投稿者「大西 勝也」のアーカイブ

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学④)

9月19日(土)、山口県防府市で、ソウルで一緒に勉強したKさんと28年ぶりに再会しました。15時に約束して日付が変わった明け方3時まで一緒にいて、ホテルに戻り6時間ほど寝まして、その日は10時に再び会って21時まで、1日半の間に約24時間一緒にいたことになります。その間、当時の想い出、また、28年という長い歳月の間にお互いにいろんなことがありましたので、話題は尽きず、一時も会話が途切れることはありませんでした。

Kさんは私がソウルに1年いて日本に帰国した後も韓国に残り、ソウルの大学に進学、卒業⇒韓国で就職⇒日本へ帰国し仕事⇒再びソウルに戻り大学院へ進学、結婚、そして日本に帰国と、足掛け9年間韓国で暮らした「勇者」です。大学院生の時から、通訳・翻訳者として活躍し、特に芸能関係の通訳の仕事を通じて経験された話は私にとって何もかもが驚きの連続でした。Kさんは今、ご家族で営む事業に打ち込んでおられますが、その一方でずっと韓国と日本の架け橋として「人と人とを結びつける活動」に取り組んで来られました。その経験は「真実は小説よりも奇なり」。いずれ映画やテレビで多くの人に知られる日が来るのではないかと思うくらいです。私は、Kさんの唯一無二の経験にスポットが当たるように、実現の可能性を模索したいと思っています。

ところで「人と人との結びつきを邪魔するもの」とはなんでしょうか。私は、人と人との間には、家と家とを隔てる「境界線」のように、普段は意識していないけれど、確実にそこに存在しているようなものがあると思っています。そして、私たちの周囲には実に多くの「境界線」が張り巡らされていることが分かります。年齢や職業、収入や学歴、地縁等々。それらによって「不自由」を感じている人もいるでしょうし、特に問題意識も持たずにあっさりと受け入れてしまっている人もいるでしょう。「境界線」は、自分が何者であるかを自覚する上で必要なものとも考えられますが、本来ひとつになれるはずの他者と自分とを分離する負の面を持っていることは見逃せません。

また、「境界線」は私たちが望んでできたものではなく、誰かが別の目的で作ったことが多いことにも注意が必要です。私たちは自分の意志とは裏腹に「境界線」を意識して考え、判断し、発言し、行動することを求められます。そして、そのシンボリックな例が、日本と韓国の関係です。一方、私たちの身近なところにもたくさんの「境界線」があります。本ブログでも度々取り上げた「生きづらさ(排他性)」を生むのも突き詰めれば人と人との間に存在する「境界線」だと思います。

Kさんの話しを聞いていて、彼はこの「境界線」をあまり意識していないこと。むしろ「境界線」を楽しみ、それをまたいで回遊する「自由」を体現しているように感じました。そこで、「生きづらさ」から解放されたい私たちが、彼の生き方からどんなヒントを得ることができるか考えてみました。

Kさんが「境界線」をまたいで回遊するエピソードとして通訳・翻訳の仕事をしていた時の経験があります。求められる役割を果たしたにもかかわらず、さらに自腹を切るようなことがあっても、ほとんど報酬を受け取れなかったことが度々あったそうです。その時は嫌だったけれど、それがきっかけで後から良い仕事が舞い込むようになったので、結果的に仕事を受けるのを止めなくてよかったとのことでした。「損して得取れ」の典型例です。

また、通訳者として日本人と韓国人の間に入り、両者が対立するような場面があり、韓国語から日本語、日本語から韓国語を伝える際に言葉のニュアンスを変えて、両者の関係がうまくいくように取り持ったりもしたそうです。これは統計的に唯一の「正解」を導くよう仕組まれたAIには到底出来ないことです。良い人間関係の構築を目的に、臨機応変に最適解を出すのは人間でなければ出来ないことです。加えて、Kさんには両者の関係を良い状態にしたいという強い動機があったと思います。

いま、私たちは、いつでも、どんな時でも「正解」を求められます。繰り返し「やって意味があるのか」「メリットがあるのか」と質問され続けると癖になり、誰かに言われなくても自ずと意識するようになります。でも、得すること、メリットがあることだけをやれば本当に成功するのでしょうか。また、そんな世の中は楽しいでしょうか。私はそう思いませんし、仮に、計画的に成功がもたらされるのであれば、世の中は成功者だらけになってしまいます。でも、現実にはそうなってはいません。成功を強く求められて挑戦しづらくなった現在において、むしろ成功者は減っているのかもしれません。

Kさんのように、自分と他人とを隔てる「境界線」や、「成功」と「失敗」とを分ける「境界線」、また国籍とかジェンダーとか、金持ちだとか貧乏だとか、そういった誰かが決めた「境界線」を鵜呑みにせず、内側からの興味とワクワク感で面白がってやってみる。自らの「思い」をごまかさず、無理と分かっていても飛び込んでいく感覚は今の時代だからこそとても貴重です。実はこの感覚は、Kさんに限らず、あの時ソウルで一緒に勉強した仲間の中には、多かれ少なかれ共有されていたと思います。なぜ、私たちは、はたから見れば危なっかしいこと、今振り返るとちょっと恥ずかしいことでも、思いっきりやることが出来たのでしょうか。

当時、私たちが通っていた語学堂には、アジア各国、欧米諸国から韓国語を学びに来る多くの人が在籍していました。短大や大学のように2年とか4年間のサイクルではなくて、1学期は10週間程でしたので、出会いと別れが数週間おきにやってくるような世界でした。ほとんどの学生は多感な青春時代真っ只中の若者でしたので、当然、恋に落ちます。それが遠く離れたところから来た2人であればあるほど、二度と会えないかもしれないという感傷的な気持ちから恋愛が盛り上がるのです。そして、限られた時間の中で普段ではとてもできないようなストレートな告白(共通語が韓国語なので少ない語彙で懸命に思いを伝える)をしたり、ドラマチックな愛情へ急進展したりしました。インターネットや携帯電話が普及するずっと前でしたので連絡手段は固定電話の呼び出しか手紙しかなく、リアルタイムにお互いが何をしているのか、どこにいるのか知ることもできず、その間は想像の世界で悶々として、次に会う時迄、期待と不安が交互に襲ってきます。そういう制約条件の下でお互いの気持ちをパンパンに膨らませて、いまにも破裂しそうな人たちがたくさんいました。そして、残念なことに、結局はなかなか結ばれない運命(因縁)が多かったように思います。

あの時、あの場所で出会い、あふれ出る「思い」から乗り越えることが出来た2人の間にある「境界線」は、実は、ソウルを離れた途端、乗り越えることが困難な、受け入れざるを得ないものであることを認めることになるのです。やがて、寝ても覚めても消えない感傷的な気分や憧れといった感情が時間の経過と共に記憶の奥深くにゆっくりと沈殿して鍵付きの小さな箱に収まります。そして、その箱は長年開けられることがなく、ひっそりと保管されています。そして、ある時、ある瞬間に、当時の歌や、映像が鍵の役割をして蓋が空いて、当時のほろ苦い思いと共に鮮明な記憶が一気にあふれ出すのです。私たちがソウルで経験したことは、そのようにして、あの時間を共有した仲間、一人一人の記憶の奥底にしっかりと保管されているはずです。

結局、Kさんは、多くの学生が最終的には受け入れざるを得なかった「境界線」に負けませんでした。足掛け9年間という長い韓国生活で身につけた「常識を鵜呑みにしない力」がそれを可能にしたのかもしれません。日本に帰国後、様々な困難に直面しながらも、終始一貫、徹頭徹尾、「境界線」をまたぎ続ける半生を歩んでこられました。そして、その行動は周囲の人々に伝わり、人と人とが結びつき、縁を紡ぎ出す「触媒」の役割を果たしてこられたのだと、私は再認識しました。きっと、これからもKさんは「境界線」をもろともせず、ぶれない人生を歩んでいかれるでしょう。

Kさんとの28年ぶりの再会という幸運に恵まれた私はとても刺激を受けました。記憶の奥底に保管していたソウルで学んだスピリットも久しぶりに味わうことが出来ました。この得難い機会をきっかけに、これからは、こだわりや先入観のない、愉快で、豪快な人生を歩んでいきたいと思います。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学③)

外国生活の始まりに、まず乗り越えなければならないことは「食べ物の匂い」ではないでしょうか。その国に着いて飛行機を降りると、まず感じるのは、この匂いは一体何だろうという感覚です。私の場合、住んだことがある国、韓国ではニンニク、シンガポールではスパイシーな香辛料、台湾ではハッカク、中国では豆板醤、ベトナムではハーブとヌクマム(魚醬)の匂いを感じました。逆に、日本を訪れる外国人は、空港で醤油や味噌の匂いを感じると聞いたことがあります。私が下宿生活を始めるにあたって、まずは「匂い」の洗礼を受けなければなりませんでした。

下宿が決まった私は、チャンミ・ヨグァン(薔薇旅館)をチェックアウトしました。受付のハルモニ(おばあさん)は、なかなか先輩と連絡が取れない私を心配してくれて差し入れもしてくれました。頂いた恩というのは何年経っても忘れないものです。いまでも感謝の気持ちでいっぱいです。

スーツケースを転がしてしばらく歩くと延世大学の正門からシンチョン(新村)駅があるロータリーへとまっすぐ延びる通りがあり、両側には学生街らしく洋服屋さん、ファストフード店、飲み屋さん、タバン(カフェ)等が軒を連ねていました。当時はコンビニが無かったので、その代わりに食品から洗剤、歯ブラシまで何でもそろう「クモンカゲ」と呼ばれるお店があちこちにありました。

通りを渡って路地に入りしばらく行くとチャンチョン(滄川)国民学校(日本の小学校)があり、その脇の坂をずっと登っていって登りきったところを左折してしばらく歩くとクモンカゲがあり、その手前、左手に私が入居する下宿がありました。チャイムを押すと中から笑顔でアジュマ(おばさん)が出てきて「よく来たね」と。玄関で靴を脱いで入ると居間があり、奥には台所。ちょっと強面のアジョシ(ご主人)が私のことを待っていました。お二人から下宿生活のルールについて説明を受けました。

下宿代25万ウォンは月末に前払い。朝食は月曜日から土曜日の7:30から。台所にはインスタントラーメンが置いてあるから勝手に食べて良い。日曜日は教会へ礼拝に行くので、その前にお金を渡すので昼食は中華料理屋(韓国式)からジャジャンメンの出前を取ること。トイレとシャワーは共用なので綺麗に使って長時間占有はしない事。玄関の鍵を渡すので門限はないが遅く帰ってきたら静かに入ること。洗濯物は部屋にまとめておくこと。洗濯して乾かした服は畳んで机の上に置いておく、等々。「よろしくお願いします」と挨拶をして2階の自室に上がりました。2階には部屋が3つありました。私の部屋は右側の奥、6畳程の部屋の窓側には机と椅子がおかれていて、それ以外は何もなくがらんとしていました。窓を開けて下を見ると先程入ってきた玄関の真上だということが分かりました。ここで新しい生活が始まるんだなと少し感傷的な気持ちになりました。

下宿生は私を入れて4人。一人目は軍務免除されたロッテデパートの社員。韓国では会社員でも学生と一緒に下宿生をしている人が多かったです。韓国では3世代一人息子が続くと三大特赦といって軍務が免除される仕組みがありそれに該当した温厚な人でした。二人目は軍務を終えて戻って来たばかりの大学院生で怒りっぽい人でした。この二人はハッㇷ゚パンとよばれる相部屋でした。三人目は日本の中学校を退職してソウルの大学院で韓国の児童文学の研究をしている40代のやさしいおじさん。この方は日本へ帰国後、韓国児童文学の研究者として活躍されたようです。そして私。

その日は彼らが下宿に戻ってくるのを待って、私の歓迎会がありました。アジュマ(おばさん)が作ってくれた料理を食べ、お酒を飲みました。韓国がまだまだウリ(我々)文化一色だったこの頃は、何をするのもみんなで一緒。一人で食事をすることなど考えられない時代でした。この下宿は小さかったのですぐ打ち解けましたが、大きな下宿だと地上4階建てで数十部屋というようなところもざらにあり、しょっちゅう下宿生が入れ替わるので月に何回も歓迎会をしているようなところがありました。私は1年間で2回引越ししたのですが、3番目の下宿では歓迎会をしてもらいました。シンチョン(新村)近辺の大学の1学年ばかりで私が一番年上でしたので、一緒に映画を観に行ったり、飲みに誘われて恋愛相談をされたりして、いろんな思い出があります。

下宿生活の2日目は、本を読んだりしてゆっくり過ごそうと思い、朝食後部屋でゴロゴロしていました。すると、1階の台所でアジュマ(おばさん)が料理を始めたようで、その直後に酸っぱいような、甘いような、辛いような、何とも言えない(私にとってはきつい)匂いが漂ってきました。それが何だったのか、ひょっとするとテンジャン(韓国味噌)料理をつくっていたのかもしれませんが、今でも何なのかはっきりしません。いずれにせよ私にとっては非常に耐え難いその匂いはどんどん強烈になっていって、窓を開けても締め切っても何故か部屋に充満しました。私は耐えられなくなってトイレで嘔吐しました。そして、すっかり食欲がなくなり、匂いから逃れるようにして外に出ました。

夕方まで街をぶらぶらして下宿に戻り部屋にいると、今度は夕食の準備が始まり、また同じ匂いが部屋に充満しました。私は再びトイレで嘔吐しました。すっかり参ってしまった私はじっとしているしかないと思い部屋で一人耐えました。夜中もその匂いのことが頭から離れず、思い出しては吐き気を催す始末。やがて、アジュマ(おばさん)が料理をしていないのにその匂いが下宿中至るところにて染みついているような気がして、寝ても覚めても吐き気に襲われました。そんな状態で過ごした3日目、翌日から学校が始まる日曜日の夜にアジュマ(おばさん)がいつものように料理を始めて「ああ、まただ」と思った瞬間、全く匂いが気にならなくなっている自分に気付きました。「あれ、全然気持ち悪くないぞ」と。それからというもの、韓国で、匂いが原因で気持ちが悪くなったことは一度もありません。匂いにも免疫のようなものがあるのかもしれません。

下宿生の中で一番年下だった私は、週末のラーメンづくりを任されました。児童文学研究者の日本人のおじさんから何かを指図されることはありませんでしたが、2人の韓国人下宿生はちょっと厳しかったです。韓国では誕生日がたとえ一日でも早いとヒョン(兄貴:弟から兄へ)と呼ばなければならず、どこにでもタテ社会が存在あります。そこで、一番年下の私はラーメン当番をやらされることになったのです。例の匂いで気持ちが悪い中、台所に立ち、いまでは日本でも有名になった辛ラーメンを3人分つくりました。鍋に水を入れて沸かして煮込んで出来上がり。鍋を卓袱台の真ん中において、各自それを箸で突っつくという韓国スタイルで食べたのですが、韓国人下宿生2人は口に入れるやいなや、

「マドプソ!(不味い)」

と言いました。日本のインスタントラーメンの感覚でつくったので水が多すぎてしまったのです。そして児童文学研究者の日本人のおじさんが、

「韓国では日本のインスタントラーメンをつくる時の半分くらいの量の水が適量なんだよ」

と教えてくれました。そして、麺を食べ終わると今度は白飯を入れて雑炊のようにして汁迄食べ切るのです。それ時以来今日までずっと、辛ラーメンづくりは妻にも任せません。2人の韓国人下宿生の「マドプソ(不味い)」という言葉が聞こえてくるような気がして、水加減には注意してつくっています。

いよいよ登校初日です。授業は9時始まりで、下宿から学校までは30分程の距離でしたが、少し早めに下宿を出ました。

下宿を出て右に曲がり両側にレンガ造りの一軒家(ほとんどが「下宿」と張り紙がされていました)が連なる道をずっと歩いていきます。その道の突き当りのところが3~4メール程の急な下り坂になっていて、下りきって左折すると鉄道の線路があり、そのトンネルをくぐってすぐ右側の階段を上がると目の前に延世大学の正門が見えました。後から分かったのですがこの数メートルの急な下り坂は異常低温と言われ氷点下18度まで気温が下がったその年の冬、雪が降って凍結した時には、手すりがないので下りることも上ることもできず、目の前の、3番目に住んだ下宿に非常に遠回りをして戻った記憶があります。

延世大学の正門を大通りの向こう側に見ながら緩やかな坂を下っていくと、右側にキオスク(売店)がありました。新聞や雑誌、ガムや飲み物、たばこ、テレフォンカード、市内バスのトークン、座席バスの切符等々、何でも売っていました。日本と違うのは、たばこを1本ずつばら売りしていたことです。封を切った煙草が入ったケースが店番のアジュマ(おばさん)の目の前に置かれていて、次々に学生が来て「タンベ(タバコ)ハンキャピ(1本)ヂュセヨ(ください)」と言っては1本引き出し、上からひもでぶら下げたライターで火をつけ、プカーっと吹かして次々と立ち去っていくのです。その様子を見て「かっこいいな」と思った私は少し後から真似するようになりました。

売店(キオスク)の隣には靴磨き小屋。おじさんたちが黙々とお客さんの革靴を磨いています。当時、軍務を終えて戻ってきた男性は一目で見分けがつきました。まず、雰囲気が年齢不相応におじさんぽい。そして何故かスラックスと革靴をはき、革のバッグを持っていました。

売店と靴磨き小屋の前にはバス停がありました。次々とすごい勢いてバスが突進してきて、本来停車すべき位置とは離れた位置に急ブレーキで停車していきます。その度に人々が猛ダッシュしてバス前方の乗車口に殺到し、我先にと乗り込み始めます。バス停は、大きく市内バス(定額180ウォン)と座席バス(定額470ウォン)に分かれていて、バス停の掲示板には、それぞれ、すごい数のバスの番号、1桁から4桁までがびっしりと書き込まれていました。また、バスの車体側面には、始点から終点までの主要なバス停が書き込まれていて、当時ハングルがほとんど読めなかった私は、どこに行くバスなのか全く見当がつきませんでした。

しばらく歩くと大通りを潜り抜けて延世大学の正門に出る地下道がありました。地下道の階段を下りていくと薄暗い通路の中央には売店がありハルモニ(おばあさん)が店番(オーナー?)をしていました。私が店の中を覗くと、手前には商品が積まれていて、奥の小上がりの2畳ほどの狭い空間にはストーブに当たりながらテレビを視ているハルモニがいました。私は冷蔵庫から牛乳をひとつとって「イゴチュセヨ(これ下さい)」と言いました。当時も牛乳の種類は豊富で、ソウル牛乳、ヘッテ牛乳、そしてヨンデ牛乳(延世大学の牧場で飼育している乳牛の牛乳)があり、さらにコーヒー味、バナナ味、イチゴ味等々、様々なフレーバーがありました。ハルモニはテレビを視ていた眼をこちらに向けて、ちょっと変な顔をして日本語で、

「あんた日本人か?」

と尋ねてきました。

「はい、日本人です。横浜から来ました。」

と答えました。おばあさんは、それまでの険しい表情を急に緩めてニコッと笑い、

「そうか、よく来た。」

と言われました。お金を払おうとすると、大学生が売店に入ってきてパンを手に取り、ぶっきらぼうに、

「オルマエヨ?(いくら?)」

と尋ねました。ハルモニは再び険しい顔になって、ぶっきらぼうに値段を言いました。学生が出ていくとハルモニは再び笑顔になり日本語で、

「日本人は礼儀正しく優しいので好き、またおいで」

と言いました。そしてお金を受け取りませんでした。私はお礼をして店を出ました。このハルモニとの交流は結局1年間に渡って続きました。ハルモニから聞いた興味深い話は改めて書きたいと思います。私は地下道を通り抜けて正門から大学の構内に入りました。

延世大学の構内は中央に片側1車線の車道とそれに並行してポプラ並木と歩道がまっすぐ伸びています。道路の上には途切れることなく横断幕がかかっていて、ずらっと並んだハングルの最後には「!」や「!!」と書かれていたので、何やら学生への檄文のようでした。その時は全く意味が分かりませんでした。まっすぐ進むと左側に図書館、更に進むと右手に学生会館がありました。学生会館の1階には大食堂(ポックンパプ(チャーハン)等、800ウォン)、売店、銀行、2階は軽食と売店、カフェテリア、床屋、旅行会社、中央にコーヒーの自販機(50ウォン)、3階より上は怪しい雰囲気の、サークルか何かの部室があり近寄りがたい雰囲気を漂わせていました。

突き当り迄行くと、今も昔も多くの映画ドラマの撮影ロケに使われているアンダーウッド館(本館)があり、その右側には緩やかな坂が伸びていて森の中に入っていきます。延世大学の敷地の背面は小高い山があり、森に入る道の左手には登山道があり、お年寄りが次々と山から下りてきました。

韓国の人は今も昔の何故か山登りが大好きです。昨年、プサンに行ったときにその理由を質問したのですが、

「じっとしていられないから」

というのが回答でした。しかも、ただ登るのではなく、ヤクス(薬水)と呼ばれる湧水を汲みに行くので、小さめのポリタンクを抱えています。日本だと水汲みは沢など下に降りて行きますが、韓国では山に登るのです。お年寄りがこんなに重いものを平気で運ぶなんてすごいなと思いました。また、休みの日にはグループで食事とお酒をもって山に登り、山頂で唄い、踊ります。下宿のおじさんとおばさんも土曜日には朝早く出かけて山登りをして酔って帰ってくることがありました。転んだりしないのかなと心配でしたが全然平気な様子でした。

森の中の道を抜けると後門があり、その先の坂を下りて行くと左側に大きな校舎が現れます。目的地の「韓国語学堂」です。新しい校舎が完成して最初の学期だったので、まだピカピカでした。正面玄関から入ると受付があり、名前を名乗ると教室を教えてくれました。階段で2階に上がり教室に入りました。黒板を中心に、教室をぐるりと取り囲むように扇状に椅子と一体になった机が並んでいて、既に、何人かが到着していました。ぱっと見て日本から来た人、アジアのどこかの国から来た人、ちょっと見当がつかない人がちょっと緊張して椅子に座っていました。私は「ハロー」と言うべきか「アンニョンハセヨ」と言うべきか「おはようございます」と言うべきか迷って、結局黙っていました。

やがて、用意された椅子がすべて埋まって9時になり、先生が入ってきました。とてもきれいな(可愛い)若い女性です。彼女は元気よく「アンニョンハセヨ!」と言いました。私たちが黙っていると、もう一度「アンニョンハセヨ!」と返事を促しました。私たちも「アンニョンハセヨ!」と挨拶をしました。この一言から私たちの韓国語の勉強が始まりました。今でも忘れられない先生の名前は「ミン・ヂスクさん」。延世大学を卒業してチェイル(第一)銀行に勤めた後、退職して語学堂の先生になったと話されていたことを思い出しました。恐らく20歳代半ばくらいだったと思います。私と同じクラスで一緒に勉強を始めたKさん(語学堂卒業後、韓国の大学、大学院に進学し修了。足掛け9年間ソウルで暮らした勇者)と明後日、約30年ぶりに再会するのですが、Kさんの話しによるとミン先生は、まだ語学堂で韓国語を教えていらっしゃるとのこと。コロナウィルス感染が終息したら是非二人で先生に会いに行きたいねと彼と二人で盛り上がっています。楽しみがまた一つ増えました。

次回は韓国語の勉強と忘れられない人々について書きたいと思います。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学②)

今回は、留学前の準備期間に起きた出来事と留学直後の様子について書きたいと思います。

留学資金を貯めるため、私は新聞配達(朝刊)のアルバイトを始めました。1990年2月のある日、配達の初日は年に一回あるかないかの大雪でした。明け方の3時に起床して防寒具を着て外に出たところ、外は一面の銀世界、深夜から降り続いた雪が5センチほど積もっていました。よりによって新聞配達の初日に雪が降るとは。。。

配達の事前練習で、バイクの前後に山のように新聞を積むのでバランスを採るのが難しく、ちょっとしたことで転倒してしまうことは理解していたものの、降雪時での運転は経験がないので途端に不安になりました。配達店の人からは「チェーンはつけているけど転倒しないように、これ以上ゆっくりできないというくらい、ゆっくり走るように」と言われました。

私の配達先はマンションがほとんどで、しかも坂の上にあったため、配達店を出て走り始めてすぐに「あの坂登り切れるかな」と不安になってきました。順調に坂の下まで来て、いよいよ坂を上り始めました。横浜市戸塚区にお住まいの方はご存知でしょうが、雲林寺というお寺があり、そこを回りこむように延々と昇っていく坂があり、てっぺんにはバイパスが走っています。

最初、お寺の前まではそろりそろり順調に登ってきたのですが、左方向に向きを変えると坂の勾配がきつくなるのでアクセルをふかして一気に登り切ろうとした瞬間、バイクの前輪が地を離れて私もバイクも後方にひっくり返ってしまいました。前方のカゴからすべての新聞が飛び出し、ひもで荷台に括り付けていた新聞も一気に崩壊して道路に散乱しました。言葉を失って数秒間途方に暮れて「はっ」と我に返り、無我夢中で散乱した新聞を集めて路肩に積み上げました。そして、バイクを起こして路肩に移動しました。携帯電話がない時代ですのでSOSを出すこともできません。自分で解決しなければならないと焦りました。

路肩に積み上げた新聞を運んで再びバイクのカゴに収め、荷台にひもで括り付けました。エンジンをかけて先程よりもさらに慎重にゆっくりと坂を登り始めました。しかし、路面は凍結していたのでしょう。新聞の加重で車輪がスリップしてしまい、バイクが徐々に後ろずさりを始めました。そして2度目の転倒。今度は1回目よりも新聞が大きく散乱して回収が大変でした。半ばやけくそになってもう一度挑戦しましたが3度目の転倒。さすがにこれは無理だと思いました。

ふと頭をよぎったのは、どうしてこんなことになったのか。韓国に行くなどと決めなければこんなバイトをしなくて済んだわけだし。。。

「神様は韓国に行くことに反対なのかな」

などとブツブツ独り言を言いつつ、新聞を目立たない場所に仮置きして、配達店まで戻り既に配達を終えていた人に助けを求めました。

彼らの助けを得て、お客さんのクレームに発展することもなく何とか配達を終えることが出来ました。放心状態で帰宅した私をみて両親はびっくりしたと思います。「無理しなくても良いのでは」と言われましたが、結局1年間続けました。転倒はその時の一回限り。でも、1年の間には、今考えるとあれは幽霊だったんじゃないかというものを見て怖い思いをしました。一方で、親切なお客さんからは、クリスマスやバレンタインデーの時には「いつもご苦労様」と書かれた手紙とプレゼントが郵便受けに置かれていてありがたく頂戴したりしました。直接会ったことも、話したこともない人からの心づかいは深く私の心を揺さぶりました

4月になって大学の新年度が始まり、私は早速、教務課に留学の相談に行きました。韓国に行きたいと話したところ留学先としていくつかの選択肢があることが分かりました。私の通っていた大学もソウルに提携する大学があり、交換留学をしていて単位が認められるということでした。但し、事前に韓国語をマスターしておく必要があり、願書の提出に間に合わなさそうなので断念しました。そこで、改めて留学の目的として、

1.韓国語をマスターすること。
2.韓国の人と社会を理解すること。
3.大学で社会学の講義を聴講すること。

を掲げました。そして、教務課から勧められたのが、延世大学語学堂(言語研究教育院)でした。韓国のトップ私立大学である延世大学の付属機関で、もともと海外からの宣教師に対して韓国語を教えることを目的に設立され、現在は世界中から多様な人たちが学びに来ているとのことでした。私は直感で「ここで学びたい」と思いました。教務課の方は続いて、留学するには韓国人の保証人を決めて事前に就学ビザを申請する必要があること。国際学部のA教授に相談するように勧められました。A教授の電話番号をもらい、アポを取って研究室を訪問しました。

A教授は韓国の政治経済の研究者で、当時40歳くらいだったと思います。穏やかな方で私が韓国に行きたくなった理由を説明したところ真剣に話しを聞いてくれました。そして、

「大西君は韓国で良い経験をすると思うし応援する。でも、時には嫌な思いもするかもしれないけど大丈夫かな。」

と言われました。私は数年前まで高校の吹奏楽部で相当しごかれていて多少のことなら耐えられる自信があったので、

「はい、大丈夫です。」

と答えました。

A教授は私に次の3つのことをしてくださいました。

1.A教授の友人で韓国人の方に保証人を頼んでくれた。
2.延世大学語学堂の入学に関する資料一式を提供してくれた。
3.ソウル到着後に下宿探し等の手助けしてくれる日本人留学生を紹介してくれた。

1と2はスムーズに進み入学が許可され、1991年3月の最終週にいよいよ出発することになりました。友人達は送別会を何度も開いてくれて、そのたびに、

「どうして韓国へ行くのか?」

と質問攻めに合いましたが、いくら説明しても彼らには全く理解できなかったと思います。

一方、友人のM君が、

「笑顔は世界の共通語。常に笑顔を絶やさず。」

という言葉を色紙に書いてくれました。この言葉はとても本質をついているし、貴重な言葉としていまでも大事にしています。

そして、成田空港を出発し金浦空港に到着。68番という市内へ向かう座席バス(470ウォン)に乗り、延世大学があるシンチョン(新村)で下車し、事前に日本人留学生から聞いていた旅館にチェックインしました。オンドルの床には花柄のせんべい布団が敷かれ、トイレとシャワーがついていました。この旅館はいわゆる日本のXXホテルで、名前をチャンミ・ヨグァン(薔薇旅館)と言いました。延世大学のマ・クヮンス教授という人が著して出版した「カジャ チャンミヨグァン ウロ(行こう、薔薇旅館へ)」という本がベストセラーになり、そのタイトルとして50代以上の韓国人なら誰でもその名を知っている有名な旅館です。

馬 光洙(マ・クァンス、마 광수、1951年4月14日 – 2017年9月5日)は、韓国の小説家である。ソウル特別市の出身。1951年4月14日、ソウル生まれである。延世大学の国文科と同大学院修了。延世大学の国文科の教授を歴任した。1977年 『現代文学』に 「ヘソに」、「あぶれ者」などの6篇の詩が推薦され、登壇した。それから、詩集『狂馬の家』(1980)、『行こう、バラ館へ』(1989)などの作品を発表した。1992年には、小説『楽しいサラ』により筆禍事件となった。評論集としては、『尹東柱の研究』(1984)、『馬光洙の評論集』(1989)、『カラルシスとは何か』(1997)などがある。2017年9月5日、ソウルの自宅で首を吊って亡くなっているのが発見された。(Wikipediaより)

国際学部のA教授がつないでくれた「日本人留学生」というのは、私と同じ大学を卒業して延世大学の大学院に通っていた方で、当時25、26歳くらいの方だったと思います。この方は日本に帰国後、新聞記者になりました。私の到着日と到着予定時刻を前もって知らせていたので、すぐに連絡がつくと思っていましたが、なかなか電話に出てくれません。そして公衆電話と旅館の部屋を往復する羽目になりました。

ほぼ韓国語能力ゼロだった私は1日、2日と時間が経ち1週間後の入学式の日も近づいてきてだんだん不安になっていきました。食べ物の買い方も分からないし、いったいどうしたら良いのかと。私の両側の部屋には毎晩酔っ払ったカップルがやってきて騒がしいし、これは早速とんでもないことになったと。しかも、その旅館はまだボイラーではなく練炭を使っていて、後から知ったのですが、韓国では毎年冬になると一酸化炭素中毒で死ぬ人が大勢いると。日本語を少し話す受付のハルモニ(おばあさん)から「(一酸化炭素の充満を防ぐ為に)窓を5センチ程度空けて寝ること」また「(乾燥を和らげるために)水を入れたコップを床に置くこと」を教えてもらいました。

ソウルに着いて3日目の夜だったと思いますが、夜中にふと目を覚ますと、体が全く動かないことに気付きました。

「あれっ、これってもしかして???」

焦って目玉だけはぐるぐる動き、左斜め上の方を見上げると締め切った窓が見えました。

「まずい、このままだと死んじゃう。勉強も始める前に死んじゃうのか。どうしよう、どうしよう。。。

体は動かないのですが目玉と頭の中だけは異常に活発に動きました。しばらくして、足の指差に力を入れたところ少し動き、次に手の指先が動き、徐々に体がほぐれていきました。そして、なんとかはいつくばって動けるようになり、窓に手を伸ばし思い切って窓を開けた瞬間、外から冷気が「ざーっ」と部屋の中に流れ込んできました。ほっとしたのと、疲れとで一気に頭の中が真っ白になり、そのまま眠ってしまいました。

翌日も、その翌日も先輩と連絡がとれませんでした。その内、受付のハルモニ(おばあさん)が心配してくれて、パンや牛乳を差し入れてくれました。私もさすがにこんなことをしていてはいけないと街を散策することにしました。

ハングルもまともに読めな上に、当時のほとんどの店は外から店内が見えないように黒いフィルターのようなものがガラスに貼られていたのでさらに何の店か推測すらできませんでした。ただ、ビビンパやチゲなどの軽食を出す店だけは、道路に面して入り口を開放していて、アジュマ(おばさん)が赤いゴム手袋をつけて忙しく出入りしているので何の店かすぐに分かりました。

ある一軒に入り、ビビンパと書かれた壁に貼られた紙を指さし、イゴチュセヨ(これ下さい)と言いました。アジュマ(おばさん)は「ネー(はい)」と言って厨房に入り、しばらくしてたくさんのキムチと一緒にビビンパが出てきました。3.500ウォン、とても美味しかったことを覚えています。少し自信がついてきたので、延世大学へ行き校舎、学生会館、学食等を散策してチャンミヨグァン(薔薇旅館)に戻りました。

ソウルに到着して5日目の夜、先輩に電話をしたところ突然着信しました。相手からはおもむろに「ヨボセヨ(もしもし)」とやる気のない声が。私は自分を名乗り、約束していたことを伝えました。一瞬間があって、先輩は、

「ごめん、すっかり忘れていた。」

と。それから先輩は旅館に飛んでやってきて私に謝りました。その焦る姿を見て、

「この人、本当に忘れてたんだな。」

と分かりました。

翌日、先輩は再び旅館にやってきて、当時ポクトパンと呼ばれていた不動産屋に一緒に行ってくれました不動産屋のおじさんに下宿費の予算と条件を説明したところ候補として3軒案内してくれて、その中から一軒を選択しました。選んだ理由は、下宿のアジュマ(おばさん)がやさしそうだったからです。

ソウル特別市ソデムング(西門区)チャンチョンドン(滄川洞)が、私の最初の下宿先となりました。下宿代は一人部屋で一ヵ月25万ウォン(朝食・洗濯・掃除付)でした。先輩は、

「困ったことがあればいつでも相談してね。」

と一言残してシンチョン(新村)の街の中に消えていきました。結局、先輩とはその後一回も会うことはありませんでした。

次回は下宿生活と学校のことについて書きます。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学①)

「人事担当者が扱うテーマとは何か」を考えています。

教科書的には、経営者と従業員のニーズにマッチした制度をつくったり、運用したりすること。また、勤怠管理や給与計算といった事務仕事を正確に、スピーディにこなすこと、となるでしょう。それらは確かに重要ですが、より重要なことは、

「人事とは人間学そのものである」

ということではないかと思います。

人間学とは、文字通り「人間に関する学問」です。そして、その中心的なテーマは、職場に限らずあらゆる人間の集まりにおいて発生する「対立」を「回避」することではないかと考えています。大きくは国家間、民族の対立。身近なところでは友人間、家族内で生ずる不和等があります。

人には本来、人とつながりたい、良い関係を築き保ちたいという本能がありますが、一方では、自分(達)と人との違いを見つけて線を引いたり、無視したり、時には排除までしてしまうものだということを理解しておく必要があります。

私が人事担当者としてずっと向き合ってきたのは、職場内で連鎖的に発生する人間関係のトラブルと、その原因である排他的な感情でした。私の目標は、そういったネガティブな感情に支配さされずに、人との「分裂」や「分断」を嫌い、憎み、自制して、意識的に良い行いが出来るようになることです。

そこで、私は、他者との境界線をはっきり意識できるような、ややもすると対立が生じやすい環境に身をおくことを選びました。そして、自分と他者とを隔てる境界線をまたいで「異質なもの」と向き合い、乗り越えようと苦心することに生き甲斐を感じるようになっていきました。

「違う環境に身を置き、異質なものと向き合った」中でも、特に思い出深いのは、韓国ソウルで過ごした1年間(1991年4月~翌3月)でした。

これまで私はソウルでの思い出を、どこか封印してきたのかもしれません。留学を終えて帰国した時、友人から、

「韓国に行って意味なんてあったの?」

と質問されました。その時とっさに出た言葉は、

「知らずに済むのなら知らない方がよいこともあるよ」

でした。たった1年間の短い時間でしたが、そこで過ごした濃密な時間は、人に話してもなかなか理解してもらえる内容ではないですし、それだったら敢えて話さないと決めていたのかもしれません。

当時の韓国は軍事政権から民主化への大きなうねりの中にあり、人々が新しい社会と秩序を模索していた時期でした。デモの鎮圧で街が機動隊に占拠され、学生と見れば機動隊に追いかけられ、捕まると輸送車に押し込まれて留置所に連れていかれるような日常が、バブル最盛期の浮かれた日本からやってきた私の目にはどのように映ったのか、30年前の記憶を辿ります。

日本にとって最も近い外国であり、両国の歴史認識の違いから時に対立し、時に近づいたりする韓国。同じ民族でありながら政治体制の異なる南北国家に分断され、統一への気運が高まったり冷めたりを繰り返す、日本と切っても切れない国、韓国への思いを「人間学」の視点から書きたいと思います。

1.韓国人との初めての出会い

1年浪人して大学に入学したものの勉強に身が入るわけでもなく、バイトと社会人吹奏楽団での楽器演奏に明け暮れて、何となく1年半を過ごした1989年12月のこと。横浜の実家の隣で新聞販売店を経営していた大叔父(祖母の弟)から

「お店でクリスマスパーティーをやるんだけど、かっちゃん(私のあだ名)来ない?実は、お店に韓国の若者2人が奨学生として住み込みで新聞配達をしながら日本語学校に通っていてね。日本に来て1年も経つのに日本人の友達が出来ないと寂しがっているんだよ。だから、一緒にお酒を飲んであげてくれないかな」

と誘われました。私は、彼らが1年間日本にいるのに日本人の友達がいないということにとても驚き、可哀そうになりました。少しでも役に立つのならと考えて

「喜んで行きます」

と返事をしました。大叔父がもし私を誘っていなかったとしたら。クリスマスイブに別の用事があって大叔父の誘いを断っていたとしたら。。。私のその後の人生、就職先も結婚も、すべてが書き換わっていたと思います。私に訪れた最初の人生の分岐点でした。

クリスマスイブの夕方に新聞配達店に行きました。普段は折込チラシを新聞に挟む作業をする台の上に、たくさんの食事とお酒が用意されていて、配達員の皆さんと韓国人の2人(オク・ヨンハンさん、コ・ミョンチョルさん)が私を待っていました。乾杯して楽しく時間を過ごすうちにオクさん、コさん、私の3人で彼らの部屋で2次会をすることになりました。

オクさんは韓国のソガン(西江)大学在学中に軍務に就き、除隊して卒業後日本に来たこと。家族全員がクリスチャンで、下の名前のヨンハンというのは、使徒ヨハネからとったもの、とのことでした。

コさんは専門学校を卒業して軍務に就き、除隊して一旦就職したものの日本語をマスターしたいと退職し日本に来ました。

私はそれまで韓国人と会ったことも話したことも無く、彼らの言動一つ一つが日本人と違うので興味が湧きました。行動が速いこと、そして、大きな声でよくしゃべる。日本語はとても上手でした。あと、キムチの匂いの記憶が鮮明に残っています。まず、彼らは日本に来て1年経つのに、新聞配達と日本語学校の往復だけの生活で、加えてテレビもなく、日本社会のこと、日本人のことについて圧倒的に情報が不足しているようでした。彼らの目を通して見た日本理解の中には、一方的な思い込みの部分もあり、私は都度その説明と修正をしました。彼らとはとても気が合いましたので、これからもちょくちょく会いましょうということになりその場はお開きとなりました。

私は、横浜の磯子区で生まれて小学校1年生まで過ごしました。近所に自転車屋さんがあり、その息子と同級生でした。ある日、彼と一緒に遊んでいた時に、近所のおじいさんがやってきて、

「あの子とは遊ばないほうがいいよ」

と言われました。私は、仲の良い友達と遊んでいるだけなのに、どうしてその子とだけ遊んではいけないのか、さっぱり意味が分かりませんでした。

その後、市内の戸塚区に引っ越してしまいましたので、その記憶もすっかり薄れていたのですが、二人の韓国人との出会いがきっかけで、急に近所のおじいさんが発した言葉、

「遊んではいけない」

の背景に、

「差別」

があったことが分かってきました。

なぜ、あの人はそんなことを言ったのか。なぜ、彼は私と違うというのか。疑問が次々と湧いてきました。そして、本屋に入り浸っては、朝鮮半島の古い歴史や近現代史について理解しようと本を読み漁りました。

近現代史については学校でも基礎的なことは学びますが圧倒的に知識が不足していることが分かってきました。日韓併合の経緯や統治の実態、また日本敗戦後の朝鮮戦争、そして在日韓国、朝鮮の人々がどのような立場で暮らしてきたか、徐々にその輪郭がはっきりとしてきました。

私の「韓国のことをもっと知りたい」という素朴な動機は、初めて知り合った韓国の2人との交流から始まったのでした。

2.初めての韓国旅行

年が明けて、その日も韓国人2人の部屋を訪れていろんな話をしていた時にコさんから、

「大西さん、今度旧正月で一時帰国するんだけどソウルに来ない」

と誘われました。私は、二人を通じて既に韓国に興味を持っていたので、迷わず、

「行きます」

と答えました。

当時、韓国入国には短期滞在ビザの事前発給が必要でした。航空券を予約して磯子の韓国領事館に出向きビザの申請をしました。パスポートを預けて3日後に発給されました。

コさんは先に帰国していましたので、単身、成田空港からソウル・キンポ(金浦)空港に飛びました。キンポ空港に到着して駐機場に飛行機が停まり、窓の外に整備や荷物を運ぶスタッフが次々に現れた時、そんなに多くの韓国人を見たことが無かったので、ちょっと緊張したことを覚えています。

飛行機を降りてターミナルビルに入ると、全体的に古びていて照明は薄暗く日本の地方都市の空港のようなイメージでした。入国審査官はぶっきらぼうで警察で取り調べを受けているような気持になりました。

荷物検査を終えて到着ロビーに入ると自動小銃をもった軍人二人が巡回しているのに驚きました。その時、韓国と北朝鮮は準戦時下の休戦状態にあるということを痛感しました。そして、出迎えに来てくれたコさんに会いました。

二人でバスに乗り市内に向かいました。後に下宿することになる、ヨンセ(延世)大学があるシンチョン(新村)に着き、旅館に荷物を置いてすぐに観光を始めました。ソウルの主要な観光地(キョンボックン、チャンドックン、チョンミョ、インサドン、ナンデムン、トンデムンなど)をほぼ巡りました。印象としては、高2の時に吹奏楽部の演奏旅行で訪問した中国北京の歴史的な文化施設の建築様式や朱色を基調とした色彩が似ていると感じました。コさんは学んだ日本語で目に入るもの、ことについて一生懸命に説明をしてくれました。

そして、ソウル駅から特急列車のセマウル号に乗って古都キョンジュ(慶州)へ。仏教建築と仏像は洗練されていて、日本の仏教の源流はここにあるのだと思うと目が釘付けになりました。

ソウルに戻り、次は一般の鉄道(ディーゼル機関車の列車)で38度線近くのイムジンガク(臨津閣)へ。パンムンジョム(板門店)ツアーは大韓旅行社という旅行会社が独占するツアーに申し込まなければならず、加えて韓国人は参加できない決まりだったため、鉄道で行ける休戦ライン(38度線)ギリギリのところへ行くことにしたのでした。

途中駅に停まると弁当やお菓子、お酒を売りに来ました。窓を開けてキンパㇷ゚(韓国海苔巻き)と焼酎、ゆで卵を買いました。ゆで卵をひたすら食べているコさんの姿が印象的でした。韓国人は外出すると必ずゆで卵を食べますが何故なんでしょう?イムジンガク(臨津閣)にある展望台からは緑ひとつない荒涼とした土地とイムジンガン(臨津江)、そしてその先に北朝鮮が見えました。

そんなことをしている内に旅行も終わりに近づき、ソウルでコさんの友人と3人と食事をしました。その時彼に言われたことがずっと忘れられませんでした。

「大西さん、韓国を見てどう思いましたか? 発展しているでしょ? 日本に負けてないでしょ?」

と。私は正直言って、当時のソウルが東京と同じかと言われるとそう思わなかったので答えに困りました。でも、当時の韓国人にとって日本は、いつも意識して目指すべき存在。いつか必ず追い越さなければならない目標でもあり、宿敵でもあるのだな、と。

さらに、韓国語はよくわかりませんでしたが、コさんはその友人からしきりに日本について質問をされているようでした。そして、コさんが少し困ったような顔で返事をしている姿が印象的でした。

その時思ったのは、韓国人の中にも日本のことを知っている人、知らない人がいる。でも、日本のことを知らない人も、何となく知った気持ちになっているのではないか。そして、間違った日本に関する情報が広がっていて、その脚色された情報の方がより刺激的で、地味な真実より韓国人の頭の中にすりこまれやすいのでは、と感じました。

終始同行してくれたコさんのおかげで、この旅行は私が韓国の今を知るとても充実したものとなりました。一方で、人との距離感が日本人よりも近い(知らない人に話しかけたり、話しかけられたり)ことや、男性の行動が強引で、ちょっと乱暴な感じがしたりして、ここで生活するのは私には無理だなと思って帰国しました。

しかし、時間が経つにつれて、どうしても気になってしまうのです。韓国のこと、韓国人のことをもっと知りたいという気持ちが次々湧いてきます。それがどうしてなのかよくわかりませんでした。理屈ではなく、引き寄せられる感じでした。

コさんが日本に戻ってきて、そのことを話したら「じゃあソウルに留学したら」と勧められました。それで、私の方向性は決まりました。

両親にそのことを話したら最初父は反対しました。留学するなら英語圏、若しくは台湾はどうだと。韓国は勧めないという言葉でした。なぜ父がそう言ったのか。韓国のことを知らない父には育ってきた過程でまだ偏見があったのだと思います。そんな父の韓国に対する印象は、私の留学が始まった後ソウルに遊びに来た時に「韓国は面白い」という見方にすっかり変わってしまいました。

しかし、当初、父は賛成ではなかったので、学費と休学にかかる費用は自分で工面することになり、バイト代が良いので新聞配達店で朝刊の配達をすることにしました。また、4年で復学するので、極力単位は取っておこうと考えてそれまでになく勉強しました。そして、留学先の学校と保証人探しを並行して行いました。

次回は、留学の準備と留学直後の出来事について書きたいと思います。

従来の「改善」を超える方法

前回のブログで、従業員の「仕事の煩雑さを解消してほしい」という要望から、社内の内線電話網を拡張することを思いつき、大きなコスト削減を実現したことを書きました。他にも同じように従業員の何気ない一言、また仕事ぶりの観察を起点にして実現した改善がありますので書き留めておくことにしました。

事例1:タクシーチケットの導入

台湾の現地法人で管理部門を主管しました。経理、資金繰りから人事総務、物流、輸出入等、全ての間接業務を担いました。その中で、業務が特に煩雑でスタッフの残業が最も多かったのが「経理」でした。その原因は、システム化の遅れにありました。今となっては信じられない話ですが、私の着任時には経理ソフトが未導入で、手書き伝票をひたすらExcelで仕分けして処理していました。その様子を横で見ていて、社員が継続的に増えて会社が大きくなることも見えていましたし、このまま業務のやり方を変えずにいると遠からずパンクすると考えました。そこで、現状の人員(2名)を増やさずに業務量の増加に耐えうる方法を講ずることにしました。

まず当面策として、伝票処理の大半を占める「駐在員のタクシー代」の立替精算にメスを入れました。駐在員には、自家用車やバイクでの移動を安全面から禁止していましたので、移動に際しては毎回タクシーを利用しなければなりませんでした。駐在員25名が、平均して一日に2回タクシーを利用したとすると、月稼働22日として乗車回数1,100回になります。すると毎月1,100枚の領収書が経理に回ってきて、一件ずつ伝票に起こし、現金で精算する必要が生じます。この作業を延々と続けていました。私は、タクシー会社に、当社が独自に作成したタクシーチケットの利用を認めるように交渉しました。市中のタクシー会社3社の内、2社がこの要求を受け入れました。駐在員にタクシーチケットの利用方法を説明して導入を開始しました。当初は、タクシー会社のドライバーに新ルールが浸透しておらず、降車時にトラブルになることがありましたが、1ヶ月ほどすると定着して経費処理の工数が劇的に削減できました。

続いて、経理ソフトを導入しました。従来のExcelによる仕分け作業をなくし、更に、各部門のアシスタントに経理ソフトの機能を一部開放して部門毎に経費伝票の起票を任せて経理スタッフは入力情報のチェックと承認だけをすることにしました。その結果、経理スタッフの業務は激減し、その空いた時間を決算作業や経費の分析に充てることが出来ました。

事例2:職場レイアウトの変更

ベトナムの現地法人で人事総務を主管しました。着任して自席に座り目の前に部下がずらっと座っている姿を見て、とっさに頭に浮かんだのは「この人たちを幸せに出来るかな」という言葉でした。日常の仕事は回っているし、まずは様子を観察して、急いで対処すべきことと、じっくりと取り組むべきことを把握しようと考えました。

まず気になったのは、私の目の前にずらっとならんだキャビネットでした。人の腰の高さくらいのものが右は総務、左は人事のスタッフを分断していました。どのような意図で職場を二つに分けたのか不明でしたが、真っ先に違和感を覚えました。しばらくすると、総務のスタッフがやってきて、人事のスタッフへの不満を訴えました。職場で対応しなければならないことがあっても、人事のスタッフは見て見ぬふりで協力的でないというのです。そこで、人事のスタッフにも話しを聞いてみました。彼女たちの言い分は、総務からいろいろ言われていることは知っているけれど、人事と総務とでは仕事の内容が違うし、私たちも遊んでいるわけではないのに協力的でないと言われても納得できない、というものでした。

さて、どうしようかなと思っていた時に、ふと目を上げると前述のキャビネットが目に留まりました。以前、心理学を学んだ時に、心理的な壁を物理的に解消できる、ということを知っていたので、ひょっとすると、人事と総務を隔ているこのキャビネットの存在が対立を生じているのではないかと考えました。最初、課長にその話しをしたところ、スタッフの仲が悪いのは性格が原因でキャビネットを取り払ったからといって解消するとは信じられない。キャビネットにはたくさんの書類が格納されていて、動かそうとすると大変な作業になるので出来れば避けたい、とのことでした。しかし、私はきっとうまくいくのでやってみようと説得し休日にそれまで職場の中央に陣取っていたキャビネットを左右に移動しました。

月曜日になって出社したスタッフたちは当初少し戸惑っている様子でしたが、翌日には違和感も薄まったようでした。私は、スタッフの動きを観察していました。すると、それまでキャビネットがあったため迂回しなければならなかった職場の導線が直線になり、スタッフがお互いの席のすぐ横を通り過ぎるようになりました。やがて、誰からとなくお互いに言葉を掛け合って会話もしている様子が目に留まるようになりました。明らかにスタッフの表情が変わり職場の雰囲気が和やかになったようでした。そして、1ヵ月程経って、人事と総務のスタッフに職場の雰囲気について質問したところ「以前のような不信感とか懸念がなくなったような気がする」という返事が返ってきました。

ただ単にキャビネットを動かしただけにもかかわらず、このような成果が出るとは私もびっくりしました。そして、その時私が感じたのは「人間は本来、人と仲良くしたいと思っている。しかし、それを何かの条件が邪魔しているのではないか。楽しむことに注目するのではなく、楽しめない原因に注目した方がうまくいく」ということでした。

以上の私の経験を振り返り、私たちに合った「改善の方法」について考えてみました。

まず「改善」と「改革」という似て非なる言葉の意味について調べてみました。(出典:Wikipedia)

改善: 誤りや欠陥、ミスを是正し、より良い状態にする事、行為。日本の製造業で生まれた工場の作業者が中心となって行う活動・戦略のことである。日本国外でも通用する言葉であり、本来の意味と区別するためにカイゼン、Kaizenとも表記される。

改革: ある対象を改め、変化させること。革命とは異なり、現時点での基本的な体制を保ちつつ、内部に変化を作ることをいう。変革とも呼ばれる。

また、私は、それぞれの実行の主体と目的を以下のように理解しています。

改善: 従業員によるボトムアップ。目的は業務の部分最適化。

改革: 経営によるトップダウン。目的は複数部門にまたがる全体最適化。

これをみると、私が考える「良い改善」とは、実行の主体は、従業員によるボトムアップで、目的は全体最適という、ちょうど「改善」と「改革」の中間に位置するイメージをもっています。適切な言葉を探しましたが、ベトナムの経済・社会思想政策「ドイモイ」の日本語訳「刷新」がぴったりします。

私が考える改善(刷新)のステップは以下の通りです。

1.上司(マネージャー)は、部下(従業員)の言葉をよく聴き、仕事の様子を観察して先入観抜きで「ありのまま」に受け入れる。そして、「自分だったらどう感じるか、どうするか」を自問自答する。

2.顕在化した問題の一段上の視点から問題発生の本質を把握する。顕在化した問題の解決と同時に本質的な問題にメスが入る方法を検討する。

3.社内外を見渡し、問題解決に有効な素材を見つけて、それらを組み合わせた打ち手を講ずる。

一段上のレベルで本質的な問題に気付くと、既存の問題はおのずと問題ではなくなります。例えば、人間関係がこじれた場合、当事者と同じレベルにいては良い解決策を導くことは難しいですが、一段上のレベルに立ちそこから俯瞰すると、実は人間関係は問題ではなく、人間関係がこじれた背景と真因、そして解決策が思い浮かぶことはよくあると思います。坂本龍馬が薩長同盟を成立するために、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の双方がお互いに武器と米を融通し合うことを提案したという話は有名です。

このようなステップで問題を特定すると一般的な、誤りや欠陥、ミスを是正し、より良い状態にするという「改善」より一段上の、組織に変化をもたらす「改革」レベルに近づく解決が可能となります。

また、職場の人間関係に基づいた従業員起点の発想が有効な理由があります。

1.従業員の気持ちに配慮してあぶり出した問題解決の方が、理解と協力が得られやすく、結果的に早く成果を出せるため。

2.日本人は「関係構築」を重視するため。

1.は理解しやすいと思います。一方、2.については心理学者の河合隼雄さんの言葉が参考になります。

河合さんは日本の心理学の先駆けとしてアメリカとスイスで心理療法を学び、これを日本に導入しました。しかし、欧米で効果を発揮した手法が日本では必ずしもうまくいかないことに気付き、その原因を探索する中で、日本の文化の源流(神話や宗教)をたどり始めました。そして、箱庭療法など、日本的環境や日本的心性に合った心理療法を考案しました。そんな河合さんが、日本と欧米の違いを分かりやすい例で説明しています。

日本人と欧米人が大勢の聴衆を前にしてスピーチに臨むとき、二人は異なることをすると河合さんは指摘しました。

・欧米人はジョークで場を和ませる。

これは欧米人が「自我」を第一と考え、一人一人異なる「自我」もった人間の集まりにおいては、まず自分が何者であるかを伝える事。そして、また親近感をもってもらうためにジョークを多用する。

・日本人は、開口一番うやうやしく「一段高いところから失礼します」と挨拶する。

日本人はスピーチの役割を担うことによって、自分と聴衆との関係に変化が生じることを恐れます。そして「私はこれからスピーチをするけれども、だからといって皆さん(聴衆)と私の関係はこれまで通りですよ」というアピールをする。

私達日本人が自然に共有してきた「関係構築」重視の文化は、強みであると同時に、時として弱みになることもあります。それは、日本人が、自分の意志とは別に、与えられた共同体内の人間関係を大切にする反面、自分の自由意志で、他者とつながり関係性を広げることは苦手とするからです。

環境変化の少ない安定期にあっては、身近な人との「関係性を保つ」ことは有効でしょう。何故なら、現状を継続的にメンテナンスして部分最適(改善)することは、派手さはないものの、確実だからです。

一方、環境に激変が生ずると、部分最適(改善)活動では効果が限定されます。そこで、従来にはない発想で全体最適(改革)の実行が求められます。「改革」とはある意味、人(従業員)よりも、事(打ち手)をより重視する取り組みです。企業組織を優先して、これは表現が不適切かもしれませんが、従業員の納得感を得られなくても実行することを優先するものです。

では、環境の激変期に必要とされる全体最適とは、ボトムアップでは実現できないものなのでしょうか。そこに、私たちが乗り越えていくべき課題があると思います。

私は、従業員一人一人が求めている、漠然とした情報の中にこそ、組織が最優先で取り組むべき潜在的な問題を先取りするヒントが隠されていると思っています。

「細部に神は宿る」という言葉があります。見えないところこそ念入りに掃除をしろと上司から言われたとき、併せてこの言葉を教えて頂きました。小さいことを無視したら大きな方向性を見失うよ、と。

万物の最小単位である素粒子の誕生の謎はまだ解明されていないようです。素粒子には、まるでその一つ一つが精密にプログラミングされているように仕組みが備わっていて、それは神の手によってつくられたのではないかと考える研究者さえいるようです。

このことは、我々が重視すべき基本単位が、これ以上分割できない一人一人の人間だということを示唆しています。組織視点の「あるべき論」を従業員に押し付けるのではなく、一人一人の人間が、生きるために求めていること、感じていることを決して無視すべきではないのです。

「改善」の目的は部分最適に非ず。働く私たち一人一人がお互いに、生かし生かされつつ、共に手を携えてより良い人生を実現するという、究極の「全体最適」を目的に定めるべきではないかと私は考えます。

人事担当者の「現場主義」

「現場主義」という言葉があります。国連難民高等弁務官(1991年 – 2000年)等、国際機関の要職を務められた故緒方貞子さんは、生涯「現場主義」を貫き、解決不可能と思われる問題に対しても難民に寄り添い、その願いを実現する活動をされました。緒方さんにとっての「現場主義」とは、問題の当事者を起点として、その幸福の実現をただ一つの目標とした考え方と態度だったのではないかと思います。

人事の仕事も「現場主義」であれと言われます。しかし「現場」とは何を指すのか、誰にとっての幸福の実現なのか、どんな態度で、現場で起きる問題に向き合うべきなのか、明確に応えることが出来る人は少ないかもしれません。私も40代半ばくらいまでは、何が正しいことなのかが分からず、ずっと手探りでやって来たように記憶しています。そこで、今回は人事担当者にとっての「現場主義」について書きたいと思います。

私は、中学高校と吹奏楽部に所属して、トロンボーン、テューバ、サックスを担当しました。楽器を吹いていた記憶よりも、部活を運営していた、という記憶の方が鮮明です。というのも、中高を通じて部活の代表を任されていたので、どうすれば良い活動が出来るのかを常に考え、取り組んでいたからです。

私が大切にしていたことは、メンバー全員の願いを決してないがしろにしない、ということでした。吹奏楽部の場合、コンクールなど定員が決められている場合を除いて、全員がステージに上り、演奏をするメンバーですので、誰一人漏らすことなく、というのはそういう状況から浮かんだ思いでした。ですので、もめごとや、辞めたいという話しを聞いたら、当事者から話しを聞きました。そして、メンバーがそれぞれ部活に対して思っていること、望んでいることを把握して、それが実現するようにしました。中には、自分さえ良ければよいというエゴの話しも聞いたりして、そのようなときは部活が集団活動である以上、個人の勝手は認めないと戒め、それでも従わない人には辞めてもらいました。

私が中学3年生の時、例年のように大勢の新入生の入部希望者がやってきました。そして、毎年のことですが、人気がある楽器(フルートやサックス)に希望が集中してしまい予定の定員数を超えてしまいました。その時は、くじ引きをして、外れた人には次の希望の楽器を選んでもらうという方法を採ったのですが、ある女子生徒の保護者(母親)から夜、私の自宅に電話がかかってきまして、母から取り継いでもらったところ、この方の主張は「学校の部活なのにやりたい楽器をさせてもらえないというのは納得がいかない。あなたは部長でしょ。間違っていると思わないの」という内容でした。

私は、以下のようにきっぱりと返答しました。

私「部活には150人を超える大勢の部員がいます。それら一人一人の希望をかなえてあげたいですが、どうしても出来ないことがあります。それで、先輩から引き継がれている方法は、定員を超えた場合はくじ引きで担当楽器を決定することになっています。娘さんはそのルールでくじに外れて希望楽器を担当することは出来ませんでした。しかし、他にもたくさんの楽器があり、部活に参加することは出来ます。もし、このルールに従っていただけないならば、入部していただかなくてもいいです。」

保護者「たかが部活動で大人のようなことを言って。娘の希望を叶えてもらえないのは納得がいかないが、これ以上あなたと話しても解決できないので切ります。」

結局、その女子生徒が入部することはありませんでした。それよりも、私とその保護者との会話を横で聞いていた母が「自分の息子が大人に対してそこまできっぱり言うとはびっくりした」と言っていました。責任感というのは、年齢は関係ないと思います。与えられた役割を懸命に果たそうとするのは、大人も子供も変わりない、というのはその時の私の経験で学んだことです。

それから月日が流れて就職し、入社2年目に営業部の配属となり、九州の製造工場に1ヵ月程研修で派遣されることになりました。派遣にあたって上司である部長代理Hさんから出されたテーマは次のようなものでした。

工場と営業部の担当者同士の関係があまりよくない。工場の言い分として、営業部は身勝手に要求するだけで自分たちの都合に配慮が欠けている、と。一方、営業部も、重要なお客さんの要望にもかかわらず、工場の担当者は自分たちの都合ばかりで協力する姿勢が足りないと思う、ということだ。これを、研修期間の1ヵ月の内に解決して欲しい。よろしく頼むね、と言われました。

そこで、営業部の先輩社員から話しを聞いて、上司から聞いた話と不一致がないことを確認して九州に赴きました。私の研修先は、工場の生産管理部といって、工場全体の管理、特に生産工程と納期管理を担う部門でした。工場の全部門の見学と仕事の説明を受け、全体の輪郭がつかめてきたところで、生産管理部の担当者お一人お一人から話しを聞きました。質問は「営業部に言いたいことは何ですか?何を困っていますか?」というものでした。

担当者の方々は6人くらいだったと思うのですが、皆さん率直に話しをしてくれました。事前に上司から聞いていた通り、営業部の要望は時間も関係なくファックスで一方的に送られてきて、返答の納期もいつも「最速で」と言われる。どれも最速だと優先順位をつけることが出来ないし対応に困っている、という内容でした。私はヒアリングしたメモを読み返して、実際にどのように営業部から要望がファックスで届くのか実際の様子を観察しました。担当者が言うように、朝出勤すると前日に発信された何枚かの問い合わせが届いているのでそれに採番をして、関係部門に配布して回答までにかかる納期を確認することから一日が始まっていました。そして、勤務中にも不定期にファックスの着信音が職場内に響き、その度にファックスの所へ移動して受信を確認、採番し、再び関係部門に問い合わせをするという作業を繰り返していました。その時、ふと考えたのは、もし自分がこの担当者だったらどう思うだろうかということでした。きっと、他の仕事に集中して取り組めないし、一方的にやらされる仕事で嫌になるだろうなという共感でした。担当者のイライラと、その気持ちが営業部への電話の言葉の端々に表れていて、これでは本来、ビジネスの成功のために一致協力して取り組むべき関係には到底ならないなと思いました。

そこで私は、提案のレポートを作成しました。

1)営業部から生産管理部へ問い合わせのファックスを送る時刻を決める午前11時と午後3時の2回とする。但し、それを待てない場合は、まず電話をして事情を説明して、緊急のスタンプを押した要望書をファックスする。

2)生産管理部は問い合わせのファックスを受信したら、関係部門に回答納期を確認する。午前中受信分は当日中に営業部に納期を回答する。午後受信した分は翌営業日の午前中に納期を回答する。営業部として回答まで半日以上待てない場合は、その理由と回答希望時刻を電話で生産管理部の担当者に伝える。

3)最後に、以上のルールで運用して、もし問題が生じた場合はそれぞれの上長にその旨相談して、営業部と生産管理部、双方の上長が話し合いで解決する。

いま考えると、この問題の解決はそれほど難易度が高くなかったと思います。にもかかわらず、私の研修までの長い間放置されていたのは、本社(営業部)と工場(生産管理部)の立場の違い(力関係)によるものだったと思います。工場は従うもの、という暗黙の了解が双方にあり、担当者はその見えない制約に従わざるを得なかったのではないでしょうか。

私は、前述の改善案を上司の部長代理Hさんに送り反応を待ちました。そして、Hさんから返事がありました。

「大西君のレポートをコピーして営業部全員に配布したよ。そして、まだ新卒2年目の大西君だけど立派な解決策を考えてくれた。みんなも見習って欲しいと言ったんだ」と返事がありました。そして、その日から営業部と生産管理部間のやりとりが私の改善案通りとなり、まるで霧が晴れるように問題は解決しました。

この経験は私の原体験として深く心に刻まれました。それから後、この発想(従業員視点での問題解決)を行く先々の職場で応用しました。

赴任先の台湾の職場に、代理店から派遣されて当社と代理店の中継ぎをする担当者がいました。私の着任早々、その社員が私のところに来て「相談があります」と言われました。

彼女によると、私の前任者に再三要望していたのだけれどまったく対応してもらえなかったことがあって、それは多分私が代理店の社員だからだと思う。情報の中継ぎの仕事なので、日本から電話が来て、その内容を代理店に電話して伝えるのだが、毎回、毎回、電話を掛けるのがとても面倒で時間がかかる。そこで、短縮番号を登録すればいいじゃないかと、あなたの前任者から言われてしまったが、そもそも何故、内線電話が両社の間にはないのか。内線電話があれば非常に便利になるはずだ、という内容でした。私はまず、会社が要望に対応せず放置していたことを謝りました。そして、すこし時間が欲しいとお願いしました。

私はまず、会社の関係者に、内線の設置が何故できないのかを質問しました。その回答は、現地法人と代理店は別会社であること。また代理店は工業団地に登記された会社で、これと工業団地の外の会社を内線の専用回線でつなぐことは法律的に認められていない、というものでした。私は事実確認の為に弁護士に相談に行きました。そして、弁護士の回答は、従来はそのような規制があったが、現在は問題ないとの事でした。

あとは、内線の設置にかかるコストと費用対効果を試算をしました。

【現状コスト】

1.国際通話料金
日本(本社・各工場)⇔台湾(現地法人(市中))
日本(本社・各工場)⇔台湾(代理店(工業団地内))

2.台湾国内通話料金
現地法人(市中)⇔代理店(工業団地内)

*さらに、内線の専用回線には当時の最新技術でVOIP(Voice Over IP)というものがあり、これを使えば音声だけでなくデータの送受信も同時にできることが分かり、既存のデータ用専用回線の契約は無用になることが分かりました。

【新規コスト】

専用回線
日本(本社)⇔台湾(現地法人)⇔台湾(代理店(市中))

*日本国内の本社と工場間の専用回線は既存のものを引き続き使用するので追加費用はかかりませんでした。

【結論】

現状コストの過去1年間の実績から、今後のビジネスの拡大に応じた通信費の上昇を試算したところ、年間数千万円単位のコスト削減が実現することが分かりました。以上を本社に稟議回覧しすぐに承認が下りて、前述の代理店の担当者から相談を受けた2ヶ月後には専用回線が敷設され、内線通話が可能となりました。

さらに、この改善には次の副次的な効果がありました。

・従来、内線番号表(冊子)には、台湾現地法人と代理店の代表番号しか記載されておらず、日本側から見て、どのくらい規模感の人がいて、誰がどこで勤務しているのかを把握することができず、直接連絡が出来ないという状況が解消しました。

・受付からの電話の取り次ぎ、また、日本と台湾双方で外線番号をダイヤルする手間が省けて、その繰り返しに要している時間を削減することが出来ました。

・台湾側の従業員一人一人の名前が、内線表(冊子)に掲載された、グループへの帰属意識が醸成されました。

私は、いまでも相談してくれた代理店の担当者に感謝しています。そして、従業員の希望を尊重し、それに基づいた対応さえすれば、想像さえできなかったような大きな改善を実現することができることを経験しました。この他にも、現場の担当者起点で実現した改善は多々ありますが、この場では一旦筆を置きたいと思います。

私が考える「現場主義」というのは「一人一人に神が宿っている」という発想です。上から見下ろしているだけでは到底気付かない宝の山が現場には隠れています。それを見つける最も手堅い方法は、担当者から話しを聞き、その希望や願いをかなえてあげる事だと思います。

私はいまでも新しい職場で仕事を始める際、自己紹介で話すことがあります。それは、「私は皆さんを管理しに来たのではありません。私の役割は、皆さんの仕事がもっと楽になって、もっと楽しく出来るようにお手伝いすることです。この職場の主役は皆さん一人一人です」と。

最後に、マネージャーに頼らず、メンバー同士が、互いの声に耳を傾けて、その希望や願いの実現に、自然な気持ちから「何かの役に立ちたい」と協力し合える場が、私の理想とする職場です。そのような場づくりは、従来、人の個性や性格に大きく依存せざるを得ず、企業によって、また組織によって、どうしても出来不出来の差異が生じていました。しかし、人間は本来人の役に立ちたい、人と良い関係を保ちたいと心から願うものだと信じます。この、もともと備わっている本能のようなものを、何らかの手段で表出する方法を見つけたいのです。そして、この方法をあらゆる組織に応用して、組織間の出来不出来の差異を薄めることが出来たとしたら。それは私にとって最高の喜びとなるでしょう。

ベンチャー企業における人事の特徴

2018年から翌年にかけて大阪のベンチャー企業で人事総務を主管しました。大学院の同期で、この会社の顧問をされているIさんからご縁を頂いたのですが、上場を目指すベンチャー企業での人事は初めての経験だったので、日々貴重な経験をさせて頂きました。今回のブログは、私がこの会社で取り組んだ仕事について書きたいと思います。

この会社に入社を決めた理由は、入社前の面接のときに質問された「人事のお困り事」が私にとってすっきりと頭に入ってきて、解決方法までスムーズにイメージできたからです。取締役Kさんと株主から派遣されていたSさんのお困りごとは「離職の多さ」でした。「大西さんだったらだったらどのように解決しますか?」というお二人からの質問に対して、以下のように回答したことを覚えています。

1.一般的に離職原因のほとんどは「処遇面の不満」「人事評価など承認不足」「仕事の目的が不明確」の3つで、これらが複合的に絡み合って継続勤務への不信感が大きくなると思います。

2.まず従業員と会話して、これら3つの原因のうちでどれが最も大きな不満の種かを特定して打ち手を考え、複数の施策をスピーディーに実行します。

3.目に見える効果が出始めれば徐々に組織全体に良い影響を与えていき、小さな問題が自然に解決するのを見届けます。離職が減るのと同時に新しい問題が発生するので対応を仕切り直します。

KさんとSさんも同じことを考えていたようで、この時点ですでに人事の取り組み課題が決まってしまいました。

ベンチャー企業には、ルールもレールもない中で、急成長を実現することが課されています。人事がそれを支える役割を果たすためには、過去の延長線上で未来を描いているだけでは到底、株主、経営の期待に応えることは出来ません。道なき道を強力に前進し続けるための推進力は、人事が経営と目的と目標を共有してしっかりタッグを組むことです。それがこの会社でならできると私は面接の時点で確信して入社を決めました。

大阪に引っ越して真っ先に取り組んだことは「現状と経緯の把握」でした。

採用  求める人材像は明確か?外部人材の獲得に必要な手法は適切か?
配置  受入れ後のフォローアップ、成果創出までに必要な支援が行われているか?
労務  各種規程の整備と運用、適切な労働時間管理など法律を遵守しているか?
育成  環境変化に適応するために従業員の能力、意欲向上に取り組んでいるか?
また、従業員の関係を良好に保つ手立てを講じているか?
評価  従業員の働きに対して、その出来不出来を判定する基準があるか?
定期的に本人へフィードバックを行っているか?
処遇  給与、手当、賞与等、金銭的報酬は労働市場を意識して設計されているか?
昇給昇格のルールに基づいて運用されているか?

診断結果は、残念ながら全てマイナスでした。

そこで、現状とあるべき姿をすべて書き出して、1ヶ月後には経営に報告し、いつまでに、どのような状態にすると約束しました。そして、取締役会で株主に理解を求め、人事施策に必要な金銭的なサポート(予算確保)をお願いしました。

株主からは、各施策に要する費用について説明を求められました。入社前の面接で経営と問題意識を共有していましたので、施策の根拠と、それにかかる金額を合理的に説明することで、感情抜きに理解を得ることができました。しかし、企業によっては、この企業のように「離職の多さ」といったような問題が顕在化していない、若しくは正しく認知されていない場合があり、理解を得るために工夫が必要です。もし、そのような企業で私が人事を担当することになった場合どうするかですが、まずは、しっかりと経営から話しを聞き、今困っていること、そしてこれから未来の漠然とした不安感といったようなものを把握することから始めると思います。程度の差こそあれ、人に関する悩みがまったくない経営者などいないと思うからです。ただ、人によって異なるのは、その悩みの解決の糸口として「人事を生かす」と考える人もいれば、そうでない人もいるということです。前者であれば話は通じるでしょう。

この大阪のベンチャー企業では人事に期待されることが入社前にはっきりしていましたので迷いがありませんでした。しかし、その後勤務したベンチャー企業では、人に関する問題が顕在化しておらず、そもそも人事は何をするのかというコンセンサスも乏しい中で入社したため、入社後にゼロベースで問題探しをしなければならず、その結果を経営になかなか理解してもらえなかったという苦労をしました。結局、経営の主観が優先されて、人事が現場から吸い上げた課題は重要視されませんでした。これは私の深い教訓となっています。

さて、問題解決の方向性は定まりましたので、あとは前に進むだけでした。邁進する中でも一点だけ、私なりに工夫したことがあります。それは、取り組みの進捗を日時、週次、月次で報告し、都度意見を求めて経営者の「安心感を醸成」することでした。そして月一回の取締役会では、株主に対して、計画の進捗状況を報告し、質疑応答の場を提供しました。報告と質疑応答の場であると共に私が意図したのは、株主と経営に人事について理解を深めてもらう目的がありました。その甲斐あって、入社から10ヶ月を経過する頃には、人事にとって大切なこと、外せないポイントについて株主と経営間で共通認識が形成されていたと思います。

とても嬉しかったのは、取締役会の参加者でこれまで多くの企業の立ち上げや経営に携わった皆さんから「大西さんの話しを聞いて人事のことが理解できて勉強になった」とか「人事の重要性について再認識した」といったコメントを頂きました。さらに前述したSさんからは「短い期間で離職がほぼゼロになり当面目指していた成果が出たのは人事だから出来たのではなく、大西さんだから出来たのです」と言っていただいたことが特に嬉しかったです。

ところで、急成長を期待されたベンチャー企業では、同様に人事の立ち上げも最速で行わなければなりません。そのため、一つ一つの施策にじっくり取り組んでいたのではとても間に合わないため、私は、採用~配置~労務~育成~評価~処遇といった一連の「人事サイクル」の各施策に同時に取り組むことにしました。頭の中では、競走馬(仕事)が同時に疾走しているイメージです。とはいえ、一日は24時間で、寝る時間も確保する必要があるため、さらに工夫したことは、各施策に関連性を持たせて有機的な好循環を生み出すことでした。

まず、人事の大目的を定めます。次に、この目的に則って各施策の細部を設計します。そして、各施策を別々に導入、運用するのではなく、それらには一貫性があり、どれ一つとして欠かすことが出来ないものであることを明確に従業員に示します。複数の施策を一斉に導入し運用を開始すると、従業員に変化が伝わります。やがて、各施策が相互に影響を与えながら有機的に結びつき好循環が起き始めます。ここまで出来たらしめたもので、好循環さえ起きてしまえば、あとはいちいち細かいことを管理しなくても、組織が自律的に良い状態を目指して活動してくれます。但し、好循環を継続するためには、細部に目を配り、常に目的との不一致が生じていないか、また一度決めて導入した施策に機能していない部分が無いかを改めるメンテナンスが必要です。

私は、まず人事の大目的として「人材価値の向上と成果の最大化」を掲げました。そして、人材価値とは「能力」「経験」「意欲」の各項目の掛け算で決まると定めました。そして、人材価値を構成する各項目の要件をグレード毎に詳細に定義して、これを人事評価基準、採用基準、人材育成に反映しました。そして、従業員に不公平感が生じないように、信賞必罰のポリシーに基づいて、やっている人、やっていない人を明確にできる、全員が一律で守るべきルールを明確化しました。最後に、人材獲得に不利な状況を解決するために労働市場の賃金水準を調査して支払い必要人件費を給与テーブルに落とし込み、業績連動型賞与制度を導入しました。また、人件費の高騰と負担が増えないように支払い可能人件費の目安である労働分配率を決めました。

以上の取り組みの過程では、何人かの従業員の皆さんに厳しい対応をとりました。従来の仕事の仕方、勤務態度に留まろうとする人もいて、その人たちには処罰を下したり、降格や減給等の処遇変更も実施したりしました。実施する側の人事が強い意識と信念が問われる厳しい仕事を自らに課し精神的にはすこししんどかったですが、その成果もあり、徐々に守るべきルールと基準が従業員に浸透していきました。

振り返ると大阪での経験を通じて、人事という仕事には、個人の感情を丁寧に扱う「情」の部分と、全員が一律に守るべき合理的なルールを定めて順守を求める「理」のバランスが求められることを再認識しました。さらに、ベンチャー企業の急成長を支える人事機能を急速に立ち上げるためには「情」と「理」だけでは不十分で、2つの「信」が不可欠だということに気付きました。

2つの信とは「信用」「信頼」のことです。株主、経営者、そして従業員各々がお互いに生かし、生かされつつ一致協力して、企業目的の実現を目指す上で必要な概念だと思います。デジタル大辞泉によると「信用」「信頼」の意味は次のようになっています。

信用(Credit): それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること
信頼(Trust):  信じて頼りにすること、頼りになると信じること

つまり、

「信用」は、過去の実績や成果に基づいて、客観的であり物質的に生ずるもの         「信頼」は、信用に基づいて未来の行動を信じ期待することで、主観的であり精神的に生ずるもの

と言えます。

ベンチャー企業のように、人も組織もまだ新しく過去の実績を十分に蓄えていない場においては、不確実な未来を描くために、人と人、人と企業の間の「信頼」に重きがおかれます。ただし、「信頼」だけでは不十分で、外部から人材を招き入れたり、新たに取引きを始めたりする時には、過去の実績や力量について十分な情報を集めて「信用」に足るか否かを判断する必要があります。これが、ベンチャー企業には2つの信(信用と信頼)が求められるものの、より「信頼」が重視されると考える理由です。

私の経験から、ベンチャー企業の成否を分けるのは、経営者が従業員の無限の可能性を「信頼」することが出来るかにかかっていると思います。「信頼」された従業員は、期待に応えようと成果を最大化します(注1)。また、中国の古典「孟子」の五倫には、君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならないとあります(注2)。

コロナ禍で、先が見えない今こそ「情」と「理」と共に、それを超える「信頼」がより一層重視されると感じています。企業は人の集まりです。その人々が「信頼」で結ばれているか今一度見直してもらいたいと思います。

(注1)ピグマリオン効果(ピグマリオンこうか、英: pygmalion effect)とは、教育心理学における心理的行動の1つで、教師の期待によって学習者の成績が向上することである。(Wikipediaより抜粋)

(注2)五倫(ごりん)は、儒教における5つの道徳法則、および徳目。主として孟子によって提唱された。「仁義礼智信」の「五常」とともに儒教倫理説の根本となる教義であり、「五教」「五典」と称する場合がある。(Wikipediaより抜粋)

神なき国のユートピア

人事担当者として、これまで多くの職場で「ハラスメント問題」に対応してきました。いわゆる、セクハラ、パワハラ、モラハラのことです。ハラスメントとは、一般的に、上司・上位にある者が、その職務権限・権力を悪用し、部下を精神的に追い詰めること、と定義されています。そんな、本来起きてはいけないはずのハラスメント問題が、年々増えているという印象を受けます。

ずっと前から職場のハラスメント問題はありましたが、私の経験では、発生後の対応が、以前と今とでは全く異なると思います。かつての職場は、メールやチャット等の文字よりも会話による情報交換を重視していたため、自ずと職場内はガラス張りとなり、メンバーは、今起きていることを共有していました。問題を見掛ければ誰から指示されるまでもなく、理解ある先輩や隣の部門の管理職等が声を掛け合って原因を探り、会社としてとるべき対応への橋渡しをしていました。つまり、組織内部には、問題の深刻化を防ぐ「自浄作用」が働いていたと思います。私は「自浄作用」を働かせる根本動機は「仲間意識」だったのではないかと思っています。

大学院の仲間と定期的に行っている勉強会で、ハラスメント問題のことが話題にのぼりました。

ハラスメント問題の解決に取り組んでいるNさんのコメントは「最近気になっていることは、企業の職場に、人に冷たく全く関心がないような雰囲気が漂っていて、そのような職場ではハラスメント問題が起こりやすく」また「職場で起きる問題の原因は、組織ではなく、個人によるものと解釈されてしまうことが多いため、なかなか根本解決に至らず、次々と問題が発生してしまう」とのことでした。

また、Kさんによると、Kさんがかつて勤務した職場でもハラスメントはあったものの個人が追い詰められることはなかった、と。そして、ハラスメントは、仕事のIT化が進み、従業員が孤独になることが余儀なくされ、集団、権限からのパワーを個人がダイレクトに受けてしまうことが原因ではないか、とのことでした。

私は、お二人の意見に完全に同意します。そして、これほどまでに人に無関心な職場が増えてしまった理由と仲間意識が希薄になってしまった原因を考えてみることにしました。

ひとつの原因として考えられるのは、以前と比べて職場の環境そのものが、仲間意識を育みにくくなったということで、それはきっと雇用形態の多様化が影響しているはずです。平成の30年間で職場には、雇用形態が異なる従業員が増え続け、現在は以下のようになっています。

・正社員(期間の定めのない労働契約 正社員・限定正社員)
・契約社員(期間の定めのある労働契約)
・嘱託社員(主に定年退職後再雇用 現在は65歳まで70歳まで法制化される可能性有)
・派遣社員(登録型、常用型、紹介予定)
・パート
・アルバイト
・業務委託(場内・場外)

私が社会に出た平成が始まる頃は、正社員が、総合職と一般職の二系統で、補助的業務はパート社員にお願いするくらいの非常にシンプルなものでした。それが現在のように、同じ職場に様々な形態、異なる処遇で雇用された従業員がいて、派遣社員のよう指揮命令権外の従業員もいます。そして近年では、多様化した雇用形態への不公平感の高まりから、政府は雇用形態間に生じた処遇差に合理的根拠を持たせる「同一労働同一賃金」を講ずるよう企業に求め始めました。政策で生じたことに対して、誰もが納得する意味を後付けしなければならない非常に難しい仕事です。その担当は当然「人事」です。

一方、多様化した雇用形態の下では、一致協力して職場問題を解決することを求めるのは難しいでしょう。そもそも、雇用形態が異なれば働く目的、会社への要望が異なるのは当たり前だからです。その表れとして、労働組合の組織率は低下の一途を辿っています。(1989年25.9%、2019年16.7% 出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構)

では、雇用形態が多様化した背景には何があったのでしょうか。所説あると思うのですが、私の考えは、右肩上がりの経済成長が終焉し、企業には事業継続のリスク回避策として人件費抑制と雇用流動性担保(解雇手段の確保)の必要性が高まり、それを国が政策面で後押ししたことがあったと思います。そのシンボリックな例として非正規雇用が全雇用者の38.2%(2019年男性22.8% 女性56.0% 出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構)を占めるまで増えました。安倍首相は新たに400万人の雇用を生みだしたと胸を張りましたがそのほとんどは非正規雇用です。そして、目下コロナ禍で起きている解雇、雇止めの対象は非正規雇用であり、かつてないほど全雇用者に占める割合が拡大した中で起きていることから、自ずと社会の隅々に様々な影響を及ぼすでしょう。今後の動向を注視する必要があります。

このように経済と政治判断によって生じた問題を現場の個人レベルで解決することは非常に難しく、常に無力感を覚えつつの努力でした。振り返ると、私が向き合ってきたのは、そういった職場に広がる「生きづらさ」の問題をどうやって解決するのかということで、前述したようなハラスメントなど「情」による問題解決を試みましたが限定した範囲内での解決にとどまり根本解決が出来ませんでした。それは、職場問題のほとんどは、組織風土や文化に起因する部分が大きく、時間をかけて複雑に絡み合っている為その扱いは一筋縄ではいかないからです。

そこで、組織の原理原則を学ぶため社会人大学院に通ってアカデミックな領域から知見を得て「理」に基づく問題解決を試みましたが、知識面の充実という面では役に立ったものの、依然として実践的な解決策を導き出すまでには至りませんでした。

考えが行き詰りましたのでちょっと視点を変えたいと思います。

以前ブログにも書きましたが、いま私は聖書を読み進めています。聖書から得られる人間の労苦、つまり「生きづらさ」に関する知見とはなんでしょうか。

旧約聖書では繰り返し、いばらの道、荒野を歩むことが宿命づけられている人間の姿が描かれます。そして、その苦しみから逃れることは出来ないことを諭しています。つまり「生きづらさ」は、たとえ一つ解決してもまた別の問題が現れ、死ぬまでそれが尽きることはない、ということなのです。

人間が、苦しみから逃れようと悪戦苦闘して神の世界に渡ろうと実践した4つの努力とその結末は以下の通りです。

1、知恵を用いる
コリント人への手紙1 1章21節
人間側から神に渡る努力は知恵 しかし結局は到達できなかった

2、義・善行をする
テドスの手紙 3章5節
神のあわれみによる聖霊により我々は救われた 人の義・善行といった努力、施しによるものではなかった

3、法を守る
ローマ人への手紙 3章20節
安息日など十戒を守ろうとしてもすべてを守れる人間は一人もいないばず ひとつでも破れば罪の意識にさいなまれる

4、宗教儀式を行う
コリント人への手紙1 1章17節
イエス・キリストは、バプテスマ(洗礼)を授けるためではなく福音を伝えるために現れた

そして、イエスの登場によって、新約聖書で神の世に至る橋が示されます。

ヨハネの福音書 14章6節
神の存在を信じ、イエス・キリストの言葉(福音)に従えば、神へと至る橋(十字架)を渡り、罪の意識と苦しみから解放され永遠の命が得られる

これが、キリスト教信仰のよりどころになっています。他の多くの宗教でも、大いなるものの存在を信じることで現世における苦しみから解放されると教えているようです。

では、国民の半数が無宗教(49.4%)で、信仰対象として最も多い仏教(34.0%)でさえも、葬式仏教と呼ばれる形式的な仏教しか持たない大多数の、私たち日本人が救われる道はあるのでしょうか。信仰心はあっても、特定の信仰を持たない、言葉を換えれば「神なき国」のユートピアはどこにあるのでしょうか。(参考:NHK放送文化研究所「ISSP国際比較調査(宗教)2008」より)

日本では、厳しくも豊かな自然の中で、人と人、人と自然とを調和させる「知恵」が育まれ、その「知恵」によって、緩やかな信仰心に満たされた風土が醸成されていったのではないでしょうか。そして、この「知恵」は私たちにとっては空気のように当たり前のものなので、普段はその価値を見過ごしがちで、加えて長年かけて自然に獲得したものなので一旦壊れると修復が難しいという特徴があると思います。前述のように、人に無関心で仲間意識が希薄な職場が増えていることは間違いなさそうですので、いまこそ、意図的に「知恵」を生かして人と人を調和して関係性を修復する必要性が高まっているはずです。では、空気のように見る事も触ることもできない「知恵」の存在をどうやって把握することが出来るのか、という課題が残ります。私は、その知見を「音楽」から得ることが出来ると考えています。

8月22日(土)22:00-22:50に、NHK BSで「オーケストラ明日へのアンサンブル」という番組が放映されました。この番組は、緊急事態宣言下で放映された「オーケストラ・孤独のアンサンブル」の続編で、たった一人、孤独の音楽を奏でた13名の演奏家が初めて集い、アンサンブルをするという内容でした。サブタイトルは「心がつながれば 明日は生まれる それを信じて」それにぴったりの内容でした。

仲間と一緒にいることが当たり前だった演奏家の皆さんは、私たちよりも一層仲間とのつながりが断たれたことを重く、深刻に受け留めたのではないかと思います。番組では、演奏家の感情や思いが語られ、それらが発露した演奏はとても感動的でした。

番組で演奏家が語った言葉です。

「1人ではやっぱりどうしてもできないことというのがあって みんなで音を出すことによって生まれるパワーを改めて実感してみたい」

「音楽の力ってみんな考えたと思う。ところで一般の人たちにとって音楽がどれくらい必要だったかを考えなかった音楽家はいなかったんじゃないか。音楽一曲よりもおにぎり一個の方が大事かも、と。とりあえず今を生きる、明日の方が、とかね。だって、4月、5月の時ってどうなるか分からなかった。これからどんどん大変なことになるかもしれないと。」

「未知のウィルスによって人が不安定になって、何かにあたりたくなる現象が起きていると思う。そういう気持ちが落ち込んでいるときに音楽によって何かが変わることがあるとしたらそれがうれしいし、やる(演奏する)価値があるんじゃないかなと思う。」

「そういう中で演奏することによって感じたことは「自分は一人じゃない」と。孤独のアンサンブルをやった時には孤立をさせられた時だった。そして今回みんなが集まって気付いたことは一人じゃない、世の中は誰かと助け合いながら生きているということをものすごく実感した。」

「今、難しいことを強いられていると言えばその通りなんだけど、でも、自分たちの中にある、こういう言い方をすると変かもしれないけど、ミュージックディスタンスみたいのがあるじゃん。人と人とをつなげ、魂と魂をつなげる。そういうものは距離を離れて演奏したとしても変わらないような気がする。」

「円になって演奏するのは簡単なことじゃないかもしれないけど、これだけの音楽家の方々が集まってお互いの呼吸とか気配とかを感じながら音楽を演奏してそれを伝えるということで、聴いて下さる皆さんに心が羽ばたく時期が来るに違いないと、そういうことを信じて自分たちのメッセージとして音楽を届けたいなという気持ちが強いですね。」

これらの言葉と演奏を聴きながら、音楽には本質的に人々に喜びをもたらす力がある。また、演奏家は仲間が集まってアンサンブルする中で、お互いに生かし、生かされつつ、一人では決して到達し得ない深い領域に入りこんでいくようです。音楽を奏でる場は「生きづらさ」とは対極の「理想の世界=ユートピア」なのかもしれないと思いました。

音楽と言えば、私も学生時代に「吹奏楽」に打ち込み、一時は大学院の修士論文のテーマにしたいと考えました。組織論、育成論の視点で、吹奏楽から企業組織の未来を切り拓く知見を得ることが出来ないかと考えたのです。実は、日本はアマチュア吹奏楽の活動が最も盛んな国のひとつで、その演奏レベルも世界最高水準です。吹奏楽は隠れた日本の宝なのです。

○吹奏楽団体数 14,057(2019年10月1日現在 全日本吹奏楽連盟加盟団体数)
○吹奏楽人口  500万人(*)
*朝日新聞デジタル:あの聖地「雲の上の存在」日本有数オケ奏者語る吹奏楽より
 経験者も含めると1,000万人を超えるという説もある

では、アマチュア吹奏楽の現場ではどのような上質な場が生まれているのでしょうか。これをうまく著した一冊の本があります。以下、該当する箇所を抜粋しました。

(出典:金賞よりも大切なこと コンクール常勝校 市立柏高等学校吹奏楽部
    強さの秘密 山崎正彦著)

「彼ら(吹奏楽部員)は自己に与えられた役割を果たせるように必死に頑張る。この自らに与えられた役割を果たすことについて生徒にインタビューしてみると彼らの言葉から浮き彫りになってくるのは「自分ができないことで皆に迷惑を掛けたくない」とする外に向けての意識と「できないと言って済ましてしまう自分でありたくない」という内向けの意識の2つである。なくてはならないものとして自分が認識されてしまう合奏。実に不思議な営みだ。「君は必要だよ」と声高に叫ばなくても演奏に参加している誰もが必要であることが自明となっていて、あるときは自分が誰かの音を頼り、あるときは誰かの音に自分が生かされ、自分も誰かの音を生かす。だから、その生かし合いの場で自分が役割を果たせないことがどんなに他者をがっかりさせ自分自身も傷つけるか。人との協同の営みのなかで自分の役割を果たせないことがどんなに空しいか。彼らは経験のなかから、あるいは本能的にこれらのことを知っているのだ。自分のためだけでなく誰かのため皆のために頑張ろうとするような生き方を必然のなかで身につけていかざるをえない吹奏楽。それは協同表現であって、人に何かを与え、人から何かを与えられることにより、また互いが生かし合うことによって成立していく。その意味では実に社会的な営みでもあり、吹奏楽部は、あたかも小社会のようなものといえるだろう。そうなるとつまりは、吹奏楽部の活動では、高い精度でバランスを保っている音楽という小宇宙の中に一人ひとりが音となってうまく溶け込み、そこで生み出されてゆく音楽に生気を与えるような力とならなければならず、それと同時に、小社会の中に交錯する互いの呼吸や意思のようなものも見過ごすことなく察して、音楽という絶え間なく流れてゆく時間の刻みのなかの自分のあり方を瞬時に決してゆかなければならないのである。教師が多くを語らなくても良い。吹奏楽というものが自ずと持っている教育的な力を見失わないだけで良い。」

吹奏楽経験者であれば、ここで書かれている「場」を、市立柏高校のような高レベルの演奏をする団体に所属していないとしても、簡単に理解できると思います。経験者にしか分からない共通言語だと思います。

私の恩師は、この「場」を「良い人だまり」と名付けました。私にとって実現したい「理想の世界=ユートピア」とは、恩師が求めた「良い人だまり」のことだったのです。そして私は、社会に出てからも、ずっと「良い人だまり」を求めて理想と現実とのギャップに悩みました。

以前、恩師に「良い人だまり」について質問した時のやりとりです。
Q(質問)は私
A(回答)は恩師

Q: 吹奏楽活動の目的とは?
A: 社会教育の一環として人と人とが良い状態(良い人だまり)をつくることにある。
「良い演奏をする」ことを目的化するとうまくいかない。「良い人だまり」が形成された結果「良い演奏」が実現する。良い人だまりに参加すると人生が楽しくなる。音楽をレッスンすることやコンクールに出場することなど、目に見えることは、「良い人だまり」をつくるための手段である。

Q: 「良い人だまり」の必要条件とは?
A: 上質な場を形成するには、その団体を率いる団長が人望や人徳を備え、リーダーシップを発揮し、団員に安心感、満足感を与える必要がある。指揮者(指導者)と団員(奏者)は対等である。従って、きちんと役割分担をするためには団員がひとつにまとまっていなければならない。

Q: 人望、人徳の育て方
A: 人望や人徳は教育できない。頭で理解しても身につかないからだ。実践の場、修羅場体験が人を育てる。人望、人徳があれば、厳しいことを言っても人に受け入れられる。良い叱り方は、その場で判断する。学ぶことではなく本能で分かることだ。

Q: 「良い人だまり」の効用
A: 音楽が好きであると言い合える上質な場となる。一般吹奏楽団体でやりたいことは、当然「音楽」なのだが、その音楽に打ち込む為には、団員が安心感で満たされる「良い人だまり」が不可欠だ。

Q: 今目指していること
A: 持続可能な組織となる。一過性ではなく、人が入れ替わっても組織そのものが変わらない継続する仕組みをつくりたい。

私が理解している「良い人だまり」の条件は以下の通りです。

・人望人徳を備えたリーダーの存在

人に与えることを喜びとし見返りを求めないGive & Giveの人
その存在感がメンバーに伝播して安心安全な場が醸成されていく

・参加メンバーのふるまい

自分さえよければ良いというエゴを慎む
お互いに自分が持っているものを惜しみ無く出し合う
お互いにかけがえのない存在であると認め合う
特定の誰かに依存しない基本的にフラットな人間関係を尊重する
人が入れ替わっても変わらないものを次世代へ引き継いでいく

恩師は、良い演奏やコンクールの成績を目的にするとメンバー間の関係がぎくしゃくしてうまくいかなくなると仰っていました。目的はあくまで「良い人だまり」をつくることで、良い演奏は後からついてくると。

毎年末に全日本吹奏楽連盟主催の合宿が浜名湖であり私も高校在学中に2年連続して参加したことがあります。全国から高校生150名~200名程が集まり1週間合奏練習をしました。講師(恩師もその一人)を務められた秋田南高校、花輪高校、富山商業、浜松商業、愛工大名電校、天理高校、淀川工業、就実高校といった吹奏楽名門校の指導者から直接レッスンを受けたのですが、どなたも異口同音に、良い演奏は結果で、もっと重要なことは「場づくり」であると熱心に語られていました。その時私は、吹奏楽の世界では、表現は違うものの恩師が言う「良い人だまり」は常識になっているんだなと理解しました。

実は私は人から「では、あなたは良い人だまりを経験しましたか?」と尋ねられたら、自信を持って「はい」と答えることが出来ません。恩師から厳しく指導されたにもかかわらず、高校3年間で恩師が求めるレベルに至ることが出来なかったことを今でも悔やんでいます。理由はいろいろありますが、部活の運営面において、特定のメンバーに依存する体質に陥ってしまったという反省があります。その不本意な記憶と心残りから、社会に出てからも私の「良い人だまり」への希求は続きました。しかし、前述したように現実は理想とは程遠いものでした。

市立柏高校の皆さんのように「良い人だまり」を経験した人は、その後どんな人生を送られているのか気になります。きっと「良い人だまり」を経験した人しか得られない「暗黙知」を発揮して、生きづらい世の中にあっても、それを薄めることが出来ているのかもしれませんね。そう信じたいものです。

一方で、私のように「良い人だまり」を目指しつつも経験できなかった人はどうでしょうか。吹奏楽人口は500万人(一説では1,000万人)です。そして、それら多くの吹奏楽経験者が、合奏の「場=良い人だまり」を想起し、今おかれている状況下でその人なりの「良い人だまり」に向けて背中を押され一歩を踏み出したとしたら。。。社会に与えることは決して小さくないと思います。なかば解決をあきらめていた「生きづらさ」の問題を薄めることができる、微かですが希望の光が差してきました。

優れた経営者の条件

前回のブログで、911同時多発テロの発生に際して従業員の安全を第一に英断を下された社長Hさんのことを書きました。今回も引き続きHさんについて書きたいと思います。

世の中には優れた経営者はたくさんいます。人並外れて、新しい事業を産み出す創造力が豊かで、意思決定に際しての判断力や決断力が優れている。一旦始めたことをあきらめない意志の強さ、執着心。そして、あくなき欲望とそれを制御する倫理観、道徳心を兼ね備えていること、等々。要素分解して数え上げたら切りがないと思います。一方、優れた点を数多く備えていれば必ず成功するかというとそうでもなく、リリーフのタイミングが、外部環境に対して自社の強みが発揮し得る状況にあるかどうかなど、その人の能力以前の条件面によって左右するのではないでしょうか。そこで、経営者に求められる最大の資質は「運の強さ」等と言われるのではないかと思います。

私が仕えた社長Hさんはどうだったかというと、カリスマ的な創業者、続いて野武士のような2代目社長と比較すると、最初は「平凡な人」だったのではないかと思います。しかし、その人が業界のカリスマと言われるまでになられたのは何故でしょうか。私が考えるHさんのすごさは「人の心の機微に敏感で、且つそれを繊細に扱って周囲の人を味方にしてしまう卓越した人望の持ち主」だったと思います。徹底的に平凡を極めた人。それが私のHさんのイメージです。私がそのように考えた理由、Hさんとの想い出をたどりたいと思います。

私が初めてHさんと言葉を交わしたのは1995年、入社2年目の春でした。当時の私は、エンジニアの真似事を1年間経験して本社の営業部に戻された直後で、契約書の管理や製造子会社との調整を見様見真似でやっていました。ある日、部長Yさんに、お客さんからの取引条件変更の要望について質問したところ、それは「Hさんの決定事項だから、直接Hさんに質問して」と言われました。Hさんは当時複数の営業部を統括する事業部長(取締役)でした。普通の会社ですと、入社2年目の下っ端が事業部長に直接質問出来るかというとちょっとあり得ないと思うのですが、この会社では割と普通にそういうことが行われていました。私は緊張してHさんの部屋を訪ねました。社長以下、全ての個室はドアを開けておくというルールがありましたので、外から在席されているのを確認してドアをノックし「どうぞ」と言われたので部屋に入りました。

Hさんは机の上にあるたくさんの書類に目を通されていましたが、一旦両手を止めて、私の目を見ました。私は部長YさんからHさんに直接質問するように言われて来たこと。そして、お客さんからの取引条件変更の要望について質問しました。Hさんはすぐに判断して下さり用件は済みました。私は一礼して部屋を出ようとしたところ、Hさんから呼び止められ振り返りました。Hさんは笑顔で私の方を見据えて、

Hさん「君は〇〇部に新しく配属されたんだよね。名前は何と言ったかな?」

とおっしゃいました。

私「大西と申します。どうぞよろしくお願い致します。」

Hさん「そうか、頑張ってね。これから会社はどんどん大きくなるよ。その時、若い君たちの力が必要なんだ。期待しているよ!」

私は、大先輩に交じって自分のような者が本当に役に立てるのだろうか。足手まといにならないかとどこか不安を覚えていたと思います。しかし、Hさんの笑顔と、私に掛けて頂いた言葉を聞いて、その不安は一瞬で消えてしまったような感覚になりました。Hさんは、一瞬で人の気持ちを掴む達人だったのではないかと思います。後にも先にも、就職した会社でこのような方に出会ったことはありません。

その後、九州の製造子会社からOさんが出向で着任されて、私はその方と一緒に仕事をすることになりました。ちょうどそのころ、欧米のお客さんから代理店を介さない直接取引が求められていました。理由は、代理店のエンジニアリングサービスの品質が一向に高まらない事。また設備の改良についてもメーカーである当社に声が届かずお客さんのフラストレーションがたまっていて、そのことがさらなる事業拡大の足かせになっていることが問題視されていました。そこで、野武士のような2代目社長Iさんは、突然「グローバリゼーション」というスローガンをぶち上げ、半年以内に代理店契約を解除し、全ての顧客への直接販売、直接サービスをすると宣言しました。そして、各営業部に対して、取引条件の決定や、欧米の拠点の立ち上げ、人材の配置、保守部品の供給体制の構築を命じたのでした。

社内では「そんなことは不可能だ」とか「人材がいない」とかネガティブな意見が噴出して、上へ下への大騒ぎになりました。しかし、私が所属していた営業部は、売上、利益ともに会社の屋台骨を支える立場にあったことから、いち早く準備を開始しました。そして、上司Oさんと私の二人で、欧米顧客への直販体制構築条件の洗い出しと準備の工程表を作成することになりました。Oさんはエレキ設計を皮切りに製造、品質管理、生産管理を渡り歩いた根っからの工場のスペシャリストでした。工程表を書かせたら誰よりも速く、精緻に仕上げるスキルを持っておられましたので、私はOさんの助手として手ほどきを受け、徐々に仕事が楽しくなっていきました。

工程表の第一稿が完成したところで事業管理部門の課長Tさんに説明をしたところ、これは一つの営業部のものとして使うのでは惜しい。事業部として共有すべきだ、という話しになり、事業部長(取締役)Hさんに報告しようということになりました。私にとっては、前述のHさんとの最初の会話から数ヶ月が経過していて、久しぶりにHさんにお目にかかることが出来るとわくわくして3人(事業管理部門課長Tさん、上司Oさん、私)でHさんの部屋を訪ねました。

Tさんから、上司Oさんと私の仕事のことについて説明が始まりました。最初は、ニコニコ笑顔で話を聞いていたHさんの表情が、Tさんが発したある言葉をきっかけに険しくなりました。それは「この工程表はOさんと大西君が一生懸命に作ったものです」という一言でした。

Hさん「T君、仕事はね、誰がやったなんてことは重要じゃないだ。そんなことを言うとみんな自分が認められたいとか、褒められたいとか、そういうことばかり考えるようになっちゃうんだよ。二度と、誰がやったかなんてことは言わないでくれ!」

Tさんは「分かりました。申し訳ありませんでした」と謝り、我々3人はHさんの部屋を出ました。Tさんは上司Oさんと私に「せっかく良い仕事をしてくれたのにこんなことを言われてしまって申し訳ないです」と言ってくださいました。Oさんも私もその場では「問題ないです」と言いましたが、自席に戻ってもHさんの言葉に納得できず、私に至っては理想としてたHさんのイメージが根底から覆されたのでむしゃくしゃしていました。そして、仕事を早々に切り上げて、Oさんと憂さ晴らしで遅くまで飲みました。

翌朝、やや二日酔い気味で出社した私は午前中前日のこともあり仕事に身が入りませんでした。そして、昼食をはさんで少しエンジンがかかってきたかなという頃に内線電話でHさんから「部屋に来て欲しい」と連絡がありました。上司Oさんと私は、昨日の勢いで再び叱られるのではないかと恐る恐るHさんの部屋を訪ねました。するとHさんは立ち上がって、Oさんと私に昨日のことを詫びたのでした。

Hさん「昨日はT君の手前厳しいことを言ってしまい申し訳ない。Oさんと大西君は良い仕事をしてくれました。僕はそれを認めています。ありがとう。そこで、お二人が作った工程表を事業部共通のものにしたいのですが良いですか。」

Oさんと私は「頑張ったことが報われた」と感じてとてもうれしくなりました。同時に、Hさんの、従業員の気持ちへの配慮に再び感服しました。さらに深く、Hさんに付いて行こうと思ったのはこの瞬間でした。

その後、私は同社を退職して再就職先の会社でシンガポール勤務を経て再びその会社に再就職することになったことは以前のブログで書きましたが、最終面接でシンガポールから東京に来た時、面接官は社長になられたばかりのHさんでした。2年ぶりの再会でした。

Hさん「大西君、久しぶり。いろいろあったと思うけどやっぱりうちの会社がいいかい?」

私「はい、この間、いろいろな経験をして、いろいろなことを考えましたが〇〇〇がいいです。」

Hさん「分かった、では頑張ってね!」

最終面接はこれだけでした。

そして、本社勤務が始まり、シンガポール、台湾への出張を繰り返す仕事をする中で、翌年の春、管理部門を管掌するために台湾現地法人に赴任することになりました。出発前に再びHさんに呼ばれました。

Hさん「台湾の状況(代理店とのいざこざ)はよく知っていると思うけど、大西君が我々の事業にとってベストな判断を、社長になったつもりでやって欲しい。困った時には直接、取締役Nさん、Tさんにエスカレーションしてもいいよ。」

振り返るとHさんにかけて頂いたこの言葉があったからこそ3年間やれたと思います。

Hさんは、私の台湾赴任後も度々声をかけて下さり二人でお話する機会を設けて頂きました。ある日、台湾に出張で来られたHさんは、夕方私に電話をしてこられました。お客さんとの会食が終わったらオフィスに行くので話がしたい、という内容でした。そして、20時頃になってひょっこり一人でオフィスに来られて二人で飲みに行きました。Hさんがその時おっしゃっていたのは、台湾の状況について、部長クラスから上がってくる情報と現場の実態との間にギャップがあるような気がしていて、直接すべての状況に通じている私から話しを聞きたかった、という内容でした。私の前任者と代理店間で生じたぎくしゃくは、私が赴任した後も続いていました、ちょうどその時Hさんが気にされていたことは図星だったのです。

私は正直に見たこと、聞いたこと、そして感じていることを話しました。Hさんは、いつものように私の話しを熱心に聞いてくださり、その一言一言にうなずき、理解を示してくださいました。Hさんが帰国されるやいなや、本社の部長クラスが何人か台湾にやってきまして、ヒアリングしたいと言われました。私はHさんにしたのとまったく同じ話しをしました。その後、組織の見直しと、ポストの新設と任命が行われて急速に問題が終息していきました。

Hさんはこの時以外にも、出向社員全員と会食の場を設けて下さり一人一人から話しを聞いたり、激励されたりしました。また、台湾現地法人と代理店の合同の会議に出席され、最前列に座り、数時間の間じっと発表に集中して熱心に質問をされていました。社長として社員との距離感を感じさせないように努力されていたと思うのですが、これは装ってできるものではなく、きっと心の底から従業員を大切に思っていて、事業責任者としての社長の役割を果たすという強い使命感を以て臨まれていたのだと思います。

Hさんは何故、野武士のような2代目社長の後を継ぐことになったのでしょうか。のちの新聞社の取材では、次のように述べておられます。

46歳で社長に就任しました。当時、東証1部上場企業で40代なかばの社長なんていませんでした。僕はそのとき常務だったのですが、発表の数カ月前に「(次の)社長にするから」といわれたんです。僕としてはそういう目で見てくれるのはうれしかったけれど、戸惑いも大きかった。自分が大切にしている先輩が相当いるし、お客さんの幹部も年上の人ばかりです。ほとんど無理、という思いで「ちょっと考えさせてください」といった。その後も2、3回話をしましたが、まだためらっていました。そうするうちに創業者や社長から、大迫力で決断を迫られた。「だらしない」と。自分たちは20代でこの会社をつくり、入社してくれた人たちも自分より年上ばかりだ、それでも優れた人と働かなければと、その一心でやってきたんだ、君にもそれができるはずではないのか、とこういうわけです。「若さは重要なんだ」ともいわれました。この業界は大きく変化していくので、自分たちも変わりながら変化に挑戦できるエネルギーがこの会社には必要なんだ、と説得されました。最終的には、「ぜひやらせてください」と心を決めたんです。(日経電子版より抜粋)

野武士のような2代目社長Iさんが会長に退かれた後、私はIさんと台湾事業の件でランチミーティングをすることがあり、その際、Iさんは次のようにおっしゃっていました。

Iさん「大西君は社長になりたいか?もしそんなことを考えていたら止めた方がいいよ。社長なんてやるもんじゃない。何かを決めたらみんな文句を言う。うまくいったらみんなのおかげ。しかも、失敗したら社長の責任だ。でも、誰かが社長をやらなければならない。そんな仕事は誰でも務まるものじゃないんだ。僕がH君を次の社長に指名したのはね、H君が 〇〇 だからなんだ。」

私には書くことがはばかられましたので 〇〇 にしました。Iさんがおっしゃりたかったのは、小さいことを気にして、くよくよしたりするような人では社長は務まらない、ということをおっしゃりたかったのだと思います。

Hさんとの想い出は他にもたくさんありますが、とても書き切れないので一旦筆を置こうと思います。短い時間でしたがHさんのような素晴らしい経営者の下で仕事をさせて頂いたことは、私の終生の誇りです。

911米国同時多発テロ

2001年の春に約3年間の台湾現地法人での出向勤務を終えて東京の本社に帰任し人事部に配属されました。確か、取締役のどなたからだったか「台湾で役割を果たしたら、帰任する時は好きな仕事をさせてあげるよ」と言われて送り出されたので、帰任が決まった時、営業部門や営業推進の仕事をしたいと申告したのですが、よりによって最もやりたくない人事になってしまいました。人事を避けたかった理由はいろいろあったのですが、一番大きな理由は、

「私には人事のような守りの仕事は向いていない」

と思っていたからで、今でもそう思っています。

当時の私は、よほど人事に戻りたくなかったのでしょう。募集を始めたばかりの大学院(早稲田大学アジア太平洋研究科)に願書と研究計画書を提出しまして、これが「失敗の研究」という旧日本陸軍の失敗を分析した本の共同執筆者の一人で教授の寺本先生という方の目に留まり入学を許可されました。そこで、人事部長に1年間の休職を認めて欲しいと申し出たのですが、進学理由での休職は認められないと却下されてしまいました。そして、管理部門を管掌されていた常務取締役Tさんに台湾から呼び出され差しで飲みまして「つべこべ言わず俺の言うとおりにしろ」と強引に押し切られ、人事に戻ることになってしまいました。台湾での私の仕事を一番認めて下さったのはTさんだったことを知っていましたし、なにせ一度退職した私を再就職させてくれた恩がある会社です。結局は社命に従って人事に戻ることにしました。その夜、Tさんは非常に酔われてご自宅までタクシーでお見送りしたことを覚えています。

帰任した私は海外人事の担当になり、新しく発足する中国現地法人の人事制度を考えたり、上海で採用活動をしたり、日本からの出向者の生活インフラの整備などをしたり、それなりに台湾での経験が活かせているのかな、などと思っていました。しかし、どこか振り切れない物足りなさを感じていました。もっと人がやったことがない新しいことをしてみたいという、焦りにも似た感覚を常に持っていたと思います。

ただ、人事のメンバーとは仕事を離れても楽しい時間を共有しました。部長代理Nさん、課長Sさん、同期のH君はいつも一緒で、仕事が終わると本社がある赤坂の街に繰り出して、毎晩のように飲みながら仕事の話し、遊びのこと等いろんな話をしました。

最初に連れて行ってもらったのがTOT(トット)というショットバーでした。マスターは当時60歳前後だったと思うのですが、その名を聞けば誰でも知っている電機メーカーの社長秘書のご経験者で、そのためビジネスのことに詳しく、また温厚な方だったので私のちっぽけな悩み事にも嫌な顔一つせず耳を傾けてくださいました。最初は人事のメンバーと一緒に行っていたのですがやがて一人で行くようになり、常連の方々とも仲良くなりました。ある方は広告業界の重鎮、有名な「タンスにゴン」というキャッチコピーを考えた人で、よく冗談で笑わせて頂きました。また、演奏会や演劇などの興行会社の社長さんがいて、その方の親友が、私の大先輩で東京フィルのクラリネット奏者だったことからとてもかわいがって頂きました。マスターは明け方にお店を閉めて私と二人だけで朝まで別の店で飲んだりして、本当に楽しい思い出です。

そして、あの2001年9月11日になりました。その日は月曜日で20時頃に仕事が終わりいつものように人事のメンバーで飲みに行こうということになり、どこかで軽く食べてショットバーTOTで飲み始めました。お店は雑居ビルの2階で、店内には当時まだ珍しかった大画面のプロジェクションTVがあり普段はサッカーや野球を映していました。お酒も進んで22時頃だったでしょうか、同期のH君の携帯が鳴りました。奥さんからの電話でした。「貿易センタービルに飛行機が突っ込んで大変なことになってるよ」という内容でした。それを聞いて私たちは、「羽田空港の離陸か着陸に失敗した飛行機が浜松町の貿易センタービルに突っ込んだのかな」などと言いながらマスターにプロジェクションTVでNHKにチャンネルを変えて欲しいとお願いしました。

次の瞬間映し出された映像をみて言葉を失いました。マンハッタンのワールドトレードセンター・ノースタワーから真っ黒な煙がもうもうと立ち上っている光景が映し出され、アナウンサーが旅客機の衝突を繰り返し報じていました。あまりの衝撃的な映像に、これは現実なのか夢なのか、にわかには信じられず、私たちとマスターの目はテレビにくぎ付けとなり言葉を失いました。そして、課長Sさんが一言「これはテロだ」とつぶやきました。彼はテキサス州にあるアメリカの現地法人に2年程出向勤務して前年に帰任していて、アメリカの事情に通じていたのです。しかし、仮にテロだとしても、どうやってこんな大胆なことが出来たのかにわかには信じられなかったので、Sさんを除く私たちは依然事故だと考えていました。そして、じっと画面を見続けていた私たちの目に、今度はサウスタワーに激突する旅客機の映像が飛び込んできました。そして、私たちは確信しました。「これはテロだ」と。

一気に酔いが覚めた私たちはショットバーを出て、急いでオフィスに戻りました。そして、会議室で対応を打ち合わせました。ラジオからはペンタゴンに別の旅客機が激突したこと。行方不明の一機がホワイトハウスに向かっているようだ等々、次々と情報が入ってきました。

テロは継続して企てられているかもしれない。それは米国本土かもしれないし、日本を含む同盟国のどこかかもしれない。とにかく、全社員に対して、当面旅客機での移動を中止させるべき、との結論になりました。部長代理Nさんは人事部長と取締役に本件を報告。課長Sさんは出張者の情報を関係部署から入手してリストアップしました。そして、全員で手分けして、世界中に展開している海外勤務者、出張者にメールを送信し、飛行機の搭乗を控えている社員には直接電話連絡をしてキャンセルを指示しました。確か連絡を取るべき対象者は100名前後いたのではないかと思います。

17階にある私たちのオフィスからは、国会議事堂、アメリカ大使館が眼下に見渡せました。そこに、続々とパトカーが集まり、建物を取り囲み始めました。永田町一帯は、パトカーのテールランプで真っ赤に埋め尽くされていったことを覚えています。

全ての連絡を終えたのは明け方になっていました。夜が明け始めバルコニーで煙草を一服した時、不気味なほど静まり返った東京のひんやりした空気を今でもはっきり覚えています。やがて8時になり社員が続々と出勤してきました。私たちは一睡もしていませんでしたが、何かあれば速やかに対応する必要があるため自席で待機していました。

11時頃になって役員会議室に集められました。そこには、社長以下取締役全員と営業部門、管理部門の部長が集められていました。私たちはオブザーバーとして同席を命じられたのです。そして、テレビ会議が始まりました。私はてっきり米国現地法人と対応を協議すると思ったのですが、接続先はイスラエルでした。

その年に、当時世界最大だった半導体メーカーとの取引が決まり、数台の装置がこのメーカーのイスラエル工場に納入されました。工場はハイファという港町にあり、装置の設置、稼働のために日本から10名程のエンジニアが派遣されていました。その日もいつも通りお客さんの工場で作業をすることになっていました。

イスラエル側の責任者Eさんに対して発した社長Hさんの次の一言でテレビ会議が始まりました。

Hさん「今回のテロの報復としてアメリカはすぐに戦争が始めるだろう。一方、イスラエルは敵対するアラブ諸国から攻撃されることは十分に予想できる。イスラエルの皆さんのことは心配だし出来る事は全てしたいが、その前に、まずは日本から出張させている10名を速やかに帰国させたいので対応をお願いしたい。」

Eさん「それは待って欲しい。お客さんも私達も安全面では万全の態勢で臨んでいる。いま日本人エンジニアを引き上げるということはせっかく獲得したお客さんとの取引を放棄することになる。それでも良いのですか。」

Hさん「我々は従業員の安全を第一に考えている。日本に帰して欲しい。」

Eさん「なんとか作業を継続できる方法が無いか再考願いたい。」

そんなようなやりとりが10分程続いたのではないかと思います。取締役や営業部長の中には、お客さんとの取引継続は重要で、そのためにエンジニアのイスラエル滞在はやむを得ないと考えている人がいたと思います。しかし、誰もそのことを口にしませんでした。普段は穏やかな社長Hさんの声がだんだん大きくなり決心が堅いことが会議室にいた全員に伝わったからです。

社長Hさんは決定的な一言を仰いました。

Hさん「ビジネスは何度でも取り返せる。しかし、従業員に何かあったら命は取り戻せない。これは経営者として絶対にしてはいけない判断だ。」

Eさん「・・・」

Hさん「イスラエルの人は知らないかもしれないが、私達日本人はアメリカという国を良く知っている。太平洋戦争で、日本人は真珠湾の戦艦数隻と軍事施設を攻撃した。一方アメリカは、その報復として日本のほぼすべての都市を焼け野原にし、原子爆弾を2個投下した。真珠湾攻撃の報復が原子爆弾2個だ。そして今回、本当に怒ったアメリカは何をするか分からない。報復は徹底的に、執拗に、何度も繰り返し行われるだろう。もう待ったなしなんだ。今のうちに出張者は帰国させる。選択肢はない。」

そして、Eさんは、しぶしぶ「分かりました。今日中にフライトを手配して、明日日本に帰国させます。」と返事をして会議は終わりました。会議室にいた私たちは黙って、会議室を出ていく社長Hさんの後姿を見送りました。その世界最大の半導体メーカーとの取引は何年もかかって実現した当社の念願でした。この時、社長Hさん判断でそれが流れてしまいました。では、その判断は正しかったのでしょうか。それは、その後の当社の歴史が証明しています。

2001年当時5,000億円ほどだった売上高は1.3兆円(2019年度)に。5,000円ほどだった株価も現在は30,000円水準です。日経平均株価を決定する主要銘柄として、経済人ならばもはや知らない人はいない会社になりました。世界中の半導体メーカーと取引きがあり、その中にはあの時の世界最大の半導体メーカーも含まれています。会社を大きく育てたHさんはその後会長に。最後は社長と会長を兼務。2016年に退任され、昨年、叙勲を受けられました。テレビで久しぶりにお元気そうなお姿を拝見し、Hさんとの懐かしい思い出に浸りました。

次回は、大変尊敬するHさんに初めてお目にかかった時の思い出から書き始めたいと思います。