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人から言われたくない嫌いな言葉が持つ力

私の曽祖父は明治5年に倉敷で生まれました。両親が他界し、山陽本線が倉敷まで延伸するのを待って二十歳の時に小田原に出て洋服職人になりました。明治35年に小田原を襲った高潮を機に東京に出て、独立して日本橋区北島町(今の八丁堀の交差点付近)で洋裁店を営みましたが、大正12年の関東大震災で被災し、翌年他界しました。祖父は明治45年(同年8月1日に大正に改元)、日本橋で生まれ、関東大震災で焼け出されて小田原に越し丁稚奉公に出されたようです。若いころは丹奈トンネル工事に動員されて危険な目に遭ったり、陸軍に徴兵されてパプアニューギニアで負傷し九死に一生を得たりして苦労しました。戦後は、丹沢山系から切り出した木材を横浜に運搬するトラック運転手として生計を立てつつ印刷のブローカーとなり、運搬した木材を使って横浜に工場を建て印刷業を起業。商売は順調でしたが、私が小学校1年生だった昭和50年に胆石の手術が原因で63歳で他界しました。父は横浜生まれ、横浜育ちの生粋の横浜っ子で、物心ついたころには祖父の仕事も安定したのでしょう。何不自由なく育ったと言っています。そんな父と話していて気付いたことがあります。それは、「人から絶対に言われたくない嫌いな言葉が持つ力」についてです。

何が原因か忘れましたが、あるとき友達から「おまえ、せこいね」と言われ嫌な気持ちになりました。私も父と同じく、生まれも育ちも横浜なのですが、どうも、私だけでなく横浜っ子というのは「せこい」という言葉に敏感に反応するのかもしれません。そう気づいたのは、福岡に来て、福岡っ子(一般的に博多っ子と呼ぶのかもしれませんが)は、「せこい」よりも、「ダサい」という言葉により敏感に反応するようだと分かったからです。

以下は、私の私見であることをお断りして書きます。福岡市内(博多、天神、大名)を歩いていると、男女、年齢問わず外見(おしゃれ)に気を使っている人が多いと感じます。私見ですが、夏の風物詩、博多祇園山笠は男の格好良さを競う祭りのように見えますし、博多美人は、素の美しさもあるのでしょうが、それをもっと美しく見せる方法に長けているからこそ全国的に有名なのだと思います。ある時、福岡の職場で同僚の女性社員にそのことを話したら、「子供のころ母親に、いつ、どこで、どんな人と会うか分からんけん。いつでもきれいにしとかんといかんよ、としつけられた。私だけではなく、土地柄として身だしなみには気を遣うと思う」と説明されました。そこで、福岡の人たちはどんな言葉にネガティブ反応するのか急に知りたくなりまして、「せこい」と「ダサい」のどちらを言われるとより嫌な感じがするか、何人かに質問してみました。結果は、どちらも嫌だが、「ダサい」の方がより嫌だ、という人が多いということが分かりました。これは、「せこい」にネガティブ反応する私にとっては驚きでした。試しに、横浜に帰省した際、父親と旧友にも同じ質問をしたところ、あっさり「せこいに決まってるでしょ」との反応でした。横浜も福岡も同じ港町。来るものを拒まず、新しいもの好きが集まるという共通点があると思うのですが、どことなく雰囲気が違うと私が感じるのは、そういう「その土地で共有されている文化の違い」が影響しているからかもしれません。私は、これまで、東京→北陸→シンガポール→台湾→中国→神奈川→宮城→ベトナム→福岡→大阪→大分と、次々と仕事場を変えてきました。いつもそうでしたが、新しい土地の生活開始に際しては、関連する本を読んだり、人から話しを聞いたりして、その土地の人たちが大切にしていること、守ってきたこと、嫌がること等の把握に努めました。よそ者であることをわきまえ、謙虚にその土地の文化を尊重しなければ決して良い人間関係を築くことは出来ず、良い人間関係がなければ仕事上の信頼関係は築けません。そして、信頼関係がなければ、仮に私が、求められる期待と役割に十分に応えることが出来る高い能力を持っていたとしても、それらを満足に発揮して成果を上げることは出来ないでしょう。これを書いている今も数々の失敗の場面が思い浮かんできます。自戒の念を込めて。。。

さて、話しが遠回りしましたが、私には、実は「せこい」よりもっと言われたくない言葉がありまして、それは、「使えないやつ」という言葉です。

私は、中学校で友達に誘われて吹奏楽部に入り、寝ても覚めても楽器演奏に熱中しました。3年生になって、高校になったら吹奏楽コンクールの全国大会に出場したいと真剣に考えるようになり、当時、神奈川県で全国大会に出たければ進学先の選択肢は2つ(私立男子校、県立共学校)あったのですが、バンカラな雰囲気に憧れて私立の男子校に進学することに決めました。この高校は神奈川県で最も歴史の古い私立の男子校で、吹奏楽部も全国で2番目に古く、伝統を重んじる部活でした。(現存する最古の吹奏楽部は旭川商業。)もともと楽器演奏が好きだったので、朝から晩まで続く練習は苦になりませんでした。一方、しんどいと思ったのは非常に厳しい規律の方で、先輩の指示に対応できないと「使えないやつ」とひどく叱られ、ダメの烙印を押されました。恩師である顧問の先生も、「この部活に3年いれば、勉強ができないおまえたちでも立派に社会に通用する人間になる」と明言しておられましたし、今考えると部活動の真の目的は、演奏してコンクールで勝つことではなく、「使える人間を養成すること」だったのではないかと思います。

高校3年間の強烈なすりこみの成果でしょう。私は長く無自覚でしたが、社会に出てからもずっと「使えないやつ」と思われないよう、言われないようにしてきたことに気付きました。それが、ある時はポジティブに頑張る原動力にもなりましたし、またある時は物事をネガティブに捉え過ぎて視野狭窄に陥る原因にもなりました。加えて、人事という仕事柄でしょうか。自分がやっていることが意味あるのか、それともないのか、なかなか判断ができないことに悩みました。人事の仕事は、やって当たり前、うまくできて当然、と思われてしまうところがありますから、良い仕事をしても言葉によるフィードバックを受けている人は案外少ないかもしれませんね。

そんな私ですが、ありのままの自分を受け入れて頂いた、心底嬉しい経験を2回だけしたことがあります。四半世紀でたった2回の、尊敬する経営者の方々、また、お客様との忘れられない思い出については、改めて書きたいと思います。

ブログを始めるにあたり

これまで、自分の経験を人に伝えることを避けてきたように思います。ずっと昔から、自分の感じていること、考えていることは人にはわかってもらえないだろうと感じていたからかもしれません。しかし、連日報道される、コロナウィルスの感染、また毎年のように発生する深刻な豪雨被害を目にして、いよいよ、私たちが生きていく未来は過去の延長線上にはないのだなと痛感した時、いまこそ一旦立ち止まり、私が歩んできた人生を振り返り、その時々で私が観たこと、感じたこと、取り組んできたことを、言葉に残したいと考え始めていました。

そのような中、長年大変お世話になっているヴィーナスアソシエイションの手塚さんご夫妻のお宅を訪問して、いつものように、おいしいお食事をご馳走になっていた時、「大西さんの経験をブログに書いてみてはどうか」と勧められました。手塚さんは、これまで一貫して、自らの理念

「人は、断じて欠点だらけの無力な存在ではない。自分らしく輝いて生きるに値する充分なちからと能力を兼ね備えており、その可能性は想像をはるかに超えて大きい。」

を信じ、その理念の普及に人生をかけて取り組んでこられた本物の人です。私のような者は、手塚さんの前に出ると、いつもタジタジになってしまうのですが、この日はちょっと違いました。自分の経験を文字で残したいと考え始めていたから。早速、手塚さん「やります」とお返事したところ、ヴィーナスアソシエイツさんのH.Pに私のブログを開設していただきました。

さあ、あとは私が書き始めるだけ。では、ブログのテーマを何にするか、です。

私は、これまで約25年間、「人事」という仕事をしてきました。「人事」はやりたくてやったわけではなく、当時勤めていた会社の役員の方に、なかば無理やりやらされたものです。それを、25年もやることになってしまいました。私が考える「人事」の仕事とは、経営の重要戦略である人材に関する様々な機能を担います。教科書的な堅苦しい言葉で言えば、採用→配置・労務→育成→評価→処遇のサイクルをムリ・ムラ・ムダなくスムーズに回す知見と仕事能力が求められます。

演劇の世界に例えると、経営者がスポンサーや監督で、役者さんが従業員、人事は脚本を書いたり、舞台効果が高まるように演出したりするような仕事です。役者さんは、表現者として与えられた役割を懸命に果たそうとします。そして、脚本家や演出家は、演劇が目指すゴールに到達できるように、スポンサーや監督の意向を理解して、役者さんに良いパフォーマンスをしてもらえるように導きます。

そして、脚本家や演出家の人事は、役者さんである従業員の見えない場所で、日々、スポンサー、監督である経営者から発せられる生々しい言葉のシャワーを浴び、その期待に応えようとします。そのようなことを繰り返しながら、人事は、自分は経営者にはなれないけれど、だんだんと、理想の経営とはなにか、ということを考え始めます。目の前のリアルな経営者と、架空の経営者像を比較してギャップを冷静に分析したり、うれしくなったり、またある時は落ち込んだりします。そんな一喜一憂に疲れると感情のボリュームを弱める努力もするのですが、なかなか割り切れないことが多い。それは何故かというと、人事を拝命する人は、従業員という仲間のために役に立ちたい。その人たちがハッピーに仕事をしてもらいたいと心底願う心優しい人が多いからだと思うのです。労使の利害が対立する時、経営者は人事に経営のために働くことを求めます。しかし、人事も所詮は雇用される従業員なのです。だからこそ、会社の持続的な発展のために、経営者、従業員双方にとって最善の方法を模索しますし、非常に深い思いから発せられる訴えもします。実現が難しくても、ひたすら良い経営をしていただきたいとの祈りを深くします。

私はこれまで、国内外、上場非上場、業種が異なる19の会社で所属して異なる経営者に仕えてきました。日本は転職回数は不利な社会ですが、延べ20名の経営者の下で人事の仕事を担った私だからこそ語ることができる知見があるのではないかと思います。今振り返ると、私は常に一生懸命で、強い思いをベースに行動して来ましたので、周囲の仲間からするとその仕事ぶりはやや強引に映ったかもしれません。本来、組織人としては失格だと思います。しかし、その時々に生じた人事のテーマに真っ向勝負したからこそ、月日は流れても、その時々の経営者の選択、発した言葉、行動は今も深く、耳と瞼に刻まれています。それら、楽しかったこと、悲しかったこと、怒り、憤りなど様々な感情が蘇る思い出を「或る人事担当者の回想録」としてブログにしたためることにしました。また、その時々に取り組んだ具体的な人事施策(人事制度設計や人材開発の取り組み等)ついても、出来る限り整理して書き出したいと思います。多くの、経営者の皆さん、人事の志を一にする仲間に読んで頂けるような面白いものを書きたいと思います。

最後に、私に様々な仕事の機会と生き方の影響を与えて下さった経営者の皆さんへの感謝を込めて。