2018年から翌年にかけて大阪のベンチャー企業で人事総務を主管しました。大学院の同期で、この会社の顧問をされているIさんからご縁を頂いたのですが、上場を目指すベンチャー企業での人事は初めての経験だったので、日々貴重な経験をさせて頂きました。今回のブログは、私がこの会社で取り組んだ仕事について書きたいと思います。
この会社に入社を決めた理由は、入社前の面接のときに質問された「人事のお困り事」が私にとってすっきりと頭に入ってきて、解決方法までスムーズにイメージできたからです。取締役Kさんと株主から派遣されていたSさんのお困りごとは「離職の多さ」でした。「大西さんだったらだったらどのように解決しますか?」というお二人からの質問に対して、以下のように回答したことを覚えています。
1.一般的に離職原因のほとんどは「処遇面の不満」「人事評価など承認不足」「仕事の目的が不明確」の3つで、これらが複合的に絡み合って継続勤務への不信感が大きくなると思います。
2.まず従業員と会話して、これら3つの原因のうちでどれが最も大きな不満の種かを特定して打ち手を考え、複数の施策をスピーディーに実行します。
3.目に見える効果が出始めれば徐々に組織全体に良い影響を与えていき、小さな問題が自然に解決するのを見届けます。離職が減るのと同時に新しい問題が発生するので対応を仕切り直します。
KさんとSさんも同じことを考えていたようで、この時点ですでに人事の取り組み課題が決まってしまいました。
ベンチャー企業には、ルールもレールもない中で、急成長を実現することが課されています。人事がそれを支える役割を果たすためには、過去の延長線上で未来を描いているだけでは到底、株主、経営の期待に応えることは出来ません。道なき道を強力に前進し続けるための推進力は、人事が経営と目的と目標を共有してしっかりタッグを組むことです。それがこの会社でならできると私は面接の時点で確信して入社を決めました。
大阪に引っ越して真っ先に取り組んだことは「現状と経緯の把握」でした。
採用 求める人材像は明確か?外部人材の獲得に必要な手法は適切か?
配置 受入れ後のフォローアップ、成果創出までに必要な支援が行われているか?
労務 各種規程の整備と運用、適切な労働時間管理など法律を遵守しているか?
育成 環境変化に適応するために従業員の能力、意欲向上に取り組んでいるか?
また、従業員の関係を良好に保つ手立てを講じているか?
評価 従業員の働きに対して、その出来不出来を判定する基準があるか?
定期的に本人へフィードバックを行っているか?
処遇 給与、手当、賞与等、金銭的報酬は労働市場を意識して設計されているか?
昇給昇格のルールに基づいて運用されているか?
診断結果は、残念ながら全てマイナスでした。
そこで、現状とあるべき姿をすべて書き出して、1ヶ月後には経営に報告し、いつまでに、どのような状態にすると約束しました。そして、取締役会で株主に理解を求め、人事施策に必要な金銭的なサポート(予算確保)をお願いしました。
株主からは、各施策に要する費用について説明を求められました。入社前の面接で経営と問題意識を共有していましたので、施策の根拠と、それにかかる金額を合理的に説明することで、感情抜きに理解を得ることができました。しかし、企業によっては、この企業のように「離職の多さ」といったような問題が顕在化していない、若しくは正しく認知されていない場合があり、理解を得るために工夫が必要です。もし、そのような企業で私が人事を担当することになった場合どうするかですが、まずは、しっかりと経営から話しを聞き、今困っていること、そしてこれから未来の漠然とした不安感といったようなものを把握することから始めると思います。程度の差こそあれ、人に関する悩みがまったくない経営者などいないと思うからです。ただ、人によって異なるのは、その悩みの解決の糸口として「人事を生かす」と考える人もいれば、そうでない人もいるということです。前者であれば話は通じるでしょう。
この大阪のベンチャー企業では人事に期待されることが入社前にはっきりしていましたので迷いがありませんでした。しかし、その後勤務したベンチャー企業では、人に関する問題が顕在化しておらず、そもそも人事は何をするのかというコンセンサスも乏しい中で入社したため、入社後にゼロベースで問題探しをしなければならず、その結果を経営になかなか理解してもらえなかったという苦労をしました。結局、経営の主観が優先されて、人事が現場から吸い上げた課題は重要視されませんでした。これは私の深い教訓となっています。
さて、問題解決の方向性は定まりましたので、あとは前に進むだけでした。邁進する中でも一点だけ、私なりに工夫したことがあります。それは、取り組みの進捗を日時、週次、月次で報告し、都度意見を求めて経営者の「安心感を醸成」することでした。そして月一回の取締役会では、株主に対して、計画の進捗状況を報告し、質疑応答の場を提供しました。報告と質疑応答の場であると共に私が意図したのは、株主と経営に人事について理解を深めてもらう目的がありました。その甲斐あって、入社から10ヶ月を経過する頃には、人事にとって大切なこと、外せないポイントについて株主と経営間で共通認識が形成されていたと思います。
とても嬉しかったのは、取締役会の参加者でこれまで多くの企業の立ち上げや経営に携わった皆さんから「大西さんの話しを聞いて人事のことが理解できて勉強になった」とか「人事の重要性について再認識した」といったコメントを頂きました。さらに前述したSさんからは「短い期間で離職がほぼゼロになり当面目指していた成果が出たのは人事だから出来たのではなく、大西さんだから出来たのです」と言っていただいたことが特に嬉しかったです。
ところで、急成長を期待されたベンチャー企業では、同様に人事の立ち上げも最速で行わなければなりません。そのため、一つ一つの施策にじっくり取り組んでいたのではとても間に合わないため、私は、採用~配置~労務~育成~評価~処遇といった一連の「人事サイクル」の各施策に同時に取り組むことにしました。頭の中では、競走馬(仕事)が同時に疾走しているイメージです。とはいえ、一日は24時間で、寝る時間も確保する必要があるため、さらに工夫したことは、各施策に関連性を持たせて有機的な好循環を生み出すことでした。
まず、人事の大目的を定めます。次に、この目的に則って各施策の細部を設計します。そして、各施策を別々に導入、運用するのではなく、それらには一貫性があり、どれ一つとして欠かすことが出来ないものであることを明確に従業員に示します。複数の施策を一斉に導入し運用を開始すると、従業員に変化が伝わります。やがて、各施策が相互に影響を与えながら有機的に結びつき好循環が起き始めます。ここまで出来たらしめたもので、好循環さえ起きてしまえば、あとはいちいち細かいことを管理しなくても、組織が自律的に良い状態を目指して活動してくれます。但し、好循環を継続するためには、細部に目を配り、常に目的との不一致が生じていないか、また一度決めて導入した施策に機能していない部分が無いかを改めるメンテナンスが必要です。
私は、まず人事の大目的として「人材価値の向上と成果の最大化」を掲げました。そして、人材価値とは「能力」「経験」「意欲」の各項目の掛け算で決まると定めました。そして、人材価値を構成する各項目の要件をグレード毎に詳細に定義して、これを人事評価基準、採用基準、人材育成に反映しました。そして、従業員に不公平感が生じないように、信賞必罰のポリシーに基づいて、やっている人、やっていない人を明確にできる、全員が一律で守るべきルールを明確化しました。最後に、人材獲得に不利な状況を解決するために労働市場の賃金水準を調査して支払い必要人件費を給与テーブルに落とし込み、業績連動型賞与制度を導入しました。また、人件費の高騰と負担が増えないように支払い可能人件費の目安である労働分配率を決めました。
以上の取り組みの過程では、何人かの従業員の皆さんに厳しい対応をとりました。従来の仕事の仕方、勤務態度に留まろうとする人もいて、その人たちには処罰を下したり、降格や減給等の処遇変更も実施したりしました。実施する側の人事が強い意識と信念が問われる厳しい仕事を自らに課し精神的にはすこししんどかったですが、その成果もあり、徐々に守るべきルールと基準が従業員に浸透していきました。
振り返ると大阪での経験を通じて、人事という仕事には、個人の感情を丁寧に扱う「情」の部分と、全員が一律に守るべき合理的なルールを定めて順守を求める「理」のバランスが求められることを再認識しました。さらに、ベンチャー企業の急成長を支える人事機能を急速に立ち上げるためには「情」と「理」だけでは不十分で、2つの「信」が不可欠だということに気付きました。
2つの信とは「信用」「信頼」のことです。株主、経営者、そして従業員各々がお互いに生かし、生かされつつ一致協力して、企業目的の実現を目指す上で必要な概念だと思います。デジタル大辞泉によると「信用」「信頼」の意味は次のようになっています。
信用(Credit): それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること
信頼(Trust): 信じて頼りにすること、頼りになると信じること
つまり、
「信用」は、過去の実績や成果に基づいて、客観的であり物質的に生ずるもの 「信頼」は、信用に基づいて未来の行動を信じ期待することで、主観的であり精神的に生ずるもの
と言えます。
ベンチャー企業のように、人も組織もまだ新しく過去の実績を十分に蓄えていない場においては、不確実な未来を描くために、人と人、人と企業の間の「信頼」に重きがおかれます。ただし、「信頼」だけでは不十分で、外部から人材を招き入れたり、新たに取引きを始めたりする時には、過去の実績や力量について十分な情報を集めて「信用」に足るか否かを判断する必要があります。これが、ベンチャー企業には2つの信(信用と信頼)が求められるものの、より「信頼」が重視されると考える理由です。
私の経験から、ベンチャー企業の成否を分けるのは、経営者が従業員の無限の可能性を「信頼」することが出来るかにかかっていると思います。「信頼」された従業員は、期待に応えようと成果を最大化します(注1)。また、中国の古典「孟子」の五倫には、君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならないとあります(注2)。
コロナ禍で、先が見えない今こそ「情」と「理」と共に、それを超える「信頼」がより一層重視されると感じています。企業は人の集まりです。その人々が「信頼」で結ばれているか今一度見直してもらいたいと思います。
(注1)ピグマリオン効果(ピグマリオンこうか、英: pygmalion effect)とは、教育心理学における心理的行動の1つで、教師の期待によって学習者の成績が向上することである。(Wikipediaより抜粋)
(注2)五倫(ごりん)は、儒教における5つの道徳法則、および徳目。主として孟子によって提唱された。「仁義礼智信」の「五常」とともに儒教倫理説の根本となる教義であり、「五教」「五典」と称する場合がある。(Wikipediaより抜粋)