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従来の「改善」を超える方法

前回のブログで、従業員の「仕事の煩雑さを解消してほしい」という要望から、社内の内線電話網を拡張することを思いつき、大きなコスト削減を実現したことを書きました。他にも同じように従業員の何気ない一言、また仕事ぶりの観察を起点にして実現した改善がありますので書き留めておくことにしました。

事例1:タクシーチケットの導入

台湾の現地法人で管理部門を主管しました。経理、資金繰りから人事総務、物流、輸出入等、全ての間接業務を担いました。その中で、業務が特に煩雑でスタッフの残業が最も多かったのが「経理」でした。その原因は、システム化の遅れにありました。今となっては信じられない話ですが、私の着任時には経理ソフトが未導入で、手書き伝票をひたすらExcelで仕分けして処理していました。その様子を横で見ていて、社員が継続的に増えて会社が大きくなることも見えていましたし、このまま業務のやり方を変えずにいると遠からずパンクすると考えました。そこで、現状の人員(2名)を増やさずに業務量の増加に耐えうる方法を講ずることにしました。

まず当面策として、伝票処理の大半を占める「駐在員のタクシー代」の立替精算にメスを入れました。駐在員には、自家用車やバイクでの移動を安全面から禁止していましたので、移動に際しては毎回タクシーを利用しなければなりませんでした。駐在員25名が、平均して一日に2回タクシーを利用したとすると、月稼働22日として乗車回数1,100回になります。すると毎月1,100枚の領収書が経理に回ってきて、一件ずつ伝票に起こし、現金で精算する必要が生じます。この作業を延々と続けていました。私は、タクシー会社に、当社が独自に作成したタクシーチケットの利用を認めるように交渉しました。市中のタクシー会社3社の内、2社がこの要求を受け入れました。駐在員にタクシーチケットの利用方法を説明して導入を開始しました。当初は、タクシー会社のドライバーに新ルールが浸透しておらず、降車時にトラブルになることがありましたが、1ヶ月ほどすると定着して経費処理の工数が劇的に削減できました。

続いて、経理ソフトを導入しました。従来のExcelによる仕分け作業をなくし、更に、各部門のアシスタントに経理ソフトの機能を一部開放して部門毎に経費伝票の起票を任せて経理スタッフは入力情報のチェックと承認だけをすることにしました。その結果、経理スタッフの業務は激減し、その空いた時間を決算作業や経費の分析に充てることが出来ました。

事例2:職場レイアウトの変更

ベトナムの現地法人で人事総務を主管しました。着任して自席に座り目の前に部下がずらっと座っている姿を見て、とっさに頭に浮かんだのは「この人たちを幸せに出来るかな」という言葉でした。日常の仕事は回っているし、まずは様子を観察して、急いで対処すべきことと、じっくりと取り組むべきことを把握しようと考えました。

まず気になったのは、私の目の前にずらっとならんだキャビネットでした。人の腰の高さくらいのものが右は総務、左は人事のスタッフを分断していました。どのような意図で職場を二つに分けたのか不明でしたが、真っ先に違和感を覚えました。しばらくすると、総務のスタッフがやってきて、人事のスタッフへの不満を訴えました。職場で対応しなければならないことがあっても、人事のスタッフは見て見ぬふりで協力的でないというのです。そこで、人事のスタッフにも話しを聞いてみました。彼女たちの言い分は、総務からいろいろ言われていることは知っているけれど、人事と総務とでは仕事の内容が違うし、私たちも遊んでいるわけではないのに協力的でないと言われても納得できない、というものでした。

さて、どうしようかなと思っていた時に、ふと目を上げると前述のキャビネットが目に留まりました。以前、心理学を学んだ時に、心理的な壁を物理的に解消できる、ということを知っていたので、ひょっとすると、人事と総務を隔ているこのキャビネットの存在が対立を生じているのではないかと考えました。最初、課長にその話しをしたところ、スタッフの仲が悪いのは性格が原因でキャビネットを取り払ったからといって解消するとは信じられない。キャビネットにはたくさんの書類が格納されていて、動かそうとすると大変な作業になるので出来れば避けたい、とのことでした。しかし、私はきっとうまくいくのでやってみようと説得し休日にそれまで職場の中央に陣取っていたキャビネットを左右に移動しました。

月曜日になって出社したスタッフたちは当初少し戸惑っている様子でしたが、翌日には違和感も薄まったようでした。私は、スタッフの動きを観察していました。すると、それまでキャビネットがあったため迂回しなければならなかった職場の導線が直線になり、スタッフがお互いの席のすぐ横を通り過ぎるようになりました。やがて、誰からとなくお互いに言葉を掛け合って会話もしている様子が目に留まるようになりました。明らかにスタッフの表情が変わり職場の雰囲気が和やかになったようでした。そして、1ヵ月程経って、人事と総務のスタッフに職場の雰囲気について質問したところ「以前のような不信感とか懸念がなくなったような気がする」という返事が返ってきました。

ただ単にキャビネットを動かしただけにもかかわらず、このような成果が出るとは私もびっくりしました。そして、その時私が感じたのは「人間は本来、人と仲良くしたいと思っている。しかし、それを何かの条件が邪魔しているのではないか。楽しむことに注目するのではなく、楽しめない原因に注目した方がうまくいく」ということでした。

以上の私の経験を振り返り、私たちに合った「改善の方法」について考えてみました。

まず「改善」と「改革」という似て非なる言葉の意味について調べてみました。(出典:Wikipedia)

改善: 誤りや欠陥、ミスを是正し、より良い状態にする事、行為。日本の製造業で生まれた工場の作業者が中心となって行う活動・戦略のことである。日本国外でも通用する言葉であり、本来の意味と区別するためにカイゼン、Kaizenとも表記される。

改革: ある対象を改め、変化させること。革命とは異なり、現時点での基本的な体制を保ちつつ、内部に変化を作ることをいう。変革とも呼ばれる。

また、私は、それぞれの実行の主体と目的を以下のように理解しています。

改善: 従業員によるボトムアップ。目的は業務の部分最適化。

改革: 経営によるトップダウン。目的は複数部門にまたがる全体最適化。

これをみると、私が考える「良い改善」とは、実行の主体は、従業員によるボトムアップで、目的は全体最適という、ちょうど「改善」と「改革」の中間に位置するイメージをもっています。適切な言葉を探しましたが、ベトナムの経済・社会思想政策「ドイモイ」の日本語訳「刷新」がぴったりします。

私が考える改善(刷新)のステップは以下の通りです。

1.上司(マネージャー)は、部下(従業員)の言葉をよく聴き、仕事の様子を観察して先入観抜きで「ありのまま」に受け入れる。そして、「自分だったらどう感じるか、どうするか」を自問自答する。

2.顕在化した問題の一段上の視点から問題発生の本質を把握する。顕在化した問題の解決と同時に本質的な問題にメスが入る方法を検討する。

3.社内外を見渡し、問題解決に有効な素材を見つけて、それらを組み合わせた打ち手を講ずる。

一段上のレベルで本質的な問題に気付くと、既存の問題はおのずと問題ではなくなります。例えば、人間関係がこじれた場合、当事者と同じレベルにいては良い解決策を導くことは難しいですが、一段上のレベルに立ちそこから俯瞰すると、実は人間関係は問題ではなく、人間関係がこじれた背景と真因、そして解決策が思い浮かぶことはよくあると思います。坂本龍馬が薩長同盟を成立するために、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の双方がお互いに武器と米を融通し合うことを提案したという話は有名です。

このようなステップで問題を特定すると一般的な、誤りや欠陥、ミスを是正し、より良い状態にするという「改善」より一段上の、組織に変化をもたらす「改革」レベルに近づく解決が可能となります。

また、職場の人間関係に基づいた従業員起点の発想が有効な理由があります。

1.従業員の気持ちに配慮してあぶり出した問題解決の方が、理解と協力が得られやすく、結果的に早く成果を出せるため。

2.日本人は「関係構築」を重視するため。

1.は理解しやすいと思います。一方、2.については心理学者の河合隼雄さんの言葉が参考になります。

河合さんは日本の心理学の先駆けとしてアメリカとスイスで心理療法を学び、これを日本に導入しました。しかし、欧米で効果を発揮した手法が日本では必ずしもうまくいかないことに気付き、その原因を探索する中で、日本の文化の源流(神話や宗教)をたどり始めました。そして、箱庭療法など、日本的環境や日本的心性に合った心理療法を考案しました。そんな河合さんが、日本と欧米の違いを分かりやすい例で説明しています。

日本人と欧米人が大勢の聴衆を前にしてスピーチに臨むとき、二人は異なることをすると河合さんは指摘しました。

・欧米人はジョークで場を和ませる。

これは欧米人が「自我」を第一と考え、一人一人異なる「自我」もった人間の集まりにおいては、まず自分が何者であるかを伝える事。そして、また親近感をもってもらうためにジョークを多用する。

・日本人は、開口一番うやうやしく「一段高いところから失礼します」と挨拶する。

日本人はスピーチの役割を担うことによって、自分と聴衆との関係に変化が生じることを恐れます。そして「私はこれからスピーチをするけれども、だからといって皆さん(聴衆)と私の関係はこれまで通りですよ」というアピールをする。

私達日本人が自然に共有してきた「関係構築」重視の文化は、強みであると同時に、時として弱みになることもあります。それは、日本人が、自分の意志とは別に、与えられた共同体内の人間関係を大切にする反面、自分の自由意志で、他者とつながり関係性を広げることは苦手とするからです。

環境変化の少ない安定期にあっては、身近な人との「関係性を保つ」ことは有効でしょう。何故なら、現状を継続的にメンテナンスして部分最適(改善)することは、派手さはないものの、確実だからです。

一方、環境に激変が生ずると、部分最適(改善)活動では効果が限定されます。そこで、従来にはない発想で全体最適(改革)の実行が求められます。「改革」とはある意味、人(従業員)よりも、事(打ち手)をより重視する取り組みです。企業組織を優先して、これは表現が不適切かもしれませんが、従業員の納得感を得られなくても実行することを優先するものです。

では、環境の激変期に必要とされる全体最適とは、ボトムアップでは実現できないものなのでしょうか。そこに、私たちが乗り越えていくべき課題があると思います。

私は、従業員一人一人が求めている、漠然とした情報の中にこそ、組織が最優先で取り組むべき潜在的な問題を先取りするヒントが隠されていると思っています。

「細部に神は宿る」という言葉があります。見えないところこそ念入りに掃除をしろと上司から言われたとき、併せてこの言葉を教えて頂きました。小さいことを無視したら大きな方向性を見失うよ、と。

万物の最小単位である素粒子の誕生の謎はまだ解明されていないようです。素粒子には、まるでその一つ一つが精密にプログラミングされているように仕組みが備わっていて、それは神の手によってつくられたのではないかと考える研究者さえいるようです。

このことは、我々が重視すべき基本単位が、これ以上分割できない一人一人の人間だということを示唆しています。組織視点の「あるべき論」を従業員に押し付けるのではなく、一人一人の人間が、生きるために求めていること、感じていることを決して無視すべきではないのです。

「改善」の目的は部分最適に非ず。働く私たち一人一人がお互いに、生かし生かされつつ、共に手を携えてより良い人生を実現するという、究極の「全体最適」を目的に定めるべきではないかと私は考えます。

人事担当者の「現場主義」

「現場主義」という言葉があります。国連難民高等弁務官(1991年 – 2000年)等、国際機関の要職を務められた故緒方貞子さんは、生涯「現場主義」を貫き、解決不可能と思われる問題に対しても難民に寄り添い、その願いを実現する活動をされました。緒方さんにとっての「現場主義」とは、問題の当事者を起点として、その幸福の実現をただ一つの目標とした考え方と態度だったのではないかと思います。

人事の仕事も「現場主義」であれと言われます。しかし「現場」とは何を指すのか、誰にとっての幸福の実現なのか、どんな態度で、現場で起きる問題に向き合うべきなのか、明確に応えることが出来る人は少ないかもしれません。私も40代半ばくらいまでは、何が正しいことなのかが分からず、ずっと手探りでやって来たように記憶しています。そこで、今回は人事担当者にとっての「現場主義」について書きたいと思います。

私は、中学高校と吹奏楽部に所属して、トロンボーン、テューバ、サックスを担当しました。楽器を吹いていた記憶よりも、部活を運営していた、という記憶の方が鮮明です。というのも、中高を通じて部活の代表を任されていたので、どうすれば良い活動が出来るのかを常に考え、取り組んでいたからです。

私が大切にしていたことは、メンバー全員の願いを決してないがしろにしない、ということでした。吹奏楽部の場合、コンクールなど定員が決められている場合を除いて、全員がステージに上り、演奏をするメンバーですので、誰一人漏らすことなく、というのはそういう状況から浮かんだ思いでした。ですので、もめごとや、辞めたいという話しを聞いたら、当事者から話しを聞きました。そして、メンバーがそれぞれ部活に対して思っていること、望んでいることを把握して、それが実現するようにしました。中には、自分さえ良ければよいというエゴの話しも聞いたりして、そのようなときは部活が集団活動である以上、個人の勝手は認めないと戒め、それでも従わない人には辞めてもらいました。

私が中学3年生の時、例年のように大勢の新入生の入部希望者がやってきました。そして、毎年のことですが、人気がある楽器(フルートやサックス)に希望が集中してしまい予定の定員数を超えてしまいました。その時は、くじ引きをして、外れた人には次の希望の楽器を選んでもらうという方法を採ったのですが、ある女子生徒の保護者(母親)から夜、私の自宅に電話がかかってきまして、母から取り継いでもらったところ、この方の主張は「学校の部活なのにやりたい楽器をさせてもらえないというのは納得がいかない。あなたは部長でしょ。間違っていると思わないの」という内容でした。

私は、以下のようにきっぱりと返答しました。

私「部活には150人を超える大勢の部員がいます。それら一人一人の希望をかなえてあげたいですが、どうしても出来ないことがあります。それで、先輩から引き継がれている方法は、定員を超えた場合はくじ引きで担当楽器を決定することになっています。娘さんはそのルールでくじに外れて希望楽器を担当することは出来ませんでした。しかし、他にもたくさんの楽器があり、部活に参加することは出来ます。もし、このルールに従っていただけないならば、入部していただかなくてもいいです。」

保護者「たかが部活動で大人のようなことを言って。娘の希望を叶えてもらえないのは納得がいかないが、これ以上あなたと話しても解決できないので切ります。」

結局、その女子生徒が入部することはありませんでした。それよりも、私とその保護者との会話を横で聞いていた母が「自分の息子が大人に対してそこまできっぱり言うとはびっくりした」と言っていました。責任感というのは、年齢は関係ないと思います。与えられた役割を懸命に果たそうとするのは、大人も子供も変わりない、というのはその時の私の経験で学んだことです。

それから月日が流れて就職し、入社2年目に営業部の配属となり、九州の製造工場に1ヵ月程研修で派遣されることになりました。派遣にあたって上司である部長代理Hさんから出されたテーマは次のようなものでした。

工場と営業部の担当者同士の関係があまりよくない。工場の言い分として、営業部は身勝手に要求するだけで自分たちの都合に配慮が欠けている、と。一方、営業部も、重要なお客さんの要望にもかかわらず、工場の担当者は自分たちの都合ばかりで協力する姿勢が足りないと思う、ということだ。これを、研修期間の1ヵ月の内に解決して欲しい。よろしく頼むね、と言われました。

そこで、営業部の先輩社員から話しを聞いて、上司から聞いた話と不一致がないことを確認して九州に赴きました。私の研修先は、工場の生産管理部といって、工場全体の管理、特に生産工程と納期管理を担う部門でした。工場の全部門の見学と仕事の説明を受け、全体の輪郭がつかめてきたところで、生産管理部の担当者お一人お一人から話しを聞きました。質問は「営業部に言いたいことは何ですか?何を困っていますか?」というものでした。

担当者の方々は6人くらいだったと思うのですが、皆さん率直に話しをしてくれました。事前に上司から聞いていた通り、営業部の要望は時間も関係なくファックスで一方的に送られてきて、返答の納期もいつも「最速で」と言われる。どれも最速だと優先順位をつけることが出来ないし対応に困っている、という内容でした。私はヒアリングしたメモを読み返して、実際にどのように営業部から要望がファックスで届くのか実際の様子を観察しました。担当者が言うように、朝出勤すると前日に発信された何枚かの問い合わせが届いているのでそれに採番をして、関係部門に配布して回答までにかかる納期を確認することから一日が始まっていました。そして、勤務中にも不定期にファックスの着信音が職場内に響き、その度にファックスの所へ移動して受信を確認、採番し、再び関係部門に問い合わせをするという作業を繰り返していました。その時、ふと考えたのは、もし自分がこの担当者だったらどう思うだろうかということでした。きっと、他の仕事に集中して取り組めないし、一方的にやらされる仕事で嫌になるだろうなという共感でした。担当者のイライラと、その気持ちが営業部への電話の言葉の端々に表れていて、これでは本来、ビジネスの成功のために一致協力して取り組むべき関係には到底ならないなと思いました。

そこで私は、提案のレポートを作成しました。

1)営業部から生産管理部へ問い合わせのファックスを送る時刻を決める午前11時と午後3時の2回とする。但し、それを待てない場合は、まず電話をして事情を説明して、緊急のスタンプを押した要望書をファックスする。

2)生産管理部は問い合わせのファックスを受信したら、関係部門に回答納期を確認する。午前中受信分は当日中に営業部に納期を回答する。午後受信した分は翌営業日の午前中に納期を回答する。営業部として回答まで半日以上待てない場合は、その理由と回答希望時刻を電話で生産管理部の担当者に伝える。

3)最後に、以上のルールで運用して、もし問題が生じた場合はそれぞれの上長にその旨相談して、営業部と生産管理部、双方の上長が話し合いで解決する。

いま考えると、この問題の解決はそれほど難易度が高くなかったと思います。にもかかわらず、私の研修までの長い間放置されていたのは、本社(営業部)と工場(生産管理部)の立場の違い(力関係)によるものだったと思います。工場は従うもの、という暗黙の了解が双方にあり、担当者はその見えない制約に従わざるを得なかったのではないでしょうか。

私は、前述の改善案を上司の部長代理Hさんに送り反応を待ちました。そして、Hさんから返事がありました。

「大西君のレポートをコピーして営業部全員に配布したよ。そして、まだ新卒2年目の大西君だけど立派な解決策を考えてくれた。みんなも見習って欲しいと言ったんだ」と返事がありました。そして、その日から営業部と生産管理部間のやりとりが私の改善案通りとなり、まるで霧が晴れるように問題は解決しました。

この経験は私の原体験として深く心に刻まれました。それから後、この発想(従業員視点での問題解決)を行く先々の職場で応用しました。

赴任先の台湾の職場に、代理店から派遣されて当社と代理店の中継ぎをする担当者がいました。私の着任早々、その社員が私のところに来て「相談があります」と言われました。

彼女によると、私の前任者に再三要望していたのだけれどまったく対応してもらえなかったことがあって、それは多分私が代理店の社員だからだと思う。情報の中継ぎの仕事なので、日本から電話が来て、その内容を代理店に電話して伝えるのだが、毎回、毎回、電話を掛けるのがとても面倒で時間がかかる。そこで、短縮番号を登録すればいいじゃないかと、あなたの前任者から言われてしまったが、そもそも何故、内線電話が両社の間にはないのか。内線電話があれば非常に便利になるはずだ、という内容でした。私はまず、会社が要望に対応せず放置していたことを謝りました。そして、すこし時間が欲しいとお願いしました。

私はまず、会社の関係者に、内線の設置が何故できないのかを質問しました。その回答は、現地法人と代理店は別会社であること。また代理店は工業団地に登記された会社で、これと工業団地の外の会社を内線の専用回線でつなぐことは法律的に認められていない、というものでした。私は事実確認の為に弁護士に相談に行きました。そして、弁護士の回答は、従来はそのような規制があったが、現在は問題ないとの事でした。

あとは、内線の設置にかかるコストと費用対効果を試算をしました。

【現状コスト】

1.国際通話料金
日本(本社・各工場)⇔台湾(現地法人(市中))
日本(本社・各工場)⇔台湾(代理店(工業団地内))

2.台湾国内通話料金
現地法人(市中)⇔代理店(工業団地内)

*さらに、内線の専用回線には当時の最新技術でVOIP(Voice Over IP)というものがあり、これを使えば音声だけでなくデータの送受信も同時にできることが分かり、既存のデータ用専用回線の契約は無用になることが分かりました。

【新規コスト】

専用回線
日本(本社)⇔台湾(現地法人)⇔台湾(代理店(市中))

*日本国内の本社と工場間の専用回線は既存のものを引き続き使用するので追加費用はかかりませんでした。

【結論】

現状コストの過去1年間の実績から、今後のビジネスの拡大に応じた通信費の上昇を試算したところ、年間数千万円単位のコスト削減が実現することが分かりました。以上を本社に稟議回覧しすぐに承認が下りて、前述の代理店の担当者から相談を受けた2ヶ月後には専用回線が敷設され、内線通話が可能となりました。

さらに、この改善には次の副次的な効果がありました。

・従来、内線番号表(冊子)には、台湾現地法人と代理店の代表番号しか記載されておらず、日本側から見て、どのくらい規模感の人がいて、誰がどこで勤務しているのかを把握することができず、直接連絡が出来ないという状況が解消しました。

・受付からの電話の取り次ぎ、また、日本と台湾双方で外線番号をダイヤルする手間が省けて、その繰り返しに要している時間を削減することが出来ました。

・台湾側の従業員一人一人の名前が、内線表(冊子)に掲載された、グループへの帰属意識が醸成されました。

私は、いまでも相談してくれた代理店の担当者に感謝しています。そして、従業員の希望を尊重し、それに基づいた対応さえすれば、想像さえできなかったような大きな改善を実現することができることを経験しました。この他にも、現場の担当者起点で実現した改善は多々ありますが、この場では一旦筆を置きたいと思います。

私が考える「現場主義」というのは「一人一人に神が宿っている」という発想です。上から見下ろしているだけでは到底気付かない宝の山が現場には隠れています。それを見つける最も手堅い方法は、担当者から話しを聞き、その希望や願いをかなえてあげる事だと思います。

私はいまでも新しい職場で仕事を始める際、自己紹介で話すことがあります。それは、「私は皆さんを管理しに来たのではありません。私の役割は、皆さんの仕事がもっと楽になって、もっと楽しく出来るようにお手伝いすることです。この職場の主役は皆さん一人一人です」と。

最後に、マネージャーに頼らず、メンバー同士が、互いの声に耳を傾けて、その希望や願いの実現に、自然な気持ちから「何かの役に立ちたい」と協力し合える場が、私の理想とする職場です。そのような場づくりは、従来、人の個性や性格に大きく依存せざるを得ず、企業によって、また組織によって、どうしても出来不出来の差異が生じていました。しかし、人間は本来人の役に立ちたい、人と良い関係を保ちたいと心から願うものだと信じます。この、もともと備わっている本能のようなものを、何らかの手段で表出する方法を見つけたいのです。そして、この方法をあらゆる組織に応用して、組織間の出来不出来の差異を薄めることが出来たとしたら。それは私にとって最高の喜びとなるでしょう。

神なき国のユートピア

人事担当者として、これまで多くの職場で「ハラスメント問題」に対応してきました。いわゆる、セクハラ、パワハラ、モラハラのことです。ハラスメントとは、一般的に、上司・上位にある者が、その職務権限・権力を悪用し、部下を精神的に追い詰めること、と定義されています。そんな、本来起きてはいけないはずのハラスメント問題が、年々増えているという印象を受けます。

ずっと前から職場のハラスメント問題はありましたが、私の経験では、発生後の対応が、以前と今とでは全く異なると思います。かつての職場は、メールやチャット等の文字よりも会話による情報交換を重視していたため、自ずと職場内はガラス張りとなり、メンバーは、今起きていることを共有していました。問題を見掛ければ誰から指示されるまでもなく、理解ある先輩や隣の部門の管理職等が声を掛け合って原因を探り、会社としてとるべき対応への橋渡しをしていました。つまり、組織内部には、問題の深刻化を防ぐ「自浄作用」が働いていたと思います。私は「自浄作用」を働かせる根本動機は「仲間意識」だったのではないかと思っています。

大学院の仲間と定期的に行っている勉強会で、ハラスメント問題のことが話題にのぼりました。

ハラスメント問題の解決に取り組んでいるNさんのコメントは「最近気になっていることは、企業の職場に、人に冷たく全く関心がないような雰囲気が漂っていて、そのような職場ではハラスメント問題が起こりやすく」また「職場で起きる問題の原因は、組織ではなく、個人によるものと解釈されてしまうことが多いため、なかなか根本解決に至らず、次々と問題が発生してしまう」とのことでした。

また、Kさんによると、Kさんがかつて勤務した職場でもハラスメントはあったものの個人が追い詰められることはなかった、と。そして、ハラスメントは、仕事のIT化が進み、従業員が孤独になることが余儀なくされ、集団、権限からのパワーを個人がダイレクトに受けてしまうことが原因ではないか、とのことでした。

私は、お二人の意見に完全に同意します。そして、これほどまでに人に無関心な職場が増えてしまった理由と仲間意識が希薄になってしまった原因を考えてみることにしました。

ひとつの原因として考えられるのは、以前と比べて職場の環境そのものが、仲間意識を育みにくくなったということで、それはきっと雇用形態の多様化が影響しているはずです。平成の30年間で職場には、雇用形態が異なる従業員が増え続け、現在は以下のようになっています。

・正社員(期間の定めのない労働契約 正社員・限定正社員)
・契約社員(期間の定めのある労働契約)
・嘱託社員(主に定年退職後再雇用 現在は65歳まで70歳まで法制化される可能性有)
・派遣社員(登録型、常用型、紹介予定)
・パート
・アルバイト
・業務委託(場内・場外)

私が社会に出た平成が始まる頃は、正社員が、総合職と一般職の二系統で、補助的業務はパート社員にお願いするくらいの非常にシンプルなものでした。それが現在のように、同じ職場に様々な形態、異なる処遇で雇用された従業員がいて、派遣社員のよう指揮命令権外の従業員もいます。そして近年では、多様化した雇用形態への不公平感の高まりから、政府は雇用形態間に生じた処遇差に合理的根拠を持たせる「同一労働同一賃金」を講ずるよう企業に求め始めました。政策で生じたことに対して、誰もが納得する意味を後付けしなければならない非常に難しい仕事です。その担当は当然「人事」です。

一方、多様化した雇用形態の下では、一致協力して職場問題を解決することを求めるのは難しいでしょう。そもそも、雇用形態が異なれば働く目的、会社への要望が異なるのは当たり前だからです。その表れとして、労働組合の組織率は低下の一途を辿っています。(1989年25.9%、2019年16.7% 出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構)

では、雇用形態が多様化した背景には何があったのでしょうか。所説あると思うのですが、私の考えは、右肩上がりの経済成長が終焉し、企業には事業継続のリスク回避策として人件費抑制と雇用流動性担保(解雇手段の確保)の必要性が高まり、それを国が政策面で後押ししたことがあったと思います。そのシンボリックな例として非正規雇用が全雇用者の38.2%(2019年男性22.8% 女性56.0% 出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構)を占めるまで増えました。安倍首相は新たに400万人の雇用を生みだしたと胸を張りましたがそのほとんどは非正規雇用です。そして、目下コロナ禍で起きている解雇、雇止めの対象は非正規雇用であり、かつてないほど全雇用者に占める割合が拡大した中で起きていることから、自ずと社会の隅々に様々な影響を及ぼすでしょう。今後の動向を注視する必要があります。

このように経済と政治判断によって生じた問題を現場の個人レベルで解決することは非常に難しく、常に無力感を覚えつつの努力でした。振り返ると、私が向き合ってきたのは、そういった職場に広がる「生きづらさ」の問題をどうやって解決するのかということで、前述したようなハラスメントなど「情」による問題解決を試みましたが限定した範囲内での解決にとどまり根本解決が出来ませんでした。それは、職場問題のほとんどは、組織風土や文化に起因する部分が大きく、時間をかけて複雑に絡み合っている為その扱いは一筋縄ではいかないからです。

そこで、組織の原理原則を学ぶため社会人大学院に通ってアカデミックな領域から知見を得て「理」に基づく問題解決を試みましたが、知識面の充実という面では役に立ったものの、依然として実践的な解決策を導き出すまでには至りませんでした。

考えが行き詰りましたのでちょっと視点を変えたいと思います。

以前ブログにも書きましたが、いま私は聖書を読み進めています。聖書から得られる人間の労苦、つまり「生きづらさ」に関する知見とはなんでしょうか。

旧約聖書では繰り返し、いばらの道、荒野を歩むことが宿命づけられている人間の姿が描かれます。そして、その苦しみから逃れることは出来ないことを諭しています。つまり「生きづらさ」は、たとえ一つ解決してもまた別の問題が現れ、死ぬまでそれが尽きることはない、ということなのです。

人間が、苦しみから逃れようと悪戦苦闘して神の世界に渡ろうと実践した4つの努力とその結末は以下の通りです。

1、知恵を用いる
コリント人への手紙1 1章21節
人間側から神に渡る努力は知恵 しかし結局は到達できなかった

2、義・善行をする
テドスの手紙 3章5節
神のあわれみによる聖霊により我々は救われた 人の義・善行といった努力、施しによるものではなかった

3、法を守る
ローマ人への手紙 3章20節
安息日など十戒を守ろうとしてもすべてを守れる人間は一人もいないばず ひとつでも破れば罪の意識にさいなまれる

4、宗教儀式を行う
コリント人への手紙1 1章17節
イエス・キリストは、バプテスマ(洗礼)を授けるためではなく福音を伝えるために現れた

そして、イエスの登場によって、新約聖書で神の世に至る橋が示されます。

ヨハネの福音書 14章6節
神の存在を信じ、イエス・キリストの言葉(福音)に従えば、神へと至る橋(十字架)を渡り、罪の意識と苦しみから解放され永遠の命が得られる

これが、キリスト教信仰のよりどころになっています。他の多くの宗教でも、大いなるものの存在を信じることで現世における苦しみから解放されると教えているようです。

では、国民の半数が無宗教(49.4%)で、信仰対象として最も多い仏教(34.0%)でさえも、葬式仏教と呼ばれる形式的な仏教しか持たない大多数の、私たち日本人が救われる道はあるのでしょうか。信仰心はあっても、特定の信仰を持たない、言葉を換えれば「神なき国」のユートピアはどこにあるのでしょうか。(参考:NHK放送文化研究所「ISSP国際比較調査(宗教)2008」より)

日本では、厳しくも豊かな自然の中で、人と人、人と自然とを調和させる「知恵」が育まれ、その「知恵」によって、緩やかな信仰心に満たされた風土が醸成されていったのではないでしょうか。そして、この「知恵」は私たちにとっては空気のように当たり前のものなので、普段はその価値を見過ごしがちで、加えて長年かけて自然に獲得したものなので一旦壊れると修復が難しいという特徴があると思います。前述のように、人に無関心で仲間意識が希薄な職場が増えていることは間違いなさそうですので、いまこそ、意図的に「知恵」を生かして人と人を調和して関係性を修復する必要性が高まっているはずです。では、空気のように見る事も触ることもできない「知恵」の存在をどうやって把握することが出来るのか、という課題が残ります。私は、その知見を「音楽」から得ることが出来ると考えています。

8月22日(土)22:00-22:50に、NHK BSで「オーケストラ明日へのアンサンブル」という番組が放映されました。この番組は、緊急事態宣言下で放映された「オーケストラ・孤独のアンサンブル」の続編で、たった一人、孤独の音楽を奏でた13名の演奏家が初めて集い、アンサンブルをするという内容でした。サブタイトルは「心がつながれば 明日は生まれる それを信じて」それにぴったりの内容でした。

仲間と一緒にいることが当たり前だった演奏家の皆さんは、私たちよりも一層仲間とのつながりが断たれたことを重く、深刻に受け留めたのではないかと思います。番組では、演奏家の感情や思いが語られ、それらが発露した演奏はとても感動的でした。

番組で演奏家が語った言葉です。

「1人ではやっぱりどうしてもできないことというのがあって みんなで音を出すことによって生まれるパワーを改めて実感してみたい」

「音楽の力ってみんな考えたと思う。ところで一般の人たちにとって音楽がどれくらい必要だったかを考えなかった音楽家はいなかったんじゃないか。音楽一曲よりもおにぎり一個の方が大事かも、と。とりあえず今を生きる、明日の方が、とかね。だって、4月、5月の時ってどうなるか分からなかった。これからどんどん大変なことになるかもしれないと。」

「未知のウィルスによって人が不安定になって、何かにあたりたくなる現象が起きていると思う。そういう気持ちが落ち込んでいるときに音楽によって何かが変わることがあるとしたらそれがうれしいし、やる(演奏する)価値があるんじゃないかなと思う。」

「そういう中で演奏することによって感じたことは「自分は一人じゃない」と。孤独のアンサンブルをやった時には孤立をさせられた時だった。そして今回みんなが集まって気付いたことは一人じゃない、世の中は誰かと助け合いながら生きているということをものすごく実感した。」

「今、難しいことを強いられていると言えばその通りなんだけど、でも、自分たちの中にある、こういう言い方をすると変かもしれないけど、ミュージックディスタンスみたいのがあるじゃん。人と人とをつなげ、魂と魂をつなげる。そういうものは距離を離れて演奏したとしても変わらないような気がする。」

「円になって演奏するのは簡単なことじゃないかもしれないけど、これだけの音楽家の方々が集まってお互いの呼吸とか気配とかを感じながら音楽を演奏してそれを伝えるということで、聴いて下さる皆さんに心が羽ばたく時期が来るに違いないと、そういうことを信じて自分たちのメッセージとして音楽を届けたいなという気持ちが強いですね。」

これらの言葉と演奏を聴きながら、音楽には本質的に人々に喜びをもたらす力がある。また、演奏家は仲間が集まってアンサンブルする中で、お互いに生かし、生かされつつ、一人では決して到達し得ない深い領域に入りこんでいくようです。音楽を奏でる場は「生きづらさ」とは対極の「理想の世界=ユートピア」なのかもしれないと思いました。

音楽と言えば、私も学生時代に「吹奏楽」に打ち込み、一時は大学院の修士論文のテーマにしたいと考えました。組織論、育成論の視点で、吹奏楽から企業組織の未来を切り拓く知見を得ることが出来ないかと考えたのです。実は、日本はアマチュア吹奏楽の活動が最も盛んな国のひとつで、その演奏レベルも世界最高水準です。吹奏楽は隠れた日本の宝なのです。

○吹奏楽団体数 14,057(2019年10月1日現在 全日本吹奏楽連盟加盟団体数)
○吹奏楽人口  500万人(*)
*朝日新聞デジタル:あの聖地「雲の上の存在」日本有数オケ奏者語る吹奏楽より
 経験者も含めると1,000万人を超えるという説もある

では、アマチュア吹奏楽の現場ではどのような上質な場が生まれているのでしょうか。これをうまく著した一冊の本があります。以下、該当する箇所を抜粋しました。

(出典:金賞よりも大切なこと コンクール常勝校 市立柏高等学校吹奏楽部
    強さの秘密 山崎正彦著)

「彼ら(吹奏楽部員)は自己に与えられた役割を果たせるように必死に頑張る。この自らに与えられた役割を果たすことについて生徒にインタビューしてみると彼らの言葉から浮き彫りになってくるのは「自分ができないことで皆に迷惑を掛けたくない」とする外に向けての意識と「できないと言って済ましてしまう自分でありたくない」という内向けの意識の2つである。なくてはならないものとして自分が認識されてしまう合奏。実に不思議な営みだ。「君は必要だよ」と声高に叫ばなくても演奏に参加している誰もが必要であることが自明となっていて、あるときは自分が誰かの音を頼り、あるときは誰かの音に自分が生かされ、自分も誰かの音を生かす。だから、その生かし合いの場で自分が役割を果たせないことがどんなに他者をがっかりさせ自分自身も傷つけるか。人との協同の営みのなかで自分の役割を果たせないことがどんなに空しいか。彼らは経験のなかから、あるいは本能的にこれらのことを知っているのだ。自分のためだけでなく誰かのため皆のために頑張ろうとするような生き方を必然のなかで身につけていかざるをえない吹奏楽。それは協同表現であって、人に何かを与え、人から何かを与えられることにより、また互いが生かし合うことによって成立していく。その意味では実に社会的な営みでもあり、吹奏楽部は、あたかも小社会のようなものといえるだろう。そうなるとつまりは、吹奏楽部の活動では、高い精度でバランスを保っている音楽という小宇宙の中に一人ひとりが音となってうまく溶け込み、そこで生み出されてゆく音楽に生気を与えるような力とならなければならず、それと同時に、小社会の中に交錯する互いの呼吸や意思のようなものも見過ごすことなく察して、音楽という絶え間なく流れてゆく時間の刻みのなかの自分のあり方を瞬時に決してゆかなければならないのである。教師が多くを語らなくても良い。吹奏楽というものが自ずと持っている教育的な力を見失わないだけで良い。」

吹奏楽経験者であれば、ここで書かれている「場」を、市立柏高校のような高レベルの演奏をする団体に所属していないとしても、簡単に理解できると思います。経験者にしか分からない共通言語だと思います。

私の恩師は、この「場」を「良い人だまり」と名付けました。私にとって実現したい「理想の世界=ユートピア」とは、恩師が求めた「良い人だまり」のことだったのです。そして私は、社会に出てからも、ずっと「良い人だまり」を求めて理想と現実とのギャップに悩みました。

以前、恩師に「良い人だまり」について質問した時のやりとりです。
Q(質問)は私
A(回答)は恩師

Q: 吹奏楽活動の目的とは?
A: 社会教育の一環として人と人とが良い状態(良い人だまり)をつくることにある。
「良い演奏をする」ことを目的化するとうまくいかない。「良い人だまり」が形成された結果「良い演奏」が実現する。良い人だまりに参加すると人生が楽しくなる。音楽をレッスンすることやコンクールに出場することなど、目に見えることは、「良い人だまり」をつくるための手段である。

Q: 「良い人だまり」の必要条件とは?
A: 上質な場を形成するには、その団体を率いる団長が人望や人徳を備え、リーダーシップを発揮し、団員に安心感、満足感を与える必要がある。指揮者(指導者)と団員(奏者)は対等である。従って、きちんと役割分担をするためには団員がひとつにまとまっていなければならない。

Q: 人望、人徳の育て方
A: 人望や人徳は教育できない。頭で理解しても身につかないからだ。実践の場、修羅場体験が人を育てる。人望、人徳があれば、厳しいことを言っても人に受け入れられる。良い叱り方は、その場で判断する。学ぶことではなく本能で分かることだ。

Q: 「良い人だまり」の効用
A: 音楽が好きであると言い合える上質な場となる。一般吹奏楽団体でやりたいことは、当然「音楽」なのだが、その音楽に打ち込む為には、団員が安心感で満たされる「良い人だまり」が不可欠だ。

Q: 今目指していること
A: 持続可能な組織となる。一過性ではなく、人が入れ替わっても組織そのものが変わらない継続する仕組みをつくりたい。

私が理解している「良い人だまり」の条件は以下の通りです。

・人望人徳を備えたリーダーの存在

人に与えることを喜びとし見返りを求めないGive & Giveの人
その存在感がメンバーに伝播して安心安全な場が醸成されていく

・参加メンバーのふるまい

自分さえよければ良いというエゴを慎む
お互いに自分が持っているものを惜しみ無く出し合う
お互いにかけがえのない存在であると認め合う
特定の誰かに依存しない基本的にフラットな人間関係を尊重する
人が入れ替わっても変わらないものを次世代へ引き継いでいく

恩師は、良い演奏やコンクールの成績を目的にするとメンバー間の関係がぎくしゃくしてうまくいかなくなると仰っていました。目的はあくまで「良い人だまり」をつくることで、良い演奏は後からついてくると。

毎年末に全日本吹奏楽連盟主催の合宿が浜名湖であり私も高校在学中に2年連続して参加したことがあります。全国から高校生150名~200名程が集まり1週間合奏練習をしました。講師(恩師もその一人)を務められた秋田南高校、花輪高校、富山商業、浜松商業、愛工大名電校、天理高校、淀川工業、就実高校といった吹奏楽名門校の指導者から直接レッスンを受けたのですが、どなたも異口同音に、良い演奏は結果で、もっと重要なことは「場づくり」であると熱心に語られていました。その時私は、吹奏楽の世界では、表現は違うものの恩師が言う「良い人だまり」は常識になっているんだなと理解しました。

実は私は人から「では、あなたは良い人だまりを経験しましたか?」と尋ねられたら、自信を持って「はい」と答えることが出来ません。恩師から厳しく指導されたにもかかわらず、高校3年間で恩師が求めるレベルに至ることが出来なかったことを今でも悔やんでいます。理由はいろいろありますが、部活の運営面において、特定のメンバーに依存する体質に陥ってしまったという反省があります。その不本意な記憶と心残りから、社会に出てからも私の「良い人だまり」への希求は続きました。しかし、前述したように現実は理想とは程遠いものでした。

市立柏高校の皆さんのように「良い人だまり」を経験した人は、その後どんな人生を送られているのか気になります。きっと「良い人だまり」を経験した人しか得られない「暗黙知」を発揮して、生きづらい世の中にあっても、それを薄めることが出来ているのかもしれませんね。そう信じたいものです。

一方で、私のように「良い人だまり」を目指しつつも経験できなかった人はどうでしょうか。吹奏楽人口は500万人(一説では1,000万人)です。そして、それら多くの吹奏楽経験者が、合奏の「場=良い人だまり」を想起し、今おかれている状況下でその人なりの「良い人だまり」に向けて背中を押され一歩を踏み出したとしたら。。。社会に与えることは決して小さくないと思います。なかば解決をあきらめていた「生きづらさ」の問題を薄めることができる、微かですが希望の光が差してきました。