従って、D動機の人生は、その目的を遂げることはできない。人生に自ら解決不可能な無理難題を課し、それが満たされない苦しみに追い立てられて必死に頑張り、そして、皮肉なことに、当初は願ってもいなかった生気を亡くしたいびつな廃墟と底知れない孤独を得るのだ。
確かに、D動機は、生き抜く上で大切な動機である。実際のところ、我々は天使に囲まれて生きているわけではない。防衛力のない存在は、単なるお人よしのおばかさんとみなされるだろう。しかし、人は、D動機に支配される必要はない。恐怖や不安に支配されて逃げ惑うだけの人生を送る必要はないのだ。
人には、D動機とは全く性質の異なる情熱を持っている。恐怖からではなく、喜びから生まれてくる情熱。騒がしく落ち着かない良く吠える子犬のような心からではなく、気高く穏やかで不動の理想から生きようとする態度。引きこもり、防衛し、攻撃する強い分離感を持った孤独ではなく、開き、受け入れ、思いやる強い親密さを持った一体感。外部の脅威に対する反応としての動機ではなく、自分自身の魂の本質からやってくる動機。それは、まさにBeing(実存)からやってくるB(実存)動機である。
B動機は、D動機の過不足を気にしない。D動機が満足されていようがされていまいが、その意向に全く反応せずに淡々と機能することができる。D動機の騒々しい騒音に比べれば、はるかに小さく穏やかでそよ風のように静かであるけれども、その調べは常に流れている。そう、聴く耳を持ち、そっと耳を澄ませばだれでもどこでも聞こえてくる美しい呼び声なのだ。(続く)
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