投稿者「大西 勝也」のアーカイブ

イノベーションを産む仕組みと運用①

前回は、メンバー間の相互作用によるイノベーションのきっかけは「創発」であること。また、創発は、トップの掛け声だけでは生じず、マネジメントの仕組みを講じて、これを適切に運用することによって偶然から必然的に生ずるようにすることが出来るとの考えを述べました。

そして、マネジメントの仕組みを講ずる際には、やるべきことを考える前に、やってはいけないことを押さえておく必要があり、私が経験で得た、創発が生ずるのを阻害する3つの要因について書きました。

創発を阻害する3大要因とは、以下の通りです。

阻害要因①:トップがメンバーに成果を求め過ぎる

阻害要因②:トップとメンバーが同じ絵を見ていない

阻害要因③:トップとメンバー間で経営上の重要情報が共有されていない

今回は、

阻害要因①:トップがメンバーに成果を求め過ぎる

を基にして、トップがメンバーに対して講ずるべき、マネジメントの仕組みと運用について、考えてみたいと思います。

「成果を求め過ぎる」ことの弊害として、メンバーが、過去の延長線上にはない新しいアイデアが出せなくなることを問題提起しました。

例えば、トップが、

「新規事業や、既存商品のシェア拡大策を考えろ。」

などと、メンバーに具体的な答え(成果)を求めると、それが足かせとなってメンバーは自由な発想が出来なくなります。

命ずることが具体的であればあるほど、どうしても本来業務の範疇(既存の評価軸)で発想を強いることになり、心理として失敗を避けるべく、出来ないこと、やれないことに意識が向いてしまうのです。

創発は、一切の制約と懸念が取り払われた環境で、自由にアイデアを出し合うことが必要ですので、トップがメンバーに与えるのは、大きくて、漠然としていて、極力抽象的なテーマが効果的なのです。

とはいえ、トップとしては、

メンバーを完全に自由にさせるということには抵抗があるはずです

そもそも、信じて任せる、ことと、自由放任にすることとは同義語ではありません。あくまで、マネジメントの仕組みに基づいてメンバーに自由に発想させて、創発が生ずるのを促すのです。

そこで、まずは、

各個人が果たすべき役割、やるべきことなのかを明確にして

それ以外の部分は自由にさせるという段取りが必要です。

ところが、多くの日本企業では、トップの人間観、組織観によって、マネジメントの方向性が、自由放任主義か、管理・監視主義かに二極化していることが多く、その中間をなかなか見ることがありません。

それは、トップによるマネジメントの経験が、「成功体験」が勝る場合は、労使強調による自由度の高い方向へ。一方、「失敗体験」が勝る場合は、自主性を認めない強権的な方向へと、二つに分かれていき、ある時点で均衡が生じて、組織文化や企業風土として定着していくと考えられます。

自由放任主義、管理・監視主義のいずれにおいても、イノベーションが必然的に産まれる創発を生じさせるためには、

マネジメントの仕組みとして、メンバーのやるべきことを明確化して、これを約束事としてトップとメンバーの双方が合意している必要があります

そして、やるべきこととして定めない(定められない)部分をあえて設けおき、その部分については、自由度を与えることで、創発が生じ易い環境を整えることが出来ると思います。

次に、メンバーのやるべきことを明確化する方法について考えてみます。

やるべきことの明確化というと、すぐに思いつくのは「職務記述書(ジョブ・ディスクリプション)」です。

日本を除く多くの国では、労使間で締結する労働契約には、必ず職務記述書がセットになっています。労働契約の前提として、果たすべき職務が明確化されていて、その職務の難易度や業績に与えるインパクトの大きさに応じて等級と報酬が決まります。

日本以外の多くの国では、まず職務が存在していて、そこに人を割り当てるという考え方が主流なのです。これが昨今、話題になっている「ジョブ型」制度の基本的な考え方です。

日本では、労働契約は緩やかに、あいまいさを含めた形で締結しておいて、入社後の環境の変化に応じてフレキシブルに職務を変えていくという方法をとります。このため、社内での雇用流動性を確保しておけるので、不況時でも大きなリストラをしなくても良いというメリットがあります。

反面、個人間の職務内容の違いをダイレクトに報酬に反映しにくいため、不公平感が生じやすいというデメリットがあります。

そのため、これまで日本では、従来の、能力本意の、終身雇用、年功序列に基づく人事制度の見直しが行われてきました。苦心の結果、欧米的なジョブ型(職務主義)と日本的な能力型(職能主義)の中間に位置する、「役割」をベースとした等級制度と報酬体系が普及しました。

先輩たちが日本的労働環境に即して苦心して考案した「役割型」を、「ジョブ型」にシフトする、というのが昨今の世の中の流れなのです。

その背景として考えられるのは、法律改正により増えすぎた非正規雇用と、正社員との区別が曖昧となり、両者の違いに合理性を持たせるために同一労働同一賃金の原則を徹底する必要性が生じていることが考えられ、その解決の方向性として、職務基準を明確化して、各職務の実態に応じてダイレクトに処遇することが必要、との考えが勢いを増しているのではないかと想像します。

しかし、理想は良いですが、「ジョブ型」の普及はあくまで机上の話しで、その導入は非常に困難です。

なぜならば、

「人に仕事を割り当てている」

実情を、

「職務を人に割り当てる」

という、正にコペルニクス的な大転換を伴うからで、職場には大きな負担を強いて、各方面に様々な影響をもたらします。

「ジョブ型」の導入手段としては、まず、メンバー全員の職務内容の洗い出しを行うことから始まります。次に明らかにした職務は、一旦、その担い手から切り離され、本来誰が担うべきかが検討され、改めて各個人に割り当てられます。

すると、必ず実態とのギャップが生じます。そして、「そのギャップは誰が埋めるのか」という論争が生じるはずです。理論上生じた人員の過不足は、人事では解決出来ませんので、職場単位での解決が求められるはずです。

結果として、一般社員については、「ジョブ型」で「やるべき仕事」と「やらなくてもよい仕事」が明確化されます。そして、誰が担うべきか曖昧になった職務は、暫定的に管理職以上がカバーするという、いびつな状況に陥ることが予想できます。

または、従来1.5人分、2人分の職務をこなしていたハイパフォーマー一般社員の職務を、敢えて限定することによって、周囲の社員との整合性を図り、且つ処遇変更するという、当人にとってはアンハッピーな措置を講じなければならなくなる可能性もあります。

さらに、実際に職務を個人に割り当ててみないと人件費が試算できないという問題も生じて、明白な混乱が経営の目にも留まる段階になって、やっと「ジョブ型導入断念」が決定するでしょう。

このように、ざっと想像しただけでも「ジョブ型」導入には様々な課題があり、日本の企業には普及が難しいのではないかと思います。

そこで、私たちが今考えるべきなのは、イノベーションが産まれることに寄与する制度、仕組みとしての、「新日本型雇用」を考案するということです。

「新日本型雇用」とは、企業ごとに異なる競争環境、またその影響を受ける社内業務に応じた現実的で、合理的な人事制度のことです。最小単位のタスク(作業)を洗い出して、それらをジョブ(職務)という単位でグルーピングして、最後に、一人一人が果たすべきミッション(役割)に集約する、構造的にやるべき仕事が明確化された人事制度です。

構造化のステップですが、まず、最小単位であるタスクをマニュアルで定義することから始めます。マニュアルとは、本来、誰でも出来るように仕事の方法を共有化するためのものですので、一切の属人性を排除する必要があります。マニュアル化が難しいタスクについては、職務記述書で定義します。

次に、職務記述書は、ジョブを定義するためのものです。構造としては、複数のタスクを束ねることによって定義されます。職務記述書からも属人性を排除する必要があります。

尚、タスクとジョブは、継続的に改善と改良が加えられるべきものですので、マニュアルと職務記述書は常に改定作業が行われる必要があります。担当者は、専任化するのではなく、実際の職務の担い手であるメンバーに委ねるのが良いでしょう。

最後に、各個人のミッション(役割)にジョブを割り当てていきます。ミッション毎に割り当てられたジョブの重要度、難易度の合算でミッション・バリュー(価値)が決まります。そして、バリューのサイズ(重要度・難易度)によって処遇が決定されます。ミッションは各人各様ですので、タスク、ジョブとは異なり、属人的に定めて、フレキシブルに変更が加えられるものになります。

これまでに、多くの日本企業に導入された、「役割型」の人事制度は、多くの場合、役割の根拠となるジョブ、また、最小単位であるタスクが紐づいておらず、非常にざっくりとしたものでした。

多くの場合、実際の役割のサイズ(重要度・難易度)をダイレクトに処遇に反映できないことを承知の上で、便宜的に等級を定めて報酬を決定するためのツールの域を出ませんでした。その曖昧さゆえ、昨今、「ジョブ型」への移行が叫ばれていると思うのですが、しっかりとミッションにジョブを割り当てることさえ出来れば、合理的で公正な人事制度を構築することが出来るはずです。「ジョブ型」ありきではなく、ミッションを明確にして運用する、「役割型」が日本企業にマッチすると思うのです。

尚、マニュアル中心主義の弊害についても記しておこうと思います。

これまで多くの企業が取り組んできたことは、職務記述書が存在しない中でのマニュアル整備でした。その結果、マニュアルでがんじがらめにされた個人からは裁量が奪われ、改善意欲や組織運営への参画意欲を低下させるというマイナス効果を生じさせたと考えます。

日本はマニュアル社会(言われたことしかできない人があふれている)と外国人から揶揄されるのを、私は度々耳にしたのですが、それは、マニュアルが金科玉条の絶対に守るべき仕事ルールとして個人に押し付けられているからで、その前提としてのジョブとミッションが定められていなかったからだと思います。

以上のように、個人のミッションを明確化して、そこでは表現しきれない部分はあえてきっちりと定義せず、個人の裁量の範囲として自由度高くアイデアを発想し、創発し、事業、組織への貢献を促す。そのようなマネジメントの仕組みが定着すると必然的にイノベーションが産まれる環境が醸成されるのではないかと思います。

最後に、もう一言付け加えます。やるべき事の明確化の上位に位置する概念として、

メンバー全員が共有するシンプルな価値基準の制定

が必要です。

かつて私が勤務した企業では、その価値基準が、

「新しいことをする」

という分かりやすいものでした。

上司、先輩から、部下や後輩に、

「新しいことをしたときにプラス評価される」

と教えられました。そんな話を別の企業ですると決まって言われたのが、

「間接部門の経理や人事は新しいことをするのは難しく、営業のように成果がはっきりしている職種に比べて評価が難しいのでは」

という言葉でした。

しかし、私が勤務した会社では、あらゆる職種において、前例を踏襲しているだけではプラス評価は与えられないという不文律がありました。

そして、大多数の社員の気質として、常に新しいことをすることが意識化されていて、事業、組織運営、人事マネジメントに、イノベーションが生じ易い社風が醸成されていたのです。シンプルな価値基準はとてもパワフルだということを強調しておきたいと思います。

今回は、

阻害要因①:トップがメンバーに成果を求め過ぎる

を基にして、トップがメンバーに対して講ずるべき、マネジメントの仕組みと運用について、考えてみました。

次回は、さらに踏み込んで、「新しいことを生み出す」のを奨励しながら、個人を孤立させずに、チームとして創発を生じさせてイノベーションを産み出すマネジメント仕組みについて、

阻害要因②:トップとメンバーが同じ絵を見ていない

を念頭に置きつつ考察したいと思います。

イノベーションの阻害要因とは

前回は、イノベーションを偶然の産物から、必然的な結果に変えるために、その阻害要因を明らかにして、それらを解決する手段を講ずる必要があるとの課題を提起しました。

そして、イノベーションの目的とは、技術革新ではなく、社会や経済を良い方向に変えるためのアイデアが社会実装され、実際に社会が動いていくことだ、とも述べました。

今回はイノベーションの阻害要因について考えてみたいと思います。

イノベーションはどのようにして産まれるのでしょうか。天才的な個人のひらめき、もあるでしょうが、私が明らかにしたいことは、メンバー間に生ずる相互作用によって産まれるイノベーションについてです。

私が考えるメンバー間に生ずる相互作用とは、「創発」です。「創発」が生ずるとイノベーションが産まれる可能性が高まる、そのように考えています。

そこで、「創発」の定義を調べてみました。

創発(そうはつ、英語:emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。(中略)組織をマネジメントする立場からは、組織を構成する個人の間で創発現象を誘発できるよう、環境を整えることが重要とされる。一般的に、個人が単独で存在するのではなく適切にコミュニケーションを行うことによって個々人の能力を組み合わせ、創造的な成果を生み出すことが出来ると考えられている。(Wikipediaより)

ドラッカーはマネジメントの目的を、

「個人の能力の総和以上の成果を上げること」

と述べました。それと前述の「創発」の定義を合わせると、

「人間が集まり、その能力が組み合わさると、単純にその足し算以上の成果が産まれる。」

ということが言えると思います。

つまり、イノベーションが産まれる条件は「創発」であり、「創発」が生ずるようにメンバーを適切にマネジメントする、ということが目指すべき方向性のようです。

この文脈で、イノベーションは起きるものなのか、起こすものなのかという問いを立てると、「マネジメントする」という能動的な取り組みによって「創発」が生ずるので、イノベーションは、「起こすもの」だと言えます。

よって、トップが、「イノベーションを起こせ」と社内に号令をかけても到底「創発」は生じません。「マネジメント」という仕組みが伴って初めて生ずるものだ、ということになると思います。

余談ですが、仕組み(マネジメント)なき変革(イノベーション)がなぜ起きないかを理解する上で参考になるキーワードが、私たちの「意識」です。

ある人が、

「社会や組織の変革は、意識を変えて起きたためしがない。変革には新しい仕組みが伴うものだ。」

と言っているのを聞いたことがあります。

そういえば、私が勤務した会社が、環境変化に適応できず業績不振に陥った時、社員に「意識を変えろ」と声高に叫ぶトップがいました。

しかし、いくら声高に叫んでも社員はぽかんとして一向に目の色を変えない。意識が変わることはなかったのです。従来とは異なる新しい仕組みに伴って、初めて、人間の「意識」が変わり、変革が生ずると思います。

人間の「意識」についてもう少し深堀りします。

以前、NHKスペシャルで「脳」の特集があり、「意識」について興味深い解説がありました。それによると、「意識」とは、外部から入った刺激に対して、既に脳内に蓄えられていた経験や知識等の複数の記憶が結合して生ずる現象、とのことでした。

「よって、人は経験していないこと、知らないことを意識することはできない。」

番組内で科学者が語ったこの一言は、私にとって衝撃的でした。なぜかというと、それまで社内で多く見聞きした、「意識を変えろ」というトップの掛け声が、なぜ社員に響かず、一向に意識の変化が起きなかったのか、やっと理由が分かったからです。

経験していないこと、記憶していないことを人間は意識できない。掛け声だけでは従来の意識は変わらないので変革は起きない。つまり、創発とイノベーションは掛け声だけでは起こり得ず、仕組みを講じ、これを実践することによってしか起こり得ない、と結論を導くことが出来ます。

以上を念頭に置いて、創発が生じイノベーションが産まれる仕組みと実践方法の検討へと駒を進めたいのですが、その前に、今日のテーマである、創発とイノベーションの阻害要因を先に考えてみたいと思います。

人は、「やるべきこと」を考えることは得意ですが、「やるべきではないこと」を考えるは苦手です。あえて逆方向から、「避けるべき阻害要因」を明らかにしたいと思います。

以下、創発とイノベーションを阻害する3大要因(私が経験から得た私見)を述べます。

阻害要因①:トップがメンバーに成果を求め過ぎる

まず思い浮かんだのは、トップがメンバーに、意味あること、価値あることを求め過ぎるということです。そもそも、イノベーションとは、過去の延長線上にはない新しい価値創造です。そして、イノベーションの前提である創発とは、答えがないことに対してメンバーがアイデアを出し合い相互作用を起こすことです。にもかかわらず、トップはとかく、

「新規事業、既存商品のシェア拡大策を考えろ。」

などと具体的な答えを求めてしまいます。すると、足かせをはめられてしまったメンバーには、なかなか創発は生じなくなります。

トップがメンバーに、大きくて、漠然として、極力抽象的なテーマを与えると創発が生じやすくなると思います。

例えば、

「持続可能な社会の実現に自社が果たし得る役割を既存事業の枠に囚われずに考えなさい。」

などとした方が、自由な発想からアイデアが出やすくなり、創発が生じやすくなります。

かつて私が関わった研修では、受講生に、「真っ白なキャンバスに絵を描く」というお題が与えられ、創発が生じ易い場作りがされていました。

さらに、「仕事で使う専門用語を一切使わない」というルールも与えられてディスカッションすることによって、メンバーの間に、既存の枠に囚われない発想が生じていました。

仕事の範疇で発想すると、どうしても出来ない、やれないことに意識が向いてしまうものです。創発を生じるためには、一切の制約を取り払って、自由な発想でアイデアを出し合うことが必要なのです。

余談ですが、これから短期的な成果の追求は、ますますAIに委ねられることになるでしょう。一方、AIには任せられない、人間にしかできないことは、「夢を見ること」ではないかと私は思います。

「夢」とは、常に正しいこととは限りません。むしろ、はたからみて、非合理的なこと、バカなこと、無意味なことにこそ「夢」があるのではないでしょうか。

メンバーの自由な発想を封じて、創発が生じるのを妨げるのは、正しい答えを求め過ぎるトップの言葉ではないかと思います。メンバーの可能性を信じて、委ねれば、創発が生じイノベーションが産まれる場を醸成することが出来るはずです。

阻害要因②:トップとメンバーが同じ絵を見ていない

次に思い浮かんだのが、「ビジョンが共有出来ていない」つまり、トップとメンバーが「同じ絵を見ていない」状態です。

ビジョンが共有できないと、創発の目的と、矢印を向ける対象が曖昧なままなので、いつまで経ってもメンバーがトップと同じ「心境」になってくれません。

トップは、そんな状態を観かねて、メンバーに対して、

「意識を変えろ。」

と命じがちです。しかし、前述の通り、脳の機能制約上、未経験なこと、知らないことについて人間は「意識」することはできません。

そこで、私が考えたのは、未経験のこと、知らないことに創発を生じさせてイノベーションを産むのだ、といった「心境」になっていなければならないということでした。

「心境」とは、「なぜ自分がここにいるのか?」「なぜこのテーマが選ばれたのか?」「なぜ今やる必要があるのか?」という疑問が解かれていて、すっきりと、「いまここ」にいる状態と考えています。

ある研修講師の方が、

「私は研修の本題に入る前、受講生が、研修に向き合う状態(研修受講の心境)になるように工夫しています。それは、「なぜ自分がここにいるのか?」「なぜこのテーマが選ばれたのか?」「なぜ今やる必要があるのか?」という受講生が抱く3つの疑問を、丁寧に解いてあげることなのです。」

とおっしゃっていたことを思い出しました。

メンバーに創発を生じさせて、イノベーションを産むことを阻害する要因は、トップがメンバーとビジョンを共有する、つまり、同じ絵を見る取り組みを怠っていたり、重要視せずに成り行き任せにしていたりして、メンバーをある「心境」に至らせていないことではないかと思います。

良いトップ(リーダー)とは、

「少しでも良い未来を見させてくれると、メンバーに信じさせることができる人」

ではないでしょうか。トップはメンバーに対して、「意識」を変えろ、と丸投げするのではなく、ビジョンを語り、見せてあげることで、ある「心境」を醸成しなければならないのです。

阻害要因③:トップとメンバー間で経営上の重要情報が共有されていない

私は、メンバーに創発を生じさせてイノベーションを産むことの阻害要因として、トップとメンバー間の、「情報の非対称性」があると考えています。

情報の非対称性(じょうほうのひたいしょうせい、英: information asymmetry)は、市場における各取引主体が保有する情報に差があるときの、その不均等な情報構造である。「売り手」と「買い手」の間において、「売り手」のみが専門知識と情報を有し、「買い手」はそれを知らないというように、双方で情報と知識の共有ができていない状態のことを指す。情報の非対称性があるとき、一般に市場の失敗が生じパレート効率的な結果が実現できなくなる。(中略)プリンシパル=エージェント関係において情報の非対称性が存在すると、エージェンシー・スラックと呼ばれるモラル・ハザードが発生する。(Wikipediaより)

ここでいう、プリンシパル=エージェント関係は、プリンシパル(経営者)、エージェント(従業員)の関係に置き換えることが出来ます。また、エージェンシー・スラック(モラル・ハザード)とは、エージェント(従業員)と、プリンシパル(経営者)双方で情報と知識の共有ができていない状態において生じます。

情報の非対称性、つまり、プリンシパル(経営者)が知りえないエージェント(従業員)のみ知り得る情報や専門知識がある(片方の側のみ情報と専門知識を有する)ことから、エージェント(従業員)が、プリンシパル(経営者)利益のために仕事を任されているにもかかわらず、エージェント(従業員)の行動に歪みが生じ効率的な資源配分が妨げられる、経営上のリスクとされる現象です。

つまり、トップとメンバー間に情報の非対称性があると、互いの重要な情報と知識が共有されないことで、一向に「信頼関係」が築かれず、創発が生じるのを妨げると考えられるのです。

その理由は、「信頼関係」とは「心理的安全性」に不可欠な条件であり、「心理的安全性」が担保されないとトップとメンバー、またメンバー同士が腹を割った話ができない。つまり、創発が生じにくいのです。

さらに、トップとメンバー間の「情報の非対称性」が解消されたとしても、創発の結果得られたアイデアを実行に移す権限がメンバーに与えられる必要があります。

メンバーに権限が与えられていないと単なる「アイデア出しゲーム」で終わってしまいます。せっかく創発で得られたアイデアがトップに無視され放置されてしまえばメンバーの「参画意欲」が持続しません。創発とイノベーションにおいては、メンバーの「帰属意識」よりも、継続的な「参画意欲」が重要なのです。

ところで、以前書いたブログで、ドイツの経営体について述べたことがありました。

ドイツでは、「有限会社(GmbH)」は、取締役会、社員総会(組合)、監査役会(設置は任意)で構成されていて、最高意思決定機関は「社員総会(組合)」であり、その権限はすべての事項(年度決算書の確定、利益処分、取締役の選任・解任、経営管理の監査及び監督等)に及び、その決議はすべて社員総会(組合)で行われると、法律で定められています。つまり、組合代表者は、経営責任者であり、日本のような労働者の権利を代弁し会社に対して団体交渉を担う機能とは全く異なるということです。(第8回:知っているようで知らないドイツ人のお話しより)

このドイツの経営システムは、「労使共同経営」と呼ばれるのですが、その存立条件として重要な2大項目は、①経営上の重要情報の従業員との共有 そして、②従業員に経営上の意思決定権が与えられている とのことで参考になります。

以上、創発を阻害する3つの要因について述べました。これらのいずれか一つでも解消されないと創発が生じず、その結果イノベーションが産まれないというのが私の考えです。

ここまで書き終えて、実は、もっとシンプルで重要な阻害要因があることに気づきました。

それは、

「メンバーに元気がなく、活気のない職場」

です。そのような熱量が低い職場では、創発は生じ得ず、イノベーションは産まれないはずです。

メンバーの元気、気力、職場の活力は、企業活動の源です。改めて、このような目に見えない人間のエネルギーが重要視されることを願っています。

今回述べた3つの創発の阻害要因を基にして、次回からは、私たちが講ずるべき仕組みとその運用方法について考察したいと思います。

人事のミッションはイノベーションを起こすこと

7月15日にブログを書き始めて約半年が経過しました。この間、韓国留学の思い出も含めて33回、投稿しました。私の仕事人生を振り返り、その時々で目にしたこと、聞いたこと、そして私がどんな行動をしたのかを一つ一つ思い出し、書き出したことに充実感を覚えました。

ある方から、

「記憶の断片を書き出すと頭の中に空間が出来て創造的な活動に取り組めるようになるよ。」

と教えていただいたことがあるのですが、私も今、そのような感覚を味わっています。そこで、おおよそ記憶の棚卸が終わった現時点から、次はどのような方向に創造的な思考を傾けてブログを書き続けるかを、ブログを勧めてくださったヴィーナスアソシエイションの手塚さんに相談したところ、次のアドバイスをいただきました。

「人事の仕事とは何か。会社、職場でイノベーションが起きるようにすること。偶然ではなく、必然的に起きるようにすることだ。」

手塚さんは続けて、

「企業には永続性が求められる。先が見通せない時代になってもその命題は変わらない。そして、永続を保証するものは、過去の延長線上にはない新しい価値の創造、つまりイノベーションを繰り返して起こすこと。イノベーションは、個人では生み出せない。たいていはメンバーの相互作用によって生みだされる。メンバー間の相互作用を起こすには、互いに自身の考えを自由に述べ合える心理的安全性が満たされた場が必要。そして、心理的安全性と相互尊重は、一人一人に自尊心が備わっていなければならない。だから、自尊心を育む必要があり、ずっとそれに取り組んできたんです。」

とおっしゃいました。そして続けて、

「イノベーションが、偶然の産物ではなく、必然的に生み出されるものとするために、人事が主体となって、人間中心の場づくりに関与するという理想を掲げ、その理想に共感する人々とつながるために、実現にむけた想像力を働かせてみてはどうですか。」

と勧められたのでした。手塚さんは、自らの理念、

「人は、断じて欠点だらけの無力な存在ではない。自分らしく輝いて生きるに値する充分なちからと能力を兼ね備えており、その可能性は想像をはるかに超えて大きい。」

を信じ、その理念の普及に人生をかけて取り組んでこられた本物の人だと第一回目のブログに書きました。その理念の先には、企業永続の条件である、イノベーションの創出があり、その大きな目的の実現のために、個を生き生きと輝かす必要があるとお考えになっているということを、何度もお話しを伺っていたにもかかわらず、お恥ずかしながら今まできちんと理解していなかったことに気づきました。

私の中では、企業永続=イノベーション までは頭では理解していたのですが、イノベーション=個人の自尊心 という公式までは描けていなかったのです。たしかに、暗く澱んで、人間関係も冷たく希薄で、懸念に満たされた居心地の悪い場でイノベーションが起きることを想像することはできません。偶然の産物が全くないとは言えませんが、そんな場を放置して世の中にあふれてしまったらイノベーションが必然的に産まれる状態にすることなどは到底望み得ないでしょう。

やはり、イノベーションは人間の相互作用によって産まれるもの。つまり、人事の仕事の領域なのです。再び手塚さんのお知恵を借りて、私のブログの方向性が定まりました。人事が主体的役割を担い、人と組織にイノベーションを起こす方法について、です。

そこでまずは、教科書的にイノベーションの定義を確認しておきたいと思います。

イノベーション(英: innovation)とは、物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。一般には新しい技術の発明を指すという意味のみに理解されているが、それだけでなく新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する。つまり、それまでのモノ・仕組みなどに対して全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出して社会的に大きな変化を起こすことを指す。(Wikipediaより)

では、なぜイノベーションが、いま、私たちの日本で特に必要とされているのでしょうか。立命館大学アジア太平洋大学学長の出口 治明(でぐち はるあき)さんが、次のように述べておられます。

まず必要なのは、現在の日本で何が起きているのか、何が問題で、何を失いつつあるのかといった「現状把握」をすることです。全ての改革、全ての生存への作戦はそうした現状認識から始まると思います。改めて5つの問題を指摘したいと思います。

1つ目は、製造業から金融・ソフトといった主要産業のシフトに対応できなかったこと。また自動車から宇宙航空、オーディオ・ビジュアルからコンピュータ、スマホへと「産業の高付加価値化」にも失敗したこと。

2つ目は、トヨタやパナソニックなど日本発の多国籍企業が、高度な研究開発部門を国外流出させていること。つまり製造部門を出すだけでなく、中枢の部分を国外に出してしまい、国内には付加価値の低い分野が残っているだけという問題。

3つ目は、英語が通用しないことで多国籍企業のアジア本部のロケーションを、香港やシンガポールに奪われてしまい、なおかつそのことを恥じていないこと。

4つ目は、観光業という低付加価値産業をプラスアルファの経済ではなく、主要産業に位置づけるというミスをしていること。

5つ目は、主要産業のノウハウが、最も効果を発揮する最終消費者向けの完成品産業の分野での勝負に負けて、部品産業や、良くて政府・軍需や企業向け産業に転落していること。

この5つの結果として、日本型空洞化が日本経済を蝕んでいるのだと思います。1997年の人々が「このままでは2020年には世界のGDPの9.6%」というシェアまで落ちてしまう、そうなれば「日本が消える」と真剣に心配していたわけですが、実際の2020年になってみたら「9.6」どころか「5.9」という「地をはうような状況」になっているわけです。

出口さんが指摘されているポイントは、産業界が生み出す付加価値が下がっていて世界との競争に負け続けている、ということです。加えて、低付加価値の分野を殊更に過大評価して本質的な問題の解決(高付加価値分野への挑戦)から目を背けているということではないかと思います。

日本は今、絶望的な状況にある、という非常に厳しい見立てをされていて、私たち一人一人が何をなせるのか、何をなすべきなのかを考えると途方に暮れそうになりますが、諦めてはいけないと思います。過去からの延長線上には未来がないことを踏まえ、一人一人が現状を打破すること。とはいえ悲観的にならずに、明るく、前向きな気持ちでイノベーションに取り組みたいです。

次に、日本のイノベーションの先行研究とそこから得られる知見について整理をしておきたいと思います。

唯一といってもよい世界的に評価された日本発のイノベーション理論に、「知識創造(SECIモデル)」があります。私が多摩大学大学院在学中に修士論文の指導をお願いし大変お世話になった紺野 登 先生は、この理論の考案者である野中 郁次郎 先生の弟子で、お二人は共著も多く出されていて日本のイノベーション研究の先端を走っておられます。そんな紺野 先生が常々、

「イノベーションが産まれるのは、人間が蓄えた知(暗黙知と形式知)を人間の相互作用によって次々と変換して、進化、発展する場をつくること。それは、人間同士の豊かな関係性がベースとなっていて、且つ、触媒的な役割を担うリーダーの存在が不可欠である」

とおっしゃられていました。

そんな良い知恵を授けていただいたにも関わらず、大学院を修了しても尚、私が度々躓いたのは、企業組織に属すると、経営者、社員にかかわらず、人間の個としての属性が制約となって、なかなか理論通りにはいかない。理想と現実のギャップを埋めること、つまり、理論を、組織に、仕組みとして実装することが難しかったからでした。

本当のイノベーションとは、社会や経済を良い方向に変えるためのアイデアが社会に実装され、実際に社会が動いていくことだと思います。今、語られているイノベーションの話題は技術革新に偏りがちで、実装するための制約条件は何か、それをどのようにして解決するのか、についてはこれまで多く語られてこなかったように思います。

つまり、イノベーションを偶然の産物から、必然的な結果に変えるためには、イノベーションが起きる条件を考えるだけでは足りなくて、イノベーションが起きない阻害要因を明らかにして、それらを解決して、組織に実装する手段を講ずる必要がありそうです。

次回からは、数回に分けて、イノベーションを阻害する要因とその対策について、私の経験談を交えて考えてみたいと思います。

新時代の幸福論(回遊魚として生きる③)

私が考える、幸せな人生の条件。人生の座標軸 の内、「①良い人間関係」「②人生の目的」について書きました。

「①良い人間関係」では、コロナ禍以前にすでにあった「希薄な人間関係」が社会の分裂と分断を助長していて、それがコロナ禍で拍車がかかっている。さらに、働き方改革の総仕上げともいえるジョブ型によって加速する可能性がある。これを防ぐのは私たち一人一人が身近な人との親密な関係を築き、それを広げていくことだと思うと述べました。

「②人生の目的」では、暗黙知化している目的(人生の意味、根本原理、真価)を意識化するには、それを写し鏡となって気づかせてくれる人の存在、特に、親や恩師、上司等、師と仰ぐ存在を持つことが重要で、その人たちとの関係性が、自己の本質の発見に至る。さらに、部下や後輩など導く対象を持つことで本質を発揮して磨きをかけることが出来ると述べました。

つまり、「①良い人間関係」と「②人生の目的」は密接に関わり合っているということを言いたかったのです。今回は、「③好きな仕事」について書きますが、その前に前回、問題提起していたことを書きます。

自身の目的の実現に向けて取り組むことを見つけることが、好きな仕事(職業)の選択です。仕事は、「目的」に合致していれば成果も上がりやすいし、楽しいものです。問題は、激しくなる環境変化に伴い、仕事の経験を通じてせっかく身につけたスキルも短期間に陳腐化してしまう可能性がますます高まり、「好きな仕事」を続けることが難しくなっているということです。そこで、仕事は常に見直しを迫られる訳ですが、企業内で雇用が守られていた時代では、その変化に気付くことが少なかったものの、これからは一人一人が労働市場と向き合って、自身の仕事の経験、スキルと、刻々と変化する市場のニーズとの適合性を図っていかなければならないということです。

そこで、考えました。果たして私たちは、ずっと「好きな仕事をし続けること」ができるのだろうかと。

ずいぶん昔に「Only One」という言葉が流行りました。「世界に一つだけの花」という歌がヒットしたことがきっかけで、「自分らしさ」や「個性」を発揮することは良いことだと言われ始めました。しかし、私はこの言葉にどこか違和感を覚えていました。社会というのは、求める人がいて初めて成り立つものです。自分らしさや個性の発揮という言葉は美しい響きを持つけれども、「人に理解されなくてもよい。いつか分かってくれる人が現れるだろう」と、まるで芸術家が発する言葉のように聞こえたからです。芸術家の中には、評価や評判を気にせず、その生涯を常識の創造的破壊に捧げたような人がいます。

モーツァルトは病に侵されて最後は貧困のためにウィーンの共同墓地に埋葬されました。ゴッホは生涯たった1枚の絵しか売れなかったといいます。このように後世に偉大な芸術家と呼ばれるようになった人は確かに「Only One」と呼ばれる存在と言えるでしょう。しかし、私たちは、生活の糧を得るために生業としての仕事をしなければなりません。そして、仕事には必ず相手がいます。仕事を認めてくれる人の存在が必要です。そういった、誰の役に立つか、何が求められているか、という視点からの発想が、好きな仕事をし続けるための条件、前提になるのではないかと思います。

昭和から平成を通じて数多くのヒット歌謡曲を生み出した筒美京平さんがお亡くなりになりました。訃報に続いて筒美さんの業績に関する報道を見ていて、筒美さんが語られた言葉が目に留まりました。

「自分の持っている音楽を表明していく感じでは全然ない」

「自分が満足するのではなく、人を満足させようとしてきた」

筒美さんは、ご自身の真価を発揮する目的を、人の満足に置いていたということが意外でもあり、やっぱり、という感じがしました。好きな仕事をするというよりも、仕事の方から自分が好かれるようにしてきたのではないか。作曲家という職業が、筒美さん抜きでは語ることができなくなった、という意味で、真の「Only One」になられたのだと思いました。

正しいことをするのではなく、自分の真価を発揮して役に立つことをすることが、幸せな人生の座標軸なのだと思います。前回書いたように、真価(人生の目的)は、良い人間関係(良き師)によって気づかされます。そして、後進を育てることによって磨かれていきます。しかしこれだけでは発展しない。役に立つための場が必要です。それが良い人間関係の2つ目、横の人間関係です。横の人間関係とは、言葉を替えると「リーダーシップ発揮」の場のことです。

リーダーシップというと、強いリーダーがグイグイと周囲の人々を引っ張っているイメージがあります。しかし、環境変化が激しく答えがない現代においては、リーダーが唯一の答えを持っているという前提に立ったリーダーシップでは発揮に限界があります。人それぞれが持つ真価(人生の目的)を見出し、気づかせてあげて、それらが存分に発揮するようにして成果が最大化する。そのためにリーダーは、メンバーがお互いに自分と人との違いを認めて、尊重し合う風土を醸成する必要があります。これがダイバーシティ(多様性)の基本的取組みです。

お互いの違いに気づく方法はひとつしかありません。先入観なく、その人の言葉に耳を傾け、ありのままを受け留めること、だけです。この、「受容」と「共感」というカウンセリングのプロセスは、私が仕えた、組織の成果を継続的に高めている優れたリーダーに共通して備わっているスキルです。それを組織内に十分に展開できるかがポイントです。

そんな現代的な理想のリーダーとリーダーシップ像として、アメリカ映画「十二人の怒れる男」が参考になります。

『十二人の怒れる男』(12 Angry Men)は、1957年製作のアメリカ映画。ほとんどの出来事がたった一つの部屋を中心に繰り広げられており、「物語は脚本が面白ければ場所など関係ない」という説を体現する作品として引き合いに出されることも多い。父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまで一室で議論する様子を描く。(Wikipediaより)

法廷に提出された証拠や証言は被告人である黒人の少年に圧倒的に不利なもので、陪審員の大半は少年の有罪を確信していました。全陪審員一致で有罪になると思われたところ、ただ一人、名優ヘンリー・フォンダ演じる、陪審員8番(建築家)だけが、検察の立証に疑念を抱き無罪を主張します。彼は他の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求します。そして、陪審員8番の熱意と、理路整然とした推理によって、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々に変化が生じて、最後に無罪の評決が下るというストーリーです。

主人公の陪審員8番の言動は、他の陪審員の発言と諸事情を考慮しつつ、前提を疑い、しぶとく真実を探求し、誰もが納得する合理的な根拠を用いて、様々な利害の矛盾を超えていくお手本です。有罪、無罪と物事を単純化して割り切るのではなく、反対側から見たらどう見えるだろう。その人の立場だったらどう感じ行動しただろうかと、ニュートラルな立場に身を置くことであらゆる可能性を排除せずに妥当解を導き出す姿は「リーダーシップ」のお手本だと思いました。

私がこれまでに仕えた経営者で、魅力的で尊敬できる方というのは、優れた経営者であると同時に魅力的なリーダーでもありました。一方、いわゆる「ワンマン社長」は、ご自分の考えに固執するあまり、経営判断も常にそこから発想するためワンパターン化し、環境変化に適応するのが徐々に難しくなっていくという特徴がありました。やはり、従業員の意見をよく聴いて、その背後にある心を読み解くことが大切だと思います。

余談ですが、人事担当者の仕事は、経営者の姿勢に直接影響を受けます。かつて、私が尊敬する経営者の下で働いた時の人事部は、経営の意向と従業員の気持ちの、どちらかに偏ることを避けて、両方に配慮した意思決定をしていました。方法としては、誰かが考えを述べたら、今度は反対意見を敢えて発言して、先に出された考えを揺さぶる、欧米で良くやる手法(ディベート)を採用していました。その結果、柔軟な発想が出来たのではないかと思います。

但し、この議論のプロセスは「十二人の怒れる男」のように、非常に時間と根気が要りました。ある時、テーマが何だったかは忘れましたが、ルール運用が現状にそぐわなくなっているので見直しが必要ということになり、どうすべきかを決めなければならなくなりました。人事担当者5名が会議室に集まり、前述の方法で話し合いを始めたのですが、どうしても結論が出ず、一旦会議を中断して定時後に再開して深夜になり、それでも結論が出ないので、「じゃあ、お酒でも飲みながら」ということになって、バーでグラス片手に話しを始めたら、すぐに結論が出たということがありました。

私は、今でもこの方法が理想だと思っています。人事という仕事は、あらゆる可能性を吟味しないと本来意思決定などできないからです。その後勤務した会社では、経営の決定を実現することが求められ過ぎて、従業員の考えや気持ちへの配慮が二の次になったことがありました。そして、せっかく時間をかけて準備した、本来はとても良い試みが、結局従業員に受け入れられず効果が出ませんでした。やはり、制度や運用方法を検討するプロセスには、必ず従業員の考えや気持ちを反映することが必要だと思います。

以上、幸福な人生のための3つの人生の座標軸について書きました。

1.良い人間関係

2.人生の目的

3.好きな仕事

すべてがそろい、その接点である座標を持つことで、激変する環境を乗り越えていく。そんな新時代の幸福論(回遊魚として生きる)を、私自身が実践するとの決意を新たにすると共に、是非、この話を、これから社会に出る若者にしてみたいと思いました。

新時代の幸福論(回遊魚として生きる②)

前回は、3つの人生の座標軸 ①良い人間関係(身近な人との親密な関係) について書きました。私が考える、「親密な関係」とは、「互いに強いつながりを持った関係」のことです。身近な人とのかかわり方を変えることによって、

「他人を他人と思わず、他人と自分とを隔てる境界線を乗り越え、あらゆる人と親密な人間関係を築く」

という人類の叡智(実践知)を発揮して、社会の「分裂」と「分断」の進行を防ぐという考えを述べました。

今回は、二つ目の座標軸 ②人生の目的 について書きたいと思います。

1.「目的」とは何か

ビジネスの現場では、「目的」とともに「目標」「方針」という言葉をよく使います。しかし、それらを正しく使っていない人を見かけます。会社の意志決定の基本であるにも関わらず、それらの意味を正しく理解している人は意外と少ないのではないでしょうか。

私は、「目的」「目標」「方針」を次のように理解して使っています。

目的:    最終的な到達点、永遠の問い、理想の世界、何かをする意味や理由

目標:    目的に至る通過点、ある期間内で達成すべき状態

方針:    目標達成のために採用する手段、方法、選択肢のひとつ

登山に例えるならば、

「目標」とは、「元旦に富士山に登頂し初日の出を拝む」

「方針」とは、「5合目まで車で行って、そこから徒歩で登山を始める」

となります。そして、「目的」とは、理由を説明する言葉。例えば「願い事を叶えるため」などとなるでしょうか。

しかし、登山の目的ならともかく、「人生の目的」は何か、ということになると、たいていの場合、言葉にならない無意識レベルに潜んでいて、はっきりと自覚することは難しいのではないでしょうか。著名な登山家のマロリーは、

「なぜ、あなたはエベレストに登りたかったのか?」

と問われ、

「そこにエベレストがあるから(Because it’s there. )」

と答えたという逸話は有名です。この言葉からマロリーにとって登山とは人生の目的そのものだったと想像できます。

ジョージ・ハーバート・リー・マロリー(George Herbert Leigh Mallory 、1886年6月18日 – 1924年6月8日もしくは9日)は、イギリスの登山家。 1920年代にイギリスが国威発揚をかけた3度のエベレスト遠征隊に参加。1924年6月の第3次遠征において、マロリーはパートナーのアンドリュー・アーヴィンと共に頂上を目指したが、北東稜の上部、頂上付近で行方不明となった。マロリーの最期は、死後75年にわたって謎に包まれていたが、1999年5月1日に国際探索隊によって遺体が発見された。以来、マロリーが世界初の登頂を果たしたか否かは、未だに論議を呼んでいる。 (Wikipediaより)

ニーチェが、

「すべての知識の拡大は、無意識を意識化することから生じる。」

と言ったように、無意識レベルに潜んでいる「目的」を発見、発揮するためには、何らかの方法で意識化する必要がある、ということになると思います。

2.「目的」の発見

ニーチェは次の言葉も残しています。

「君はこれまで、何を本当に愛してきたか、何が君の心をひきつけ君の心を支配し、かつまた有頂天にしたか。これまで崇拝してきたそれらの対象を、順々に心に思い浮かべてみるがよい。それらの対象は…一つの法則、君の根本法則を君の前に明らかにするにちがいない。」

私は、ニーチェが言う、「一つの根本法則」とは、「人生の目的」と同じ意味だと解釈しています。

そして、「人生の目的」を発見するためには、「一つの根本法則」を「意識化」する以外に方法がないと思うのです。

特定の信仰を持つ人にとって「人生の目的」とは、大いなる存在(神、万物の創造主)との対話によって気付きを得るものです。それは、現世で果たすべき役割、という言葉で表されます。

一方、特定の信仰を持たない大多数の日本人にとって、大いなる存在の力を得て自らに課された役割と人生の目的に気づくことは稀かと思われます。その結果、多くの日本人が悩むのは、「人生の目的」がはっきりしない中で、次々に与えられる「目標」の達成に翻弄されることです。「目標が目的化」するというのはこういった状態のことです。その結果、環境や自らの行いに対する納得感と満足感がなかなか高まらない。一度高まっても維持できない。そんな構図が頭に浮かんできます。

ニーチェは、神に頼らず自らの力で生きる意味を見つける、「超人になれ」と言いました。しかし、これはなかなか難しい。私たち普通の人間が、特定の信仰に頼らなくても、また「超人」にならなくても、「一つの根本原因」である「人生の目的」を発見し、意識化するためには、一体どうしたらよいでしょうか。

私は、前回書いた、人生の座標軸 ①良い人間関係(身近な人との親密な関係) がそのカギを握っていると考えています。

良い人間関係(身近な人との親密な関係)において、「人生の目的」を発見する上で重要と考えるのは、縦の人間関係です。縦の関係とは、師(親、恩師、上司等)から自己理解のフィードバックを受けること。また、後進を育てることによって自身の成長の機会とする、ということです。

縦の関係を掘下げてみたいと思います。

「士は己を知る者のために死す」という言葉があります。

中国前漢時代の歴史家、司馬遷(しばせん、紀元前145/135年 – 紀元前87/86年)が執筆した「史記」の中の「刺客列伝」で取り上げた故事です。

男子たる者は、自分の真価をよくわかってくれる人のためには命をなげうっても尽くすものだとの意。中国、晋(しん)の智伯(ちはく)が趙(ちょう)の襄子(じょうし)に滅ぼされたとき、その臣であった予譲は、いったんは山中に逃れたものの、このことばによって復讐(ふくしゅう)を誓い、姓名を変え、顔面を傷つけるなどして別人を装い、襄子をつけねらったが捕らえられ目的を果たせず、襄子の計らいで与えられたその衣を刺し通し、自らも返す剣の刃に伏して命を絶った、と伝える『史記』「刺客伝」などの故事による。(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

ここでのポイントは、自分では気づけなかった「一つの根本原因」つまり「人生の目的」の写し鏡になってくれる人の存在が必要だということです。

この言葉を企業で応用するならば、経営者が、従業員に業務を与える前に、その一人一人の真価を見極め、その真価を発揮できる環境を与える、ということになるでしょう。「真価」とは、いうなれば、その人のコアの部分。つまり「人生の目的」ということになります。

そして、経営者は、従業員一人一人の真価(目的)と、会社の目的(経営(企業)理念)とクロス(融合)する施策を講じます。目的で結ばれた経営者と従業員の関係は強固で、基本的な役割さえ決めておけば、業務(ジョブとタスク)をきっちり定めなくても望ましい行動をしてくれるようになります。これが理念経営と目標管理の理想の姿です。

さらに昨今では、2015年に国連総会で採択された、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals: SDGs〈エスディージーズ〉)が社会の共通言語となり、企業にも具体的な行動が求められるようになりました。SDGsは共通善(誰も否定しない目的)そのものです。経営者が、従業員一人一人の真価(目的)との整合性を図る上で重要な指針となっています。

今回は、人生の座標軸 ②人生の目的 について考えてみました。まとめると、「人生の目的」は、無意識レベルに潜んでいてはっきりしない。無意識を意識化するカギは「良い人間関係(縦の関係)」をもつこと。「縦の関係」をもつことによって自分の真価に気づかせてくれてその発揮によって、「人生の目的」に基づいた生き方ができるということを述べました。

次回は、人生の座標軸 ③好きな仕事 について考えてみたいのですが、先に問題点を整理しておきたいと思います。

自身の目的の実現に向けて取り組むことを見つけることが、好きな仕事(職業)の選択です。仕事は、「目的」に合致していれば成果も上がりやすいし、楽しいものです。

問題は、激しくなる環境変化に伴い、仕事の経験を通じてせっかく身につけたスキルも短期間に陳腐化してしまう可能性がますます高まり、「好きな仕事」を続けることが難しくなっているということです。そこで、仕事は常に見直しを迫られる訳ですが、企業内で雇用が守られていた時代では、その変化に気付くことが少なかったものの、これからは一人一人が労働市場と向き合って、自身の仕事の経験、スキルと、刻々と変化する市場のニーズとの適合性を図っていかなければならないということです。その際、常に立ち戻る原点として、私たち一人一人に備わっている真価(人生の目的)があるということです。

次回は、私たちが環境変化の荒波にもまれながらも、好きな仕事をしていく方法を考えてみたいと思います。

新時代の幸福論(回遊魚として生きる①)

私の理想は「回遊魚」のような生き方をすることです。「回遊魚」とは、成長段階や環境の変化に応じて、生息場所を移動する海や川に生息する魚のことですが、人間社会に当てはめれば、特定の地域、組織に縛られず、自由に生きることを優先して、その時々のご縁を頂いて仕事場を変え続けるということになるでしょう。

最近、尊敬するメンターSさんの紹介で、私の経験を、

「さすらいの人事マンとして働いてきた見聞録」

というタイトルでお話しする機会を頂きました。資料を作成をする過程で、「回遊魚」として生きたい私が、これからも良い回遊をし続けるためには、3つの「座標軸」をしっかりグリップしておく必要があることに気づきました。そして、この3つの「座標軸」をもれなく持つと、それらが交わる「座標」を獲得し、「座標」があると、「いま、ここ」への納得感、安定感が高まって、自ずと「回遊」を始めて、自分と他者とを隔てる「境界」を乗り越えていく。。そんなイメージが頭に浮かんできました。

私が考える「3つの座標軸」とは、

①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事

です。この内のどれかが欠けても「良い回遊」は出来ません。どれかが欠けた「座標」をもたない状態で「回遊」を始めてしまうと、「死滅回遊」してしまいます。

回遊性を持たない動物が、海流や気流に乗って本来の分布域ではない地方までやって来ることがある。これらは回遊性がないゆえに本来の分布域へ戻る力を持たず、生息の条件が悪くなった場合は死滅するので、死滅回遊(しめつかいゆう)と呼ばれる。(Wikipediaより)

社会を見渡すと、「死滅回遊」してしまった人がいることに気づかないでしょうか。おそらく前述の「座標軸」の内、どれかが欠けた状態で「回遊」を始めてしまった人なのではないかと思います。

ちなみに、私にとって理想の「座標」を言葉にしてみると、

「すべての人が、身近な人との親密な関係を築き、各々が持つ才能と能力を、人の為、仲間の為、家族の為、社会の為、地球の為に存分に発揮して、イキイキ、ワクワクした人生を手に入れることに関わること。」

となります。こんなことを言うと、

「何を青臭いことを言っているんだ。」

「仕事なんて給料をもらうためにやっているんだ。」

「生きていくためには好きなこと、やりがいなんて言っていられない。」

など、私をたしなめる(注意する)声が聞こえてきそうです。

しかし、考えてみてください。コロナウィルス感染拡大によって、私たちには「最も大切なこと」が問われていますよね。「最も大切なこと」とは、言葉を変えれば、

「一人一人にとっての幸福とは何か?」

ということでしょう。

私の考える「幸福」の条件とは、①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事 という3つの「座標軸」を持つこと。そして、それらの接点である「座標」を獲得して、「回遊」することによって自由を得ること、という考えを持っています。

一方、これまでの一般的な日本の働く人の生活環境は、仕事の場とそれ以外のふたつに単純化されていて、それは、会社員が過ごす時間と場所に如実に表されています。

長時間勤務で仕事をしている時間が圧倒的に長く、人間関係も会社中心。家には寝るためだけに帰るという人は相変わらず多いのではないでしょうか。そして、仕事以外の時間は、家でくつろいでいるか、趣味で気分を紛らわせる程度です。そこからは個人の生きがい(人生の目的)を見い出すことが難しい。それが、日本を支えてきた圧倒的多数の働く人の人生だったのではないでしょうか。

大多数の働く人が、そんな矛盾を抱えて、当然、誰でも抱くような疑問を封印することが出来たのはなぜでしょうか。それは、終身雇用と年功序列によって、将来起きることをある程度予想出来る、人生の目途が立ったからです。よって、自由度が低く、多少抑圧的であっても、個人にとって合理的な生き方だったため、企業による社員の囲い込みがうまくいって経済成長に寄与し、結果的に社会全体の生活水準向上という好循環も生じさせました。しかし、平成の30年間が終わり、令和になって、それは過去の出来事になりました。

いま、私たちには、組織に属して社会の一構成要素として受け身で生きるのではなく、人間の本来の姿(一人一人の幸福の追求)に立った生き方が求められていると思います。

私が考える人間本来の姿とは、

「身近な人との親密な関係を基盤にして、人生の目的を意識しながら、好きな仕事をしている状態」

です。それが、私たちの基本的な欲求であり、原点だと思います。

そこで、今回から3回に分けて、私の考える「幸福」の条件である3つの「座標軸」、

①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事

について、考えてみたいと思います。

今回は ①良い人間関係 についてです。

繰り返しになりますが、今、世界中がコロナウィルスに翻弄されています。

ソーシャルディスタンスによって物理的距離感だけではなく、人と人との間の精神的な隔たりも生じています。個人の行動が制限され、経済活動も抑制され、雇用が不安定となり、所得格差がますます広がる中で、私たちの社会が「分裂」や「分断」の危機に直面していることを私は強く感じています。

但し、忘れてはならないのは、コロナ禍以前にも、日本の多くの職場では、「人間関係の希薄化」という名のソーシャルディスタンスが蔓延していました。さらに、頻繁に見聞きするようになった、「生きづらさ」という言葉。それがコロナ禍により、一層深刻化したということです。つまり、すべての原因をコロナ禍に求めるというのは誤った解釈だと思います。

コロナ渦以前に既にあった、「職場の人間関係の希薄化」の原因は何なのでしょうか。諸説あると思いますが、私は、急速に進んだ「雇用形態の多様化」、つまり、「非正規雇用社員の増加」が決定的だったと考えています。

現在、正社員、非正規雇用社員(契約社員、派遣社員、パート(アルバイト))など、様々な形態で雇用される人が同じ職場で協同しています。もはや、一人一人の「働く目的」を一致することは難しくなりました。

正社員と、非正規雇用社員との間に生じた所得格差は拡大して、ランチや、職場メンバーによる会食を一緒に楽しむこともできなくなっています。

そんな一体感を感じにくくなった職場で、もし急を要する問題が生じた場合どうなるでしょうか。恐らく、多くの場合、

「問題を放置する」

もしくは、

「当事者の意見を聞かず、解決策を一方的に決めて強引に押し付ける」

のではないでしょうか。その結果、問題解決は空振りに終わるか、逆に不信感を増長することにもなりかねません。

「雇用形態多様化」により「非正規雇用社員」を増やしたことは、経営の視点では人件費コントロールに一定の成果があったかもしれません。しかし、物事には必ずリアクションを伴います。その結果としての「人間関係の希薄化」と、それに付随してい生じた問題に対しては、まだまだ有効な対策が満足に講ぜられていないように見えます。

「雇用形態多様化」がもたらした問題とは一体何なのでしょうか。

いくら働いても生活保護水準、もしくはそれを下回る程度の賃金しか得られない「ワーキングプア―」。雇止めへの不安から、結婚できない、子供が作れないという人々が増え、人口減少が止まらない社会。そして、職場内の人間関係の希薄化によるメンタル不全やハラスメントの問題、等々。

これらの現象が日本社会の不安材料だということは誰でも知っているはずです。しかし、ほとんどの人は自分事として捉えていないように見えます。

まず、非正規雇用社員の人は、他の非正規雇用社員が抱えている問題に関与する余裕がなく自分のことで精一杯でしょう。また、雇用を保証された正社員からすると、いつ仕事を失うかもしれないという不安の実感がわかず共感できない、という感じでしょうか。

しかし、これまで目の前の問題に対して積極的に対応してこなかった人々にも大きな変化の波が訪れています。

昨今のリモートワーク導入を契機として、大企業を中心に高度経済成長以降、日本企業で一般化していた「メンバーシップ型」と呼ばれる人事制度を刷新し、「ジョブ型」に改めようとする動きが活発化しています。

「ジョブ型」とは、各自がやるべき仕事と、期待される成果を明確化して、出来ている人(こと)、出来ていない人(こと)をはっきり区別することを意味していて、「働き方改革の総仕上げ」とも言える雇用(人事)の大変革なのです。

私見ですが、その実態は、正社員を峻別したい経営者と、雇用流動性を高めて産業間にあるマンパワーの過不足を調整したい政治の思惑があるように思います。

「ジョブ型」が普及した職場では、やるべき仕事がはっきりする反面、契約で決められたこと以外はしなくても良いという理由が労働者に与えられます。例えば、目の前で困っている人がいても手を貸しても貸さなくても評価は変わらない。逆に、自分が困っていても周囲に助けを求めることを躊躇するようになります。結果として、自己責任が自己増殖して、益々職場の人間関係が希薄化するという悪魔のサイクルに陥る可能性があります。

ただでさえ問題視されている「人間関係の希薄化」がさらに進むとどうなるでしょうか。個人はますます孤立化し、社会の「分裂」と「分断」が一層深刻な事態になります。失業者と生活困窮者が増え、自死を選ぶ人が増えます。犯罪が増えて治安が急速に悪化する可能性もあります。すでにその兆候は表れているのではないでしょうか。

日本社会がこのような最悪な状況に至る道を歩まないようにするためには、私たち一人一人の積極的関与が必要だと思います。それが、今回のテーマである一つ目の座標軸、「良い人間関係を築く」ということなのです。言葉を換えれば、「身近な人との親密な関係を築く」ということです。私が考える、「親密な関係」とは、「互いに強いつながりを持った関係」のことです。

人間は、かつて大きな環境変化に何度も直面しながら、その都度適応して新しい生き方を編み出してきた「叡智」を備えた存在のはずです。

私が考える、人間が持つ「叡智」とは、

「他人を他人と思わず、他人と自分とを隔てる境界線を乗り越え、あらゆる人と親密な人間関係を築く」

という実践知のことです。

前述したように、雇用形態の多様化によって、既に職場には、自分とは「立場が異なる」大勢の人たちがいます。その、かつてはマイノリティー(少数派)だったはずの非正規雇用社員は、もはや全就労人口の30%を超えてマジョリティー(多数派)化しています。まずは、その人たちとの向き合い方をどう変えるか、なのです。

「自分は正社員で雇用が守られているから非正規社員のことは関係ない」

「自分の雇用は守られているから当面は安全だ」

などと、他人事で済ませていてはいけないということです。

これは職場に限ったことではありません。私たちは、身近な人々が必要としていること、困っていること、助けて欲しいと思っていることの理解に努めて、何らかの関わりを持とうとしているでしょうか。他人だから関係ないからといって無視してはいないでしょうか。あらゆる人間の集まりにおいて同様のことが言えると思います。

私は、政府主導で進めてきた「働き方改革」は、結局、私たち一人一人に本当の幸福感を与えていないし、むしろ「生きづらさ」の原因にさえなったのではないかと考えています。ただし、今となっては悪者探しをしていても埒があきません。政府に言いたいことはぐっとこらえて、私たち一人一人が、今おかれた環境で、身近で起きる問題を自分事として捉え、その解決に向けて主体的に関わることが出来るかが、未来を決定する分水嶺です。いま、ここから「身近な人とのかかわり方を変える」ことが重要なのです。

ネット上の情報や報道を観ると、「分裂」と「分断」に逆らうように、次々と社会にイノベーションを起こしているフロントランナー(先駆者)たちがいることを知り大変心強いです。彼ら、彼女たちは、地域社会において、「身近な人との親密な結びつき」を大切にしながら、強い意志をもって、その範囲を拡大していくという共通点があります。そして、どんなにその活動の範囲が広がっていっても、その活動の起点である、「身近な人との親密な関係」を大切に温存しているという特徴があります。そこから、私たちが目指すべき指針が得られるのではないかと思います。

最後に、私が取り組みたいことを書きます。

「ひとつでも多くの組織に、身近な人々同士の親密な人間関係を育み、それをベースにした、会社、社会全体への良い人のつながりを広げていくこと。」

次回は、人生の座標軸 ②人生の目的 について書きたいと思います。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑧)

韓国留学の想い出話は今回が最終回です。

これまで8回に渡って当時の記憶を呼び出し、文字起こしを続けてきました。すっかり忘れていたことをひとつ思い出して書いてみると、芋づる式にいろんな情景が浮かんできて、人間の記憶力というのはすごいものだと改めて気付かされました。

おぼろげだった韓国の記憶を文字にすることで得られた最も大きな気づきは、

「身近な人との親密な関係の大切さ」

を、二十歳そこそこだった私は、韓国の皆さんから教えてもらったんだな、ということでした。私にとって後にも先にもない超濃密な1年間に、たくさんのかけがえのない経験をさせてくれた皆さんに、今は感謝の気持ちでいっぱいです。

一方、韓国の皆さんに対する感謝の気持ちと裏腹に、昔も今も変わらない日本の課題を再認識することになりました。

私が韓国に留学することになったきっかけは、横浜の実家の隣にあった新聞販売店に住み込みで配達員をしながら日本語の勉強をしていた二人の韓国人留学生との出会いだったと「韓国留学①」で詳しく書きましたが、私と会うまで、彼らには日本人の友達が一人もいなかった、という事実はとても重いものでした。

留学の目的は、学校で勉強するだけではなく、人々との交流を通じて様々な文物に触れ、学び、その国を包括的に理解することだと思います。そのような意味で、日本の社会は留学生に、私が韓国で経験させてもらったような「身近な人との親密な関係」を提供出来ていたかというとそうとも言えず、今でもその状況はあまり変わっていないのかも知れません。ちなみに1990年に4万人ほどだった留学生の数は2019年には30万人を超えました。数は増えていますが、留学生の心理的満足度はどうなのか気になるところです。

ところで、私達の生活に意識を向けると、ネットが人類の認知力を上回る速度で発達し、普通に暮らす上で特に必要性を感じない情報の洪水の中で、私たちの間になんともいいようのない生きづらさが蔓延したようです。

またAIの普及により、我々のうかがい知らないところで、個人情報が抜き取られ解析されてメニューが作られます。そして、本来自由で多様であるはずの生き方さえ、誰かが決めたメニューの消化を、自発的、非自発的に従うよう操られています。
仕上げは、DX(デジタルトランスフォーメーション)といって、従来、生身の人間が果たしてきた仕事を、生産性というもっともらしい言葉によって、デジタル空間に移管されていきます。その結果、働くことによって得られる人間の根元的な幸せまでもが奪われつつあるように感じています。

このような時代だからこそ我々は、

「誰にも奪われない守り通すべきことを決める」

必要があると思うのです。

そして、この「守り通すべきこと」とは、私が韓国から学んだ、

「身近な人との親密な関係」

だということに気づいたのです。

但し「過去を忘れたい日本人」と「過去を忘れがたい韓国人」が親密な関係を築き保つことは並大抵のことではありません。これまで、たくさんの先輩方が努力を続けましたが、時々の政治や社会の空気に阻まれ失敗を繰り返しました。それでも諦めずに問題に向き合い続けて来れたのは、困難を乗り越えて結ばれた絆は揺るがないという信念があったからではないかと思います。さらに、困難を乗り越える知恵は、日韓関係のみならず、世界の分裂と分断を防ぐことにも生きるということを知っていたからではないかと思います。混とんとした先の見えない今だからこそ、日本人として韓国から目を背けず向き合い続ける必要があると思うのです。

さて、最後に、留学生活最後の3ヶ月間の出来事について書いて締め括りたいと思います。

1991年の12月になり、どんどん気温が下がって氷点下になり、シンリム(新林)洞のチョンさん家からの通学がいよいよきつくなってきました。留学に残された時間を出来るだけ有意義に過ごしたいと考えた私は、年末でチョンさんの自宅を出て再びシンチョン(新村)の下宿に移ることにしました。留学当初、韓国語が出来なかった私は先輩に助けもらって下宿を探しましたが、それから8ヶ月ほど経ち、一人で探すことが出来るようになっていました。

シンチョン(新村)には、門塀にハスク(下宿)と表示されたレンガ造り戸建の家がたくさんありました。最初の下宿の位置から、もっと延世大学に近い付近を中心に、ハスク(下宿)と表示された家を一軒ずつ訪ね、部屋を見せてもらい、下宿費を確認して回りました。下宿費は、食事+洗濯+掃除込みで、トㇰパン(独房)と呼ばれる一人部屋が最も高く1ヶ月25万ウォン程したと思います。パンヂハ(半地下)になると値段が下がり、さらに、洗濯以外のサービスを外すと一ヵ月20万ウォンを下回るくらいの金額になりました。私は、パンヂハ(半地下)のトㇰパン(独房)、食事、掃除無しの条件で入居しました。

私が入居したとき、隣の部屋には既に女子学生姉妹が住んでいました。上はイファヨジャデ(梨花女子大)の3年生。下はソガンデ(西江大)の1年生でした。入居してすぐに歓迎会があり、私と女子学生姉妹が住むパンヂハ(半地下)から、上層階に住む下宿生全員と交流する機会があり、一緒にお酒を飲んで語り合いました。男子学生は全員、軍務に就く前で、女子学生も含めて全員私よりも年下でした。よって、彼ら、彼女たちは私を「ヒョン(男⇒男)」「オッパ(女⇒男)」と呼びました。特にパンヂハ(半地下)で隣の女子学生姉妹はしょっちゅう私の部屋のドアをノックして、「オッパ(お兄ちゃん)、スルマシロカジャ(お酒のみに行こう)」とか、「オッパ(お兄ちゃん)ヨンファポロカジャ(映画観に行こう)」等と誘われました。シンチョン(新村)ロータリー(交差点)には、当時、映画館や市場、デパートが集まっていて、また夜になるとポジャンマチャ(幌馬車)と呼ばれる屋台の飲み屋が出てました。映画を観て、ポジャンマチャ(幌馬車)でマッコルリや焼酎を飲みました。

年が明けて1992年は異常低温の冬でした。気温は氷点下18度まで下がりハンガン(漢江)は完全に凍りました。

そんなある日、ポジャンマチャ(幌馬車)で一人マッコルリを飲んでいて、すっかり酔いが回り気持ちが良くなってきて店を出て、すぐ裏のハニル(韓一)銀行の入り口にあった、数段の大理石の階段にしゃがみこみじっとしていたら、さらに気持ち良くなり意識が遠のきました。今考えてみると、氷点下20度近い環境で眠れば誰でも凍死してしまいます。凍死する前は眠くなって気持ちよくなると映画「八甲田山」で知りましたが、本当にその通りでした。

しばらくして、二人の若いお巡りさんが近寄ってきて、

「お兄さん、こんなところで寝ると死んでしまうよ。家はどこですか?」

と声をかけて起こしてくれました。二人は私の両腕を抱きかかえて持ち上げ立たせてくれました。意識もうろうとしていたので、どうやって二人に行先を説明したのか記憶がないのですが、自分の下宿ではなく、Aさんの下宿に連れて行ってもらいました。その後のことはよく覚えていないのですが、朝起きたらAさんの部屋にいました。二人の若いお巡りさんは私の命の恩人なのです。

また、誰から言われたか忘れましたが、「シンチョン(新村)に若い日本人の女性が住んでいて、毎朝、極寒の中を新聞配達している。非常にみすぼらしい服装で、ひょっとすると困っていることがあるかもしれない。同じ日本人として一度会って欲しい」と、その女性を紹介されたことがありました。

カフェで待ち合わせをして現れたのは、目がぱっちりした小柄の可愛い女性でした。しかし、彼女が身に付けていたのは、だぶだぶのズボンと薄汚れたジャンパー。その容姿のアンバランスさにびっくりしたことを覚えています。彼女は韓国に来て半年。ある宗教法人が発刊する新聞の販売店で住み込みで働き、毎朝夕配達の仕事をしながら韓国語を勉強していました。そして彼女はその宗教の信徒でした。「朝は寒いし配達はとても大変でしょう」と私が質問すると、「教祖様の教えがあるので傍からどんなに大変だと思われても苦しいとか辛いとか思ったことはありません」とのことでした。私も韓国留学する前に新聞配達のバイトをしたので、その大変さは理解しているつもりでしたが、彼女の場合は極寒で、しかも自転車での配達なので私の経験など全く比較にならない条件でした。

「困ったことがあればいつでも連絡してください」

と下宿の電話番号を渡しましたが、結局、電話がかかってくることはありませんでした。

他にも本当に多くの皆さんとの出会い、交流がありました。

Kさんに紹介してもらったソウル市立舞踏団のトップダンサーの男性。セジョン(世宗)文化会館に公演を観に行き、その後一緒に食事をしたことが想い出されます。当時、セジョン(世宗)文化会館の裏手には小さい平屋の木造家屋が並んでいて、その中に彼は住んでいました。ものすごくカッコよい人でしたが、ちょっとびっくりすることがあって。。。

KBS(韓国放送公社)の職員で台湾駐在時に台湾人アナウンサーの女性と国際結婚して、ヨイド(汝矣島)にあった、当時はまだピカピカだった現代アパート(日本のマンションに相当)に住んでいたご夫婦。お二人を訪ねて食事をご馳走になりました。台湾人の奥さんがものすごい美人でびっくりしたのと、二人はよく喧嘩をするのだが、その原因は常に韓国と台湾のカルチャーの違いだという面白い話を聞かせてもらいました。その時は、私が台湾人と結婚するなど夢にも思いませんでした。

チョンノ(鐘路)にあった有名な映画館、ピカデリー劇場の向かいの雑居ビルの中で、パンソリ、コムンゴ、カヤグムといった韓国伝統音楽を女性たちに教えている人間国宝のおじいさんがいらっしゃいました。練習を見学させてもらったのですが、ものすごい音圧に圧倒されました。また、女性たちが一生懸命、伝統音楽を練習する姿に感銘を受けました。

国立中央博物館の主席研究員で韓国民謡研究家のイ・ソラ先生。先生は朝鮮半島全土に口伝で伝わるアリラン研究の第一人者として有名な方でした。アリランの中のアリランは、「ミリャン(密陽)アリラン」だと。

아리아리랑 스리스리랑 아라리가 났네
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ

と唄われました。とても笑顔が素敵で、研究に生涯を捧げるために結婚はとうの昔に放棄したのよ、と笑っておられたその時の声が今でも聞こえてきそうです。

そして、ユン・ソㇰフンさん。ウエスティンチョスンホテルにオフィスがあった、トラベルジャーナルという旅行雑誌の記者でした。ユンさんとの交流はその後ずっと続き、私が帰国後、今度は彼が日本語を勉強しに日本に留学することになり、私の実家に2年間ホームステイをしました。日本で知り合った女性が韓国帰国後にパティシエになり、二人は結婚しました。お嬢さん(アイドルグループのリーダーとして活躍)と息子さんに囲まれて幸せに暮らしています。4年前、偶然連絡が取れたユンさんと、シンチョン(新村)のトㇰスリタバン(今はトㇰスリカフェ)で20年ぶりに再会した時は、二人で抱き合って泣きました。私にとってただ一人のヒョン(兄貴)です。

他にも私の記憶の中には韓国で出会ったたくさんの皆さんの笑顔と声があります。それらはきっと私が人生の最後を迎える瞬間に鮮やかによみがえることでしょう。その時、私はきっと、そのお一人お一人に向けて「ありがとう」と感謝の言葉を贈ると思います。韓国と出会ったことで、人生の深遠さや友情や愛やいろいろなことを学び私の人生は何倍も面白くなりました。これからもずっと、チャルプタカムニダ(よろしくお願いします)❗

終わり

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑦)

シンチョン(新村)の下宿から、友人のコ・ミョンチョルさんに紹介してもらったチョンさんの家に引っ越すことになりました。日本からソウルに到着した時と同じくスーツケースひとつを転がして、地下鉄シンチョン(新村)駅で地下鉄2号線に乗りハンガン(漢江)を渡ってシンリム(新林)駅へ30分。そこで、市内バスに乗り換えてナンゴク市場迄20分。バスを降りて徒歩10分。やっと目的地のチョンさんの家に着きました。

チョンさん家族は、奥さんと赤ちゃん(イニョンという女の子)の3人家族でした。建物は3階建ての構造で1階と3階は別の家族が住んでおり、2階部分の50平米程のスペースがチョンさんの家でした。チョンさんはがっちりした体格の人で、奥さんは切れ長の目の典型的な韓国美人でした。玄関を入って右が居間で、その奥が夫妻の寝室。私は、玄関の正面奥の4畳半ほどの部屋をあてがわれました。お風呂はトイレと一体化したユニットタイプで、韓国ではどこの家庭でもそうですが、浴室に大きなたらいがあり、そこに水をためておいて、その水を用を足した便器に注いで流すのです。また、下水浄水場の機能上の制約だと思いますが、おしりを拭いたトイレットペーパーはトイレに流すことは出来ず、トイレ横の小さなバケツに畳んで積み上げていきました。シンチョン(新村)の下宿でも同じでしたが慣れるまでは抵抗がありました。

チョンさん宅でホームステイが始まってすぐに気づいたのが、専業主婦の奥さんは愚痴ひとつ言わず、しっかりと子育てと家事をこなしている人だということでした。赤ちゃんが夜泣きをして睡眠不足でも、必ず5時半に起きてチョンさんと私のために朝食をつくってくれました。授業が休みの時、終日家にいたことがあったのですが、朝食を終えてチョンさんを送り出すと、休む間もなく赤ちゃんをおんぶしてあやしながら炊事、洗濯、部屋の掃除と手際よくこなしていきました。たまには友達とお茶でもしないのかなと不思議に思うくらい主婦業に徹していた人だったと思います。

ある時、奥さんに付き添って近所のナンゴク市場へ肉、魚、野菜、米の買い出しに行きました。スーパーマーケットがない地域だったので付近の主婦たちはこの市場で買い物をしていました。主婦たちは競うように商品を手に取り、店主と値引き交渉をしていました。スーパーでなら欲しいものを買い物かごへ入れるだけのことなのに、ひとつの商品に対して何分もかけて買い物をしていたのです。主婦たちにとって、買い物は決して楽しいものではなく、ある意味「戦い」のようなものだったのだと思いました。

引越しの結果、通学は大変になりました。毎朝6時半のバスに乗り、渋滞する車に阻まれながらシンリム(新林)駅まで30分程かかることもありました。信号システムの問題なのか、主要幹線道路である南部循環道路に出る交差点のところで大渋滞になるのです。そして、地下鉄に乗り換えると車内は東京の朝の通勤時間帯並みの大混雑状態でした。すし詰めの車内を押し合いへし合いしながらやっとホンデアプ(弘大前)駅に到着。地上に出て深呼吸すると空気が新鮮でした。夏から秋、秋から冬への気温の変化が激しいソウルでは、地下鉄の駅から地上に出た時の空気の違いを日々感じることが出来ました。そして、延世大学のキャンパスに向かって歩いて行く途中にあるモギョクタン(沐浴湯=銭湯)に寄りました。

朝7時半頃に入ると既におじさんたちが朝風呂を楽しんでいました。脱衣エリアには売店があり飲み物や食べ物が売られており、テレビではニュースが映されていて、その前ではひとっ風呂浴びたおじさんたちが自由な姿勢でくつろいでいました。浴室には、熱い湯、ぬる湯、水風呂の3つの浴槽があり、大きなサウナがありました。サウナは高温室とスチーム室に分かれていて、どちらにも床には砂利が敷き詰められていていました。ここ入ると必ずと言ってよい程、誰かと会話をしました。その会話が結構、韓国語の勉強になりました。

そして、たまにテミリ(垢すり)をテミリアジョシ(垢すりおじさん)にお願いしました。競技用のスイミングウェアのようなパンツをはいた筋肉質のアジョシ(おじさん)が、すごい力で体中の垢をこすりだして、あっという間に洗い流してくれます。そして、サウナで汗をしぼり出して水風呂に入り、売店で牛乳を買い一気飲みして外に出ると、身も心も軽くなって本当に気持ちが良かったです。そうやって9時前に教室に到着するという生活を、学期の間の休みをはさんで6ヶ月続けました。

ホームステイ開始当初、チョンさんは夕食を家でとり、食後、私が日本語を教えていたのですが、徐々にお酒を飲んで深夜に帰宅することが多くなり日本語を教えることも少なくなっていきました。奥さんには、私のためだけに夕食を用意してもらうことが申し訳なくなってきたので、授業が終わると大学の図書館で勉強して、バスでセジョンノ(世宗路)に移動し、ソウル新聞社ビルの上層階にあった日本人会に寄って食事をすることが増えました。

日本人会には日本語が上手な親切なアジュマ(おばさん)がいて、ドリップコーヒー(ホット・アイス)とカレーライスの食券(10枚つづり)を売っていて、それでカレーライスを食べて帰宅しました。当時、ソウルでもカレーライスを食べることは出来ましたが、妙に黄色くて、ルーも粉っぽくてあまりおいしくなかったので、アジュマ(おばさん)が作ってくれた日本のカレールーで作った完璧に日本味のカレーは本当においしかったのです。日本人会の大きなフロアにあるテレビにはNHK BS放送が常時映されていて大相撲中継をいろんな会社の日本人駐在員と一緒に観ました。

深夜に帰宅するチョンさんは、突然友人を連れて帰ってくることがありました。それでも奥さんは嫌な顔一つせず、お酒とつまみを用意してもてなしました。私も声を掛けられて飲み会に参加するように求められました。韓国では男性は友達から求められたら断らないという常識があるので、奥さん同様、私も嫌な顔を見せずお酒に付き合いました。

一緒に飲んでいるといろいろなことを質問されました。日本社会のこと、学校のこと、家族のこと、就職や給料等々。当時、経済的繁栄を謳歌していた日本への関心は非常に高かったのだと思います。そして、酔いが回ってくると必ず口に出たのが「あらゆることに関する日本の責任問題」でした。このトピックはとてもセンシティブなので書くことがためらわれたのですが、日韓関係を考える上で避けて通れないことですので書くことにしました。以下のことは今まで両親にも友人にも妻にも話したことがありません。

私が考える、韓国の多くの人々が日本に求めていることは以下の通りです。

1、日本政府による大韓帝国併合と統治期間に行われた非人道的行為への具体的な謝罪。

2、日本の非人道的行為の対象であるすべての韓国人とその遺族に対する、全日本人による謝罪と具体的行動(天皇による正式な謝罪、金銭的補償等)の継続的実行。

日本が国際法に照らして主張している「補償問題は解決済」の根拠は、日韓基本条約締結によって実行された円借款と技術供与を前提にしています。しかし、韓国の多くの人々の心情としては、それはあまたある謝罪の一部分にしか過ぎず、両国間の問題を根本解決する必要条件とは認識されていません。

しかも、日韓基本条約締結時の政権は軍事政権であり、その政権が主導した時代は経済発展の名の下で政財界が癒着し、個人の権利や人権が無視されたという負の記憶が重なっています。その忌むべき時代の背景に日本政府とそれに迎合した企業がいたということが、現在の革新政権の誕生の背景になっているという複雑な事情があることを、私たちは理解しておく必要があります。

私は、朝鮮半島に残る神話、古代から中世に至る日韓関係の歴史、明治維新から韓国併合に至る経緯、日本統治下および戦前戦中の朝鮮半島の状況、日本の戦後復興と韓国及び韓国人への対応、朝鮮戦争と軍事クーデター、同政権による戦後復興、ハンガン(漢江)の軌跡と呼ばれる高度経済成長とソウルオリンピックの開催、民主政権の誕生とアジア通貨危機、革新政権誕生へと至る経緯を、日本と韓国両国の視点から学び、両国からみた事実の捉え方の理解に努めてきました。そこから得た知識によって、韓国の方々から「全日本人による謝罪」を求められたとき、大部分の日本人が、情と理の両面から総合的に判断して、果たしてその求めに素直に応ずるだろうか、と徐々に考えるようになっていきました。

統治に至る過程、また統治下の朝鮮半島で日本(旧朝鮮総督府)が、被支配者である韓国の人々に対して人間の尊厳を踏みにじるような非人道的行為をしたという事実があったことは事実だと思います。よって、多くの韓国の人々が「日本」が犯したことに対して謝罪し続けるべきと考えていることは十分理解できます。その一方で「過去から現在に至る全日本人が、主に旧朝鮮総督府が行った行為について全責任を負っており、そのことに対して謝罪し続けるべきだ」という解釈には、やや飛躍があり、多くの日本人には受け入れることは難しいだろうという考えを持っています。

私が「全日本人の全責任論」を受け入れるのを難しいと考える理由は、大多数の日本人自身も、太平洋戦争と日中戦争の大敗北。空襲で国土のほとんどを焼き尽くされた筆舌に尽くしがたい絶望と不幸を味わった「被害者」だからです。

では、私が考える、日本人が韓国の人々に謝罪すべきこととは何かというと、当時の日本人が、政府と軍部の行動を止めることが出来なかったこと。また、嘘の情報に踊らされ軍を支持し、被支配者に対する差別的、時に暴力的な態度をとったこと。もしくは、傍観者として見て見ぬふりをしたことだと思っています。しかし現実的には、明治憲法下における個人の権利は現在よりも制限されていた上に、軍は天皇の統帥権の下で独立し、超然とした存在となっていて、たとえ内閣でも口出しが難しく、ましてや一国民が軍部の指導に従わない、または阻止する行動をとることは命を捨てる覚悟でもない限り非常に難しかったと考えます。

一方、今を生きる私たち日本人はどうでしょうか。いまの政府がやることをきちんと監視しているでしょうか。過ちに対して明確に反対の意思表示をしているでしょうか。選挙権や情報請求権という民主憲法下で認められた基本的な権利を与えられているにも関わらず、それを活かし切れていないのではないでしょうか。私はそのことが、過去の出来事から学びきれていないという点で、日本人が韓国の人々に対して謝罪すべきことだと思っています。

ドイツのヴァイツゼッカー大統領が1985年5月8日の演説で、

「過去 に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

と述べました。

日本人は、隣国の人々に指摘されるまでもなく、日本が滅亡の寸前にまで至ったという歴史の事実から目を背けることなく、徹底的にそこから教訓を得て未来に活かさなければならないと思います。

そのことを理屈では理解していても、そういう私も、面と向かって昔の出来事、しかも、会ったこともない人々の行為について謝罪を求められても、それを素直に認めることは簡単ではないことを身をもって体験しました。

夏休み、ホームステイ先のチョンさん家族とその友人達10数名でオープンしたばかりのムジュ(茂朱)リゾートに行きました。日中何をしていたかは記憶にないのですが、夜は歌謡ショーがありチョー・ヨンピルの歌を聞きました。そして、宴会の場で例の「日本のあらゆることに関する責任問題」が話題になったのでした。

リゾートの部屋で車座になって食事とお酒を楽しんでいる最中、チョンさんの友人の一人が突然私に向かって「日本人が韓国人にしたことをどう思っているんだ?」とすごんだのです。それに便乗して他の4名~5名も畳みかけるように私をつるし上げにかかりました。

私は彼らの言っている言葉の意味を理解しようと必死に聞こうとしたのですが、チョルラド(全羅道)の方言がきつくてなかなか聞き取れない。しかも、私に対して日本に責任があると思うか? とYes or Noの返答を求められる。さらに、どの程度責任を感じているのか? と非常に難しいことを言ってくる。勝手に旅行に誘っておいて、その場に一人しかいなかった日本人の私を、まるで全日本人の代表者のように見立てて、寄ってたかってやり込めるなんていま考えてもあんまりだなと思います。でも、それくらい韓国の人たちの怒りが大きいということなんです。

私は、モルラヨ(分かりません)と言ってその場を離れようとしました。すると今度は、「日本人は教育されていないから分からないんだよ」というもっと辛辣な言葉を浴びせ掛けられました。前述したように、日韓両国の歴史については恐らく彼らよりも私の方が詳しい部分が大きかったのではないかと思います。私が、モルラヨ(分かりません)と言ったのは、「何があったか分からない」という意味ではなく、「日本人がかつて韓国の人々に対して行った行為について現代を生きる全ての日本人が責任を負っていて謝罪し続けるべきと思うか」というと分からないという意味だったのです。

結局、ホストのチョンさんが中に入ってくれて「楽しい旅行でそういった話題は相応しくないのでやめよう。大西さんは日本から韓国に来て韓国のことを学んでいる貴重な存在じゃないのか?」と言ってくれてその場は収まりました。

私は普通日本人が経験しないような極端な経験をしました。今振り返るとこの経験によって、就職後に仕事で訪れた、シンガポール、台湾、香港、中国、ベトナム等の国々で直面した同様の場面(あらゆることに関する日本の責任問題の質問や詰問)においても、ひるまずに、自分の考えをはっきり述べることができるようになりました。

私が韓国留学で得た最も大きな学びは、「真実はひとつではない」ということ。そして、一人一人が、各々が持つ「異なる真実」を述べ合い「すりあわせをする」ことの大切さです。そこにかける時間や手間を惜しまず続けることは、隣人との良好な関係を維持する上で絶対に必要だと思います。

今回は、日韓に横たわる核心的な問題について勇気をもって書きました。これらはあくまで私が経験を通じて得た教訓ですので必ずしも正解ではありません。日韓関係を真剣に考えてきた一人の人間の見聞録として読んでいただければ幸いです。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑥)

「人は2度死ぬ」という話しを聞いたことがあります。1度目は実存の死。そして、2度目は人々の記憶から消える時。ソウルで過ごした1年間に出会った方々は、皆さん強烈な個性を放っていて、それぞれに忘れがたい想い出があります。その中でも特に深く刻まれた想い出は、1991年当時、既にご高齢だった皆さんのことです。今となっては既にお亡くなりになられている可能性が高く、再会は叶わないかもしれない皆さん。私の記憶の中で今でも元気に生き続ける皆さんのことを書き留めておくことにしました。

・深夜の誤報

1991年当時、ソウルでは月一回(確か15日)の正午過ぎに、20分間のミンバン(民防)というものがありました。北朝鮮からの攻撃を想定した防空訓練のことです。ソウル中にサイレンが鳴り響き、二度目のサイレンが鳴るまでの間、歩行者は建物の中、地下道等の退避所に入りじっとしていなければなりません。また、自動車、バスもすべて運行を止めて路上で待機しなければならず、従わないと逮捕されると聞きました。ミンバン(民防)の前には、ミンバン(民防)委員が街中に出てきて、うろうろしている人がいないか監視をします。私たち留学生も、ミンバン(民防)開始前には食堂に入るなど待ちぼうけを食わないように対処しました。計画的な訓練ですので、混乱ひとつなくスムーズに運用していたと思います。

シンチョン(新村)の下宿で過ごしていたのある日のこと。日付は忘れましたが、気候も暖かくなっていたので6月だったのかもしれません。皆が寝静まった深夜に、突然ソウル中にミンバン(民防)のサイレンが鳴り響いたのです。就寝中だった私はサイレンの音に驚いて目を覚ましました。続いて、階下から階段を駆け上がってくる音がしたかと思うと、下宿の主人(おじさん)が私の部屋のドアをすごい勢いで開けて、

「逃げるぞ!今すぐ荷物をまとめて!」

と叫んだのです。私は熟睡中を突然起こされて何が何だかさっぱりわからず、ぼーっとしていたのですが、隣の部屋の日本人のおじさん(韓国の児童文学の研究者)、また、向かいの部屋の相部屋の韓国人2人(ロッテデパートの会社員と、ソガン(西江)大学の大学院生)の部屋からは、ごそごそと何かを始めたような音が聞こえてきて、これは本当に何かが起きたのでは、と目が覚めました。

大急ぎで服を着て、パスポートと財布をバッグに入れ、階段を降りると、おじさんは興奮気味に、韓国語でおばさんに何かを話していました。そして、下宿生全員が集まったところで、次のように言いました。

「これは北朝鮮が攻めてくることを知らせるものだ。とにかくハンガン(漢江)の南へ行こう。ハンガン(漢江)を渡らないと北側に取り残されて北朝鮮に殺されるぞ!」

私は、おじさんが鬼のような形相で興奮して話す様子を聞いて唖然としました。

ソウルを東西に横切るハンガン(漢江)には、いくつかの大きな橋が架かっているのですが(その中のひとつソンス(聖水)大橋は1994年10月21日に事故で崩落)、それらすべての橋の中間地点に設置された詰め所にはダイナマイトが仕掛けられており、韓国軍は有事にはこのダイナマイトで橋を爆破して、北朝鮮軍が南に進行するのを食い止めると聞いていました。大きなリュックを背負ったおじさんとおばさんを先頭に私たちは外に出ました。その時、再びサイレンの音が鳴り響きました。おじさんとおばさんは、外に出ていた近所の人たちと話を始めました。そして、私たちのところに戻ってきて、

「誤報だったみたいだ」

と言いました。その時のおじさんの安堵した表情を忘れることが出来ません。そして、おじさんは居間に戻った私たち下宿生に昔話を始めました。

朝鮮戦争の時、北朝鮮軍に追われ南へ南へ逃避行して、とうとう釜山まで逃げた。逃げ遅れた人は捕まってひどいことをされた。だから、いまでも北朝鮮が襲ってくる夢でうなされることがある。釜山を除く朝鮮半島をすべて北朝鮮軍に占領された韓国は絶体絶命の危機に陥った。そして、マッカーサー率いる国連軍がインチョン(仁川)に上陸し占領地を奪回していった。38度線の北側へと北朝鮮軍を押し上げていき南が優勢になったところに、中国軍が参戦して一進一退となり、38度線が停戦ラインに定められた。

1991年当時は、朝鮮戦争を経験し、その記憶がまだ生々しい世代がご健在でした。ミョンドン(明洞)など繁華街では、戦争で負傷して腕や足を失った人たちが腹ばいになって、アンプ付きのスピーカーにつなげたマイクで歌を唄い、募金を求めているのも日常の光景でした。1991年、日本が太平洋戦争終結後46年を迎えたその年、韓国は朝鮮戦争停戦後38年を迎えました。その違いはたったの8年間です。しかし、両国の戦争に対する危機感は天と地ほどの開きがありました。朝鮮半島は休戦状態。目と鼻の先にいる北朝鮮がいつ攻めてくるかと戦々恐々としている人がまだまだ多かった時代でした。深夜の誤報は、普段見ることが出来ない朝鮮半島の緊張状態を見せつけられた出来事でした。

・地下道のおばあさん

次は、日本統治下で生まれ、2つの戦争を生き抜いた一人の女性の話しです。

学校帰り、また、前述したミンバン(民防)のとき、私は、延世大学正門前の大通りの下を潜り抜ける地下道の真ん中にあった「売店」のおばあさんを訪ねました。初登校の時にこの売店にふと立ち寄り牛乳を買ったとき、おばあさんは私に向かって「日本人だね。日本人が好き」と言いました。それ以来、私にとても親切にしてくれて、いろんな話しを聞かせてくれたおばあさん。この方が歩んでこられた人生の断片を知って、韓国という国は決して一枚岩ではなく、様々な価値観と、ものの考え方が複雑に絡み合って成り立っている国なのだ、ということを学びました。

おばあさんは1991年当時、既に70歳を超えていたと思います。日本統治下のソウルで生まれ育ち、太平洋戦争開戦(1941年)の時は既に結婚していたので、大正生まれだったのかもしれません。 おばあさんが持っていた日本人像は「律儀」「親切」「正直」「真面目」。少し買いかぶりすぎかなと思いましたが。。「それにひきかえ・・人は」というのが口癖でした。おばあさんは、私と話しをする時には流暢でとてもきれいな日本語を使いました。「ですます」ではなく「ございます」。尊敬語、謙譲語、丁寧語も完璧に使い分けて、まるで国語の先生から正しい日本語を教えてもらっているようでした。

一方、とても和やかな私たちの日本語の会話の合間に、大学生が売店にやってくるとおばあさんの表情は豹変し、激しく辛辣な韓国語で叱りつけました。まだ、韓国語をきちんと理解できなかった私でしたが、叱りつけられた学生の表情を見て、相当こっぴどく言われたんだなということが分かりました。そして、おばあさんは私に「韓国では躾がなっていない。これじゃ先が思いやられるよ」と愚痴をこぼしました。

おばあさんが日本人を美化したのは、日本統治下のソウルでの美しい想い出があったからです。

小学生のとき担任の先生は優しい日本人の女性だったそうです。その先生は、お弁当を持ってこれない生徒がいると自分のお弁当を分けて食べさせていた。そして、先生と一緒に歌を唄ったり、お遊戯をしたり、絵をかいたり、夢のような楽しい時間を過ごしたと。そんな話しをしているときのおばあさんはまるで少女時代に戻ったように穏やかな表情をしていました。そこに学生が来ると鬼のような表情になって叱りつける。その豹変ぶりを横で見ていて面白く、何度もふき出しそうになりました。戦争が激化し、日本の敗戦で日本人は本土に引き上げていき、朝鮮半島は南北に分断され、政情不安であちこちで物騒なことが起き始めた。そんなときにいつも思い出したのは少女時代、小学校の先生と一緒に過ごしたときのことだったそうです。朝鮮戦争でご主人を無くし、息子を連れて逃避行して命をつなげた。戦後は女手一つで息子を学校に通わせ、今、息子夫婦はアメリカにいて孫もでき幸せに暮らしていると。自慢げに写真を見せてくれたおばあさん。でも、どことなく寂しい表情を浮かべていました。いろんな複雑な事情があるのだろうと察しました。

おばあさんとの交流は私の留学中ずっと続きました。そして、日本に帰国後、就職した最初の年に韓国への2ヵ月間の連続出張があり、その時もおばあさんを訪ねました。就職して戻ってきたと話すとおばあさんはとても喜んでくれました。そして、1997年のアジア通貨危機で韓国経済が大混乱に陥った時、再びソウルを訪れた私は地下道のおばあさんを訪ねました。しかし、売店の入り口は鉄板でふさがれ、固く南京錠で閉ざされていました。その後、2000年代に入り、ソウルを訪れるたびに地下道へおばあさんを探しに行きましたが結局再会は叶いませんでした。

「日本びいき」というと、留学の最後に偶然乗ったタクシーの運転手さんのことを思い出します。私が話す韓国語で外国人と分かった運転手さんは「日本人ですか?」と質問してきました。私が「はい、ソウルに一年いました」と答えると次のことを話し始めました。

「一年の間に、いろいろ嫌な思いをしたでしょ。日本人だから悪いとか、どうとか言われませんでしたか? 私の母はね、日本統治下で生まれ育ったんですが、私たち兄弟にね「日本人だからという理由で悪く言ったりしてはいけないよ。私はとても良い日本人を知っている。韓国にも日本にも良い人もいれば悪い人もいる。だから、偏見で決めつけてはだめだよ」とね。だから、ずっとそう言われて育った私は母にとても感謝しています。」

私はタクシーの後部座席からじっと運転手さんの話しに耳を傾けました。1年間を振り返り、いろいろなことが頭に浮かんできて涙が出そうになりました。

・謎の外国人

以前のブログで紹介した、足掛け9年ソウルで過ごした勇者、Kさんが住んだ最初の下宿は、チョンノ区チェブ洞といって、李氏朝鮮時代の王宮キョンボックン(景福宮)の西側に広がる、ハノク(韓屋)と呼ばれる韓国式家屋が軒を連ねる歴史地区の中にありました。その北側には大統領府チョンワデ(青瓦台)、韓国で最も有名な道路と言っても過言ではないセジョンノ(世宗路)まで徒歩で行けるソウルのど真ん中でした。街に一歩足を踏み入れると、チャングムやファンジニのようなTV時代劇の世界にタイムスリップしたかのような街並みが残っていて、ここがとても好きになった私は、Kさんの下宿に度々お邪魔してご飯をご馳走になりました。下宿のおばさんは嫌な顔一つせず、いつも温かく迎えてくれました。

下宿は、まず門をくぐるとマダンという中庭があり、それをぐるりと取り囲むように6畳ほどの部屋が並んでいる平屋構造になっていました。トイレとシャワーは離れになっていて、その壁面にある階段で屋根に昇ると、ぐるりと周囲の家々を見渡すことが出来ました。満月の夜、ここでお酒を飲みながら、ハノク(韓屋)独特の屋根が延々と続く景色を眺めながら月見をした時の光景はため息が出るほど美しかったです。この地区は、その後再開発の対象となり、すっかり古い建物が取り壊されてしまったようです。本当に残念です。

この下宿にはKさんともう一人下宿人がいました。お名前は「ジミーCハンさん」という韓国系アメリカ人でした。がっちりとした体格で身長は180センチ近くあったでしょうか。短く切った髪、肌は艶々していて若々しい人でしたが、ご自身の言葉では70歳だと言っていたような。。ベイビーフェイスで親しみを覚える方でした。

ハンさんは、語学堪能で、英語、韓国語、中国語、日本語、ロシア語を使いこなしました。普段はずっと部屋にこもっていたのですが、たまに出てこられるとKさんの部屋を覗いて私たちと会話をしました。ハンさんの部屋にはいろいろな言語の新聞、本、そして無線機のような機械が置かれていました。時々、ハンさんの部屋から中国語やロシア語が聞こえてきて、いったい何をしている人なんだろうとKさんと不思議に思っていました。

ある日、ハンさんは私たちの疑問に答えるように自身のことを話し始めました。

アメリカ大使館に所属して軍関係の仕事をしている。朝鮮戦争の時、インチョン(仁川)上陸作戦にマッカーサーの副官として参加した。マッカーサーと並んで上陸した時の写真を私たちに見せながら自慢気に語りました。日本が好きで、力道山が友達だった。後ろから見るとハンさんは力道山と体格、背丈が一緒なのでよく間違えられた。力道山はヤクザに刺されて死んでしまって残念だったとしみじみ語っていました。

先日、Kさんと28年ぶりに再会した時、ハンさんのことが話題になって、Kさんが「あの人は本当に存在していた人だったのか、それとも夢だったのか迷うことがあるんですよね」と。私たちにとってハンさんはそのくらい不思議な存在だったのです。確かにそこにいたはずなのだけど、夢か幻かと思ってしまうような人というのは、私にとっては後にも先にもハンさんお一人だけです。ハンさんはその後、下宿を出てアメリカ軍の基地近くに引っ越してしまいました。一度、食事をご馳走になったのですが、それ以来一度もお目にかかっていません。

下宿のおじさん、地下道のおばあさん、謎の外国人(ハンさん)は、今、私が心の底から会いたい人たちです。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑤)

1991年4月、ソウルでの留学生活が始まりました。韓国語学堂の授業の特徴は、韓国語以外の言語を一切使わず、先生が、韓国語で韓国語を教えることです。カリキュラムは、文章と読解、会話、リスニング、ハングル文字の学習に分かれていて、計4時間の授業を受講することで体系的に韓国語をマスターしていきます。そのメソッドは素晴らしいものでした。そして、毎日、新しく学んだ構文を使って、5つ以上の例文をつくるという宿題が出されました。伝えたいことを表現するためには、新しい単語を調べなければならず、辞書とにらめっこしなければなりません。そうやって語彙も少しずつ増えていきました。

語学は3の倍数で上達する、と聞いたことがあります。私の実感でも、最初の3週間でぐっと伸びて一旦停滞。3ヶ月でぐっと伸びてまた停滞。そして、6ヶ月目に上達を実感する。これを繰り返しながら、徐々にいろいろな言葉が理解できるようになっていきました。「分かる」ことは喜びにもなりますが、反面、分かったことで生じる戸惑いもあり、喜びと戸惑いが、ほぼ同時に増えていくような感覚を味わっていたと思います。

日々の上達のスピードは非常にゆっくりなため変化を感じることはほとんどなかったのですが、留学開始から3ヶ月ほど経ったある日、バスの車内から外を眺めていて、次々に視界に入っては離れていく店舗や道路標識、看板等に書かれているハングル文字を瞬時に読み取っている自分に、何の前触れもなく気付いきました。学ぶことは「自分が変わること」だと初めて実感した瞬間でした。

地下鉄に乗っていると、駅名や乗り換えの案内以外にもいろいろな車内放送が耳に入ってきました。そして、バスには、新聞やガムを売りに乗ってくる子供たちが次々と乗ってきて、大きな声で何かを訴えていました。何を言っているのか皆目見当がつきませんでしたが、この子供たちは一つか二つの停留所の区間だけ乗っては下車していきます。そうやって恐らくソウル中のバスの乗り降りを繰り返していたのでしょう。運転手はそんな子供たちからは乗車賃は取りませんでした。そして、前述と同じく留学開始から3ヶ月ほど経ったある日、今まで全く聞き取れなかった言葉の意味が突然理解できました。

地下鉄の車内放送は、政府機関からの通達で「怪しい人物(北朝鮮のスパイ)を見つけたら連絡をしてください」などと繰り返し放送していることが分かりました。また、バスの車内で新聞やガムを売る子供たちは、乗客に挨拶をして、自分の身の上を語り、(新聞等を)買ってくださいと懇願していることが分かってきました。意味が分かり始めると、それまで傍観者でいた自分の中にいろいろな感情が湧きあがってきました。

韓国と北朝鮮は休戦中で、いつ戦争が始まるかもしれないという緊張感。当時のソウルには多くの孤児がいて、悪い大人たちに操られて物売りをさせられていたりすることも分かり心が揺れました。他にも、ソウルで生活している以上、知らなかったでは済まされないことが次々と分かってきて、それら一つ一つの情報を一旦は受け入れ、次に自分なりに解釈した上で整理するのに精一杯だったことを覚えています。

しかし、留学生活の始まり時期における出来事で、けた違いにインパクトが大きかったのは「学生によるデモ」でした。

今振り返ると1991年という年は、日本にとっても韓国にとっても、また世界史的な意味でも、従来の秩序が変わるターニングポイントの時期だったと思います。

日本では、同年2月に、みんなをお金儲けに血眼にしたバブル経済が終わりを迎えました。

バブル景気(バブルけいき、英: bubble boom)は、好景気の通称で景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。情勢自体はバブル経済と同一であり、バブル経済期(バブルけいざいき)または、バブル期(バブルき)や平成景気(へいせいけいき)、平成バブル(へいせいバブル)とも呼ばれる。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環(内閣府の景気基準日付)という通称で指標を示している。(Wikipediaより)

また、12月には、ソビエト連邦が解体され東西冷戦が事実上幕を閉じました。

ソ連崩壊(ソれんほうかい、露: Распад CCCP)とは、1991年12月のソビエト連邦共産党解散を受けた全ての連邦構成共和国の主権国家としての独立、ならびに同年12月25日のソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビエト連邦が解体された出来事である。(Wikipediaより)

そして、韓国では、80年代半ばから始まった国民的な運動(軍事独裁政権から民主政権への移行の要望)が最高潮に高まり、大詰めの時期を迎えていました。そのような中、4月にソウルのミョンチ(明知)大学の1年生の学生が、デモの最中に機動隊(別名:戦闘警察)により殴打され死亡するという事件が起きました。もともと私が通っていた延世大学はデモのメッカだったのですが、この事件をきっかけに学生の怒りに火がついて一気に激しいデモへ発展しました。東京大学東洋文化研究所の真鍋祐子教授が、当時のことをシンポジウムで語られていますので以下引用します。

私は韓国の民主化運動についてずっと研究をして参りました。それで1987年から88年にかけて、一年間ソウルに留学をして、1991年から93年にかけて2年間、大邸(テグ)にある大学で日本語教員をやっておりまして、その間、民主化運動はまだまだ激しい時期でした。ちょうど大邱にいた時分に民主化運動の現場で抗議の焼身自殺というのが一ヶ月で11件も続いた、そういう時期を過ごしました。それは1991年のことです。4月にソウルにある明知大学の一年生がデモのさなかに機動隊に殴り殺された事件をきっかけに、抗議の焼身自殺が全国に広がったのです。私がいた大邸というところは、保守的な土地柄で、あまり学生運動が盛んなところではないのですが、在職していた大学のエントランスホールには、どこかで抗議の焼身自殺者が出る度に焼香台が設置されて、その台の上に亡くなった学生なり労働者なりの遺影と、ときには黒焦げの遺体の写真、あるいは燃えているさなかの写真が飾られていて、お焼香ができるように線香が立ててある。これが4月から5月にかけて約ひと月、10人以上も亡くなっているので、非常に私にとってもハードな経験でした。(2018年6月2日(土)東京シンポジウムでの講演「死者への追悼と社会変革―韓国民主化闘争を振り返る」より)

真鍋教授は、このシンポジウムの講演の中で、後追いで焼身自殺するというショッキングな行動の原因について、韓国人が持つ独特な精神の中にある「死者への弔い」がそうさせていると述べておられます。このことについて私は何かを語る知識を持ち合わせていませんので言及はしませんが、延世大学の学生会館にも、自死した学生の遺影と焼香台が増えていくのを見ましたし、日本から飛行機でわずか2時間程しか離れていない距離にあるところで起きていることとは、にわかには信じ難いと思った記憶があります。

学校の構内では喪章をつけた学生を多く見かけるようになり、至るところで集会が開かれていてリーダーらしき学生が拡声器で何かを叫んでいる姿が目立ち始めました。大学の正門では、亡くなった学生への弔いと、民主政権実現を実力行使で訴えようと、シンチョン(新村)の街に今にも押し出そうとする学生の一団と、道路の反対側でその動きをけん制する機動隊のにらみ合いが何日間も続きました。私はその様子を横目で見ながら下宿と学校を往復しました。当時、韓国でもデモは認められていたようですが、事前の届け出が必要なことと、実施場所は学校等の敷地内に限定されていたようです。よって、敷地から一歩外に出ると違法行為となるため、国家権力は暴力的な手段を用いてでも徹底的に排除を試みました。韓国には徴兵制(1991年当時は2年半)がありますが、機動隊も徴兵で集められた若者で構成されていて、真偽は定かではありませんが、デモで捕まった学生が徴兵されると真っ先に機動隊に回され、昨日まで一緒にデモをしていた仲間たちを鎮圧する役割を担わされたと聞いたことがあります。

そして、我慢の限界を超えた学生たちは、ついに大学の正門を突破し機動隊と乱闘になりました。

私は正門から大学構内に入ることが出来なくなり、隣のイファ(梨花)女子大学の方へ遠回りをして通学しました。そのような中、恐らく、あちこちの大学から学生が集まってきたのでしょう。小競り合いだった程度だったデモの規模がどんどん大きくなって、シンチョン(新村)の街中で衝突するようになり、機動隊は装甲車を出動させて道路を封鎖し、催涙弾を発射して町中が白煙に包まれることもありました。催涙弾は暴動鎮圧のために各国で使われていますが、当時の韓国では特に大量に使われたのではないかと思います。これも真偽は定かではありませんが、最も強力なフィリピン製を使っていると聞いたことがあります。

そんなある日の夕方、シンチョン(新村)の街の中にある食堂で一人食事をしていた私は、意図せずデモに巻き込まれてしまいました。

食事の最中停電になり店内は真っ暗になりました。警察か市政府電力の判断かは分かりませんが、デモ鎮圧のため一時的に電力供給を止めたのです。そのようなことは以前にもあったため驚きませんでした。食堂のアジュマ(おばさん)は、何も言わずろうそくに火をつけ皿に乗せ、各テーブルに置き始めました。私の目の前にもろうそくが置かれて、真っ暗な店内がゆらゆらとしたろうそく明りに照らされました。その光景はデモの真っただ中とはいえ、幻想的で美しく、今でも脳裏に焼き付いています。食事を終え会計を済ませて外に出ようとした時、アジュマ(おばさん)が「まだ、危ないからここで待っていたほうがいいよ」と諭してくれました。しかし、早く下宿に帰りたかったのでお礼をして店を出ました。

店の外に出ると、左手の坂の下の方から大きな音が聞こえてきました。そちらに目を向けると、大勢の学生が機動隊に追われて逃げてくる様子が目に飛び込んできました。その勢いに圧倒された私は、あれよあれよという間に学生の一団に巻き込まれてしまいました。そして、一緒に走り始めました。機動隊は後ろから迫ってきているはずだし、足元は暗くて良く見えないし、もし捕まったりしたらこん棒で殴られ、留置所へ入られ、日本に帰されるかもしれないなどと、いろんなことが頭に浮かびました。但し、方向感覚だけはしっかりしていて、この道を走り通せば逃げ切れるはずだということもはっきり分かっていました。そして5分ほど走ったでしょうか。イファ(梨花)女子大学の方角へと続く坂を一気に上り切り、後ろを振り返ると既に学生たちは散り散りになったようで姿がありませんでした。また、機動隊の姿も見えませんでした。ほっとしました。

しばらくじっとして呼吸が整うのを待ちました。そして、どうやって下宿に戻ろうかと考えました。その場所から見ると下宿は、先程までいた食堂の正反対にあり、まっすぐ行くとデモのまっただ中を突破しなければなりません。さすがに無理だと考えた私は、地下鉄2号線の真上を走る大通りに出て地下鉄で移動できないか試してみることにしました。イデ(梨大)駅の階段を駅の構内に向けて降りて行くと学生がたくさんいて騒然としていました。駅員が何やら拡声器で叫んでいる声が耳に入ってきて、はっきりとは聞き取れませんでしたが「シンチョン(新村)駅は通過して隣のホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅まで停車しない」と言っているようでした。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅とは、ホンイク(弘益)大学がある駅で、その頭文字をとって普通はホンデ(弘大)と呼ばれています。今では、活気あふれる若者文化の創造、発信基地ですが、当時は、駅を降りると大通り沿いに台所用品の問屋さんとか、ボイラーの代理店などしかなかった記憶があります。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅から下宿までは歩いて20分程の距離ですし、シンチョン(新村)駅があるロータリー近辺は機動隊と学生が激突して、催涙弾がまかれているのでとても近付けないと考えた私は、地下鉄で移動することにしました。

地下鉄に乗ると、ソウルの中心部で働く帰宅途中の会社員が大勢乗っていて、不安(不満?)そうな顔をしていたことを覚えています。そして、電車は真っ暗なシンチョン(新村)駅のホームを通過していきました。通り過ぎる地下鉄の車内から見えた駅のホームには、座り込む学生が大勢いたように記憶しています。機動隊から逃れてきたのかもしれません。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅で地下鉄を下りた私は階段で地上に出ました。坂を上り、次にやや下って左折し路地に入り、坂を上って銭湯の前を通過して急な坂を下っていくと遠くに下宿が見えてきました。この辺りはシンチョン(新村)の街を見下ろす高台でしたので、そのあたりまで来たら灯りが消えた真っ暗な街が見えてきて、白くもやがかかっているようでした。

下宿も停電で真っ暗でした。玄関に入り「タニョワッスㇺニダ(ただいま帰りました)」と言うと、アジュマ(おばさん)、続いてアジョシ(おじさん)が出てきて、泣きそうな顔で「今までどこにいたんだ?本当に心配したよ。でも無事でよかった」と言いました。他の下宿生も皆戻ってきていました。

さっきまでは下宿に戻ることだけに集中していたので気付かなかったのですが、靴を脱いで居間に入ると、顔がひりひり、目がしょぼしょぼして涙が出ることに気付きました。そのことをアジョシ(おじさん)に言うと、それは催涙ガスを浴びたんだと教えられました。そして「今晩、どんどんヒリヒリして痛くなるけど、決して水で濡らしてはいけないよ。ガスの成分は水と反応して皮膚が炎症するんだ」と言われました。それから翌朝迄の数時間は本当にきつかったです。顔や腕がヒリヒリして涙は出るし、むせるように息苦しく自室の布団の中でじっと我慢しました。

学生デモはその後も規模が拡大して、場所もシンチョン(新村)などの学生街からミョンドン(明洞)や市庁舎前、チョンノ(鐘路)といったソウル中心のオフィス街、繁華街へ飛び火していきました。別の日にロッテデパートにいた時にも、ミョンドン(明洞)の道路が封鎖されるくらい大きなデモがあり半日ほどその場にとどまったことがありました。そんな活発なデモは7月頃まで続いたのではないかと思います。

ちょうどその時、日本で知り合った韓国人(新聞奨学生)の二人の内の一人で、ソウルに帰って来たばかりのコ・ミョンチョルさんから

「友人の家にホームステイしないか?日本語を教える代わりに下宿代は安くしてくれるそうだよ」

と誘われました。デモに少しうんざりしていましたし、学校と図書館と下宿の往復の生活にも少し飽きてきていた私は、よく考えた末に最初の下宿を離れ、韓国人の家にホームステイをすることに決めました。

ホームステイ先の住所は、クァンアクグ(冠岳区)シンリムドン(新林洞)。シンチョン(新村)からみると、ハンガン(漢江)の反対側に位置していて、地下鉄2号線のシンリム(新林)駅で下車し、バスで南部循環道路を西に向かい、左折してナンゴクノ(路)にはいり、ナンゴクシジャン(市場)というバス停で降りたところ。クァンアクサン(冠岳山)のふもとの小さな家に、ホストファミリー(チョン(鄭)さん、奥さん、小さな女の子の赤ちゃんの3人)が暮らしていました。私にあてがわれた4畳半くらいの小さな部屋で暮らした期間は1991年7月から12月末までの6ヶ月間。その間、バスと地下鉄を乗り継いで、片道1時間半の道のりを通学しました。今振り返ると、この6ヶ月間に、留学生同士の付き合いだけでは到底分からなかった、韓国人のものの考え方や生活習慣に直接触れることが出来たと思います。日本とは全く違うので戸惑うことがほとんどでしたが勉強になりました。