カテゴリー別アーカイブ: ⑤学習方法の理論

体験学習とは? 体験学習の学習プロセス

 体験学習は、先生の講義や理論モデルから学ぶと言うよりは、体験から学ぶ方法であり、通常の場合、まず、チーム活動や個人ワークのような”実習(structured experiences)”と呼ばれる体験エクササイズを実施します。
 各種の実習は、さまざまなレパートリーがあり、楽しく熱中して参加できるように工夫されています。たとえばチーム活動のような実習を実施すると、チームコミュニケーションは一気に活性化し、文句なく楽しいことが多いので、メンバーの参加度合いは増し、凝集性は高まることが多いといえましょう。
 しかし、ややもすると、このような刺激的な実習の側面だけをとらえて体験学習と呼ばれることが多いのですが、単に体験だけでは、本当の意味での学習にはつながらないと私どもは考えております。
 体験学習は、単に体験で終わるのではなく、体験したあとに、体験プロセスをじっくりと丁寧にふり返り、観察していくことを通して、普段は隠れて見えることがない人間関係の中で起こっているさまざまなことがらに光を当てて、思い込みではなく、関係性の真相やありのままのリアリティを理解していくことを試みる学習方法なのです。ですから、どちらかと言うと、刺激的で興奮する学習方法ではなく、粛々と淡々と内面や関係性をみつめ理解を深めていく方法であり、その学習がうまく行くときは、たいていの場合、静かで穏やかな雰囲気になることが多いのです。
 その具体的なプロセスは、以下のとおりです。

①体験
  体験学習の場合には、まずは、体験することから学習が始まります。具体的には、グループワークやエクササイズなどの実習を体験します。

②観察
日常の生活では、体験の連続で、体験をふりかえることは、特別な場合を除いて少ないと言えますが、体験学習の場合には、丁寧に体験を観察していきます。また、忙しい日常生活の中では、あらかじめどう行動すべきか、どう考えるべきか、などといった自分なりの仮説や正解、態度をもって体験とかかわりますが、体験学習の場合には、そのような自分の中に既に構築されているメンタルモデルをひとまず保留して、体験したことを習慣となった反応パターンで解釈し、良い悪いを判断し、どうすべき(だった)かの結論を即座に下してしまうのではなく、起こった出来事や体験したことを、ありのままに丁寧に観察していくことになります。
われわれは、さまざまな知識を身につけており、いろんなことが分っているつもりでいますが、おおよそ人間関係について、より良いあり方、生き方、そうあるための方法、などについてよくよく考えてみると、本当のことは何も分っていないと言えるのではないでしょうか。体験学習では、わかったつもりになるのではなく、謙虚に現実を観察し、ありのままの姿をよく探求することを徹底的に行っていくことを通して、隠されている真相や真実を学んでいこうと試みる学習方法でもあるのです。
具体的には実習の後で、実習中に体験した様々な事柄(自分の感情、感覚、思考、など)を言語化し、紙に書いていきます。その際、体験をふりかえりやすくするために設計された一定の書式(プロセス観察シート)を使うこともあります。

③分析
   観察した事柄をさらに探求し、起こった出来事の原因を分析していくステップです。
体験したことは、②の観察を通して光が当てられて、それだけでも大変価値のあるふりかえりをすることができるのですが、ただ、人間の認識にはバイアス(偏向)がかかっており、事実をありのままに理解しているとは限りません。例えば、前述のとおり、自分の実感では「太陽が動いている」のですが、現実は、「地球が動いている」のです。特に、人間関係のような複雑な現象を理解する場合には、誤解や思い込みが多く、真実を知るためには個人だけの認識ではなく、多くの視点から観察したデータを持ち寄ることが大事となります。
ですから、本当のことを理解していくために、メンバーそれぞれが体験をふりかえった観察データを公表し分かち合います。この分かち合いを通して、ありのままの現実や本当のことを理解していく事が出来るようなるのです。

④仮説化
①~③までのプロセスを経て明らかになった現実の出来事について、「なぜその様な事になったのか?」について自分なりに仮説化します。ここで統合された仮説は、間違いがない真実とは限りませんが、今の時点では体験から導き出された宝であり、価値ある叡智と言えましょう。
なお、この仮説化の一助として、一般的に認知されている理論などを解説する”小講義”がなされる場合もあります。
導き出された仮説は、次の実習で検証したり、実践してみて、更に深く探求し理解していくことが出来ます。また、より良いと思える方法を次の実習で試みて行くことができるので、実習を繰り返すうちに、個人として、チームとして成長を実感して行くことができるでしょう。
このように、実践や試みを通して学習し、成長を図ることができるので、体験学習方式による方法は、ラボラトリーメソッド(実験室メソッド)とも呼ばれています。

学ぶということ?(最終回)

<(引き続き)体験から学ぶと言うこと>

 私たちが、内面で体験したこと、感じたことや気づいたことを信じ、大切にした上で、単に内面だけにとどめるのではなく、それを共通体験している友と分かち合うことが、真実への近道であると考えています。

 『人間関係、”今ここ”、真実』、対象はさまざまですが、分かろうとすることは、いずれにしても、途方も無く広く大きく奥行きが深いものです。自分が、それを”青”と認識しても、他人がそのように認識するとは限りません。”黄色”と見る人もいるだろうし、”緑”と見る人もいるでしょう。しかし、そのどれかが正解で、他の見解が間違えているということではありません。なぜならば、いずれも複雑なものの、ある側面を見ているわけであって、その方向や立場からは、確かにそのように見えるのです。ただ、観察する角度や場所を変えればまったく違ったものに見えることも確かであり、一見矛盾しているように思えることもありますが、その立場から見た見え方に間違いはありません。ただ単に、見方が部分的なだけなのです。

 同じ町を、東から見るのと西から見るのとでは、違った町に見えますが、実は、同じ町を見ているのです。
 同じ町を、低地から見るのと、山の上から見るのとでは、違った町に見えますが、実は、同じ街を見ているのです。

 しかし、それぞれの見え方を集めて行くと、本当の町が見えてきます。
 それぞれの認識を分かち合って行くと、どんなに広く深く大きな対象であっても、その全体像、真実に近づくことができるでしょう。

 内面の体験は、自分にとっては大切な宝物ですが、それを相手に伝えたとき、相手が宝物として扱ってくれる保障はありません。ですから、内面の体験を分かち合うことは、とっても勇気が必要であり、相互信頼が必要ではありますが、もし、本当に信頼が起こって、人と人とが、本当の体験を正直に語り合うことができたとしたら、きっと本当のことが分かってくるのではないでしょうか。
 そして、もし本当のことが分かれば、どうすればより自分らしく輝いて生きることができるのかは、おのずとわかってくるでしょう。

 信頼に値する”モデル”から学ぶことも大事ですが、日常の”体験”から学ぶことも大変価値があるものです。
 体験を大切に扱い、それを友と分かち合い、本当のことを理解して、真実に基づいて自分の人生の舵を切る。こんな生き方はいかがでしょう。

 ”体験から学ぶ”、そんな生き方、学び方をお勧めします。

学ぶということ?

<私たちは、真実を学んできたわけではない>

 私たちは、成績を付けられることに慣れてしまっており、ある意味で評価されることで飼いならされており、どんなことでも評価基準や成績がつけられないと不安になってしまっていないでしょうか?不安だからこそ、答えや標準、満点など存在しないことでもそれがあるはずだと思い込んではいないでしょうか?

 私たちのどこかに、人のありよう、生き方、人生、コミュニケーション、リーダーシップに正解があるはずだ、完璧なものがあるはずだと思い込んではいないでしょうか?
 もしそうだとしたら、ヒューマンスキルに、正解があると思い込んでいるのは、ある意味で、幻想といえないでしょうか?個性に、正解があると思い込んでいるのは、ある意味で、途方も無い勘違いではないでしょうか?

 もし、生き方や関わり方、問題解決の仕方に正解があるのならば、なぜ、世の中は、かくもこのようなのでしょう?なぜ戦争はなくならないのでしょう?なぜ家庭が平和ではないのでしょう?なぜこうも悩みが多いのでしょう?

 明らかなことは、答えであると教えられてきたことは、決して本当の真実ではないということではないでしょうか。なぜならば、教えられたように努力して、私たちは今のような社会をつくっているからです。そして、今の社会は、全てがうまく言っているとはいえないでしょう。

 完璧さを求める理論やモデルの中には、”非難されないために””不安や恐怖から逃れるために”または、”誰かがその人の都合のよい人間に矯正するために”つくられておいるものもあり、”自分が自分らしく本音でそう生きたいために”だけ作られたものばかりとは限りません。

 また、おおよそ、人間の心理やあり方に関する理論は、仮説であって真実ではありません。また、部分的、ほんのひとつの断片を描いたものであり、決して全体像を説明し切れているものではありません。

 どんなに権威ある考え方、理論でも、もしかしたら、勘違い、思い込みであるかもしれないのです。

 もしそんな勘違いや間違いを信じ込んで人生の機軸としてしまっているとしたら、危険であり、本来の自分の人生とは違う生き方になってしまうでしょう。

 事実、人は、この宇宙を説明する最高の理論である宗教の名の下に、たくさんの人を殺しています。

 私たちは、教えられてきたことや、教えようとされていることに対して、もう少し注意深くなる必要があるのではないでしょうか。

 私たちは、自分の生き方を決めて行くときには、本当のことに基づいて舵を切っていく必要があるのです。

 そんなときに、頼りになるのは、既に言われている”答え”ではなく、まさに、自分自身のリアルな”体験”と言えるのではないでしょうか。

学ぶということ?

<私たちは、真実を学んできたわけではない>

 私たちは、成績を付けられることに慣れてしまっており、ある意味で評価されることで飼いならされており、どんなことでも評価基準や成績がつけられないと不安になってしまっていないでしょうか?不安だからこそ、答えや標準、満点など存在しないことでもそれがあるはずだと思い込んではいないでしょうか?

 私たちのどこかに、人のありよう、生き方、人生、コミュニケーション、リーダーシップに正解があるはずだ、完璧なものがあるはずだと思い込んではいないでしょうか?
 もしそうだとしたら、ヒューマンスキルに、正解があると思い込んでいるのは、ある意味で、幻想といえないでしょうか?個性に、正解があると思い込んでいるのは、ある意味で、途方も無い勘違いではないでしょうか?

 もし、生き方や関わり方、問題解決の仕方に正解があるのならば、なぜ、世の中は、かくもこのようなのでしょう?なぜ戦争はなくならないのでしょう?なぜ家庭が平和ではないのでしょう?なぜこうも悩みが多いのでしょう?

 明らかなことは、答えであると教えられてきたことは、決して本当の真実ではないということではないでしょうか。なぜならば、教えられたように努力して、私たちは今のような社会をつくっているからです。そして、今の社会は、全てがうまく言っているとはいえないでしょう。

 完璧さを求める理論やモデルの中には、”非難されないために””不安や恐怖から逃れるために”または、”誰かがその人の都合のよい人間に矯正するために”つくられておいるものもあり、”自分が自分らしく本音でそう生きたいために”だけ作られたものばかりとは限りません。

 また、おおよそ、人間の心理やあり方に関する理論は、仮説であって真実ではありません。また、部分的、ほんのひとつの断片を描いたものであり、決して全体像を説明し切れているものではありません。

 どんなに権威ある考え方、理論でも、もしかしたら、勘違い、思い込みであるかもしれないのです。

 もしそんな勘違いや間違いを信じ込んで人生の機軸としてしまっているとしたら、危険であり、本来の自分の人生とは違う生き方になってしまうでしょう。

 事実、人は、この宇宙を説明する最高の理論である宗教の名の下に、たくさんの人を殺しています。

 私たちは、教えられてきたことや、教えようとされていることに対して、もう少し注意深くなる必要があるのではないでしょうか。

 私たちは、自分の生き方を決めて行くときには、本当のことに基づいて舵を切っていく必要があるのです。

 そんなときに、頼りになるのは、既に言われている”答え”ではなく、まさに、自分自身のリアルな”体験”と言えるのではないでしょうか。

学ぶということ?

<私たちは答えを知っているわけではない>

一方、この本がテーマにしている”自分らしさ”は、いかがでしょう。”自分らしさ”とは、要するに個性であり、個性には、正解もモデルもありません。

 よく、すばらしいリーダーのあり方であるとか、すばらしいコミュニケーションのとり方、よりよい生き方、などと本がたくさん出版されていますが、よくよく考えると、リーダーシップ、コミュニケーション、生き方などといった、いわばヒューマンスキルは、それこそ個性の現われであって、その個性には、モデルや正解などありません。
 すばらしいリーダーと言った場合には、咲く花は一種類ではなく、百花百様、個性の数だけ美しい花が咲く可能性があるのです。
 コミュニケーションといっても、人によってすばらしいあり方はたくさんあって、いろんな美しい方法があるので、一つの正解など存在しないし、人の数だけ美しいあり方があるのだとといえましょう。

 でも、私たちは、モデル学習にとっても慣れてしまっており、ある意味で、モデル学習に飼いならされており、どんなことにも”正解”があり、その通りに振舞える人が優秀で、そうできない人は、失格であると思い込んではいないでしょうか。

 私たちは、もう少し謙虚になる必要があるのではないでしょうか。
 私たちは、「自分は、できないだけで本当は既にどうすればよいか知っている」「私は、正解を知っている」「自分が正しい」と思い込んでいるかもしれませんが、本当にそうでしょうか。
 私が答を知っている正しい人ならば、なぜ、自分は、今こうなのでしょう?なぜ、自分の人生は、思い通りにならないのでしょう?
 自分には、まだたりない欠点があるからでしょうか?他人がその答を知らないで、自分に協力しないからなのでしょうか?環境が悪者なのでしょうか?
 しかし、どんなに逆境の中でも、自分らしく輝いて生きている勇者はいるものです。
 成功している勇者たちは、欠点が無いことなどありません。

 自分の中に腰をすえている”答え”は、決して真実ではありません。
 なぜなら、それは既に過去の遺物であり、”今ここ”で起こっていることとは、関係が無いからです。
 また、理論や概念は、言葉からできており、言葉は、決して実体にはなれません。あらゆる概念は、この運命からは逃れることはできません。理論は、権威あるものに見えるかもしれませんが、それは、実体の影にすぎないのです。影を操作して、実体を変えようとしても、実体は変わらないように、理論を操作して現実を変えようとしても、決してうまくはいきません。

学ぶということ?

<私たちが教えられてきた学習方法は万能ではない>

 私たちは、”学ぶ”ということをどう考えているでしょう。

 通常、私たちが”学ぶ”ときの”学び方”は、”モデル学習”といえるでしょう。

 モデル学習とは、基本的に漢字の書き取りと同じで、先生が”見本(モデル)”を示し、生徒は、それを”複写”し、何回も”練習”をして、”記憶”し、自分のものにする。そして、当初先生の示した見本が、自分のものになったときに、さらに新しく高度な”見本(モデル)”を提示してもらうと言ったサイクルを”モデル学習”と言います。

 モデル学習は、どんな教育機関、組織、文化でも行われている教育方法であり、汎用的で一般的であるといえましょう。
 非常に、効率的で便利な学習方法であり、応用範囲は広範囲にあるとはいえますが、実は、モデル学習は、限界があり、どんなことでもこの方法で学べるわけではありません。

 たとえば、一流のプロスポーツ選手を思い浮かべてください。
 彼ら彼女らは、大変パフォーマンスが高く、一流であり、モデルとするにはもってこいの人たちですが、しかし、モデル学習のように、彼ら彼女らの物まねをしたからといって、その技術を得られるわけではありません。
 また、一流になればなるほど、その技術はユニークであり、一般的ではありません。
 有名なプロ選手は、一様に個性的であり、全く画一的ではありません。
ですから、一流であるための型にはまったモデルは、存在しないのです。

 匠の技、というものがあります。一流の職人芸は、大変みごとであり、見習いたいスキルであります。しかし、残念ながら、見取り稽古には限界があり、同じようにやってみても、同じようにはできません。その技は、その人独自のきれをもっており、その人にしかできない独特なものだからです。