真壁昭夫さんが著して2012年に出版された「若者、バカ者、よそ者 イノベーションは彼らから始まる!」からヒントを得て、前回は、イノベーションの担い手としての「若者」について書いてみました。今回のテーマは「バカ者」です。
同書のアマゾンの書評では「バカ者」を、
「旧来の価値観の枠組みからはみ出た人」
と定義しています。言葉を替えると「空気を読まず正論を吐く人」という人物のイメージかと。数は少ないですが、私がこれまでに出会ったそういう人々の顔が頭に浮かびました。
そこで、どんな会社、組織でも、今すぐに始められる「バカ者」によるイノベーションを考えた時に、ふと目に留まったのが、社会学者の上野千鶴子さんが日経ビジネスで語った「女性の登用」に関する記事です。以下、抜粋します。
記者:2019年末に世界経済フォーラムが発表したジェンダーギャップ指数ランキングでは日本は153カ国中、過去最低の121位となっています。
上野:ぼうぜんとしています。というのは、毎年、ジェンダーギャップ指数は下がり続けていますが、それは、日本が悪くなっているからではなく、諸外国がジェンダーギャップの解消に努力しているのに、日本は変化していないから取り残されているのです。女性や若者の登用は、ボトムアップではほとんどできません。トップダウンの方が、速く、確実に進みます。企業のトップに頭を切り替えていただかないと、なかなか変わりません。日本はこれまで、持てる力の半分、つまり女性を腐らせてきたのだから、その女性を生かすことです。
記者:クオータ制に反対する男性たちは、強引に女性を登用したら組織の秩序が乱れると懸念しそうですが。
上野:下駄を履かせてでも女性を登用すれば、ノイズが起きます。そのノイズが、活性化の原動力になるんです。
上野さんの「ノイズが活性化の原動力となる」という言葉は、女性がイノベーションを起こすことを意味しているのではないかと思います。そこで、「バカ者」を「女性」に置き換えて「空気を読まず正論を吐く人」が「女性」だとします。(決して「女性」が「バカ」という意味ではありません。)すると、多くの組織で「女性」を活かしきれない理由と解決の方法を考えるという問いが浮かんできました。
ちょうどそんなことを考えていた時、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長がJOCの評議会で「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」と発言し波紋が広がっているというニュースが目に飛び込んできました。
JOC=日本オリンピック委員会は今年6月の役員改選で女性の理事を増やし4割以上にするという目標をかかげていることに対して、森会長は3日、JOCの臨時評議会で、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」「女性は競争意識が強い。誰か1人が手を挙げて発言すると、自分も言わなきゃいけないと思うのだろう。それでみんな発言する」と述べました。一方で組織委員会の女性理事については「みんなわきまえておられて、非常に役立っている」としました。五輪憲章にはIOC=国際オリンピック委員会の使命として「いかなる形態の差別にも反対し、行動する」と記されていて、森会長の発言は波紋を広げています。(2021年2月4日 Yahooニュース)
森さんが「女性は競争意識が強くみんな発言する」と述べているのは、前述の上野さんのコメント、「ノイズが起きます」と一致します。森さんの価値観では、組織委員会の女性理事が「わきまえておられて」発言を控えるのが普通で、女性が積極的に発言することは気に入らないのでしょう。一方、国際団体であるIOCに直結しているJOCは女性の理事を増やして活性化を進めようとしているようです。そして、森さんのようにそのことを危惧する人たちが内部にいる。ポイントは、なぜそんなことが日本で起きるのか。本質は何なのかを私たちは正しく理解しておく必要があるということです。
まず、なぜ「女性」が、「空気を読まず、正論を吐き、ノイズを起こす」のかを考えてみたいと思います。
私の古い友人でコンサルタント、研修講師として長年、女性活躍支援に取り組んでいるUさんが、女性と男性の違いについて明言していました。
「女性は男性のように戦士にはなれない。それは母性があるからだ。母性は命を守るために理不尽なこと、不合理なことに従わない。それでも従うよう強制されると病気になる。」
Uさんは、かつてご自身が部門長として辣腕を振るったときに部下10数名から一斉に辞表を突き付けられたというトラウマ体験をしたそうです。その失敗から、やる気と活気にあふれた理想の職場を実現する、理想のマネジメントの姿を探求してこられました。そして、たどり着いた課題は、女性の能力を活かしきれないマネージャーの存在だったと。そこで、男性管理職の意識改革に取り組むようになりました。
彼女が自らの失敗を教訓にして、多くの男性マネージャーと向き合う中で、前述の「戦士になれない女性」という核心を突く言葉が生まれたのです。
つまり、女性が「空気を読まず、正論を吐き、ノイズを起こす」かというと、森さんが言っているような「競争意識が強い」からではなく、理不尽や不合理に流されない。つまり、忖度しないからなのです。だからこそ、同調圧力が強く働き、相互監視によって変化の動きを封ずるような組織においてこそ、女性が突破力となり、現状打破のきっかけをつくってくれると考えられるのです。さらに上野さんは、次のように述べています。
「ダイバーシティー(多様性)を促進した企業は利益率が上がる、というデータを多くのエコノミストが出しています。そのようなエビデンスがありながら、女性登用を進めないのであれば、日本の経営者は経済合理性では動いていないのではないかと疑いたくなります。」
ここまで分かっているのに、それでも尚、斜に構えて女性の活躍を素直に受け入れない人が、政治家や経営者など、責任ある立場の人たちの中に存在し続けるのは何故なのでしょうか。
森さんの発言を知って、私の頭にふと浮かんだのは「平等」という言葉でした。森さんを非難するネット上のコメントには「男尊女卑」「女性蔑視」等、不平等や差別の類の言葉を多く見かけましたが、私の頭には真逆の「平等」という言葉が浮かんだのです。
それは何故かというと、「平等意識」が強いと、皆同じであることが当たり前なので、違いを許容しない態度をとってしまうのではないかと思うからです。それは私たちが無意識に共有している文化であって、日本の地理的特性と歴史をたどることによって理解が深まるはずだ、という仮説を立てました。
「平等」の分かりやすい例として「大相撲」を採り上げます。「大相撲」には番付(格付)はありますが階級制度のない「平等」の典型例だからです。圧倒的な体格差がある力士同士が度々対戦し、小兵力士が多彩な技を繰り出し、圧倒的不利な条件を克服して大きな力士に勝利する姿に観客は歓声を送るのです。きちんと調べたわけではないですが「大相撲」のように階級のない格闘技は国際的に珍しいのではないでしょうか。
例えば、イギリス発祥のボクシングは、体重毎に17(最軽量のアトム級(女子のみ)を入れると18)もの階級が厳密に決められています。また、韓国の国技であるシルムにも、白頭級(105.1kg以上~160.0kg以下)、漢拏級(90.1kg以上~105.0kg以下)、金剛級(90.0kg以下)、太白級(80.0kg以下)の4階級があります。格闘技においては体重差が攻撃力に直結するためにこのような階級が設けられるのは当然なのでしょう。
一方、格闘技以外にも、ゴルフ等のように、実力的に差のある競技者も楽しめるよう、各競技者に一定の数値を与え、競技終了後、その数値をスコアより差し引いたネットスコアで勝敗を決めるというルールがあります。
格闘技もゴルフ等も、競技者間の条件の差異を埋めるために設けられたルールがあります。いわば平等(無条件に同じであること)を担保できないことをふまえて、公平(どちらかに条件が偏らないこと)を期するために「下駄を履かせる」のです。前述の女性登用にクオータ制を設けるという発想は、出産や育児と言ったライフイベントへの関与度、また体力等のフィジカル面での男女の性差を薄めるためで、女性に公平に機会を提供するのに必要不可欠であると考えられ、国際的に常識化したのではないかと思います。
一方、日本では、大相撲のように、個の違いを考慮せず、むしろ違いの克服を美徳とするような文化があり、それは、一言でいうと「平等意識」の表れではないかと私は思うのです。そういえば、日本では至るところでこの「平等意識」が議論や争いの原因になりますね。森さんも、女性登用に躊躇する経営者も、そして私たちも、日本人が普通に共有しているこの意識の正体とは一体何なのでしょうか。
「平等意識」とは、極論すれば、人は生まれながらにして皆同じ、という考え方です。この考え方に基づけば、同じであることが普通で、違いがあることは異常ということになります。かつて笹川良一さんが「世界は一家、人類は皆兄弟」と言っていましたが、まさにその発想です。しかし現実には、人間社会は決して平等ではありません。特に昨今では、コロナウィルス感染拡大によって、経済活動が停滞を余儀なくされ、多くの人が仕事を失い生活困窮者が増え続けています。そういった不平等な現実があるにもかかわらず私たちの意識のどこかには依然「平等」という感覚があります。そのために、違いがあるという事実を感覚的に受け入れがたく、森さんのように、ついつい感情的に反応してしまうのではないでしょうか。では、私たちの「平等意識」は、いったいどこまでさかのぼれば起源を特定することが出来るのでしょうか。
「聖徳太子」ゆかりの法隆寺の管長、大野玄妙さんによる、太子が唱えた「和を以て貴しとなす」と、その背景ついての講話を聞いてストンと腑に落ちました。私たちの「平等意識」は、誰かから学んだわけではなく、自然に生まれたもので、もとからここにあったというのです。(テンミニッツTV「法隆寺は聖徳太子と共にあり」より)
皆さんもよくご存知のように、聖徳太子さんといえば、「和を以って尊しとす」という和の精神を提唱し、これを広めた方です。ではその「和の精神」とは一体何か。よくご存じのように、この「和を以って尊しとす」という言葉は、実は中国の『論語』、そして『礼記』からの出典で、太子さんはこの言葉を引用したのではないかということが昔からいわれています。そこで『論語』をきちんと読んでみると、これは礼の働き、「礼の用は~」というように書かれています。つまり『論語』が述べているのは、「条件付きの和」なのです。要するに、世の中の秩序や上下関係など、そういったものが正しく機能するためには、皆で仲良くしなければならない。だから和が必要である。こういう考え方が、もともとの中国的な和の考え方です。
では聖徳太子さんの和とは、一体何か。実はこの和は、いきなり「和を以って尊しとす」と出てきます。つまりこれは、「無条件の和」です。条件がありません。そうすると、その無条件の和とは一体何か。それを考えてみるには、まず私たち日本人が、どのような生活をし、どのように現在の状況まできたかという歴史をたどる必要があるかと思います。そして、その歴史をたどる前には、聖徳太子さんよりもはるか以前から考えていかなければならないと思います。
続けて、大野さんは、日本の地理環境が「和」の精神を生んだと述べています。
それはすなわち、私たちが置かれていた環境です。これはもういうまでもなく海に囲まれていて周囲から隔離されています。当然、日本の人々は、単一の民族ではないことは誰しも分かっています。長い時間をかけて交流や混血といった形で組み合わさり、そして日本人が形成されてきたのです。その結果、日本人のものの考え方は、周囲の環境に強い影響を受けてきました。少ない資源を皆で仲良く分け合い、助け合いながら生きていかないといけない。日本はそういう社会でした。そういう環境下で何が起こったかと言えば、思いやりやいたわり、あるいは多様性、いろいろなことに対応できる能力などが培われてきたのです。狭いところで、毎日顔を合わせて生活をします。だから余計なことを言ってしまうと、次の日、気まずいのです。そのため、そういう環境で生まれてきたのは、「遠慮をする」ということでした。同時にそこで、「これは言わない方が良いだろう」という予知能力が働きます。「これを言ったらおしまいや」ということです。
大野さんは日本との比較で、他国の感覚について述べています。
では、日本人以外のいわゆる大陸の人々はどうだったのでしょうか。例えばモンゴル高原ではいろいろな国が勃興します。そうすると彼らはけんかします。けんかをしたら、彼らはダーッと逃げていきます。そうすれば、お互い二度と会わなくてもよくなるからです。皆さんも歴史でご存じのように、匈奴という民族はヨーロッパまで逃げていきました。あるいは、現在のハンガリーと結びついたマジャール人です。それ以前ではアラン人など、東洋からずっと入ってきた人たちはいろいろいるわけですが、そういう人たちは、最終的にフランスを越えスペインを越えて、ジブラルタル海峡を渡って北アフリカに入り、そして国家をつくっています。ですからこれは、いったんけんかを始めたら、お互いで言いっ放しという世界です。だから当然、「言わなきゃ損」です。思いっきり言います。ダメ元で言います。そういう人々と日本人の感覚とは、かなり違う性質を持っているということです。これは当然のことでしょう。
最後に、大野さんは、このような「和の精神」が、現在の日本人にも生きていて、それが、足枷にもなっている部分があると述べて講話締めくくっています。
日本の「和の精神」、そして、それが個の違いを曖昧に、まるではじめからなかったものであるかのようにしてしまう「平等意識」の根本になっていて、不平等を克服する公平な制度の必要性を感じづらくしているとしたら。さらに、その影響で「女性登用の遅れ」という現象が表面化しているとすれば、その解決には、強固な岩盤を打ち破るように、相当強力な対策を講ずる必要がありそうです。従来の「管理職の意識変革」などといったソフトなことをやっても埒が明かないかもしれないのです。
そこで、劇薬の注入です。例えば「空気を読まず、正論を主張して、ノイズを起こす」女性の集団を、組織の中につくってしまう、というのはどうでしょうか。少人数を分散投入しても、既存勢力に排除されてしまうか、同調圧力に屈してしまうのがおちですので、大人数を、それも一斉に同じ職場に投入して既存勢力の常識とやり方を根こそぎひっくり返してしまうくらいのパワーを与えるのが有効でしょう。
さらに実行力を高めるためには、欧州など男女平等先進国で成果を上げている強制力のあるクオータ制を導入するのが不可欠でしょう。上野千鶴子さんによると、強制力のあるクオータ制なくして男女平等の社会を実現できている国はほとんどないようなのです。この現実を素直に受け入れて、従来の日本的な「平等意識」を一旦自己否定し、「公平な制度」を設けるよう仕向けるのです。
そして、クオータ制を設けたらフランスのように罰則を設けることも忘れてはなりません。女性比率50%を達成しなければ法人税率を上げるとか、各種助成金を非該当にする等、様々な方法があると思います。要は、小手先のお茶を濁すような施策ではなく、制度運用による徹底的な取り組みが必要だということです。
一方、多くの経営者はクオータ制を、「我が国の風土になじまない」と言っていることに対しても、上野千鶴子さんは一刀両断します。
「私は長年にわたって男性に下駄を履かせてきたでしょうと言い返しますよ。男というだけで無能な人でも管理職になれた。それは本人にとっても周囲にとっても幸せなことだったのかと、いくらだって反論できます。それに男だって女だって、ポストが人を育ててきたんです。有能な女性がしかるべき地位に就けない日本企業は、たくさんの女性を「おつぼねさま」と揶揄(やゆ)して、能力と意欲を腐らせてきたんです。現状を変えたくないがための言い訳にしか聞こえません。」
上野さんの持論、森さんの失言、日本の地理、歴史による影響、そして制度的な対策まで述べてきました。「平等意識」が逆に「差別」と受け取られかねない言動を生むというパラドックス。平等に振る舞うほど不公平を助長するというジレンマ。私たちが陥りがちなこととその回避策を、これからもずっと考え続けたいと思います。
次回は、番外編(企業研究)として、女性登用に成果を上げている、ビジネスホテルチェーンの東横インを取り上げたいと思います。同社は、2019年末時点で310ホテル、6万6,887室、海外は、韓国に13店舗、ドイツ、フランス、フィリピン、カンボジア、モンゴルに展開しています。支配人の97パーセントが女性という同社が、どのようにして女性が持つ力を最大限発揮せしめているのか、代表執行役社長の黒田麻衣子の興味深いお話しを採り上げます。