第9章 ⑦求道者
求道者は、真理を探究する人です。
職人は、自らの技を磨き続けます。
知識を身につけ、経験を積み重ね、失敗を繰り返しながら、自分の専門性を高めていきます。
しかし、ある時、大きな壁にぶつかっていることに気づくことになります。
・技術だけでは解決できない問題がある。
・努力だけでは届かない真実がある。
・同じ技術を使っても、人によって結果が違う。
・正しいことをしても、報われないことがある。
そして職人は、技術では決して解くことのできない「答えのない問い」と出会うことになるのです。
・人は、なぜ苦しむのか。
・人は、なぜ間違えるのか。
・世界は、なぜこれほど矛盾と痛みに満ちているのか。
職人は、その答えを探究する過程で、自分の技を磨くだけではなく、その技を支えている原理や法則、人間の本質、世界の真理そのものを知りたいと願うようになるります。
こうして職人は、技を探究する者から、問いを探究する者となり、真理を探究する者である求道者へと変容を遂げるのです。
求道者は、知識を集める人ではありません。真理を探究する人です。
目に見える現象の奥にある法則、人間の心の仕組み、人生の意味、善と悪…。
自由とは何か、愛とは何か、幸福とは何か…。
求道者は、世界の本質を理解しようとします。
求道者の探究は、真剣そのものです。
書物を読み、科学を学び、心理学を学び、哲学を学び、宗教を学びます。
山にこもり、瞑想を重ね、師を訪ね、寺院を巡り、旅をします。
求道者は、容易には答えを手に入れることができない危険な問いを巡って、容赦ない修行を繰り広げていくのです。
⑴ 光の側面
求道者は、問い続ける人です。
安易な答えには飛びつきません。
世間の常識をうのみにしません。
権威だからといって信じません。
自分自身の体験を大切にし、気付きを深め、徐々により精妙で豊かな感受性を身につけていきます。
また、自分が間違っている可能性を受け入れる謙虚さも持っています。
真実の前では、あらゆる自己欺瞞、こじつけやいいわけを決して許しません。
自分の中の良心と言う厳格な基準に忠実なのです。
だから求道者は、日々成長します。
知識だけでなく、洞察を深めていくのです。
出来事や存在を一面的にではなく、多元的多面的に理解できるようになり、認識に深みと広さが生まれてきます。いわゆる正見のスキルを身につけるようになります。
ありのままをありのままに理解する。
自分の願望を混ぜない。
自分の恐れを投影しない。
自分の都合で解釈しない。
世界を世界のままに、人を人のままに、自分を自分のままに見る。
その当たり前のようでいて最も難しい能力――正見を、求道者は問い続ける勇気を通して少しずつ身につけていくのです。
また、正見とは、自他の分離をもとにした認識、分別や評価を慎むということでもあります。
自が他を認識し、評価し、利用する。その当たり前の営みの背景にある“私が私だと思い込んでいた小さな防衛的で攻撃的な私”が、実は全体の私ではなかったことに気づき、距離を置き始めます。
エゴを人格の中心から降ろした私は、しばし戸惑い、さまよいますが、エゴの自動認識に巻き込まれることなく、判断を保留して、静けさにとどまっていると、次第に、今までは他と思い込んできた領域を自分として体験できる視座が開けてきます。それは、共感を越えて自他不二の境地と言えます。
正見とは、自が他を正しく見ると言うよりは、共感的、体験的に理解するということであり、それは、究極の調和、愛、一体感でもあります。
そして、真の正見ができるようになる時、アイデンティティは、エゴにではなく、Selfにシフトし、もともと自分であった本来の自分が中心となる、王の帰還が実現するのです。
⑵ 影の側面
人には、自分ではうまくコントロールができない、ままならないものが2つあります。
一つは内面であり、一つは自分以外の世界です。
求道者は、内面については、徹底的に探究を進めており、深い洞察を体得していますが、外側の世界の不確実性についてはいまだに苦手です。 外側の世界には、思いもよらない偶然、理屈では説明のできない奇跡もあれば、理不尽な苦悩、痛み、矛盾、うそ、搾取、暴力、など、光もあれば闇もあり、そのたいていのことは、自分のコントロールの範囲外で起こってきます。
実は、求道者は、そうした外面の複雑性、不確実性が苦手なのです。
求道者は、そうした外面の不確実性に対して、2つの対処をします。 一つ目は、「悪や複雑性の拒否」であり、もう一つは「ルール化」です。 こうした単純化とストイックさは、罠の多い精神世界を歩む上では、必要な武器と防具でもありますが、度が過ぎると、さまざまな機能不全となって現れてきます。
まず、一つ目の「悪や複雑性の拒否」について、求道者は、ストイックに善を求めます。求道者はけがれることが嫌いなのです。
しかし、現実は、もっともっと複雑で不確実で奥深く、シンプルではありません。 世の複雑性、不確実性に対処するためには、エゴが善と判断するものだけでは不十分です。
エゴが悪として排除してきた衝動や感情、力も統合し、必要に応じて適切に用いる成熟さが求められます。
怒りを知らない人は、不正に対して毅然と立ち向かえません。
攻撃性を認めない人は、大切なものを守れません。
権力を嫌悪する人は、組織を導く責任を果たせません。
求道者は、善を求めるあまり、「善人」であろうとする罠に陥りやすくなります。 しかし、善人を演じることは成熟ではありません。 自分の中の悪を否定するほど、人はその悪に無自覚に支配されるようになるのです。
自分の内にある善と悪の両方を見つめ、そのどちらにも支配されることなく、生かす道を探し続ける必要があります。
影を否定することは成長ではありません。 影とは、排除すべき敵ではなく、セルフのもとで仕える力へと変容させるべき存在です。
影を統合して初めて、人は世の複雑さや不確実さを受け止め、善悪を超えた成熟へと歩み始めるのです。
二つ目の「ルール化」について、求道者は、きままで誘惑の多い外面の世界に対して、厳格なルールをもって自分の行動や組織の秩序を維持します。
ルールは、トラブルを未然に防ぐ便利なツールであり、軸をもって生きる上での支えとなるものですが、扱い方を間違えると、強い副作用が出てくる劇薬となります。
ルールはあくまでも手段であって、成長への踏み台ですが、それに権威を持たせて玉座に据えてしまうと、たちまち法的統治から転落し、教条主義、権威主義、原理主義となり、柔軟性のなさと狭量による厳格な罰則を強調し始めることになります。
悪を排除しようとする人は、やがて複雑さそのものを排除しようとします。 その結果、人を理解することよりも、ルールを守らせることが目的になってしまうのです。
自分たちが設定したルールを権威化して、自分の生活や生き方を一元的に例外を許さず厳格に律すると同時に、他者にも、そのような生き方を強制します。
もし、ルールを少しでも踏み外したら、指摘し、裁き、罰を与えるのです。
さらに、その傾向の度が過ぎると、求道者は、律法学者へと闇落ちすることになります。 律法学者は、すでに探究者ではなく権威者となってしまいます。
律法学者は、世のため人のためと言いながら、正装して歩き、上席や上座を好み、やもめの家々を食いつぶし、その言い訳に長々と祈ります。
人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしません。
知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げます。
真に聖なるものたちを、ルールにそぐわないと言って、魔女、罪人のレッテルを張って迫害するのです。
そして、その時のルールは、もはや聖なる道ではありません。求道者の最も嫌うけがれの道となり、いつの間にか求道者は律法学者、魔女裁判官となり、悪の伝道者となってしまうのです。
探求者は、こうした闇落ちの罠があることに十分注意をしなければなりません。自分の不完全さを受け入れる勇気、謙虚さ、共感、人の言葉に耳を傾けることができる節度、そして、自分の良心を決して裏切らない基軸を持つことが大切です。
⑶ 恐れるもの
求道者が恐れることは、悟りと遠ざかることです。
求道者は、人間に本来そなわる本性を垣間見る見性を得ますが、その後も同様に、自由にその境地に入ることは容易ではありません。悟りは、睡眠と同じように、向こうからやってくるものであって、努力で呼び寄せられるものではないからです。
むしろ、それを求めれば求めるほど、分離が強まり、境地は遠のいてしまいます。
求道者は、悟りと遠ざかることを不安に思うあまり、儀式や方法、法具や経典などの偶像に依存することがあります。しかし、「形」に依存した瞬間、生きた真理=向こうからやってくる自然な流れは消え去り、残るのは人間が作り上げた「固直したルール」だけになります。
不安や恐怖にたきつけられて、偶像や儀式、ルールに依存するその方法は、決して悟りに近づくやり方ではなく、むしろ、律法学者への転落の道でもあるので注意が必要です。
また、求道者は、完ぺきではないこと、そこに少しでも影があること、間違いがあることを嫌うあまり、問題解決のための求道というよりは、理想主義や完璧主義の隘路にはまり、完璧な方法や、非の打ち所がない教えを求めることもあります。
目的が問題解決から求道そのものに切り替わってしまうのです。理想を追求するあまり、次から次へと指導者や教えを巡り歩き、ジプシーを繰り広げることもあります。
そうした探究が、最終的な真実との出あいにつながる可能性もありますが、時には、放浪者と同じように、本質的で見たくない問題から逃れるための言い訳となっている可能性もあります。あくまでも目的は、探究ではなく、真理に近づき真理を生きることであることを忘れてはいけません。
⑷ 課題
求道者の課題は、真理を所有することではなく、真理に仕えることです。
さらに多くの知識を得ることでも、さらに深い悟りを得ることでもありません。
真理に仕えるとは、自分のエゴを、真理の前に静かにひざまずかせることです。
自分の都合に合わせて真理を利用するのではなく、真理によって自分自身が変わっていくことです。
求道者は、厳しい修行を経て、悟りを開き、自分自身を救うことができますが、本来の探究は、自分自身のみを救うことではありません。
自らが得た智慧を、人の幸せのために用いること。
それこそが、求道の使命なのです。
真理は、自分一人のために存在するものではありません。
人を照らし、人を生かし、人を幸せにするために存在するのです。
求道者が、自分だけの悟りへの執着を手放し、真理に仕え、人に仕えようとした時、その探究は新たな段階へ入ります。
真理を探す者は、やがて真理を生きる者となるのです。
その時、真理は知識ではなく、生き方になります。
そして、智慧は知識ではなく人格となり、求道者は、自分を救う存在から人を導く存在への道を歩み始めるのです。
【16人の勇者シリーズ】
第1章 16人の勇者へようこそ ―二つの軸と一枚の地図
第2章 ①自然児・隠遁者 A.自然児
第3章 ①自然児・隠遁者 B.隠遁者
第4章 ②放浪者
第5章 ③一匹狼
第6章 ④職人
第7章 ⑤暴君
第8章 ⑥戦士
第9章 ⑦求道者
第10章 ⑧達人
第11章 ⑨武将
第12章 ➉覇王
第13章 ⑪魔法使い
第14章 ⑫反逆者
第15章 ⑬勇者
第16章 ⑭仙人
第17章 ⑮国王
第18章 ⑯賢者
第19章 勇者としての成長
第20章 勇者として生きる