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自分の中の瞑想者を育む ③自我と内なる瞑想者の違い

自我と瞑想者の違いをまとめると、以下の通りとなります。

自我 内なる瞑想者
考える 感じる
レッテルを張って言葉や概念で素早く認識する 判断を保留し、より深く理解しようとする
対象として距離を置く 一緒にいる、共にいるようにする
比較し評価する 共感し味わう
変えようとする そのままにしておく
コントロールする 見守る、体験する
欠点を罰する ありのままを許す
自分を良く見せようとする 背伸びしない。欠点を含む全体としての自分、ありのままを愛する
他者の攻撃から自分を守り、自己の存続と勝利を目指す 他者や環境に対しても、自分にするのと同様にありのままに共感し、愛する
分離と戦い、試練の生き方 調和と愛に基づく自分らしく健康で幸せな生き方

 自我の働きは、基本的には対人関係や社会の中で育まれる自分の立場を守り、強化しようとすることであり、自分の外面が他者にどう映るのかを気にするのであって、自分の内面は、問題が起こらない限り関心ありません。自分の内面は、人間関係や社会的な関係の中で差しさわりが無いように、または、より都合が良いように矯正する対象となります。

 それに対して、内なる瞑想者は、自分の内面に集中します。内面で体験している身体感覚や感情、思考の動きをありのままに観察し、一切の操作やコントロールを排除して、それらと共に在り、温かく見守るのです。

  自我は、自分の内面に問題があることによって人間関係や社会的立場への悪影響が出た時には、まずは、その問題の根源を特定し、言葉で名付けて距離を置き、罰したりほめたり、排除しようとしたり、努力して力をつけたり、などの操作をすることによってコントロールしようとします。それは、社会的人間としての成長につながるものであり、決して悪いことではありませんが、内面を外面のための道具としてみなし、尊重することを忘れ、ないがしろにしてしまうと、自分の体や心に対する無理解や無関心、無理難題を強いることによるストレスの蓄積など、トラブルの元となる危険性があります。

 内なる瞑想者は、そうした副人格としての自我との同一化にくさびを打ち込み、静かで精妙なスペースをつくります。エゴのもたらすリスクを低減させて、自分の心身を癒し、健康と元気の回復をもたらします。

 瞑想者は、自分の内面で起こるあらゆることを問題とは思いません。それは、自然に起こる生き生きとした多様な生命のみずみずしい現象であって、汲みつくせない力と魅力と奇跡に満ち溢れた謎、ミステリーだと認識するのです。ですから、自分の内面は、対外面の都合によってちっぽけなエゴが操作コントロールできるようなものではなく、とてつもなく大きく深い自然と言う存在の一部であり、未だに分からない謎の多い、だからこそ謙虚に耳を傾けるべき、教えを乞うべき尊い存在だと考えているのです。

 瞑想者は、今ここで起こっている自分の内面のすべてに抵抗せずにそのままで許し、受け入れ、ひたすら観察し、より深く理解しようと試みます。レッテルを張って距離を置いて対象をコントロールしようとするエゴの衝動を保留し、感覚と共に在り、共感しとともに痛みや悲しみ、時に喜びなどの多様な体験をありのままにに味わい、逃げずに丁寧に変えようとせずに見つめていきます。

 瞑想者の視点は、自分の内面に対する無条件の愛の視点であり、最初は小さく弱い拠点であっても、騒がしい内面の不安と警戒の嵐に埋没することなく、粘り強く長期にわたって瞑想者の視点を確保することによって、その力はどんどん強くなっていきます。

 自分の中で常に流れている不平不満、不機嫌のノイズを鎮め、痛みを癒し、自己嫌悪や自己否定の頑固で暗い視点にやさしく光を当てて温め、自然に凍り付いた心を解かすと同時に、自分の内面の生き生きとした自然、神秘に対する畏怖と尊敬、感謝と愛を育んでいくことになります。

 まさに、自尊心の回復のプロセスであり、内なる瞑想者は、副人格に過ぎないエゴによる自己支配の次元から真の自己であるSelfによるセルフリーダーシップの次元へと変容を促していきます。

 エゴによる分離と戦いと試練の生き方から、Selfによる真の自分らしさの回復、愛と勇気と信頼の回復、健康で幸せな生き方へのシフトを促すことができるのです。

<「内なる瞑想者を育む」シリーズ関連>

①自分らしく健康で幸せな生き方とは

②内なる瞑想者

③自我と瞑想者の違い

④内なる瞑想者の役割

⑤内なる瞑想者の育み方

自分の中の瞑想者を育む ②内なる瞑想者

 では、本来の自分であるSelfに戻るために、自分の中の過剰な副人格の興奮を鎮め、Selfを中心とした内なる調和をもたらすためには、どのようなことが必要なのでしょうか。

 きっと、優れた方法は、たくさんあるのでしょうが、私は、その中の一つとして、「内なる瞑想者を育む」ということに挑戦しています。おかげさまで、その努力によって、生きづらさがやわらぎ、リラックスと集中が進み、より自分らしく楽しく生きられるようになってきたように感じております。

 本シリーズでは、この「内なる瞑想者」とはどのような存在であり、どのようにすれば育むことができるのかについて、私の体験も含めてお話ししたいと思っております。あくまでも私的な体験であり、考えであって、決して一般的な理論ではありませんが、何かの参考にしていただければ幸いです。

 さて、ここでの「内なる瞑想者」とは、Selfにつながるための副人格であり、Selfを意識的に自覚しようとするための私の中の新たな視点を意味します。

 内なる瞑想者の視点は、普段自分が自分だと思っている管理者としての副人格(自我)とは違っています。

 自我は、他者とのかかわりや社会生活の中で自分を守り、表現していこうとする視点、より自分の立場を強くよくするために自他をコントローしようとする視点ですが、瞑想者は、一切の操作やコントロールを放棄して、ただひたすらに観察し、受け止める視点です。

 その違いを詳しく探求すると、以下の事柄が言えると思います。

<「内なる瞑想者を育む」シリーズ関連>

①自分らしく健康で幸せな生き方とは

②内なる瞑想者

③自我と瞑想者の違い

④内なる瞑想者の役割

⑤内なる瞑想者の育み方

自分の中の瞑想者を育む ①自分らしく健康で幸せな生き方とは

 「ひとの人格は一つではない」

 こういわれると、どうお感じになりますか?そんなことはない、私は私だよ、なんと奇妙なことを言い出すのだろうかと思われるかもしれませんが、実はこの見識は、現代心理学の共通認識、一般的な知見となっています。

 現代心理学では、大脳生理学の発達にともなって、人は、実はたくさんの副人格ともいえる、独立、または半独立の反応の主体が存在していることが分かっており、私とは、一つの人格によって成り立っているのではなく、たくさんの副人格が寄り集まった総体であると考えられているのです。

 現代心理学を代表する理論の一つである内的家族システム(リチャード・C・シュワルツ)の考え方によると、普段私が私だと認識している私は、実は、私にとっての管理者、他者に対するスポークスマン的な働きを持った“私を代表する副人格であり、実は、私そのものではないと考えられています。

 内的家族システムの考え方によると、わたしそのものはSelfと呼ばれる主体であり、私の中心的存在で、副人格の癒やし手であり導き手であると考えられています。

 心身ともに健康でありSelfが本領を発揮できている場合は、本来の自分らしい生き方、あり方ができるわけですが、ストレス下にある場合は、Selfが、騒がしい副人格の働きの背後に隠れてしまい、本来の自分らしさ、能力や魅力が隠れてしまいます。ですから、本来の自分の生き生きとした健康な生き方をするためには、Selfと副人格の関係性を整え、内なる調和をもたらす必要があると考えられているのです。

<「内なる瞑想者を育む」シリーズ関連>

①自分らしく健康で幸せな生き方とは

②内なる瞑想者

③自我と瞑想者の違い

④内なる瞑想者の役割

⑤内なる瞑想者の育み方

チームビルディング ③開示ステップを乗り越えるために

開示ステップを乗り越えるためのポイント

①階層をフラットに、権威権力は極力抑えめに
 風通しの良い風土は、平等で対等な人間関係から生まれます。ですので、オープンな風土を目指すのであれば、階層をフラットにすることが大切です。

 組織として、仕事を進めていく上では、どうしても指示命令系統の権威が必要であり、また、報酬や昇進の能力評価システムなどの権力が必要となりますが、そうした権威や権力も、指示命令の情報を可能な限り開示したり、評価プロセスをオープンにしたり、評価プロセス以外の要素が入り込まないようにフェアーにするなどして、必要以上の力を集めないようにさせることが大切です。

②情報の質と量は、リーダーと末端が同じとなるよう公開する
 情報の質と量は、権威の裏付けとなる要素の一つとなるので、より大きな権威を欲しがる管理者は、時に公開せずに、自分の都合の良い時と内容で開示していくことがありますが、それは決してオープンな風土を作る上では効果的ではありません。

 そもそも、「何か良いアイデアを出してくれ」とチームメンバーにお願いしたとしても、情報の質と量が立場によって違っていたら、フェアーな話し合いはできません。より創造的で高い問題解決力のあるチームにするためには、より的を得たパワフルなアイデアをたくさん出すためにも、情報公開が必要となります。

③正直さ、オープンさには勇気が必要、一歩踏み出す勇気こそがリーダーの役割
 正直であることには勇気が必要です。特に、自分の弱み、失敗、欠点をオープンにしていくことは、相手に見下され嘲笑されるリスクを伴うので、大きな勇気が必要です。しかし、そうした勇気をメンバーに期待するべきではありません。リーダーにとって必要な美徳は、頭の良さでも技巧でもなく、勇気です。勇気こそが、新しい境地を開くカギとなり、それを担うものは、まさにリーダーなのではないでしょうか。

 リーダーの勇気ある一歩、自分の弱みを正直に語るというシンプルですが難しいことが、チームのぎくしゃくした関係性を振り払い、良き協力関係を引き出すきっかけになった事例には、枚挙に暇がありません。

 見下されたくない、嘲笑されたくないという思いは、メンバーの誰しもが持っている恐れです。その恐れが払しょくされない限り、ぎこちなさや堅苦しさ、うそやごまかしが消えることはありません。しかし、一旦、リーダーの自己開示、特に自分の弱さや欠点についての開示がなされると、そうした懸念は払しょくされて、メンバーの発言の自由度は、より大きくなるります。

 リーダーの欠点を非難しない姿勢、弱点を含んだありのままの人間性を尊重する姿勢が明確になることは、メンバーに大きな勇気を与えます。メンバーは、過度に緊張することなく、ようやく本来の自分らしい力を発揮できるようになるのです。

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チームビルディング ①チームビルディングのステップ
チームビルディング ②受容ステップを乗り越えるために
チームビルディング  ③開示ステップを乗り越えるために

チームビルディング ②受容ステップを乗り越えるために

受容ステップを乗り越えるためのポイント
①まずは自尊心を持つ
 自尊心は、人間関係に良くも悪くも強烈な影響を与えます。自尊心とは、傲慢さや自惚れを言うのではなく、ありのままの自分を尊重し愛する心情を言います。ありのままですから、優れた自分もそうでない自分も、そのすべてをありのままに許し、受け入れる必要があります。自分には、欠点があることを受け入れ、それを正面から言い訳せずに受け止め、よりよく成長していくことができる能力を自尊心というのです。

 逆に傲慢さは、自分の中の愚かさ、弱さ、醜さを許すことができません。そのようなものは私にはないと主張し、悪いの他人だと転嫁します。それは、自信に由来する言動ではなく、むしろ、劣等感や恐れに由来するものであり、決して自尊心とは言えないものなのです。

 リーダーの自尊心の在り方は、チームメンバーに強烈に影響を与えます。自尊心の低いリーダーは、自分の欠点や弱さを嫌い、攻撃し、無きものにしようとするように、他人の欠点や弱さも嫌い、攻撃し、無きものにしようとします。

 常に強い不安があり、保守的でリスクのあるチャレンジを好まず、部下にも逸脱や冒険には厳しい態度を取ります。時に、やたらに挑戦や変化を求める場合もありますが、自分の気の弱さ、臆病さにあがらいたいがための反動であり、喜びや愛に基づくものではなく恐怖や不安に基づくものなので、時に無謀だったり、的外れで独りよがりだったり、時にメンバーに限度を超えた重い負担を強いるものだったりします。

 また、チャレンジによって失敗したらそれを成功へのステップとは見ずに、落胆し、嘆き、責任追及をしがちです。

 逆に、自尊心の高いリーダーは、基本的に前向きであり、明るく健康的で楽しい雰囲気をもたらします。ありのままの自分を愛せるように他者の弱さにもおおらかで、多様性を尊重すると同時に、リスクのあるチャレンジも奨励し、たとえ失敗しても、成功へのステップを一歩進めることが出来た側面を尊重し、その勇気をたたえます。

 どちらのリーダーが良いチームを作れるのかは、自明のことでしょう。そもそも、自分を大切にできない人は、他人を大切にはできません。自分を愛せない人は、他人を本当の意味で愛することはできません。そもそも、自分すら信用できない人が、どうやってよくわからない他人を信じることができるのでしょうか。

 リーダーとしてチームを導いていくために必要なことは、頭の良さでもテクニックでも超能力でもありません。それは、シンプルに自分に対する愛、他者に対する愛なのだと思います。逆に愛が無ければ、どんなに小細工で取り繕っても真のリーダーにはなりえません。良きリーダーを志すならば、まずは、自尊心を持つこと。自虐で自分を非難攻撃するのではなく、傲慢さで自分の弱さから逃げるのではなく、勇気をもって自分を受け入れること、腹を決めて自分を愛し大切にすることが大切なのだと言えましょう。

②メンバーへの批判心を静め、親しい仲間と思ってみる
 人は、相手の良いところを見出し愛することもできますが、相手の欠点を見つけて非難することもできます。しかし、普段自分の心の中で、無意識的に相手にしていることは、意外なことに後者の非難することではないでしょうか。

 私たちは、基本的に人間関係の中で警戒モードが発動しており、他人の美徳や善性を見るというよりは、相手と距離を置き、相手の弱さや欠点に目が向きがちとなります。それは、自己防衛のために必要なステップでもあり、決して非難すべき態度ではないのですが、チームビルディングの良きリーダーを志そうとしたときには、そのような無意識的に現れる態度は、注意しなければなりません。防衛力や免疫力は必要ですが、だからと言って、相手の良さを全く見れないほどの過剰な警戒は慎まなければなりません。無意識的に起こりがちな相手への批判心を静め、まずは自分から相手を仲間として迎え入れる度量が必要です。

 距離感を縮め、親しみを増そうとする努力を、メンバーに依存するべきではありません。そうした努力には勇気が必要であり、リーダーこそがそうした勇気を担うべきなのだと言えましょう。

③メンバーに関心を持ち、理解を深める努力をする
 人は、実は、自分のことで精一杯で、他人のことに関心を持つことは意外にできていません。時に、警戒心から他者を観察することはありますが、それは、相手の悪意を探っているのであって、相手のすばらしさや可能性に興味を持とうとする関心とは違います。ですから、他人に関心を持つためには、意識的な努力が必要なのです。

 優れたリーダーには、他者に対して意識的に積極的に関心を持つように心がける人がとても多く存在します。彼ら彼女らの手帳には、出会った人の仕事上の記録はもちろん、仕事とは関係のない出身や生年月日、家族、家族の誕生日、趣味、食べ物の好みなど、驚くほど多くの事柄について書かれているものです。そのような情報をもとにクオリティの高いアドバイスや関係性を持つことができるのです。

 チームビルディングのリーダーをこころざすならば、メンバーに積極的に意識的に関心を持つ努力をすること、メンバーノートを作成して、メンバーに関して知りえた情報をしっかりとメモをしておくことをお勧めします。

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チームビルディング ①チームビルディングのステップ
チームビルディング ②受容ステップを乗り越えるために
チームビルディング  ③開示ステップを乗り越えるために

チームビルディング ①チームビルディングのステップ

 チームやチームビルディングは、最近の経営学のとても大きなテーマの一つとなっています。その在り方によって業績へのインパクトが良くも悪くもとても大きいからです。

 チームには、不思議な力がありますよね。1+1=2とは限らない、時にはそれ以上の力が発揮されて驚くような結果につながるという魔法の力、奇跡の力ともいえるものがあると思います。

 そもそも、チームの力がチームメンバーの力の総和だとしたら、なでしこジャパンが世界一になれるわけがありません。そこには、チーム力という不思議な力が働いていたからこそ起こった奇跡なのではないでしょうか。

 このシリーズでは、この奇跡の力をどう引き出すかについて、私どもの考え方をご紹介したいと思います。

チームビルディングのステップ

 ばらばらの個人の集まりに過ぎないチームを、目的に向けて協力し合い、潜在化していた大きな力を引き出して最善の結果に導いていく一連のプロセスをチームビルディングと言います。心理的安全性に基づく良いチームを作るためには、以下の4つのステップが必要です。

第1ステップ 受容  

 メンバー同士が、お互いを仲間として受け入れるプロセスです。このプロセスが成功すると、メンバーのチームへの参加度合い(コミットメント)を高めると同時にメンバ同士がお互いに深く関心を持ち、相互理解を深めオープンマインドとなり、ハイパフォーマンスの原点となる信頼関係につなげていくことができます。

 逆に、本プロセスがないがしろにされたり未解決である場合には、メンバー間の緊張と懸念、不信感が強まり、メンバー同士を仲間というよりは警戒すべき他人、または敵と認識し、今後のあらゆる工程で防衛的、警戒的な態度を引き起こし、さらに深刻かつ感情的で容赦のない葛藤を生み出す可能性があります。

第2ステップ 開示

 メンバー個人に内在しているデータや情報、感情や考えを表出し、聴きあうことによって、情報とエネルギーがチーム内で交流しあうステップです。

 情報や感情が個々人の中に潜在化しているときには何も変化が起こりませんが、一旦交流が始まると、チームの潜在能力と可能性が顕在化し、さまざまな創造性や問題解決に向けての効果的なプロセスが動き始めることになります。

 逆に、このステップが未解決の場合には、メンバーの見せかけだけのふるまい、慎重で自己防衛的な態度、巧妙なサボタージュ、お役所体質などと言った問題を引き起こす可能性があります。

第3ステップ 目標設定

 協力し合う目的、理想とするビジョン、達成したい目標を明確にするステップです。このステップを通して、個々人のチームに参加する動機が表明され、単にチームのタスク目標だけではなく、実現したい価値や理念、理想やポリシーも含めたチームのビジョンとして統合されていくことになります。

 目標設定が成功した場合は、チームメンバーのモチベーションが高まり、主体的かつ積極的なチーム活動への参画を促し、結果的に高いチーム成果を引き出すことになります。

 逆に、未解消の場合は、相互不信を招き、相互に距離を置き無関心を装うか、分離感を強めると同時に競争心が強まり、不要な葛藤を生み出す可能性が出てきます。

第4ステップ 組織化

 お互いの個性、能力、可能性についての相互理解が深まり、特徴に応じて役割分担がなされると同時に、仕事の進め方や問題解決の方法が有機的に統合され、ブラッシュアップされていくステップです。

 このステップの課題を乗り越えると、リーダーシップ機能は特定のリーダーのみに依存するというよりは、個性に応じて分かち担われるようになります。メンバー間の信頼関係や絆は強まり、お互いに頼もしい仲間と感じる相互依存の関係性へとチームは成長を遂げていきます。本音ベースの質の高いコミュニケーションが実現しており、問題解決に至るひらめきやアイデアの質も高まり、結果的にチームの力は形成初期とは比較にならないほど強くなります。

 逆に、このステップが未解消の場合は、強い依存心や主体性、責任感のなさを引き起こすか、反対に強い権力志向や権力闘争を巻き起こす可能性があります。

 

チームビルディングのポイント ~受容と開示の重要性~

 チームを作る際に、私たちは、いきなり「目標設定と役割分担」を設定しがちですが、前提となる「受容、開示」のステップがクリアーされていない限りは、目標や計画がどのように洗練されたものであっても機能しません。

 チームが目標に向けて一丸となって協力体制をとるためには、「受容、開示」のステップが不可欠なのです。

 ちなみに受容と開示のステップは、容易ではありません。受容と開示ができない背景には、懸念(不安や恐怖、誤解)がありますが、懸念は、持ってしかるべきものであり、そう簡単に解除することはできません。私たちは天使に囲まれて生きているわけではありませんので、攻撃を受けたり傷つけられたりするリスクがあります。ですので、身を守る防衛力を持つ必要があります。また逆に、不用意に相手を傷つけたり相手に不快にさせないような注意深さも必要なのです。懸念は、そうした防衛力や注意深さの源泉ともなるので、決して不必要なものではありません。

 ただ、リスクがあるからと言って固く身を守り心を閉じてしまうのは決して良策とは言えません、可能であれば心を開いて豊かな関係性を育んでいきたいという願いはだれしもが持っていると思います。

 私たちは、自己防衛と自己開示と言う全くベクトルの異なる矛盾した力を同時に使いながら人間関係を育まなければなりません。だからこそ、人間関係は難しいのだと思います。ただし、不可能ではありません。人には高い次元で両方の力を統合することができる能力があります。

 不安や恐怖は、必要ですが、決してそれに支配されてはいけません。それらは乗り越えるものであり、踏み台にして成長していくためのステップなのです。

 自己防衛と自己開示を高い次元で統合した状態こそが、心理的安全性と呼ばれる状態なのだと思います。そして、心理的安全性が確保されることによって、チームの偉大なる可能性を引き出すための準備が整い、本来の力を発揮することができるようになるのです。

 古来、有能なリーダーは、この受容と開示のステップ、つまり懸念(恐怖や不安、誤解)を解消するステップを意識するとせざるとに関わらず、上手に対処し、十分にクリアーすることによって強力なチームを作ってきました。優れたチームを作るためには、受容と開示のステップ、すなわち人間関係に必ず存在している恐怖や不安を意識的に乗り越えていく必要があります。

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チームビルディング ①チームビルディングのステップ
チームビルディング ②受容ステップを乗り越えるために
チームビルディング  ③開示ステップを乗り越えるために

ポリヴェーガル理論⑥「自分らしさを取り戻すために」

人が人として輝いて生きることが出来る状態は、ポリヴェーガル理論的に言うと、腹側迷走神経系が主導している社会交流モードであると言えます。

しかし、社会交流モードに、意図的になることはできないとされています。

ポージェス博士によると、危機対応によって人は、社会交流モードから闘争・逃走モードやシャットダウンモードに変化するとされています。

この防衛反応を起こす際の評価は、思考や意思ではなくニューロセプションと呼ばれる反射反応的な防衛機構が判断していると考えられています。

特に、トラウマと呼ばれる心理的外傷に関わる反応は、トラウマを体験した時とは全く関係のない時と場所であったとしても、その体験に似たあらゆる要因(匂い、風景、色、感覚、などなど)がきっかけとなり、トラウマの記憶をフラッシュバックさせて苦痛を再体験せざるを得なくなるのです。トラウマは既に過ぎ去ったことなのですが、その人の中では、まだその呪いは息づいており、何度も何度も色あせることなく繰り返し苦悩を体験することになってしまうのです。

そして、フラッシュバックは、人の意志や考え方では止めることはできずに、危機対応モードに自分自身が乗っ取られてしまいます。

人が意図も希望もしない反応を避けることも止めることもできずに、自分らしさからかけ離れた手負いの獣的、爬虫類的、魚類的あり方にハイジャックされ、コントロールされてしまう…。何とも厄介で過酷な試練ではないでしょうか。

では、どうすればこうした意のままにならない反応を食い止め、コントロールを取り戻すことが出来るのでしょうか?

ポージェス博士は、まずはこうした反応を嫌い、呪うのではなく、古代から伝わってきたサバイバルの叡智の結晶から生まれた事であり、誇りに思うべきだと仰っています。そうした反応に抵抗し、やっつけ、矯正しようとするのではなく、まずは受け入れるべきだと私は解釈しています。

また、ポリヴェーガル理論やトラウマ心理学の流れの中で、とても優れた素晴らしい方法が、どんどん編み出されています。

ヨガ、ニューロフィードバック、ソマティックエクスペリエンス(身体に働きかける療法)のさまざまな方法、マッサージ、内的家族システム療法、スキーマ療法など様々なカウンセリング技法、マインドフルネス、アート、ダンス、音楽セラピー、鍼灸鍼療法、経絡ツボ療法、EMDR(眼球運動による脱感作と再処理療法)、などなど。

どの方法も素晴らしい方法であり、大きな可能性があると言えます。

ただ、どれも絶対の完璧なものではなく、発展途上であると同時に、相性もあると思います。興味のある方法をご自身の目と感覚で探求していけば、きっとより良いご縁が出来てくるのだろうと思います。

私も、さまざまな本を読み、お勧めのエクササイズを実践してみて、少しずつ学ばせていただいております。中には、ずいぶん入れ込んで探求を進めたものもあります。どれも今の私にとっては、貴重な学びです。

あくまでも参考としてですが、今の私にとって、大変役に立ってくれている瞑想と言う方法をここではご紹介したいと思います。瞑想は、古来から伝えられてきた方法であり、とてつもない高さ、深さ、広さがあると思っています。

よく瞑想は、潜水に例えられることがあります。潜れる深さの範囲内でしか世界を認識することが出来ない。深く潜る力があればあるほど、見える世界が広がり、気づきが深く大きくなっていく。そして、気づきの深さには際限がないのです。だから、瞑想のスキルも、想像を絶するような高い境地があるのだろうとも思っております。

私の場合は、水辺でぴちゃぴちゃと遊んでいる程度だろうと感じておりますが、そのようなレベルであっても、私にはずいぶん役に立っております。今でも毎日欠かさず行っている日課の一つです。

以下、一番基礎的で安全な方法をご紹介します。参考にしていただければ幸いです。

以下、「To be a Hero ~自分を生きる勇者となる~」より抜粋

<エクササイズ 「受け入れる瞑想」>
 瞑想は、古来から伝わる自己探求の方法です。瞑想は、心の中のノイズを静め、過去や未来に向かってしまう心の焦点を今ここに戻し、今ここの自分自身を探求する方法です。今ここの自分自身には、通常の自分の顕在意識では認識できない繊細さ、精妙さ、大きなエネルギー、偉大なる可能性がまどろんでいると考えられています。瞑想は、そうした今ここの本来の自分とアクセスし、自分らしく輝いて生きていく生き方を後押ししてくれます。
 なお、今ここの本来の自分とアクセスするためには、瞑想の立場では、決して特殊なことは必要ないと考えています。本来の自分は、作ったりどこかに探しに行くものではなく、今ここにいつでも存在していると考えています。それにアクセスできないのは、普段私が私だと思い込んでいる私の一部の活発な活動が障がいとなっているためであって、雑音を静め、思い込みを緩めていけば、自然に見えてくると考えています。太陽が存在していないわけではないのです。あまりに厚い雲で光がさえぎられているので、太陽の存在を感じ取れないのです。ですので、太陽を見たければ、雲を払うことが大切なのであって、太陽を作ろうとしたり、太陽を探そうと努力することは的外れなのだと言えます。
 瞑想は、素晴らしい自分を作ろうとしたり探し求めたりはしません。ただひたすら雲を払う、私の中の適応や生き残りのための騒がしい活発な活動を静め、自分に対する固定観念を解きほぐしていく作業を進めていきます。劇的な変化というよりはゆっくりと一歩ずつ進めていく方法ですので、時間はかかりますが、確実に成長につながる方法と言えましょう。
 私は、10年以上にわたって毎日コツコツと瞑想を続けています。別に実績を自慢している訳ではありませんが、日々の瞑想を通して、ずいぶん生きやすさ、元気を頂いている実感があります。信頼できる方法でかつ効果を期待できる方法だと思っており、本書でもご紹介したいと思っています。
 私が瞑想を気に入っている理由は3つあります。

①何にも依存しない…瞑想は一人でできますので、お金も、物も、人間関係も必要ありません。もし、自分らしく輝いて生きるために、何か自分以外のもの、例えばお金や貴金属、愛する人や本、などが必要であった場合は、輝いて生きるためにはそれらに依存しなければなりません。他の何かに依存する生き方は、自分自身を信じて自分自身によって立つ自分らしい生き方とは言えませんよね。その意味で、瞑想は、特別な場所や物、お金や宝石など、他の何物も必要としません。身
一つで手軽に実践できる方法です。

②安全でジェントル…瞑想は、基本的には、ただ座ってじっとしている方法ですので、泣いたり、叫んだり、気を失ったり(寝てしまうことはありますが…)、などの浸食的、激情的な現象が起こることはありません。一切の暴力が排除されているシンプルな方法ですので、安全で穏やかで静かな方法です。また、長時間しなければならないなどの約束や縛りもありませんので、自分の気の向くまま、無理なくできる方法でもあります。だからこそ、長く続けることができるのだと思います。

③ちょっとずつ確実に効果が現われる…瞑想は、たとえ短時間であっても、実践を続ければ続けるほど効果が出てきます。ただ、悟りを開くとか超能力が身につくとかそうした劇的な効果は期待しない方がよいと思います。私が感じている効果は、日常のささやかなことです。一切やる気が出なかったけど掃除をする気になってやってみた、いつも不機嫌だったけど最近はよく笑うようになった、素直に人の話が聞けた、普段は感じない花の香りを感じて花がきれいに見えた、文句ばっかりだったけどありがたみを感じた、肩のコリが和らいで少し楽になった、姿勢がよくなった、少しやさしくなった、瞑想していること自体が楽しくなった、気づいたら風邪をひかなくなっていた、人と話すことが苦でなくなってきた、などなど、瞑想は、今までの生き方の延長上ではない、ほんとうにささやかではあるけれども思いもよらない変化が、ちょっとずつ確実に起こってくるように実感しています。私にとっては、こうした思いもよらない小さな変化こそがちょっとした奇跡であり、大切な大切な気づき、人としての成長につながっていくのだろうと思っています。自己探求には近道や王道はありません。逆に簡単にできる近道を唄う方法には、必ずどこかに落とし穴があるように思います。瞑想は、その意味で、地味ではありますが、楽しみながらコツコツと長く続
けてできる方法であり、ゆっくりと確実に効果が出てくる努力を裏切らない方法です。

 以上の理由で、私は、瞑想を気に入っており、実践しております。百ある方法の一つであり、最善最強の方法というわけではないのですが、参考にしていただけると感じておりますので、本書でも、瞑想の方法をさまざまな節でご紹介していきたいと思います。ここでは、瞑想の中でも最も基本的で大切な「受け入れる瞑想」をご紹介します。以下のステップを参考にして、自分自身を探求していきましょう。

1.姿勢を正す
 椅子などに腰掛け、ヘソを前に突き出し、あごを引いて姿勢を正します。手は、もっとも置きやすい形(伏せるなど)で置きやすい場所(腿の上など)に自然に置きます。

2.重力を受け入れる
 受け入れる第一ステップとして、まずは、重力を受け入れていきます。重力は普段は意識しませんが、とてもパワフルであり、確実に私たちに働きかけてくれています。その存在のおかげで地球での生活が確保できるのですから。その重力を丁寧に感じて身をゆだねていきます。
 まずは、左腕から左手のひら、左指にかけて重みを感じてみます。重みを感じることが少しでもできたならば、左手を重力に委ね、力を抜きます。ホッと力を抜くときに、左手の血流を感じ、温かさ、ジーンとする感覚を感じることがあるかもしれません。もし感じることができたら、その感覚を大切にしてください。
 以降、右手→左足→右足→頭→首→胸→おなか→腰と重力スキャン、脱力を進めていきます。その際、力を抜くからと言って、姿勢を崩さないようにしてください。しっかりと姿勢を保つだけの力だけは確保しておきます。
 重力を受け入れ、身体の温かさ、ジーンとする心地よい感覚に身を包まれながら、地球のやさしく安定した力強い重力という力で生かされていることに思いをはせ、感謝します。

3.環境を受け入れる
 受け入れる第二ステップとして、今ここで置かれている環境を受け入れていきます。今いる場所がどこであれ、静かなところであれ騒がしいところであれ、その場所への文句や不満(あれば)を静め、緊張を解き、今ここの環境を「それでよし」とひとまず受け入れてみます。存在する地面、家、人、家具、空気を、今ここで感じている温度、におい、音を、「起こるべくして起こっている、何一つ過不足はない」という心境で受け入れ、抵抗や緊張を緩めていきます。
 逆にそれらの存在があるからこそ今ここで瞑想できることに意識をはせてみます。実際に、床があるから座っていられます。その床は私が作ったものではなく誰かの努力で作られたものです。
 実際に空気があるから呼吸ができます。その空気は自分 が作ったものではなく他の存在によってもたらされたものです。
 実際に適度な温かさがあるから座っていられます。その温度は私が作ったものではなく他の存在によって提供されたものです。普段は当たり前過ぎて意識していませんが、よくよく考えて みると、それが無ければ一瞬たりとも生きることはできません。しかし、自分で努力して集めたわけではないのに、今ここでこうしていることに必要なものは全て満たされています。それが存在していることが実に不思議であり、ありがたいことだと分かります。もしかしたら、私は思いのほか周囲から守られ、愛されているのかもしれません。
 今ここの環境を受け入れ、「今ここで私は守られている」「今ここで私は愛されている」と周囲を感じ、感謝します。
 
3.自分を受け入れる
 受け入れる第三ステップとして、今ここの自分を受け入れていきます。今ここの自分は、私が自分だと思い込んでいる自分にはないミステリーがあります。自己探求はよく潜水に例えられます。自分は自分が潜れる範囲内でしか自分を認識できないので、それが自分のすべてだと思い込んでしまいます。1mしか潜れない人は、水深1m分の自分を自分の全てだと思い込み、それ以上の自分の可能性は全く認識できません。しかし、実際にはもっともっと深いリアリティが存在し、それは、探求されるまでは開示されることはないのです。今ここの自分にも、今の自分が自分だと思っている範囲をはるかに超える領域が存在します。そこには、今の自分では及びもつかないような素晴らしい可能性もあれば、封じ込めてしまった痛みや悲しみも存在しているのです。第三ステップでは、それらの自分という場で起こるあらゆる出来事を受け入れていきます。

①身体を受け入れる
 まずは、自分の身体を受け入れます。自分の身体感覚に集中していきましょう。手、足、頭、首、胸、おなか、腰、足、呼吸などをモニターし、今ここで感じている感じ方のありのままを受け入れます。その際、こうあるべきだという思いでコントロールしようとすることは慎みましょう。時に、流れの悪さ、皮膚の痒み、居心地の悪さ、コリや痛み、などを感じることがあります。痛み
や痒さなど、体の位置を変えたり動かしたりなどで対応できるものに関しては、実際にそうして対処すればよいでしょう。一切体を動かしてはいけないというルールはありませんから。ただし、そういうことでは対処できない居心地の悪さ、イライラ、コリなどは、それをなおそうとしたり、無くそうとするのではなく、まずは、その存在を許し、受け止めて、よくその感じを味わってみることが大切です。
 もしそれを手放したければ、しっかりと手で捕まえなければ遠くへ投げられません。もし遠くに打ち返したければ、球筋をよく観察しなければ空振りしてしまいます。いきなり操作コントロールしようとするのではなく、まずは受け入れてよく見て観察し、理解する必要があるのです。
 なお、この身体感覚に集中するステップは、全ての基盤、基礎となります。何かに迷ったり、道を見失った場合は、いつもこの場所に戻ってくるようにしましょう。身体感覚は、うそをつきません。必ずしもそれが真実というではありませんが、真実への方向性を指示してくれる重要な羅針盤となります。今ここに戻ろうとした場合は、いつもこの身体感覚から始めるとよいでしょう。

②思考を受け入れ、手放す
 瞑想を始めると、自分の内面に意識が向かいます。そして、瞑想の当初は、自分の内面の騒がしさに驚くかもしれません。
気になることや考え事がわいてきて、連鎖的にいろいろな考えが巻き起こり、とめどなく考えに耽ってしまう、瞑想中は、そういうことがよく起こります。考え事に集中していることに気づいたら、それを気前よくやめて、今ここの身体感覚に戻ってくるようにしましょう。
 思考は、決して今ここのものではありません。思考は言葉によって出来上がっていますが、言葉は実態ではありません。ビールという言葉はビールそのものではありません。あくまでも本物に張られた名前なのです。名前はいつでも実態の後で貼り付けられるものであって、同時ではありません。ですので、言語化した時点で言葉はリアリティの後付け、“いま”ではなく“先ほど”の存在となります。思考は言葉によってできていますので、それはいつでも今ここを認識できません。それは、いつも過去のこと、未来のことを考えるのであって、今ここをありのままに感じ、味わうことはできないのです。
 瞑想は、今ここの自分を探求する方法ですので、思考に集中してしまうと、瞑想ができなくなります。ですので、考え事に集中していると分かったら、そこから離れて、今ここに戻ってくる必要があります。その際、思考を止めようとしたり、思考する自分を責めたり罰することは慎みましょう。人であれば思考は好むと好まざるとにかかわらず必ずわいてくるものです。湧き出る自然の
湧水を止められないように、思考の出現も止められません。だから、止めようと努力することも無駄ですし、それができない自分を責めるのも自分に無理難題を押し付けていることになり、良いことではありません。できることは、思考が湧き出ることを許し受け入れること、そして、執着せずに手放すこととなります。
 ですから、瞑想中は、思考を観察し、出てきたらそれにどっぷりつからずに手放す作業を繰り返します。思考を観察することによって、私は思考そのものではなく、思考から距離をおいた存在、思考を観察する存在となります。同時に、思考の世界である過去と未来にとらわれるのではなく、自分の意志で今ここに戻ってくる自由を獲得することができるようになります。この努力は、筋トレのように毎日繰り返すとどんどん強くなり、スキルが高まります。
 思考を観察し、考えていることに気づいたら身体感覚に集中し、今ここに戻ってくる。単調な作業ではありますが、この繰り返しが、自己探求と言うとても大切な能力と力を伸ばす大きな意義のあるレッスンであることを理解しましょう。

③感情を受け入れ、共感する
 瞑想中に、思考だけではなく、時に感情が沸き起こることもあります。考え事に触発される、嫌いな人(動物)の声が聞こえてイライラする、その日の気分としてうつうつとした感情がノイズのように流れている、など、瞑想中に、否定的な感情が沸き起こることも良くあります。自分の中の感情に気づいたら、その感情を抑圧しようとしたり変えようとするなど、コントロールや操作は慎みましょう。
 後述しますが、トラウマのような痛みの記憶は、身体エネルギーの流れのどこかに記憶され、解放されるまではその人に悪影響を及ぼすと考えられています。ですから、自分の感情に気づくということは、自分の中にある癒されない痛みに気づくということ、それは、癒しや成長の絶好のチャンスでもあります。ですので、瞑想中の感情を触発する出来事は、福音なのかもしれません。自分の感情に気づいたら、それが起こることをを許し、受け入れ、それを操作コントロールしようとせず、それに伴って起こっている身体感覚=胸がふさぐ、手が汗ばむ、背中が痛む、みぞおちが重くなる、浮足立つ、などなどさまざまな身体感覚に集中し、その感覚の推移を味わってみましょう。但し、無理は禁物です。あまりにもつらい場合は、いったん中断してください。
 癒しは、一気に全部起こるわけではありません。人の抱える痛みは一気に全部癒やせるほど、扱いが容易なものではありません。不用意に近づきすぎるとやけどをする可能性もあります。ですから、欲張って無理をしてはいけません。一歩ずつ近づき、一滴ずつ癒やす、そういうアプローチがちょうどよいのだと思います。
 ただ、方向性としては、感情の痛みをすぐに治そうとしたり、無視しようとしたり、コントロールしようとするのではなく、それを許し、受け入れ、共感することが大切です。痛みの感情にも意地があるのです。それから逃げようとしたり、無視したり、消そうとしたりコントロールしようとすればするほど、それは大義名分を得て力を増して反撃してきますが、その存在を許し、あたたかく受け入れ、共感すれば、その痛みが癒され、蓄積されていた痛みの感情エネルギーが解放されて、それ以降は影響を与えることは少なくなるでしょう。

 以上のステップを参考にしながら、自分の身体感覚に集中することを通して今ここの自分を感じてみることを続けていきます。最初のころは5分~10分、慣れてきたら30分程度続けてみるとよいでしょう。
 瞑想を始めた最初のうちは、瞑想中に、かゆみ、痛み、苦痛、いらいら、落ち着きのなさ、など、瞑想の目的の一つである心の落ち着きでどころはなく、逆に不快感を感じる場合がよくあります。そうした不快な体験を受けて、「私には瞑想は合わないのだ」と思い込んで、続けるのをやめてしまう人が結構多くいらっしゃいますが、それはとても残念なことです。
 瞑想をしたから不快感が起こってきたのではないのです。それは、瞑想をする前から自分の中で起こっていたことであり、普段は気づかなかったことが、瞑想で浮き彫りになったということなのだと思います。そうした心の中の不快感に気づき、受け入れ、味わうこと自体が、深い癒しにつながり、健康と成長につながっていくものですので、簡単にはあきらめずに続けていくことが大切です。
 瞑想で不快感ばかり感じてしまう人は、瞑想が合わないのではなく、逆に効果が大きすぎるのです。ですので、あまり無理せず、5分程度の短時間でも構わないので、その不快感と向き合ってみてはいかがでしょうか。「座禅は安楽の法門」と言う言葉があります。瞑想も慣れてスキルが高まってくると、気持ちよさを感じ、ストレスの解消や疲労回復、能力のアップにつながってくると言われていますので、簡単にあきらめずに、少しずつでも構わないので継続してみましょう。
 瞑想は、長時間座って達成感を感じられたとしても、気まぐれで時々であればあまり効果はありません。無理のない範囲内の時間で毎日コツコツと続けたほうが効果的です。また、瞑想をした後で必ず心が安らぎさわやかな気分になるとは限りません。時には、癒やされた実感を全く感じなかったり、逆にすっきりしないモヤモヤが残るかもしれません。それはそれでよいのだと思います。そんな瞑想にも必ず価値がある。どんな瞑想でも、瞑想は瞑想、瞑想は裏切りません。必ずそこには意義があります。3勝2敗程度のおおらかな気持ちで、大きな期待を寄せずに、毎日の洗顔のような習慣のつもりでコツコツと続けるとよいでしょう。
 瞑想を続けると、次第に緊張感が和らぎ、ストレスに影響されづらくなり、不安感や恐怖感から解放されやすい免疫力を養うことができます。きっと続けて数か月もたてば疲れづらい元気な心身の状態を回復してくることに気づくでしょう。ぜひ挑戦してみましょう。
 瞑想の最後には、この瞑想という場を提供してくれた環境と自分自身に感謝して、終了します。

 

【参考文献】

・「ポリヴェーガル理論入門」ステファン・W・ポージェス 著 春秋社

・「身体はトラウマを記録する」べッセル・ヴァン・デア・コーク 紀伊国屋書店

・「身体に閉じ込められたトラウマ」ピーター・A・ラヴィーン 星和書店

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 ポリヴェーガル理論の立場から考えると、人には、もちろん人としての自分が存在していますが、ストレスモードになると恐怖と怒り、渇望というネガティブな感情で動く動物的、獣的な存在、さらに、生命の危機に陥ると絶体絶命モードになり、凍り付き、解離を旨とする爬虫類的な存在が発現してくることになります。

 すなわち、私と言う存在には、人としての自分、動物的獣的自分、爬虫類的自分が存在していると言えましょう。

 前節で、獣的自分や爬虫類的自分が現れるのは太古の昔からの危機対応方法として学んできた生命の叡智であり、狭い了見で裁き、責めるべきではないこと、それは、決して弱さではなく、むしろ誇らしいこと、サバイバルの叡智の結果として起こっていることで、受け入れて、逆に感謝して、尊重するべきものだとポージェス博士は主張されていると申し上げました。

 確かにそのとおりであり、進化の結果として確立された自律神経系のシステムに、人間の都合で文句を言うべきではありません。まずは、それらの反応を受け入れて、尊重するという態度は大切だと言えましょう。

 しかし、だからと言って、獣的自分や爬虫類的自分に人生を乗っ取られてよいというわけではありません。人は人だからです。人としての玉座に人以前の進化状態の存在を座らせて、自分の人生を支配させて良いというわけではないのです。

 自律神経系にも、進化のヒエラルキー(腹側神経系>交感神経系>背側神経系)があるように、自分のありかたにもヒエラルキーがあります(人>動物>爬虫類)。その秩序や序列を乱すことは決して健全ではないのです。

 恐怖、絶望、悲嘆、怒り、憎しみ、暴力衝動は、本来動物的、獣的自分に備わった属性です。その気持ちをあるがままに認めその強い影響力が作用することを一時的部分的に許すことはあったとしても、それを自分そのものと勘違いしてそのままに発散することは、人としての自然な生き方ではありません。

 それは獣的、爬虫類的なあるがままであって、決して人間としてのものではありません。自分の中の獣的存在や爬虫類的存在を上手に指導し、導く必要があるのだと言えましょう。

 自分の中の獣的存在や爬虫類的存在を指導し、導くためには、大前提として、このポリヴェーガル理論が役に立つでしょう。

 ポリヴェーガル理論は、自分の中にそのような人以前の進化状態の存在があることを決して否定したり、非難するのではなく、受け入れ、尊重し、誇りに思うべきだと考えています。

 それらは、肉体に刻印されている進化の体系であり、危機的な状況に応じて、自分の意志や認識の範囲外で、独立的、半独立的に自分を守ろうと反応するものであり、進化の叡智の結果として存在しているものなのだということをまずは理解することが大切だと考えています。

 すべては、いまのここから始める必要があります。たとえ現状が地獄のように感じられても、現在においては、そこが出発点であり他に道はないことを受け入れ、現実に向き合い、心を開き、自分自身を探求することが大切だ考えているのです。

 

【参考文献】

・「ポリヴェーガル理論入門」ステファン・W・ポージェス 著 春秋社

・「身体はトラウマを記録する」べッセル・ヴァン・デア・コーク 紀伊国屋書店

・「身体に閉じ込められたトラウマ」ピーター・A・ラヴィーン 星和書店

【関連記事】

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ポリヴェーガル理論②「進化プロセスを記憶する身体」

ポリヴェーガル理論③「認識や判断ではなく生理学的反応」

ポリヴェーガル理論④「人が人として生きられない時 トラウマの呪い」

ポリヴェーガル理論⑤「自分らしく生きるとは」

ポリヴェーガル理論⑥「自分らしさを取り戻すために」

自由とは

「君の幸せが他の誰かがやったりやらなかったりすることにかかっている時、
 君は罠にはまっているんだ。
 なぜなら、他の人々が考えることや行なうことを、
 君がコントロールすることはできないからさ。
 でもね、自分の喜びは他人にかかっているのではないということがわかったら、
 その時には本当に自由になれるんだ」
 
 「サラとソロモン」エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス 著 ナチュラルスピリット 出版