危機管理」カテゴリーアーカイブ

911米国同時多発テロ

2001年の春に約3年間の台湾現地法人での出向勤務を終えて東京の本社に帰任し人事部に配属されました。確か、取締役のどなたからだったか「台湾で役割を果たしたら、帰任する時は好きな仕事をさせてあげるよ」と言われて送り出されたので、帰任が決まった時、営業部門や営業推進の仕事をしたいと申告したのですが、よりによって最もやりたくない人事になってしまいました。人事を避けたかった理由はいろいろあったのですが、一番大きな理由は、

「私には人事のような守りの仕事は向いていない」

と思っていたからで、今でもそう思っています。

当時の私は、よほど人事に戻りたくなかったのでしょう。募集を始めたばかりの大学院(早稲田大学アジア太平洋研究科)に願書と研究計画書を提出しまして、これが「失敗の研究」という旧日本陸軍の失敗を分析した本の共同執筆者の一人で教授の寺本先生という方の目に留まり入学を許可されました。そこで、人事部長に1年間の休職を認めて欲しいと申し出たのですが、進学理由での休職は認められないと却下されてしまいました。そして、管理部門を管掌されていた常務取締役Tさんに台湾から呼び出され差しで飲みまして「つべこべ言わず俺の言うとおりにしろ」と強引に押し切られ、人事に戻ることになってしまいました。台湾での私の仕事を一番認めて下さったのはTさんだったことを知っていましたし、なにせ一度退職した私を再就職させてくれた恩がある会社です。結局は社命に従って人事に戻ることにしました。その夜、Tさんは非常に酔われてご自宅までタクシーでお見送りしたことを覚えています。

帰任した私は海外人事の担当になり、新しく発足する中国現地法人の人事制度を考えたり、上海で採用活動をしたり、日本からの出向者の生活インフラの整備などをしたり、それなりに台湾での経験が活かせているのかな、などと思っていました。しかし、どこか振り切れない物足りなさを感じていました。もっと人がやったことがない新しいことをしてみたいという、焦りにも似た感覚を常に持っていたと思います。

ただ、人事のメンバーとは仕事を離れても楽しい時間を共有しました。部長代理Nさん、課長Sさん、同期のH君はいつも一緒で、仕事が終わると本社がある赤坂の街に繰り出して、毎晩のように飲みながら仕事の話し、遊びのこと等いろんな話をしました。

最初に連れて行ってもらったのがTOT(トット)というショットバーでした。マスターは当時60歳前後だったと思うのですが、その名を聞けば誰でも知っている電機メーカーの社長秘書のご経験者で、そのためビジネスのことに詳しく、また温厚な方だったので私のちっぽけな悩み事にも嫌な顔一つせず耳を傾けてくださいました。最初は人事のメンバーと一緒に行っていたのですがやがて一人で行くようになり、常連の方々とも仲良くなりました。ある方は広告業界の重鎮、有名な「タンスにゴン」というキャッチコピーを考えた人で、よく冗談で笑わせて頂きました。また、演奏会や演劇などの興行会社の社長さんがいて、その方の親友が、私の大先輩で東京フィルのクラリネット奏者だったことからとてもかわいがって頂きました。マスターは明け方にお店を閉めて私と二人だけで朝まで別の店で飲んだりして、本当に楽しい思い出です。

そして、あの2001年9月11日になりました。その日は月曜日で20時頃に仕事が終わりいつものように人事のメンバーで飲みに行こうということになり、どこかで軽く食べてショットバーTOTで飲み始めました。お店は雑居ビルの2階で、店内には当時まだ珍しかった大画面のプロジェクションTVがあり普段はサッカーや野球を映していました。お酒も進んで22時頃だったでしょうか、同期のH君の携帯が鳴りました。奥さんからの電話でした。「貿易センタービルに飛行機が突っ込んで大変なことになってるよ」という内容でした。それを聞いて私たちは、「羽田空港の離陸か着陸に失敗した飛行機が浜松町の貿易センタービルに突っ込んだのかな」などと言いながらマスターにプロジェクションTVでNHKにチャンネルを変えて欲しいとお願いしました。

次の瞬間映し出された映像をみて言葉を失いました。マンハッタンのワールドトレードセンター・ノースタワーから真っ黒な煙がもうもうと立ち上っている光景が映し出され、アナウンサーが旅客機の衝突を繰り返し報じていました。あまりの衝撃的な映像に、これは現実なのか夢なのか、にわかには信じられず、私たちとマスターの目はテレビにくぎ付けとなり言葉を失いました。そして、課長Sさんが一言「これはテロだ」とつぶやきました。彼はテキサス州にあるアメリカの現地法人に2年程出向勤務して前年に帰任していて、アメリカの事情に通じていたのです。しかし、仮にテロだとしても、どうやってこんな大胆なことが出来たのかにわかには信じられなかったので、Sさんを除く私たちは依然事故だと考えていました。そして、じっと画面を見続けていた私たちの目に、今度はサウスタワーに激突する旅客機の映像が飛び込んできました。そして、私たちは確信しました。「これはテロだ」と。

一気に酔いが覚めた私たちはショットバーを出て、急いでオフィスに戻りました。そして、会議室で対応を打ち合わせました。ラジオからはペンタゴンに別の旅客機が激突したこと。行方不明の一機がホワイトハウスに向かっているようだ等々、次々と情報が入ってきました。

テロは継続して企てられているかもしれない。それは米国本土かもしれないし、日本を含む同盟国のどこかかもしれない。とにかく、全社員に対して、当面旅客機での移動を中止させるべき、との結論になりました。部長代理Nさんは人事部長と取締役に本件を報告。課長Sさんは出張者の情報を関係部署から入手してリストアップしました。そして、全員で手分けして、世界中に展開している海外勤務者、出張者にメールを送信し、飛行機の搭乗を控えている社員には直接電話連絡をしてキャンセルを指示しました。確か連絡を取るべき対象者は100名前後いたのではないかと思います。

17階にある私たちのオフィスからは、国会議事堂、アメリカ大使館が眼下に見渡せました。そこに、続々とパトカーが集まり、建物を取り囲み始めました。永田町一帯は、パトカーのテールランプで真っ赤に埋め尽くされていったことを覚えています。

全ての連絡を終えたのは明け方になっていました。夜が明け始めバルコニーで煙草を一服した時、不気味なほど静まり返った東京のひんやりした空気を今でもはっきり覚えています。やがて8時になり社員が続々と出勤してきました。私たちは一睡もしていませんでしたが、何かあれば速やかに対応する必要があるため自席で待機していました。

11時頃になって役員会議室に集められました。そこには、社長以下取締役全員と営業部門、管理部門の部長が集められていました。私たちはオブザーバーとして同席を命じられたのです。そして、テレビ会議が始まりました。私はてっきり米国現地法人と対応を協議すると思ったのですが、接続先はイスラエルでした。

その年に、当時世界最大だった半導体メーカーとの取引が決まり、数台の装置がこのメーカーのイスラエル工場に納入されました。工場はハイファという港町にあり、装置の設置、稼働のために日本から10名程のエンジニアが派遣されていました。その日もいつも通りお客さんの工場で作業をすることになっていました。

イスラエル側の責任者Eさんに対して発した社長Hさんの次の一言でテレビ会議が始まりました。

Hさん「今回のテロの報復としてアメリカはすぐに戦争が始めるだろう。一方、イスラエルは敵対するアラブ諸国から攻撃されることは十分に予想できる。イスラエルの皆さんのことは心配だし出来る事は全てしたいが、その前に、まずは日本から出張させている10名を速やかに帰国させたいので対応をお願いしたい。」

Eさん「それは待って欲しい。お客さんも私達も安全面では万全の態勢で臨んでいる。いま日本人エンジニアを引き上げるということはせっかく獲得したお客さんとの取引を放棄することになる。それでも良いのですか。」

Hさん「我々は従業員の安全を第一に考えている。日本に帰して欲しい。」

Eさん「なんとか作業を継続できる方法が無いか再考願いたい。」

そんなようなやりとりが10分程続いたのではないかと思います。取締役や営業部長の中には、お客さんとの取引継続は重要で、そのためにエンジニアのイスラエル滞在はやむを得ないと考えている人がいたと思います。しかし、誰もそのことを口にしませんでした。普段は穏やかな社長Hさんの声がだんだん大きくなり決心が堅いことが会議室にいた全員に伝わったからです。

社長Hさんは決定的な一言を仰いました。

Hさん「ビジネスは何度でも取り返せる。しかし、従業員に何かあったら命は取り戻せない。これは経営者として絶対にしてはいけない判断だ。」

Eさん「・・・」

Hさん「イスラエルの人は知らないかもしれないが、私達日本人はアメリカという国を良く知っている。太平洋戦争で、日本人は真珠湾の戦艦数隻と軍事施設を攻撃した。一方アメリカは、その報復として日本のほぼすべての都市を焼け野原にし、原子爆弾を2個投下した。真珠湾攻撃の報復が原子爆弾2個だ。そして今回、本当に怒ったアメリカは何をするか分からない。報復は徹底的に、執拗に、何度も繰り返し行われるだろう。もう待ったなしなんだ。今のうちに出張者は帰国させる。選択肢はない。」

そして、Eさんは、しぶしぶ「分かりました。今日中にフライトを手配して、明日日本に帰国させます。」と返事をして会議は終わりました。会議室にいた私たちは黙って、会議室を出ていく社長Hさんの後姿を見送りました。その世界最大の半導体メーカーとの取引は何年もかかって実現した当社の念願でした。この時、社長Hさん判断でそれが流れてしまいました。では、その判断は正しかったのでしょうか。それは、その後の当社の歴史が証明しています。

2001年当時5,000億円ほどだった売上高は1.3兆円(2019年度)に。5,000円ほどだった株価も現在は30,000円水準です。日経平均株価を決定する主要銘柄として、経済人ならばもはや知らない人はいない会社になりました。世界中の半導体メーカーと取引きがあり、その中にはあの時の世界最大の半導体メーカーも含まれています。会社を大きく育てたHさんはその後会長に。最後は社長と会長を兼務。2016年に退任され、昨年、叙勲を受けられました。テレビで久しぶりにお元気そうなお姿を拝見し、Hさんとの懐かしい思い出に浸りました。

次回は、大変尊敬するHさんに初めてお目にかかった時の思い出から書き始めたいと思います。

「知識」だけでは対応できない「危機管理」のはなし

コロナウィルス感染拡大に対する日本政府の対応に懐疑的な声が上がっています。私は、繰り返し報道される打ち手の上手、下手よりも、そもそも政府はどのような「危機管理」のポリシーを掲げてこの件に取り組んでいるのだろうかと疑問に感じています。

例えば、台湾政府の場合ですと「民主主義の理念に従って、市民の協力を最大限得ることが出来るような政策を講ずる」ことをポリシーに掲げてコロナ対策を講じ感染の抑え込みに成功しています。日本政府はどうでしょうか。どこに軸足をおくのかあいまいで、やることがちぐはぐしていませんか。

Go To トラベルキャンペーンを強行したところをみると経済優先のように見えますが、スウェーデンのような集団免疫獲得を目指すような意思表示はどこにも見かけません。一方、医療現場のひっ迫を切実な問題として懸念する自治体の長は、飲食店などに対して営業時間短縮等の自粛を求めています。国と地方が別の視点で政治を行い、分裂状態に陥っているかのように感じているのは私だけはないと思います。私たちが抱えるリスクとは、突き詰めれば、政策の根幹である明確なポリシーを掲げることに消極的なリーダーの存在そのものではないでしょうか。

そこで、これから3回に分けて、有事(想定外の出来事)への対応、つまり「危機管理」について書きたいと思います。今回は、割と最近起きた出来事に関する私の経験を。そして、次回以降は、私が影響を受けたお二人の経営者について書きたいと思います。お二人の経営者は共に有事に際して、「従業員の安全を第一にこれを守る」とのポリシーに基づいた意思決定をされたのですが、そのポリシーがどのような行動として表出したのか私の記憶をたどります。

さて、「危機管理」という言葉の意味をネットで確認したところ、「リスクマネジメント」と「クライシスマネジメント」に分かれていて、それぞれは次のように定義されていることが分かりました。

・リスクマネジメント
危機事態の発生を予防するためのリスクの分析方法等

・クライシスマネジメント
危機事態の発生後の対処方法

つまり、シンプルに言うと「事前の対策」と「事後の対処」のことです。ところで、私たち人事担当者は、従業員の安全を守るという役割を課されていますので、事前に危機を最小化し、且つ、危機発生に際しては迅速に対応する、といった「危機管理担当」を兼務しているといえるでしょう。

以前ブログで、人事の仕事には、

「採用→配置・労務→育成→評価→処遇のサイクルをムリ・ムラ・ムダなくスムーズに回す知見と仕事能力が求められる」

と書きました。ある程度未来が予測できる状況では、知識を使って人事サイクルを回せば一定の成果を出すことが出来ると思います。しかし、有事への対応は知識だけでは足りません。圧倒的に「経験」が必要だと私は考えています。

そこで、「有事には経験がものをいう」ということを示す一つの事例を紹介します。

2009年に発生した奇跡的な生還劇として知られるUSエアウェイズ1549便不時着水事故を映画化した「ハドソン川の奇跡(原題:Sully、クリント・イーストウッド監督・製作、トム・ハンクス主演)は、絶体絶命の危機を回避したサレンバーガー機長を描いています。

USエアウェイズ1549便は、離陸直後に鳥がエンジンに吸い込まれ機能不全を起こすバードストライクが発生し、両エンジンが推進力を失ってしまいます。滑降状態に陥った飛行機を瞬時の判断と、巧みな操縦技術で無事ハドソン川に着水させて、一人の死傷者も出さなかったサレンバーガー機長は時の英雄となりました。

映画では、事故後に開かれた公聴会の場で、サレンバーガー機長が、事故調査委員会が収集した資料を根拠に、ハドソン川に着水する必要はなく、出発地のラガーディア空港や、近郊の空港への着陸が可能だったはず、と厳しく追及される様子が描かれます。

そして、映画のクライマックスでは、サレンバーガー機長による、

「調査委員会の資料には人的な要素が反映されていない。正確な検証をするためには人的要素を加味すべきだ。」

との一言で形勢が逆転します。

予期せぬ事態(両エンジンが同時に推進力を失う)に際して、どのように対処すべきかという訓練を一切受けていない操縦士が意思決定を行うまでには一定の時間を要するはず。にもかかわらず、調査委員会が提出した資料の根拠であるフライトシミュレーターの検証では、あらかじめ近郊の空港に着陸するとの答えが与えられた操縦士が、迷いなく航路変更を行い、しかも複数回練習が行われた。このような実際とは異なる環境下で導かれた結論は正しい検証結果とは言えないはず、とサレンバーガー機長は指摘しました。そして、バードストライクから30秒の間隔をおいて航路変更を行い、着陸を試みるようシミュレーションし直した結果、いずれのケースにおいても飛行機は墜落していたであろうことが明らかになります。

事故調査委員会は、公聴会の最後に、

「あらゆる見地から科学的な調査を行ったが、成功の要因を見つけることは出来なかった。事故を回避できた決定的な要因は、科学で検証できない機長の存在そのもの(ファクターX)だったとしか言いようがない。」

と結論付け、サレンバーガー機長のハドソン川着水の判断は正しかったことが実証されます。

では、サレンバーガー機長の存在そのもの(ファクターX)とは一体なんなのでしょうか。そのヒントは機長役のトム・ハンクスが繰り返し言う、

「私は、何千回という飛行経験から空港への着陸は不可能と判断した。」

との台詞が表しているように、成功要因はサレンバーガー機長の「経験」だったことが暗示されます。そして、映画は、サレンバーガー機長がパイロットとして積んでいった「経験」を丁寧に描いていきます。

サレンバーガー機長の足元にも及びませんが、私も人事担当者として仕事をしてきた中で、いくつかの有事に直面し危機管理を担ったことがあります。その中でも大きな出来事は、1999年9月21日に発生した台湾集集大地震と、2001年9月11日の米国同時多発テロでした。このことについては、次回以降のブログで書くことにして、今回は、割と最近起きた出来事に関する私の経験を書きたいと思います。

2018年3月から大阪のIT系ベンチャー企業の人事総務を主管しました。この企業は複数の大手企業とエンジェル投資家から出資を受け、事業面での急成長が期待されていました。また、それを支える人事面のテコ入れが急務になっていました。そこで、この企業の顧問を務めていた大学院同期のIさんからご紹介頂いたことがきっかけとなり、福岡から単身大阪に行くことを決めました。当初から期間限定のピンチヒッターのつもりでいましたので、急ピッチで人事制度の整備や運用上の不具合解消に取り組んだのですが、特に私が重視したのは「危機管理」でした。

というのも、この企業は大阪市中央区に所在していて、私はこの地域には2つの危機管理上のリスクがあることを知っていたからです。

1つ目は、大阪市内を南北に縦断する上町断層(豊中市から上町台地の西の端を通り岸和田市にまで続く長さ約40キロの断層)を震源とする直下型地震です。内閣府の中央防災会議の報告ではM7.6を想定し、被害が最も大きい場合、死者4万2000人、負傷者22万人、帰宅困難者200万人、全壊棟数97万棟、避難者550万人、経済への被害74兆円と想定されています。

2つ目は、南海トラフを震源とするM9の巨大地震です。大阪市の広報によると、中央区は最大震度6強の揺れが襲います。加えて、海溝型地震ですので津波が発生します。津波は地震発生から約2時間後に大阪湾に到達し河川を遡上。梅田、なんば、天王寺等主要な繁華街をはじめ大阪市中心部が浸水すると想定されています。

いずれにケースにおいても従業員が被災を避けることは不可能と思われました。さらに、この企業には東京支店があり、首都直下地震が発生した場合には、勤務する6名の従業員が被災する危険性も抱えていました。

そこで、私は危機管理の「事前の対策」として、

①従業員安否確認システムの導入と従業員への啓発
②避難用品の備蓄
③自宅で被災した場合の広域避難場所の確認

を行いました。特に、安否確認システムについては、今となっては何故かはわかりませんが、一刻も早く運用を開始する必要があると考え、数日でシステムを選定、契約、導入準備を整えて、従業員に説明会を開きました。その場で私は従業員に以下を訴えました。

「これまで約25年間、私は、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、台湾集集大地震、同時多発テロ、東日本大震災等、様々な自然災害、事件、事故に直面し対応してきました。そんな私も今年50歳です。従業員の皆さんの中には20代の人もたくさんいますね。つまり、これから皆さんが、私が過ごしてきたのと同じ時間を過ごす間には、私が経験したこと、もしくはそれ以上の出来事が必ず起きるんです。会社は皆さんの安全を第一に考えます。そして、皆さんが危険に遭遇した時には必ず助けに行きます。そして、誰がどこで助けを求めているかを、最速で把握するためにこのシステムを導入することにしました。だから皆さん自身の身を守るために運用に協力して欲しい。」

従業員は、概ね私の言葉に理解を示し、6月11日(月)の導入日から5日間でテスト運用を3回繰り返した結果、ほぼ全員の安否確認が出来る状態になりました。

そして、システムが稼働した翌週、2018年6月18日(月)、多くの人が出勤途上の大阪を、大きな揺れが襲ったのです。

大阪府北部地震(おおさかふほくぶじしん)は、2018年(平成30年)6月18日7時58分39秒に、日本の大阪府北部を震源として発生した地震。地震の規模はM6.1で、震源の深さは13キロメートル (km)(ともに暫定値)。最大震度6弱を大阪府大阪市北区・高槻市・枚方市・茨木市・箕面市の5市区で観測した。(Wikipediaより抜粋)

私はこの時、ジムでランニングをしていまして、突然、ドスンという下から突き上げるような揺れで着地を踏み外しそうになりました。ジム内は騒然としていましたが、私はすぐにシャワーを浴び、着替えを済ませて会社があるビルに向かいました。ビルは停電でオートロックがかかったまま通用口が開かなかったため、ビル一階のカフェに入り、前週に立ち上げたばかりの安否確認システムのスマホアプリを起動しました。

システムでは、地震の発生に際して自動的に震源地、震度の情報を登録ユーザーに通知する仕組みとなっていて、私は、震度5以上の地震発生際して登録済の従業員とその家族に安否確認のメールが自動送信される設定をしていました。既に安否確認の一報が出された後でしたので、続々と「自宅で安全が確保できている」や「出勤途上の交通機関の状況」等、返信が入り始めていて、それらの内容をひとつひとつ確認しました。そして、役員とカフェで合流し、状況を報告した上で、「会社は停電で入室が出来ないので全員自宅待機」を指示しました。通勤途上の従業員は、会社が近い場合は一旦出勤し、鉄道の運行が再開された時点で帰宅させました。

幸運にも発生が危惧されていた上町断層の直下型地震は免れました。私は地震が発生した瞬間、「いよいよ来たか!」と感じましたので、揺れがすぐに収まった当初はほっとしました。しかし、高槻市では学校のブロック塀が崩れ、小学生が下敷きになって死亡するなど、6名の方の尊い命が失われ、重症者62名、軽症者400名、住宅被害は一部損壊迄含めると62,000に及んだことで、都市部の地震の危険性をまざまざと見せつけられました。

さて、地震発生から数日経って、仕事も通常に戻った時に、ある従業員が私のところにやってきて次のような会話をしたことを覚えています。

従業員「安否確認システムの運用は先週でしたよね。大西さんは地震が起きるのを予想していたんですか?」

私「私は予言者ではないのではっきりしたことは分からなかったけど、なんとなく、今やらなければならない、という直観のようなものはありましたよ。」

人が何かを感じる時、そこには何かの意味が隠されていると私は考えています。あの時の私のそれは、かつての危機管理の経験がそうさせたのかもしれません。

次回以降のブログでは、私の危機管理のベースとなった2つの経験、1999年9月21日に発生した台湾集集地震と、2001年9月11日の米国同時多発テロに際して垣間見た経営者の姿を書きたいと思います。