カテゴリー別アーカイブ: 06.人材教育の理論・情報

ポジティブ心理学 2.学習性無力感

①きっかけとなった心理実験

 セリグマンが大学院に入学した時に目撃した大学院の諸先輩方の実験は、3段階で構成されていました。

 まず、第一段階では、”高い音”をならした直後に電気ショックを与えることを繰り返し、犬が、なんでもない音と、不快なショックを結びつけるようにして、後で、犬が音を聞いただけでショックを受けたときと同じように恐れて反応することを学習させると言った条件付けを行ないます。

 第二段階として、犬は、シャトルボックスに入れられます。シャトルボックスは、2区画に仕切られ、間に低い仕切り板があり、犬が望めば、飛び越えることが出来る高さとなっています。第二段階では、シャトルボックスの片側にいる犬に対して、”電気ショックを与えるが、仕切り板を飛び越えて、隣室に入るとショックが止まる”ことを繰り返し、「電気ショックが起これば、仕切りを飛び越え、隣室に入ると、電気ショックから逃れることが出来る」ことを学ばせることが目的です。

 そして第三段階は、電気ショックを与えずに、ブザーがなれば、音だけで仕切りを飛び越えることができるかどうかを試みることが実験企画の全体の内容でした。

 セリグマンが、大学院に進学したそのときに、ちょうどこの実験が行われていたのですが、実は、実験はもくろみの通りに進んでおらず、諸先輩が、困っているところだったのでした。

 第二段階において、犬は、電気ショックを与えても、ただ鼻を鳴らしているだけで、ショックから逃げるために、シャトルを仕切る板を飛び越えようとせずに、ただ座り込んでいたのでした。

 その時、セリグマンは、犬の様子を見て、「父のうつ状態」と似ていると直観しました。彼は、この実験の犬は、どんなに逃げても、この電気ショックからは逃れられないことを理解し、無力感にさいなまれ、うつ状態になったのではないかと思ったのです。

②学習性無力感

 セリグマンのこの直観は、諸先輩からは、「罰と報酬によって学習が生み出されると言う行動主義心理学の考え方とは外れる」「動物は、そんなに高度な精神活動はしていない」と否定的な意見で共感されませんでしたが、彼は、めげずに実験を繰り返し、ついに「動物であっても、自分でコントロールできない避けがたい出来事を多く体験すると、無力感を学習し、無抵抗なうつ状態になる」ことを論文で発表しました。

 この論文は、支配的だった行動主義の考え方に強烈な一撃を加えることになり、当時の心理学会に大反響を与えることになったのです。 犬が体験したうつ状態は、後に「学習性無力感」と呼ばれ、セリグマンの考えは、広く一般に認知される心理学の理論となったのです。

③学習性無力感の教え

 学習性無力感は、ある意味、「”あめとムチ”で他者をコントロールしようとする試みは、決して教育にはつながらず、結局他者をうつ状態にしてしまうことにつながってしまう」ことを証明する理論でもあると言えましょう。

 学習によってうつ状態になるとは、なんと皮肉なことでしょう。

 放っておけば、犬は犬として、人は人として元気に生きているわけですが、教育と称して、アメとムチで操作コントロールしようとすることによって、うつを引き起こしてしまうのです。

 このことは、教育に携わる私たちにとって、とても強い警告をしてくれているような気がします。教育と称して他者を外部からコントロールしようとする試みは、決して教育にはつながらず、むしろ人の自由を奪い、主体性や元気を奪ってしまう。

 人は、外部からの刺激では決して有意義な成長をすることはできません。行動が変わったように思えても、決して心からではなく、怖いから演技や見せかけの振る舞いをしているだけであって、決して人の偉大なる可能性を引き出しているわけではありません。真に重要な変化は、常に内面から起こります。

 腹の底から絶望が解けた時、喜びとともに自己信頼の回復が起こった時、胸にあたたかい愛が流れ込んできたとき、今までは見えなかった圧倒的な輝きを体験した時、 人は本当に変わるのです。

 教育に携わる人は、人の内面にあるこうした成長の力を決して疑うべきではありません。教育と言う名の偽善で人の内なる可能性をつぶしてはいけません。人に対する愛と信頼を失った人に限って、操作やコントロールをしたがる傾向にあることを決して忘れてはいけません。コントロールして矯正したい相手の問題ではなく、そうしたがる自分が問題なのです。

 人は、自分らしく輝いているときには、想像もつかないような大きな仕事をやり遂げる力があるけれども、うつ状態に陥れば、考えられないような失敗や問題行動を起こしてしまう可能性があります。もしそのうつ状態が、人為によってつくられたとしたら、なんて罪深いことでしょう。

 厳罰によって従業員の行動を教育しようとしたJR西日本の尼崎における大事故(2005年4月)は、そのことを象徴しているようにも思えます。

 学習性無力感の理論は、私たちが、自分や人と向き合ったときにどのようなかかわり方をすべきなのかを考えるにあたって、強く気をつけなければならない教訓を示してくれているといえましょう。

ポジティブ心理学 1.ポジティブ心理学が生まれた背景

 ポジティブ心理学とは、人間の”ものの見方、考え方”にスポットを当てる心理学です。

 アメリカの心理学者、マーティンセリグマン博士が提唱し始めた理論であり、私たちの認識の在り方、ものの見方考え方が、私たちのキャリヤや生活、幸福感や健康、生き方や人生そのものに大きな影響を及ぼすと考え、より自分らしく幸せな生き方に向けての具体的な方法を提唱してくれています。人生をより充実した豊かなものにするための方法、ウエルビーングを追求する方法、より自分らしく力強い生き方を促す方法の一つとして、現代心理学の主流の理論の一つとなっています。

 ポジティブ心理学を理解する上で、まずは、セリグマン博士が、なぜ心理学を志し、なぜポジティブ心理学を生み出したのかについての背景から探求してみましょう。なお、以下の文章は、「オプティミストはなぜ成功するか」講談社文庫(マーティン セリグマン著)に基づいて書いております。

1.ポジティブ心理学が生まれた背景

①心理学を志す

 M.セリグマン(アメリカ1943~)は、13歳の時に、父が病気により体が麻痺すると同時に、うつ状態となり、不幸な晩年を送ったことを契機に、父親のような人たちの助けとなりたいと思い、心理学を志すようになりました。

 彼の父は、彼が理想とする父親像にぴったりとマッチするような父親であり、物静かで落ち着いており、公務員として仕事に従事すると同時に、ニューヨーク州の高官選挙に出馬するといった大胆な挑戦を試みる尊敬すべき人物でした。

 しかし、ちょうど選挙への出馬を決心した頃、左半身の感覚が無くなったことを皮切りに、3度にわたる発作を起こし、49歳の若さで、永久の身体麻痺の状態となってしまいました。

 身体の自由を全く奪われた状態へと急激に変化して、彼は、心理的にもうつ状態となり、選挙に出馬しようとする闘志あふれる状態、落ち着いた尊敬すべき人格者であったころの父親と比べると見る影も無いほど絶望しており、みじめな状態になってしまったのです。彼のお父さんは、セリグマン少年の勇気づけや働きかけが功を奏することなく、その後、心身の無力状態が回復せずに、苦悩の中で亡くなりました。

 そのような体験を経て、彼は、お父さんのように絶望の中にいる人の助けになりたいと志し、心理学の道に入っていったのです。

②当時の心理学会の状況

 1964年、セリグマンは、実験心理学を学ぶためにペンシルバニア大学の大学院に進学しました。その頃の、心理学は、”行動主義”と呼ばれる考え方が主流であり、行動主義に基づいたさまざまな理論や実験が展開されていました。

 行動主義とは、「おおよそ、生物は、”刺激→反応”のパターンを観察、計測し分析することで、その行動を説明し、コントロールすることが出来る。」と言う考え方に基づいた心理学の一つの考え方を言います。

 現代では、生命は、そのような単純なものではなく、”刺激→有機的存在→反応”と言う複雑なプロセスを経て主体的かつ個性的な行動をする存在であると言う考え方が主流であり、行動主義心理学は、心や意識を無視し、主体性をないがしろにしているとの理由で批判されることが多いのですが、当時は、一種の暗黙の規範のように、「”行動主義的”な考え方でなければ心理学ではない。」と言えるほどの強い権威を持った考え方だったのです。

 複雑な心の内面を謙虚に研究し、理解を深めようとするのではなく、アメとムチのような刺激を工夫することによって被験者の行動や態度をコントロールしようとする行動主義の考え方は、現在からすると、カルト的な性質があると批判されても仕方のないところがありました。

 当時、行動主義を主導していたワトソンが、幼児のアルバート君に恐怖を人為的に教える心理実験など、現在では人道に反すると批判されることが多い心理学ですが、当時は、心理学会において強烈な権威を持っており、それを是とする者しか心理学者としてキャリアを伸ばすことが困難だったのです。

 そうした、現在では不自然で操作的、侵食的と非難される立場を正当化するように、自分たちの正しさを証明するような心理実験が多数行われています。パブロフの犬は、その代表的なものの一つと言えましょう。

 セリグマンが、進学時に大学院で行われていた実験も、まさにこのような”行動主義心理学”に基づいた実験でした。

ダイアローグの3段階

 ダイアローグ(Diarogue)とは、対話の意味です。

 語源から見ると、ダイア(Dia)は「流れる」で、ローグ(logue)は、「ロゴス」の意味であり、「関係を通してロゴスが流れる」ことをさしていると考えられます。

 では、ロゴスとはいったい何でしょうか。ロゴスとは、もともとギリシャ語で「言葉」「論理」「理(ことわり)」「神聖さ」などを意味する言葉であり、哲学や神学、言語学など様々な分野で使われており、その文脈によって意味合いが少しずつ異なります。

 ここでは、このロゴスの意味のレベルを3段階に整理して、ダイアローグ(対話)の深みを探ってみたいと思います。

 

  • 第一段階「情報交換の段階」

 ロゴスが、言葉を意味する段階です。いわゆる情報のやり取りの段階で、質問や説明がやり取りされることを通して、お互いの状況や考えを整理、理解することができます。

 論理的なやり取りが多く、それを取りまく感覚や感情、直観などの交流はまだ表に出てこないので、問題解決は表層的であり、本質的な解決につながりづらい段階です。

 懸念に基づく心理的な距離感があり、遠慮やぎこちなさ、慇懃さや注意深さをもってゆっくりと信頼を育んでいきます。

 

  • 第二段階「真実と創造の段階

 ロゴスが、真実や創造性を意味する段階です。懸念を乗り越え、心理的な安全性が確保されることによって、潜在化していた本音、感情や直観、アイデアが表出されるようになります。

 対話を通して共感、共鳴、楽しさがもたらされ、対話が単なる情報のやり取りではなく、個人の枠を超えた穏やかで豊かで創造的な場となります。結果、思いもよらなかった新しいアイデアや意味が紡がれる豊かな創造性が引き出されることになります。

 この段階で、ダイアローグは、本質的で的を得た、効果的かつ創造的な問題解決の源泉となります。

 

  • 第三段階「聖なる出会いの段階」

 ロゴスが、神聖さを意味する段階です。対話の在り方によっては、関係性を通して魂と魂が出会い、共鳴し、癒され、変容していく神聖な場となります。

 言葉によるもののみならず、沈黙を通しても意義深い共感が起こっており、穏やかでやさしい雰囲気の中で、お互いに深い興味と関心を持ち、お互いを無批判・無評価・無判断の態度でありのままを受け入れ、ありのままを理解します。

 場は、気高くエネルギッシュでパワフル、静かでありながらもダイナミックで生き生きと躍動しており、そこにいるだけで楽しくなり、元気になります。そこに立ち会う者は、その場にいるだけで、癒され、恐怖や絶望から自由となり、自分らしさを取り戻し、本来の自分らしい気高く元気で魅力にあふれた在り方へと変容を遂げていきます。

 ダイアローグは、単に情報のやり取りを意味するものではなく、そこには、隠されたミステリー、想像を超えた大きな可能性がまどろんでいます。向き合う態度ややり方によっては、その偉大なる力を引き出すことができます。

 人は、さまざまな側面がある複雑な存在です。注意しなければならない欠点もありますが、想像をはるかに超えるようない大きな可能性もまどろんでいます。大切なことは、その可能性に気づき、そういう自分として生きることなのだろうと思います。

 他に頼るのではなく、自分の内面の可能性を信じ、自分らしく勇気をもって生きることこそが、自分の偉大なる力をどんどん引き出し、魅力的になっていくプロセスを進めていくのだと思います。

 ただし、そうなるためには、孤立したエゴの状態のままでは変容は起こりません。そこには何らかの関係性が必要なのです。ダイアローグは、他者との関係を通してそうした成長のプロセスを後押しする貴重な機会なのだろうと思います。

 ダイアローグは単なるお話し合いではなく、共に聴き合い、響き合い、育ちあう冒険なのです。

後悔と反省の違い

 後悔と反省は違う。似て非なるものである。
 後悔の背景には恐怖と怒り、反省の背景には信頼と希望がある。

 後悔は、自分が失敗したことを受け入れてない。自分に欠点や至らない点があることを他人に暴露されることが恐ろしいのだ。
 「役に立つ人間、すごい人間、完璧な人間」でなければ他人に認められない、又は、存在を許されないとかたくなに恐れており、使える完全無欠な人間であるようにふるまい、他者にも自分をそう見てもらえるように操作的に関わる。
 しかし、すごい自分を演じている自分が実はすごくないことを一番よく知っているのは自分だ。そして、自分の中のみじめで役立たずで不完全で醜いと思い込んでいる自分を隠し、憎み、恥じている。
 だから、自分の至らない点を受け入れることができない、と同時に、起こった出来事をありのままに受け入れることができない。それが起こったのは自分のせいではない、他人、環境、社会のせいであって自分の落ち度ではない。そもそもこんなことは起こるべきじゃなかった。自分は不条理な被害を受ける被害者であり、言われないそしりを受ける弱者である。と思い込み、自己防衛と復讐に奮闘努力するのだ。
 結果、後悔には偽善、欺瞞によって塗り固められた自画像を固く死守することにこだわり、一切の変化や成長は封じ込められてしまう。暗く閉ざされた巣穴に引きこもり、光が差し込むことはない。

 反省は、後悔とは違う、似て非なるものである。
 後悔は痛みであり、反省は癒しである。
 反省は、痛みを伴うどのような体験であっても、決して目をそらすことなくありのままに見ようとする。どのような現実であれ、現実を肯定し、そのままに受け止めようとする。良くも悪くも起こる出来事は、起こるべくして起こったことであり、それ以上でもそれ以下でもない寸分も狂いもないものであると受け止めている。
 出来事に対して、不平や文句を言わずに受け止めるには信念と覚悟がいる。
 自己防衛と言い訳に勤しむ自分を慎み、自分の成長の可能性を信じて未知に挑戦し、変化し成長しようとする覚悟。
 出来事の全ては天の采配であって、天が自分に与えてくれた良き教材だと信じる信念だ。
 それはシンプルなものであり決して理解が難しい考え方ではないが、体現することは簡単ではない。その高い壁を乗り越えられる人はそう多くはない。しかし、その大きな分水嶺を乗り越えた人にこそ癒しはやってくる。
 反省は、自分に痛みを与えた出来事、人、環境を許し、同時に、そのようなみじめな体験をした自分自身をも許す。自他のコインの両面を許すのだ。
 許されたものは、ありのままの真実を開示する。狭い了見のエゴで捻じ曲げて解釈していた時には分かりようのなかった秘密が打ち明けられるのだ。
 それは、かたくなに隠し通されてきた痛み、怯え、罪悪感、恥、封じ込められていたさまざまな悪霊が解放され、許され、癒されていくということ。
 それは、まったく知らなかった偉大なる仕組みや法則や可能性が開示され、自分の立場や視野の新しいリアリティ、次元が拡大するということ。
 それは、自分を縛り付けていた呪縛から解放されて、自分らしい成長を喜ぶということなのだ。

 結果、反省は、ありのままの自分を見つめ、反省し、どうすればよいかを考え、挑戦していく。

 “光は傷口から差し込んでくる。”
 反省は、内面に光をもたらす。内面に真実の光が差し込むことによって、人の痛みや苦悩がやさしく温かく癒されていくことになる。

 “希望は絶望の後にやってくる。”
 反省は、絶望の痛みがあったからこそ、それを乗り越えた人にやってくる希望に満たされる。
 それは、歓喜であり、全く新しい自分の偉大なる可能性である。

 後悔してはいけないということではない。時に膝を抱えて休むことも必要である。しかし、いつまでも自己憐憫に浸ることは慎まなければならない。どんなに嘆いても事態は改善しないからである。
 ひと時休んだら、反省に取り組まなければならない。
 “見ても見ず、聞いても聞かず、理解しないのではなく、しっかりと見て聞いて理解しなければならない。

 逃げてばかりでなく踵を返して前を向かなければならない。
 立ち上がって戦士となってドラゴンに向き合わなければならない。
 なぜならば、あなたは勇者だからだ。
 あなたは、魂を持った偉大なる勇者であって、決して卑屈な負け犬ではない。
 あなたには、今の未熟なありかたから脱皮し、成長する宿命がある。
 いつまでも大きな芋虫ではいけない。
 あなたは、蝶となって自由に大空を舞うことが使命なのだ。

 決して忘れてはいけない、あなたは今あなたが思っているようなちっぽけな存在ではない。
 あなたは、成長を使命とする魂を持ったたぐいまれなる個性を持った魅力的で力ある勇者なのだ。

 あなたには、あなたと同じように苦しんでいる人を助ける使命があることを忘れてはいけない。

 いまこそ、あなたの魂、その使命に耳を傾けるとき。

“勇気”に関する名言集

「勇気とは恐怖心の欠落ではなく、それに打ち勝つところにあるのだと学んだ。
勇者とは怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服する人間のことなのだ。」
ネルソン・マンデラ

「人は何度やりそこなっても、「もういっぺん」の勇気を失わなければ、かならずものになる。」
松下幸之助

「壁というのは、できる人にしかやってこない。
超えられる可能性がある人にしかやってこない。
だから、壁がある時はチャンスだと思っている。」イチロー

「リスクを取る勇気がなければ、何も達成することがない人生になる。」  モハメッド・アリ

「人生はどちらかです。
勇気を持って挑むか、棒に振るか。」ヘレン・ケラー

あなたが入ることを恐れる洞窟にはあなたが求める財宝が眠っている。」ジョセフ・キャンベル

「いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。」 岡本太郎

「人生に失敗がないと人生を失敗する。」 斎藤茂太

「夢を求め続ける勇気さえあれば、
すべての道は必ず実現できる。」ウォルト・ディズニー

「為せば成る
為さねばならぬ 何事も
成らぬは人の 為さぬなりけり」上杉鷹山

「神は我々に成功など望んでいません。
挑戦することを望んでいるのです。」マザー・テレサ

「夜明け前が一番暗い。」西洋のことわざ

「傷とは、光があなたの中に入り込んでくる場所だ。」ジャラール・ウッディーン・ルーミー

「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない。」 ゲーテ

「人生が最も過酷になった時にこそ、
自分の内なるより深い力を見つけるための好機がやってくる。」ジョセフ・キャンベル

「他人の意見で自分の本当の心の声を消してはならない。
自分の直感を信じる勇気を持ちなさい。」スティーブ・ジョブズ

「成功は、失敗しないようにすることではない。
失敗とはほとんどの場合、成功が何であるかを会得していくプロセスである。」
スティーブ ジョッブス

「創造性を回復する道の途中で、いつもスマートでいることなど不可能だ。
創造性を回復するためには、喜んで下手なアーティストにならなければならない。
初心者であることを自分に許そう。」ジュリア・キャメロン

「本当の勇気は「弱さ」を認めること」ブレネー・ブラウン

「あなたができると思うこと、あるいは夢見ていることがあれば、今すぐ始めなさい。
大胆な行動は、天才と力と魔法を呼び起こす。」 ゲーテ

「あなたの至福に従いなさい、
そうすれば宇宙は壁しかなかった所で扉をあけてくれるだろう。」 ジョセフ・キャンベル

「誰かを深く愛せば、強さが生まれる。誰かに深く愛されれば、勇気が生まれる。」老子

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。
探せ、そうすれば、見いだすであろう。
門を叩け、そうすれば、あけてもらえるであろう。」イエス・キリスト

「音に驚かない獅子のように、
網にとらえられない風のように、
水に汚されない蓮のように、
犀の角のようにただ独り歩め。」釈迦

「狭い門から入れ。
滅びにいたる門は大きく、その道は広い。
そしてそこから入って行く者が多い。
命に至る門は狭く、その道は細い。
そしてそれを見いだす者が少ない。」イエス・キリスト

“私“とは ⑥私が私らしく生きるために

 ⑦セルフリーダーシップを回復するために
 前節で、自分らしく幸せに生きるためには、Selfとパーツが信頼しあい、協調しあえる調和の状態であることが必要だということが分かりましたが、では、どのようにすれば、そのような調和や統合が可能なのでしょうか。以下、IFSの考え方を参考にして、セルフリーダーシップを確立し、自分らしく輝いて生きるための方法について検討していきましょう。

⑴人は、あたかも難しい大企業の経営を営んでいる社長のよう

 IFSの視点からは、人は、好むと好まざるとにかかわらず、すでに多くの部下を従えた大企業の社長のような存在として難しい経営を営んでいるように見えます。ですから、自分らしく生きることは実は簡単ではないのです。もし、いま、生きづらさを感じているとしたら、それは当たり前のことであり、大企業の社長としての修行、成長のプロセスなのだと理解すべきでしょう。

⑵SELF を主体として生きることが自分らしく輝いて生きるということ

 IFSの考える“私”とは、Selfと多くのパーツを含めた全体像を言いますが、自分らしく幸せに生きれている状態と言うものは、あくまでもSelfが王座に座り、王国全体が調和的にある状況を言います。パーツは大切な自分の一部ですが、決して主人ではありません。パーツを玉座に据えてしまうと、本来の自分らしい生き方と言うよりは、客人による生き方、Selfのもっている気高さ、輝きを失った本来の自分らしくない生き方となってしまうでしょう。パーツを否定してはいけませんが、決して無関心、無放縦にしてもいけません。Selfによるリーダーシップを通してありのままを観察し受け入れ、パーツの持っている痛みや渇きをいやすことを通して、過度な興奮を鎮めていくこと、パーツとの信頼関係を育むこと、そしてSelfによる内面の王国のリーダーシップが確立していくことが大切だと言えます。

⑶自分の中のあらゆる自分を認める

 IFSでは、まずは、自分の中に、自分が見捨ててしまったパーツがあることを受け入れること、そして傷ついたインナーチャイルド、追放者と和解し、癒し、再統合を図ることが必要だと考えています。どのパーツも見捨てずに歓迎する、全てのパーツに尊厳と感謝をもって癒しを深めていく自己への共感によるヒーリングが必要だと考えているのです。

 私の中の追放者は、私が見捨ててしまった小さな私であり、私の顕在意識の手の届かないところに追いやってしまったために、もはやコントロールすることはできません。戦うことはもちろん、突き放す、無視する、脅す、褒美を与える、取引する、など、追放者が自分の一部ではなく分離した対称という認識を持ったままでは、どのようなテクニックを弄しても、問題を解決することはできません。
 本質的な問題解決に必要なことは、もともと私だった追放者を再び迎え入れること、私の中の痛みの存在を認め、ありのままを受け入れ、共感し、再び自分として統合を図ることなのだと言えましょう。

⑷光は傷口から入ってくる

 傷ついているパーツ、腹を立てているパーツなど、全てのパーツを見捨てずに尊重し、その痛みや弱さを思いやりをもって癒し救うことが、SELFの目覚めにつながります。

 追放者や追放者を巡る私の中の管理者、消防士たちは、過去の痛みや傷から自分自身を守るために育くまれてきた自分の中の防衛機構です。いわば、かさぶたであり、古傷であり、残ってしまっている痛々しい傷跡です。時に、社会的なやっかい事を引き起こす原因となる者たちですが、それはあくまでも私を守る使命を全うしようとするが故の懸命な活動からくるものなのです。ですから、それらを決して見捨ててはいけません。都合が悪いからと言って嫌ったり抑圧したり無視したり排除しようとする試みは、決して成功しません。むしろ事態を悪化させてしまうでしょう。

 自分で自分を嫌うということは、IFS的に言うと、パーツがパーツを嫌うといういわゆる兄弟げんかのような状態です。どちらが正しくてどちらが間違えていると言うことはありません。強いて言えばどちらも不完全なのです。どちらが勝っても調和はとれませんし、どちらが負けても問題は解決しません。内的に分離と葛藤を起し激化させることは、ますます事態を混沌とさせていくことでしょう。

 最も大切なことは、あらゆるパーツを見捨てないこと、パーツゆえの使命を認め、受け入れ、愛すること、かつてのみじめで悲しい自分を認め、受け入れ、だきしめることこそが内定調和をもたらすことを理解する必要があります。まさに、光は傷口から入ってくるのです。パーツの痛みや渇望を受け止め、愛し、癒すことこそが、本来の自分であるSelfの目覚めを促し、内的な癒しと調和をもたらし、本来の自分の徳性、魅力を引き出すのです。。

⑸権威は自分の内面にある

 癒しや問題解決の源泉(SELF)は、他でもない自分の内部にあります。内的な調和を失うと、Selfの存在を見失ってしまい、自分にはSelfなど存在しないと思い込んでしまいがちです。あたかも、厚い雲に覆われてしまって、太陽の存在を見失ってしまうことと似ています。

 しかし、権威はあなたの中にこそあるのだということを忘れてはいけません。自分の内面の太陽を信じられないからこそ、それを他に求めて、まがい物の石やツボ、教えや偶像に全財産をつぎ込んでしまうのです。しかし外面に権威を求めても決して救われることはありません。だって、Selfはあなたの中にしかないのですから。

 それがどんなに強くて大きくても、自分の玉座を外部の権威に明け渡してはいけません。 あなたは、あなたの人生の王様や王女様であり、決して脇役や召使いではありません。
 
  今のあなたは、貧しく、小さく、頼りない状況かもしれません。 しかし、だからと言って、熱いハートを失う必要はありません。他人の考えをうのみにするのではなく、自分で考え、自分で決断するのです。
 
  貧しいからこそ、大きな夢をもって気高い理想を貫くのです。
  小さいからこそ、可能性を信じ、成長を楽しむのです。
  弱いからこそ、胸を張って勇気を持って生きる生き方がかっこいいのです。

 ありのままの自分、かっこいいところもあればかっこ悪いところもある自分を受け入れること、大切にすること、慈しみ、愛することからすべては始まります。

 そもそも、追放者は、困難な人生を生き残るための適応方法として生み出されたものであり、それが無ければ私は生きてこれなかったかもしれないのです。
 私の中の管理者は、自分勝手であり不完全な存在ですが、わたしを社会的な危機から守るために一生懸命なのです。それは管理者としての性であり、醜いことでも直すべきことでもなく、そうあることが当たり前なのです。私の中の消防士は、なりふり構わずに痛みを消そうとするので、時に反社的であり、時に不本意な問題を引き起こす厄介者のように感じますが、実は、私が生き残るために体を張って戦ってくれている戦士であり、私を愛してくれている大切な家族なのです。
 私の中のパーツたちと向き合うために必要なことは、暴力ではなく、ひとえにおもいやり、やさしさ、共感であり、高い精神性なのだと言えましょう。

 あなたは、断じて欠点だらけの力ない敗北者ではありません。あなたは、たぐいまれなる個性と美徳をもって生まれてきた勇者なのです。あなたの可能性は、今の想像をはるかに超えるほどの偉大さをまどろませています。その可能性を信じること、自尊心をもって生きることこそ、自分らしく生きる生き方を導くカギとなるのです。

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私が私らしく生きるために

“私“とは ⑤Selfとパーツの関係がもたらす「私」の3つの状態

⑥Selfとパーツの関係がもたらす「私」の3つの状態
 Selfとパーツの関係の在り方によって、本書では、「私」は、⑴調和の状態 ⑵葛藤の状態 ⑶機能不全の状態 の3つの状態に変容していくと考えています。それぞれの状態の特徴について以下解説していきましょう。

⑴調和の状態
 Selfの働きによってパーツが十分に癒され、ネガティブのエネルギーの束縛から解放されると同時に、Selfとパーツの信頼関係が育まれて、基本的な安心感、世界と向き合う上での確固たる基盤が出来上がります。
 また、世界に対する信頼感、前向きな思いを取り戻し、チャレンジ精神や粘り強さ、明るさや勇気といった本来の美徳、問題解決能力を取り戻して、たくましく力強く人生を切り開いていきます。
 この状態こそが、人本来の可能性が表現されている状態であり、もっともその人らしく幸せに輝いて生きている状謡といえます。

⑵葛藤の状態
 Selfは、活発なパーツの活動に打ち消されて、背景に隠れてしまい、もはや主導権を失った状態です。
 Selfを自覚できなくなると、私は、一部のパーツと同一化し、一部のパーツを私と認識するようになります。しかしそのパーツは、Selfとは違い、癒す力や人徳によるリーダーシップを発揮する能力はありません。時には、取引や計算高さ、あめとムチ、脅しや操作などの質の悪い管理者のするようなふるまいで他のパーツをリードすることはあるでしょうが、決してSelfの特性は期待できません。リーダーとしての限界があるのです。
 また、パーツは、内面に複数存在し、その目的や利害が一致しているわけではなく、かならずしも同一化したパーツに、他のパーツがすなおに従うわけではありません。ですから、一部のパーツが主導権を握った「私」の内面は、反論、抵抗、攻撃、など、パーツ同士が絶えず主導権を巡って戦いあう葛藤状態となります。
 パーツ同士の葛藤が深まり、分離が強くなればなるほど、「私」の自己イメージは悪化し、自尊心を損ない、自己嫌悪が激しくなっていきます。
 この状態になると、パーツの主導権が、頻繁に移行するようになります。要するに、ニコニコ笑っているかと思うと、いきなり怒り始め、暴言を吐くなど、他者から見ると、まるで人格が変わったような(実際に変わっているのですが…)現象が起こるのです。
 

⑶機能不全の状態
 自分で自分だと認めたくない部分、自己嫌悪の対象、追放者が多くなればなるほど、自分の領域は狭くなり、自分は不自由で制限のあるふるまいしかできなくなり、無力感は増していきます。また、追放者を扱う管理者や消防士などのプロテクターにもエネルギーを注がなければならないので、自分のエネルギーはどんどん枯渇し、常に疲労している不活性な状態になります。そして、次第に自分の内面をマネジメントすることに対して絶望し、責任を持てない混乱の状況になっていくのです。
 この状態になると、パーツ同士は、協調するというよりは、自分勝手にふるまい始め、相互の分離感は強く、壁が厚くなり、主導権を争う葛藤も激しくなります。
 また、「自分」は、増々無力で不活性状態になっているので、容易にパーツの影響を受けるようになり、主導権を奪われ、自分の意思というよりはパーツの意思で生きるようになってきます。
 この段階になると、解離が強くなり、記憶の連続性が失われることもあります。「私」は、私の場で起こっているすべてのことを把握することが出来づらくなってしまう、まさに無秩序、混乱の状態、「私」の機能不全の状態となってしまうのです。

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“私”とは ④内的家族システムによるセルフリーダーシップの考え方

2.内的家族システムによるセルフリーダーシップの考え方
 分離脳研究を通して、人は、統一された一つの人格によってのみ存在しているのではなく、複数の人格を内在する存在であること、そして、わたしたちが普段「これが自分だ」と思っている「私」は、左脳の作り出すインタープリター(解釈者)によるイメージや概念であって、決してありのままの真実の私ではないことが分かってきました。
 ここでは、別の視点=最新の心理学である内的家族システム理論から、どうして複数の人格が私の中に生まれてくるのか?本当の私とはどのようなものなのか?わたしらしく力強く幸せに生きるためにはどうすればよいのかについて探求していきましょう。

①内的家族システム理論とは
 内的家族システム(Internal Family Systems Model)、略してIFSは、アメリカの家族療法のセラピストであるリチャード・シュワルツ博士によって開発された心理療法です。
 1980年代より始まり、30年以上の歴史を持つ療法であり、世界中の多くの心理セラピーの場で活用されています。
 また、広く一般的に認知されている理論でもあり、2013年に発表された関節リウマチに対する研究論文で、その効果が認められたこと、エビデンスが実証されています。

 IFSでは、人の心は、複数の副人格の集合体であると考えています。この場合の副人格とは、独自の考えと感情を持つ存在を言います。つまり、IFSの考え方では、私の中には、独自の考え方や感情を持つ多くの小さな私(人格)が存在しており、それぞれが、協力したり、戦ったり、働きかけたり、なだめたりしながら、わたしという全体像を作り上げていると考えているのです。なお、IFSでは、これらの副人格をパーツと呼んでいます。本書でもこれに倣って、以降は副人格をパーツと呼びます。
 また、IFSでは、パーツを超えたSelfと呼ばれる意識があるとも考えています。この場合のSelfとは、パーツを超えた高く大いなる意識であり、私たちの「本来の自己」であると考えています。Selfは、私の中のパーツの癒し手であり、私の人生を導く真のリーダーとなります。そしてSelfとパーツの関係性によって、人生のクオリティが大きく変わってくることになるのです。それが反感と不信、罪悪感と恥辱に満ちていると、解離や統合の失調をもたらしますが、相互信頼と安心、思いやりと調和に満たされた場合は、力強く輝く幸せな生き方につながるのです。まさに、セルフリーダーシップによる輝かしい生き方が実現できると言えましょう。

②トラウマを担う追放者というパーツ
 人は、自分では消化しきれないショック、痛み、苦悩を体験すると、防衛機構が発動し、その体験の全てをありのままに見て受け止めることを拒否し、担い切れない部分を封じ込めると考えられています。
 封じ込められた痛みの体験は、氷結されてそのままの状態で身体のどこかに保存されます。そのような封じ込められた痛みをトラウマと呼んでいるのです。トラウマの体験は、顕在意識には登らずに抑圧、封印されることになり、実際にその記憶事態が失われる事例も多数見受けられます。
 IFSの考え方では、人は、無意識的に、このトラウマの痛みを自分の中の一つのパーツに背負わせて、他のパーツから隔離することによって自分の全体像を守ろうとすると考えています。そして、隔離されたパーツを「追放者(Exile)」と呼んでいます。
 例えば、わたしたちには誰にでも、子供っぽく弱い部分があります。虐待を受けると、こうした部分は最も大きく傷つき、最も大きく反応します。人は、無意識に虐待のような担い切れない苦痛を体験した場合は、全体を守るために、一部のパーツ、この場合は子供っぽく弱い部分を切り離し、そこに裏切られた悲しみや痛みや恐怖を担わせることになるのです。

 トラウマを担わされたパーツは、「私は愛されていない」や「私は価値がない」などの否定的な信念の下で、暴力を受けた恐怖、裏切られた悲しみ、重すぎる無力感や絶望、担い切れないほどの痛みを抱え込んでいます。
 追放者は、その強い否定的なエネルギーゆえに他のパーツにとっての毒、有害な存在となり、隔離されます。隔離された追放者は、他のパーツからは、存在を否認され、仲間外れとなって孤立します。
 かくして、私の中に、見捨ててしまった私、私の手の届かない悲しい痛みのユニット、傷ついたインナーチャイルドが生まれるのです。

 追放者は、たとえ隔離され、封印されても、その存在が消えるわけではありません。実態の影のように、その強烈な痛みや感情のエネルギーを保ちながら、私にぴったりと寄り添って存在します。そして、そのエネルギーは、潜在意識下で雑音のように少しずつ影響を与えると同時に、トラウマを体験した時と同じような環境=その時に見たものと同じようなもの、場所、時間帯、匂いを感じると、直ちに目覚め、騒ぎ出し、恐怖や怒り、悲しみ、罪悪感、恥、自己嫌悪、等の強烈な感情エネルギーを復元させて、本人に問題行動を起こさせる原因となります。
 その際、追放者の痛みの理由は、その人の顕在意識では理解できないし、その強烈な感情エネルギーは、顕在意識のコントロールでは及びません。その人は、よくわからないままに、強烈な感情や衝動が沸き起こり、何らかの問題行動に走らざるを得なくなってしまうのです。

③追放者の悪影響から全体を守る防衛者というパーツ
 追放者のエネルギーは、残りのパーツにとっての脅威となるので、追放者の悪影響から全体を守るために、残りのパーツは団結して対処する必要が出てきます。そうした追放者から全体を守る役割を担ったパーツを防衛者(protector)と呼んでいます。また、防衛者は、その働きから、2種類に分けることができます。一つは「管理者(manager)」と呼ばれるパーツ、もうひとつは「消防士(firefighter)です。それぞれの特徴と機能を以下解説していきましょう。

⑴管理者(manager)
 管理者は、追放者が目覚め、騒ぎ出さないように戦略的に自分の環境や人生を管理しようとします。主な働きは、消極的なものと積極的なものの2種類あります。
 積極的な管理者は、追放者を抑圧封印できるように、追放者を無視し、関心を他に向けようとする働きをします。
 例えば、「仕事にエネルギーのすべてを注ぎ、経済的な成功を目指す」、「論理性を武器に理路整然と相手を批判し、自分の正しさを主張する」、「何事も完璧を目指し、確実に賞賛を受ける結果を出す」、「戦いに圧勝できる非の打ちどころのない強さを持とうとする」などのふるまい、生き方を促します。
 それが成功する場合は、勝利、安定、成長につながりますが、機能不全になると、ハラスメント、パニック、強迫、攻撃的などの問題につながることもあります。

 もうひとつの消極的な管理者は、追放者を刺激しないように、刺激しそうな事柄や場を避けたり、追放者の信念や感情(ダメ人間、無力、絶望、自罰、恥)に従おうとする働きをします。
 例えば「人と会わない、話さない」、「できるだけ出かけない」、「自分を犠牲にして人の世話を焼く」、「身を低くして葛藤を避ける」、「注目を集めないよう目立たないようにする」、「受け身でしてくれるのを待つ」などのふるまい、生き方を促します。
 それがうまく機能する場合は、危険回避、慎重さにつながりますが、機能不全になると、うつ、無力感、引きこもり等の問題を引き起こす可能性があり、注意が必要です。

⑵消防士(firefighter)
 管理者が追放者を目覚めさせないようなさまざまな活動をしているにもかかわらず、努力が及ばなかった時に登場するのが消防士です。
 消防士は、追放者が目覚め、感情が炎上してしまった緊急時に、その感情の炎を消すためのあらゆる努力を行います。傷つき暴れる感情の炎を消すためには、その感情を麻痺させること、その感情を開放すること等の対処法があります。
 消防士は激情を麻痺させるためにあらゆる方法を模索します。例えば、アルコール、薬物、食べ物、ギャンブル、セックス、ショッピング、などです。それらは、ある程度の気晴らし、楽しみとしてたしなむのでしたら問題は起こりませんが、時に消防士の行動は衝動的で、依存症につながってしまう可能性があるので注意が必要です。

 また、消防士は、追放者の激情を小出しに解放することで消火しようとしますが、その場合は、怒りの表出、自傷行為、他者への暴力など、衝動的な行動につながります。

 いずれにしても、消防士が出動した場合の本人の行動は、衝動的で問題行動につながることが多く、本人も自分のふるまいに戸惑い、困惑、後悔、自責の念を感じることが多いと言えます。
 顕在意識では、原因の根本が自分の傷ついたインナーチャイルド、追放者であることもわからないし、傷の記憶もありません。また、その傷の痛みを避けるための衝動ゆえの行動であることもわからないので、自分でそれが問題であることを知っていながら、それを止めることができない可能性が高く、強い無力感、自分を持て余すような絶望感を感じてしまうことが多いと言えましょう。

④誰もが持っている傷ついたインナーチャイルド
 IFSの言う追放者、自分の中に存在する傷ついた孤独な子供は、何も、病気で苦しむ人たちだけではなく、誰にでも存在するパーツであると考えられています。
 人の人生には、一つや二つの言葉にならない苦悩、人に言えない恥、思い出したくない恐怖や悲しみはあるものです。また、思い出すことができる痛みならまだしも、その記憶すらないトラウマも人には存在すると考えられています。

 心理学で「幼児期健忘」という言葉があります。これは、3歳くらいまでの記憶がない人が多く、幼児期には記憶が残りにくい現象を言います。この幼児期健忘がなぜ起こるのかの原因は、明確にはなっていませんが、有力な説の一つが言語脳の機能説となります。
 人は、幼児期は、まだ言葉を扱うことができません。ですので、左脳がまだ未発達なのです。その時期に自分をコントロールし自分を生きている主体は右脳である可能性が高いと考えられます。右脳は、イメージ記憶をもつ部位であり、幼児期の赤ちゃんは、右脳で周囲の様子、体験をイメージや感情で記憶していると考えられています。しかし、その後発達し自我意識を担うことになる左脳は、幼少期の右脳の記憶は感知しません。普段私たちが私であると感じている統一感は、前章でも述べた通り、左脳の言語機能、インタープリターから出来ていますので、解釈者としての私が感知できない記憶は、私にとっては「存在しない」と感じるのです。
 こうして、右脳ではしっかりと印象記憶が為されているにもかかわらず、左脳でキャッチできないがゆえに記憶がないと感じる「幼児期健忘」という症状が起こるのではないかと考えられているのです。

 幼児期の環境が、愛と思いやりとやさしさに満たされて、幸福に過ごすことができた人は幸運です。幼児期の右脳の記憶には、両親に対する信頼と愛情、周囲に対する信頼と安心感の思い出がたくさん残されており、意識できようができまいが、その人のその後の人生に、基本的安心感、勇気と粘り強さと前向きさ、明るさをもたらし、たくましく生きる生き方を後押ししてくれるからです。
 しかし、幼少期の体験が完璧なものだったという人は、どのくらい存在するのでしょうか?一切の痛みや苦しみ、トラウマ的な体験が無かったと言える人がどの程度存在するのでしょう?
 痛みや恐怖は、両親の養育態度だけからもたらされるものではありません。たとえそれが完璧なものだったとしても、医者に行って身体を拘束されて痛い注射を打たれた時の恐怖、不注意によって転倒し怪我をした痛みとショック、心無い大人から向けられた悪意ある視線、人生には、多くの困難や痛みはつきものです。
 また、両親も完璧な存在ではなく、いつも愛情深く思いやりに富んでいる存在で居続けることはできません。時には、赤ちゃんにとっては、不本意で苦痛、悲しみ、恐怖を感じる対処もあったことでしょう。ですので、幼少期の体験が、人生を豊かにしてくれるようなポジティブなものばかりとは限らないのです。
 「私の子供時代は幸せで何一つ問題なかった」という人は、自分が自分の一部(追放者)に最悪の痛みを押し付けているという可能性を忘れてはいけません。そう考えられるのも、私の中の小さな犠牲者(追放者)のおかげなのかもしれません。

 幼少期のトラウマは、左脳の自己意識では感知できませんが、それは、右脳にしっかりとそのままの形で記憶されており、トラウマがフラッシュバックの苦しみをもたらすように、本人が大人になっても、時と条件が整えば、その記憶はフラッシュバックし、その時に感じた痛み、悲しみ、恐怖と同じ感情が沸き起こってきます。
 大人の私は、沸き起こってくる激情の理由は分かりませんが、その感情や苦しみはリアルであり、理由の分からない理不尽なさまざまな心身トラブル、問題にさいなまれることにつながる可能性があります。人が感じる生きづらさや人と話すときの過度の緊張、さまざまな困難は、そうした幼少期の痛みに由来するのかもしれません。
 幼少期のトラウマに代表されるように、人には多くの気づいていない痛み、苦しみ、トラウマを抱えている可能性があります。
 そう、IFSで言う追放者、傷ついたインナーチャイルドは、特別なことではなく、私たち一人一人の中で、その存在に気づき、関心を持たれ、癒してもらえることをいつまでもいつまでも待っているのかもしれません。

⑤本当の私=Selfによる癒しと統合
 IFSでは、人にはパーツを超えた意識、人の「本来の自己」であり、力強く輝く気高い意識があると考えており、その意識をSelfと呼んでいます。
 Selfは、普段は、パーツの活発な活動の背景に隠れており、容易には知覚できませんが、パーツとの同一化を止めて距離を置き、パーツへの負荷を低下させていくと姿を現してくると考えられています。

 Selfは、思いやりややさしさ、穏やかさや平和、明晰さや創造性、勇気や自尊心などの気高い価値に満ちており、癒しや統合、問題解決の驚くべき力を持っており、一旦Selfが目覚めたならば、多くのパーツが癒され、一致団結して、一つの調和した健康で元気な自分として活躍できるようになると考えられているのです。
 ですので、自分が自分らしく力強く幸せに生きようとこころざした場合には、このSelfを呼び起こし、本当の自分自身であるSelfによるリーダーシップを発揮して生きることが必要なのだと言えましょう。

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⑤広がる私の可能性
 私たちが認識している「私」の感覚は、左脳のインタープリター(解釈者装置)がもたらすものだとすると、私たちが、「私」だと思っていることがらは、必ずしも真実ではなく、大きな間違いや思い込み、勘違い、時にはでっち上げ、捏造が混じっている可能性があります。
 言語中枢のある左脳が認識できる自分は、内面の複数のわたしが本当に体験していることの数十、数百、もしかしたら、数万、数億分の1のサイズでしかありません。ですから、左脳の作り出す私は、リアリティの数億分の1に縮めてしまった大雑把な自分なのかもしれません。
 左脳は自分の内面のたくさんのわたしがもっているすべての可能性や能力を把握していないので、左脳が解釈している自分は、自分の本当の可能性の数十、数百、もしかしたら、数万、数億分の1のサイズに縮めてしまったちっぽけな自分なのかもしれません。
 逆に言えば、思い込みの私ではなく、真実のわたし、ほんとうの私には、思っている以上の複雑さ、魅力、大きな可能性があるのかもしれません。

 解釈者の私が描いている私像が描き切れない私の可能性ってどのようなものなのでしょうか?そもそも、解釈者の私がいなくなったら「私」はどのようになるのでしょうか?この問いに対する素晴らしいヒントになる一人の神経解剖学者の事例をご紹介したいと思います。

 ジル・ボルト・テイラー博士は、アメリカの神経解剖学者です。彼女は、ハーバード大学医学大学院にて脳と神経の研究に携わりマイセル賞を受賞すると同時にNAMI(全米精神疾患同盟)の史上最年少理事になり、順風満帆の大活躍をしていた37歳の時、脳卒中を起こし、左脳に重傷を負ってしまいました。
 発症直後は左脳の多くの認知機能を失い、いわゆる左脳のインタープリター(解釈者装置)が重大な損傷を受けながらも自己意識を保ち、病状が回復する過程で自己意識がどのように変化していったのかを、神経解剖学として脳の機能と関連付けながら観察し、理解を深めるというたぐいまれなる体験をされました。
 その経験は、「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー著 新潮文庫出版 にて報告されています。「奇跡の脳」は人間存在の不思議、可能性を科学の視点から理解することができる素晴らしい名著です。ここでは、「奇跡の脳」より、彼女の左脳を失った体験とそれに伴う自己意識の変化をご紹介しましょう。

 1996年12月10日の朝7時、ジル博士は左目の裏から脳を突き刺すような痛みを感じて目覚めました。それは、冷たいかき氷を食べたときにキーンとくるような鋭い痛みだったそうです。
 最初は、運動で血行を良くすれば治ると思い、舟をこぐ運動ができるフィットネスマシンを試したのですが、一向に頭痛は収まらず、ふらつきながらマシンを降りて浴槽に入り、シャワーを浴びようと蛇口をひねった時に、水音が耳をつんざくような大音量に感じて驚いたそうです。聴覚の異常が脳神経の病気とかかわることを知っていたので、この時に初めて重篤な脳神経の病にかかった可能性があると分かったのです。
 また、事態を把握するために普段はとめどなく流れている自己対話の流れが正常に作動せず、壊れ始めていることに気づきました。頭の中のおしゃべりが壊れ、止まっていくにつれて、奇妙な孤独感を覚えたと同時に、全てがゆっくりモードに変わってきたことを感じていました。
 激しい頭痛の傍らで、左脳の現状を分析し対処しようとする思考おしゃべりが徐々に静かになるにつれて、平和な感覚が広まり、幸福感に満たされてきたと報告されています。何兆ものもの細胞たちが一瞬ごとに輝く働きをして私という生命を維持してくれていることを実感し、謙虚な気持ちになっていったそうです。

 胸を打ち付けるシャワーの感覚ではっと我に返り、うずくような痛みが押し寄せ、自分が容易ならぬ危機にさらされていることを再認識しました。苦心しながら浴槽を出て、8時15分には服を着て勤めに出かける用意を整えたのです。かすかに残っている左脳の意識は、『そう、仕事に行く。しごとをしにいくの。しごとばへのいきかた、おぼえてる?運転できる?』とスケジュールに突然の邪魔が入ったことに苛立ちを覚えながら、事態を楽観視し、日常を続けようとしたのです。しかし、数歩歩こうとしたその瞬間に右腕がマヒしていることに気づき、初めて脳卒中にかかったことを自覚します。
 その後、混乱する思考でありながら、たぐいまれなる集中力を発揮し、努力を繰り返し、職場や主治医に電話をかけて、助けを求めることができました。但し、電話ではまともに話すことができずに、犬の遠吠えのような話し方だったとのこと、たまたま受けてくれた人がジル博士の声だと分かり、対処してくれたとのことです。そのようなプロセスを経て、ジル博士が病院に入院できたのは、10日の昼前でした。

 入院後、彼女は、ジル・ボルト・テイラー博士なる人物は、今朝死んだのだ、と感じたそうです。自分の名前、職業、好き嫌い、感情、判断の傾向、そういった病気前の私を表現した中枢が機能しなくなったので、そのように感じたり考えたりすることができなくなったと報告しています。彼女は、左脳の死、かつて私だったものの死をとても悲しく感じたそうです。
 しかし、もしそうならば、残っている人は誰なのでしょう?左脳の死を悲しんだ人は誰なのでしょうか?彼女は、その続きとして以下のような体験をシェアーしてくれています。

 “「自分であること」は変化しました。周囲と自分を隔てる境界を持つ個体のような存在としては自己を認識できません。ようするに、最も基本的なステップで自分が流体のように感じるのです。
 …わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間の中で振動する原子と分子からできている…。
 つまるところわたしたちの全ては流動する存在なのです。
 …私の右脳は永遠の流れへの結びつきを楽しんでいました。もう孤独ではなく、寂しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海の中で歓喜に心を躍らせていました。
 …神経が傷を負っているのに、忘れ得ぬ平穏の感覚が、わたしという存在の隅々までに浸透しています。そして、静けさを感じました。(「奇跡の脳」より引用)”

 いかがでしょうか、とても美しく神秘的で意義深い体験を報告してくださったジル博士に心から感謝申し上げたいと思います。

 ジル博士の報告から、左脳は、他から分離された個体として自己を認識しますが、その堅苦しい回路から解放されたときに感じる自己は、もっともっと柔軟でみずみずしく、生き生きとしてエネルギッシュで、平和や幸福、生命の喜びを実感できる高い意識であることが分かります。
 たった一つの体験、事例から一般化することは危険ですが、ジル博士の報告から、左脳のインタープリターが作る自分がいなくなったとしても、自分は十分に機能すること、そして、解釈装置の狭い了見から解放されたときには、より魅力的で偉大な自分が浮かび上がってくる可能性が見えてきました。
 そう、「私」は、思っているほどちっぽけで無力な存在ではないのかもしれません。「私」には、狭い了見では把握できない魅力、言葉の力では及ばない神秘、想像をはるかに超えた大きさ、気高さがまどろんでいる可能性があるのです。

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③左脳の作る「私」という物語
 誰もが、「私は私、他の誰でもない」と考えています。私という人格は一つであるという感覚は、当たり前で普通でとてもとても強い感覚です。ですので、「私は一つの人格ではなく、複数の人格の集合体」と言われると、強い抵抗を感じてしまうでしょう。複数の人格の集合体としての自分を実感できないのです。
 では、どうして、私たちは、自分を自分だ、一つの人格で、他にはないと感じるのでしょうか。現実的に複数の人格の複合体として存在しているとしたら、それらを私たちはどうやって統合し、一人のようにふるまっているのでしょう?
 この問いに対するヒントも、分離脳研究の実験が示唆してくれています。

 分離脳患者の左目と右目に同時に異なる2枚の絵を見せます。右目(左脳)には「ニワトリの足」の絵を、左目(右脳)には「雪景色」を見せるのです。続いて、患者に見た絵と関連するものをそれぞれの手で選ぶように指示します。すると、右手(左脳)は「ニワトリ」の絵を選びましたが、左手(右脳)は「ショベル」の絵を選びました。なぜその絵を選んだのかを尋ねたところ、右手(左脳)が選んだニワトリに関しては、「簡単なことですよ。ニワトリの足だからニワトリにしたんです。」と答えました。それでは、左手(右脳)が選んだ「ショベル」に関しては、どう理由を説明したのでしょう?被験者は、こう言ったのです。「ニワトリ小屋の掃除にはショベルを使いますからね」
 質問に答えている自分(言語野のある左脳)は、右脳が見た雪景色が分かりません。だから、右脳がショベルを選んだ正確な理由はわからないのですが、無理やりその理由を作り上げたのです。

 他の実験では、右脳に「歩け」というカードを見せると、被験者は立ち上がり部屋を出ていきました。右脳は指示を受けて直ちに行動を起こしましたが、左脳はそのプロセスが分かりませんので、自分の行動を説明できないはずです。しかし、その後医師が「なぜ部屋を出ていったのですか?」と問うと、「のどが渇いたのでコーラを取りに行ったのです」と答えたのです。

 ここで注目してもらいたいことは、両方の事例ともに「分かりません」とは答えなかったことです。左手がショベルを選んだ理由は左脳はわかりませんし、部屋を出ていった理由は左脳はわかりません。しかし、その理由を問われると、ただちに、つじつまの合いそうな上手な理由を後付け作り上げたのです。
 左脳には、こうした雑多な情報を関連付けて一連の物語として出来事を把握していきたいという強烈な衝動があると考えられています。そして、その働きをするシステムを「左脳のインタープリター(解釈装置)」と呼びました。

 インタープリター機能は、自分の中に起こる情動、感情の後付けの解釈にも発揮されます。ある女性の分離脳患者の左目(右脳)に男性が燃えさかる炎に飲み込まれるビデオの一場面を見せた後で、何が見えたかを聞いたところ「白い閃光が光っただけで、何だったかわかりません」と答えました。さらに気分の変化を聞いたところ「理由はわかりませんが、恐ろしく、落ち着かない気持ちです。この部屋が悪いのか、はたまた、先生のせいなのか…。」彼女は、後にスタッフの一人にこう語ったそうです。「ガザニガ先生のことは好きですけど、いまはなぜだか怖く感じます。」
 この事例からは、右脳の感じる不安や恐怖感を、左脳は、自分が知っている事実(怖い気持ちがある、ここにはザガニガ先生しかいない)を組み合わせて自分が納得しやすい形で理由付けし、心の安定を保とうとしている様子がうかがえます。
 つまり、人は、自分の内面で起こっているさまざまな反応、自分の中の小さな自分の表現、たくさんの声や要望を、左脳のインタープリター(解釈装置)の機能によって後付けで一連のつじつまの合う物語として統合させて、他者に対して自分の物語として表現していると考えられています。「私」という統一感や感覚は、この左脳のインタープリターによって支えられ、作られているのではないかと考えられているのです。

④左脳の私は本当の私ではなく、私のスポークスマン
 前述の通り、分離脳研究の成果として、他者に向き合うときに浮かび上がってくる私という意識は、左脳のインタープリターによって作り上げられていることが分かってきました。
 ただ、左脳が織りなす私の物語は、左脳以外の私の多くの部分が体験している真実でもなければ、起こっている事実と必ずしも一致しているわけではありません。左脳は、“私”として生き残るため、対外的な“私”の体面を保つためであるならば、思い込みや勘違いを気にしませんし、時には捏造やでっち上げですら厭わないのです。
 なぜならば、左脳のキャッチできる情報は、右脳などの他の部位が起こした反応の結果であり、そこが見たもの、感じたこと、気持ち等の真相、真実は分かりません。ですので、左脳は、ありのままを知ってそれを整理しているのではなく、理由はわからないけれども自分が起こしてしまった出来事を、つじつまが合うように後付けで解釈しているだけだからです。左脳には、そうした自分を保つため、自分を守るため、問われたら説明できるようにするための仮説化や合理化の強烈な衝動があるのです。

 ここで一つ確実なことは、左脳の解釈している私は、言葉の鎧をまとうための私であって、決して真実の私ではないということです。左脳の解釈する私は、「今ここのありのままの私」ではありえません。なぜならば、いつも後付けだからです。
 起こったことを言語化すること自体が今ここのリアリティと同時ではなく、必ずリアリティの後のプロセスとなる上に、言語化された断片的な情報をもとにつじつまを合わせるべく物語化するので、時間的にも空間的にも作られた物語はありのままの現実ではありえないのです。

 また、私には、多様な側面があります。左脳と右脳、身体と感情と思考、さまざまな側面が織りなす私という場、まるで私という場は、たくさんの人たちが働く会社のようです。
 もし私という存在を会社に例えるとしたら、左脳の私は、決して社長ではありません。なぜならば、社員のことをよくわかっていないからです。社員がほんとうに見たこと感じたこと気づいたことを感知せずに、見たいものだけを見て独りよがりで解釈してしまう人は、社長とは言えませんよね。

 左脳のインタープリターは、脳梁が切断された後で、右脳と離れたことを寂しがったり懐かしがったりすることはありません。右脳からの膨大な情報が遮断されたのでそれに気づいてもよさそうなものですが、何も問題を感じないし、逆に好調であると主張します。ですので、脳梁の切断以前から右脳の存在を感知していなかったと考えられます。
 右脳からの情報は、問題が起こっている時だけ関心を向けるだけで、普段はいてもいなくても知ったことではない、感知しないのです。どうやら左脳の関心は、私の内面で何が起こっているかを理解することではなく、対外的な脅威からわたしを守り、わたしを維持し、表現することのようです。
 業績や人からどう見られるのかの外見ばかりに気を取られて、社員に興味や関心がなく、いなくなっても何とも思わない、そもそもそこにいることすら分からないほど社員に関心がない人は、社長とは言えませんよね。

 左脳の私は、言葉を通して他者とコミュニケーションをとることができるので、自分そのもののように感じますが、決して本当の私ではありません。なぜならば、本当の私が見て聞いて感じたことは、左脳の私が言っていることと一致していないからです。それは、あくまでも、対外的に自分というあり方を守り、表現するための言葉の鎧であって、自分そのものではありません。それはあたかも、会社のスポークスマン、広報部長のような存在なのかもしれません。

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