現実の現状を観察すると、世界中のありとあらゆる経営や組織が、D動機を基盤としていることが分かる。弱肉強食、適者生存という世界観のもとで、存続と成長を勝ち取ろうとする経営の目的自体が、D動機そのものである。
D動機による経営は、収益性の確保と規模の拡大に邁進する。それこそがサバイバルを保証するからである。危機感に駆り立てられて、経営は、どんどん規模を拡大し、コストを削減し、利益を最大化しようとする。そうして、許される限り際限のないほど経営規模は拡大していく。しかし、どんなに規模が拡大し利益を確保しても、安心と喜びを得ることはできない。なぜならば、D動機の目的は死の恐怖から逃れることであるが、滅亡の可能性はどんなに消そうとしても無にすることはできないからだ。D動機に支配された経営は、生存競争の中で、際限無い防衛と攻撃に走り、必死になって規模と利益の拡大に猛進し、結果的に強欲の掠奪者となる。危機にさらされている被害者のつもりであったにもかかわらずいつの間にか周囲にダメージを与える加害者となってしまう。折からの環境意識の高揚、度重なる企業の不祥事を背景にして、多くの消費者が、この加害者に対して嫌気がさしている。強欲で高圧的で乱暴なふるまいにうんざりしているのだ。だから、迂闊にもそうした強欲を露骨に表してしまった企業や組織は、株価が下がり、大衆からの支持を大きく減らしている。さらに、D動機を徹底してした場合は、単に生産性の低下や評価の下落をもたらすだけではなく、とてつもない不祥事や事故を引き起こすことにつながる。懲罰人事を徹底していたかつてのJR西日本が引き起こした尼崎脱線事故、安全よりも利益を優先していたかつての三菱自動車工業が起したリコール隠し問題。D動機に焚きつけられて成長を遂げてきた経営は、皮肉なことに成長を遂げたエネルギーであるD動機で滅びるのだ。
もちろんD動機は大切な動機であり、否定すべきではない。生活の安定、安全の確保、適度な防衛力がない存在は、ただのお人よしのおバカさんである。しかし、だからと言って、全面的にD動機に依存し、その奴隷となるべきではない。人は、パンのみにて生きるにあらず。人は、逃げるために生きるわけではない。人は、幸せのために生きるのだ。(続く)
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