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春の気配

昨日(1月19日)横浜に行った際に撮った写真です。

なんと、河津桜が一輪咲いていましたよ。

 

河津桜は、2月頭から咲き始めるのが通常だそうなので、少し早いかもしれませんね。

少し、春の気配を感じることができました!

 

自分の中の瞑想者を育む ⑤内なる瞑想者の育み方

 では、内なる瞑想者は、どのようにして育むことができるのでしょうか。さまざまな方法が存在しており、そのどれもが優れた方法なのだろうと思います。人によって相性があるので、自分に適した方法を探求されることが一番だと思います。たくさんある方法の中の一つにすぎませんが、ここでは、瞑想と言う方法をご紹介します。

 短時間でも構いませんので、毎日コツコツと瞑想を続けていくと、自分の内面に瞑想者としての視点が育まれてくるように思います。私はそれを内なる瞑想者と呼んでいます。内なる瞑想者は、瞑想の初めは、瞑想の時だけ立ち上がってくる意識であり、集中しようとしなければすぐに消えてしまう小さな拠点ですが、回数を重ねるにつれて、その拠点は力強くなり、確たるものに成長していきます。さしずめ筋トレのように毎日することによって少しずつ体形が変わってくることに似ていると思います。

 また、内なる瞑想者が成長すると、瞑想していない日常生活の中でも、それが弱い状態で存在し続け、自分の何気ないもろもろの日常生活をいつくしみ、肯定し大切にする意識が常に存在するようになります。ですので、相変わらず自我は自己否定をしたり、自己嫌悪に陥ったりするのですが、以前ほどその悪影響を受けずに、軽やかにふりはらい、短い時間で落ち込みから回復できる前向きな強い心が自然にはぐくまれてきます。

 さらに、日常の忙しくストレスフルな状況にあっても、視点を瞑想者に移せば、自分や周囲に対するあたたかい安定した意識が立ち上がり、ストレスが癒されリフレッシュをはかることができると同時に、問題を異なった視点で見れるようになるので、より深く多様な視点から問題解決策を検討できるようになります。

 私は、毎朝30分程度の瞑想をしています。欠かさずにもう15年くらいになるでしょうか。実績を自慢しているわけではありませんが、毎日の実践を通して、ずいぶん生き方が楽になってきた気がしています。リラックスが進み、仕事上でもより自然に講座を運営できるようになってきた気がしております。この瞑想を続けてきたことによって、内なる瞑想者も育まれてきて、おかげさまで、自己否定や自己嫌悪の嵐が鎮まり、本来の自分らしさ、元気や明るさを取り戻した気がしています。私にとっては、とても相性の合う方法であり、役に立ってくれている方法です。100ある方法の一つにすぎませんが、参考にしていただければ幸いです。

 以下、「To be a Hero ~自分を生きる勇者となる~」より抜粋で、一番安全な方法である「受け入れる瞑想」をご紹介します。なお、他の記事でも紹介していますので、重複することをご容赦ください。

<エクササイズ 「受け入れる瞑想」>
 瞑想は、古来から伝わる自己探求の方法です。瞑想は、心の中のノイズを静め、過去や未来に向かってしまう心の焦点を今ここに戻し、今ここの自分自身を探求する方法です。今ここの自分自身には、通常の自分の顕在意識では認識できない繊細さ、精妙さ、大きなエネルギー、偉大なる可能性がまどろんでいると考えられています。瞑想は、そうした今ここの本来の自分とアクセスし、自分らしく輝いて生きていく生き方を後押ししてくれます。
 なお、今ここの本来の自分とアクセスするためには、瞑想の立場では、決して特殊なことは必要ないと考えています。本来の自分は、作ったりどこかに探しに行くものではなく、今ここにいつでも存在していると考えています。それにアクセスできないのは、普段私が私だと思い込んでいる私の一部の活発な活動が障がいとなっているためであって、雑音を静め、思い込みを緩めていけば、自然に見えてくると考えています。太陽が存在していないわけではないのです。あまりに厚い雲で光がさえぎられているので、太陽の存在を感じ取れないのです。ですので、太陽を見たければ、雲を払うことが大切なのであって、太陽を作ろうとしたり、太陽を探そうと努力することは的外れなのだと言えます。
 瞑想は、素晴らしい自分を作ろうとしたり探し求めたりはしません。ただひたすら雲を払う、私の中の適応や生き残りのための騒がしい活発な活動を静め、自分に対する固定観念を解きほぐしていく作業を進めていきます。劇的な変化というよりはゆっくりと一歩ずつ進めていく方法ですので、時間はかかりますが、確実に成長につながる方法と言えましょう。
 私は、10年以上にわたって毎日コツコツと瞑想を続けています。別に実績を自慢している訳ではありませんが、日々の瞑想を通して、ずいぶん生きやすさ、元気を頂いている実感があります。信頼できる方法でかつ効果を期待できる方法だと思っており、本書でもご紹介したいと思っています。
 私が瞑想を気に入っている理由は3つあります。

①何にも依存しない…瞑想は一人でできますので、お金も、物も、人間関係も必要ありません。もし、自分らしく輝いて生きるために、何か自分以外のもの、例えばお金や貴金属、愛する人や本、などが必要であった場合は、輝いて生きるためにはそれらに依存しなければなりません。他の何かに依存する生き方は、自分自身を信じて自分自身によって立つ自分らしい生き方とは言えませんよね。その意味で、瞑想は、特別な場所や物、お金や宝石など、他の何物も必要としません。身
一つで手軽に実践できる方法です。

②安全でジェントル…瞑想は、基本的には、ただ座ってじっとしている方法ですので、泣いたり、叫んだり、気を失ったり(寝てしまうことはありますが…)、などの浸食的、激情的な現象が起こることはありません。一切の暴力が排除されているシンプルな方法ですので、安全で穏やかで静かな方法です。また、長時間しなければならないなどの約束や縛りもありませんので、自分の気の向くまま、無理なくできる方法でもあります。だからこそ、長く続けることができるのだと思います。

③ちょっとずつ確実に効果が現われる…瞑想は、たとえ短時間であっても、実践を続ければ続けるほど効果が出てきます。ただ、悟りを開くとか超能力が身につくとかそうした劇的な効果は期待しない方がよいと思います。私が感じている効果は、日常のささやかなことです。一切やる気が出なかったけど掃除をする気になってやってみた、いつも不機嫌だったけど最近はよく笑うようになった、素直に人の話が聞けた、普段は感じない花の香りを感じて花がきれいに見えた、文句ばっかりだったけどありがたみを感じた、肩のコリが和らいで少し楽になった、姿勢がよくなった、少しやさしくなった、瞑想していること自体が楽しくなった、気づいたら風邪をひかなくなっていた、人と話すことが苦でなくなってきた、などなど、瞑想は、今までの生き方の延長上ではない、ほんとうにささやかではあるけれども思いもよらない変化が、ちょっとずつ確実に起こってくるように実感しています。私にとっては、こうした思いもよらない小さな変化こそがちょっとした奇跡であり、大切な大切な気づき、人としての成長につながっていくのだろうと思っています。自己探求には近道や王道はありません。逆に簡単にできる近道を唄う方法には、必ずどこかに落とし穴があるように思います。瞑想は、その意味で、地味ではありますが、楽しみながらコツコツと長く続
けてできる方法であり、ゆっくりと確実に効果が出てくる努力を裏切らない方法です。

 以上の理由で、私は、瞑想を気に入っており、実践しております。百ある方法の一つであり、最善最強の方法というわけではないのですが、参考にしていただけると感じておりますので、本書でも、瞑想の方法をさまざまな節でご紹介していきたいと思います。ここでは、瞑想の中でも最も基本的で大切な「受け入れる瞑想」をご紹介します。以下のステップを参考にして、自分自身を探求していきましょう。

1.姿勢を正す
 椅子などに腰掛け、ヘソを前に突き出し、あごを引いて姿勢を正します。手は、もっとも置きやすい形(伏せるなど)で置きやすい場所(腿の上など)に自然に置きます。

2.重力を受け入れる
 受け入れる第一ステップとして、まずは、重力を受け入れていきます。重力は普段は意識しませんが、とてもパワフルであり、確実に私たちに働きかけてくれています。その存在のおかげで地球での生活が確保できるのですから。その重力を丁寧に感じて身をゆだねていきます。
 まずは、左腕から左手のひら、左指にかけて重みを感じてみます。重みを感じることが少しでもできたならば、左手を重力に委ね、力を抜きます。ホッと力を抜くときに、左手の血流を感じ、温かさ、ジーンとする感覚を感じることがあるかもしれません。もし感じることができたら、その感覚を大切にしてください。
 以降、右手→左足→右足→頭→首→胸→おなか→腰と重力スキャン、脱力を進めていきます。その際、力を抜くからと言って、姿勢を崩さないようにしてください。しっかりと姿勢を保つだけの力だけは確保しておきます。
 重力を受け入れ、身体の温かさ、ジーンとする心地よい感覚に身を包まれながら、地球のやさしく安定した力強い重力という力で生かされていることに思いをはせ、感謝します。

3.環境を受け入れる
 受け入れる第二ステップとして、今ここで置かれている環境を受け入れていきます。今いる場所がどこであれ、静かなところであれ騒がしいところであれ、その場所への文句や不満(あれば)を静め、緊張を解き、今ここの環境を「それでよし」とひとまず受け入れてみます。存在する地面、家、人、家具、空気を、今ここで感じている温度、におい、音を、「起こるべくして起こっている、何一つ過不足はない」という心境で受け入れ、抵抗や緊張を緩めていきます。
 逆にそれらの存在があるからこそ今ここで瞑想できることに意識をはせてみます。実際に、床があるから座っていられます。その床は私が作ったものではなく誰かの努力で作られたものです。
 実際に空気があるから呼吸ができます。その空気は自分 が作ったものではなく他の存在によってもたらされたものです。
 実際に適度な温かさがあるから座っていられます。その温度は私が作ったものではなく他の存在によって提供されたものです。普段は当たり前過ぎて意識していませんが、よくよく考えて みると、それが無ければ一瞬たりとも生きることはできません。しかし、自分で努力して集めたわけではないのに、今ここでこうしていることに必要なものは全て満たされています。それが存在していることが実に不思議であり、ありがたいことだと分かります。もしかしたら、私は思いのほか周囲から守られ、愛されているのかもしれません。
 今ここの環境を受け入れ、「今ここで私は守られている」「今ここで私は愛されている」と周囲を感じ、感謝します。
 
3.自分を受け入れる
 受け入れる第三ステップとして、今ここの自分を受け入れていきます。今ここの自分は、私が自分だと思い込んでいる自分にはないミステリーがあります。自己探求はよく潜水に例えられます。自分は自分が潜れる範囲内でしか自分を認識できないので、それが自分のすべてだと思い込んでしまいます。1mしか潜れない人は、水深1m分の自分を自分の全てだと思い込み、それ以上の自分の可能性は全く認識できません。しかし、実際にはもっともっと深いリアリティが存在し、それは、探求されるまでは開示されることはないのです。今ここの自分にも、今の自分が自分だと思っている範囲をはるかに超える領域が存在します。そこには、今の自分では及びもつかないような素晴らしい可能性もあれば、封じ込めてしまった痛みや悲しみも存在しているのです。第三ステップでは、それらの自分という場で起こるあらゆる出来事を受け入れていきます。

①身体を受け入れる
 まずは、自分の身体を受け入れます。自分の身体感覚に集中していきましょう。手、足、頭、首、胸、おなか、腰、足、呼吸などをモニターし、今ここで感じている感じ方のありのままを受け入れます。その際、こうあるべきだという思いでコントロールしようとすることは慎みましょう。時に、流れの悪さ、皮膚の痒み、居心地の悪さ、コリや痛み、などを感じることがあります。痛み
や痒さなど、体の位置を変えたり動かしたりなどで対応できるものに関しては、実際にそうして対処すればよいでしょう。一切体を動かしてはいけないというルールはありませんから。ただし、そういうことでは対処できない居心地の悪さ、イライラ、コリなどは、それをなおそうとしたり、無くそうとするのではなく、まずは、その存在を許し、受け止めて、よくその感じを味わってみることが大切です。
 もしそれを手放したければ、しっかりと手で捕まえなければ遠くへ投げられません。もし遠くに打ち返したければ、球筋をよく観察しなければ空振りしてしまいます。いきなり操作コントロールしようとするのではなく、まずは受け入れてよく見て観察し、理解する必要があるのです。
 なお、この身体感覚に集中するステップは、全ての基盤、基礎となります。何かに迷ったり、道を見失った場合は、いつもこの場所に戻ってくるようにしましょう。身体感覚は、うそをつきません。必ずしもそれが真実というではありませんが、真実への方向性を指示してくれる重要な羅針盤となります。今ここに戻ろうとした場合は、いつもこの身体感覚から始めるとよいでしょう。

②思考を受け入れ、手放す
 瞑想を始めると、自分の内面に意識が向かいます。そして、瞑想の当初は、自分の内面の騒がしさに驚くかもしれません。
気になることや考え事がわいてきて、連鎖的にいろいろな考えが巻き起こり、とめどなく考えに耽ってしまう、瞑想中は、そういうことがよく起こります。考え事に集中していることに気づいたら、それを気前よくやめて、今ここの身体感覚に戻ってくるようにしましょう。
 思考は、決して今ここのものではありません。思考は言葉によって出来上がっていますが、言葉は実態ではありません。ビールという言葉はビールそのものではありません。あくまでも本物に張られた名前なのです。名前はいつでも実態の後で貼り付けられるものであって、同時ではありません。ですので、言語化した時点で言葉はリアリティの後付け、“いま”ではなく“先ほど”の存在となります。思考は言葉によってできていますので、それはいつでも今ここを認識できません。それは、いつも過去のこと、未来のことを考えるのであって、今ここをありのままに感じ、味わうことはできないのです。
 瞑想は、今ここの自分を探求する方法ですので、思考に集中してしまうと、瞑想ができなくなります。ですので、考え事に集中していると分かったら、そこから離れて、今ここに戻ってくる必要があります。その際、思考を止めようとしたり、思考する自分を責めたり罰することは慎みましょう。人であれば思考は好むと好まざるとにかかわらず必ずわいてくるものです。湧き出る自然の
湧水を止められないように、思考の出現も止められません。だから、止めようと努力することも無駄ですし、それができない自分を責めるのも自分に無理難題を押し付けていることになり、良いことではありません。できることは、思考が湧き出ることを許し受け入れること、そして、執着せずに手放すこととなります。
 ですから、瞑想中は、思考を観察し、出てきたらそれにどっぷりつからずに手放す作業を繰り返します。思考を観察することによって、私は思考そのものではなく、思考から距離いた存在、思考を観察する存在となります。同時に、思考の世界である過去と未来にとらわれるのではなく、自分の意志で今ここに戻ってくる自由を獲得することができるようになります。この努力は、筋トレのように毎日繰り返すとどんどん強くなり、スキルが高まります。
 思考を観察し、考えていることに気づいたら身体感覚に集中し、今ここに戻ってくる。単調な作業ではありますが、この繰り返しが、自己探求と言うとても大切な能力と力を伸ばす大きな意義のあるレッスンであることを理解しましょう。

③感情を受け入れ、共感する
 瞑想中に、思考だけではなく、時に感情が沸き起こることもあります。考え事に触発される、嫌いな人(動物)の声が聞こえてイライラする、その日の気分としてうつうつとした感情がノイズのように流れている、など、瞑想中に、否定的な感情が沸き起こることも良くあります。自分の中の感情に気づいたら、その感情を抑圧しようとしたり変えようとするなど、コントロールや操作は慎みましょう。
 後述しますが、トラウマのような痛みの記憶は、身体エネルギーの流れのどこかに記憶され、解放されるまではその人に悪影響を及ぼすと考えられています。ですから、自分の感情に気づくということは、自分の中にある癒されない痛みに気づくということ、それは、癒しや成長の絶好のチャンスでもあります。ですので、瞑想中の感情を触発する出来事は、福音なのかもしれません。自分の感情に気づいたら、それが起こることをを許し、受け入れ、それを操作コントロールしようとせず、それに伴って起こっている身体感覚=胸がふさぐ、手が汗ばむ、背中が痛む、みぞおちが重くなる、浮足立つ、などなどさまざまな身体感覚に集中し、その感覚の推移を味わってみましょう。但し、無理は禁物です。あまりにもつらい場合は、いったん中断してください。
 癒しは、一気に全部起こるわけではありません。人の抱える痛みは一気に全部癒やせるほど、扱いが容易なものではありません。不用意に近づきすぎるとやけどをする可能性もあります。ですから、欲張って無理をしてはいけません。一歩ずつ近づき、一滴ずつ癒やす、そういうアプローチがちょうどよいのだと思います。
 ただ、方向性としては、感情の痛みをすぐに治そうとしたり、無視しようとしたり、コントロールしようとするのではなく、それを許し、受け入れ、共感することが大切です。痛みの感情にも意地があるのです。それから逃げようとしたり、無視したり、消そうとしたりコントロールしようとすればするほど、それは大義名分を得て力を増して反撃してきますが、その存在を許し、あたたかく受け入れ、共感すれば、その痛みが癒され、蓄積されていた痛みの感情エネルギーが解放されて、それ以降は影響を与えることは少なくなるでしょう。

 以上のステップを参考にしながら、自分の身体感覚に集中することを通して今ここの自分を感じてみることを続けていきます。最初のころは5分~10分、慣れてきたら30分程度続けてみるとよいでしょう。
 瞑想を始めた最初のうちは、瞑想中に、かゆみ、痛み、苦痛、いらいら、落ち着きのなさ、など、瞑想の目的の一つである心の落ち着きでどころはなく、逆に不快感を感じる場合がよくあります。そうした不快な体験を受けて、「私には瞑想は合わないのだ」と思い込んで、続けるのをやめてしまう人が結構多くいらっしゃいますが、それはとても残念なことです。
 瞑想をしたから不快感が起こってきたのではないのです。それは、瞑想をする前から自分の中で起こっていたことであり、普段は気づかなかったことが、瞑想で浮き彫りになったということなのだと思います。そうした心の中の不快感に気づき、受け入れ、味わうこと自体が、深い癒しにつながり、健康と成長につながっていくものですので、簡単にはあきらめずに続けていくことが大切です。
 瞑想で不快感ばかり感じてしまう人は、瞑想が合わないのではなく、逆に効果が大きすぎるのです。ですので、あまり無理せず、5分程度の短時間でも構わないので、その不快感と向き合ってみてはいかがでしょうか。「座禅は安楽の法門」と言う言葉があります。瞑想も慣れてスキルが高まってくると、気持ちよさを感じ、ストレスの解消や疲労回復、能力のアップにつながってくると言われていますので、簡単にあきらめずに、少しずつでも構わないので継続してみましょう。
 瞑想は、長時間座って達成感を感じられたとしても、気まぐれで時々であればあまり効果はありません。無理のない範囲内の時間で毎日コツコツと続けたほうが効果的です。また、瞑想をした後で必ず心が安らぎさわやかな気分になるとは限りません。時には、癒やされた実感を全く感じなかったり、逆にすっきりしないモヤモヤが残るかもしれません。それはそれでよいのだと思います。そんな瞑想にも必ず価値がある。どんな瞑想でも、瞑想は瞑想、瞑想は裏切りません。必ずそこには意義があります。3勝2敗程度のおおらかな気持ちで、大きな期待を寄せずに、毎日の洗顔のような習慣のつもりでコツコツと続けるとよいでしょう。
 瞑想を続けると、次第に緊張感が和らぎ、ストレスに影響されづらくなり、不安感や恐怖感から解放されやすい免疫力を養うことができます。きっと続けて数か月もたてば疲れづらい元気な心身の状態を回復してくることに気づくでしょう。ぜひ挑戦してみましょう。
 瞑想の最後には、この瞑想という場を提供してくれた環境と自分自身に感謝して、終了します。

<「内なる瞑想者を育む」シリーズ関連>

①自分らしく健康で幸せな生き方とは

②内なる瞑想者

③自我と瞑想者の違い

④内なる瞑想者の役割

⑤内なる瞑想者の育み方

自分の中の瞑想者を育む ④内なる瞑想者の役割

 内なる瞑想者は、自我とは全く異なる副人格ですが、2者択一ではありません。お互いに矛盾する立ち位置ですが、同居は可能です。内なる瞑想者は、決して自我を否定したり抑制したりしません。

 自我には自我の役割があります。この世知辛い世の中で生き残っていくためには、自分を守りつつ社会的に上手に立ち回っていこうとする自我の役割は必須です。自己を防衛する力が無い人は、単なるお人よしのおバカさんになってしまいます。

 ですから、内なる瞑想者を育むために自我を否定する必要もないし、自我としての認識と表現を遠慮する必要もありません。自我は自我として元気に活動させていくことが大切なのだと思います。

 ただ、自分が自我だと勘違い、同一化してしまい、自我が自分自身を乗っ取ってしまうことは、決して健康なことではありません。自分の主体は、自我ではなくSelfにあるからです。脅威があるからと言って、自我の自己防衛的な活発な活動に身を任せ、固く心を閉じてしまう生き方も自分らしい本来の幸せな生き方とは言えないでしょう。人には、心を開いて他者と意義深い豊かな関係を開く能力と可能性があります。その可能性を捨ててしまってはいけないのです。

 前述の通り、Selfは、積極的に意識していかなければ、活発な自我の働きの影に隠れてしまい、力を失ってしまいます。

 内なる瞑想者は、自分と自我の同一化にくさびを打ち込みます。瞑想者が育つことによって、自分自身と自我の間にスペースができあがり、自我を客観視することができるようになります。それと同時に、Selfの視点である自分の内面のすべての要素の統合者としての視点、自我を超える高い意識を活性化することができるのです。

 Selfは、自我を束縛しませんが、無関心無放縦にもしません。自我のありのままを観察し受け入れ、自我の痛みや渇きをいやすことを通して、過度な興奮を鎮めていきます。自我は、ある意味で戦士であり、Selfはその君主です。戦士は、君主に見放され、恐怖と不安にさいなまれて絶望に首をたれてしまうとその獣性が目覚めて、暴力をもって略奪を図る無法者となりますが、君主に愛され、信頼されると、人間性を内包した強さをもって本来の役割を果たす誇り高い騎士になるのです。

 残念ながら、日常を送る多くの私たちは、Selfによって自我を上手に従えていくことができていません。自分の中の君主が目覚めておらず、自我は暴君として、自分自身を乗っ取り、自己防衛と攻撃を繰り返す生き方をしてしまっているのではないでしょうか。自我に支配されている時の自分は、決してそれが正しいとも思っていなければ、安心や深い喜びを感じてもいません。自信を持てずに心の中は絶えず不安と不満のノイズが流れている日常になってしまっているのではないでしょうか。

 内なる瞑想者は、そうした自我のふるまい、たとえそれが愚かだと言われていることであったとしても、社会的外面的なレッテルを張ることなく、淡々と正確にありのままに観察し、理解を深めます。自我を裁いたりコントロールしようとせずに、そのままにしておいて、そのダイナミックな嵐のような動きを受け入れ、味わいます。

 瞑想者の視点は、初めは小さく弱い砦であり、容易に大波にさらされて見失ってしまう拠点ですが、見捨てることなく確保し、守り通すことを通して、徐々に育ち、大きくなっていきます。自我一色に染まってしまった自分の内面にスペースを作り、Selfを呼び起こす場をととのえていくのです。

 Selfは、激しい自我の活動の中で、普段は埋没してしまっているので、多くの人は、自分の中にSelfがあることに気づけていません。

 Selfは、窓の外で流れるそよ風の音であるのに対して、自我の放つ音は、ハードロックのコンサートの最大ボリュームの音楽です。だから、いつも関心を向けてしまうのは自我の放つ騒音であり、意識して聞こうとしなければ、Selfのささやきは決して聞くことはできません。

 Selfは、雲間に見える薄暗い光であるのに対して、自我は、暑い雲であり、暴風と暴雨、大嵐です。ですから、心が奪われてしまうのは嵐の脅威であり、意識して見ようとしなければSelfを知覚できません。太陽の存在を信じることがでなくなるのです。

 Seifは、深海の静けさであるのに対して、自我は、絶えず荒れ狂う荒波です。ですから、荒波にもまれて、その対処に大忙しでいる間は、決して深海の静けさは理解できません。自ら潜水していく努力が必要です。

 内なる瞑想者は、そうした、通常意識では認識が難しいSelfへの橋渡しをしてくれます。自我の活動とは別に、内なる瞑想者の安定した継続的な活動によって、徐々に、少しずつ強くSelfを自覚できるようになってくるのです。

 また、内なる瞑想者は、今ここで起こっているリアリティに対して、一切の抵抗をしません。自我が「答えは自分が持っている」と思い込んでいるのに対して、内なる瞑想者は、今ここのリアリティには自分ではわかりようのない大いなる謎があることを知っており、真実の声に耳を傾け、ただひたすら観察し、謙虚に教えを乞うのです。ですので、自我のレベルでは、起こる出来事を感知したその刹那に良い悪いを評価し、即対応しようとしますが、そのような拙速を慎み、判断を保留して、今ここの現実をより深く正確に理解するように努めます。まさに、正見を志すのです。

 ですから、問題に対する対処の仕方も、自我のレベルとは次元が異なるより優れた方法をとれるようになります。自我は、表面的な出来事をもとに過去に成功した自分のやり方やプログラムの枠組みに出来事を押し込めて、安易な対応、時に対処的で独りよがりで小手先な恐れのある対応を取るのに対して、内なる瞑想者は、表面には現れていない潜在的なニーズや要因を正確に理解することによって、より本質的で的を得た関わる全ての人が満足できるような問題解決策を取ります。

 例えていうなら、自我は、球筋をいち早くわかった気になって思い込み、球をよく見ないでやみくもにバットを振るので、決して打率は高くないのに対して、内なる瞑想者は、決して早とちりしません。じっくり球筋を見て、最善最高のタイミングでバットを振って、高い打率を実現するのです。

 こうして、内なる瞑想者は、眠れるSelfを目覚めさせて、本当の自分らしさ、真の自分自身によるセルフリーダーシップを促すと同時に、問題解決能力を高め、生活や人生そのもののクオリティを高めていくことにつながるのです。

<「内なる瞑想者を育む」シリーズ関連>

①自分らしく健康で幸せな生き方とは

②内なる瞑想者

③自我と瞑想者の違い

④内なる瞑想者の役割

⑤内なる瞑想者の育み方

自分の中の瞑想者を育む ③自我と内なる瞑想者の違い

自我と瞑想者の違いをまとめると、以下の通りとなります。

自我 内なる瞑想者
考える 感じる
レッテルを張って言葉や概念で素早く認識する 判断を保留し、より深く理解しようとする
対象として距離を置く 一緒にいる、共にいるようにする
比較し評価する 共感し味わう
変えようとする そのままにしておく
コントロールする 見守る、体験する
欠点を罰する ありのままを許す
自分を良く見せようとする 背伸びしない。欠点を含む全体としての自分、ありのままを愛する
他者の攻撃から自分を守り、自己の存続と勝利を目指す 他者や環境に対しても、自分にするのと同様にありのままに共感し、愛する
分離と戦い、試練の生き方 調和と愛に基づく自分らしく健康で幸せな生き方

 自我の働きは、基本的には対人関係や社会の中で育まれる自分の立場を守り、強化しようとすることであり、自分の外面が他者にどう映るのかを気にするのであって、自分の内面は、問題が起こらない限り関心ありません。自分の内面は、人間関係や社会的な関係の中で差しさわりが無いように、または、より都合が良いように矯正する対象となります。

 それに対して、内なる瞑想者は、自分の内面に集中します。内面で体験している身体感覚や感情、思考の動きをありのままに観察し、一切の操作やコントロールを排除して、それらと共に在り、温かく見守るのです。

  自我は、自分の内面に問題があることによって人間関係や社会的立場への悪影響が出た時には、まずは、その問題の根源を特定し、言葉で名付けて距離を置き、罰したりほめたり、排除しようとしたり、努力して力をつけたり、などの操作をすることによってコントロールしようとします。それは、社会的人間としての成長につながるものであり、決して悪いことではありませんが、内面を外面のための道具としてみなし、尊重することを忘れ、ないがしろにしてしまうと、自分の体や心に対する無理解や無関心、無理難題を強いることによるストレスの蓄積など、トラブルの元となる危険性があります。

 内なる瞑想者は、そうした副人格としての自我との同一化にくさびを打ち込み、静かで精妙なスペースをつくります。エゴのもたらすリスクを低減させて、自分の心身を癒し、健康と元気の回復をもたらします。

 瞑想者は、自分の内面で起こるあらゆることを問題とは思いません。それは、自然に起こる生き生きとした多様な生命のみずみずしい現象であって、汲みつくせない力と魅力と奇跡に満ち溢れた謎、ミステリーだと認識するのです。ですから、自分の内面は、対外面の都合によってちっぽけなエゴが操作コントロールできるようなものではなく、とてつもなく大きく深い自然と言う存在の一部であり、未だに分からない謎の多い、だからこそ謙虚に耳を傾けるべき、教えを乞うべき尊い存在だと考えているのです。

 瞑想者は、今ここで起こっている自分の内面のすべてに抵抗せずにそのままで許し、受け入れ、ひたすら観察し、より深く理解しようと試みます。レッテルを張って距離を置いて対象をコントロールしようとするエゴの衝動を保留し、感覚と共に在り、共感しとともに痛みや悲しみ、時に喜びなどの多様な体験をありのままにに味わい、逃げずに丁寧に変えようとせずに見つめていきます。

 瞑想者の視点は、自分の内面に対する無条件の愛の視点であり、最初は小さく弱い拠点であっても、騒がしい内面の不安と警戒の嵐に埋没することなく、粘り強く長期にわたって瞑想者の視点を確保することによって、その力はどんどん強くなっていきます。

 自分の中で常に流れている不平不満、不機嫌のノイズを鎮め、痛みを癒し、自己嫌悪や自己否定の頑固で暗い視点にやさしく光を当てて温め、自然に凍り付いた心を解かすと同時に、自分の内面の生き生きとした自然、神秘に対する畏怖と尊敬、感謝と愛を育んでいくことになります。

 まさに、自尊心の回復のプロセスであり、内なる瞑想者は、副人格に過ぎないエゴによる自己支配の次元から真の自己であるSelfによるセルフリーダーシップの次元へと変容を促していきます。

 エゴによる分離と戦いと試練の生き方から、Selfによる真の自分らしさの回復、愛と勇気と信頼の回復、健康で幸せな生き方へのシフトを促すことができるのです。

<「内なる瞑想者を育む」シリーズ関連>

①自分らしく健康で幸せな生き方とは

②内なる瞑想者

③自我と瞑想者の違い

④内なる瞑想者の役割

⑤内なる瞑想者の育み方

自分の中の瞑想者を育む ②内なる瞑想者

 では、本来の自分であるSelfに戻るために、自分の中の過剰な副人格の興奮を鎮め、Selfを中心とした内なる調和をもたらすためには、どのようなことが必要なのでしょうか。

 きっと、優れた方法は、たくさんあるのでしょうが、私は、その中の一つとして、「内なる瞑想者を育む」ということに挑戦しています。おかげさまで、その努力によって、生きづらさがやわらぎ、リラックスと集中が進み、より自分らしく楽しく生きられるようになってきたように感じております。

 本シリーズでは、この「内なる瞑想者」とはどのような存在であり、どのようにすれば育むことができるのかについて、私の体験も含めてお話ししたいと思っております。あくまでも私的な体験であり、考えであって、決して一般的な理論ではありませんが、何かの参考にしていただければ幸いです。

 さて、ここでの「内なる瞑想者」とは、Selfにつながるための副人格であり、Selfを意識的に自覚しようとするための私の中の新たな視点を意味します。

 内なる瞑想者の視点は、普段自分が自分だと思っている管理者としての副人格(自我)とは違っています。

 自我は、他者とのかかわりや社会生活の中で自分を守り、表現していこうとする視点、より自分の立場を強くよくするために自他をコントローしようとする視点ですが、瞑想者は、一切の操作やコントロールを放棄して、ただひたすらに観察し、受け止める視点です。

 その違いを詳しく探求すると、以下の事柄が言えると思います。

<「内なる瞑想者を育む」シリーズ関連>

①自分らしく健康で幸せな生き方とは

②内なる瞑想者

③自我と瞑想者の違い

④内なる瞑想者の役割

⑤内なる瞑想者の育み方

自分の中の瞑想者を育む ①自分らしく健康で幸せな生き方とは

 「ひとの人格は一つではない」

 こういわれると、どうお感じになりますか?そんなことはない、私は私だよ、なんと奇妙なことを言い出すのだろうかと思われるかもしれませんが、実はこの見識は、現代心理学の共通認識、一般的な知見となっています。

 現代心理学では、大脳生理学の発達にともなって、人は、実はたくさんの副人格ともいえる、独立、または半独立の反応の主体が存在していることが分かっており、私とは、一つの人格によって成り立っているのではなく、たくさんの副人格が寄り集まった総体であると考えられているのです。

 現代心理学を代表する理論の一つである内的家族システム(リチャード・C・シュワルツ)の考え方によると、普段私が私だと認識している私は、実は、私にとっての管理者、他者に対するスポークスマン的な働きを持った“私を代表する副人格であり、実は、私そのものではないと考えられています。

 内的家族システムの考え方によると、わたしそのものはSelfと呼ばれる主体であり、私の中心的存在で、副人格の癒やし手であり導き手であると考えられています。

 心身ともに健康でありSelfが本領を発揮できている場合は、本来の自分らしい生き方、あり方ができるわけですが、ストレス下にある場合は、Selfが、騒がしい副人格の働きの背後に隠れてしまい、本来の自分らしさ、能力や魅力が隠れてしまいます。ですから、本来の自分の生き生きとした健康な生き方をするためには、Selfと副人格の関係性を整え、内なる調和をもたらす必要があると考えられているのです。

<「内なる瞑想者を育む」シリーズ関連>

①自分らしく健康で幸せな生き方とは

②内なる瞑想者

③自我と瞑想者の違い

④内なる瞑想者の役割

⑤内なる瞑想者の育み方

営業開始しました(2024)

 本日より、新年の営業を開始いたします。

 新年早々、能登半島の大地震が起こり、あけましておめでとうございますとは言えない悲しい状況となっております。被害が大きかった輪島は私が授業を担当している大学と縁の深いお寺があるところであり、また、私のお客様にも、新潟や北陸に工場や社屋をお持ちの方もいらっしゃるので、他人事ではない心境でおります。

 被災された方々には、心からお悔やみ申し上げると同時に、いち早く救助が進み、被害が広がらないことをお祈り申し上げます。

 2024年は、辰年。辰年は時代を動かす変革や転機が起こる激動の年と呼ばれています。

 年初早々に波乱の幕開けとなりましたが、より大きな変革に向けての前兆であるようにも感じます。

 ウクライナ戦争とガザ地区でのイスラエルとハマスを巡る戦争の激化、G7の凋落とBricsの台頭、アラブ首長国連邦(UAE)とサウジアラビア、イランが正式にBricsに加盟したことによる脱ドル化の動き、それに伴って予想されるドルの価値の暴落、性的幼児人身売買にかかわっていたエプスタインが所有した児童性愛の島と呼ばれていた通称エプスタイン島に訪問した全名簿が公開されたこと、それに伴って幼児性愛犯罪にかかわった可能性のある、その多くがセレブであり権力者である人達の名前が明らかになったこと、それに伴って従来の権力のおぞましい所業や腐敗ぶりが非難されるようになってきたこと、など、新年早々、能登半島地震以外にも、とても大きな出来事が頻発しています。

 明治維新の時は、まさに革命であり、今まで当たり前だと思っていたことのすべてが変わりました。それも黒船来航から明治政府の設立まで15年と言うとても短い時間で大革命が起こりました。きっと革命とはそういうものなのかもしれません。

 今年も、明治維新の時のように、いままでは常識と考えられていたことのすべてが変わるような変革が起こる雰囲気が濃厚のように感じます。古くて腐敗した権力や構造が倒れ、新しい可能性が立ち上がってくることは歓迎ですが、革命には血がつきものでもあり、短時間で激しい変化が起こることに伴う暴力や破壊が心配です。

 どうか、これ以上の痛みや悲しみを体験することなく、世界がより平和で幸せなありかたに変わっていきますように。

 それから、私どもの仕事ももちろん頑張ります!辰年の勢いにあやかって、今年も良い仕事をたくさんいただいて、人の本当に幸せな生き方の応援をしていきたいと心から願っております。気概だけは、私どもの元気と勇気と信頼の回復をテーマとした仕事で、世界平和に貢献したいと願っております。

 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます!