カテゴリー別アーカイブ: 05.詩・メッセージ

光に向かって(鞍馬寺)

      光に向かって

               鞍馬寺

天を覆う雲は厚くとも、太陽は常に大空に在る。

風が来て雲を払えば、黄金の光が燦然と輝く。

人の心に吹きすさぶ八雲を、苦悩の雲を吹く払う風として、

真実を観る智慧の光を迎えよう。

 

智慧の光が輝くとき、宇宙生命(尊天)に生かされている万象を観る。

あなたも私も、花も鳥も、みな共に生かされているこの世界。

万象が織りなすいのちの相、

宇宙に懸る金色のいのちの羅網、

遠い昔から受け継いできたいのちの絆、

私もその中の一つのいのち、

たがいに手をつなぎ響き合ういのち、

あなたも私も、樹も水も、

みな共に厳然と生かされている。

 

慈愛の温もりに抱かれ、

智慧の光に照らされ、

豊かな活力に満たされて、

今ここに生かされていることの嬉しさと有難さ、

この喜びと感謝の輪を広げよう。

あなたも私も、あの人もこの人も、

たがいに光り合い照らし合う、

明るい未来を信じ希いながら、

一日々々を宝石のように大切に生きよう。

 

すべては尊天にてまします

思考の世界と関係の世界

思考の世界とは、自己対話の世界。

自分の頭の中で、自分以外の世界で起こった出来事を

あれこれと納得できるように分析解説する世界。

自他の分離と対立の中で、自分を守るために作られた世界。

過去の痛みや苦しみの記憶に満ちている。

現実をありのままに理解するのではなく、過去の記憶に照らし合わせて解釈する。

だから、思考の世界は、今ここにいることはできない。

そこでは、今ここの現実の姿は、過去の記憶に照らし合わせなければ認識できない。

だからそこで見ているものは、リアリティではなく過去の亡霊なのだ。

しかも、あらゆる現実は、痛みの色眼鏡を通してゆがんで見える。

いつも攻め込まれる不安と恐怖に焚きつけられている世界。

だから、この世界を作っている原動力は、恐怖心だ。

それは、他から孤立している世界。

それは、閉ざされた世界。

固く防衛された扉からは、光が差し込むことはできない。

脅威を信じているので、愛と信頼を受け入れることはできない。

孤独で不安で悲しい世界だ。

 

関係の世界とは、ありのままの世界。

今ここで起こっているありのままを知覚する世界。

そこは開かれており、自の呼びかけに他が応え、他の働きかけに自が応える世界。

他がいとおしく思える世界。

他の痛みを体験し、他の喜びを体験する世界。

他を他と感じられない世界。

自他の境界が消えていく世界。

分離感を癒し、自他の関係を取り持つもの。

それは、愛だ。

不安、恐怖、怒り、悲しみは、すべて分離感を前提として分離感を強めるもの。

愛こそが、分断された部分を優しくつなげることができる。

だから、関係の世界の原動力は、愛だ。

それは、開かれている世界。

関われば関わるほど、秘密が開示されていく世界。

汲みつくせないほどの魅力と不思議と奇跡に満ちている世界。

今ここの真実の世界だ。

 

思考の世界と関係の世界は、2者択一だ。

どちらかを選べば、どちらかを犠牲にする。

私は、きっと、ずっと思考の世界を生きてきた。

これからは、関係の世界を生きよう。

勇気を持って真実に一歩踏み出そう。

それがきっと本当の自分らしい人生なのだから。

足跡

        砂の上の足跡

               メアリースティーブンソン

 

ある夜、私は夢を見た。

夢の中で、私は神とともに浜辺を歩いていた。

空には、私の人生のさまざまな場面がフラッシュのように映し出される。

そのそれぞれの場面で、私は2人分の足跡が砂浜についているのを見た。

ひとつは私のもの、そしてもうひとつは神のものだった。

私の人生の最後の場面が映し出されたとき、私はそれまでの人生の足跡を振り返ってみた。

驚いたことに、何度も私の人生の中で足跡が1人分しかない時があることに気がついた。

そして、それは人生でもっとも暗く悲しい時期ばかりだったのだ。

私は神に尋ねた。

「神様、あなたは仰いました。一度私があなたについていくと決めたなら、あなたはずっと一緒に歩いてくださると…

しかし、私が最も辛い時期に、砂浜には1人分の足跡しかありませんでした。

なぜ私が最もあなたを必要としているときに、私からお離れになっていたのか理解できません。」

神は答えた。

「いとしいわが子よ、

私は、お前が最も苦しい試練の最中にいる時にも決してそばを離れることはなかった。

1人分の足跡しかなかった時は、私がお前を背負って歩いたのだよ。」

主体的であるということ

主体的であるということ、

それは、依存的ではないということ。

あなたが不幸だとしても

それを他人のせいにしないということ。

他人が変わらなければ私の不幸が終わらない

という思いから自由になるということ。

自分が不幸から脱却するために

相手を変えようという思いから

相手を解放してあげるということ。

自らの不幸の責任を自分が持つということ。

他人を変えようとするのではなく、

自分が変わろうとすること。

自ら幸せに生きる力があると信じ

人生を大切にして、自ら幸せに生きようとすること。

自分が幸せに生きる責任を引き受けるということ。

他人の志に依存するのではなく、自分の理想を生きるということ。

他人の考えに依存するのではなく、自分で考えるということ。

他人の決定に依存するのではなく、自分で決めるのだということ。

他人に救ってもらうのを待つのではなく、自らを救うのだということ。

世界の不幸を嘆くのではなく、世界を幸せにするための使命を果たすということ。

仕方がないとあきらめて周囲の絶望に染まるのではなく、

立ち上がって前を向き、本来の最高のあなたを生きるということ。

そしてかかわるすべての人たちに幸せをささげるということ。

実は何も分かってない

私は、ずいぶんいろんなことを分かっているつもりでいるが、

実のところは、何も分かっていない。

疑問があっても、言葉で整理がつけば、

分かったつもりになるが、

実態は決して言葉の様なものではない。

命があるから生きている。

でも、いのちって何?

ことばで言うといとも簡単そうだけど、

見ようとしても、

その真実をとらえようとしても、

感じようとしても、

どう頑張っても良く分からない。

だから、実は、私は、命って良く分かってないんだ。

あい、かみ、かんじょう、せいしん、あなた、わたし、・・・

きっと、同じように、実は、私は、良く分かっていないんだ。

謙虚に学んでいこう。

ことば以外でそれらを知れるチャンスは、

いまここしかない。

だから、いまここの体験を大切にしよう。

もっともっと丁寧に観察し、謙虚に学ぼう。

もっともっとわかる力ができたら、

いまここは、驚くほど違って見えるかもしれない。

本当の真実が見えるのかもしれない。

そんな、真相を知りたい。

自尊心と傲慢の違い

自尊心と傲慢さは、違う。

むしろ傲慢さは、自尊心の無い人の特徴である。

 

傲慢な人は、自信がない。

本当のところ、自分の本質は、嫌なやつで、必ず人に嫌われるだろうと信じ込んでいる。

本当のところ、自分の本質は、矮小で弱く、真実がばれたら、誰からも相手にされないと信じ込んでいる。

本当のところ、自分は罪を持っており、醜い内面が暴露されたら、許されるわけがないと信じ込んでいる。

だから、人から嫌われまいとして演技をし、

     弱さがばれないように背伸びをし、

     裁かれまいとしてうそをついてしまうのだ。

 

傲慢な人は、自分の欠点を許せない。

傲慢な人は、常に、他人との比較の中で自分を認識するので、常に他人との競争の中で戦っている。

だから、競争の足を引っ張る自分の欠点の存在は、絶対に許せない。

結果として、他人からは見え見えの欠点を無いと言い切り、

完璧になどなれるわけがないのに、完璧なふりをするのだ。

 

本当の自尊心は、決して傲慢ではない。

自分がたとえ完璧ではなくとも、不完全な自分で十分に満足し、感謝できる。

自分は、発展途上であることを知っており、発展途上の自分を信じ、愛せる。

だから、人にも完璧さを求めない。

他人が例え欠点だらけの不快な存在でも、その可能性の壮大さにこうべを垂れて敬服する。

影を目ざとく見つけて責めるのではなく、光をみつめて賞賛するのだ。

 

人は、自分にするように人にする。

自分に攻撃的で、自分に暴言を吐く人は、

他人に攻撃的になり、暴言を吐いてしまう。

その傾向は、相手が自分に近いと思えれば思えるほど強くなる。

だから、自分に近づけば近づくほど、愛すれば愛するほど、その人を攻撃してしまう。

『あなたは私だ』と思えるほど近しく感じる最も愛する人を傷つけてしまうのだ。

 

その不幸の輪廻から解放されなければならない。

だから、自分を責めてはいけない。

だから、自分を大切にすべきだ。

自分を愛せるからこそ、本当に人を愛せるのだ。

自分を信じられるからこそ、本当に人を信じられるのだ。

「自分はだめだけど人は大切」ってどこかしら痛くないかい?

 

人は、ダイアモンドの原石、その輝きの可能性は、無限大だ。

あなたは、可能性の源、未来の種、

光と温度と水を得れば、美しい大輪の花を開かせる。

人は、自分が思っているほどちっぽけな存在ではない。

本当のところ、とてつもなくユニークで壮大で楽しい存在なのだ。

自分の人生がどんなに苦しく悲惨なものだと思っていても、

それは、世界でたった一人、宇宙の歴史でたった一回の、

とてつもなくかけがえのない尊い命だ。

そんな価値ある人生を大切にしよう。

自分自身を愛してみよう。

奇跡はそこから始まるのだから。

 

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ヴィーナスアソシエイションのメッセージ

再生の春

寒さで止まっていた時が溶け出したように動き出す変化の季節、
梅、桜、野に咲く花がいっせいに顔をのぞかせて、豪華絢爛
ほととぎすは、早くも夏の到来を予言して
響き渡る声で唱っている。

長く厳しい沈黙の冬は終わりを告げた。
私も、生まれ変わった気持ちで新しい季節を迎えてみよう。

初めて体験するかのように風を感じてみよう。
今まで聞こえてこなかった風のささやきが聞こえてくるかもしれない。

初めて見たかのように朝日を見つめてみよう。
暖かい声でおはようと言ってくれるかもしれない。

初めて出会ったかのように家族と向き合ってみよう。
きっと今までとは違った思いが私の胸を満たすかもしれない。

初めて今日を迎えたように、今日、たった今ここに耳を傾けてみよう。
思いもつかなかった奇跡が私を訪問してくれるかもしれない。

私とは

私とは一体何なのだろうか?

いったいどこからどこまでが私なんだろうか?

私と私以外を区切る境界線てどこなんだろうか?

肉体の輪郭だろうか?

だとしたら、私が出したため息は、どこまでが私でどこからが私じゃなくなったのか?

汗が滴り落ちた時、その汗は、いつから私じゃなくなったのか?

抜け落ちた髪の毛は、私なのか私じゃないのか?

いったい何が私で何が私じゃないのか?

目の前にあるクッキーは、今は、私じゃないけれども、食べれば私になるのか?

しかし、クッキーは食べようが食べまいが中身に変わりがあるわけではない。

いったい何がどう変化していつからどこから私になるのか?

そもそも、目の前のクッキーが私じゃないって一体誰が決めたのか?

目の前にある水は、今は私じゃないけれども、飲めば私になるのか?

しかし、水は、飲もうが飲むまいが中身に変わりがあるわけではない。

いったい何がどう変化していつからどこから私になるのか?

そもそも目の前の水が私じゃないって一体誰が決めたのか?

そもそも目の前のペンが私じゃないって一体誰が決めたのか?

そもそも目の前のあなたが私じゃないって一体誰が決めたのか?

ここからが私だと思い込んでいる境界線は、実は根拠がない。

そして、そこからが私じゃないと思い込んでいる境界線も、実は、相当いい加減だ。

私と他を引き離す境界線は、現実には存在していない。

その境界線を引いているのは、私の頭の考えだけだ。

私と他の境界線は、単なる言葉のあや、空想の産物なのかもしれない。

では、私とは一体何なのだろうか?

探求は続いていく。

自分を受け入れるということ

     自分を受け入れるということ

 

私には、さまざま私がいる。

私がわかっている私、私が気付けていない私。

私が好きな私、私が嫌いな私。

私がコントロールできる快適な私、私がコントロールできないやっかいな私。

独裁者の私、弱腰の私、陰謀家の私、評論家の私、検事の私、短慮の私、・・・。

私の混沌とした内面を支配するために、私は、さまざまな努力をしている。

私を裁くこと、私をほめること、私を脅すこと、私を怒ること、…

私をリードするために、私は、効果があるかどうかは別として、さまざまな努力をしている。

ただ、していないことは、私を受け入れることだ。

今ここで存在しているありのままの私を受け止めて愛するということ。

そんなシンプルなことをしていない。

実は、私にまつわる多くの問題は、そこに起因しているのだ。

受け入れるということは、分離感をいやすということ。

不安や恐怖は、分離感の申し子。分離感が弱まれば、不安や恐怖も鎮まる。

受け入れることを通して、あなたは、より自由になり、輝くようになる。

あなたが変われば、周りも変わる。

あなたの変化を受けて、あなたの友人たちが、

         次第に、微妙に、根本的に変わってくることにあなたは気づくだろう。

受け入れることは、愛するということ。愛するということは、まさに、太陽の力。

自分も他人も、より自分らしく輝く力強いあり方へと優しく変容を促すのだ。

忠実であるべきもの

  何よりも忠実であるべきものは、あなたの志だ。
  他者の権威、規模の大きさ、力の強さにひざまづいてはいけない。
 
  あなたは、あなたの人生の王様や王女様であり、
  決して脇役や召使いではない。
 
  今のあなたは、貧しく、小さく、頼りない状況かもしれない。
  しかし、だからと言って、熱いハートを失う必要はない。
 
  貧しいからこそ、気高い理想を貫こう。
  小さいからこそ、可能性を信じ、成長を楽しもう。
  弱いからこそ、胸を張って勇気を持って生きる生き方がかっこいいのだ。
 
  あなたがどんなにみじめな状況にあっても、志を捨ててはいけない。
  あなたの志が、どんなに周りから嘲笑されようと、志によせる信頼を失ってはいけない。
  あなたは、外部の権威に従うのではなく、自分の志に従うべきなのだ。
 
  あなたが、あなたの自信を砕き、あなたを絶望に追い込む者たちに負けることなく、自分の志を守り、信じ通した時、あなたの思いは実現する。
 
  奇跡の源泉は、外部の権威ではなく、あなたの中にこそある。
  さあ、奇跡に向けて、一歩踏み出そう。