921台湾集集大地震

1999年9月21日、深夜の台湾に大きな地震が発生しました。

921大地震(きゅうにいちおおじしん)は、台湾時間の1999年9月21日1時47分18秒(日本時間2時47分18秒)に、台湾中部の南投県集集鎮付近を震源として発生したモーメントマグニチュード(Mw)7.6(USGS、台湾中央気象局はMs7.3)の地震。921大地震のほか、台湾大地震、集集大地震、台湾中部大地震、921集集大地震、台湾大震災、集集大震災、台湾中部大震災などと呼ばれ、台湾では20世紀で一番大きな地震であった。(Wikipediaより抜粋)

私は、前年(1998年)春から半導体関連メーカーの台湾の現地法人に出向し管理部門を主管していました。その日は、なかなか眠りにつけずテレビを見ていたところ突然停電になりました。私の部屋はマンションの7階で、充電式の非常灯が設置されており、停電発生と同時にそれが点灯し、部屋の中はぼんやりとした黄色がかった色に照らされました。そのちょうど1ヵ月前に台湾全土で大停電がありましたので、真っ先に思ったのは「また停電か」という程度でした。後から分かったのですが、1ヵ月前の停電は、9月21日の地震に関連して活断層が動いて送電システムに不具合が生じたことが原因だったようです。

ぼんやりと黄色く照らされた部屋の中はかろうじて見渡せる程度で薄暗く、エアコンもダウンしたので「今夜は寝苦しくなるなあ」などと呑気に構えていました。すると、遠くの方から低く、うなるような「ゴー」という音が近づいてきました。最初はジェット機の音かと思ったのですが、それが徐々に大きくなってきて「これは何か変だぞ」とソファーから立ち上がろうとした瞬間、マンション全体が左右に大きく揺さぶられ始めました。小刻みな振動ではなく、水平に「ざっざっざっざ」と、ものすごい力で押されては引っ張られ振り回される感じで、振幅幅は1メールくらいあったのではないかと思うくらい揺れました。部屋の壁にはビシッと音を立ててひびが入り、私はなすすべもなく座ったまま揺さぶられ続けました。それまでに経験したことのない揺れに、心拍数が上がり、呼吸が激しくなりました。「あー、もう終わりだ。マンションが倒壊してしまう!」と思ったところ、徐々に揺れが収まっていきました。「命拾いした」と放心状態になりました。

放心状態の時間は、実際にはほんの一瞬だったと思うのですがとても長く感じられました。そして、突然はっと我に返りました。当社には、台湾人従業員46名、日本人出向者25名、装置の立ち上げ作業で日本から台湾に来ている出張者が常時150名から200名もいて、みんなのことが急に心配になりました。「私が彼らの安否確認をしなければならない」と、Tシャツと短パンのまま部屋を飛び出し、自転車に飛び乗って10分ほどのところにあるオフィスへ突進しました。

町全体は地震の揺れの影響で一斉に砂やほこりが舞い上がりぼんやりと霧がかかっているようでした。数メートル先もはっきり見えない視界不良の中会社に到着し、自転車を乗り捨てて階段を駆け上がり、2階にある非常灯に照らされた薄暗いオフィスに入りました。一呼吸ついて私が考えたのは、こんな大きな地震が起きたのだから日本でも報道されるに違いない。本社も、私の両親も心配するはず。そこで、まずは本社人事Hさんの携帯に電話し、就寝中のHさんを起こして次の説明をしました。

私「いま台湾で大きな地震が発生しました。停電中ですが町の様子を見たところ建物の倒壊はなくオフィスにも被害はありません。これから従業員と出張者の安全確認を始めます。出社されたらご連絡ください。」

続いて、両親に電話をして私の無事を伝えました。

再び、オフィスを出て1階に駆け下りて自転車に飛び乗りました。向かう先は150名以上の出張者がばらばらに滞在している4つのホテルでした。

当時の台湾では火災が多く、1997年にも顧客の半導体工場で大火災が発生し丸焼けになってしまい、保険会社との交渉で装置の状況確認の為に鎮火後の工場に入りました。また、飲食店、ホテル等、頻繁に火災が発生して、うろ覚えですが、当時の台湾の人口当たりの火災発生率は日本の25倍に達していたと思います。ホテルに到着した私は、火災の発生源として想定されたレストランの厨房の状況をホテルの従業員に確認し、出張者には部屋から出るように促してロビーに集めて次の指示をしました。

私「台湾では火事が多い。ホテルでは厨房からの出火がほとんどなので、安全が確認できるまでロビーで待機すること。もし、不安ならばオフィスに来れば私が対応する。」

出張者とホテルの安全を確認してオフィスに戻った私は、日本人出向者に電話をかけ続けました。当初回線は混雑していて話しが出来ないことがほとんどでしたが、だんだん通じるようになってきて数名を除き安全確認が出来ました。そうこうしている内に独身寮に住んでいる台湾人従業員がオフィスに出てきてラジオをつけて地震の情報収集を始めました。震源地は80キロ先で、紹興酒工場が爆発炎上したとか、マンションが複数倒壊して多くの人が下敷きになっている等、非常に大きな被害が出ていることが徐々に明らかになってきました。

オフィスを台湾人従業員に任せて、再び自転車に飛び乗って安全確認できなかった日本人出向者の社宅を訪ねました。揺れで部屋中がめちゃくちゃになっている等の話しはありましたが全員無事でした。

オフィスに戻ったころには白々と夜が明け始めていました。私はホワイトボードに地震発生から現時点までの安全確認の状況を記入し一旦帰宅して身支度をし、状況報告をするため社長がいる半導体工業団地内のオフィスへタクシーで向かいました。

当社の総経理(社長)Aさんは、営業と装置の保守サービスを委託している代理店の董事長(オーナー)でもありました。Aさんの台湾の半導体業界における影響力に依存していた当社の経営陣は、メーカーである当社が、顧客満足を高めるために現地法人を設立した後も、ビジネスパートナーとして代理店との良好な関係性を保つことを重要視しました。私の前任者である日本からの出向者の総経理が、現地法人として代理店に頼らず単独で台湾市場を押さえることを目論み暴走し、経営から本社に帰任させられました。その後任者である私の役割は、社長から「代理店との良好な関係性保つこと」そして「自分が社長になったつもりで仕事をすること」と諭され台湾に送り出されたのでした。そして、董事長であるAさんが当社の現地法人の総経理を兼務されることになり、私はAさんの部下となりました。

私は毎日、代理店のオフィスビルの最上階にある董事長室を訪ね、Aさんに決裁伺いと現地法人の状況の説明をしました。Aさんは、私が訪ねていくと、決裁は手短に済ませて、台湾のビジネスについて、台湾人について、いろいろなことを教えてくださいました。その中でも特に記憶に残っているのが9月21日朝に見たAさんの姿でした。

その日、董事長室に到着した私はAさんがいらっしゃらないことに気付きました。秘書が戻ってきてAさんに状況報告に来たと伝えると、隣の会議室にいると教えてくれました。会議室のドアをノックし、入室しようとドアを開けたところ、奥の中央にはAさんが陣取り、その両側に代理店の幹部、そして営業、技術のリーダークラスがずらっと居並んで緊張した空気が流れていました。というのも、地震による顧客工場の被害は想定よりも大きく、その一刻も早い復旧は、これは決して誇張ではなく、当時、半導体産業に大きく依存していた台湾経済の落ち込みを最小限に食い止めることが出来るか否かがかかっていました。

Aさんは会議室奥の壁面にある大きなホワイトボードに向かい、顧客名と連絡先、納入装置の製造番号を丁寧に書き出していました。そして、書き終わるたびに担当者に対して、各装置の被害状況の確認と報告を指示し、次々に送り出していきました。そして、最後に幹部に対して、初動の陣頭指揮は自分が行うこと。そして、方向性が固まったら対策本部は営業責任者のJさんを任命し、以後、全ての情報はJさんに集約して報告するように命じました。やがて、代理店側におけるAさんのすべての指示が終わったところを見計らって、私からAさんに、従業員と出張者の安全確認がとれたことを報告しました。Aさんは私の対応をねぎらい、今後は顧客工場の原状復帰に向けて日本からの応援が必要になるので、その連絡窓口をやるように指示されました。Aさんと向きあうと、どんな仕事でもできるのではないかと思わせてしまう不思議な魅力のある方でした。特に、あの時のAさんの姿はリーダーとして非常に頼りになる、この人についていけば絶対に大丈夫だと思わせるオーラが出ていました。私にとっての理想のリーダー像はこの時固まりました。

Aさんから指示を受け、オフィスに戻ろうとしたときに、深夜、私から電話をしておいた本社人事Hさんから電話がありました。私から、全員の安否確認が出来たこととAさんから受けた指示の内容について説明しました。Hさんも私をねぎらい、困ったことがあればいつでも連絡して欲しいと言ってくださいました。

それからしばらくしてHさんの部下Sさんから電話が入り「報告は現地からするもの」と言われたのに続いて、Sさんの口から出た次の言葉に私は耳を疑いました。

Sさん「今後は15分毎に状況を報告すること」

当地では混乱の中、懸命に活動しているのに「15分毎に報告せよ」などとよく言えるなと。私は憤りつつ「状況が変化し報告すべきことができたら報告します」と伝え電話を切りました。その後もひっきりなしに日本側の様々な部門から台湾の状況について問い合わせの電話が入り、その内の大部分は興味本位のものでしたので私は辟易しました。そこで、本社人事Hさんに再度依頼しました。

私「ただでさえ混乱しているのに、興味本位の電話の対応で忙殺されるのは避けたい。日本側で窓口を決め、重要なことのみ連絡するように社内で周知して欲しい。」

Hさんは私の意図を理解してすぐに対応してくれました。

その後、電力の供給が安定するまで数カ月かかったと記憶しています。台湾経済のけん引力である半導体工業団地には優先的に電力が供給され、市街地はいくつかのブロックに分けて半日毎に入れ替えで計画停電がありました。暑い夜をしのぐのは大変でしたがみんなで協力して何とか乗り切りました。日本で同じことをしたら大クレームが発生しそうなものですが、その時見た台湾人の姿は停電をむしろ楽しんでいました。多くの家の軒先に家族、友人が集まり、楽しそうにバーベキューパーティーをしていた光景が忘れられません。

余談ですが、本社からはその後一方的な要求が続きました。顧客工場の復旧応援に出張者を派遣するにあたって、急に台湾の安全性に敏感になったのでしょう。現地法人として予約を勧めているホテルの耐震性と防災基準を満たしていることを証明するように要求されたのです。さもないと出張者を出すことが出来ない、などとどこかの部門が騒いでいると推測できました。そこで私からは、我々がリストアップしたホテルは、消防から許可を得ていることは確認済で、一方、耐震性をどの程度備えているかは建築物の検査が出来ないので客観的な証明をすることは難しいと返答しました。しかし、なかなか納得してもらえず辟易しました。そこで、次のようにやり返しました。

私「台湾人従業員も日本に出張することが多いが、宿泊先として本社が予約を勧めているホテルの耐震性について確認ができていない。客観的なデータを出してもらえないと大切な台湾人従業員を日本に送り出せない。」

本社の担当者は、私に要求していたことの対応の難しさを実感したのでしょう。それ以降は要求して来ませんでした。

距離が離れている本社では、現場で起きていることに実感がわかず当事者意識になれないことは理解できます。しかし、現地は常に想定外のことが起きるので困っていることがほとんどです。本社がその声を受け止めて共感する姿勢さえあれば、信頼関係を築くのはそれほど難しいことではありません。そして、信頼関係さえあれば、当事者として勇気をもって問題の中に飛び込むことさえできます。台湾の地震は、私に「働く人々にとっての信頼関係とは、良い仕事をするために絶対に外すことのできない基本的条件である」ことを強烈に植え付けたのでした。

次回は、もう一つの有事、2001年9月11日に発生した米国同時多発テロに際して、私が最も尊敬する経営者が見せた行動について書きたいと思います。

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