先日、弊社の家族のコミュニケーション講座「伝説の車を復元せよ」が、テレビで放映されました。その模様が、youtubeでアップされています。
どうぞご覧下さい。
写真の放映にご協力いただいた皆さん、撮影に参加してくれたFさん、出演の山口さん、きのせさん、応援してくれたあらゆる皆さん、本当にありがとうございました。
おかげさまで、良い映像ができたと思います。
多くの場で、このプログラムが活用されて、多くの子供たちに元気と勇気と信頼を届けられますように!
先日、弊社の家族のコミュニケーション講座「伝説の車を復元せよ」が、テレビで放映されました。その模様が、youtubeでアップされています。
どうぞご覧下さい。
写真の放映にご協力いただいた皆さん、撮影に参加してくれたFさん、出演の山口さん、きのせさん、応援してくれたあらゆる皆さん、本当にありがとうございました。
おかげさまで、良い映像ができたと思います。
多くの場で、このプログラムが活用されて、多くの子供たちに元気と勇気と信頼を届けられますように!
日本の若者が、単身、韓国や中国に行って、フリーハグに挑戦。
勇気ある挑戦、私は、とても感動しました。この青年に感謝です。
労働組合のコミュニケーション研修を担当してまいりました。概要は以下の通りです。
【労働組合コミュニケーション研修】
<テーマ> 「コミュニケーションとチームビルディング」
<ねらい>
1.コミュニケーションの基盤となる自尊心の重要性を学ぶ。
2.コミュニケーションの重要性を学ぶ。
3.コミュニケーションの改善ポイントを学ぶ。
<内容>
1.自尊心の重要性
・古から伝えられてきた自尊心の重要性
・現代においても重要なテーマである自尊心
・自尊心を巡る誤解
・自尊心の日本における現状
・欠点を責めるのではなく長所を伸ばそう
・できないという呪いにとらわれてはいけない
・人の可能性は想像をはるかに超えて大きい、自尊心をもって堂々と生きよう。
2.コミュニケーションの重要性
・コミュニケーションは、信頼関係をはぐくむ。
・信頼関係は、チームの偉大な力と可能性を引き出す。
3.コミュニケーションの改善ポイント
・機関車型のチームと新幹線型のチーム
・新幹線型のチームとなるために必要なコミュニケーション
・コミュニケーションスキルは、技術ではなく生き方
・自尊心、勇気、あきらめない心
会場は、都内。約70名のメンバーのみなさんで実施いたしました。
本研修は、不思議なご縁をもとに開催に至った研修です。
実は、私は、30年くらい前に、とある研修プログラムの講師養成のビデオに出演しているのですが、今回の研修の主催のリーダーである執行委員長が、そのビデオをご覧になられて、しっかりと覚えていてくださっていたのです。そんなご縁もあり、いろんな話し合いのプロセスを経てまとまった企画でした。
執行委員長は、哲学の通った人間性を大切にするリーダーです。小賢しいテクニックを嫌い、正直で飾らないコミュニケーション、思いやりや人間性を大切にしたポリシーを大切にされていることが、よくわかります。
リーダーとして、コミュニケーションや人間性を大切にするスタンスを取ることは、そんなに簡単なことではありません。どちらかと言えば、冷たく、頭がよく、アメとムチで厳格に部下たちをコントロールできる人の方が、高い評価を受ける時代です。人間性を前面に押し出したからと言って、それに応えてくれる保証なんかありません。忍耐強く、人の情熱に本当の火がつくことを待たなければなりません。その間、効率一辺倒の現代の風潮のプレッシャーや攻撃にさらされることもあるでしょう。そんなリスクに立ち向かってでも、自分の信じる大切なもの、思いやりや信頼と言った哲学を揺るがせずに貫く必要があるのですから。
委員長は、まさに、そんな人間性のリーダーです。だからこそ、弊社のようなコンセプトに共感して、大切な研修の場を担当させていただけるのです。大変光栄なことだと感謝しております。
それから、この研修のご縁を取り持ってくれた友人のTさん。なんと、私と誕生日が同じなのです。同じ年の生まれと言うだけではなく、月も日も同じなのです!私も長く人生生きておりますが、そこまで誕生日が一致する人と出会ったのは初めて。顔も体つきも性格も何もかも全然違う2人ですが、なぜか何となく共通するものを感じるのは、運命なのでしょうか?本当に不思議なご縁の巡り会わせに感謝です。
さて、研修ですが、午後1時半から5時までと言う短い時間でしたが、組合リーダーのみなさんのものすごいパワーと個性と明るさで、本当に楽しく、エネルギッシュで、暖かい雰囲気の、知的で元気な場となりました。
70名の参加者は、男性であり、全国の組織のリーダーのみなさんです。要するに、親分ばかりであり、研修開始当初は、親分たちの男っぽさと迫力でむんむんしており、気の小さい私は、少々圧倒されて、いったいどうなることかと少々心配しておりました。
しかし、いったん対話が起こり、仲間として活動が始まると、快くメンバーを受け入れ、陽気に課題に立ち向かい、見事に問題を解決してくれました。
今回のプログラムは、そうそうたるメンバーが集まるとのことだったので、弊社として、最も難易度の高い実習を用意しており、今回のように即席のチームで事に当たった場合、クリアーできる可能性は、ほとんど少なく、成功することはミラクルに近いものがあったのですが、実際の結果は、ほぼ全チームが成功であり、まさにミラクルが起こりました。
体験学習の場合は、実習がうまくできようができまいが、それは大した問題ではなく、成功であれ失敗であれ、体験から学ぶことが大切で、できたできないはとやかく言うべきではないのですが、今回のメンバーの皆さんの見事な結果には、本当にびっくりしました。
問題解決型の実習であり、それを解決するためには、きちんと話すこと、しっかりと聴くことと言った基本はもちろん、アイデアを生かす、問題解決のための工夫をする、戦略的な見地に立つ、へこたれない、あきらめない、挑戦する、などの高度なスキルが必要であり、今回のメンバーのみなさんは、そうした素晴らしいスキルを兼ね備えた方々なんだということがよくわかります。
結果的には、明るく陽気で力のある、個性的でクールで情熱的で、厳く顔に似合わず優しく温かい、楽しく一致団結したよきチームだなぁと実感した次第です。
こうした、素敵な場を共にできましたこと、本当に光栄に思っております。ご協力いただいたスタッフのみなさん、共に学んだメンバーのみなさん、本当にありがとうございました。今後とも、ともに頑張ろうではありませんか!
自尊心という言葉を巡って、とても多くの誤解があるように思えます。
さまざまな勘違いや思い込みによって、「自尊心」や「気高く生きる」、「矜持」といった、本来美徳とされるべき価値が傷つけられているように思えます。
「自尊心」と「傲慢さや自惚れ」は違います。
自尊心は、自分を信じ、愛して、自分らしく輝いて生きるということ。傲慢さや自惚れは、自分の本質を信じられないがゆえに、自分を嫌い、うそやはったりでごまかして生きるということ。両者は、まったく異なった意味を持っているにもかかわらず、日本においては、たいていの場合、同じものと信じ込まれており、自尊心の重要な価値にあやをつけられているように思えます。
そうした誤解によって、日本では、「自分を大切にすること」「自分の人生を祝福すること」「自分の大きな可能性を信じること」、そんな当たり前のことができなくなってしまっているのではないでしょうか。自分を愛することが、あたかもタブーであるかのように感じ、自分を大切にすることは罪であるという呪縛にかかって不自由な人生を強いられている人たちが多いのではないでしょうか。
自尊心は、努力をして育むような能力ではありません。自然に生得的に与えられている基盤であって、誰もが根底に持っている美徳です。自尊心がないように感じるのは、生まれつきそれが少ないからではなく、ネガティブな思い込みや有害な信念が阻害しているからです。太陽がないのではなく、厚い雲が光を遮っているから暗く感じるのです。
ここでは、そうした、多くの誤解に光を当てていきたいと思います。
1.「自分を愛する」ことと「自己愛」は違う
自己愛性パーソナリティ障害と言う専門用語もあり、自分を愛することは、いけないことなんだという信念を持っている人も多いと思いますが、それは、誤解です。
自己愛性パーソナリティ障害とは、ありのままの自分を愛することができない病です。長所もあれば欠点もあり、おっちょこちょいでカッコ悪いところも有り、人より劣っているところもある、そんな等身大の自分自身に満足できずに、一切の欠点と劣等性を否定し、自分にはそんなものはないと思い込み、優れて特別で力ある無敵の自分という幻想を信じ執着する病であって、決して自己信頼からくるものではありません。
ナルシスが愛したものは、きらきらする水面に映った外面であって、ありのままの全体ではありません。手を差し伸べれば消えてしまう影であって、実体ではありません。
自己愛が愛しているのは幻想であって現実ではないのです。
一方で、自分を愛するということは、ありのままの自分を愛するということ、等身大の人間としての自分を受け入れるということ、発展途上の自分を信じるということです。
ありのままの自分を愛しているので、欠点がばれないように強がる必要もなければ、自分の本当の姿を(醜いと思っていないので)隠してうそをつく必要もありません。
自分を愛することができる人は、無理して背伸びする必要もなければ、人に良く見てもらおうと意気込んで肩に力が入ることもありません。
明るく正直でオープンであり、そこには暗さや病が付け入るすきはありません。
「自分を愛する」ということには、まったく病理や陰はありません。むしろ、自分らしく力強く生きていくうえでの重要な基盤の一つ、美徳の一つとなると言えましょう。
2.「こだわり」と「頑固さ」は違う
こだわりと頑固さは、違います。
頑固さは、何につけ、背景の動機には恐怖があります。頑固な人は、本音でそうしたいというよりは、そうしないと怖いからそれに執着するのです。
「そうしないと欠乏が満たされない」「そうしないと自分を保てない」「そうしないと苦痛に耐えられない」・・・、焼けつくような渇望や危機意識があるので、良きにつけ悪しきにつけ、たいていの場合その欲求に逆らうことはできません。他人に迷惑がかかろうが、どんなに説得されようが、明らかな問題があろうが、そうせざるを得ないのです。
一方で、こだわりは、そうしないと怖いからするのではなく、シンプルにそうしたいからするのです。自分が愛し、挑戦したいと願っていることだからこそ、情熱的に集中力をもってそれにこだわるのです。
自分のハートの奥から湧き起ってくる情熱であり、たいていの場合、その欲求は気高く、美しく、真理をついており、他人に賛同はされるものではないかもしれませんが、他人を傷つけるものであることは、滅多にありません。
こだわりの人は、決してぶれません。得だからと言ってすべきでないことに手を出すこともなければ、損だからと言ってすべきことから逃げたりはしません。
こだわりの人は、決してあきらめません。自分の魂からの欲求であり、使命感があるので、例え艱難辛苦が立ちはだかっても、簡単にあきらめるわけにはいかないのです。
頑固であってはいけませんが、こだわりを持つべきです。そもそも、自分が大好きで、心から愛するものを、そんなに簡単にあきらめてはいけません。それが正しい道であれば、必ず道は開けてくる。チャンスとピンチは準備が整った人にやってくるもの。だからどんなに高い壁でも、乗り越えられない壁などないのですから。
3.「謙虚さ」と「自虐」は違う
謙虚さは、自分が尊く大切だからこそ、相手も尊び、敬う心を言います。
自虐は、一見腰を低くする謙譲さと勘違いされることがありますが、それは卑屈さであって、決して謙虚さではありません。
それは、自分を嫌うこと、自分を卑下することであって、決して自分を尊いとは思っていないからです。
人は、自分にするように人にするものです。自分を尊いとは思えない人は、本当のところ他人を尊いとは思えません。そのふりはできますが、本音では、そうは決して思えないのです。
心理実験で、人の不幸を喜ぶ人にはどんな特徴があるのかを調べた実験がありまが、その結果わかったことは、人の不幸を快感に感じる人は、一様に自尊心が低かったということがわかりました。
自尊感情が高い人たちは、人が苦しみ悲しんでいる姿を痛みと感じ、共感的、同情的でしたが、自尊心が低い人たちは、それを見て、喜んだのです。
自虐や自己卑下は、決して美徳ではありません。むしろ、慎むべき性向であって、その傾向が強まれば強まるほど、依存症、自傷行為、いじめ、虐待、ストーキング、など様々な問題や犯罪につながっていくでしょう。
4.「自分にまける」のは「弱い」からではない
自分に負けるのは、弱いからではありません。
自分に負けるのは、自分と戦うからです。
自分の一部を嫌悪し、矯正する戦いを挑み、勝とうとするから負けるのです。
戦いの当初は、作戦や対策を練り、一生懸命に頑張って、いくつかの勝利を得られるかもしれませんが、永遠に勝ち続けることなんかできません。戦いを続ける限り、いつかは敗北の憂き目を見るでしょう。
「完璧な自分」になれないことが問題なのではなく、「完璧な自分」になろうとすることが問題なのです。
「非の打ちどころがない自分」「無敵な自分」「一切の欠点がない自分」・・・
それは、たいていの場合、無理難題であって、強引であって、優しくありません。
それは、たいていの場合、頭ごなしであって、専制的であって、民主的ではありません。
そんな不自然な目標や理想を信じ込んで、本気でそうあろうと取り組んでも、ハートと体は、その欺瞞に気づいており、永遠に従い続けてはくれません。ハートや体は、正直であり、思考の狂気につきあうつもりなんか無いのです。
失敗は、成功へのステップであって、排除すべき無駄ではありません。
ネガティブな思考は、思いついて当たり前であり、退治すべき敵ではありません。
ネガティブな感情は、人として当たり前の感情であり、けがらわしい罪ではありません。
誘惑に負けるのは、誘惑に勝てない弱い人だからなのではなく、それに勝ち続けようという無謀な戦いに疲れ、絶望し、やけくそになったからであって、むしろ自暴自棄の絶望にはまり込んでしまうほどの強い意志で自己否定の努力を続けた強い人こそが、最も誘惑に負けやすい人なのです。
内面に、強い分離感と葛藤と痛みを抱える限り、決して誘惑には勝てません、誘惑に勝てるのは、我慢強いからではなく、誘惑に魅力を感じない時、その必要を感じない時です。
十分に満足を感じているとき、十分に幸せを感じているとき、内面が平和である時、愛し愛されているときこそ、誘惑の甘い罠を撃退できるのです
自分を不自然な物差しで裁き、窮屈な型枠に押し込めようとするのではなく、ありのままの自分を受け入れ、大切にするべきです。
自分を大切にすることは、自分に甘いことではありません。自分自身のリーダーとして、自分の内面に責任を持つこと、むしろ、時には自分に厳しくあることこそ自分を大切にすることなんだろうといえましょう。
よきリーダーに必要なことは、フォロアーを受け入れ、理解し、愛すること。自分の人生のリーダーとして自分らしく輝いて生きるために必要なことは、まさに、自分をいつくしみ、大切にすることなのです。
5.「自分を信じる」ための条件なんかいらない
「○○をやり遂げたから自分を信じられる」「○○ができるから自分を信じられる」「○○ができれば自分を信じられる」など、自分を信じるために条件が必要であるかのうような思い込みがありますが、それは誤解です。
信じられる自分になる必要なんかありません。すでに十分に信頼に値する自分なのですから。信頼に値しないのは、自分自身なのではなく、自分を裁くものさしです。
人を裁く評価基準にいったい何の権威があるのでしょうか?
いったい何の権威があって、良いだの悪いだのと評価を下せるのでしょうか?
評価基準に従ったならば、本当によき人生を歩めるのでしょうか?
たいていの場合、人を測る物差しは、個人のニーズではなく、社会のニーズ、権力者のニーズであり、人が人らしく力強く生きることを目的としたルールと言うよりは、人を支配、コントロールするためのテクノロジーです。
そんなものに個人の人生を支配されてはいけません。人は、他の権威に従うのではなく、自分のこころざしに従うべきなのです。自分を愛するために、自分を変える必要なんかありません。自分を信じるための条件なんかありません。そのままで十分に尊く、かけがえのない大切な存在なのです。
「あなたは、この世に望まれてきた大切な人。
あなたがなんであり、どこの国の人であろうと、
金持ちの人であろうと、貧乏であろうと、それは問題ありません。
あなたは、同じ神様がおつくりになった、同じ神様のこどもです。」 マザーテレサ
マザーテレサの言葉通り、人の存在は、尊くかけがえのないものだといえましょう。
そんな存在を大切にすることの、どこがいけないのでしょうか?
私たちは、難しいことを考える前に、まずは肩の力を抜いて、自分自身を信じ、大切にするべきなのではないでしょうか。
冷たく攻撃的な皮肉屋たちの言葉に惑わされてはいけません。毒のある信念をうのみにして勘違いの人生を生きるべきではありません。
堂々と自分を大切にし、愛し、信じ、力強く生きようではありませんか。
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今日は、奥さんの第○○回目の誕生日です。
結婚したのが、奥さんが20歳の時なので、一緒になってから、早くも○○年(危なく書くところでした)です。本当に早いものです。
共に暮らし始めてから、いろんなことがありまして、いろんな苦労をかけたりかけられたり、けんかをしたり仲良くなったり、
ほんといろいろありましたが、今は、私にとっては、かけがえのない最高のパートナーです。
最近は、特に業績が不安定だったり、出費が多かったりなど、経営のかじ取りが大変だったと思います。そんな中、明るく元気に、文句の一つも言わずに楽しそうに仕事をし、生きている姿に勇気づけられています。
とても感謝です!
今日は、ささやかな誕生日のお祝いをしようと思います。
はっぴバースデー!
現在、大学のプレゼンテーション・ディスカッションスキルの授業を担当していますが、半期の授業であり、次回で7回目と、早くも折り返し地点となっています。
今期も、すばらしい学生たちに恵まれて、充実した穏やかで集中度の高いパワフルな学びの場となっています。
授業には、4年生も受講してくれており、内定報告ももらっています。上場企業で、トップ当選したと大いに自慢して報告してくれました。私も、とても誇らしい気持ちです。
担当している学生たちは、本当に優しくて気のいい、しかも真剣で力のある素晴らしい子たちばかり。本当に幸せな人生を歩んでほしいと思いますね。残り半分の授業も、できる限りの応援をしていきたいと思います。
関西のJcomの番組で、もらえるドットテレビという番組に出演することになり、その収録のために、京都の福知山に行ってまいりました。
スタジオは、京都とは言え、京都駅から特急で1時間半くらいかかる福知山です。写真は、京都駅の写真です。今回の収録は、思い出にもなるので、たくさん写真を撮ろうと意気込んでいったのですが、緊張して舞い上がっており、ほとんど何も取れませんでした!
弊社より5月5日に発表した「家族のコミュニケーション講座『伝説の車を復元せよ』」に関する収録です。
なんと、番組の中の「ヒットの女神」というコーナーで、本商品を紹介していただく形になります。ヒットの女神とはなんと光栄な名前でしょうか!放送は、6月4日18:30~19:00の間で、放送時間は、5分程度だそうです。
5分の番組ですが、収録は、2時間にわたりしっかりと収録ということになりました。単にトークと写真だけの紹介ではなく、出演者一同が実際にグループワーク実習を実施して、伝説の車を作り上げるまでのプロセスも収録したのです。
本番組の司会であるヤマグチ県さん、きのせひかるさん、プロダクションのご担当の方、そして、私の友人のFさんがチームメンバーとなってワークを展開することになりました。
Fさん、お忙しい中ありがとうございました。演技もさることながら、その存在自体が心強かったです。タレントのヤマグチさんやきのせさんも、快くワークに参加してくださり、本気で、実習と関わってくださいました。魅力的で素敵な方々であり、実習のダイナミズムをみごとに表現してくださいました。心から感謝申し上げます。また、私どもの担当としていろんな面倒を見てくださっただけではなく、ワークへの参加という無茶振りにも快く協力してくださったMさん、本当にありがとうございました。おかげさまで、私どもにとって、意義深い貴重な体験ができました。
何しろグループワークですので、台本はありません。盛り上がるシーンだけを作り上げるということができませんので、最初から最後まで実際にぶっつけ本番でやってみて、その中のリアルなシーンを番組に使おうという無謀な収録スタイルを提案させていただき、先方のプロダクションが、快諾してくださって実現した収録です。
まさに、ドキュメンタリーです。
私も、予想もしていなかったさまざまな事柄が、しかも、楽しいことばかりではない出来事が結構起こってきて、どぎまぎしながら成り行きを見守っておりました。
こうした収録はよくあることなんでしょうか、現地の番組制作のスタッフのみなさんが、頼もしく、見事に段取りを整えて、収録してくれました。さすがプロの仕事ぶりです。私も研修企画で、時間を構造化していくことの経験は積んできているつもりでも、今回の展開ばかりは事前には想像できなかったことが多く、あせったり喜んだりあわてたりなど、そりゃもう大変でした。
商品紹介の場面は、司会のお二方と、私と会社の取締役でもある私の奥さんの4人でメイントークを展開しました。撮影までは、何かと不安がる奥さんに説教し、叱咤激励していた私ですが、いざ本番になると、一番トチッてだらしなかったのが私で、奥さんは、みごとにしっかりと肝心なトークをしてくれました。やるときはやるんですね!さすがはわが社のキャプテンです。当初は番組に出ること自体を嫌がっていた奥さんですが、出てくれて、本当に心強く、ありがたかったです。
撮影当初に、「照明ってこんなに暑いんだ!」と感じてから、実にあっという間の2時間でした。
100点満点とはいかないまでも、何とか無事に収録を修了することができました。
きっと、番組は、迫力のある温かい雰囲気のよい作品となって仕上がることと思います。
放送は、6月4日です、こうご期待!
急なご縁でテレビに出演することになりました。最近発表した「家族のコミュニケーション講座『伝説の車を復元せよ』」に関するテレビ出演です。
番組は、「もらえるドットテレビ」という番組で、関西のjcomの番組だそうです。関西のケーブルテレビですので、放映は、関西に限られていますが、弊社としては、大変光栄なことと思っております。
収録は、5月15日、放映は6月4日18:30~19:00です。私どもの放映は、30分の中の5分枠だそうです。
今、その収録に向けて、いろんな準備でてんやわんやの状況です。
収録後、また、当ブログでいろいろご報告できることもあるかと思います。
では、頑張っていってきます!
5月5日に、家族のコミュニケーション講座『伝説の車を復元せよ』~夏休みの宿題 工作キット~を発表しました。
本プログラムは、家族のためのコミュニケーション講座であり、家族みんなで、楽しみながらコミュニケーションを学ぶことをねらいとしています。
プログラムは、古代遺跡から出土した”アトランティックカー”とよばれる伝説の車を、一定のルールのもとに家族で協力し合って作り上げていきます。
アトランティックカーとは、風の力で、吹き付ける風に向かって走る車であり、小学校高学年の夏休みの宿題や、学習課題の発表などには、ぴったりです。
弊社が従来より出版している企業研修プログラム『アトランティックプロジェクト』を家庭向けに応用したプログラムです。弊社としても、家庭向けの市場は、まったくの初めてであり、未知の市場に向けての冒険となります。
商品自体は、間違いなく素晴らしいものです。
願わくば、この商品が、たくさんの家庭で愛され、貢献できることを願っております!
「自灯明、法灯明」
お釈迦様が入滅される直前に弟子たちに伝えられた教えと言われています。
「他を頼るのではなく、自らを頼りとしなさい。自然(真理)の法を頼りとしなさい。」という意味だと私は解釈しています。
自尊心を回復するための方法を考える際に、真っ先に指針とすべき言葉なんだろうと私は思っています。自分を大切だと思うために他を当てにすべきではないと考えているからです。
もし、自分自身を大切だと思うために、他人の称賛が必要だとしたら、その人は、他人の称賛に依存して生きなければいけません。他人の称賛だけではなく、優しさや愛情にしても同じです。
また、豊かな資産があるからこそ自分の尊さを実感できるという人は、自分の価値を認識するために豊かな資産に依存することになります。資産だけではなく、地位や名誉、権威やお金にしても同じです。
さらに、自分のアイデンティティを国家や宗教、理想的な人物に委ねるとしたならば、自分を信じて生きるのではなく、外部の権威を笠に着て生きることになり、依存的な生き方となってしまいます。
自分の価値を実感するために、他人の働きかけや他の権威、力に依存すると、それが得られているときには、比較的安定していられるでしょうが、減少し、欠乏感を感じ始めたら、自分自身が無価値であるように感じてしまい、大変な苦痛を体験することになってしまうでしょう。
自分を癒し、自尊心を回復するコントロールセンターは、自分自身の内面にあるべきです。
コントロールセンターが、自分自身にないとしたら、それは、外部にあるということであり、結果的に外部のパワーに自分自身が支配されることになってしまうでしょう。そのような生き方は、決して自尊心に裏付けされた自分らしい生き方とは言えません。
自分らしく力強く生きようとこころざした場合には、まずは、自分自身に依って立つという覚悟が必要です。自尊心を回復しようとこころざした場合には、まずは、一切の依存心を手放し、自分で何とかしようとする覚悟が必要なんだろうと思います。
これは、かつて体験した不条理、過酷な痛み、悲惨な体験においても同じなのだろうと思います。そのような心の傷があるからこそ自尊心を損なってしまい、回復できないという状況においても同じことが言えるのだろうと私は思います。
かつて自分に仇をなした他者に謝罪してもらう、自分を傷つけた奴に報復し痛い思いをさせる、愛されなかったことによって空いた心の空虚さを誰かの愛で埋める、・・・、
もし本当に意義のある自尊心の回復を図ろうとする場合は、過去のトラウマをいやすために他を頼ろうとするあらゆる企図を放棄する必要があるでしょう。
なぜならば、そのような試みは、まさに、他者依存の混迷を深めると同時に、例え実現できたとしても、本質的な心の痛みは癒えることはないからです。
たいていの場合、心の中には、痛みが先に存在しており、さまざまな出来事は、その痛みを顕在意識で体験していくためのトリガーにすぎないからです。
また、心の中にある痛みは、他者から植えつけられたのではなく、自らが受け入れたからこそ存在しているのであって、痛みが自分の内面に存在することの責任を他人に押し付けるのではなく、自分ですべてを引き受けなければなりません。
そして、自分の内面の傷を癒し、手放すことができる人は、自分だけであり、自らの意志と努力によって、自分の内面を健全化する必要があるのです。
逆に言えば、人には、自分自身を癒すための十分な力があるのだろうと思います。
仏教では、「人は、生まれながらにして仏である」とも言われています。
人の内面には、自らを浄化し、自由に生きるための十分な力が、生まれながらにして宿っているということなんだろうと私は思います。
自尊心を回復するために必要なことは、まず第一に、そうした、自分の内面にある力を拠り所とするのだという覚悟なのだろうと言えるでしょう。
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