カテゴリー別アーカイブ: ⑤教育論

成長の2つの方向性

成長には、水平的成長と垂直的成長の2種類の方向性があると考えられています。

水平的成長とは、ヨコの成長であり、現在の自分に役に立つであろうさまざまな技術や知識を学び、体得していく方向性の成長です。コンピューターに役に立つアプリをダウンロードして使いやすい環境を整えていくことに例えられましょう。

一方で垂直的成長とは、タテの成長です。現在の自分の在り方そのものを高めていこうとする成長であり、より度量が大きく、理解が深く、複眼的な視点からより正確にものごとを認識することができるようになるという人格の成長、人間の器の成長、人間としての根本の部分の成長を言います。

PCに例えると、さながら、水平的な成長がアプリを増やすことだとしたら、垂直的な成長は、OSのバージョンアップだと言えましょう。根本的に今ではできなかったことができるようになる本質的な成長です。

・今までは、嫌いだと言って口もきこうとしなかった人を受け入れ対話できるようになる。

・今までは気にも留めなかった人の気持ちを配慮するようになる。

・今までは認識できなかったより精妙な雰囲気を感知できるようになる。

・今までは人の悪意にしか目が向かず、かたくなに閉ざしていた心が緩まり、人の善意や愛にも気づけるようになる。

・今まではできないと思い込んでやらなかったことを、できるかもしれないと考えを変えてやってみる。

・今までは全く聞く耳を持てなかった人の話に耳を傾けることができるようになる。

・今までは憎み憎悪していた相手を許し、そうした相手の立場や動機を理解できるようになる。

・自分だけではなく多くの他人の立場で物事を見て複眼的に理解することができるようになる。

・より現実をありのままに見れるようになるので、打つ手がタイムリーで適切となる。

こうした成長は、その人そのものを変えるわけではありませんが、その人を制限していた制約条件(思い込み、恐怖、懸念など)を解きほぐし、その人のもともと持っていた素晴らしい人間性、能力、可能性を引き出す可能性のある成長であり、直線的な成長と言うよりは革命的な成長と言えましょう。

現在、日本の多くの企業で成長が頭打ちになっているという論調が多く主張されています。以前は存在していた人のライフスタイルを変えてしまうような革新的な創造、発明、新商品の開発が今ではすっかり影を潜めてしまっていると言われています。こうした問題の背景には、この成長の問題が潜んでいるような気がします。

今の在り方を踏襲したままでは、もはや小さな改善やスケールの小さな改良が限界であり、目標や理想としているような変化をもたらすことはできないのです。

今までにはないような新鮮で魅力的な新商品を開発していくためには、今までにはないようなあり方が必要です。無理、不可能と言う呪いを解きほぐし、より高度な視点、深い理解、精妙さに対する気づき、複眼的な視野に立つ高くて深い意識から創造に立ち向かっていくという本質的な成長=垂直的成長が必要なのではないでしょうか。

私が感じる限り、相当前から日本は、垂直的成長を求められてきたにもかかわらず、対処法として水平的成長しかもたらさない教育のみに注力してきたような気がいたします。語学教育、技術教育、問題解決法教育、各種手法教育、法律知識教育、などなど、水平的な教育は、メニューも多く魅力的であり今すぐに役立ちそうなものばかりであり、投資効果を目に見える形で表したいと考えた場合は、こうした教育に注力してしまうのは無理もないと思います。

垂直的な教育は、理想的には必要とされているものの、そのような教育をしたからと言って、本当に人の潜在能力を引き出すことができるのか?、人の器は本当に成長できるのか?、人格の成長なんてあり得るのか?という懸念や不信は根強く、説明責任を果たしづらいものでもあるので、なかなか実践できていないのだろうと思うのです。

しかし、私は、そのような教育は可能だと思います。人は本質的に成長を志向する存在であり、機会に恵まれれば自らの力でより大きな存在へと変わることができる力を内在していると考えているのです。そして、そうした垂直的成長をもたらす方法の一つが「自尊心教育」にあると考えています。

「私とは何か」「私の存在価値とは何か」「私の使命とは」「今の私の限界とは何か」「私の課題とは」「人生を輝かしいものにするために必要なこととは」などの深く哲学的な問いに対して真剣に向き合う時、人はきっと本質的な成長がもたらされるのだろうと考えているのです。

2017年になって、世界経済、社会政治状況、自然災害、異常気象など、ますます世紀末的な様相を呈してきた観がありますが、そうした状況であるからこそ、真のリーダーシップや創造的な問題解決が必要になってくるだろうと思っております。

私どもヴィーナスアソシエイションは、そんな問題に対して、垂直的な成長にこだわり、自尊心と言う直球勝負で立ち向かっていきたいと思います。

願わくば、私どもの教育が、自分の可能性に目覚め、自分の真の魅力を引き出し、自分らしく力強く輝いて活躍する多くの人たちの後押し、勇気づけとなることができますように。

教育に関する名言

平凡な教師は言って聞かせる。
よい教師は説明する。
優秀な教師はやってみせる。
しかし最高の教師は子どもの心に火をつける。

ウィリアム・ウォード(教育学者)

人にものを教えることはできない。
みずから気づく手助けができるだけだ。

ガリレオ・ガリレイ

教育は科学であってはならない。
それは芸術でなければならないのだ。

ルドルフ・シュタイナー

教えることのできない子供というものはない。
あるのは子供達にうまく教えられない学校と教師だけである。

M.J.アドラー

日本の先生 自信が最低

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朝日新聞 2014年6月26日より

 

記事によると、日本の先生は、本アンケート参加の34ヶ国中、生徒指導の自信の度合いが最低だったとのことです。

非常に興味があったので、OECD国際教員指導環境調査(TALIS)のオリジナルデータを国立教育政策研究所のwebページで詳細を確認してみました。

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国立教育政策研究所 OECD国際教員指導環境調査(TALIS)のポイント

http://www.nier.go.jp/kenkyukikaku/talis/imgs/talis_points.pdf より抜粋

 

データによると、日本の教員の自己効力間に関する設問に対する回答が、世界平均と比較すると著しく低いことがわかります。

私の考えでは、良い仕事ができるかどうかの根源となる基盤が自己信頼であると考えており、その視点から見ると今の日本の教育の現場では、大変酷いことが起こっている心配があると、私は思います。

自己イメージが与える影響は、その人の仕事ぶりのみならず、キャリアや人生、寿命にまで影響を及ぼすといわれています。教員の自己イメージが健全で、高い自尊感情を持っている場合には、生徒たちに対して愛と情熱をもって関わり、質の高い教育に誇りをもって取り組んでいる、すばらしい教室運営をされている可能性が高くなりますが、もしも、教員の自己肯定感が低い場合には、うつ気質となっているので生徒に対する愛や教育への情熱は、絶望の雲でかげってしまっており、十分に効果的な教室運営がなされていないだけではなく、多くの問題を引き起こしている可能性があります。

自尊感情の欠如は、生産性の低下を招くだけではなく、事故や深刻な問題を引き起こす可能性もあるのです。生徒への暴力や性的虐待、いじめ問題の放置や各種依存症など、最近の新聞をにぎわす教師たちの暴挙は、このあたりからきているのかもしれません。

ちなみに、国立教育政策研究所では、こうした傾向は、「謙虚さや高い目標を設定しているが故の傾向」であるとの解釈がなされており、大した問題ではないようなニュアンスの主張がなされていますが、私は、もっと真剣に現場の悩みに耳を傾けるべきだと思いますね。そうした解釈が、真実であるならば問題はないと思いますが、もし誤解だったとしたら、これは大変な問題ですよ。

謙虚さと自虐は違います。

謙虚さは、自分も尊いと感じているからこそ相手も尊い存在だと思う心情ですが、自虐は、自分を尊いとは思っていません。人は自分にするように他人にするものですから、自虐の人は、最終的には必ず他人に仇をなすなど、問題を起こすようになるでしょう。

自己効力感が低いということは、自罰的となっているということであり、それは、疲弊しており、絶望感にさいなまれているということであり、決して健全で健康的なことだとは言えません。せっかくこうした調査で、現状の大問題が見えてきているにもかかわらず、こじつけや曲解で現実を見ようとしないとしたならば、大きな問題だと思いますよ。

何しろ、自己肯定感の問題は、学級崩壊やいじめ、自殺問題など、多くの深刻な問題にかかわっており、そうした問題は、自己信頼の回復がなくして、根本的な問題解決にはならないのですから。

ちなみに、アンケートの設問で、「生徒に勉強ができると自信を持たせる」の設問に対して、ハイと答えた先生の割合が、世界平均では85.8%ですが、日本では17.6%と著しく低下しています。その通り、自信のない人に自信は教えることはできないのです。

データからすると、日本の教育現場は、崩壊寸前だと私は思います。原因は、さまざまな要素があるとは思いますが、これは先生たちの問題と言うよりは、先生たちを絶望に追い込んでいる古くて瑕疵あるシステムの問題なのだろうと思います。

いずれにしても、こうしたデータから、教育現場からの悲鳴が聞こえてくるようです。政府は、そうした悲鳴に謙虚に耳を傾けて、真剣に対策を練り直す必要があると思いますよ。何しろ、教育こそが国力の根源なのですから。

信頼による教育

(能力も態度も絶望視されている教室の生徒たちと、真剣に向き合い、信頼関係をはぐくみ、生徒の力強い生き方を後押しすることができた1教師の成功事例を受けて)

むろん、現場で教師をされている方々の中には「それはきわめて幸運な例に過ぎない。実際はそんなに上手く行くことなど滅多にあるものではない。」と思われる方もいらっしゃるでしょう。しかし、ここで気が付いていただきたい点は、このような意見が出てくること自体、その人の心の中に、生徒に対するぬぐい去れない不信感があることを示しており、教育に対する否定的な固定観念にとらわれているという状況があるわけです。

教師がこのような迷った心の状態で生徒に接している限り、その人の信じていることが現象化され続け、生徒を犠牲にするだけで真の教育など決して成されないことを肝に銘じておいていただきたいと思います。教師が観るべきものは、いかなる表現をする生徒の中にも必ず存在している神性であり、その働きに対する全面的な信頼なのです。

 

黎明 下巻 葦原瑞穂著 より引用

体験学習とは その7「体験学習の留意点」

体験学習は、Tグループをベースにして応用した学習方法です。
 現実的に長期の研修ができない企業や組織の事情を背景に、もっと短時間で効果的な方法をという現場のニーズに応える形で、主に、Tグループにおける午後一番で実施される構造化された実習を元にしたGセッションを中心として構成しなおし実施するようになったプログラムが、体験学習へと発展していったのです。
 体験学習は、単なる知識による学習ではなく、体験を通して人の内面に触れ合う、ハートに響く学習方法でもあります。そのあり方によっては、人の人生に大きな影響を与えるような素晴らしい気づきや学びを提供することもできますが、反面、人の心に関わることでもあり、前述の歴史上の失敗もあり、その運営には、非常に慎重な姿勢と注意深さが必要であると考えております。私どもでは、南山短期大学前副学長の星野欣生先生に以前私が教えていただいた哲学をもとに、体験学習の運営上の留意点を以下のように考えております。

1.ともに学ぶ
・ファシリテーターは、権力者ではなく、学習者とともに学ぶ存在であり、学習の援助者、促進者である。
・参加メンバーの言動、気持ち、あり方は、参加メンバーが主体的に自由に決定するのであって、ファシリテーターは、その主体性と自由を尊重すべきで、決して強制したり、支配しようとしてはならない。
・主役(主体)は、参加メンバーであって、ファシリテーターではない。

2.操作しない
・気づかせたいことに向けて誘導したり、罠にかけるようなことはしない。
・作為、不自然さ、小細工などは、最終的にメンバーに伝わることが多く、共感されない。

3.評価しない 
・評価は、前提として”あるべきモデル(正解、価値)”を基準としているので、評価することは、結果的にそのモデルを相手に押し付けることにつながってしまうが、体験学習の場合は、体験を通してメンバーが自由にあり方を探求する場であるので、押し付けはすべきではない。
・期待や評価をすることは、結果的にメンバーを支配することにつながってしまい、メンバーの自分らしいあり方を探求する可能性をつぶしてしまう。
・「答や正解はファシリテーターサイドが持っている」という思い込みは、厳に慎むべきである。人間関係のことは分からないことが多く、だからこそ謙虚に体験から学ぶ必要があると言えよう。

4.個性の尊重
・メンバーの個性は最大限尊重すべきであって、決して虐待したり、粗末に扱うべきではない。
・違いは、好ましいことであって、矯正すべきものではない。
・体験学習のねらいは、個性的で自分らしい生き方を後押しすることであって、画一的な生き方や態度を教え込むことではない。

体験学習とは その6「私のTグループ体験」

私のTグループ体験

 Tグループは、構造はとってもシンプルですが、その中で起こるドラマ、気づき、学びの深さと価値の高さなど、なかなか言葉では表現しづらい非常に印象的なプログラムとなることが多い方法です。ここでは、Tグループの実際をご理解いただくひとつの参考として、私自身が体験したTグループの体験を記して行きたいと思います。あくまでも個人の体験で、一般論ではありませんが、Tグループの特徴と効果を知る手がかりとしていただければ幸いです。

実は、私は、もともとは人嫌いであり、どちらかと言うと引きこもりがちな性格でした。
「自分は、本性がばれたらきっと嫌われる」「人は、意地悪でいやなやつだ」「弱肉強食の世の中、人間関係の本質は戦いである」…
自分の本性がどんなことかも分からずに、そのような考えを心の奥深くに秘めながら、本音を隠して演技をし、強がりながら生きていたように思います。

そのような私でも、さまざまな体験を経て、心に深く根ざしていた呪いともいえるネガティブな信念が融け、少しずつ生きやすく、楽になってきたように思えます。
きっかけとなった出来事や気づきは、たくさんあり、どれも大切な宝物なのですが、決定的だった体験の一つが、まさにTグループでした。

私が受けたTグループは、南山短期大学人間関係研究センターの主催するプログラムであり、1990年の夏に木曾御嶽山のふもとの大自然の中にある研修所で、5泊6日にわたって実施されました。ファシリテーターは、南山短期大学の山口真人先生他1名、参加者は、ファシリテーターやスタッフも含めて10名でした。

初日の第一回目のTセッションの際、ファシリテーターから全体のねらいと方法論がざっくりと説明されたあと、「では始めましょう」と放り出されるように開始してから、誰も何も話さず、身じろぎ一つできないような沈黙がしばらく続きました。沈黙の中で、何ともいえない不安感と恐怖を感じていたことを良く覚えています。最初のうちは、そのような懸念は、私だけではなくメンバー全員が感じていたようで、緊張しており、固くぎこちない不器用で手探りの対話が途切れ途切れでなされていました。
しかし、回を重ねていくうちに、次第に肩の力が抜け始め、落ち着いて自分の心や場に関心を向けることができるようになっていきます。それと同時に、話す話題や内容は、”今ここ”で感じていることなので、自分の内面で体験している出来事と、他のメンバー同士で話されている内容が一致するようになってきて、その場で起こっていることが、誤解無く、とても良くわかるようになってきます。

そのような状況になってからでしょうか、突如私は、「私は、今ここで、何も演技をしていないし、うそをついていない」ことに気づいたのです。今までは、「何かうそをついたり演技をしたりしないと、本当の自分がばれて、嫌われてしまう」という不思議な思い込みがあり、全くの無防備で警戒の無い本音で素の自分を出すことなど、人前ではありえなかったのですが、そのときは、何の意図も無く、何の構えも無く、自然に素の状態でいる自分を発見したのです。
ささやかなことかもしれませんが、私にとっては人生がひっくり返るような出来事でした。なぜなら、素のままの自分は、嫌なやつではなかったし、メンバーからも受け入れてもらっており、そのメンバーの気持ちにうそが無いことが本当に分かったからです。
何と、自然でありのままでいる自分は、決して捨てたものではなかったのです。
そのような気づきが起こった時、私の心の中で、暖かい感動が起こり、とってもうれしく、元気が湧き起こってくるのを実感したのです。

その回をきっかけに、私のTセッションは、とっても自由で開放的で基本的には恐怖や不安を感じない、信頼のおける楽しい場に変わっていきました。
そうこうしているうちに、不思議な体験もするようになりました。円座になって座っているだけで、メンバーの気持ちや感情が手に取るように分るようになったのです。1人に関心を向けると、そのメンバーの気持ちが私の胸の中に流れ込んでくるような体験が起こるのです。その気持ちを相手のメンバーに言葉で確認すると、本当にそのような体験をメンバーがしていたことが確認でき、私の体験に間違いが無いことが分かりました。
この体験は、言葉で言うと「人の気持ちが分かる」という何ともそっけない言葉になるのですが、そのときの私の心境は、衝撃的でした。人の気持ちが本当に共感できるものであることを生まれて初めて知ることができたのです。まさに、豊かな社会的感受性と言えるのでしょうか、Tグループのめざすテーマを体感した瞬間でもありました。
また、何よりも驚いたのは、そのような状況になったとき、人間関係は、戦いではなく、暖かく優しくやわらかく私を包み込んでくれるものであり、つまらなくうっとうしくわずらわしいものではなく、躍動的で生き生きとしており、この上なく興味深く、私に生きる元気を与えてくれる尊いものであると実感したことでした。
これは、今まで私の生き方をある意味規定していた否定的な信念とは完全に相容れない体験であり、世界観がひっくり返る危険な体験でもありましたが、しかし、私は、そのような信念よりも、今感じている喜びや実感のほうが、絶対的に真実に近いことを直観しておりました。理由は分かりませんが、何か、本当のこと、人間関係の真相に触れることができたと言う確信が起こり、私の心の奥深くで、世界が変わったのです。
そのような体験を経て、私自身は、現在は、コンサルタント会社を立ち上げ、ラボラトリーメソッドによる気づきや学びを支援する教育をライフワークとしています。ですから、Tグループでの体験は、今の私の原点のひとつでもあり、私の人生を導いてくれた、とても大切で価値あるものだと言えるのです。

体験学習とは その5「Tグループの実際」

Tグループは、「人間関係スキルの向上、個人の人間的成長、グループスキルの向上」などを目的として開催される集中セッションであり、通常5泊6日程度の合宿で開催されることが多いといえます。
 下図は、私が受講したTグループの実際のスケジュールです。

 

主催:南山短期大学 人間関係研究センター
日時:1990年9月14日~19日
場所:御岳名古屋市市民休暇村

 プログラムは、主に、Tセッションと呼ばれる80分にわたる集中セッションが、休憩を挟んで1日4回程度繰り返され、6日間全体で、おおよそ14回程度開催されます。
 Tセッションでは、椅子だけが人数分円形に並べられており、ファシリテーターとメンバーは、自由に着席します。
討議内容は、何も決められておらず、すべてがその場で起こったことを元に進められていきます。学習の素材は、「いまここ」であり、今ここで起こっていることがらや人間関係、ダイナミックスを個々人が言語化して、お互いに対話することを通して理解を深めていく展開となるのです。ですから、そこで話し合われる内容は、過去の出来事や末来の対策ではなく、まさに、今ここにいるメンバーに対して感じていること、自分の気持ち、気づきが話し合われることになります。

 主に、昼食後の午後一番には、Gセッション(全体会)と呼ばれるセッションが実施されることがあります。Gセッションとは、Tセッションとは違った状況の中で、プロセスへの理解を促進するために実施されるセッションで、あらかじめ構造化された実習やツールを使用して自分について、自他の影響関係について学ぶことになります。実習は、たいていよく工夫されており、刺激的で、楽しいことが多く、グループで起こっている人間関係やダイナミックスが浮き彫りになり、探求しやすくなることが多いといえましょう。

体験学習とは その4「日本におけるラボラトリーメソッド」

<日本におけるラボラトリーメソッド>

 日本におけるTグループは、1958年に清里において開催された2週間にわたるワークショプが、初めてのものとされています。
 このワークショップは、世界キリスト教協議会主催の「教会における集団生活指導者研修会」というテーマの研修会であり、アメリカ、カナダのトレーナーのもとに開催され、成功し、さらにその後、1960年に第二回目のTグループが開催され、多大の成果を収め、ラボラトリー方式による教育方法が極めて効果的であること、革新的で今後の教育にとって価値が高いことが強く認識されることになりました。
 それらの研修の成功を受けて、1962年4月に立教大学内の一機関として「キリスト教教育研究所(通称 JICE(ジャイス):Japan Institute of Christian Education of Rikkyo University)」が設立されました。
 日本におけるTグループやラボラトリーメソッドによる教育技法は、このJICEの活動が中心となって広まっていくことになったのです。
その時のJICEのリーダーは、柳原光先生であり、私もご指導をいただいた先生です。
柳原先生は、気高くフェアーであり、不正には厳しく、また人間には優しく、自らがクリスチャンでいらっしゃったので、背景にキリスト教の人間哲学をしっかりと基盤に置かれてプログラムを運営されていました。
 私自身は、組織宗教には縁が無く、クリスチャンではないのですが、人間関係の本質は愛であること、人間存在の価値は途方も無く大きいこと、といった哲学を柳原先生の生き方やラボラトリーのプログラムから教えていただきました。残念ながら柳原先生は1994年1月にご逝去されていますが、先生から教えていただいたことは今の私にとって貴重な宝であり、先生の哲学は、今でも私自身の仕事の根底に流れています。

 さて、当初、そのようないきさつで、日本におけるTグループは、キリスト教の聖職者の方々を対象として立ち上がってきたのですが、その後、産業界においても、従来にない学習方法であることや、行動変容を促す実践的な方法であることが注目され、企業研修などに取り入れられて、大きなムーブメントを巻き起こすことになりました。
 しかし、大きなブームの中で、一部コンサルタントや業者などにおいて、ラボラトリーメソッドの原点となっている哲学である「人間尊重」の人間観や「共に学ぶ」教育観が欠如した、時には、洗脳的な操作や支配が横行し、STや自己啓発セミナーなど、社会問題ともなったのです。
 この問題は、現在でも続いており、このようなメソッドを安易に利用したコンサルタントやセミナー会社、業者で、問題視されているところも少なくありません。

 臨床心理学者カールロジャーズがラボラトリーメソッドを「今世紀最大の最も将来性のある社会的発明」と評したほど、ラボラトリーメソッドには、可能性と効果性を秘めていると言えるのですが、諸刃の刃であり、反面、使い方を間違えると、”人の心”を扱う方法であるだけに、大きな問題を起こしてしまう可能性は否めません。
 歴史的な経緯からも、ラボラトリーメソッドを運営するファシリテーターは、真摯な姿勢と哲学と注意深さが必要といえましょう。

体験学習とは その4「Tグループの誕生」

<Tグループの誕生>
Tグループは、1946年夏、コネティカット州ニューブリテン市の州立教育大学で、コネティカット州教育局人種問題委員会とマサチューセッツ工科大学集団力学研究所共催で開催されたワークショップ「公正雇用実施法の正しい理解とその順守を促進する地域社会のリーダー養成」での偶然の出来事に端を発しています。

当ワークショップの参加者は、ソーシャルワーカー、教育関係者、産業界の人や一般市民で、「人種差別をなくすためにはどのようなことが必要なのか?」についてのテーマのもとで、グループ討議やロールプレイングなどでプログラムが展開してくことになります。
レヴィンは、そのワークショップがより効果的に運営されるように、他の研究員と共に、スタッフとして参加したのです。

さて、一日目のプログラムが終わった後、Tグループ誕生の発端となる出来事が起こります。
初日のプログラム終了後、K.レヴィンの発案で、グループの状況をより正しく認識するためのスタッフミーティングが行なわれました。話し合うメンバーは、もちろんスタッフですが、そのミーティングに興味を持っている数人のワークショップに参加している受講メンバーが、スタッフミーティングに参加することを希望し、傍聴者として参加することを許可されたのです。

ミーティングでは、当初、ワークショップ中にグループ討議をしているときのメンバーの言動や様子、感情の動き、リーダーシップやコミュニケーション上の出来事に関するさまざまなプロセスの観察報告がなされていました。しかし、観察データの報告の最中に、そのミーティングを傍聴していたワークショップ参加メンバーから、報告されていた観察事実の解釈に対して異議が唱えられたのです。それをきっかけに、観察報告だけではなく、グループ討議の中で起こっていたワークショップ参加者の生の体験や本当に感じたこと、気持ちが開示されるようになり、人間関係のありのままのプロセスについて、さまざまな人から意見が出てきて、結局は、リーダー、調査研究者、メンバー全員が、一堂に会して、3時問にも及ぶ討議となったのです。

報告された観察事実の解釈の一例を挙げると以下のようになります。

「午前10時、X夫人はグループリーダーに攻撃を加えた。Y氏はリーダーの弁護につとめた。そのため、X夫人はY氏と激論を戦わすことになった。また他のメンバーの中には、この論争に巻き込まれてどちらかの味方をするはめになった者もいた。他のメンバーは恐怖を感じ、2人の激論を平穏におさめようと努力しているように思われた。しかし、それも激論中の2人からは無視された。10時10分、リーダーは、激論のために忘れられていた話題に注意をひきもどした。X夫人とY氏は、その後の討論でも互いに反駁しあった」。 『人間関係トレーニング』(津村俊充・山口真人編 ナカニシヤ出版)P11より引用

このような観察報告に対して、グルーブメンバーが体験した感情や心の動き、他者や出来事に対する自分の認識や反応などのデータを率直に出し合って、その場で起こっていた本当のことをオープンにして、全員がありのままに認識することができるようになってきたと同時に、以前のグループ討議のことではなく、今ここのスタッフミーティングで起こっているプロセスにも焦点が当たるようになり、今ここで感じているお互いの正直な気持ちが開示されると同時に率直なフィードバックが行われ、コミュニケーションが深まることを通して、メンバー同士の深い相互理解が起こったのです。

この出来事は、メンバーにとって、人種差別をなくすこと、人間尊重、相互理解や相互信頼ということについて、体験を通した深い理解と学習を促進し、メンバーやスタッフにとって非常に大きなインパクトを与えると同時に、貴重な学習の機会となったのです。

レヴィンや参加メンバーは、この出来事を通して、人間関係やグループの学習は、既に一般化された知識や概念の学習よりも、”いまここ”の場で起こっているリアルな体験を学習素材に用いる体験学習の方が、はるかに効果的であることに気づいたのです。

この出来事がヒントになって、レヴィン没後、翌1947年夏、メイン州、ベセルにおいて、前記ワークショップと同じトレーニングスタッフで、3週間のセッションが開催されました。
このプログラムは、BST(Basic Skil Training)とよばれ、翌年の1948年以降は、NTL(National Training Laboratories)が主催し、”Tグループ”と呼ばれるプログラムとして、開催されるようになりました。

以後、Tグループは、様々な技法を取り入れて、ラボラトリーメソッドと呼ばれる教育技法として、全世界に広がっていったのです。

<参考文献>
「TグループQ&A(1990年3月)」 星野欣生 『人間関係』南山短期大学人間関係研究センター刊
「人間関係トレーニング」 津村俊充・山口真人編 ナカニシヤ出版