ルドルフ・ヘスは、第2次世界大戦中のドイツの将校であり、アウシュビッツ強制収容所の所長だった。
ヘスは、敗戦後、身を隠し、他者になりすまし、行方をくらました。
ヘスは、アウシュビッツのホロコースト、極悪非道の悲劇を生んだ中心人物であり、世界中が彼を恐れ、憎み、徹底した捜査が展開された。
終戦の翌年1946年3月11日にとうとうヘスは見つかり、逮捕された。
世界中の人たちは、ヘスの実際を見て驚いた。
世界中の人たちは、ヘスを大量虐殺を推し進めた殺人鬼であり、けだもののような残忍で冷酷でサイコパスのような人物だと思っていたけれども、実際のヘスは、平凡で普通の人だったからだ。
ヘスは、裁判において、ユダヤ人を250万人ガス室に送り、虐殺したと証言した。彼は紛れもなく大量虐殺を命じた司令官だった。
しかし、彼は決して狂気の極悪人ではなかった。
私生活においては、家族を愛するごく普通の平凡な男であり、仕事においては上司に対して忠実であり、上司の命令に従い、その命ずるところを従順にこなしていった。
彼は、絞首刑になる前に手記の中で、自分は「悪い人ではなかった」と書いている。大量虐殺も「命令だった」「抵抗など考えられなかった」と語っている。
彼は、手記に書いている通り、悪い人ではなかった。しかし、おかしいと思っていながらも上官の命令に意見することなく、抵抗する勇気を持たない、ただ従順にどんなことでも従う茶坊主だったのだ。
ルドルフ・ヘスは、私たちに強烈な教訓を残してくれている。
この世において極悪非道を実現する人は、必ずしもサイコパスの狂人ではなく、権力におもねる茶坊主であり、普通の平凡な人物であり、誰もがそうなる可能性があるということだ。
確かに権威や権力が圧倒的な力で黒を白と言いくるめたら、そのように思い、そのように行動することの方が楽だ。流されて生きれば角が立つこともなく危険も少ない。
しかし、そういった安易な茶坊主的な生き方こそが、究極的には悲劇を生んでしまう可能性を忘れてはいけない。
最近、とてもおかしなことが続いている。
・中国の人権問題…法輪功の罪のない人たちを捕らえ、臓器移植のドナーとしている事実、チベットやウイグルをはじめとする人権問題、いまだにその蛮行を許している世界
・コロナウイルス…専門家でさえ人工的に加工された痕跡があると証言しているにもかかわらず天然のものであると断定されていること、思いのほか被害が少ないにもかかわらず、不安と恐怖をあおるマスコミ
・米大統領選挙の不正…あれだけの証拠が挙がっているにもかかわらず、取り合おうとしない司法、事実を伝えないだけではなく事実を捻じ曲げ悪者をすり替えるマスコミ、フェイスブックやツイッターなどの露骨なアカウント凍結による言論封鎖…、
調べれば調べるほど、ぬぐい切れない疑念が立ち起こってくる。
私は、ヘスのようにはなりたくない。
おかしいと感じることは、おかしいと主張したい。
私はそれを許してないと伝えたい。
「矛盾はつきもの」「きれいごとではやってけない」「陰謀論」「言っても無駄」「生意気なことを言ってると痛い目にあうぞ」
そういった皮肉屋の冷笑、脅しには屈したくない。
茶坊主たちは、こうした状況に目を背け、口を閉じ、ただ従順に従うことで抜け目なくリスクを避けているように思っているが、そうした生き方こそが最も危険な場所に向かう道しるべとなっていることに気づいていない。
私は、茶坊主ではなく、勇気ある市民でありたい。
気づいたこと、内面の真実を語ることは勇気がいる。
だれもがそれを気前よく受け入れてくれるとは限らないからだ。
それを言うことで嘲笑され、嫌われ、非難され、距離を置かれ、攻撃される可能性があるからだ。
しかし、私は、勇気ある市民でありたい。
昔から言われているように、正義は勝つのだと信じている。
真実に勝るウソはないし、光に勝る影はない。
人の力と可能性は、人の想像を超えて大きく、その本質は神聖であると信じている。
人が、本来の神聖さを思い出したとき、闇の愚かなたくらみを笑い飛ばすことができるほどの豊かな未来を手に入れることができるだろう。
お釈迦さまが、ご臨終の間際に、「自灯明、法灯明」と言葉を残してくださった。
「自分を頼りにせよ(人に頼るな)。自然界の法をよりどころとせよ(不自然さを受け入れるな)。」という意味だと私は思っている。
今こそ、自分自身の可能性、力を信じ、自分を大切にするべきである。
自分の人生を信じ、自分の哲学に基づいて、他者の権威や権力ではなく自分に対して忠実に、依存的にではなく独立した心をもってたくましく人生を生きるべきだ。
人間らしさ、勇気、陽気さ、明るさ、希望、夢、友情、愛、思いやりこそが、闇を退け、新しい可能性を開くカギとなる。
そう信じて、私は、今の時代を生き抜いていきたい。