2001年の春に約3年間の台湾現地法人での出向勤務を終えて東京の本社に帰任し人事部に配属されました。確か、取締役のどなたからだったか「台湾で役割を果たしたら、帰任する時は好きな仕事をさせてあげるよ」と言われて送り出されたので、帰任が決まった時、営業部門や営業推進の仕事をしたいと申告したのですが、よりによって最もやりたくない人事になってしまいました。人事を避けたかった理由はいろいろあったのですが、一番大きな理由は、
「私には人事のような守りの仕事は向いていない」
と思っていたからで、今でもそう思っています。
当時の私は、よほど人事に戻りたくなかったのでしょう。募集を始めたばかりの大学院(早稲田大学アジア太平洋研究科)に願書と研究計画書を提出しまして、これが「失敗の研究」という旧日本陸軍の失敗を分析した本の共同執筆者の一人で教授の寺本先生という方の目に留まり入学を許可されました。そこで、人事部長に1年間の休職を認めて欲しいと申し出たのですが、進学理由での休職は認められないと却下されてしまいました。そして、管理部門を管掌されていた常務取締役Tさんに台湾から呼び出され差しで飲みまして「つべこべ言わず俺の言うとおりにしろ」と強引に押し切られ、人事に戻ることになってしまいました。台湾での私の仕事を一番認めて下さったのはTさんだったことを知っていましたし、なにせ一度退職した私を再就職させてくれた恩がある会社です。結局は社命に従って人事に戻ることにしました。その夜、Tさんは非常に酔われてご自宅までタクシーでお見送りしたことを覚えています。
帰任した私は海外人事の担当になり、新しく発足する中国現地法人の人事制度を考えたり、上海で採用活動をしたり、日本からの出向者の生活インフラの整備などをしたり、それなりに台湾での経験が活かせているのかな、などと思っていました。しかし、どこか振り切れない物足りなさを感じていました。もっと人がやったことがない新しいことをしてみたいという、焦りにも似た感覚を常に持っていたと思います。
ただ、人事のメンバーとは仕事を離れても楽しい時間を共有しました。部長代理Nさん、課長Sさん、同期のH君はいつも一緒で、仕事が終わると本社がある赤坂の街に繰り出して、毎晩のように飲みながら仕事の話し、遊びのこと等いろんな話をしました。
最初に連れて行ってもらったのがTOT(トット)というショットバーでした。マスターは当時60歳前後だったと思うのですが、その名を聞けば誰でも知っている電機メーカーの社長秘書のご経験者で、そのためビジネスのことに詳しく、また温厚な方だったので私のちっぽけな悩み事にも嫌な顔一つせず耳を傾けてくださいました。最初は人事のメンバーと一緒に行っていたのですがやがて一人で行くようになり、常連の方々とも仲良くなりました。ある方は広告業界の重鎮、有名な「タンスにゴン」というキャッチコピーを考えた人で、よく冗談で笑わせて頂きました。また、演奏会や演劇などの興行会社の社長さんがいて、その方の親友が、私の大先輩で東京フィルのクラリネット奏者だったことからとてもかわいがって頂きました。マスターは明け方にお店を閉めて私と二人だけで朝まで別の店で飲んだりして、本当に楽しい思い出です。
そして、あの2001年9月11日になりました。その日は月曜日で20時頃に仕事が終わりいつものように人事のメンバーで飲みに行こうということになり、どこかで軽く食べてショットバーTOTで飲み始めました。お店は雑居ビルの2階で、店内には当時まだ珍しかった大画面のプロジェクションTVがあり普段はサッカーや野球を映していました。お酒も進んで22時頃だったでしょうか、同期のH君の携帯が鳴りました。奥さんからの電話でした。「貿易センタービルに飛行機が突っ込んで大変なことになってるよ」という内容でした。それを聞いて私たちは、「羽田空港の離陸か着陸に失敗した飛行機が浜松町の貿易センタービルに突っ込んだのかな」などと言いながらマスターにプロジェクションTVでNHKにチャンネルを変えて欲しいとお願いしました。
次の瞬間映し出された映像をみて言葉を失いました。マンハッタンのワールドトレードセンター・ノースタワーから真っ黒な煙がもうもうと立ち上っている光景が映し出され、アナウンサーが旅客機の衝突を繰り返し報じていました。あまりの衝撃的な映像に、これは現実なのか夢なのか、にわかには信じられず、私たちとマスターの目はテレビにくぎ付けとなり言葉を失いました。そして、課長Sさんが一言「これはテロだ」とつぶやきました。彼はテキサス州にあるアメリカの現地法人に2年程出向勤務して前年に帰任していて、アメリカの事情に通じていたのです。しかし、仮にテロだとしても、どうやってこんな大胆なことが出来たのかにわかには信じられなかったので、Sさんを除く私たちは依然事故だと考えていました。そして、じっと画面を見続けていた私たちの目に、今度はサウスタワーに激突する旅客機の映像が飛び込んできました。そして、私たちは確信しました。「これはテロだ」と。
一気に酔いが覚めた私たちはショットバーを出て、急いでオフィスに戻りました。そして、会議室で対応を打ち合わせました。ラジオからはペンタゴンに別の旅客機が激突したこと。行方不明の一機がホワイトハウスに向かっているようだ等々、次々と情報が入ってきました。
テロは継続して企てられているかもしれない。それは米国本土かもしれないし、日本を含む同盟国のどこかかもしれない。とにかく、全社員に対して、当面旅客機での移動を中止させるべき、との結論になりました。部長代理Nさんは人事部長と取締役に本件を報告。課長Sさんは出張者の情報を関係部署から入手してリストアップしました。そして、全員で手分けして、世界中に展開している海外勤務者、出張者にメールを送信し、飛行機の搭乗を控えている社員には直接電話連絡をしてキャンセルを指示しました。確か連絡を取るべき対象者は100名前後いたのではないかと思います。
17階にある私たちのオフィスからは、国会議事堂、アメリカ大使館が眼下に見渡せました。そこに、続々とパトカーが集まり、建物を取り囲み始めました。永田町一帯は、パトカーのテールランプで真っ赤に埋め尽くされていったことを覚えています。
全ての連絡を終えたのは明け方になっていました。夜が明け始めバルコニーで煙草を一服した時、不気味なほど静まり返った東京のひんやりした空気を今でもはっきり覚えています。やがて8時になり社員が続々と出勤してきました。私たちは一睡もしていませんでしたが、何かあれば速やかに対応する必要があるため自席で待機していました。
11時頃になって役員会議室に集められました。そこには、社長以下取締役全員と営業部門、管理部門の部長が集められていました。私たちはオブザーバーとして同席を命じられたのです。そして、テレビ会議が始まりました。私はてっきり米国現地法人と対応を協議すると思ったのですが、接続先はイスラエルでした。
その年に、当時世界最大だった半導体メーカーとの取引が決まり、数台の装置がこのメーカーのイスラエル工場に納入されました。工場はハイファという港町にあり、装置の設置、稼働のために日本から10名程のエンジニアが派遣されていました。その日もいつも通りお客さんの工場で作業をすることになっていました。
イスラエル側の責任者Eさんに対して発した社長Hさんの次の一言でテレビ会議が始まりました。
Hさん「今回のテロの報復としてアメリカはすぐに戦争が始めるだろう。一方、イスラエルは敵対するアラブ諸国から攻撃されることは十分に予想できる。イスラエルの皆さんのことは心配だし出来る事は全てしたいが、その前に、まずは日本から出張させている10名を速やかに帰国させたいので対応をお願いしたい。」
Eさん「それは待って欲しい。お客さんも私達も安全面では万全の態勢で臨んでいる。いま日本人エンジニアを引き上げるということはせっかく獲得したお客さんとの取引を放棄することになる。それでも良いのですか。」
Hさん「我々は従業員の安全を第一に考えている。日本に帰して欲しい。」
Eさん「なんとか作業を継続できる方法が無いか再考願いたい。」
そんなようなやりとりが10分程続いたのではないかと思います。取締役や営業部長の中には、お客さんとの取引継続は重要で、そのためにエンジニアのイスラエル滞在はやむを得ないと考えている人がいたと思います。しかし、誰もそのことを口にしませんでした。普段は穏やかな社長Hさんの声がだんだん大きくなり決心が堅いことが会議室にいた全員に伝わったからです。
社長Hさんは決定的な一言を仰いました。
Hさん「ビジネスは何度でも取り返せる。しかし、従業員に何かあったら命は取り戻せない。これは経営者として絶対にしてはいけない判断だ。」
Eさん「・・・」
Hさん「イスラエルの人は知らないかもしれないが、私達日本人はアメリカという国を良く知っている。太平洋戦争で、日本人は真珠湾の戦艦数隻と軍事施設を攻撃した。一方アメリカは、その報復として日本のほぼすべての都市を焼け野原にし、原子爆弾を2個投下した。真珠湾攻撃の報復が原子爆弾2個だ。そして今回、本当に怒ったアメリカは何をするか分からない。報復は徹底的に、執拗に、何度も繰り返し行われるだろう。もう待ったなしなんだ。今のうちに出張者は帰国させる。選択肢はない。」
そして、Eさんは、しぶしぶ「分かりました。今日中にフライトを手配して、明日日本に帰国させます。」と返事をして会議は終わりました。会議室にいた私たちは黙って、会議室を出ていく社長Hさんの後姿を見送りました。その世界最大の半導体メーカーとの取引は何年もかかって実現した当社の念願でした。この時、社長Hさん判断でそれが流れてしまいました。では、その判断は正しかったのでしょうか。それは、その後の当社の歴史が証明しています。
2001年当時5,000億円ほどだった売上高は1.3兆円(2019年度)に。5,000円ほどだった株価も現在は30,000円水準です。日経平均株価を決定する主要銘柄として、経済人ならばもはや知らない人はいない会社になりました。世界中の半導体メーカーと取引きがあり、その中にはあの時の世界最大の半導体メーカーも含まれています。会社を大きく育てたHさんはその後会長に。最後は社長と会長を兼務。2016年に退任され、昨年、叙勲を受けられました。テレビで久しぶりにお元気そうなお姿を拝見し、Hさんとの懐かしい思い出に浸りました。
次回は、大変尊敬するHさんに初めてお目にかかった時の思い出から書き始めたいと思います。