合には、そのような自分の中に既に構築されているメンタルモデルをひとまず保留して、体験したことを習慣となった反応パターンで解釈し、良い悪いを判断し、どうすべき(だった)かの結論を即座に下してしまうのではなく、起こった出来事や体験したことを、ありのままに丁寧に観察していくことになります。
われわれは、さまざまな知識を身につけており、いろんなことが分っているつもりでいますが、おおよそ人間関係について、より良いあり方、生き方、そうあるための方法、などについてよくよく考えてみると、本当のことは何も分っていないと言えるのではないでしょうか。体験学習では、わかったつもりになるのではなく、謙虚に現実を観察し、ありのままの姿をよく探求することを徹底的に行っていくことを通して、隠されている真相や真実を学んでいこうと試みる学習方法でもあるのです。
具体的には実習の後で、実習中に体験した様々な事柄(自分の感情、感覚、思考、など)を言語化し、紙に書いていきます。その際、体験をふりかえりやすくするために設計された一定の書式(プロセス観察シート)を使うこともあります。

③分析
   観察した事柄をさらに探求し、起こった出来事の原因を分析していくステップです。
体験したことは、②の観察を通して光が当てられて、それだけでも大変価値のあるふりかえりをすることができるのですが、ただ、人間の認識にはバイアス(偏向)がかかっており、事実をありのままに理解しているとは限りません。例えば、前述のとおり、自分の実感では「太陽が動いている」のですが、現実は、「地球が動いている」のです。特に、人間関係のような複雑な現象を理解する場合には、誤解や思い込みが多く、真実を知るためには個人だけの認識ではなく、多くの視点から観察したデータを持ち寄ることが大事となります。
ですから、本当のことを理解していくために、メンバーそれぞれが体験をふりかえった観察データを公表し分かち合います。この分かち合いを通して、ありのままの現実や本当のことを理解していく事が出来るようなるのです。

④仮説化
①~③までのプロセスを経て明らかになった現実の出来事について、「なぜその様な事になったのか?」について自分なりに仮説化します。ここで統合された仮説は、間違いがない真実とは限りませんが、今の時点では体験から導き出された宝であり、価値ある叡智と言えましょう。
なお、この仮説化の一助として、一般的に認知されている理論などを解説する”小講義”がなされる場合もあります。
導き出された仮説は、次の実習で検証したり、実践してみて、更に深く探求し理解していくことが出来ます。また、より良いと思える方法を次の実習で試みて行くことができるので、実習を繰り返すうちに、個人として、チームとして成長を実感して行くことができるでしょう。
このように、実践や試みを通して学習し、成長を図ることができるので、体験学習方式による方法は、ラボラトリーメソッド(実験室メソッド)とも呼ばれています。

学ぶということ?(最終回)

<(引き続き)体験から学ぶと言うこと>

 私たちが、内面で体験したこと、感じたことや気づいたことを信じ、大切にした上で、単に内面だけにとどめるのではなく、それを共通体験している友と分かち合うことが、真実への近道であると考えています。

 『人間関係、”今ここ”、真実』、対象はさまざまですが、分かろうとすることは、いずれにしても、途方も無く広く大きく奥行きが深いものです。自分が、それを”青”と認識しても、他人がそのように認識するとは限りません。”黄色”と見る人もいるだろうし、”緑”と見る人もいるでしょう。しかし、そのどれかが正解で、他の見解が間違えているということではありません。なぜならば、いずれも複雑なものの、ある側面を見ているわけであって、その方向や立場からは、確かにそのように見えるのです。ただ、観察する角度や場所を変えればまったく違ったものに見えることも確かであり、一見矛盾しているように思えることもありますが、その立場から見た見え方に間違いはありません。ただ単に、見方が部分的なだけなのです。

 同じ町を、東から見るのと西から見るのとでは、違った町に見えますが、実は、同じ町を見ているのです。
 同じ町を、低地から見るのと、山の上から見るのとでは、違った町に見えますが、実は、同じ街を見ているのです。

 しかし、それぞれの見え方を集めて行くと、本当の町が見えてきます。
 それぞれの認識を分かち合って行くと、どんなに広く深く大きな対象であっても、その全体像、真実に近づくことができるでしょう。

 内面の体験は、自分にとっては大切な宝物ですが、それを相手に伝えたとき、相手が宝物として扱ってくれる保障はありません。ですから、内面の体験を分かち合うことは、とっても勇気が必要であり、相互信頼が必要ではありますが、もし、本当に信頼が起こって、人と人とが、本当の体験を正直に語り合うことができたとしたら、きっと本当のことが分かってくるのではないでしょうか。
 そして、もし本当のことが分かれば、どうすればより自分らしく輝いて生きることができるのかは、おのずとわかってくるでしょう。

 信頼に値する”モデル”から学ぶことも大事ですが、日常の”体験”から学ぶことも大変価値があるものです。
 体験を大切に扱い、それを友と分かち合い、本当のことを理解して、真実に基づいて自分の人生の舵を切る。こんな生き方はいかがでしょう。

 ”体験から学ぶ”、そんな生き方、学び方をお勧めします。

学ぶということ?

<私たちは、真実を学んできたわけではない>

 私たちは、成績を付けられることに慣れてしまっており、ある意味で評価されることで飼いならされており、どんなことでも評価基準や成績がつけられないと不安になってしまっていないでしょうか?不安だからこそ、答えや標準、満点など存在しないことでもそれがあるはずだと思い込んではいないでしょうか?

 私たちのどこかに、人のありよう、生き方、人生、コミュニケーション、リーダーシップに正解があるはずだ、完璧なものがあるはずだと思い込んではいないでしょうか?
 もしそうだとしたら、ヒューマンスキルに、正解があると思い込んでいるのは、ある意味で、幻想といえないでしょうか?個性に、正解があると思い込んでいるのは、ある意味で、途方も無い勘違いではないでしょうか?

 もし、生き方や関わり方、問題解決の仕方に正解があるのならば、なぜ、世の中は、かくもこのようなのでしょう?なぜ戦争はなくならないのでしょう?なぜ家庭が平和ではないのでしょう?なぜこうも悩みが多いのでしょう?

 明らかなことは、答えであると教えられてきたことは、決して本当の真実ではないということではないでしょうか。なぜならば、教えられたように努力して、私たちは今のような社会をつくっているからです。そして、今の社会は、全てがうまく言っているとはいえないでしょう。

 完璧さを求める理論やモデルの中には、”非難されないために””不安や恐怖から逃れるために”または、”誰かがその人の都合のよい人間に矯正するために”つくられておいるものもあり、”自分が自分らしく本音でそう生きたいために”だけ作られたものばかりとは限りません。

 また、おおよそ、人間の心理やあり方に関する理論は、仮説であって真実ではありません。また、部分的、ほんのひとつの断片を描いたものであり、決して全体像を説明し切れているものではありません。

 どんなに権威ある考え方、理論でも、もしかしたら、勘違い、思い込みであるかもしれないのです。

 もしそんな勘違いや間違いを信じ込んで人生の機軸としてしまっているとしたら、危険であり、本来の自分の人生とは違う生き方になってしまうでしょう。

 事実、人は、この宇宙を説明する最高の理論である宗教の名の下に、たくさんの人を殺しています。

 私たちは、教えられてきたことや、教えようとされていることに対して、もう少し注意深くなる必要があるのではないでしょうか。

 私たちは、自分の生き方を決めて行くときには、本当のことに基づいて舵を切っていく必要があるのです。

 そんなときに、頼りになるのは、既に言われている”答え”ではなく、まさに、自分自身のリアルな”体験”と言えるのではないでしょうか。

学ぶということ?

<私たちは、真実を学んできたわけではない>

 私たちは、成績を付けられることに慣れてしまっており、ある意味で評価されることで飼いならされており、どんなことでも評価基準や成績がつけられないと不安になってしまっていないでしょうか?不安だからこそ、答えや標準、満点など存在しないことでもそれがあるはずだと思い込んではいないでしょうか?

 私たちのどこかに、人のありよう、生き方、人生、コミュニケーション、リーダーシップに正解があるはずだ、完璧なものがあるはずだと思い込んではいないでしょうか?
 もしそうだとしたら、ヒューマンスキルに、正解があると思い込んでいるのは、ある意味で、幻想といえないでしょうか?個性に、正解があると思い込んでいるのは、ある意味で、途方も無い勘違いではないでしょうか?

 もし、生き方や関わり方、問題解決の仕方に正解があるのならば、なぜ、世の中は、かくもこのようなのでしょう?なぜ戦争はなくならないのでしょう?なぜ家庭が平和ではないのでしょう?なぜこうも悩みが多いのでしょう?

 明らかなことは、答えであると教えられてきたことは、決して本当の真実ではないということではないでしょうか。なぜならば、教えられたように努力して、私たちは今のような社会をつくっているからです。そして、今の社会は、全てがうまく言っているとはいえないでしょう。

 完璧さを求める理論やモデルの中には、”非難されないために””不安や恐怖から逃れるために”または、”誰かがその人の都合のよい人間に矯正するために”つくられておいるものもあり、”自分が自分らしく本音でそう生きたいために”だけ作られたものばかりとは限りません。

 また、おおよそ、人間の心理やあり方に関する理論は、仮説であって真実ではありません。また、部分的、ほんのひとつの断片を描いたものであり、決して全体像を説明し切れているものではありません。

 どんなに権威ある考え方、理論でも、もしかしたら、勘違い、思い込みであるかもしれないのです。

 もしそんな勘違いや間違いを信じ込んで人生の機軸としてしまっているとしたら、危険であり、本来の自分の人生とは違う生き方になってしまうでしょう。

 事実、人は、この宇宙を説明する最高の理論である宗教の名の下に、たくさんの人を殺しています。

 私たちは、教えられてきたことや、教えようとされていることに対して、もう少し注意深くなる必要があるのではないでしょうか。

 私たちは、自分の生き方を決めて行くときには、本当のことに基づいて舵を切っていく必要があるのです。

 そんなときに、頼りになるのは、既に言われている”答え”ではなく、まさに、自分自身のリアルな”体験”と言えるのではないでしょうか。

学ぶということ?

<私たちは答えを知っているわけではない>

一方、この本がテーマにしている”自分らしさ”は、いかがでしょう。”自分らしさ”とは、要するに個性であり、個性には、正解もモデルもありません。

 よく、すばらしいリーダーのあり方であるとか、すばらしいコミュニケーションのとり方、よりよい生き方、などと本がたくさん出版されていますが、よくよく考えると、リーダーシップ、コミュニケーション、生き方などといった、いわばヒューマンスキルは、それこそ個性の現われであって、その個性には、モデルや正解などありません。
 すばらしいリーダーと言った場合には、咲く花は一種類ではなく、百花百様、個性の数だけ美しい花が咲く可能性があるのです。
 コミュニケーションといっても、人によってすばらしいあり方はたくさんあって、いろんな美しい方法があるので、一つの正解など存在しないし、人の数だけ美しいあり方があるのだとといえましょう。

 でも、私たちは、モデル学習にとっても慣れてしまっており、ある意味で、モデル学習に飼いならされており、どんなことにも”正解”があり、その通りに振舞える人が優秀で、そうできない人は、失格であると思い込んではいないでしょうか。

 私たちは、もう少し謙虚になる必要があるのではないでしょうか。
 私たちは、「自分は、できないだけで本当は既にどうすればよいか知っている」「私は、正解を知っている」「自分が正しい」と思い込んでいるかもしれませんが、本当にそうでしょうか。
 私が答を知っている正しい人ならば、なぜ、自分は、今こうなのでしょう?なぜ、自分の人生は、思い通りにならないのでしょう?
 自分には、まだたりない欠点があるからでしょうか?他人がその答を知らないで、自分に協力しないからなのでしょうか?環境が悪者なのでしょうか?
 しかし、どんなに逆境の中でも、自分らしく輝いて生きている勇者はいるものです。
 成功している勇者たちは、欠点が無いことなどありません。

 自分の中に腰をすえている”答え”は、決して真実ではありません。
 なぜなら、それは既に過去の遺物であり、”今ここ”で起こっていることとは、関係が無いからです。
 また、理論や概念は、言葉からできており、言葉は、決して実体にはなれません。あらゆる概念は、この運命からは逃れることはできません。理論は、権威あるものに見えるかもしれませんが、それは、実体の影にすぎないのです。影を操作して、実体を変えようとしても、実体は変わらないように、理論を操作して現実を変えようとしても、決してうまくはいきません。

学ぶということ?

<私たちが教えられてきた学習方法は万能ではない>

 私たちは、”学ぶ”ということをどう考えているでしょう。

 通常、私たちが”学ぶ”ときの”学び方”は、”モデル学習”といえるでしょう。

 モデル学習とは、基本的に漢字の書き取りと同じで、先生が”見本(モデル)”を示し、生徒は、それを”複写”し、何回も”練習”をして、”記憶”し、自分のものにする。そして、当初先生の示した見本が、自分のものになったときに、さらに新しく高度な”見本(モデル)”を提示してもらうと言ったサイクルを”モデル学習”と言います。

 モデル学習は、どんな教育機関、組織、文化でも行われている教育方法であり、汎用的で一般的であるといえましょう。
 非常に、効率的で便利な学習方法であり、応用範囲は広範囲にあるとはいえますが、実は、モデル学習は、限界があり、どんなことでもこの方法で学べるわけではありません。

 たとえば、一流のプロスポーツ選手を思い浮かべてください。
 彼ら彼女らは、大変パフォーマンスが高く、一流であり、モデルとするにはもってこいの人たちですが、しかし、モデル学習のように、彼ら彼女らの物まねをしたからといって、その技術を得られるわけではありません。
 また、一流になればなるほど、その技術はユニークであり、一般的ではありません。
 有名なプロ選手は、一様に個性的であり、全く画一的ではありません。
ですから、一流であるための型にはまったモデルは、存在しないのです。

 匠の技、というものがあります。一流の職人芸は、大変みごとであり、見習いたいスキルであります。しかし、残念ながら、見取り稽古には限界があり、同じようにやってみても、同じようにはできません。その技は、その人独自のきれをもっており、その人にしかできない独特なものだからです。

こころざしの重要性 (最終回)

自らのこころざしを実現するためには、そのような厳しい道を歩む必要があることをしっかりと理解して、信念をもって事にあたろう。

どんなに困難な試練であったとしても、あなたがあきらめずに、前向きに粘り強いく立ち向かっていけば、必ず道は開けてくる。

“チャンスとピンチは、準備が整ったものにやってくる”のだ。

だから、実のところ、立ちはだかった壁がどんなに高いものであったとしても、乗り越えられないものは存在しない。あなたの試練は、あなたが乗り越えられる準備が整ったからこそやってきた。だから、これからもあなたが生きていく上で、あなたが乗り越えられないような困難は、決してあらわれることはない。その意味で、あなたが出会うであろう障害は、あなたにとってのよき教材であり、成長への貴重な踏み台なのだ。

人は、たいていの場合人が想像している以上の存在である。あなたの可能性は、今は想像できないくらいに大きい。自分の人生を信じて、自分が選ぶ道を堂々と力強く歩いていこう。あなたには、それをやり遂げる充分な力があるのだから。