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シンガポールでの日々

1995年、精密部品メーカーへ最初の転職をしました。この会社は北陸に本社があり、その創業に私の母方の祖父が関係していたことから叔父が役員を務めるなどしていました。その叔父から、会社がシンガポールに電子部品製造に特化した子会社を設立することになり、シンガポールでずっと働きたいと思っている人を探しているのだがなかなか見つからない。挑戦してみてはどうか、と勧められました。もともとシンガポールには営業の支店があって、日本で製造した電子部品を東南アジアに展開する顧客に販売していたのですが、納期や価格の面で競合他社に対して優位に立つためにシンガポールで現地生産することになったのでした。当時、私にはシンガポールに移住したいという個人的な理由がありました。それは、当ブログのテーマからは外れますので詳しくは述べませんが、加えて、新卒で入社した会社で、なりふり構わず仕事をする時期を過ぎて、やや周囲の風景を眺める余裕もできてきたときに、このままずっとこんな生活が続くのかと疑問に感じ始めていたこともあいまって、若気の至りと言いますか、東京での仕事、生まれ育った横浜を離れる決心をしました。

北陸の本社での準備期間を経てシンガポールに赴任しました。シンガポール現地法人の社長は、担当部門で成果を上げ、将来を期待されたKさんが任命されました。当時、Kさんはまだ30歳代後半だったと思います。私は、ロジスティック(資材物流)マネージャー。上司と同僚はみなシンガポール人。工場長のLさん、製造部長のRさん、品質保証部長のTさんで、皆さん26歳になったばかりの私よりもずっと年上の管理職経験者で、私は右も左も分からない小僧のようなものでした。しかし、最初の会議で、工場長のLさんからはっきりと、「大西は管理職なのだから自分で結果を出してください」と言われました。Lさんを飛び越えて日本から一緒に赴任した社長のKさんの指示を仰ぐことは職制上許されませんし、Kさんも私を育成する意図があったのでしょうか。意図的に私との距離を置いていらっしゃると感じていました。

L工場長、R製造部長、T品質保証部長との会議の後、何もない体育館のような工場に立って、電子部品の原材料と完成品を保管する棚や、製品を検品、計量、梱包、出荷するライン。黙々と働く社員の姿を思い浮かべて、不安や恐れと同時に、転職を決めたからには何としても結果を出さなければならないと身震いしたことを覚えています。しかし、社歴も短く、シンガポールのことも分からない、さらに管理職も経験したことのない私は「ないことだらけ」で、同じことをするにも同僚の何倍も時間と労力がかかりミスも連発しました。何人スタッフを採用しても辞めてしまう。スタッフが辞めてしまった穴を埋めるために不慣れな私が自ら包装、梱包するので、異なる製品が混入してお客様のクレームに発展し営業にも文句を言われる。自らお客様に代替品の納品に行くものの、意地悪な担当者に目の前で製品をばらまかれて(同社が製造する電子部品は非常に小さく一袋数千本単位で納品します)、それを素手で拾わされるなどの屈辱的な扱いも受けました。しかし、そんな私の悪戦苦闘を、Kさんはじっと我慢強く、見守って下さっていたと思います。当時の浅はかな私は、そんなこともつゆ知らず、どんどん精神的にも追い詰められて、次第にその不満の矛先をKさんに向けるようになっていきました。

そんなある日、Kさんが工場2階の社長室から降りてきて、私に笑顔で「大西君、これまでよく頑張った。もうそろそろいいだろう」とおっしゃいました。私は、いよいよ限界だと自分でも分かっていたのだと思います。Kさんの一言で、全身から一気に力が抜けたことを覚えています。Kさんは矢継ぎ早に私の管轄である資材物流部門の改善を始めました。スタッフが定着しないのは、作業場にエアコンがないからでした。そこで、梱包部屋をつくりエアコンを取り付けて快適な環境で作業できるようにしたところ離職が止まりました。私の仕事の負荷を軽減し、苦心していたスタッフとのコミュニケーションの課題を一気に解決するためスーパーバイザーを採用し現場監督を任せました。その人はシンガポールPR(永住権)をもつマレーシア人で、時々シンガポール人のスタッフと口論になることがありましたが、徐々にマネジメントも安定していきました。私は、ただKさんの指示に従って実務を担うだけだったのですが、次々と問題が解決し、スタッフも安心して仕事が出来るようになり、お客様のクレームもゼロになっていくことを体感し、あることに気付きました。それは、仕事の成果は「やる気」に左右されるが、その大前提として「知識と経験」が十分に備わっている必要がある、ということです。特に、経験が乏しい若者には、人それぞれ個人差はあるでしょうが、十分な時間をかけて「知識と経験」を蓄えさせること。これは、国境を越えても、またいつの時代でも不変の法則ではないでしょうか。

もう一つ、Kさんについて忘れられない思い出があります。私は資材も担当していましたので、電子部品の原材料となるメッキ処理を施した伸線を、日本の商社から購入する窓口も担っていました。お客様への納期、販売価格に合わせて組まれた製造スケジュール、原価を勘案して、商社に対して納期や価格の交渉をしました。Kさんは、私の、商社担当者に対する交渉が弱く、先方の言いなりになっていると感じたのでしょう。そこに至るまで相当な時間、私に任せてくれていたと思うのですが、ある日、担当の営業マンとの電話会議に参加したいとおっしゃいました。その会議の席でKさんが担当の営業マンに対して発した言葉は今でも耳に残っています。「(営業マンの名前)さん、お客さんというのはね、自分たちがコントロールされていると感じた瞬間に営業を信用しなくなっちゃうんですよ。あなたは自分たちにとって都合の良いようにわが社をコントロールしようとしている。だから、私はあなたを信用しない。もし、これからも当社との取引を望むのであれば、これまでの考え方を改めてください。」と。本質を突く言葉の重みはすごいですね。その日を境にして、この営業マンの態度は一変し、我々が困った時にはギリギリの線で助けてくれる、かけがえのないパートナーになりました。

Kさんには他にもいろんな思い出があるのですが、切りがないのでこのあたりでひとまず終わりにしたいと思います。余談ですが、私には忘れられない部下がいます。エアコンもない、機械の騒音にさらされる梱包作業場で、次々とスタッフが辞めていく中でも進んで残業を申し出て、最後まで私を助けてくれた「メナチさん」という方です。彼女はマレー系シンガポール人でご主人とお子さんがいて、仕事は正確、勤勉で、やさしい女性でした。私が、シンガポールを離れることになった時、私に、「あなたは良いボスでしたよ」と言ってくれました。仕事が拙く、Kさんに助けられてばかり。みんなに苦労をかけ、良いところなどひとつもなかったと反省していた私でしたが、彼女は、決してお世辞ではなく、本当にそう思ってくれていたんだなと伝わってくる眼をしていました。上司と部下の信頼関係が大事、というのは言うは易く行うは難し。本気で、部下のこと、上司のことを大切に思っているか。そういう関係性を保つ努力、工夫をしているか。「メナチさん」の存在と彼女がくれた言葉が、私がシンガポールで得た勲章だと思っています。

経営者の動機と発想の原点

今後、私らしく、また一人でも多くの方に読んでいただけるブログを書くために、私の理想の状態、また、一番満たされる瞬間を確認しておきたいと考えました。そこで、私の友人で、「Sound Souls」の考案者である神川起世彦さんに相談をしました。「Sound Souls」は、ひとり一人が自分の力が入るタイプポータルとロールポータルを各1種類ずつ持っていて、自分がどのタイプかが分かれば、自分が生まれながらに持っている『世界観』、そしてそこから生まれる『才能』や『役割』を知ることができるという理論です。ちなみに、私のタイプポータルは、鎖骨(人や物事の本質に触れることに喜びを感じる。本質を大切にしているため、話の内容よりも話している人の本心を見ていることが多い)。そして、ロールポータルは頸椎(行動レベル、前に進めていき、アイディアを形にしていくために実際に手足を動かしてイメージが形になるよう情報を集めていくのが得意)です。簡単なチェックで両ポータルが分かり、日常生活で簡単に実践でき効果が体感できるので是非お勧めします。

そんな神川さんのサポートを頂いて、私がずっと志向してきたことが分かりました。それは、「人が強み、持ち味を発揮できていない状態を解消する」こと。ポイントは、「強みを発揮する」ことではなく、「強みを発揮できない環境をどうにかしたい」という無意識の動機です。言葉を変えると、「楽しいことを見つける」ではなく、「楽しめない原因を解消する」という感覚が私にはしっくりきます。その結果、私はずっと新しい職場に入るとイキイキしていない人、不機嫌そうにしている人についつい目が向きました。そして、その原因を探索、発見して対処することで、組織が抱える根本的な問題を解決することができると信じ、様々な方法を学び、あらゆる手立てを講じてきました。その根底にはこんな無意識があったことにいまさらながら気づかされました。神川さん、本当にありがとうございます。

では、成功した経営者はどのような無意識の動機をもっているのでしょうか。一般論としては、無から有を生み出す「発想力」や、事業を極限まで大きくしたいという「欲望」が思い浮かびます。

私が仕えた経営者のお一人にNさんがいらっしゃいます。Nさんは、神奈川県の電子部品メーカーをたった1代で株式上場、グループ総勢10,000人の規模にまで成長させた方です。私はこの会社に2011年3月11日の東日本大震災の発生直後の4月1日に入社しました。同社の常務取締役のSさんがNさんについて、「私は経営者になりたかったのだが、Nさんに仕えるようになってそれは難しいことに気付いた。なぜなら、Nさんにはとてつもなく大きな欲望があって、社長というのはそういう資質がないと務まらない。自分にはそれがないから諦めたんだ」とおっしゃっていました。恐らくNさんには事業拡大のあくなき欲望があり、それが成功要因になったことは間違いないと思います。しかし、その後、私はNさんの意外な一面を見ることになります。

それは、私が企画した、「中堅社員向け研修プログラム」の冒頭、Nさんにお願いした講話の内容でした。Nさんがおっしゃるには、ずっと目指してきたのは、事業を拡大させることではなかった、と。日本国内にひしめく競合他社と比較して様々な面で優勢性に乏しかった同社を倒産させないために、仕方なく中国に進出したと言われたのです。当時、国内で確か300名程度だった規模の会社が、中国でいきなり1万人規模の工場を次々と立ち上げる離れ業をやってのけたのは、決して、事業拡大への野心ではなく、会社を存続させるために仕方なく選択した手段だったと淡々と話しをされるお姿が今でも目に焼き付いています。一代でここまで事業を拡大された方の野心はどれほどのものかを聞けることを期待していたものですから、研修参加者一同、ちょっと拍子抜けしたのですが、それと同時に私は大きな気づきを与えて頂きました。それは、「人には、それぞれ全く異なる動機と発想がある」ということです。経営的な意思決定、行動は同じでも、その原点をひとくくりにして語ることは出来ないということです。Nさんは、「私は常にマイナスの状況からの挽回を発想し意思決定してきた。それが当社の社風になっている」とおっしゃいました。まだ若い中堅社員がその言葉の真意をどこまで理解できたかは分かりませんが、私は、Nさんの動機は「生き残り」。そして、発想の原点は「弱みを強みに変えていくための一発逆転の方法論」であると解釈しました。これを、常人では決して持ちえない欲望と不屈の意思で成し遂げられたNさんに関するエピソードは他にもたくさんありますので、改めて記したいと思います。