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カレーライスはお好きですか?

日本大使館を巻き込み、工業団地管理局にプレッシャーをかけて、就労許可が正常に発給され始めたことを受け、私はもう一つの問題である、某韓国企業から差別を助長すると指摘された2つの食堂(日本人出向者用とベトナム人従業員用)の扱いをどうするか、あれこれ考えを巡らせました。

仮に、そのままS社の要求に従い、日本人出向者用食堂とベトナム人従業員用食堂を統合しようとすると、日本人出向者だけではなく、日本からの出張者(本社役員含む)からも不評を買い、私は引き続き仕事をさせてもらえなくなるであろうことは容易に想像できました。かといって、当時某韓国企業はベトナム工場にとって唯一といってよい程の重要顧客で、その顧客から「継続して取引を望むならば必ず解決するよう」正式な要求をされてしまった以上、必ず対応しなければなりませんでした。解決できない場合、私は、職責を果たせないことを理由に、引き続き仕事をさせてもらえなくなることも想像できました。

いよいよ某韓国企業による再監査まで1ヵ月を切り、これは絶体絶命のピンチと、食いしん坊の私には珍しく食事がのどを通らなくなり始めていたちょうどその時、思いもよらぬところから解決のヒントを得ることが出来ました。

以前のブログで、私は食堂の責任者として、日本人出向者から、ことあるごとに日本人出向者用食堂で提供する食事の献立や味、量などに関するクレームを受けていたと書きました。ちょうどその日の昼食は週一回のカレーライスの日だったのですが、ある日本人出向者から、「量が少なすぎる」とクレームを受けたのです。「思う存分おかわりをしてください」と言いたいところでしたが、それが言えない事情がありました。というのも、日本人出向者用食堂の食材、調味料等は日本製が多く、ベトナム人従業員用食堂とは別ルートで調達しているものがほとんどで、事前に申し込みがあった人数分だけ用意するよう工夫して運用しなければならないほどコストが高く、そうとも言えず困っていました。その時、ふと頭に浮かんだのは、日本人出向者とベトナム人従業員が一緒にカレーライスを食べている光景でした。

部下のベトナム人従業員にそのことを話したところ、

部下「大西さん、日本人はカレーライスが大好きですよね。でも、ベトナム人は香辛料が効いた食べ物はほとんど食べないんです。だから、カレーライスを食べないと思いますよ。」

と言われてしまいました。

しかし、私はそれでも試してみる価値はあると思い、ルー以外は全てベトナム人従業員用食堂で使っている食材で自らカレーライスを試作してみました。そして、これは日本人出向者用食堂で提供しているカレーライスと遜色ない状態となったことを確認した上で、60人分ほどのカレーライスを用意し、日本人出向者用食堂と、ベトナム人従業員用食堂と両方で同じものを出してみました。

日本人出向者には、某韓国企業による監査結果を受けた対応であること。また、カレーライスの量が少ないとのクレームへの対応として大盛りで食べることが出来ることを説明して、ベトナム人従業員食堂で、部下たちと一緒に食事をしてみてはどうかと勧めました。ベトナム現地法人社長Wさんはじめ、何人かの日本人出向者は私の勧めに応じて、これまで昼食時にはほとんど立ち入ることが無かったベトナム人従業員用食堂に来てくれました。そして、大盛りのカレーライスを食べて「美味しい」と言ってくれました。

肝心のベトナム人従業員の反応は、というと、これまで食べるどころか見たこともない食べ物だったからでしょう、最初は素通りしていつも通りのベトナム食を手にとっていました。しかし、そのような中でも、留学など、日本での滞在経験がある従業員数名は、「カレーライスなんて久しぶりです。嬉しいです。」と言ってくれて、美味しく食べてくれました。手ごたえを感じた私は、毎週水曜日は「カレーの日」と定め、ベトナム人従業員用食堂で日本人出向者も、出張者も、ベトナム人従業員も一緒に食事をすることを目論みました。

その狙いは当たり、回を重ねる毎にカレーライスを食べるベトナム人従業員は増えていきました。労働組合の委員長Hさんは、「こんなにおいしい社食の食事は初めてです。」と本当に喜んでくれました。そして、日本人出向者も数名を除いてベトナム人従業員食堂で一緒にカレーライスを食べるようになりました。

この数名の日本人出向者は、日本人出向者用食堂を決して出ようとはしませんでした。彼らがかたくなにベトナム人従業員と一緒に食事をすることを避けた理由を質問したところ、「ベトナム人従業員食堂はきたない」とか、「日本人出向者用食堂は冷房が効いて快適なので出たくない」といったような返答でした。私は、彼らと同じ出向者として、暗澹たる思いがしました。このような人物に、果たして異文化に囲まれた中で部下を動機づけて成果が出せるのだろうかと。仕事が出来る出来ない以前の問題として、人としてどうなのか、と疑問を抱かざるを得ませんでした。

人事の世界では長らく、「グローバル人材」というスローガンが掲げられ、海外でも持てる能力を存分に発揮して成果を上げることができる人材をどれだけ確保できるかが日本企業の課題だと言われています。しかし、見落としがちな視点として、このような、「自分さえ良ければよい。」というエゴを、どのように戒めるのか、律するのか、ということがあるのではないかと思いました。

私は、某韓国企業に対して、次回の監査は水曜日(カレーの日)にして欲しいとお願いしました。そして、できれば昼食を一緒にとって欲しいと要望しました。彼らは快く応じてくれまして、その日を迎えました。私は、ベトナム人従業員用食堂で監査担当者と以下の会話を交わしました。

私「日本人出向者用食堂は、もともとお客様(VIP)用食堂です。そして、現時点では、ベトナム人従業員用食堂では、お客様が好まれるような献立(和食、洋食等)に対応することが出来ないため、廃止が難しい事情があります。しかし、今回、日本の国民食であるカレーライスを提供したように、徐々に日本食の献立を増やしていき、日本人出向者とベトナム人従業員が一緒に食事が出来る時間を増やしていくことをお約束します。これは、御社の食堂を見学させていただいて、韓国食が提供され、韓国人もベトナム人も一緒に食事をしている様子を見たことからヒントを得ました。そして、食堂業者も御社に合わせ変更しまして安心安全な食事を提供する体制が整いました。」

監査担当者「このカレーライスはとても美味しいですね。従業員の皆さんも喜んで食べている様子がうかがえます。前回の監査では、日本人とベトナム人が完全に仕切られた空間で別々に食事をしていたので、これで正常な職場運営が出来るのだろうかと不安に思ったんです。でも、今日の食事の様子を見て安心しました。引き続き食堂の改善に努力されることを期待しています。」

監査担当者は、再監査の結果、改善要求に「合格」と判断してくれました。根本的解決こそできませんでしたが、なんとか取引中止になるような事態だけは避けることが出来てほっとしました。

ここまで、数回に分けて、食堂不正の疑いへの対応、そして某韓国企業による食堂改善要求への対応について書きました。ここで言いたかったことは、ベトナムでは日々、日本では想像もできないことが繰り返し発生しているということです。そして、これらのほとんどは、実際に現地に出向、駐在勤務しなければ分からないことばかりだということです。いま、チャイナリスク回避でベトナムに多くの日本企業が拠点を移す、または新設する動きが加速しています。そのような企業では、日々、現地の出向者、駐在員から日本側本社へ、にわかには信じがたいような報告や相談が寄せられているのではないかと想像します。そのような時に、先入観なく、ありのままを懐深く受け入れて、一緒に解決の方法を考えてくれるような本社スタッフが一人でも増えて欲しいと、祈るばかりです。私は、そのような人材こそが「グローバル人材」への登竜門だと考えています。

ありがとう!日本大使館 & 本社人事Sさん

今回は、前回からの続きで、日本人出向者の就労許可をめぐる工業団地管理局とのやりとりについて書きたいと思います。

その前に。。。このブログを読まれた方の中には、不正は悪いことだと分かるけど、なぜ私がこんなにムキになったのか不思議に思われた方もいらっしゃったのではないかと思います。私自身、記憶を頼りにこの文章を書いていて、我ながら「サラーリマンとして常軌を逸していたな」と思ったりもしました。しかし、私の中には「不正は正さなければならない」と考えた、明確な二つの理由があったのでした。まず、そのことについて書きたいと思います。

一つ目は、かつて仕えた経営者から、事あるごとに「違法行為は絶対にするな」と口酸っぱく言われていた、ということがあります。私は、その会社の台湾現地法人に出向して管理部門を主管したので、仕事柄特に厳しく指導されました。台湾はいまでこそ民主化が進み、日本がお手本にすべきことも多いと思うのですが、私が着任した1998年当時はまだまだ、すべての法律の細部まで完璧に従おうとすると、現実問題として、とても運用が追い付かないという状況でして、詳しくは別の機会に書きたいと思いますが、そのような台湾的フレキシビリティが必要と思われるときでも、その経営者からは常に「合法的手段に則れ」と命じられたのでした。

今振り返ると、その言葉は本当に正しかったと思います。何故なら、もし「台湾の状況に合わせて柔軟に対応しろ」と命じられたなら、短期的利益を追求するあまり、中長期的視点で物事を考えることが出来なくなってしまっただろうと思うからです。事業の継続を通じて将来にわたる利益を最大化しようとするならば、後々になっても決して後ろ指をさされるような行為をするべきではない、という宣言が「合法的手段に則れ」だったのではないかと思います。その後、同社は台湾での事業規模を大きく伸ばして現地で上場を果たし、優秀な理数系学生が競って入社を希望する有名企業に成長、発展しました。

二つ目は、2011年3月11日に発生した東日本大震災で被災し、仕方なく退職していただいた元従業員の人たちに顔向けできないようなことはしたくない、という思いからでした。私は、神奈川の電子部品メーカー(ベトナム工場と同じ会社)に、震災発生直後の2011年4月1日に入社しました。この会社には、東北3県に工場があり、そのうちの一つは海沿いの工業団地に位置していたため津波の直撃を受け操業再開不能に陥り、さらに従業員もお亡くなりになるという最悪の事態に直面しました。また、別の工場は東京電力第一原発から約20キロメートルの位置にあったことから、事故発生時、全従業員が避難し、その後も避難場所を転々として、最後は神奈川の本社まで逃げてきたという経緯があります。この工場はその後約半年間に渡り操業停止を余儀なくされ、従業員も放射線の健康への影響におびえながらの生活を余儀なくされました。

私は、入社日に、管理部門管掌役員である常務取締役Sさんから呼び出され、「君には被災地へ行って従業員の雇用調整をしてもらう」と命じられました。従業員の中には津波で自宅が流され、家族や親類が犠牲になった人も多くおられて、そのような悲しみに打ちひしがれる人々に対して、会社が当地での事業継続断念を決定したことを理由に「退職同意書に署名してもらう」という困難な仕事を命じられたのでした。さらに、当然のことながら、従業員から一切の訴えを起こされず、且つ、マスコミへの情報リークなどにより当社の信用を傷つけることも生じさせてはならないという条件も付いていました。

「全ての対象者から退職の同意を取り付けるのは生半可なことではできないと思うが、何とかやりぬいて欲しい」

と話す常務取締役Sさんの表情は今でも忘れられません。この仕事を命じられた翌週、私は東北に赴き、様々な活動を展開して、結果として一切の問題も生じさせず、同年12月24日に任務を完遂しました。今振り返ると、役割をまっとうすることができたのは、私が従業員一人一人とまごころで接し、絶望の中にあるその人に少しでも幸せになってもらうことを考え、真摯に向き合ったからだと思います。ただそれ以上に、会社を自ら去る決断をしてくれた彼らが、私のことを、仕事とか役割といったことを超えて、一人の人間として信じて受け入れてくれたことの方が大きかったと思います。彼らと向きあう中で知ったこと、見たこと、聞いたことを、私は一生忘れないと思います。そして、震災という大きな困難を経て事業を継続しているこの会社に残された私は、不本意ながらも退職に同意した人たちの分まで、真面目に働かなければならないと決心したのでした。そのような感覚から、ベトナム工場で目にした、様々な不正行為を到底看過することは出来ないと決心したのです。

さて、話しを元に戻します。工業団地管理局が突然、当社の日本人出向者の就労許可発給を止めると通達してきたのは食堂変更を強行したことへの報復と私は受取りました。ちなみに、申請中だった3名の内1名は私自身でした。このまま就労許可が発給されないと、私は1ヵ月以内に滞在資格を失いベトナムから日本に帰任せざるを得なくなるという状況に追い込まれました。

そのような中、本社人事の係長Sさんが、私が苦境に立たされていると知ったのでしょう。心配して電話をかけてきました。彼のアドバイスは「日本大使館に相談してみては」というものでした。大使館には在留邦人に対する相談窓口があり、電話番号も公開されています。私は、藁にもすがる思いで大使館に電話をしました。受付のベトナム人女性が日本人駐在官に取り次いでくれました。私はこの間の出来事をありのままに話しました。その方は事情を一回で完全に理解してくれまして、直接会っていただくことになりました。私は、経緯をまとめたレポートと、証拠資料を手にハノイの日本大使館に向かいました。

面会に応じて下さった方は、東京の警視庁から外務省へ出向し、大使館に駐在中の警備担当駐在官でした。後で知ったのですが、大使館には防衛省や、経済産業省など、様々な省庁から派遣された駐在官が勤務しており、ベトナムの状況について情報収集し日本に報告する役割を担っているようです。この警備担当駐在官は、まず私の行動について深く理解を示し、従業員第一、健全な事業の実現のために行動している私のことを無条件で認めてくださいました。そして、出来る事は協力を惜しまないと約束してくださいました。

余談ですが、ベトナムには公安省という日本の警視庁、警察庁、公安委員会を一つにしたような巨大な警察治安組織があり、2つの機関(警察機関、治安機関)に分かれています。前者は、一般刑事事件を扱い、後者は国家の安全保障にかかわる犯罪を扱います。さらにその傘下には交通公安、経済公安等、担当部局が細かく区切られていて、それぞれが職権をまたいで活動することはありません。この警備担当駐在官は、どの部局にはどのような人がいて、その職権と権限、また不正への関与もすべて把握していて、その中には私が頻繁に面会を重ねていた人の名前もあり、「ああ、その人は信用できますよ」とか「この人は避けたほうがよいですね」などと詳しくアドバイスをしてくれました。

そして、核心の、工業団地管理局が当社への就労許可発給を止めているということについて、別のルートで就労許可申請が可能であることを教えてくれました。通常、外資企業が本国から社員を招へいする場合は、「計画・投資省(日本の経済産業省に相当)」の傘下である工業団地管理局を通じて就労許可申請をするのが一般的ですが、「労働・傷病兵・社会問題省(日本の厚生労働省に相当)」でも就労許可発給権を持っていることが分かりました。警備担当駐在官は、「私からも連絡をしておくので、そちらで申請をしてみてはどうか」と勧めてくれました。大使館がこんなに頼りになる存在だとは知りませんでした。本社人事の係長Sさんにも感謝、感謝です。

私は、早速、新規出向者3名分の就労許可申請を「労働・傷病兵・社会問題省」のハノイ事務所に持ち込み受理してもらいました。就労許可が発給されるまでヒヤヒヤものでしたが、無事発給されました。私は、就労許可発給をじらす工業団地管理局に対して対決すべく、重要ポストの二人に会食を持ち掛け、その場で一気に解決する作戦を立てました。

私から会食に誘われた二人は、恐らく私が就労許可申請を受理して欲しいと頭を下げに来たと思ったのでしょう。終始笑顔で上機嫌でした。私は二人が大好きだという日本酒の熱燗をどんどん勧めて、二人も私も酔いが回って盛り上がっているときに切り出しました。

私「ところで、当社が申請している就労許可ですが、受理していただけないと聞きました。このままですと私も日本に帰任することになりますが、どんな状況ですか」

役人「就労許可は日本人が多すぎるからです。でも、こちらも絶対に受理しないとは言わない。私たちの要望を受け入れてくれれば対応します」

つまり、役人が求めているのは「お金」です。私は、次のように切り返しました。

私「それでしたら、全ての申請を取り下げますので、申請書類を当社まで返却してください。その代わり、私は日本大使館に連絡して、ベトナムの発展のために尽力している我々の活動が滞っているという訴えをします。それでもよろしいですね」

役人は、私が申請を取り下げると言い出すとは全く予想していなかったのでしょう。そして、日本大使館にこのことが知られてしまうことに非常に焦ったのでしょう。急に狼狽し、酔って真っ赤だった顔が青ざめたように見えました。ベトナムは、特に社会インフラの整備を日本のODA(政府開発援助)に大きく依存しています。大使館の知るところとなれば関係機関からお咎めを受けるどころか、国と国との関係にも影響を及ぼしかねません。二人の役人は、一気に酔いから覚めた様子で慌てて店を出ていきました。そして翌日、工業団地管理局から申請中だった、私の分を含む3名の就労許可が下りたと連絡がありました。余談ですが、この役人二人は交通事故で死んでしまったことを風の便りで知りました。

さて、私にはもう一つ解決しなければならない問題(某韓国企業から差別を助長すると指摘された2つの食堂(日本人出向者用とベトナム人従業員用)への対応)が残っています。私がどのように解決したかについては次回書きたいと思います。

敵を知り己を知れば百戦殆うからず

腐敗認識指数というものがあります。政府・政治家・公務員などの公的分野での腐敗度をスコア化し評価しているもので、Transparency Internationalという団体が毎年調査しています。最新の2019年のデータを確認したところ、ベトナムは調査対象180カ国中96位でした。ちなみに、トップはデンマーク、日本は20位、中国は80位、最下位はソマリアです。ベトナムより下の国は主に、中南米やアフリカ諸国が占めていますので、アジアで最も不正が多い国と言っても過言ではないと思います。その原因の一つに、民間企業に比べて圧倒的に公務員の給料が安いことがあげられると私は思っています。そして、社会主義で権力と冨が一極に集中しやすいことも挙げられます。

そのような国情からベトナムの一般国民は、不正な手段でお金を得ることについても、賄賂で目的を果たすことについても、あまり罪悪感を抱かないようです。むしろ、知恵を働かせてお金を獲得する人をヒーロー。逆に、不正に立ち向かう人は愚かだと思われている節があります。もう一つ付け加えると、中国でも政治絡みの不正、腐敗が多いことは有名ですが、特徴としてベトナムと異なる点は、中国では、不正に得たお金を特定の誰かが独り占めしてしまい、権力構造が変わるたびに不正が摘発されて牢屋に送られるということを繰り返します。一方、ベトナムでは、不正で得たお金を仲間で分け合う(全員一律ではなく階層毎に分け前のレートがある)ので、結果として全員不正に関与することになり、表面化しにくいと言われています。そんな状態ですので、ベトナムで不正に向き合うのは、それこそ命がけで並大抵の努力では解決できないと覚悟していました。

前回のブログで、当社の食堂に関連して解決すべき問題は二つあったことを書きました。一つは、衛生管理もでたらめで当社の誰かがキックバックしたお金が工業団地管理局Cに流れているという疑惑。そして、もう一つは顧客である某韓国企業から差別を助長すると指摘された二つの食堂(日本人出向者向けとベトナム人従業員向け)の扱いです。

まず、私がやったことは、明確にあるべき姿(目標)を設定することでした。それは、食堂業者を入れ替える事。そして、新しい食堂業者は、日本の本社からも、日本人出向者たちからも、大多数のベトナム人従業員たちからも、文句を言われないところを選ぶ、ということでした。そこで、私が選んだ新しい食堂業者とは、某韓国企業で5万人の従業員に食事を提供している会社でした。この食堂業者は韓国資本の会社で、某韓国企業がベトナムに進出をさせたという経緯がありました。この食堂業者はベトナムでは外資企業ですのでキックバックの心配もありません。韓国人駐在員が複数名いて、ベトナム人を介さなくても私が韓国語で直接交渉、打合せ出来る。さらに、当社にとって重要なお客様である某韓国企業がお墨付きを与えた会社であることから、社内で文句を言われる可能性が低いと考えました。

食堂切り替えに際して食堂業者の韓国人駐在員たちが最も危惧したのは、24時間稼働する私たちの工場では、食事の提供を中断することは出来ないことで、果たしてスムーズな引継ぎができるのだろうか、ということでした。戸惑う韓国人たちに私が言い放ったのは、「韓国人はやるときはやる(韓国語で“ハンダ ミョン ハンダ”)でしょ。あなたたちにしかこの仕事は出来ないんだ」という言葉でした。彼らは、最終的には「やる」と言ってくれました。Xデーを決め、深夜食の提供が終わる0時になったら、既存の食堂業者を有無を言わさず追い出し、一斉に韓国の食堂業者の調理スタッフが食堂になだれ込んで調理場を乗っ取り7時からの朝食をつくり始めるという算段でした。この計画は、私の上司でベトナム現地法人社長Wさんと私の部下2名以外、完全秘密にしました。しかし、全く想像しなかったところから計画が発覚してしまったのです。

韓国の食堂業者は、当社の日本人出向者用食堂の調理師を募集するために、工場近隣の村で採用広告を出してしまい、食堂変更が当社の社員にばれてしまいました。すぐさまキックバックの張本人から工業団地管理局Cに報告をしたのでしょう。なんと、私はこのCから直々に食事の誘いを受けたのです。

私と社長Wさん、通訳として部下一名で、局長Cが指定したレストランに乗り込みました。大きな円卓のある個室ではCとその妻が満面の笑みで我々の到着を待っていました。そしてもう一人見覚えのある女性の姿も。その女性は既存の食堂業者の社長でした。当社からの要望(衛生管理や食事の改善等)に対して、のらりくらりとやってきた張本人です。そして、着席するなりCは驚くことを言い出しました。

「この食堂業者の社長はね、私の妻の従妹だ。彼女に改善を求めることがあれば、今日ここで私が立ち会うのでなんでも言って欲しい」

私はCが、当社からのお金の還流が止まることを聞きつけでっち上げた話だと瞬間的に理解しました。しかし、従妹だという以上、それを信じたふりをして会食はなごやかな雰囲気で進みました。

Cはベトナム戦争従軍者で、しかもミグ戦闘機パイロットとしてアメリカの大型爆撃機B52を撃墜したという武勇伝を雄弁に語りました。そして、ベトナム軍の強さは敵の裏をかくこと。敵を油断させて奇襲攻撃で戦意を喪失させることだ、と。余談ですが、ハノイには「軍事歴史博物館」というのがあって、撃墜したB52を保存処理した残骸をモニュメントとして展示しています。このB52はハノイ防衛のために配備されていたソ連製の対空ミサイルによって撃墜されたのですが、Cの話しでは、当初からベトナム軍はソ連を疑っており、ミサイルの射程距離など性能に関する情報はアメリカ側に筒抜けだったと。そして、アメリカ空軍はミサイルを避けるために、その射程距離よりも高いところ航行してハノイを爆撃することを事前につかんでいた。そこで、ベトナム軍は、このミサイルを独自に改造して射程距離が1.5倍に増すように改良した。そうとも知らず従来の射程距離のやや上を余裕満々でハノイ上空に侵入したB52は、このミサイルの餌食となり15機が撃墜されたとのことです。

食事が終わり、Cとその妻を見送りにレストランを出ました。食堂業者の社長が運転する車がレストランの前に停まってCとその妻が車の後部座席に乗り込みました。その瞬間、私はこの女性二人が従妹である、ということは嘘だと見破りました。普通、女性同士ならば、しかも、従妹ならば二人は運転席と助手席に並んで座り話しをするでしょう。明らかにC夫妻の行動は不自然で、食堂業者の社長と役人夫妻の関係に見えました。私は、社長Wさんにそのことを説明しCにおもんばかる必要は一切なく、計画通り実行したいと伝え、許可してもらいました。

その数日後、Xデー当日の昼、私はCに面談を申し出て工業団地管理局の彼のオフィスを訪問しました。私なりに仁義を切っておきたいとの考えがあったからです。Cと会うのはこれが最後になるだろうと思っていましたし、私の考えを伝えておきたかった。

私「Cさん、あなたがもし私の立場で、管理責任がある食堂で社員が嫌な思いをしたり、不安になったりしていることを知ったら何をしますか。そして改善を求めても一向に問題が解決しないとしたらどうしますか。」

局長C「それでも話し合いで解決をするように努力する。」

私「私は、社員に対して果たすべき役割を全うするだけです。それは私の意志で行います。」

そして、管理局を出て帰社し、その時が来るのを待ちました。

夜勤者へ深夜食の提供が終わり、あらかじめ決めておいた手順通り、食堂業者を追い出しました。中には抵抗する人もいましたが当社の警備スタッフを総動員して強制的に排除しました。続いて新しい食堂業者が調理場に入り、食材の在庫チェックとリストアップを始めました。後から不当な賠償請求に応じないようにするためです。(実際に請求された金額は法外で、その根拠は嘘だらけでしたのでこの時のリストアップは役立ちました。)韓国人駐在員たちはいっせいに調理場のチェックを始めました。そして、しばらくして私に「こんなに不衛生で管理されていない調理場は他に見たことが無い」と報告しました。

朝食の調理に向けた準備は粛々と進んでいき、私たちはその様子をずっと見届けました。深夜1時頃だったでしょうか、私の部下に一本の電話が入りました。Cからでした。Cの怒鳴り声は携帯電話から漏れて、近くにいた私にも聞こえてくるほどでした。あとから、部下にその内容を聞いたところ、

「日本人はいまだにパールハーバー(奇襲攻撃)をやるのか?」とか、「あの日本人(つまり私)は正気か?」とか、「これからどうなっても知らないぞ」といったものでした。この時点で、私はCにお金が渡っていたということを確信しました。

朝になって、続々と食堂に集まってきま社員は、いつもと様子が違うことに驚いていました。そして私は、彼らが食事をする様子を見てほっとしました。皆、おいしそうに食事を口に運んでいたからです。実は、このXデーと同日の昼、朝夕の社員の通勤を委託していた「運転手付きレンタカー会社」も一気に入れ替えを行いました。この会社からもキックバックを受けている疑いがあったからです。このことは割愛します。

不正に関与していた社員たちは、まさか食堂が一晩でそっくり入れ替わるとは全く予想していなかったと思います。彼らは、しばらくの間おとなしくしていましたが、作戦を立てたのでしょう、徐々にあからさまな妨害行為が始まりました。まず、食事に異物が混入していると職場で騒ぎ始めました。自分で混入させたのだと思います。そして元の業者に戻せと組合に訴えました。組合の委員長はキックバックのことや、私の対応について理解してくれていたので取り合いませんでしたが。特に過激な行動にでた数名(不正の張本人の子分たち)について、私は別件で処罰を考えていまして、迷わず実行に移しました。

私の赴任前、ベトナム工場では、社員数名に端を発するストライキが発生し、運営が混乱したことがありました。その張本人とされる人物は既に退職していたのですが、裏で操っていたのことが明らかだったのが食堂変更への不満を煽った中の一名だったのです。私は、既に公安(警察)とコンタクトしていて、この社員の携帯電話の通話記録を入手し、ストライキの数日前から当日にかけて、ストライキの張本人とされた元社員に、繰り返し電話をしている証拠をつかんでいました。この証拠をもとに懲罰委員会を開き、組合と従業員代表者同席の下、この社員を出勤停止処分にしました。その結果、次第に食堂変更に対する社内の騒動は収まっていきました。

一件落着に思えたのも束の間、工業団地管理局が突然、日本人出向者の就労許可の延長は認めないと通達してきました。理由は、当社の日本人出向者の数が多過ぎてベトナム人の活躍の機会を奪っているというものでした。確かに日本から50名もの社員を送り込んでいるというのは多すぎると言われても仕方がないと思います。しかし、一方で2,000名に迫る勢いで急速にベトナム人の雇用も進めていましたし、技術移管の段階にある当社ではこれが最適な方法との合理的な抗弁をしました。しかし、我々の主張は受け入れられませんでした。管理局のこの判断を機に、食堂業者変更を進めた私に対する周囲からの風当たりは一気に厳しくなりました。私が余計なことさえしなければ問題は発生しなかったのに、といった空気です。問題の本質はもっと別のところにあるのに、という憤りを強く覚えました。しかし、私はあきらめませんでした。

次回のブログでは、日本人出向者の就労許可をめぐる工業団地管理局Cとの水面下の対決。そして、韓国S社からの2つの食堂(日本人出向者用とベトナム従業員用)の改善要求に対して、私がどのように対応したか書きたいと思います。

たかが食事と思うなかれ 社員食堂が会社の命運を握る

前回のブログに続いて、Eさんのことから書き始めたいと思います。

Eさんは、成果の見込みがないことをするのをとても嫌いました。また、経験の浅いベトナム人従業員に対しては、特に親身に接してその成長を促しました。そんなEさんに対するベトナム人従業員たちの評価は「Eさんは仕事の方法だけでなく、なぜこの仕事をするのかといった目的を、時間をかけてじっくりと説明してくれるのでやる気が出る」という肯定的な内容ばかりでした。

一方、ベトナム人従業員たちの日本人出向者に対する評価は散々な内容で「仕事をやれと言うだけで方法を教えてくれない」とか「教えてくれても一方的にまくしたてるので何を言いたいのかよく分からない」とか「残業しないと意欲がないと言われる」などと、ひどいものばかりでした。人事の私に対して彼らを再教育して欲しいという要望だったのかもしれませんね。同じ日本人出向者としてこんなことを聞かされると複雑な気持ちになりましたが、一方でぼろくそに言われても仕方がないな、ということをしょっちゅう目にしていました。というのは、日本人出向者の何人かは、周囲に響き渡るほどの大声でベトナム人従業員たちを叱責して、さぞベトナム人従業員たちは嫌な気分を味わっているだろうと想像していたからです。しかし、彼らは逆に「日本人はかわいそうだ」と言いました。ベトナムでは、怒って大声で怒鳴る人は感情がコントロールできない「かわいそうな人」だから、と。彼らの方が一段上でしたね。

日本的な喧嘩両成敗的発想で日本人出向者たちにもEさんの印象を質問してみました。彼らのEさんに関する評価は一致していて、異口同音に「理屈っぽい」「理想を言うだけで一向に手を動かさない評論家」「部下に甘い」などという内容でした。Eさんが日本人出向者たち抱いていた印象と面白いくらい真逆だったので、これは水と油の関係で両者が咬み合うことはないはずだと思いました。

ところで、前回のブログで書いたように、この会社では、食堂が現地採用のベトナム人従業員用と日本人出向者用と二つありました。私は両方の食堂を管理する責任を負っていました。ベトナム人従業員用の食堂は500人が一度に食事が出来る規模でした。この食堂では一日に5回(朝食、昼食、夕食、夜食、深夜食)ベトナムの現地食を提供していました。24時間稼働の工場でしたので、製造部は昼夜勤の2交替制(日勤と夜勤を3日おきに繰り返す2直2班制)で(勤務が切り替わる間のなか日はお休み)、ベトナムでも日本と同じく法律で一日の労働時間は8時間と決められていましたので、4時間は残業扱いとしました。通常、24時間稼働の工場は、3直3班(8時間勤務の昼夜勤を3つの班をつくってまわす)だったり、2直3班(12時間勤務の昼夜勤を3つの班をつくってまわす)方法を採るのですが、当社は社長の方針で、工場の稼働率が低下した時に余剰な従業員を抱え込まないために2直2班制を導入していました。しかし、12時間勤務が常態化すると従業員に肉体的、精神的疲労が増していくため、その影響が顕在化しました。特に夜勤時は部門長である日本人出向者たちが不在なので、作業ミスが多い(夜勤時生産の製品不良率が高い)、また、私が不定期に深夜の見回りをする際に、製造のオペレーターが堂々と居眠りをしているところを発見することも度々でした。このような労働環境との直接的な因果関係は不明ですが、めっき工程で火災が発生し一つの建屋が全焼するとの事象も発生しました。そのことについては別の機会に書きたいと思います。

一方、日本人出向者用食堂は、ベトナム人従業員用食堂と同じフロアにあったのですが、入り口は別々で、ベトナム人従業員がそのエリアに立ち入ることはありませんでした。入り口を抜けると右側に10名ほど着席できる会議室兼VIP用の個室(壁はガラス張りで外から内部の確認が可能)が二つありました。この前を通り過ぎると一度に50名程が同時に食事が出来る空間にテーブルと椅子が設置されていました。ベトナム人従業員用食堂はコンクリートの打ちっぱなしの床でしたが、こちらは木目のフローリングがされていて壁にもクロスが張られ日本のレストランと変わらない内装でした。冷暖房はしっかりと効いていて、衛星放送が視れるテレビとソファー、日本の新聞雑誌、マンガを収めたラックも設置され、さながらサロンのような雰囲気でした。セルフサービスでコーヒー、ジュースも提供していました。2週間で一回転するようにメニューを組んで、朝食、昼食、夕食を提供していました。しかし、日本人出向者たちからは量と味に対してクレームが絶えませんでしたが。

前回のブログで書いたように、Eさんがベトナム着任に際して会社から受けた待遇(ホテルや自由に使えるタクシーなど)はとても良いものだったと思います。しかし、彼が偉いのは、会社にいる時はそのような待遇を周囲に自慢することも、見せることもなく、いつもベトナム人従業員たちと一緒に行動したことです。私が、最初Eさんに社内案内した際に、食堂が二つあることを説明し、当然、日本人出向者用食堂で食事されるだろうと思っていたのですが、Eさんはあっさり、食堂が二つある理由は何か?なぜ全員一緒に食事をしないのか?と質問されました。私は詳しい理由は知りませんでしたが、この会社が中国の工場を設立した時から日本人出向者向け食堂は別に設けるようになったと説明しました。Eさんは全くナンセンス、といった反応をして、以後、このエリアに立ち入ることはなく、ベトナム人従業員用食堂で部下たちと食事をしました。

Eさんと日本人出向者たちは、関係改善に決して手をこまねいていたわけではなく、分かり合おうと努力もしていたように思います。同じ電子部品の技術者ですしキャリアのバックグランドや知識面で共有することが多い分、本来は良い関係を築けるはずだと信じていたはずです。でも、見えない溝は一向に埋まらず、力を出し切れなかったと思います。それは、ベトナム人従業員と一緒に食事をするという態度ひとつをとっても根本的な何かが違ったからだと思います。私の退職からしばらくしてEさんはベトナムから帰任したと風の便りで知りました。持っている力を出し切れず不本意な思いをされたのではないかと想像します。Eさんと日本人出向者たちが埋められなかった溝の原因については改めてブログに書きたいと思います。

私も、日本人出向者用食堂で食事をするのは、味のチェックをするために週2回程度と決めていました。それ以外はベトナム人の部下たちと一緒に食事をしました。これは、決してベトナム人従業員と親密になろうとか、良い人と思われようとか、そういった意味ではなく、食堂の機能を把握し、問題を発見したらすみやかに解決するという役割を果たすためでした。中国でも同じことを聞いたことがありましたが、会社経営において、従業員に提供する食事次第でストライキに発展することもある、と私は思っていました。ベトナムでは、これは都市伝説ではなく本当に提供する食事が原因でストライキが発生した日系企業がありましたし、人事総務の最重要ミッションのひとつだと考えていました。

人事総務の責任者である私が、自分たちと一緒にベトナムの食事を食べていることが最初ベトナム人従業員たちは不思議だったようです。「どうして他の日本人と一緒に食事をしないんですか」とか、いろいろ質問されましたが、徐々に食事についての不満を耳にするようになりました。味もさることながら、中には「昆虫が混入」しているとか、「肉が腐っている」とか聞き捨てならない話しがありました。私は、食堂の運営を任せている業者に改善を求めましたが、何故か横柄な態度でまともに取り合おうとしません。そのような中、ある従業員がこの食堂業者と癒着してキックバック(支払代金の一部を還流する不正のこと)を受け取っており、さらにキックバックで得た資金を工業団地管理局Cに提供しているという情報までつかみました。つまり、食堂は、不正の温床となっていて、従業員の健康や満足は二の次として扱われてきたという可能性があることを知り、私は強い義憤を抱きました。

また、前にも書いたように、この工場で生産する電子部品は主に某韓国企業のスマホやタブレットに搭載されていて、納入先は、ベトナム某省にある従業員数5万人を有する大工場でした。同社にとって当社は電子部品のメインサプライヤーでしたので、私たちは同社の担当者から定期的に監査を受けていました。人事総務も例外ではなく、従業員の採用や人材育成、離職防止策などについてこまごまとチェックされました。そのような中で、同社の担当者が最も問題視したのは、当社の食堂の運営についてでした。彼らの指摘は、日本人出向者とベトナム人従業員の食堂が別々に存在していることは差別を助長することにあたり同社の倫理規定に反する。継続的な取引を望むならば改善すべき、との内容でした。

同社の担当者は私を彼らの工場の食堂に招待してくれました。5万人の大部分を占める製造ラインオペレーターは3直3班制なので、一度に食事をする従業員数は15,000名程。それが二つの食堂に分散して30分の時差を設けて食事を開始する仕組みでした。つまり一度に収容できる人数は一食堂で3,500名~4,000名くらいだったのではないかと思います。韓国からの出向者も一緒に食事をしていて、メニューはベトナム食、韓国食、洋食など自由に選べるようになっていました。私は韓国食を選んだのですが、正に本場の味でした。そのような背景から当社の食堂のあり方について改善を求めたのは当然のことだなと納得しました。

私は、帰社し、一人食堂にたたずんで考えました。解決すべき問題は二つあります。一つは、衛生管理もでたらめで不正の温床となっている食堂業者をどうすべきか。もう一つはお客さんに命じられた二つの食堂の改革です。私がどのような対応をしたかは次回のブログで書きたいと思います。

知っているようで知らないドイツ人のお話し

前回のブログで、神奈川の電子部品メーカーのベトナム工場で人事総務を主管していた時、ドイツ人出向者Eさんと親しくなったと書きました。彼のおかげで、私たち日本人が当たり前だと思っていたことが本当に正しいのか、深く考える機会を得ました。今回はそのことについて詳しく書きたいと思います。

日本人とドイツ人は共通点が多い、という言葉をこれまで何度も見聞きしてきました。試しにネットで検索すると、「日本人とドイツ人は共通点が多い。どちらも「生真面目」「時間を守る」「倹約」だ」などと、いまだにそんなことを書いている人がいることが分かりました。確かに日本人から見て、ドイツ人は自分たちに似ていると思う一面があるかもしれません。しかし、ドイツ人はどう思っているのでしょうか。私は、ずっと、日本人とドイツ人は全然違うと思っていました。その理由について述べます。

私は大学生の時に1年間、韓国のソウルに留学しました。留学中仲良くなった日本の報道機関のソウル支局の人がいて、私の帰国後、その人のドイツ人の友人が日本に行くので東京の良いところを案内してあげて欲しいと頼まれました。そのドイツ人の女性はCさんという人で、理由は忘れましたが、吉祥寺を案内しました。吉祥寺駅から井之頭公園まで続く道の両側に焼き鳥屋さんが並んでいて、至る所から煙がモクモク出て良い香りがしているのを見て、彼女は「ドイツでは考えられない」と、本当にびっくりしていたのを覚えています。彼女曰く、ドイツでは、公共の場でにおいを発するものを出すことは法律で禁じられており、また、洗濯物も外に干すことが出来ない等、公共のルールは多岐に及び息が詰まりそうだ。日本や韓国は自由でいいなあ、と言っていました。その後私は、新卒で入社した会社を2年ちょっとで退職してしまいまして、せっかく得た自由を有意義に使おうと、再就職までの5カ月間、ヨーロッパをバックパッキングしました。その時、井之頭公園でKさんが言っていた「息が詰まりそうだ」というのはどういうことなのか自分なりに理解したいと考え、ドイツ各地を訪れました。そして、「息が詰まる」というよりも、「ドイツ人の厳格さ」を目の当たりにしました。

ケルンでは、私がうっかりして、厳格に決められている歩行者用道路、自転車用道路の区別が分からず、若干、自転車道路に足を踏み出して歩いてしまったのだと思います。自転車で近付いてきた若者から、ものすごい剣幕で叱られました。私は最初は意味が分からずポカンとしていたのですが、「ルールを守れない人間は死ね」くらい言われていたのかもしれません。また、ロマンチック街道の始点であるローテンブルグに行ったときは、第二次世界大戦で完膚なきまでに破壊しつくされた町が、完璧に中世の街並みに復元されたことを知りました。様々な職人が集まって、古い写真を頼りに、細部に至るまで、完璧に古く見えるように作り直したということを知って、日本だったら全部新しく作り直してしまうだろうな、と想像したことを思い出します。これ以外にも、見るもの聞くもの、何から何まで彼らは、根本的に私たち日本人と全く異なる思考、行動原理を持っていると感じました。しかし、その後ドイツ人と深く交わる機会がなかったため、それが何に起因するものなのか分からずじまいでしたが、ベトナムで、初めてドイツ人と深く交わることになりましたので、私は彼らのことを深く知りたいと考えました。

ベトナムで一緒に仕事をすることになったドイツ人出向者Eさんは、フランクフルト郊外に住む生粋のゲルマン人で、電子部品の技術者でした。彼は正式赴任前、出張でハノイに来て、その時が彼との初対面だったのですが、ハノイを案内しながらいろんな話をしまして、私は、最初からこの人とは気が合うな、という印象を得ました。というのも、私とEさんには共通点があり、お互いの考え方に共感できたからです。私たち二人の共通点とは、

①自分も部下も、無理せず効率的に成果を上げる方法を考えるのが好き
②失敗しない方法をあれこれ考え抜いて実行することを当たり前と思っている
③人の考えや意見を尊重し、それらを活かしてモチベーションを保つことを大切にする

でした。そして、1週間ほどの出張期間が終わり、彼は一旦ドイツに帰国しました。

その後、ドイツの技術提携先の会社から、Eさんの給料情報、出向期間中のその他の処遇について連絡がありまして、私はびっくりしました。まず、Eさんは部長クラスの技術者であるにもかかわらず、給料は当社の取締役かそれ以上の水準でした。さらに、住まいはホテルのサービスアパートメントが指定され、出退勤時、また奥様も含めてプライベートで常時利用できる運転手付きの車を用意するよう求められました。さらに、3カ月に一回、奥様も一緒にビジネスクラスでドイツへ一時帰国できるオプションもあること、ベトナム語の学習機会の提供等々。私たち日本人出向者は、住居の上限額は900米ドル程度(それでも現地の物価と比べればすごいですが)、出退勤も乗り合いバスで、一時帰国は1年に一回エコノミークラスで、給料も日本国内給与は日本国内で日本円で支給し、海外勤務手当としてベトナム通貨ドンで定額支給するという制度でした。私の疑問は、同業者でありながら、どうしてこのドイツの会社はこんなに社員に対する待遇が良いのか。高付加価値で利益率が高い製品をつくっているとは聞いていましたが、こんなことをして本当に大丈夫なのか、逆に心配になったくらいでした。しかしその後、私の驚きは更に度を増していくことになります。

Eさんが奥様と正式に着任する前に、ドイツの会社の組合のメンバーがハノイに来るという知らせを受けました。私は、組合役員が、現地視察を建前にベトナム観光でもするつもりなのかな、くらいに思っていたのですが、想像もしないことになりました。ハノイのノイバイ国際空港に迎えに行って、飛行機を降りてきた組合役員は6名もいました。それぞれ、健康、処遇、環境等担当者が決まっていて、全員、出向者であるEさんと奥様の生活環境について細かくチェックし、改善すべき点があれば要求をするという役割をもっていました。ハノイに到着するやいなや、当社の工場に来社した6名と会議を行いました。3日間の滞在中のスケジュールは既に分刻みで決められていて、同行と説明を求められました。住まいであるホテルのサービスアパートメントの視察を皮切りに、移動手段と通勤経路の確認、会社の食堂と衛生管理の状況、オフィスの環境、デスクや椅子、さらに余暇の過ごし方について、ハノイ市内への移動経路や、レストラン、その安全性等、あらかじめ用意されていたチェックリストに基づいて現地視察が行われました。事前に手配しておいたタクシーの運転が危険だと言われドライバーの変更を求められたり、奥様の日常の生活についても退屈しないような配慮を求められたりもしました。私は、同じ駐在員で、それも社員の身分で、どうしてここまで配慮してもらえるのか違和感を覚えていましたが、後日その理由が分かりました。

ドイツでは、日本における「株式会社」が「有限会社(GmbH)」であり、少し古いですが2014年のデータでは、ドイツにおける「株式会社(AG)」2,320社に対して、「有限会社(GmbH)」は73,036社と圧倒的に多く、一般的です。ちなみに最も多いのが「個人企業」で569,699社となっています。ドイツの技術提携先の会社もはこの「有限会社(GmbH)」でした。さらに、「有限会社(GmbH)」は、取締役会、社員総会(組合)、監査役会(設置は任意)で構成されていて、最高意思決定機関は「社員総会(組合)」であり、その権限はすべての事項(年度決算書の確定、利益処分、取締役の選任・解任、経営管理の監査及び監督等)に及び、その決議はすべて社員総会(組合)で行われると、法律で定められています。つまり、組合代表者は、経営責任者であり、日本のような労働者の権利を代弁し会社に対して団体交渉を担う機能とは全く異なるということです。ドイツ人出向者Eさんが、ベトナムで勤務し最大限の成果を発揮できるような環境を整えるのは、会社が果たすべき当然の責務であり、それが社員総会(組合)の意志に基づくものであることを知り驚いたのと同時に、仕事のことだけ説明を受けて、スーツケースひとつで取り敢えず赴任させて仕事に就かせることも多い日本の会社とは、労働に対する思想、哲学が根本的に異なることを思い知らされました。尚、私の友人で、長年オランダの航空会社で勤務した方から聞いたのですが、その方は、福岡~オランダ(アムステルダム)路線が開設されるにあたり、成田から福岡に転勤となり、福岡の責任者を務められました。そこで、福岡にオランダからクルーを迎え入れるにあたって、事前に本社から組合メンバー複数名が福岡に来て、ホテルや食事の環境、空港からホテルまでの移動経路、余暇の過ごし方などきめ細かくチェックをされたと言っていました。人事の世界では、ジャーマン・ノルディックという言葉があり、アメリカを中心とする資本家優位の労働政策とは一線を画す、労働者の権利を最大限保護する労働法をもつ国々として、オーストリア、ドイツ、ルクセンブルグ、オランダ、北欧諸国があり、日本でも研究の対象となっています。残念ながら日本は、その歴史的経緯からかアメリカの影響を強く受け、終身雇用と長期的な成果主義を大切にしてきた日本の労働政策も遠い過去のものとなりつつあります。

組合代表者がドイツに帰国し、いよいよEさんと奥様がハノイにやってきました。Eさんは知識、経験、士気がいずれも高く、とても頼りがいのある方だと思いました。奥様も気さくで私の妻ともすぐに打ち解けて仲良くなりました。さあ、あとは当社社員とEさんとが一致協力して合弁事業を軌道に乗せるだけです。しかし、Eさんが着任して1カ月ほど経過した頃から問題が起き始めました。それは、Eさんと日本人出向者達との間で、仕事の進め方に対する考え方の違いから、双方に不信感が芽生え始めたのです。特に、Eさんの悩みは深刻で、日本人出向者達との意識のギャップは、自分が、日本語ができないことが原因かもしれないなどと考え始め、実際に日本語を勉強し始めるなど努力していました。しかし、しばらくするとEさんは私に対して、日本人出向者達に対する愚痴を言うようになりました。その内容は、「どうして日本人は綿密な計画なく安易に仕事を始めてしまうのか」とか、「どうして日本人はきちんと結果を検証せず、必要な対策を講じないまま次の仕事にとりかかってしまうのか」や、「どうして日本人はベトナム人社員に仕事の負荷をかけて残業させることを良くないことだと思わないのか」等々。私は、Eさんに、日本人一般の仕事の癖について理解してもらえるよう説明を尽くしました。しかし、それでも尚、Eさんの疑問と憤りは大きくなる一方でした。結局、私はEさんがベトナムにいる間に退職してしまいましたので、Eさんご夫妻と私たち夫婦で食事をしたことが最後の思い出です。その時のEさんの残念そうな表情は今でも忘れられませんし、なぜ、もっときちんとEさんの悩みに向き合ってあげることが出来なかったのかという後悔があります。

次回のブログでもEさんのことについて書きたいと思います。