ネガティブケイパビリテイ ⑤多層多面的理解

1.「パンジー」という一言でわかった気になる


「これは何ですか?」
即座に「パンジー」と答えることは、それほど難しくありません。
でも、ちょっと待ってください。
その写真には、
・黄色や青やオレンジやベージュのさまざまな花の色があります。
・まだつぼみもあれば、しおれかけた花もある。
・花にとまろうとしている蝶もいる。
・背後にはほかの花や生い茂る草。
・誰かが植えて、手入れしている様子、誰かの行き届いた仕事が見え隠れしています。
・太陽の光、土、水分、空、風の気配、温度、エネルギーの循環、…。
「パンジー」という一言で、すべてがわかった気になると、そこに存在するさまざまなリアリティを理解する可能性を閉ざしてしまうのです。
それよりも、もう少し丁寧に、もう少し意識的に、もう少しがまん強く…。 そうすることで、見える景色が変わってくる。
これが、ネガティブ・ケイパビリティの出発点です。 単純な答えに飛びつかず、問題に関わる多くの次元を広く深く理解しようとする力こそがネガティブ・ケイパビリティでもあるのです。

2.「わかった」と思った瞬間、「確信」が生まれる

2009年12月9日、ノルウェー北部の夜空に、渦巻きのような不思議な光が現れました。 映像が公開されるや、世界中がざわつきました。
「UFOか」「自然現象か」「秘密兵器?」…さまざまな憶測が飛び交ったのです。
翌12月10日、英国メディアが「ロシアのミサイル発射実験の失敗によるもの」と発表しました。 ロシア国防省は因果関係を否定しましたが、「権威あるマスコミの発表」によって、世論のざわつきは収まりました。
この出来事は、人間のある心理を鮮明に見せています。
人は、「どっちつかずですっきりしない」状態や「わからないままでいること」が不安で不快であり、「もやもやを早く解決したい」という衝動があります。
だからこそ、権威ある誰かが「答え」を示すと、それに飛びついて安心したがる。
しかし、それは「思考の眠り」でもあります。 権威の言うことを鵜呑みにして全部わかった気になることは、精神的な怠慢であり、真実からの逃避でもあります。
権威の語る言葉に安易に飛びつくことーーそれを、「精神的な安楽死」と呼ぶことができるかもしれません。

3.ネガティブ・ケイパビリティとは、探求する生き方の選択

パンジーの写真も、ノルウェーの光も、共通していることがあります。
単純な答えに飛びついた途端に、そこに存在する豊かなリアリティが見えなくなる。 そして、そこでもう少しだけ丁寧に、意識的に、がまん強くねばることで、世界のミステリーが少しずつ開示されてくる。
ネガティブ・ケイパビリティとは、心理テクニックではありません。
それは、探求し学ぼうとする態度、そして生き方の選択です。
「全部わかった」と思った瞬間、世界は閉じる。
逆に、「世界には、狭い了見ではわかりようのない謎が存在する」と考えると、
・見ようとする ・聴こうとする ・感じようとする ・学ぼうとする。
そういう姿勢が自然に生まれてきます。
ネガティブ・ケイパビリティとは、また別の言葉で言えば、「謙虚さ」と「探求」です。 世界のミステリーは、聞く耳を持った人にしか開示されないのです。

4.多層的・多面的に理解するとは、どういうことか

多層多面的理解とは、一つのラベルや一つの視点で結論づけず、時間・深さ・関係性・背景など、複数の層から世界を理解しようとする姿勢です。
ネガティブ・ケイパビリティが実践的に説いているのも、世界を「多層的・多面的」に捉える力です。

人や出来事を、単純な結論で切り分けるのではなく、その背後にある複数の層や文脈に、静かに耳を澄ませていく。
そのための主要な視点として、ここでは四つの軸を紹介したいと思います。

① 時間軸(過去・現在・未来)


目の前の「ごはん」を見てみます。
それは単なる「食事」ではありません。
・誰かが米を育て、誰かが収穫し、誰かが運んできて、誰かが炊いてくれた。
・土、水、太陽、季節の巡り、豊かな自然の恵みがある。
・将来、そのエネルギーは自分の体になり、家族の笑顔になり、生きる活力になる。
単にご飯を見るのではなく、そうしたレイヤーを理解すると、「いただきます」という言葉の意味が、変わってくるのではないでしょうか。

② 深さ軸(表層・中層・深層)


愚痴を言い、文句を言い、重い雰囲気を散らす人がいるとします。
表面だけを見れば、「ただのネガティブな人」です。
でも、専門家が静かに耳を傾けるように、かすかにあるものを蒸留するように問いかけると、その心の深みから、こんな声が聞こえてくるかもしれません。
・「どうせ私はダメ人間」ーー哀しみ
・「なんで私ばっかり」ーー不平感、疎外感
・「もっと良くなりたい」ーー成長への渇求
・「愛されたい、救われたい」ーー本来の自分を取り戻したいという魂の声
傾聴は、ダイビングと同じです。潜れば潜るほど見える景色が変わってくる。水面上では、荒い波風にさらされて不快な点ばかり目につきますが、潜れば潜るほど、より静かで穏やかで精妙な美しさが見えてくる。聞く耳を持った人には、ただの愚痴を言う人であっても、ただのネガティブな人ではなくなるのです。

③ 広さ軸(ここ―近くー遠く)
電車の中で騒ぐ子供に、叱らない親がいます。


表面だけを見れば、「無責任」「常識なし」と思いたくなるかもしれません。
でも、少し広い関係性や文脈で見てみると、
・その親は疲れきっているようだ。
・ワンオペの育児かもしれない。
・何か事情があるのかもしれない
ということが見えてきたりします。そして、この絵の真相は、
・病院に向かっている途中。
・病院で奥さんを亡くした。
と言う背景があったとしたら、もう、絵の見え方が変わります。
人は簡単に裁けないという意味がよくわかります。

④ 問題解決軸(ポジティブ・ケイパビリティとネガティブ・ケイパビリティ)
「絶対に痛くしないでください」そう訴える歯科患者さんがいたとします。

一つの対応は、
「麻酔をするので大丈夫ですよ」
と即座に安心させること。
これは「すぐに解決する力」です。

一方で、
「過去に、どんな体験があったのですか」
と丁寧に話を聴く対応もあります。

そこから、
・過去の強い痛み
・裏切られた感覚
・医療への不信感
が見えてくることがあります。
このイラストの事例では、その日は治療をせず、カウンセリングと共に治療計画を練ることで終了しました。その後、この患者さんは、数年間通い続け、包括的な治療をやりとげることができました。今では、医院のファンになって、多くの知り合いを紹介してくれるようになりました。

5.「いまここ」のリアリティは、無限のミステリー
今この瞬間にも、世界には膨大な情報が流れています。
・鳥の声。
・光の加減。
・空気の匂い。
・隣の人の表情。
・自分の中にふと浮かぶ不安や安心感…。
私たちは、そのほとんどに気づかずに生きています。
でも、本当は、日常の一瞬一瞬にも、まだ開示されていない豊かなリアリティが含まれている。
よく、日常は退屈だと言う人がいますが、退屈なのは日常なのではなく、
見慣れたと思い込んでいる自分の認識なのかもしれません。

「いまここで私は何を感じているんだろう?」
その問いに触れると、内側に静かな揺らぎが生まれる。
それは、まだ言葉にならない自分の深層が、そっと動き始める前触れのようなものです。

6.あなたは、だれですか?
最後に、一つの問いを残したいと思います。

「あなたは、だれですか?」

・仕事をする人。
・誰かの親。
・誰かの子。
・友人。
・社会の中の役割。
もちろん、それもあなたです。
でも、それだけではありません。

どんな人の中にも、時間軸があり、深さ軸があり、広さ軸がある。
あなたの中には、積み重ねてきた時間があり、言葉にならなかった悲しみがあり、まだ叶っていない願いがあり、誰にも見せていない弱さや希望があります。
人を多層的・多面的に理解するとは、自分自身に対しても、そういう眼差しを向けることなのかもしれません。
「あなたは、だれですか?」
その問いに、すぐ答えを出さなくてもいい。
問いを閉じず、
少しずつ見つめ続けること。
それこそが、ネガティブ・ケイパビリティの、最も深い実践なのかもしれません。

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