カテゴリー別アーカイブ: ⑩自尊心

自尊心とコミュニケーション ②自尊心と聴く力

また、自尊心が損なわれている場合は、人の話に耳を傾けることができません。

自分は弱く脅威にさらされていると思い込んでいる人は、他人からの働き掛けを脅威や攻撃ととらえてしまう癖がついています。ですから、相手の語る言葉を、ありのままに受け止めることができずに、驚くほど歪曲して、受け止めてしてしまう傾向が強くなります。

どこかに悪意、悪巧み、罠があるのではと疑ってしまい、常に過剰防衛の姿勢で人と向き合ってしまうので、健全な関係性が育みづらくなってしまうのです。

自分の本質は醜く、愛されるはずがないと思い込んでいる人は、他人からの優しさや愛情を素直に受け止めることができません。その愛情は、自分の表面的な演技の反応からくるものと解釈しているので、いつか自分の本質がばれたら、嫌われるに違いないと思い込んでいるのです。ですから、人と落ち着いてじっくりと深くかかわる、正直に誠実に向き合うということができずに、豊かで生き生きとした人間関係を育むことが、非常に困難となってしまうのです。

自分の内面は崩れやすくもろいものだと思い込んでいる人は、他人の考えを受け入れると、自分を見失ってしまうのではないかと言う恐怖があるので、他人の意見に耳を傾けることができません。他人を快く受け止めるだけの度量がないのです。

こうして、自尊心が損なわれている人は、人の話に耳を傾けることが難しくなり、また、前述のとおり、話すことにも苦手意識が強くなってしまうので、コミュニケーションの問題を多く抱えてしまうことになり、健全な人間関係が育みづらくなってしまいます。

自尊心とコミュニケーション ①自尊心と話す力

自尊心とは、現状のありのままの自分を尊いと思える魂の健全さのことであり、傲慢さや自惚れとは違います。

傲慢さや自惚れは、自分の本質が、醜く愚かで劣っていると思い込んでいるので、それを隠そうとしたり、否定しようとするが故の無理=劣等感から起こる態度であって、決して健全な自信からくるものではありません。

一方、自尊心は、不完全で欠点のある自分を嫌わずに、そのまま受け入れて、発展途上の自分を、それで良しとすることができるので、自分のありのままを隠そうとしたり、ごまかそうとする必要がありません。

健全な自尊心は、さまざまな病理や心の病を防衛する強力な免疫力ともなり、前向きな生き方、チャレンジ精神、たくましく粘り強い態度の原点となるとも言われております。

その意味での自尊心は、人間関係やコミュニケーションにも大きく影響を及ぼします。

このシリーズでは、自尊心とコミュニケーションの問題に焦点を当てて、その原因と改善方法を探求していきたいと思います。

1.自尊心と話す力

自尊心が欠如していると、相手に語ることができません。

自分に価値を見いだせない人は、自分の内面でひらめいたアイデアや考えに価値があるとは思えません。ですから、それをあえて他人に伝える必要性も感じないし、他人に馬鹿にされたり否定されたりする可能性を乗り越えてまで話そうとする勇気が湧いてきません。

自分がつまらなく意味のない存在だと思い込んでいる人は、他人に話しかけることができません。「こんなダメな自分と話すことは、相手にとって、時間の無駄遣いである」と罪悪感を感じてしまうのです。ですから、時には、あたりまえな挨拶、日常会話に事欠くようになり、最低限な報告や相談、メールの返信、連絡すらまともにすることができなくなってしまうのです。

一方で、相手は、本人が、そんな悩みを抱えているとは全く分かっていませんので、当然あるべき報告や連絡をしてこない理由がわからず、悪意があるのでは?嫌って避けているのでは?などと誤解されてしまうことが多く、後々の人間関係に悪影響を及ぼしていくことになるのです。

自尊心は自己愛(ナルシズム)ではない

ナルシストと言う言葉があり、自分を愛することがいけないことであり、自分を大切にすることに抵抗感を持っている人も多いと思いますが、それは、誤解です。

確かに、自己愛性パーソナリティ障害と言う病気があり、本人や周囲が苦しまれているケースも事実としてありますが、自己愛性パーソナリティ障害とは、自分を愛する病気ではありません。それは、むしろ、自分自身を愛せない病気なのです。

自己愛性パーソナリティ障害とは、ありのままの自分を愛することができない病です。

長所もあれば欠点もあり、おっちょこちょいでカッコ悪いところも有り、人より劣っているところもある、そんな等身大の自分自身に満足できずに、一切の欠点と劣等性を否定し、自分にはそんなものはないと思い込み、優れて特別で力ある無敵の自分という幻想を信じ執着する病であって、決して自己信頼からくるものではないのです。

自己愛性パーソナリティ障害の人たちは、心の奥底で、自分の本質が、弱弱しく、醜いものではないかと恐れています、と言うか、そういう呪いを真実だと信じ込んでしまっているのです。

しかし、そうした情けなくて醜い(と思い込んでいる)自分である限り、人からは愛されないし、受け入れられないと恐れており、常に誰かに評価されるような自分でなければいけないと思い込んでいます。

 だから、無理をしたり背伸びをしたりしてすごい自分を見せつけようとするし、逆にそうではない可能性を示すであろう自分の欠点の一切を受け入れることができません。だから、誰にでもあるような弱さや愚かさ、失敗やみじめさなどの一切を、自分には無い、もしくは自分の責任ではないと言い切り、完全無欠、ないしは無罪のふりをし、ありもしない完璧なキャラクターを演じることになります。

ですから、ナルシズムは、自信ではなく劣等感に由来するのだといえましょう。

ナルシスが愛したものは、きらきらする美しい水面に映った幻想的な外面であって、ありのままの全体ではありません。自己愛が愛しているのは幻想であって現実ではないのです。

一方で、自尊心とは、ありのままの自分を愛するということ、等身大の人間としての自分を受け入れるということ、発展途上の自分を信じるということです。

自分自身に欠点があることを知っており、それを受け入れているので、ことさら自分の弱さを人にばれないように強がる必要はありません。

自分の問題の責任を自分で引き受けており、それを人のせいにしようとはしないので、ことさら被害者ぶって自分の無罪や不幸ぶりを主張する必要もありません。

発展途上の自分を信じており、自分のありのままの姿、気高い面も愚かしい面もありのままに受け入れており、それが醜いとは思っていないので、隠したりうそをつく必要もありません。

健全な自尊心を持つことができている人は、無理して背伸びする必要もなければ、人に良く見てもらおうと意気込んで肩に力が入ることもありません。明るく正直でオープンであり、そこには暗さや病が付け入るすきはありません。

だから、自尊心は、美徳なのであり、持つべきなのだといえましょう。

 

「生まれてきてよかった。」

「何とかなる。大丈夫。」

「自分の人生も捨てたものではない。」

「道は開ける。」

そう思えるからこそ、自分らしく力強く輝かしい生き方ができるのではないでしょうか。

 

人は確かに欠点がある完璧では無い存在ですが、断じて無力ではありません。たとえ困難な人生でも生き抜く十分な力量を持っている存在であり、その可能性は、今の想像をはるかに超えて大きいのだと思います。

時に人生は過酷であり、激怒、悲嘆、絶望の極みを体験するかもしれませんが、だからと言って自分を呪う必要はありません。

勇者の人生には、ドラゴンがつきものであり、困難が過酷であればあるほど、勇者は強く偉大に成長していくものです。

そんな成長のプロセスにある自分自身を大切にして、堂々と生きることが自尊心なのだと言えましょう。

自己否定、自己嫌悪の罠に惑わされるべきではありません。完全無欠の非の打ちどころのない存在になんかなる必要もありません。あなたはあなたのままで大丈夫。欠点がありながらも一生懸命に過酷な人生に立ち向かっているあなたがカッコいいのですから。
そんな自分を信じて、自尊心をもって堂々と生きようではありませんか。

自尊心は無条件

自尊心は、その根拠となる条件を要求しない。

人は、生まれながらにして尊い存在であり、

たぐいまれなるユニークな存在であり、

無限の可能性を持った存在であり、

愛し、愛されるべき存在である。

だから、自信を持つために必要な能力もなければ、

愛されるために必要な条件もない。

 

愛されるための条件を要求してくるものは、傲慢さである。

傲慢さは、自分と言う与えられたすばらしいプレゼントに満足せず、あれこれとケチをつけるのだ。

傲慢さは、内面の調和がとれた平和な世界にたくさんの境界線を引き、分離、差別、葛藤をもたらす。

傲慢さは、受け入れ、愛し合う代わりに、距離を置き、遠くから操作する。

傲慢さは、愛し称賛する代わりに、けなし、できもしない要求を押し付けるのだ。

 

自尊心は、信頼に由来するのに対して、

傲慢さは、恐怖に由来する。

自尊心は、喜びに基づくのに対して、

傲慢さは、痛みに基づく。

自尊心は、中心軸に在るのに対して、

傲慢さは、周辺に点在する。

 

だから、自尊心と傲慢さは、似て非なるものである。

さながら、自尊心は蝶であるのに対して、

傲慢さは、蛾のようだ。

あり方の基軸を傲慢さではなく自尊心に置こう。

夜の世界を蛾のようにさまようのではなく、

蝶のように明るく軽やかに自由に飛び回ろう。

もともと人はそういう存在であり、

そうできない理由も、そうあるための条件もないのだから。

「自尊心の重要性」動画をアップ

 従来から、自尊心の重要性をテーマとする動画をyoutubeにアップしておりますが、映像が暗かったりなど問題があったので、改めて撮影をし直して作成し、本日総入れ替えをしました。

 「自尊心の重要性」をテーマとする講義は、通常は、企業研修や大学での講義でお話をさせていただいていておりますが、そうした場に出てこれない方々にも聞いてもらえたらと言う願いを込めて、動画を作成し発表をさせていただきました。

 動画は、全部で4部構成で、概要は以下の通りです。

 

【動画「自尊心の重要性」概要】

 その1 自尊心とその影響

 その2 自尊心とプライドの違い

 その3 日本における自尊心の現状

 その4 自尊心と生き方

 

 以下、リンクを張っていきますので、ぜひご覧ください。

 こうした情報が、多くの共感いただける方々に届き、勇気の輪が広がっていくことを願っております。

 

【動画「自尊心の重要性」】

①自尊心とその影響

 

②自尊心とプライドの違い

 

③日本における自尊心の現状

 

④自尊心と生き方

 

この動画が、多くの方々の元気と勇気を応援できますように!

 

<関連書籍>

・電子書籍「自尊心の重要性

凶悪少年犯罪と自尊心の関係

 また凄惨な未成年の犯罪が起こってしまいました。

 被害者の娘さんのご冥福をお祈りしたいと思います。ご遺族の心境を思うと胸が痛みます。

 かつて、家庭裁判所調査官など有識者が集まり、凶悪少年犯罪の事例を研究し、レポートを発表しました。レポートは、「重大少年事件の実証研究」と題して司法協会より平成13年に出版されています。このレポートによると、凶悪犯罪を起こす少年や少女に共通する特徴の一つとして「自己イメージの悪さ」が挙げられています。

 要するに、凶悪犯罪を起こした少年少女たちには、自分自身がダメ人間で、価値がなく、いなくてもよい存在だと思い込んでいる子が多いと言えるのです。

 犯罪を犯してしまった原因の一つとして、自分自身を、「価値の無い人間」「愛される資格が無い人間」と思い込んだ少年や少女が、対人関係で様々な問題を起こし、最終的に犯罪につながってしまったのではないかと考えられているのです。

 自尊心が低い人は、自分に対して否定的、攻撃的です。かつての私がそうだったのでよく分かりますが、自分の内面の中で、絶えず自分を攻撃する言葉、「ダメ人間、死んだほうがよい、だらしない、罪人、偽善者、・・・」が駆け巡っているのです。人から言われたら怒るくせに、自分では平気で自分にそう言う否定の言葉を投げかけているのです。

 人は、自分にするように人にするものです。自分に激しく攻撃する人は、人にも激しく攻撃するでしょう。しかも、縁が近づけば近づくほど、「その人は自分だ」と思えるくらいに相手を愛すれば愛するほど、自分にする暴力を相手に振るうことを我慢できなくなるでしょう。

 また、内面の葛藤が長引くと混迷の度合いを深め、次第に自分らしい魅力的な側面を失い、自分の人生を主体的に自分らしく生きるということに対して絶望し、投げやりで責任のとれない状況になっていくでしょう。まさに、心神喪失の状態になってしまいます。

 罪を憎んで人を憎まず。

 犯してしまった犯罪は、絶望の隙間に入り込んだ罪がさせたもので、その人そのものがしたものでは無いということなんだろうと私は解釈しています。

 凶悪犯罪の背景として、本当に自尊心の欠如が影響していたとしたならば、私が考えるこうした一連の絶望と悲劇のプロセスが本当に働いていたとしたならば、犯罪者に必要なことは、自分への呪いや自己否定をやめること、自尊心と愛の回復なんだろうと思います。

 また、こうした犯罪を、今後防いでいくために必要なことは、まさに、自尊心と愛の回復、自分への信頼、他者への信頼の回復なんだろうと思います。

 長崎県教育委員会が、命の教育を徹底していたにもかかわらず、また悲劇が起こったと失望されているとの記事を読みましたが、その無力感や痛さは、私にもわかる気がします。

 ただ、単に「命が大切だ」と主張しても、そのいのちが、自分とは関係のない他人のものと子供たちが感じている限りは、教育の成果は出ないでしょう。

 子供たちが「いのち」を実感できるとしたら、それはまさに、自分自身の命を通してです。

 だから、命は大切と言う前に、まずは子供たちに「あなたの存在こそが大切なんだ」と言ってあげるべきなんじゃないでしょうか。

 願わくば、多くの子供たちが自分自身を呪うのではなく祝福し、明るく元気に人生を謳歌できますように。

 今回の凄惨な悲劇を起こした背景にある暗くて重い痛みが癒され、呪いが祓われ、もう2度とこうした悲劇が起こらないよう、心から祈りたいと思います。

自尊心を回復するための方法 ③誤解を解く

自尊心という言葉を巡って、とても多くの誤解があるように思えます。

さまざまな勘違いや思い込みによって、「自尊心」や「気高く生きる」、「矜持」といった、本来美徳とされるべき価値が傷つけられているように思えます。

「自尊心」と「傲慢さや自惚れ」は違います。

自尊心は、自分を信じ、愛して、自分らしく輝いて生きるということ。傲慢さや自惚れは、自分の本質を信じられないがゆえに、自分を嫌い、うそやはったりでごまかして生きるということ。両者は、まったく異なった意味を持っているにもかかわらず、日本においては、たいていの場合、同じものと信じ込まれており、自尊心の重要な価値にあやをつけられているように思えます。

そうした誤解によって、日本では、「自分を大切にすること」「自分の人生を祝福すること」「自分の大きな可能性を信じること」、そんな当たり前のことができなくなってしまっているのではないでしょうか。自分を愛することが、あたかもタブーであるかのように感じ、自分を大切にすることは罪であるという呪縛にかかって不自由な人生を強いられている人たちが多いのではないでしょうか。

自尊心は、努力をして育むような能力ではありません。自然に生得的に与えられている基盤であって、誰もが根底に持っている美徳です。自尊心がないように感じるのは、生まれつきそれが少ないからではなく、ネガティブな思い込みや有害な信念が阻害しているからです。太陽がないのではなく、厚い雲が光を遮っているから暗く感じるのです。

ここでは、そうした、多くの誤解に光を当てていきたいと思います。

 

1.「自分を愛する」ことと「自己愛」は違う

自己愛性パーソナリティ障害と言う専門用語もあり、自分を愛することは、いけないことなんだという信念を持っている人も多いと思いますが、それは、誤解です。

自己愛性パーソナリティ障害とは、ありのままの自分を愛することができない病です。長所もあれば欠点もあり、おっちょこちょいでカッコ悪いところも有り、人より劣っているところもある、そんな等身大の自分自身に満足できずに、一切の欠点と劣等性を否定し、自分にはそんなものはないと思い込み、優れて特別で力ある無敵の自分という幻想を信じ執着する病であって、決して自己信頼からくるものではありません。

ナルシスが愛したものは、きらきらする水面に映った外面であって、ありのままの全体ではありません。手を差し伸べれば消えてしまう影であって、実体ではありません。

自己愛が愛しているのは幻想であって現実ではないのです。

一方で、自分を愛するということは、ありのままの自分を愛するということ、等身大の人間としての自分を受け入れるということ、発展途上の自分を信じるということです。

ありのままの自分を愛しているので、欠点がばれないように強がる必要もなければ、自分の本当の姿を(醜いと思っていないので)隠してうそをつく必要もありません。

自分を愛することができる人は、無理して背伸びする必要もなければ、人に良く見てもらおうと意気込んで肩に力が入ることもありません。
明るく正直でオープンであり、そこには暗さや病が付け入るすきはありません。
「自分を愛する」ということには、まったく病理や陰はありません。むしろ、自分らしく力強く生きていくうえでの重要な基盤の一つ、美徳の一つとなると言えましょう。

 

2.「こだわり」と「頑固さ」は違う

こだわりと頑固さは、違います。

頑固さは、何につけ、背景の動機には恐怖があります。頑固な人は、本音でそうしたいというよりは、そうしないと怖いからそれに執着するのです。

「そうしないと欠乏が満たされない」「そうしないと自分を保てない」「そうしないと苦痛に耐えられない」・・・、焼けつくような渇望や危機意識があるので、良きにつけ悪しきにつけ、たいていの場合その欲求に逆らうことはできません。他人に迷惑がかかろうが、どんなに説得されようが、明らかな問題があろうが、そうせざるを得ないのです。

一方で、こだわりは、そうしないと怖いからするのではなく、シンプルにそうしたいからするのです。自分が愛し、挑戦したいと願っていることだからこそ、情熱的に集中力をもってそれにこだわるのです。

自分のハートの奥から湧き起ってくる情熱であり、たいていの場合、その欲求は気高く、美しく、真理をついており、他人に賛同はされるものではないかもしれませんが、他人を傷つけるものであることは、滅多にありません。

こだわりの人は、決してぶれません。得だからと言ってすべきでないことに手を出すこともなければ、損だからと言ってすべきことから逃げたりはしません。

こだわりの人は、決してあきらめません。自分の魂からの欲求であり、使命感があるので、例え艱難辛苦が立ちはだかっても、簡単にあきらめるわけにはいかないのです。

頑固であってはいけませんが、こだわりを持つべきです。そもそも、自分が大好きで、心から愛するものを、そんなに簡単にあきらめてはいけません。それが正しい道であれば、必ず道は開けてくる。チャンスとピンチは準備が整った人にやってくるもの。だからどんなに高い壁でも、乗り越えられない壁などないのですから。

 

3.「謙虚さ」と「自虐」は違う

謙虚さは、自分が尊く大切だからこそ、相手も尊び、敬う心を言います。

自虐は、一見腰を低くする謙譲さと勘違いされることがありますが、それは卑屈さであって、決して謙虚さではありません。

それは、自分を嫌うこと、自分を卑下することであって、決して自分を尊いとは思っていないからです。

人は、自分にするように人にするものです。自分を尊いとは思えない人は、本当のところ他人を尊いとは思えません。そのふりはできますが、本音では、そうは決して思えないのです。

心理実験で、人の不幸を喜ぶ人にはどんな特徴があるのかを調べた実験がありまが、その結果わかったことは、人の不幸を快感に感じる人は、一様に自尊心が低かったということがわかりました。

自尊感情が高い人たちは、人が苦しみ悲しんでいる姿を痛みと感じ、共感的、同情的でしたが、自尊心が低い人たちは、それを見て、喜んだのです。

自虐や自己卑下は、決して美徳ではありません。むしろ、慎むべき性向であって、その傾向が強まれば強まるほど、依存症、自傷行為、いじめ、虐待、ストーキング、など様々な問題や犯罪につながっていくでしょう。

 

4.「自分にまける」のは「弱い」からではない

自分に負けるのは、弱いからではありません。

自分に負けるのは、自分と戦うからです。

自分の一部を嫌悪し、矯正する戦いを挑み、勝とうとするから負けるのです。

戦いの当初は、作戦や対策を練り、一生懸命に頑張って、いくつかの勝利を得られるかもしれませんが、永遠に勝ち続けることなんかできません。戦いを続ける限り、いつかは敗北の憂き目を見るでしょう。

「完璧な自分」になれないことが問題なのではなく、「完璧な自分」になろうとすることが問題なのです。

「非の打ちどころがない自分」「無敵な自分」「一切の欠点がない自分」・・・

それは、たいていの場合、無理難題であって、強引であって、優しくありません。

それは、たいていの場合、頭ごなしであって、専制的であって、民主的ではありません。

そんな不自然な目標や理想を信じ込んで、本気でそうあろうと取り組んでも、ハートと体は、その欺瞞に気づいており、永遠に従い続けてはくれません。ハートや体は、正直であり、思考の狂気につきあうつもりなんか無いのです。

失敗は、成功へのステップであって、排除すべき無駄ではありません。

ネガティブな思考は、思いついて当たり前であり、退治すべき敵ではありません。

ネガティブな感情は、人として当たり前の感情であり、けがらわしい罪ではありません。

誘惑に負けるのは、誘惑に勝てない弱い人だからなのではなく、それに勝ち続けようという無謀な戦いに疲れ、絶望し、やけくそになったからであって、むしろ自暴自棄の絶望にはまり込んでしまうほどの強い意志で自己否定の努力を続けた強い人こそが、最も誘惑に負けやすい人なのです。

内面に、強い分離感と葛藤と痛みを抱える限り、決して誘惑には勝てません、誘惑に勝てるのは、我慢強いからではなく、誘惑に魅力を感じない時、その必要を感じない時です。

十分に満足を感じているとき、十分に幸せを感じているとき、内面が平和である時、愛し愛されているときこそ、誘惑の甘い罠を撃退できるのです

自分を不自然な物差しで裁き、窮屈な型枠に押し込めようとするのではなく、ありのままの自分を受け入れ、大切にするべきです。

自分を大切にすることは、自分に甘いことではありません。自分自身のリーダーとして、自分の内面に責任を持つこと、むしろ、時には自分に厳しくあることこそ自分を大切にすることなんだろうといえましょう。

よきリーダーに必要なことは、フォロアーを受け入れ、理解し、愛すること。自分の人生のリーダーとして自分らしく輝いて生きるために必要なことは、まさに、自分をいつくしみ、大切にすることなのです。

 

5.「自分を信じる」ための条件なんかいらない

「○○をやり遂げたから自分を信じられる」「○○ができるから自分を信じられる」「○○ができれば自分を信じられる」など、自分を信じるために条件が必要であるかのうような思い込みがありますが、それは誤解です。

信じられる自分になる必要なんかありません。すでに十分に信頼に値する自分なのですから。信頼に値しないのは、自分自身なのではなく、自分を裁くものさしです。

人を裁く評価基準にいったい何の権威があるのでしょうか?

いったい何の権威があって、良いだの悪いだのと評価を下せるのでしょうか?

評価基準に従ったならば、本当によき人生を歩めるのでしょうか?

たいていの場合、人を測る物差しは、個人のニーズではなく、社会のニーズ、権力者のニーズであり、人が人らしく力強く生きることを目的としたルールと言うよりは、人を支配、コントロールするためのテクノロジーです。

そんなものに個人の人生を支配されてはいけません。人は、他の権威に従うのではなく、自分のこころざしに従うべきなのです。自分を愛するために、自分を変える必要なんかありません。自分を信じるための条件なんかありません。そのままで十分に尊く、かけがえのない大切な存在なのです。

「あなたは、この世に望まれてきた大切な人。

あなたがなんであり、どこの国の人であろうと、

金持ちの人であろうと、貧乏であろうと、それは問題ありません。

あなたは、同じ神様がおつくりになった、同じ神様のこどもです。」   マザーテレサ

マザーテレサの言葉通り、人の存在は、尊くかけがえのないものだといえましょう。

そんな存在を大切にすることの、どこがいけないのでしょうか?

私たちは、難しいことを考える前に、まずは肩の力を抜いて、自分自身を信じ、大切にするべきなのではないでしょうか。

冷たく攻撃的な皮肉屋たちの言葉に惑わされてはいけません。毒のある信念をうのみにして勘違いの人生を生きるべきではありません。

堂々と自分を大切にし、愛し、信じ、力強く生きようではありませんか。

 

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 「自灯明、法灯明」

 お釈迦様が入滅される直前に弟子たちに伝えられた教えと言われています。

 「他を頼るのではなく、自らを頼りとしなさい。自然(真理)の法を頼りとしなさい。」という意味だと私は解釈しています。

 自尊心を回復するための方法を考える際に、真っ先に指針とすべき言葉なんだろうと私は思っています。自分を大切だと思うために他を当てにすべきではないと考えているからです。

 もし、自分自身を大切だと思うために、他人の称賛が必要だとしたら、その人は、他人の称賛に依存して生きなければいけません。他人の称賛だけではなく、優しさや愛情にしても同じです。

 また、豊かな資産があるからこそ自分の尊さを実感できるという人は、自分の価値を認識するために豊かな資産に依存することになります。資産だけではなく、地位や名誉、権威やお金にしても同じです。

 さらに、自分のアイデンティティを国家や宗教、理想的な人物に委ねるとしたならば、自分を信じて生きるのではなく、外部の権威を笠に着て生きることになり、依存的な生き方となってしまいます。

 自分の価値を実感するために、他人の働きかけや他の権威、力に依存すると、それが得られているときには、比較的安定していられるでしょうが、減少し、欠乏感を感じ始めたら、自分自身が無価値であるように感じてしまい、大変な苦痛を体験することになってしまうでしょう。

 自分を癒し、自尊心を回復するコントロールセンターは、自分自身の内面にあるべきです。

 コントロールセンターが、自分自身にないとしたら、それは、外部にあるということであり、結果的に外部のパワーに自分自身が支配されることになってしまうでしょう。そのような生き方は、決して自尊心に裏付けされた自分らしい生き方とは言えません。

 自分らしく力強く生きようとこころざした場合には、まずは、自分自身に依って立つという覚悟が必要です。自尊心を回復しようとこころざした場合には、まずは、一切の依存心を手放し、自分で何とかしようとする覚悟が必要なんだろうと思います。

 これは、かつて体験した不条理、過酷な痛み、悲惨な体験においても同じなのだろうと思います。そのような心の傷があるからこそ自尊心を損なってしまい、回復できないという状況においても同じことが言えるのだろうと私は思います。

 かつて自分に仇をなした他者に謝罪してもらう、自分を傷つけた奴に報復し痛い思いをさせる、愛されなかったことによって空いた心の空虚さを誰かの愛で埋める、・・・、

 もし本当に意義のある自尊心の回復を図ろうとする場合は、過去のトラウマをいやすために他を頼ろうとするあらゆる企図を放棄する必要があるでしょう。

 なぜならば、そのような試みは、まさに、他者依存の混迷を深めると同時に、例え実現できたとしても、本質的な心の痛みは癒えることはないからです。

 たいていの場合、心の中には、痛みが先に存在しており、さまざまな出来事は、その痛みを顕在意識で体験していくためのトリガーにすぎないからです。

 また、心の中にある痛みは、他者から植えつけられたのではなく、自らが受け入れたからこそ存在しているのであって、痛みが自分の内面に存在することの責任を他人に押し付けるのではなく、自分ですべてを引き受けなければなりません。

 そして、自分の内面の傷を癒し、手放すことができる人は、自分だけであり、自らの意志と努力によって、自分の内面を健全化する必要があるのです。

 逆に言えば、人には、自分自身を癒すための十分な力があるのだろうと思います。

 仏教では、「人は、生まれながらにして仏である」とも言われています。

 人の内面には、自らを浄化し、自由に生きるための十分な力が、生まれながらにして宿っているということなんだろうと私は思います。

 自尊心を回復するために必要なことは、まず第一に、そうした、自分の内面にある力を拠り所とするのだという覚悟なのだろうと言えるでしょう。

 

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 私は、企業研修や大学の講座などにおいて、自尊心の重要性を訴えてきているわけですが、かく言う私自身が確固たる自尊心をもっているかと言えば、決してそうだとは言えません。

 私は、もともとは、決して自信と誇りを十分に持っていたわけではありません。

 私自身は、高校生、大学のころまでは、自分が好きではありませんでした。

 『本当の自分はだらしなく醜くいやな奴であり、自分の本性がばれたら、必ず人に嫌われる』と思い込んでいたので、人と関わるときは、本音を隠したり演技をしたりして生きていました。

 『本当の自分は、劣っており、弱くて人に勝てる要素なんかない』と思い込んでいたので、そんな自分をさらけ出さないように逆に強がって生きていました。

 自分と同様に、他人も嫌いでした。当時の私にとって、他者は、信頼のおけない怖い存在であり、たとえ友人であっても、心から気を許すことはありませんでした。私にとって、人間関係は、楽しくなく、疲れるものであり、苦痛以外の何物でもなかったのです。

 ですから、私は、まったくと言って良いほど人間関係が苦手で下手くそでした。驚くほどKYであり、そもそも空気を読むとはどういうことかもわかりませんでしたから。(もっとも今でもよくわかっていないのですが。)

 そんな私でも、人生における様々な出会いや体験を経て、少しずつ固さが取れ、不安と絶望が解けていって、少しずつ楽になり、少しずつ自信と他者に対する信頼が回復してきた様に思います。

 現在では、自分も捨てたものではないことを知っており、家族や友人たちも、信頼に値する大切な存在であることを理解しています。人間関係においても、他者に対して少しずつ正直に、素直になり、心を開けるようになってきたように思えます。

 こうした変化は、まさに、すばらしい体験や家族や友人のおかげであり、今あらためてそのありがたさに感謝したいところなのですが、そのような変化は、たしかに周囲の愛や温かさが重要な要素ともなりますが、決定的に重要なポイントは、まさに本人の自尊心であると思います。

 人は断じて無力な存在ではありません、その潜在性や可能性は、想像をはるかに超えて大きいものがあります。

 もし人が輝けていないとしたら、それは、その人の能力や才能がないからではなく、封じ込められているからです。

 太陽が照っていないからではなく、雲が遮っているからなのです。

 だから、立ちこめている暗雲を払い、絶望を癒し、出来ないという呪いを解くことができれば、もともと持っているその人の素晴らしい潜在性が、見事に開花するのだろうと思います。

 そして、立ち込める暗雲を吹き放つものこそが、自尊心なのです。

 私は、自分についての不自然な思い込みや勘違いを解きほぐし、自分自身の素晴らしい輝きに気づいていくための基盤こそが自尊心なのだと考えているのです。

 このシリーズでは、この大切な自尊心をどう回復していくのかをテーマとしていきたいと思います。
 自分自身の体験を交えながらその方法を探求していけたらと思っております。

 願わくば、これを読んでくださっている方々の体験談や方法、考え方も紹介していければとも願っております。

 何しろ、このブログは、コメントをするための設定が面倒くさいのですが、不可能ではありませんので、よろしければ、投稿をお願い致します。

 

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あらゆる心の闇は自尊心の欠如より生まれる‐②

 なぜ自尊感情の欠如が、ストーキングや虐待などの心の闇につながるのでしょうか?その根本原因を一言で表すとすると、「人は、自分にするように人にする」という言葉に還元できるといえましょう。

 人の人間関係のとり方やマナーは、その人が自分に対して常にしている態度の反映となります。

 私は、自分とどう向き合っているのでしょうか?

 私は、自分の身体や感情、感覚や思考に対して、どうかかわっているのでしょうか?それらとどう向き合っているのでしょうか?

 たとえば、感情をコントロールするために自分の内面で行っているマネジメント手法はどのようなものでしょうか?抑圧的でしょうか、開放的でしょうか、強権的でしょうか受容的でしょうか、やっかいな感情を拒絶しているのでしょうか受け入れているのでしょうか、湧き起ってくる気持ちに対して敵対的なのでしょうか共感的なのでしょうか、感情に向き合う態度は厳格なのでしょうか寛容なのでしょうか?

 自分の身体機能をコントロールするために自分はどんなことをしているのでしょうか?酷使しているのでしょうかいたわっているのでしょうか、自分の身体要件に文句を言っているのでしょうか感謝しているのでしょうか、自分の欠陥に厳罰を下しているのでしょうか勇気づけているのでしょうか?

 自分の人生に対して自分はどう考えているでしょう?祝福しているでしょうか?苦々しく思っているでしょうか?感謝しているのでしょうか?呪っているのでしょうか?

 まさに、そうした内面で行われている自分の自分に対するマネジメントのあり方や方法が、外面の人間関係や社会性に反映していくことになります。自分を大切にしている人は、基本的に自分にするように人を大切にしますし、自分に厳しい人は、基本的に自分にするような厳しさを他人にも求めるでしょうし、自分を攻撃する人は、他人にも攻撃的となるでしょう。

 自尊感情が欠如している人は、概して自分に対して抑圧的、拒絶的、攻撃的です。自分は何かが欠けている力のない価値のない存在であると思い込み、欠乏を満たさなければ苦痛や死の危機に見舞われると信じ込んでおり、不安と恐怖にたきつけられて、必死に自分の内面をコントロールしようとしています。自分の欠点などの不快な側面を嫌悪し、攻撃し、言うことを聞かせようと操作的、脅迫的に関わる一方で、影と戦って影を消滅させることができないように、その努力は、永遠に報いられることはなく、結果として、自分の内面で強い分離意識と絶えざる葛藤に苦しめられることになります。

 そのようなプロセスを経て、自尊感情が欠如しており、自己否定が強烈な人は、自分の内面をマネジメントすることに対して絶望しており、責任を持てない混乱の状況にあります。まさに、心神喪失の状況にあり、自分の中で発生する悪感情をもてあまし、絶えざる苦痛と痛みを体験することになるのです。

  ストーキングや虐待などの問題行動は、まさにそうした内面の不安と恐怖、痛みと絶望の反映と言えましょう。

 また、そうした犯罪行為は、関係性が自分に近いと認識できればできるほど激化、頻発します。

 自分とは遠い存在であり、他人であると認識する人には、自分にするような劣悪なマナーで関係を持つことは控えがちとなります。なぜならば、自分の内面で起こっていることは、健全で正常だとは思っておらず、自信がないので、そのような方法を、社会的な人間関係に反映させることは自分にとって得にはならないし危険だと考えているからです。

 しかし、自分と近い存在であり、自分の延長上の存在だと認識する相手に対しては、話は全く違ってきます。まさに、相手は他人ではなく自分であり、自分にふるう暴力を相手にふるうことに対して遠慮や躊躇がなくなります。自分にするように、相手の不快と感じる側面を嫌悪し、攻撃し、言うことを聞かせようと操作的、脅迫的に関わるのです。

 悲劇なことは、ストーキングにしろ虐待にしろ、相手が憎くてやっているのではなく、根本的には、相手が自分だと思えるくらいに愛するからこそやってしまっていることです。

 なんと、相手を愛するからこそ相手を攻撃してしまうのです。相手を愛すれば愛するほど葛藤は深まり、相手を傷つけてしまうことになります。

 この不幸なダイナミズムは、早く終わらせなければなりません。