カテゴリー別アーカイブ: 05.詩・メッセージ

地球で最も偉大な力 byマザーテレサ

考える時間を持ちなさい
祈る時間を持ちなさい
笑う時間を持ちなさい

それは力の源泉
それは地球でもっとも偉大な力
それは魂の音楽

遊ぶ時間を持ちなさい
愛し、愛される時間を持ちなさい
与える時間を持ちなさい

それは永遠に続く若さの秘密
それは神が与えてくれた特権
自分勝手になるには1日は短すぎる

読書する時間を持ちなさい
親しくなるための時間を持ちなさい
働く時間を持ちなさい

それは知識の湧き出る泉
それは幸福へ続く道
それは成功の価値

施しをする時間を持ちなさい
それは天国へと導く鍵

「マザー・テレサ語る」早川書房
カルカッタの孤児の家の壁にかかっている看板より

カエルの祈り(アントニー・デ・メロ)

かえるの祈り  「蛙の祈り」(アントニー・デ・メロ著 裏辻洋二訳)より抜粋

ある夜、兄弟ブルーノが祈っていると、食用ガエルの鳴き声がうるさくてかなわない。気にすまい、無視しようと努めたが、気の散るのはどうにもならない。そこで彼は窓から顔を出して叫んだ。
「静かにしろ、祈っているのだから。」

兄弟ブルーノは、聖者の誉れが高かったので、彼が一喝するや、あたりはしんと静まり返った。

生けるものはすべて固有の声を持っており、その声が祈りに具合の良い沈黙を生み出すのである。祈っているブルーノの中に別の響きがわき起こってきた。
「もしかして神は、おまえの唱える祈りと同じくらい、カエルの鳴き声を喜んでおられるのではないか。」
「カエルの鳴き声がなんで神を喜ばせるんだ」と、ブルーノは心中冷ややかに答えた。
ブルーノの中にさらに響き続ける声が言う。「神はなぜ、音なるものを作り出したと思うか。」

「よし、その答えを見つけだしてやろう。」ブルーノは窓から身を乗り出して叫んだ。
「さあ、歌うんだ。」
食用ガエルの調子のそろった鳴き声は、近隣のカエルというカエルの声を呼び集め、天空を震わせた。
ブルーノがこの音を全身を耳にして聴いていると、カエルの鳴き声は神経に障る物音ではなくなってきた。
鳴き声に抗うことをやめると、この鳴き声こそが夜の沈黙をいっそう豊かにしていると気づいたのである。

こうしてブルーノの心は、生まれて初めて宇宙と調和した。
彼は祈るということの内実をとらえた。

気を以って聴く

「気を以って聴く」    荘子

 

(原文)
若一志。
無聴之以耳、而聴之以心。
無聴之以心、而聴之以気。
聴止於耳、心止於符。
気也者虚而待物者也。
唯道集虚。
虚者心斎也。

(読み方)
なんじ志しを一にせよ。
これを聴くに耳を以ってするなく、これを聴くに心を以ってせよ。
これを聴くに心を以ってするなく、これを聴くに気を以ってせよ。
聴くは耳に止まり、心は符に止まる。
気なる者は虚にして物を待つ者なり。
ただ道は虚に集まる。
虚者は心斎なり。

(意訳)
心を静かに集中しなさい。
耳で聞くのではなく、心で聴きなさい。
心で聴くのではなく、気で聴きなさい。
耳では音しか聴けず、心では気持ちしか聴けない。
気は、虚(空っぽ)であり、あらゆるものを受け入れることができる。
真実は、ただ虚であるときにのみ姿を現す。
虚であることこそが神聖な心をもたらすのである。

ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に書かれていた詩

力を与えてほしいと神に祈ったのに
     謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった

より偉大なことが出来るようにと健康を求めたのに 
     よりよきことが出来るようにと病弱を与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
     賢明であるようにと貧困を授かった

世の中の人々から賞賛を得ようとして成功を求めたのに
     得意にならないようにと失敗を授かった

人生を享受しようとあらゆるものを求めたのに
     あらゆることを喜べるようにと命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが願いは全て聞き届けられた

神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、
        心の中で言い表せないものは全てかなえられた

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されていたのだ

 

詠み人知らず

自由とは

自由とは、自らに由ること
他を頼りとするのではなく、自らを頼りとすること
依存するのではなく、自立するということ
変化を待つのではなく、変化を起こすということ
施しを待つのではなく、施すということ
観客になるのではなく、主人公になるということ
陰に生きるのではなく、光の中で生きるということ
創造を待つのではなく、創造主となるということ
あきらめるのではなく、希望に燃えるということ
恐怖に従うのではなく、喜びに従うということ
偽の自分(エゴ)に従うのではなく、本当の自分に従うということ
戦うことではなく、受け入れるということ
孤立するのではなく、関係性に生きるということ
否定することではなく、理解するということ
求めるのではなく、手放すということ
許されることを請うのではなく、許すということ
愛されることを願うのではなく、愛されていることに気づくこと
愛を疑うのではなく、愛を受け入れるということ
愛を期待するのではなく、愛するということ
愛を信じるのではなく、愛になるということ

あなたに必要なこと

   あなたに必要なこと

人生に奇跡と栄光をもたらすものは何か?

それは、決して特別な才能でも超能力でもない。

あなたはすでに偉大なる成功をもたらすための十分な才能と力量を備えている。

あなたの中には、今はまったく想像もつかないほどの奇跡がまどろんでいる。

あなたに必要なことは、特別な防具や武器を身につけることではなく、

ただそのことを知ること。

自ら絶望し、恐怖することをやめることである。

 

厳しい試練を乗り越えてきた偉大なる勝者たちは、このことを知っている。

彼らは、道は拓けることを知っている。

未来は、自分で創造できることを知っている。

自分には、乗り越えられない苦難はないことを知っている。

そして、一歩を踏み出す勇気こそが未来を拓く宝であることを知っているのだ。

 

七難八苦、癒しようがない悲しみ、

痛み、憎悪、救いようのない絶望、乗り越えられない壁、…、

人生の中に訪れるのは、礼儀正しいお客様ばかりとは限らない。

しかし、決してうろたえてはいけない。

青い鳥は、決してどこか遠くにいるわけではない。

創造性の根源は、今ここに、あなたの中にこそある。

あなたの中にまどろんでいる可能性は、途方もなく強く大きい。

あなたに必要なことは、ただそのことを知ることである。

自分に対する信頼と信念が、

粘り強さ、協力者、新しい出会い、奇跡を引き寄せることを覚えておきなさい。

あなたに必要なことは、特別な何かではなく、自分を愛し、心から信じることなのである。

受け入れるということ

                      受け入れるということ

受け入れるということ、それは、拒絶することとは違う。

拒絶することは、受け入れないことであり、受け入れることではない。

受け入れること、それは、同意することとは違う。

同意することは、他者の言うことを正しいと自分が思うことであり、

受け入れることは、他者がそれが正しいと主張していることを理解することである。

同意していなくとも受け入れることはできる。したがって、受け入れることと従うことは違う。

受け入れたからといって、従う必要はまったくない。

また、従うことは受け入れたことの証明ともならない。

受け入れなくとも従うことはできるからだ。

受け入れることは、好きになることとも違う。

好き嫌いは実はたいした問題ではない。

食べ物の好みが時とともに変わるように、好き嫌いは移ろいゆくもの、本質的なものではない。

乗り越えられるのだ。

 

受け入れるとは、相手のありのままを受け止めて、ありのままを理解すること。

受け入れるとは、相手を裁いたり、操作したり、変えようとすることではない。

そのままの相手を、そのままに理解しようとすることである。

受け入れることは、途方もない大きな力を持っている。

それは、北風ではなく太陽の力。暴力ではなく、優しさの力。

改善の力ではなく、革命の力なのだ。

受け入れることは、分離感をいやすということ。

あなたがいったん受け入れることを始めたら、あなたと世界の間で存在していた幻想の壁、断絶、分離の緊張が和らぎ、癒され、内と外が共鳴し始めることに気づくだろう。

不安や恐怖は、分離感の申し子。

分離感が弱まれば、不安や恐怖も鎮まる。

受け入れることは、不安と恐怖の根本をいやすのだ。

受け入れることを通して、あなたは、より自由になり、より自分らしく輝くようになる。

あなたが変われば、周りも変わる。

あなたの輝きを受けて、あなたがかかわる人たちが、次第に、微妙に、根本的に変わってくることを次第にあなたは気づくだろう。

受け入れることは、愛するということ。

愛するということは、まさに、太陽の力。

自分も他人もより自分らしく自由で輝かしく力強いあり方へと優しく変容を促すのだ。

勇者となる

  勇者となる

気高く生きなさい

あなたは、もともと途方もなく気高い

あなたは、今考えているようなちっぽけな存在ではない。

あなたは、成長の途上にいるのであって、ゴールにいるわけではない。

だから、あなたができることが、あなたの能力の全てというわけではない。

あなたには、あなたが想像もしていないような奇跡がまどろんでいる。

あなたの夢とロマンの冒険は、これからもまだまだ続くのだ。

 

成長を楽しみなさい。

あなたの頭には、どんなに危険な罠をもくぐりぬけていく叡智を持ち合わせている。

あなたの腕には、どんなに強い敵をもなぎ倒すパワーがみなぎっている。

あなたの足には、空をも駆け抜ける速さを秘めている。

あなたの腹には、怯み動じることのない胆力が悠然と立っている。

あなたの喉には、響き渡る力強く美しい言葉を生み出し、諸国を従わせる力がある。

あなたの胸には、どんなに深い悲しみをも癒すやさしさがある。

 

あなたは、仲間をいつくしむ聖母である。

あなたは、全てを理解する賢者である。

あなたは、群雄割拠する猛者を束ねる覇者である。

あなたは、見捨てたり裏切ったりしない友達である。

あなたは、川であり、山であり、海であり、あらゆる自然である。

あなたは、太陽のように仲間を勇気付けるリーダーである。

あなたは、数千万の兵を束ねる百戦錬磨の勇者なのだ。

 

取り越し苦労をして、つまらないことを考えているときではない。

いまは、戦いのどらを鳴らすときである。

勇ましく胸を張って、剣を大空に高らかと掲げ、

駿馬にまたがり、第一歩を踏み出しなさい。

かつて勇者が、あらゆる奇跡を起こしてきたように。

あなたにも同じ生き方ができる。

なぜならば、あなたは、もともと気高い勇者なのだから。

勇者と暴君

   勇者

勇者は、本当に自分が生きたい人生を生きる。

勇者は、自分の本当の気持ちを良く知り、それを実行する。

自分の本当の感情や思考を愛し、信じているので、それをごまかしたり、拒否したりする必要はなく

ありのままに生きるので、その言葉も行動も人生も、力に満ち輝いたものとなる。

 

彼(彼女)は、りきみがなく、柔軟性に富んでおり、その反応は自然である。

彼(彼女)は、ワンパターンでプログラミングされているやり方で反応したり、「こうあるべきだ」と思込んでいる枠組みで答えを出したりしない。

彼(彼女)は、現実のありのままの自分の反応を愛し、そして表現するのである。

彼(彼女)は、自分の選ぶ道が、勝利の栄光につながっている事を確信している。

数知れない苦難や障害は、大いなる冒険につきものの乗り越えられるべき課題であり、その事で絶望するなどとは夢にも思わないのである。

従って、彼(彼女)は、勇気をもって危険に立ち向かっていく。

時には、失敗し、希望が見えない窮地に追い込まれるかもしれないが、決してあきらめたりくじけたりする事はない。

勇者は、障害や苦痛、痛みや絶望が、自分の成長のためにあることを知っている。

その不幸にとらわれて、復讐を試みたり、自分を罰したり、人の同情をかったりすることの無意味さを良く知っており、また、それは、道草であり、時間の無駄使いであり、あい路へと向かう甘い誘惑である事を知っている。

彼(彼女)は、「勝利の女神は、多くの苦難と無数の敗北の後にやってくる」ことを知っているのである。

 

勇者は、大いに笑い、そして素直に楽しむ。

自分の仕事や遊び、食事や生活、仲間との語らい、家族とのふれあい、自然のありさまや自分の創造作品を心から楽しむ事ができる。

また、彼(彼女)は、人との間に、基本的にオープンな関係を築く。

他者に対して、率直で正直であり、また、よく聴く心を持っている。

彼(彼女)は、相手が自分をどう認識しようが、まったく相手の自由であり、それをコントロールする事は本質的にできない事を知っている。

だから、ふりをしたり、うそをついたり、他者を支配しようとはしない。

相手の自由を心から受け入れ許すことができるのである。

勇者は、”今ここ”に集中しており、自分や家族、仲間や世間の出来事に深い関心を持っている。

“今ここ”で起こっている出来事のすべてを、嫌いだからと言って拒絶することなく、ありのままに観察し理解しているので、より良くしていくために打つ手は適切である。

勇者は、強い意志をもって自分や、自分の関わるすべてをよりよくしていこうと努力している。

彼(彼女)は、まさに自分の最善を尽くして愛するもののために戦う勇者なのである。

 

 

   暴君

暴君は、自分を”犠牲の子羊”であるかのように思っている。

「自分は無力であり、運が悪く、嫌われており、望みはなく、見捨てられており、死んだ方がいい」と思い込んでいる。

暴君は、自分に対する最悪の呪文を真実であると確信している。

“負け犬、罪人、みにくい、疲れきっている、死にそうだ、犠牲者、できそこない、…”

暴君は、このような言葉で、自分を投獄する檻をつくり、自分の勇気をくじき、自分をのろい、結果的に自分自身に不幸をもたらしている事に気づいていないのである。

暴君は、”苦難”が”栄光に向かうステップ”である事を忘れている。

彼(彼女)にとっての人生の目的は、”苦難に対する復讐”であり、”苦難を受けて当然であるといった自分や他人の罪深さの証明”であり、”蓄積した悲しみや怒りや憎しみの表現”である。

彼(彼女)は、終わってしまった苦悩にこだわり、過ぎ去ってしまった過去にとどまり、そこから一歩も進もうとはしない。

過去の悲劇を憎み憎悪しているにもかかわらず、過去の悲劇が彼(彼女)の人生の基盤になってしまっている。

まさに暴君は、悲劇に依存しているのである。

 

暴君は、”過去”に生きる。

彼(彼女)にとっての過去は、不幸ではあるが、危険のない居心地の良いすみかである。

そこにいれば、自分は犠牲者で悪者ではなく、自分の責任も限られており、起こる出来事も決まっているのでリスクが少なく安心していられる。

暴君は、”恐怖の未来”にも生きる。

暴君は、決して未来を信じる事はない。

彼(彼女)にとって未来は、不幸であった過去の焼き直しであり、それ以外の幸福のイメージは見えないし、見ようとしない。

また、例え大きな夢をもっていたとしても、それは、単なる過去の不幸の反動であり、それは本音の志ではないし、その実現を全く信じてはいない。

だから、暴君のビジョンは、「ひどい不幸にならないこと」であり、人生の目的は、「恐怖や不安から逃れる事」になる。

彼(彼女)の心は、心配と不安でいつも圧倒されているのだ。

病気になったらどうしよう、傷ついたらどうしよう、攻撃されたらどうしよう、

交通事故にあうかもしれない、会社をリストラされたら、見捨てられたらどうしよう…、

暴君の心は、希望の光が差し込む余地が無いほどに恐怖の亡者で満たされており、

結果として、変化を好まずに、チャンスを逃し、古い悲劇を反復するだけの人生を生きる事になるのである。

暴君の不安や恐怖は、現在をもゆがめる。

怖がり、萎縮しているので”今ここで”のありのままの出来事をじっくりとおちついて味わい、観察する事ができない。

蝶が飛ぶ美しい花畑にいても、病気のことで頭がいっぱいであり、素晴らしい香りに気づくことはない。

仲間と一緒にいても、仕事の不安に気をとられて、友達からの友情や愛に気づくことはない。

彼(彼女)は、あせっており、現実をゆがめて解釈し、打つ手のタイミングも対策も的はずれで強引なものになってしまうのだ。

暴君は、このような自分の内面に満足してないし、自信もないので、人に対して決して内面をさらすことはない。

彼(彼女)は、演技をしたり、ふりをしたり、仮面をかぶったりして人と操作的に関わる。

彼(彼女)は、自分の不幸な体験を巧妙に利用する。

「こんなに不幸なのだから同情される権利がある。」

「こんなにひどく傷つけられたのだから、やり返してもかまわない。」

「こんなに運が悪いのだから、勝利するはずはなく、またしなくてもいい。」

など、たくみに人をコントロールしたり、自分の暴力を合理化したり、責任を回避することに自分の自己イメージを利用するのだ。

暴君は、分かり合い、愛し、愛される暖かい関係を築き上げる事が苦手である。

彼(彼女)は、根強い不信感と敵意を手放す事ができないので、信頼や愛を体験した事もなければ、それを求めようともしない。

その代わりに自分の期待通りに人を巧みに操作しようと務め、また、相手の期待にそうように卑屈な奴隷となる。

結果として彼(彼女)のユニークさや潜在能力は発揮されず、その才能は開花する事はない。

逃げ惑い、自ら固く閉ざした扉で光が差し込む事はない。

こうして、暴君は、本来そうではなかった全く不本意な悲劇の人生を歩むことになるのである。

 

 

  自分を生きる勇者となるために

人生における困難、みじめな敗北、胸をふさぐ悲劇、など、

人生に訪れる事実は目を覆うばかりの出来事であることが少なくない。

しかし、この世に乗り越えられない苦難はないことを忘れてはいけない。

人の中には、人が想像する以上の途方も無い程の力がまどろんでいる。

その力を解放するキーワードは”勇気”である。

 

自分らしく輝いて生きるためには勇気がいる。

・安心できる過去の習慣から抜け出し、新しい未知の可能性に踏み出していく勇気

・他の人々と直接的に正直に関わる勇気・集団の力に対抗してでも自分の確信を選ぶ勇気

そして、もっとも大切な勇気は、”いまここ”の真実の自分を信頼し、自分にうそをつかずに、誘惑と危険に怯むことなく、真実の自分を生き抜く勇気である。

 

人には、勇者として生きるに値する途方もない可能性が眠っている。

人は、大いなるヴィジョンに向けて、肩の力を抜き、自分らしく勇気を持って生き抜こうとしたときには、想像を絶するほどの偉大なる力が発揮されるだろう。

新しい船出は、必ずしも安全が保障されているわけではない。

しかし、変化を恐れず、自分を信じて一歩踏み出せば、必ずや道は開ける。

そのときにはじめて気づくであろう、自分がもともと勇者であったことを。

いまここにあるということ

  いまここにあるということ

“今ここ”は、芸術作品だ。

それは、数多くの人の願いを種として、

数多くの人の工夫と知恵を集め、数多くの人の汗と祈りを経てこの世に姿を現した。

それはまさに数多くの人々の努力の結晶であり、あなたへの尊いプレゼントなのだ。

“今ここ”を楽しみなさい。

それは、あなたの関心にこたえてくれるだろう。

そこには汲みつくせないほどの喜びが眠っているはずだ。

もし楽しめないとしたら、あなたがよく観察してないからだ。

静かに穏やかに体験してみれば、その奥行きと深さと広さが分かるだろう。

“今ここ”を祝福しなさい。

それは、あなたの敬意にこたえてくれるだろう。

そこには途方も無いほどの可能性が眠っているはずだ。

もし祝福できないとしたら、どこをどう変えたいのかを考えなさい。

あなたの知恵が加わって、”今ここ”はさらに輝きを増すだろう。

“今ここ”を愛しなさい。

それは、あなたの愛にこたえてくれるだろう。

欠点もあり完璧とは思えないところもあるかもしれないが、

決して抵抗したり、逆らってはいけない。

どんなに受け入れがたくとも、起こってしまった後では遅すぎるのだ。

どのような出来事であっても、この時点では、できる限りの努力の結晶であり、

理由がないこと、無駄で意味のないことは何一つないのだ。

あなたが嫌わずに許し、受け入れていけば、

それは、あなた自身の栄光を身にまとうことになるだろう。

“今ここ”を創造しなさい。

それは、あなたの情熱にこたえてくれるだろう。

あなたの信念と熱い思いは、必ずや結晶化して

未来というすばらしい作品を生み出すはずだ。

もし、アイデアが起こらないとしたら、

あなたが不注意でぼんやりとしており、せっかくのヒントを取り逃がしているからだ。

“今ここ”との絆は、あなたの中のあふれんばかりの創造性を解き放つだろう。