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新時代の幸福論(回遊魚として生きる③)

私が考える、幸せな人生の条件。人生の座標軸 の内、「①良い人間関係」「②人生の目的」について書きました。

「①良い人間関係」では、コロナ禍以前にすでにあった「希薄な人間関係」が社会の分裂と分断を助長していて、それがコロナ禍で拍車がかかっている。さらに、働き方改革の総仕上げともいえるジョブ型によって加速する可能性がある。これを防ぐのは私たち一人一人が身近な人との親密な関係を築き、それを広げていくことだと思うと述べました。

「②人生の目的」では、暗黙知化している目的(人生の意味、根本原理、真価)を意識化するには、それを写し鏡となって気づかせてくれる人の存在、特に、親や恩師、上司等、師と仰ぐ存在を持つことが重要で、その人たちとの関係性が、自己の本質の発見に至る。さらに、部下や後輩など導く対象を持つことで本質を発揮して磨きをかけることが出来ると述べました。

つまり、「①良い人間関係」と「②人生の目的」は密接に関わり合っているということを言いたかったのです。今回は、「③好きな仕事」について書きますが、その前に前回、問題提起していたことを書きます。

自身の目的の実現に向けて取り組むことを見つけることが、好きな仕事(職業)の選択です。仕事は、「目的」に合致していれば成果も上がりやすいし、楽しいものです。問題は、激しくなる環境変化に伴い、仕事の経験を通じてせっかく身につけたスキルも短期間に陳腐化してしまう可能性がますます高まり、「好きな仕事」を続けることが難しくなっているということです。そこで、仕事は常に見直しを迫られる訳ですが、企業内で雇用が守られていた時代では、その変化に気付くことが少なかったものの、これからは一人一人が労働市場と向き合って、自身の仕事の経験、スキルと、刻々と変化する市場のニーズとの適合性を図っていかなければならないということです。

そこで、考えました。果たして私たちは、ずっと「好きな仕事をし続けること」ができるのだろうかと。

ずいぶん昔に「Only One」という言葉が流行りました。「世界に一つだけの花」という歌がヒットしたことがきっかけで、「自分らしさ」や「個性」を発揮することは良いことだと言われ始めました。しかし、私はこの言葉にどこか違和感を覚えていました。社会というのは、求める人がいて初めて成り立つものです。自分らしさや個性の発揮という言葉は美しい響きを持つけれども、「人に理解されなくてもよい。いつか分かってくれる人が現れるだろう」と、まるで芸術家が発する言葉のように聞こえたからです。芸術家の中には、評価や評判を気にせず、その生涯を常識の創造的破壊に捧げたような人がいます。

モーツァルトは病に侵されて最後は貧困のためにウィーンの共同墓地に埋葬されました。ゴッホは生涯たった1枚の絵しか売れなかったといいます。このように後世に偉大な芸術家と呼ばれるようになった人は確かに「Only One」と呼ばれる存在と言えるでしょう。しかし、私たちは、生活の糧を得るために生業としての仕事をしなければなりません。そして、仕事には必ず相手がいます。仕事を認めてくれる人の存在が必要です。そういった、誰の役に立つか、何が求められているか、という視点からの発想が、好きな仕事をし続けるための条件、前提になるのではないかと思います。

昭和から平成を通じて数多くのヒット歌謡曲を生み出した筒美京平さんがお亡くなりになりました。訃報に続いて筒美さんの業績に関する報道を見ていて、筒美さんが語られた言葉が目に留まりました。

「自分の持っている音楽を表明していく感じでは全然ない」

「自分が満足するのではなく、人を満足させようとしてきた」

筒美さんは、ご自身の真価を発揮する目的を、人の満足に置いていたということが意外でもあり、やっぱり、という感じがしました。好きな仕事をするというよりも、仕事の方から自分が好かれるようにしてきたのではないか。作曲家という職業が、筒美さん抜きでは語ることができなくなった、という意味で、真の「Only One」になられたのだと思いました。

正しいことをするのではなく、自分の真価を発揮して役に立つことをすることが、幸せな人生の座標軸なのだと思います。前回書いたように、真価(人生の目的)は、良い人間関係(良き師)によって気づかされます。そして、後進を育てることによって磨かれていきます。しかしこれだけでは発展しない。役に立つための場が必要です。それが良い人間関係の2つ目、横の人間関係です。横の人間関係とは、言葉を替えると「リーダーシップ発揮」の場のことです。

リーダーシップというと、強いリーダーがグイグイと周囲の人々を引っ張っているイメージがあります。しかし、環境変化が激しく答えがない現代においては、リーダーが唯一の答えを持っているという前提に立ったリーダーシップでは発揮に限界があります。人それぞれが持つ真価(人生の目的)を見出し、気づかせてあげて、それらが存分に発揮するようにして成果が最大化する。そのためにリーダーは、メンバーがお互いに自分と人との違いを認めて、尊重し合う風土を醸成する必要があります。これがダイバーシティ(多様性)の基本的取組みです。

お互いの違いに気づく方法はひとつしかありません。先入観なく、その人の言葉に耳を傾け、ありのままを受け留めること、だけです。この、「受容」と「共感」というカウンセリングのプロセスは、私が仕えた、組織の成果を継続的に高めている優れたリーダーに共通して備わっているスキルです。それを組織内に十分に展開できるかがポイントです。

そんな現代的な理想のリーダーとリーダーシップ像として、アメリカ映画「十二人の怒れる男」が参考になります。

『十二人の怒れる男』(12 Angry Men)は、1957年製作のアメリカ映画。ほとんどの出来事がたった一つの部屋を中心に繰り広げられており、「物語は脚本が面白ければ場所など関係ない」という説を体現する作品として引き合いに出されることも多い。父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描く。(Wikipediaより)

法廷に提出された証拠や証言は被告人である黒人の少年に圧倒的に不利なもので、陪審員の大半は少年の有罪を確信していました。全陪審員一致で有罪になると思われたところ、ただ一人、名優ヘンリー・フォンダ演じる、陪審員8番(建築家)だけが、検察の立証に疑念を抱き無罪を主張します。彼は他の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求します。そして、陪審員8番の熱意と、理路整然とした推理によって、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々に変化が生じて、最後に無罪の評決が下るというストーリーです。

主人公の陪審員8番の言動は、他の陪審員の発言と諸事情を考慮しつつ、前提を疑い、しぶとく真実を探求し、誰もが納得する合理的な根拠を用いて、様々な利害の矛盾を超えていくお手本です。有罪、無罪と物事を単純化して割り切るのではなく、反対側から見たらどう見えるだろう。その人の立場だったらどう感じ行動しただろうかと、ニュートラルな立場に身を置くことであらゆる可能性を排除せずに妥当解を導き出す姿は「リーダーシップ」のお手本だと思いました。

私がこれまでに仕えた経営者で、魅力的で尊敬できる方というのは、優れた経営者であると同時に魅力的なリーダーでもありました。一方、いわゆる「ワンマン社長」は、ご自分の考えに固執するあまり、経営判断も常にそこから発想するためワンパターン化し、環境変化に適応するのが徐々に難しくなっていくという特徴がありました。やはり、従業員の意見をよく聴いて、その背後にある心を読み解くことが大切だと思います。

余談ですが、人事担当者の仕事は、経営者の姿勢に直接影響を受けます。かつて、私が尊敬する経営者の下で働いた時の人事部は、経営の意向と従業員の気持ちの、どちらかに偏ることを避けて、両方に配慮した意思決定をしていました。方法としては、誰かが考えを述べたら、今度は反対意見を敢えて発言して、先に出された考えを揺さぶる、欧米で良くやる手法(ディベート)を採用していました。その結果、柔軟な発想が出来たのではないかと思います。

但し、この議論のプロセスは「十二人の怒れる男」のように、非常に時間と根気が要りました。ある時、テーマが何だったかは忘れましたが、ルール運用が現状にそぐわなくなっているので見直しが必要ということになり、どうすべきかを決めなければならなくなりました。人事担当者5名が会議室に集まり、前述の方法で話し合いを始めたのですが、どうしても結論が出ず、一旦会議を中断して定時後に再開して深夜になり、それでも結論が出ないので、「じゃあ、お酒でも飲みながら」ということになって、バーでグラス片手に話しを始めたら、すぐに結論が出たということがありました。

私は、今でもこの方法が理想だと思っています。人事という仕事は、あらゆる可能性を吟味しないと本来意思決定などできないからです。その後勤務した会社では、経営の決定を実現することが求められ過ぎて、従業員の考えや気持ちへの配慮が二の次になったことがありました。そして、せっかく時間をかけて準備した、本来はとても良い試みが、結局従業員に受け入れられず効果が出ませんでした。やはり、制度や運用方法を検討するプロセスには、必ず従業員の考えや気持ちを反映することが必要だと思います。

以上、幸福な人生のための3つの人生の座標軸について書きました。

1.良い人間関係

2.人生の目的

3.好きな仕事

すべてがそろい、その接点である座標を持つことで、激変する環境を乗り越えていく。そんな新時代の幸福論(回遊魚として生きる)を、私自身が実践するとの決意を新たにすると共に、是非、この話を、これから社会に出る若者にしてみたいと思いました。

新時代の幸福論(回遊魚として生きる②)

前回は、3つの人生の座標軸 ①良い人間関係(身近な人との親密な関係) について書きました。私が考える、「親密な関係」とは、「互いに強いつながりを持った関係」のことです。身近な人とのかかわり方を変えることによって、

「他人を他人と思わず、他人と自分とを隔てる境界線を乗り越え、あらゆる人と親密な人間関係を築く」

という人類の叡智(実践知)を発揮して、社会の「分裂」と「分断」の進行を防ぐという考えを述べました。

今回は、二つ目の座標軸 ②人生の目的 について書きたいと思います。

1.「目的」とは何か

ビジネスの現場では、「目的」とともに「目標」「方針」という言葉をよく使います。しかし、それらを正しく使っていない人を見かけます。会社の意志決定の基本であるにも関わらず、それらの意味を正しく理解している人は意外と少ないのではないでしょうか。

私は、「目的」「目標」「方針」を次のように理解して使っています。

目的:    最終的な到達点、永遠の問い、理想の世界、何かをする意味や理由

目標:    目的に至る通過点、ある期間内で達成すべき状態

方針:    目標達成のために採用する手段、方法、選択肢のひとつ

登山に例えるならば、

「目標」とは、「元旦に富士山に登頂し初日の出を拝む」

「方針」とは、「5合目まで車で行って、そこから徒歩で登山を始める」

となります。そして、「目的」とは、理由を説明する言葉。例えば「願い事を叶えるため」などとなるでしょうか。

しかし、登山の目的ならともかく、「人生の目的」は何か、ということになると、たいていの場合、言葉にならない無意識レベルに潜んでいて、はっきりと自覚することは難しいのではないでしょうか。著名な登山家のマロリーは、

「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」

と問われ、

「そこにエベレストがあるから(Because it’s there. )」

と答えたという逸話は有名です。この言葉からマロリーにとって登山とは人生の目的そのものだったと想像できます。

ジョージ・ハーバート・リー・マロリー(George Herbert Leigh Mallory 、1886年6月18日 – 1924年6月8日もしくは9日)は、イギリスの登山家。 1920年代にイギリスが国威発揚をかけた3度のエベレスト遠征隊に参加。1924年6月の第3次遠征において、マロリーはパートナーのアンドリュー・アーヴィンと共に頂上を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった。マロリーの最期は、死後75年にわたって謎に包まれていたが、1999年5月1日に国際探索隊によって遺体が発見された。以来、マロリーが世界初の登頂を果たしたか否かは、未だに論議を呼んでいる。 (Wikipediaより)

ニーチェが、

「すべての知識の拡大は、無意識を意識化することから生じる。」

と言ったように、無意識レベルに潜んでいる「目的」を発見、発揮するためには、何らかの方法で意識化する必要がある、ということになると思います。

2.「目的」の発見

ニーチェは次の言葉も残しています。

「君はこれまで、何を本当に愛してきたか、何が君の心をひきつけ君の心を支配し、かつまた有頂天にしたか。これまで崇拝してきたそれらの対象を、順々に心に思い浮かべてみるがよい。それらの対象は…一つの法則、君の根本法則を君の前に明らかにするにちがいない。」

私は、ニーチェが言う、「一つの根本法則」とは、「人生の目的」と同じ意味だと解釈しています。

そして、「人生の目的」を発見するためには、「一つの根本法則」を「意識化」する以外に方法がないと思うのです。

特定の信仰を持つ人にとって「人生の目的」とは、大いなる存在(神、万物の創造主)との対話によって気付きを得るものです。それは、現世で果たすべき役割、という言葉で表されます。

一方、特定の信仰を持たない大多数の日本人にとって、大いなる存在の力を得て自らに課された役割と人生の目的に気づくことは稀かと思われます。その結果、多くの日本人が悩むのは、「人生の目的」がはっきりしない中で、次々に与えられる「目標」の達成に翻弄されることです。「目標が目的化」するというのはこういった状態のことです。その結果、環境や自らの行いに対する納得感と満足感がなかなか高まらない。一度高まっても維持できない。そんな構図が頭に浮かんできます。

ニーチェは、神に頼らず自らの力で生きる意味を見つける、「超人になれ」と言いました。しかし、これはなかなか難しい。私たち普通の人間が、特定の信仰に頼らなくても、また「超人」にならなくても、「一つの根本原因」である「人生の目的」を発見し、意識化するためには、一体どうしたらよいでしょうか。

私は、前回書いた、人生の座標軸 ①良い人間関係(身近な人との親密な関係) がそのカギを握っていると考えています。

良い人間関係(身近な人との親密な関係)において、「人生の目的」を発見する上で重要と考えるのは、縦の人間関係です。縦の関係とは、師(親、恩師、上司等)から自己理解のフィードバックを受けること。また、後進を育てることによって自身の成長の機会とする、ということです。

縦の関係を掘下げてみたいと思います。

「士は己を知る者のために死す」という言葉があります。

中国前漢時代の歴史家、司馬遷(しばせん、紀元前145/135年 – 紀元前87/86年)が執筆した「史記」の中の「刺客列伝」で取り上げた故事です。

男子たる者は、自分の真価をよくわかってくれる人のためには命をなげうっても尽くすものだとの意。中国、晋(しん)の智伯(ちはく)が趙(ちょう)の襄子(じょうし)に滅ぼされたとき、その臣であった予譲は、いったんは山中に逃れたものの、このことばによって復讐(ふくしゅう)を誓い、姓名を変え、顔面を傷つけるなどして別人を装い、襄子をつけねらったが捕らえられ目的を果たせず、襄子の計らいで与えられたその衣を刺し通し、自らも返す剣の刃に伏して命を絶った、と伝える『史記』「刺客伝」などの故事による。(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

ここでのポイントは、自分では気づけなかった「一つの根本原因」つまり「人生の目的」の写し鏡になってくれる人の存在が必要だということです。

この言葉を企業で応用するならば、経営者が、従業員に業務を与える前に、その一人一人の真価を見極め、その真価を発揮できる環境を与える、ということになるでしょう。「真価」とは、いうなれば、その人のコアの部分。つまり「人生の目的」ということになります。

そして、経営者は、従業員一人一人の真価(目的)と、会社の目的(経営(企業)理念)とクロス(融合)する施策を講じます。目的で結ばれた経営者と従業員の関係は強固で、基本的な役割さえ決めておけば、業務(ジョブとタスク)をきっちり定めなくても望ましい行動をしてくれるようになります。これが理念経営と目標管理の理想の姿です。

さらに昨今では、2015年に国連総会で採択された、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals: SDGs〈エスディージーズ〉)が社会の共通言語となり、企業にも具体的な行動が求められるようになりました。SDGsは共通善(誰も否定しない目的)そのものです。経営者が、従業員一人一人の真価(目的)との整合性を図る上で重要な指針となっています。

今回は、人生の座標軸 ②人生の目的 について考えてみました。まとめると、「人生の目的」は、無意識レベルに潜んでいてはっきりしない。無意識を意識化するカギは「良い人間関係(縦の関係)」をもつこと。「縦の関係」をもつことによって自分の真価に気づかせてくれてその発揮によって、「人生の目的」に基づいた生き方ができるということを述べました。

次回は、人生の座標軸 ③好きな仕事 について考えてみたいのですが、先に問題点を整理しておきたいと思います。

自身の目的の実現に向けて取り組むことを見つけることが、好きな仕事(職業)の選択です。仕事は、「目的」に合致していれば成果も上がりやすいし、楽しいものです。

問題は、激しくなる環境変化に伴い、仕事の経験を通じてせっかく身につけたスキルも短期間に陳腐化してしまう可能性がますます高まり、「好きな仕事」を続けることが難しくなっているということです。そこで、仕事は常に見直しを迫られる訳ですが、企業内で雇用が守られていた時代では、その変化に気付くことが少なかったものの、これからは一人一人が労働市場と向き合って、自身の仕事の経験、スキルと、刻々と変化する市場のニーズとの適合性を図っていかなければならないということです。その際、常に立ち戻る原点として、私たち一人一人に備わっている真価(人生の目的)があるということです。

次回は、私たちが環境変化の荒波にもまれながらも、好きな仕事をしていく方法を考えてみたいと思います。

新時代の幸福論(回遊魚として生きる①)

私の理想は「回遊魚」のような生き方をすることです。「回遊魚」とは、成長段階や環境の変化に応じて、生息場所を移動する海や川に生息する魚のことですが、人間社会に当てはめれば、特定の地域、組織に縛られず、自由に生きることを優先して、その時々のご縁を頂いて仕事場を変え続けるということになるでしょう。

最近、尊敬するメンターSさんの紹介で、私の経験を、

「さすらいの人事マンとして働いてきた見聞録」

というタイトルでお話しする機会を頂きました。資料を作成をする過程で、「回遊魚」として生きたい私が、これからも良い回遊をし続けるためには、3つの「座標軸」をしっかりグリップしておく必要があることに気づきました。そして、この3つの「座標軸」をもれなく持つと、それらが交わる「座標」を獲得し、「座標」があると、「いま、ここ」への納得感、安定感が高まって、自ずと「回遊」を始めて、自分と他者とを隔てる「境界」を乗り越えていく。。そんなイメージが頭に浮かんできました。

私が考える「3つの座標軸」とは、

①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事

です。この内のどれかが欠けても「良い回遊」は出来ません。どれかが欠けた「座標」をもたない状態で「回遊」を始めてしまうと、「死滅回遊」してしまいます。

回遊性を持たない動物が、海流や気流に乗って本来の分布域ではない地方までやって来ることがある。これらは回遊性がないゆえに本来の分布域へ戻る力を持たず、生息の条件が悪くなった場合は死滅するので、死滅回遊(しめつかいゆう)と呼ばれる。(Wikipediaより)

社会を見渡すと、「死滅回遊」してしまった人がいることに気づかないでしょうか。おそらく前述の「座標軸」の内、どれかが欠けた状態で「回遊」を始めてしまった人なのではないかと思います。

ちなみに、私にとって理想の「座標」を言葉にしてみると、

「すべての人が、身近な人との親密な関係を築き、各々が持つ才能と能力を、人の為、仲間の為、家族の為、社会の為、地球の為に存分に発揮して、イキイキ、ワクワクした人生を手に入れることに関わること。」

となります。こんなことを言うと、

「何を青臭いことを言っているんだ。」

「仕事なんて給料をもらうためにやっているんだ。」

「生きていくためには好きなこと、やりがいなんて言っていられない。」

など、私をたしなめる(注意する)声が聞こえてきそうです。

しかし、考えてみてください。コロナウィルス感染拡大によって、私たちには「最も大切なこと」が問われていますよね。「最も大切なこと」とは、言葉を変えれば、

「一人一人にとっての幸福とは何か?」

ということでしょう。

私の考える「幸福」の条件とは、①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事 という3つの「座標軸」を持つこと。そして、それらの接点である「座標」を獲得して、「回遊」することによって自由を得ること、という考えを持っています。

一方、これまでの一般的な日本の働く人の生活環境は、仕事の場とそれ以外のふたつに単純化されていて、それは、会社員が過ごす時間と場所に如実に表されています。

長時間勤務で仕事をしている時間が圧倒的に長く、人間関係も会社中心。家には寝るためだけに帰るという人は相変わらず多いのではないでしょうか。そして、仕事以外の時間は、家でくつろいでいるか、趣味で気分を紛らわせる程度です。そこからは個人の生きがい(人生の目的)を見い出すことが難しい。それが、日本を支えてきた圧倒的多数の働く人の人生だったのではないでしょうか。

大多数の働く人が、そんな矛盾を抱えて、当然、誰でも抱くような疑問を封印することが出来たのはなぜでしょうか。それは、終身雇用と年功序列によって、将来起きることをある程度予想出来る、人生の目途が立ったからです。よって、自由度が低く、多少抑圧的であっても、個人にとって合理的な生き方だったため、企業による社員の囲い込みがうまくいって経済成長に寄与し、結果的に社会全体の生活水準向上という好循環も生じさせました。しかし、平成の30年間が終わり、令和になって、それは過去の出来事になりました。

いま、私たちには、組織に属して社会の一構成要素として受け身で生きるのではなく、人間の本来の姿(一人一人の幸福の追求)に立った生き方が求められていると思います。

私が考える人間本来の姿とは、

「身近な人との親密な関係を基盤にして、人生の目的を意識しながら、好きな仕事をしている状態」

です。それが、私たちの基本的な欲求であり、原点だと思います。

そこで、今回から3回に分けて、私の考える「幸福」の条件である3つの「座標軸」、

①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事

について、考えてみたいと思います。

今回は ①良い人間関係 についてです。

繰り返しになりますが、今、世界中がコロナウィルスに翻弄されています。

ソーシャルディスタンスによって物理的距離感だけではなく、人と人との間の精神的な隔たりも生じています。個人の行動が制限され、経済活動も抑制され、雇用が不安定となり、所得格差がますます広がる中で、私たちの社会が「分裂」や「分断」の危機に直面していることを私は強く感じています。

但し、忘れてはならないのは、コロナ禍以前にも、日本の多くの職場では、「人間関係の希薄化」という名のソーシャルディスタンスが蔓延していました。さらに、頻繁に見聞きするようになった、「生きづらさ」という言葉。それがコロナ禍により、一層深刻化したということです。つまり、すべての原因をコロナ禍に求めるというのは誤った解釈だと思います。

コロナ渦以前に既にあった、「職場の人間関係の希薄化」の原因は何なのでしょうか。諸説あると思いますが、私は、急速に進んだ「雇用形態の多様化」、つまり、「非正規雇用社員の増加」が決定的だったと考えています。

現在、正社員、非正規雇用社員(契約社員、派遣社員、パート(アルバイト))など、様々な形態で雇用される人が同じ職場で協同しています。もはや、一人一人の「働く目的」を一致することは難しくなりました。

正社員と、非正規雇用社員との間に生じた所得格差は拡大して、ランチや、職場メンバーによる会食を一緒に楽しむこともできなくなっています。

そんな一体感を感じにくくなった職場で、もし急を要する問題が生じた場合どうなるでしょうか。恐らく、多くの場合、

「問題を放置する」

もしくは、

「当事者の意見を聞かず、解決策を一方的に決めて強引に押し付ける」

のではないでしょうか。その結果、問題解決は空振りに終わるか、逆に不信感を増長することにもなりかねません。

「雇用形態多様化」により「非正規雇用社員」を増やしたことは、経営の視点では人件費コントロールに一定の成果があったかもしれません。しかし、物事には必ずリアクションを伴います。その結果としての「人間関係の希薄化」と、それに付随してい生じた問題に対しては、まだまだ有効な対策が満足に講ぜられていないように見えます。

「雇用形態多様化」がもたらした問題とは一体何なのでしょうか。

いくら働いても生活保護水準、もしくはそれを下回る程度の賃金しか得られない「ワーキングプア―」。雇止めへの不安から、結婚できない、子供が作れないという人々が増え、人口減少が止まらない社会。そして、職場内の人間関係の希薄化によるメンタル不全やハラスメントの問題、等々。

これらの現象が日本社会の不安材料だということは誰でも知っているはずです。しかし、ほとんどの人は自分事として捉えていないように見えます。

まず、非正規雇用社員の人は、他の非正規雇用社員が抱えている問題に関与する余裕がなく自分のことで精一杯でしょう。また、雇用を保証された正社員からすると、いつ仕事を失うかもしれないという不安の実感がわかず共感できない、という感じでしょうか。

しかし、これまで目の前の問題に対して積極的に対応してこなかった人々にも大きな変化の波が訪れています。

昨今のリモートワーク導入を契機として、大企業を中心に高度経済成長以降、日本企業で一般化していた「メンバーシップ型」と呼ばれる人事制度を刷新し、「ジョブ型」に改めようとする動きが活発化しています。

「ジョブ型」とは、各自がやるべき仕事と、期待される成果を明確化して、出来ている人(こと)、出来ていない人(こと)をはっきり区別することを意味していて、「働き方改革の総仕上げ」とも言える雇用(人事)の大変革なのです。

私見ですが、その実態は、正社員を峻別したい経営者と、雇用流動性を高めて産業間にあるマンパワーの過不足を調整したい政治の思惑があるように思います。

「ジョブ型」が普及した職場では、やるべき仕事がはっきりする反面、契約で決められたこと以外はしなくても良いという理由が労働者に与えられます。例えば、目の前で困っている人がいても手を貸しても貸さなくても評価は変わらない。逆に、自分が困っていても周囲に助けを求めることを躊躇するようになります。結果として、自己責任が自己増殖して、益々職場の人間関係が希薄化するという悪魔のサイクルに陥る可能性があります。

ただでさえ問題視されている「人間関係の希薄化」がさらに進むとどうなるでしょうか。個人はますます孤立化し、社会の「分裂」と「分断」が一層深刻な事態になります。失業者と生活困窮者が増え、自死を選ぶ人が増えます。犯罪が増えて治安が急速に悪化する可能性もあります。すでにその兆候は表れているのではないでしょうか。

日本社会がこのような最悪な状況に至る道を歩まないようにするためには、私たち一人一人の積極的関与が必要だと思います。それが、今回のテーマである一つ目の座標軸、「良い人間関係を築く」ということなのです。言葉を換えれば、「身近な人との親密な関係を築く」ということです。私が考える、「親密な関係」とは、「互いに強いつながりを持った関係」のことです。

人間は、かつて大きな環境変化に何度も直面しながら、その都度適応して新しい生き方を編み出してきた「叡智」を備えた存在のはずです。

私が考える、人間が持つ「叡智」とは、

「他人を他人と思わず、他人と自分とを隔てる境界線を乗り越え、あらゆる人と親密な人間関係を築く」

という実践知のことです。

前述したように、雇用形態の多様化によって、既に職場には、自分とは「立場が異なる」大勢の人たちがいます。その、かつてはマイノリティー(少数派)だったはずの非正規雇用社員は、もはや全就労人口の30%を超えてマジョリティー(多数派)化しています。まずは、その人たちとの向き合い方をどう変えるか、なのです。

「自分は正社員で雇用が守られているから非正規社員のことは関係ない」

「自分の雇用は守られているから当面は安全だ」

などと、他人事で済ませていてはいけないということです。

これは職場に限ったことではありません。私たちは、身近な人々が必要としていること、困っていること、助けて欲しいと思っていることの理解に努めて、何らかの関わりを持とうとしているでしょうか。他人だから関係ないからといって無視してはいないでしょうか。あらゆる人間の集まりにおいて同様のことが言えると思います。

私は、政府主導で進めてきた「働き方改革」は、結局、私たち一人一人に本当の幸福感を与えていないし、むしろ「生きづらさ」の原因にさえなったのではないかと考えています。ただし、今となっては悪者探しをしていても埒があきません。政府に言いたいことはぐっとこらえて、私たち一人一人が、今おかれた環境で、身近で起きる問題を自分事として捉え、その解決に向けて主体的に関わることが出来るかが、未来を決定する分水嶺です。いま、ここから「身近な人とのかかわり方を変える」ことが重要なのです。

ネット上の情報や報道を観ると、「分裂」と「分断」に逆らうように、次々と社会にイノベーションを起こしているフロントランナー(先駆者)たちがいることを知り大変心強いです。彼ら、彼女たちは、地域社会において、「身近な人との親密な結びつき」を大切にしながら、強い意志をもって、その範囲を拡大していくという共通点があります。そして、どんなにその活動の範囲が広がっていっても、その活動の起点である、「身近な人との親密な関係」を大切に温存しているという特徴があります。そこから、私たちが目指すべき指針が得られるのではないかと思います。

最後に、私が取り組みたいことを書きます。

「ひとつでも多くの組織に、身近な人々同士の親密な人間関係を育み、それをベースにした、会社、社会全体への良い人のつながりを広げていくこと。」

次回は、人生の座標軸 ②人生の目的 について書きたいと思います。