違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑦)

シンチョン(新村)の下宿から、友人のコ・ミョンチョルさんに紹介してもらったチョンさんの家に引っ越すことになりました。日本からソウルに到着した時と同じくスーツケースひとつを転がして、地下鉄シンチョン(新村)駅で地下鉄2号線に乗りハンガン(漢江)を渡ってシンリム(新林)駅へ30分。そこで、市内バスに乗り換えてナンゴク市場迄20分。バスを降りて徒歩10分。やっと目的地のチョンさんの家に着きました。

チョンさん家族は、奥さんと赤ちゃん(イニョンという女の子)の3人家族でした。建物は3階建ての構造で1階と3階は別の家族が住んでおり、2階部分の50平米程のスペースがチョンさんの家でした。チョンさんはがっちりした体格の人で、奥さんは切れ長の目の典型的な韓国美人でした。玄関を入って右が居間で、その奥が夫妻の寝室。私は、玄関の正面奥の4畳半ほどの部屋をあてがわれました。お風呂はトイレと一体化したユニットタイプで、韓国ではどこの家庭でもそうですが、浴室に大きなたらいがあり、そこに水をためておいて、その水を用を足した便器に注いで流すのです。また、下水浄水場の機能上の制約だと思いますが、おしりを拭いたトイレットペーパーはトイレに流すことは出来ず、トイレ横の小さなバケツに畳んで積み上げていきました。シンチョン(新村)の下宿でも同じでしたが慣れるまでは抵抗がありました。

チョンさん宅でホームステイが始まってすぐに気づいたのが、専業主婦の奥さんは愚痴ひとつ言わず、しっかりと子育てと家事をこなしている人だということでした。赤ちゃんが夜泣きをして睡眠不足でも、必ず5時半に起きてチョンさんと私のために朝食をつくってくれました。授業が休みの時、終日家にいたことがあったのですが、朝食を終えてチョンさんを送り出すと、休む間もなく赤ちゃんをおんぶしてあやしながら炊事、洗濯、部屋の掃除と手際よくこなしていきました。たまには友達とお茶でもしないのかなと不思議に思うくらい主婦業に徹していた人だったと思います。

ある時、奥さんに付き添って近所のナンゴク市場へ肉、魚、野菜、米の買い出しに行きました。スーパーマーケットがない地域だったので付近の主婦たちはこの市場で買い物をしていました。主婦たちは競うように商品を手に取り、店主と値引き交渉をしていました。スーパーでなら欲しいものを買い物かごへ入れるだけのことなのに、ひとつの商品に対して何分もかけて買い物をしていたのです。主婦たちにとって、買い物は決して楽しいものではなく、ある意味「戦い」のようなものだったのだと思いました。

引越しの結果、通学は大変になりました。毎朝6時半のバスに乗り、渋滞する車に阻まれながらシンリム(新林)駅まで30分程かかることもありました。信号システムの問題なのか、主要幹線道路である南部循環道路に出る交差点のところで大渋滞になるのです。そして、地下鉄に乗り換えると車内は東京の朝の通勤時間帯並みの大混雑状態でした。すし詰めの車内を押し合いへし合いしながらやっとホンデアプ(弘大前)駅に到着。地上に出て深呼吸すると空気が新鮮でした。夏から秋、秋から冬への気温の変化が激しいソウルでは、地下鉄の駅から地上に出た時の空気の違いを日々感じることが出来ました。そして、延世大学のキャンパスに向かって歩いて行く途中にあるモギョクタン(沐浴湯=銭湯)に寄りました。

朝7時半頃に入ると既におじさんたちが朝風呂を楽しんでいました。脱衣エリアには売店があり飲み物や食べ物が売られており、テレビではニュースが映されていて、その前ではひとっ風呂浴びたおじさんたちが自由な姿勢でくつろいでいました。浴室には、熱い湯、ぬる湯、水風呂の3つの浴槽があり、大きなサウナがありました。サウナは高温室とスチーム室に分かれていて、どちらにも床には砂利が敷き詰められていていました。ここ入ると必ずと言ってよい程、誰かと会話をしました。その会話が結構、韓国語の勉強になりました。

そして、たまにテミリ(垢すり)をテミリアジョシ(垢すりおじさん)にお願いしました。競技用のスイミングウェアのようなパンツをはいた筋肉質のアジョシ(おじさん)が、すごい力で体中の垢をこすりだして、あっという間に洗い流してくれます。そして、サウナで汗をしぼり出して水風呂に入り、売店で牛乳を買い一気飲みして外に出ると、身も心も軽くなって本当に気持ちが良かったです。そうやって9時前に教室に到着するという生活を、学期の間の休みをはさんで6ヶ月続けました。

ホームステイ開始当初、チョンさんは夕食を家でとり、食後、私が日本語を教えていたのですが、徐々にお酒を飲んで深夜に帰宅することが多くなり日本語を教えることも少なくなっていきました。奥さんには、私のためだけに夕食を用意してもらうことが申し訳なくなってきたので、授業が終わると大学の図書館で勉強して、バスでセジョンノ(世宗路)に移動し、ソウル新聞社ビルの上層階にあった日本人会に寄って食事をすることが増えました。

日本人会には日本語が上手な親切なアジュマ(おばさん)がいて、ドリップコーヒー(ホット・アイス)とカレーライスの食券(10枚つづり)を売っていて、それでカレーライスを食べて帰宅しました。当時、ソウルでもカレーライスを食べることは出来ましたが、妙に黄色くて、ルーも粉っぽくてあまりおいしくなかったので、アジュマ(おばさん)が作ってくれた日本のカレールーで作った完璧に日本味のカレーは本当においしかったのです。日本人会の大きなフロアにあるテレビにはNHK BS放送が常時映されていて大相撲中継をいろんな会社の日本人駐在員と一緒に観ました。

深夜に帰宅するチョンさんは、突然友人を連れて帰ってくることがありました。それでも奥さんは嫌な顔一つせず、お酒とつまみを用意してもてなしました。私も声を掛けられて飲み会に参加するように求められました。韓国では男性は友達から求められたら断らないという常識があるので、奥さん同様、私も嫌な顔を見せずお酒に付き合いました。

一緒に飲んでいるといろいろなことを質問されました。日本社会のこと、学校のこと、家族のこと、就職や給料等々。当時、経済的繁栄を謳歌していた日本への関心は非常に高かったのだと思います。そして、酔いが回ってくると必ず口に出たのが「あらゆることに関する日本の責任問題」でした。このトピックはとてもセンシティブなので書くことがためらわれたのですが、日韓関係を考える上で避けて通れないことですので書くことにしました。以下のことは今まで両親にも友人にも妻にも話したことがありません。

私が考える、韓国の多くの人々が日本に求めていることは以下の通りです。

1、日本政府による大韓帝国併合と統治期間に行われた非人道的行為への具体的な謝罪。

2、日本の非人道的行為の対象であるすべての韓国人とその遺族に対する、全日本人による謝罪と具体的行動(天皇による正式な謝罪、金銭的補償等)の継続的実行。

日本が国際法に照らして主張している「補償問題は解決済」の根拠は、日韓基本条約締結によって実行された円借款と技術供与を前提にしています。しかし、韓国の多くの人々の心情としては、それはあまたある謝罪の一部分にしか過ぎず、両国間の問題を根本解決する必要条件とは認識されていません。

しかも、日韓基本条約締結時の政権は軍事政権であり、その政権が主導した時代は経済発展の名の下で政財界が癒着し、個人の権利や人権が無視されたという負の記憶が重なっています。その忌むべき時代の背景に日本政府とそれに迎合した企業がいたということが、現在の革新政権の誕生の背景になっているという複雑な事情があることを、私たちは理解しておく必要があります。

私は、朝鮮半島に残る神話、古代から中世に至る日韓関係の歴史、明治維新から韓国併合に至る経緯、日本統治下および戦前戦中の朝鮮半島の状況、日本の戦後復興と韓国及び韓国人への対応、朝鮮戦争と軍事クーデター、同政権による戦後復興、ハンガン(漢江)の軌跡と呼ばれる高度経済成長とソウルオリンピックの開催、民主政権の誕生とアジア通貨危機、革新政権誕生へと至る経緯を、日本と韓国両国の視点から学び、両国からみた事実の捉え方の理解に努めてきました。そこから得た知識によって、韓国の方々から「全日本人による謝罪」を求められたとき、大部分の日本人が、情と理の両面から総合的に判断して、果たしてその求めに素直に応ずるだろうか、と徐々に考えるようになっていきました。

統治に至る過程、また統治下の朝鮮半島で日本(旧朝鮮総督府)が、被支配者である韓国の人々に対して人間の尊厳を踏みにじるような非人道的行為をしたという事実があったことは事実だと思います。よって、多くの韓国の人々が「日本」が犯したことに対して謝罪し続けるべきと考えていることは十分理解できます。その一方で「過去から現在に至る全日本人が、主に旧朝鮮総督府が行った行為について全責任を負っており、そのことに対して謝罪し続けるべきだ」という解釈には、やや飛躍があり、多くの日本人には受け入れることは難しいだろうという考えを持っています。

私が「全日本人の全責任論」を受け入れるのを難しいと考える理由は、大多数の日本人自身も、太平洋戦争と日中戦争の大敗北。空襲で国土のほとんどを焼き尽くされた筆舌に尽くしがたい絶望と不幸を味わった「被害者」だからです。

では、私が考える、日本人が韓国の人々に謝罪すべきこととは何かというと、当時の日本人が、政府と軍部の行動を止めることが出来なかったこと。また、嘘の情報に踊らされ軍を支持し、被支配者に対する差別的、時に暴力的な態度をとったこと。もしくは、傍観者として見て見ぬふりをしたことだと思っています。しかし現実的には、明治憲法下における個人の権利は現在よりも制限されていた上に、軍は天皇の統帥権の下で独立し、超然とした存在となっていて、たとえ内閣でも口出しが難しく、ましてや一国民が軍部の指導に従わない、または阻止する行動をとることは命を捨てる覚悟でもない限り非常に難しかったと考えます。

一方、今を生きる私たち日本人はどうでしょうか。いまの政府がやることをきちんと監視しているでしょうか。過ちに対して明確に反対の意思表示をしているでしょうか。選挙権や情報請求権という民主憲法下で認められた基本的な権利を与えられているにも関わらず、それを活かし切れていないのではないでしょうか。私はそのことが、過去の出来事から学びきれていないという点で、日本人が韓国の人々に対して謝罪すべきことだと思っています。

ドイツのヴァイツゼッカー大統領が1985年5月8日の演説で、

「過去 に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

と述べました。

日本人は、隣国の人々に指摘されるまでもなく、日本が滅亡の寸前にまで至ったという歴史の事実から目を背けることなく、徹底的にそこから教訓を得て未来に活かさなければならないと思います。

そのことを理屈では理解していても、そういう私も、面と向かって昔の出来事、しかも、会ったこともない人々の行為について謝罪を求められても、それを素直に認めることは簡単ではないことを身をもって体験しました。

夏休み、ホームステイ先のチョンさん家族とその友人達10数名でオープンしたばかりのムジュ(茂朱)リゾートに行きました。日中何をしていたかは記憶にないのですが、夜は歌謡ショーがありチョー・ヨンピルの歌を聞きました。そして、宴会の場で例の「日本のあらゆることに関する責任問題」が話題になったのでした。

リゾートの部屋で車座になって食事とお酒を楽しんでいる最中、チョンさんの友人の一人が突然私に向かって「日本人が韓国人にしたことをどう思っているんだ?」とすごんだのです。それに便乗して他の4名~5名も畳みかけるように私をつるし上げにかかりました。

私は彼らの言っている言葉の意味を理解しようと必死に聞こうとしたのですが、チョルラド(全羅道)の方言がきつくてなかなか聞き取れない。しかも、私に対して日本に責任があると思うか? とYes or Noの返答を求められる。さらに、どの程度責任を感じているのか? と非常に難しいことを言ってくる。勝手に旅行に誘っておいて、その場に一人しかいなかった日本人の私を、まるで全日本人の代表者のように見立てて、寄ってたかってやり込めるなんていま考えてもあんまりだなと思います。でも、それくらい韓国の人たちの怒りが大きいということなんです。

私は、モルラヨ(分かりません)と言ってその場を離れようとしました。すると今度は、「日本人は教育されていないから分からないんだよ」というもっと辛辣な言葉を浴びせ掛けられました。前述したように、日韓両国の歴史については恐らく彼らよりも私の方が詳しい部分が大きかったのではないかと思います。私が、モルラヨ(分かりません)と言ったのは、「何があったか分からない」という意味ではなく、「日本人がかつて韓国の人々に対して行った行為について現代を生きる全ての日本人が責任を負っていて謝罪し続けるべきと思うか」というと分からないという意味だったのです。

結局、ホストのチョンさんが中に入ってくれて「楽しい旅行でそういった話題は相応しくないのでやめよう。大西さんは日本から韓国に来て韓国のことを学んでいる貴重な存在じゃないのか?」と言ってくれてその場は収まりました。

私は普通日本人が経験しないような極端な経験をしました。今振り返るとこの経験によって、就職後に仕事で訪れた、シンガポール、台湾、香港、中国、ベトナム等の国々で直面した同様の場面(あらゆることに関する日本の責任問題の質問や詰問)においても、ひるまずに、自分の考えをはっきり述べることができるようになりました。

私が韓国留学で得た最も大きな学びは、「真実はひとつではない」ということ。そして、一人一人が、各々が持つ「異なる真実」を述べ合い「すりあわせをする」ことの大切さです。そこにかける時間や手間を惜しまず続けることは、隣人との良好な関係を維持する上で絶対に必要だと思います。

今回は、日韓に横たわる核心的な問題について勇気をもって書きました。これらはあくまで私が経験を通じて得た教訓ですので必ずしも正解ではありません。日韓関係を真剣に考えてきた一人の人間の見聞録として読んでいただければ幸いです。

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