カテゴリー別アーカイブ: 05.詩・メッセージ

自尊心と傲慢の違い

自尊心と傲慢さは、違う。

むしろ傲慢さは、自尊心の無い人の特徴である。

 

傲慢な人は、自信がない。

本当のところ、自分の本質は、嫌なやつで、必ず人に嫌われるだろうと信じ込んでいる。

本当のところ、自分の本質は、矮小で弱く、真実がばれたら、誰からも相手にされないと信じ込んでいる。

本当のところ、自分は罪を持っており、醜い内面が暴露されたら、許されるわけがないと信じ込んでいる。

だから、人から嫌われまいとして演技をし、

     弱さがばれないように背伸びをし、

     裁かれまいとしてうそをついてしまうのだ。

 

傲慢な人は、自分の欠点を許せない。

傲慢な人は、常に、他人との比較の中で自分を認識するので、常に他人との競争の中で戦っている。

だから、競争の足を引っ張る自分の欠点の存在は、絶対に許せない。

結果として、他人からは見え見えの欠点を無いと言い切り、

完璧になどなれるわけがないのに、完璧なふりをするのだ。

 

本当の自尊心は、決して傲慢ではない。

自分がたとえ完璧ではなくとも、不完全な自分で十分に満足し、感謝できる。

自分は、発展途上であることを知っており、発展途上の自分を信じ、愛せる。

だから、人にも完璧さを求めない。

他人が例え欠点だらけの不快な存在でも、その可能性の壮大さにこうべを垂れて敬服する。

影を目ざとく見つけて責めるのではなく、光をみつめて賞賛するのだ。

 

人は、自分にするように人にする。

自分に攻撃的で、自分に暴言を吐く人は、

他人に攻撃的になり、暴言を吐いてしまう。

その傾向は、相手が自分に近いと思えれば思えるほど強くなる。

だから、自分に近づけば近づくほど、愛すれば愛するほど、その人を攻撃してしまう。

『あなたは私だ』と思えるほど近しく感じる最も愛する人を傷つけてしまうのだ。

 

その不幸の輪廻から解放されなければならない。

だから、自分を責めてはいけない。

だから、自分を大切にすべきだ。

自分を愛せるからこそ、本当に人を愛せるのだ。

自分を信じられるからこそ、本当に人を信じられるのだ。

「自分はだめだけど人は大切」ってどこかしら痛くないかい?

 

人は、ダイアモンドの原石、その輝きの可能性は、無限大だ。

あなたは、可能性の源、未来の種、

光と温度と水を得れば、美しい大輪の花を開かせる。

人は、自分が思っているほどちっぽけな存在ではない。

本当のところ、とてつもなくユニークで壮大で楽しい存在なのだ。

自分の人生がどんなに苦しく悲惨なものだと思っていても、

それは、世界でたった一人、宇宙の歴史でたった一回の、

とてつもなくかけがえのない尊い命だ。

そんな価値ある人生を大切にしよう。

自分自身を愛してみよう。

奇跡はそこから始まるのだから。

 

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ヴィーナスアソシエイションのメッセージ

再生の春

寒さで止まっていた時が溶け出したように動き出す変化の季節、
梅、桜、野に咲く花がいっせいに顔をのぞかせて、豪華絢爛
ほととぎすは、早くも夏の到来を予言して
響き渡る声で唱っている。

長く厳しい沈黙の冬は終わりを告げた。
私も、生まれ変わった気持ちで新しい季節を迎えてみよう。

初めて体験するかのように風を感じてみよう。
今まで聞こえてこなかった風のささやきが聞こえてくるかもしれない。

初めて見たかのように朝日を見つめてみよう。
暖かい声でおはようと言ってくれるかもしれない。

初めて出会ったかのように家族と向き合ってみよう。
きっと今までとは違った思いが私の胸を満たすかもしれない。

初めて今日を迎えたように、今日、たった今ここに耳を傾けてみよう。
思いもつかなかった奇跡が私を訪問してくれるかもしれない。

私とは

私とは一体何なのだろうか?

いったいどこからどこまでが私なんだろうか?

私と私以外を区切る境界線てどこなんだろうか?

肉体の輪郭だろうか?

だとしたら、私が出したため息は、どこまでが私でどこからが私じゃなくなったのか?

汗が滴り落ちた時、その汗は、いつから私じゃなくなったのか?

抜け落ちた髪の毛は、私なのか私じゃないのか?

いったい何が私で何が私じゃないのか?

目の前にあるクッキーは、今は、私じゃないけれども、食べれば私になるのか?

しかし、クッキーは食べようが食べまいが中身に変わりがあるわけではない。

いったい何がどう変化していつからどこから私になるのか?

そもそも、目の前のクッキーが私じゃないって一体誰が決めたのか?

目の前にある水は、今は私じゃないけれども、飲めば私になるのか?

しかし、水は、飲もうが飲むまいが中身に変わりがあるわけではない。

いったい何がどう変化していつからどこから私になるのか?

そもそも目の前の水が私じゃないって一体誰が決めたのか?

そもそも目の前のペンが私じゃないって一体誰が決めたのか?

そもそも目の前のあなたが私じゃないって一体誰が決めたのか?

ここからが私だと思い込んでいる境界線は、実は根拠がない。

そして、そこからが私じゃないと思い込んでいる境界線も、実は、相当いい加減だ。

私と他を引き離す境界線は、現実には存在していない。

その境界線を引いているのは、私の頭の考えだけだ。

私と他の境界線は、単なる言葉のあや、空想の産物なのかもしれない。

では、私とは一体何なのだろうか?

探求は続いていく。

自分を受け入れるということ

     自分を受け入れるということ

 

私には、さまざま私がいる。

私がわかっている私、私が気付けていない私。

私が好きな私、私が嫌いな私。

私がコントロールできる快適な私、私がコントロールできないやっかいな私。

独裁者の私、弱腰の私、陰謀家の私、評論家の私、検事の私、短慮の私、・・・。

私の混沌とした内面を支配するために、私は、さまざまな努力をしている。

私を裁くこと、私をほめること、私を脅すこと、私を怒ること、…

私をリードするために、私は、効果があるかどうかは別として、さまざまな努力をしている。

ただ、していないことは、私を受け入れることだ。

今ここで存在しているありのままの私を受け止めて愛するということ。

そんなシンプルなことをしていない。

実は、私にまつわる多くの問題は、そこに起因しているのだ。

受け入れるということは、分離感をいやすということ。

不安や恐怖は、分離感の申し子。分離感が弱まれば、不安や恐怖も鎮まる。

受け入れることを通して、あなたは、より自由になり、輝くようになる。

あなたが変われば、周りも変わる。

あなたの変化を受けて、あなたの友人たちが、

         次第に、微妙に、根本的に変わってくることにあなたは気づくだろう。

受け入れることは、愛するということ。愛するということは、まさに、太陽の力。

自分も他人も、より自分らしく輝く力強いあり方へと優しく変容を促すのだ。

忠実であるべきもの

  何よりも忠実であるべきものは、あなたの志だ。
  他者の権威、規模の大きさ、力の強さにひざまづいてはいけない。
 
  あなたは、あなたの人生の王様や王女様であり、
  決して脇役や召使いではない。
 
  今のあなたは、貧しく、小さく、頼りない状況かもしれない。
  しかし、だからと言って、熱いハートを失う必要はない。
 
  貧しいからこそ、気高い理想を貫こう。
  小さいからこそ、可能性を信じ、成長を楽しもう。
  弱いからこそ、胸を張って勇気を持って生きる生き方がかっこいいのだ。
 
  あなたがどんなにみじめな状況にあっても、志を捨ててはいけない。
  あなたの志が、どんなに周りから嘲笑されようと、志によせる信頼を失ってはいけない。
  あなたは、外部の権威に従うのではなく、自分の志に従うべきなのだ。
 
  あなたが、あなたの自信を砕き、あなたを絶望に追い込む者たちに負けることなく、自分の志を守り、信じ通した時、あなたの思いは実現する。
 
  奇跡の源泉は、外部の権威ではなく、あなたの中にこそある。
  さあ、奇跡に向けて、一歩踏み出そう。
 

破壊の時代

今君が直面している世界は、さまざまなかたちの「破壊」をまだ人間がしつづけている時代にある。

それは戦争や犯罪といった集団レベルの破壊だけではなく、個人の心の中も同じ状態にある。

きみもぼくも、まだ自分の意識の深いふちで、さまざまな破壊行為を繰り返している。

ヒトはまだ、自らの心を何らかのネガティブな意識で傷つけて破壊してしまう。

そして次の瞬間には、その割れてしまった心のかけらを手にとって途方にくれている。

なんでこんなことをしてしまったのだろう、と思いながら。

「永遠という名の一瞬」 十和音響 著 徳間書店出版 より引用

私の中の中心

私の中に中心がある。

それは、忘れていた私の居場所

揺らぎ動じることのない安心の場所

くつろぎと心地よさと無条件の喜びの場所だ。

 

それは、天と地をつなぐ磁束帯

あらゆる意欲と創造性の源

思いやりと優しさの源泉

そんな中心が私の中にある。

 

私はいつも中心の周囲を見ていた。

中心の周囲は、中心を守るための砦だ。

だから、いつも警戒と不安と戦いと痛みを体験している。

しかし、中心は、天と地の子供であり、守られる必要のない強さがある。

だから、守らなければならないという信念は幻想なのだ。

そんな幻想に私はいつも軸を置いていた。

生まれてからずっとそういう生き方を基軸に置いていた。

今こうしていても昔ながらの意識の中にある。

だから、いつも不安で苦しいのだ。

 

これからは、自分の本来の居場所、中心にいよう。

中心を探求しよう。

それは、本当に無限の可能性なのだから。

いわずにおれなくなる

いわずに おれなくなる

ことばでしか いえないからだ

 

いわずに おれなくなる

ことばでは いいきれないからだ

 

いわずにおれなくなる

ひとりでは 生きられないからだ

 

いわずにおれなくなる

ひとりでしか 生きられないからだ

 

まど・みちお「百歳日記」より

発展途上の自分を愛するということ

自分が不完全だからといって、嘆いてはいけない。

地球上で、完璧な人など存在しない。

どんなに美しい人であっても、あの静謐な満月の美しさに勝るものはない。

どんなに明るく元気で力のある人であっても、あの圧倒的な太陽の力強さに勝るものはない。

どんなに神聖な予言者でも、大自然や宇宙の神秘に勝ることはできない。

上には上があり、人間には到底及びもつかない壮大さがある。

完璧になろうとすることは、そのすべてを手に入れようとすること。

自分の素晴らしい環境や才能に感謝することなく、

つまらない欠点を責めて文句ばかり言うということ。

それは、とても傲慢だということなのだ。

人は、発展途上なのだ。

完璧ではないので、欠点はあるかもしれないが、

断じて無力ではない。

人は、人として力強く幸せに生きるための十分な力がある。

その潜在性と可能性は、文字通り無限大なのだ。

もう少し背が高ければ、もう少し頭が良ければ、もう少し力があれば、

などとケチくさいことを言ってはいけない。

発展途上の自分を愛するのだ。

それがどんなに欠点にあふれ問題に満ちていても、

あなたは、地球でたった一人の存在。

宇宙の歴史の中でたった一回の存在。

とてつもなくかけがえのない大切な存在なのだ。

そんな自分を大切にしよう。

発展途上の自分を受け入れて、本気で生きてみよう。

奇跡はそこから始まるのだから。

私は誰?

私は、だれ?と問うてみた。
         
名前が思い浮かんだが、名前は、単なる言葉であって、

私は、名前ではない。

顔や体を思い浮かべたが、顔や体は、年とともに変わっていくので、

私は、体ではない。

心の中で起こる様々な気持ちがそうではないかと思ったが、

感情は、起こっては消え、移ろいやすく、それが起こっていなくとも私は存在するので、

私は、感情ではない。

私は、いろんな体験を認識する主体。

だから、これが私ではないかと思った私は、認識される客体なので私の本質ではない。

だから、私が認識できるあらゆる対象は、私ではない。

では、私とは、認識しようのない幻なのだろうか?

そんなことはない。

私は、私を驚くほどの迫力で体験している。

この私という実感は決して幻ではない。

では、私を体験している究極の私とはだれ?

説明しようと思っても絶対に説明できないし、

見ようと思っても決して見れない私とはだれ?

本当のところ、私はだれ?