違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑧)

韓国留学の想い出話は今回が最終回です。

これまで8回に渡って当時の記憶を呼び出し、文字起こしを続けてきました。すっかり忘れていたことをひとつ思い出して書いてみると、芋づる式にいろんな情景が浮かんできて、人間の記憶力というのはすごいものだと改めて気付かされました。

おぼろげだった韓国の記憶を文字にすることで得られた最も大きな気づきは、

「身近な人との親密な関係の大切さ」

を、二十歳そこそこだった私は、韓国の皆さんから教えてもらったんだな、ということでした。私にとって後にも先にもない超濃密な1年間に、たくさんのかけがえのない経験をさせてくれた皆さんに、今は感謝の気持ちでいっぱいです。

一方、韓国の皆さんに対する感謝の気持ちと裏腹に、昔も今も変わらない日本の課題を再認識することになりました。

私が韓国に留学することになったきっかけは、横浜の実家の隣にあった新聞販売店に住み込みで配達員をしながら日本語の勉強をしていた二人の韓国人留学生との出会いだったと「韓国留学①」で詳しく書きましたが、私と会うまで、彼らには日本人の友達が一人もいなかった、という事実はとても重いものでした。

留学の目的は、学校で勉強するだけではなく、人々との交流を通じて様々な文物に触れ、学び、その国を包括的に理解することだと思います。そのような意味で、日本の社会は留学生に、私が韓国で経験させてもらったような「身近な人との親密な関係」を提供出来ていたかというとそうとも言えず、今でもその状況はあまり変わっていないのかも知れません。ちなみに1990年に4万人ほどだった留学生の数は2019年には30万人を超えました。数は増えていますが、留学生の心理的満足度はどうなのか気になるところです。

ところで、私達の生活に意識を向けると、ネットが人類の認知力を上回る速度で発達し、普通に暮らす上で特に必要性を感じない情報の洪水の中で、私たちの間になんともいいようのない生きづらさが蔓延したようです。

またAIの普及により、我々のうかがい知らないところで、個人情報が抜き取られ解析されてメニューが作られます。そして、本来自由で多様であるはずの生き方さえ、誰かが決めたメニューの消化を、自発的、非自発的に従うよう操られています。
仕上げは、DX(デジタルトランスフォーメーション)といって、従来、生身の人間が果たしてきた仕事を、生産性というもっともらしい言葉によって、デジタル空間に移管されていきます。その結果、働くことによって得られる人間の根元的な幸せまでもが奪われつつあるように感じています。

このような時代だからこそ我々は、

「誰にも奪われない守り通すべきことを決める」

必要があると思うのです。

そして、この「守り通すべきこと」とは、私が韓国から学んだ、

「身近な人との親密な関係」

だということに気づいたのです。

但し「過去を忘れたい日本人」と「過去を忘れがたい韓国人」が親密な関係を築き保つことは並大抵のことではありません。これまで、たくさんの先輩方が努力を続けましたが、時々の政治や社会の空気に阻まれ失敗を繰り返しました。それでも諦めずに問題に向き合い続けて来れたのは、困難を乗り越えて結ばれた絆は揺るがないという信念があったからではないかと思います。さらに、困難を乗り越える知恵は、日韓関係のみならず、世界の分裂と分断を防ぐことにも生きるということを知っていたからではないかと思います。混とんとした先の見えない今だからこそ、日本人として韓国から目を背けず向き合い続ける必要があると思うのです。

さて、最後に、留学生活最後の3ヶ月間の出来事について書いて締め括りたいと思います。

1991年の12月になり、どんどん気温が下がって氷点下になり、シンリム(新林)洞のチョンさん家からの通学がいよいよきつくなってきました。留学に残された時間を出来るだけ有意義に過ごしたいと考えた私は、年末でチョンさんの自宅を出て再びシンチョン(新村)の下宿に移ることにしました。留学当初、韓国語が出来なかった私は先輩に助けもらって下宿を探しましたが、それから8ヶ月ほど経ち、一人で探すことが出来るようになっていました。

シンチョン(新村)には、門塀にハスク(下宿)と表示されたレンガ造り戸建の家がたくさんありました。最初の下宿の位置から、もっと延世大学に近い付近を中心に、ハスク(下宿)と表示された家を一軒ずつ訪ね、部屋を見せてもらい、下宿費を確認して回りました。下宿費は、食事+洗濯+掃除込みで、トㇰパン(独房)と呼ばれる一人部屋が最も高く1ヶ月25万ウォン程したと思います。パンヂハ(半地下)になると値段が下がり、さらに、洗濯以外のサービスを外すと一ヵ月20万ウォンを下回るくらいの金額になりました。私は、パンヂハ(半地下)のトㇰパン(独房)、食事、掃除無しの条件で入居しました。

私が入居したとき、隣の部屋には既に女子学生姉妹が住んでいました。上はイファヨジャデ(梨花女子大)の3年生。下はソガンデ(西江大)の1年生でした。入居してすぐに歓迎会があり、私と女子学生姉妹が住むパンヂハ(半地下)から、上層階に住む下宿生全員と交流する機会があり、一緒にお酒を飲んで語り合いました。男子学生は全員、軍務に就く前で、女子学生も含めて全員私よりも年下でした。よって、彼ら、彼女たちは私を「ヒョン(男⇒男)」「オッパ(女⇒男)」と呼びました。特にパンヂハ(半地下)で隣の女子学生姉妹はしょっちゅう私の部屋のドアをノックして、「オッパ(お兄ちゃん)、スルマシロカジャ(お酒のみに行こう)」とか、「オッパ(お兄ちゃん)ヨンファポロカジャ(映画観に行こう)」等と誘われました。シンチョン(新村)ロータリー(交差点)には、当時、映画館や市場、デパートが集まっていて、また夜になるとポジャンマチャ(幌馬車)と呼ばれる屋台の飲み屋が出てました。映画を観て、ポジャンマチャ(幌馬車)でマッコルリや焼酎を飲みました。

年が明けて1992年は異常低温の冬でした。気温は氷点下18度まで下がりハンガン(漢江)は完全に凍りました。

そんなある日、ポジャンマチャ(幌馬車)で一人マッコルリを飲んでいて、すっかり酔いが回り気持ちが良くなってきて店を出て、すぐ裏のハニル(韓一)銀行の入り口にあった、数段の大理石の階段にしゃがみこみじっとしていたら、さらに気持ち良くなり意識が遠のきました。今考えてみると、氷点下20度近い環境で眠れば誰でも凍死してしまいます。凍死する前は眠くなって気持ちよくなると映画「八甲田山」で知りましたが、本当にその通りでした。

しばらくして、二人の若いお巡りさんが近寄ってきて、

「お兄さん、こんなところで寝ると死んでしまうよ。家はどこですか?」

と声をかけて起こしてくれました。二人は私の両腕を抱きかかえて持ち上げ立たせてくれました。意識もうろうとしていたので、どうやって二人に行先を説明したのか記憶がないのですが、自分の下宿ではなく、Aさんの下宿に連れて行ってもらいました。その後のことはよく覚えていないのですが、朝起きたらAさんの部屋にいました。二人の若いお巡りさんは私の命の恩人なのです。

また、誰から言われたか忘れましたが、「シンチョン(新村)に若い日本人の女性が住んでいて、毎朝、極寒の中を新聞配達している。非常にみすぼらしい服装で、ひょっとすると困っていることがあるかもしれない。同じ日本人として一度会って欲しい」と、その女性を紹介されたことがありました。

カフェで待ち合わせをして現れたのは、目がぱっちりした小柄の可愛い女性でした。しかし、彼女が身に付けていたのは、だぶだぶのズボンと薄汚れたジャンパー。その容姿のアンバランスさにびっくりしたことを覚えています。彼女は韓国に来て半年。ある宗教法人が発刊する新聞の販売店で住み込みで働き、毎朝夕配達の仕事をしながら韓国語を勉強していました。そして彼女はその宗教の信徒でした。「朝は寒いし配達はとても大変でしょう」と私が質問すると、「教祖様の教えがあるので傍からどんなに大変だと思われても苦しいとか辛いとか思ったことはありません」とのことでした。私も韓国留学する前に新聞配達のバイトをしたので、その大変さは理解しているつもりでしたが、彼女の場合は極寒で、しかも自転車での配達なので私の経験など全く比較にならない条件でした。

「困ったことがあればいつでも連絡してください」

と下宿の電話番号を渡しましたが、結局、電話がかかってくることはありませんでした。

他にも本当に多くの皆さんとの出会い、交流がありました。

Kさんに紹介してもらったソウル市立舞踏団のトップダンサーの男性。セジョン(世宗)文化会館に公演を観に行き、その後一緒に食事をしたことが想い出されます。当時、セジョン(世宗)文化会館の裏手には小さい平屋の木造家屋が並んでいて、その中に彼は住んでいました。ものすごくカッコよい人でしたが、ちょっとびっくりすることがあって。。。

KBS(韓国放送公社)の職員で台湾駐在時に台湾人アナウンサーの女性と国際結婚して、ヨイド(汝矣島)にあった、当時はまだピカピカだった現代アパート(日本のマンションに相当)に住んでいたご夫婦。お二人を訪ねて食事をご馳走になりました。台湾人の奥さんがものすごい美人でびっくりしたのと、二人はよく喧嘩をするのだが、その原因は常に韓国と台湾のカルチャーの違いだという面白い話を聞かせてもらいました。その時は、私が台湾人と結婚するなど夢にも思いませんでした。

チョンノ(鐘路)にあった有名な映画館、ピカデリー劇場の向かいの雑居ビルの中で、パンソリ、コムンゴ、カヤグムといった韓国伝統音楽を女性たちに教えている人間国宝のおじいさんがいらっしゃいました。練習を見学させてもらったのですが、ものすごい音圧に圧倒されました。また、女性たちが一生懸命、伝統音楽を練習する姿に感銘を受けました。

国立中央博物館の主席研究員で韓国民謡研究家のイ・ソラ先生。先生は朝鮮半島全土に口伝で伝わるアリラン研究の第一人者として有名な方でした。アリランの中のアリランは、「ミリャン(密陽)アリラン」だと。

아리아리랑 스리스리랑 아라리가 났네
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ

と唄われました。とても笑顔が素敵で、研究に生涯を捧げるために結婚はとうの昔に放棄したのよ、と笑っておられたその時の声が今でも聞こえてきそうです。

そして、ユン・ソㇰフンさん。ウエスティンチョスンホテルにオフィスがあった、トラベルジャーナルという旅行雑誌の記者でした。ユンさんとの交流はその後ずっと続き、私が帰国後、今度は彼が日本語を勉強しに日本に留学することになり、私の実家に2年間ホームステイをしました。日本で知り合った女性が韓国帰国後にパティシエになり、二人は結婚しました。お嬢さん(アイドルグループのリーダーとして活躍)と息子さんに囲まれて幸せに暮らしています。4年前、偶然連絡が取れたユンさんと、シンチョン(新村)のトㇰスリタバン(今はトㇰスリカフェ)で20年ぶりに再会した時は、二人で抱き合って泣きました。私にとってただ一人のヒョン(兄貴)です。

他にも私の記憶の中には韓国で出会ったたくさんの皆さんの笑顔と声があります。それらはきっと私が人生の最後を迎える瞬間に鮮やかによみがえることでしょう。その時、私はきっと、そのお一人お一人に向けて「ありがとう」と感謝の言葉を贈ると思います。韓国と出会ったことで、人生の深遠さや友情や愛やいろいろなことを学び私の人生は何倍も面白くなりました。これからもずっと、チャルプタカムニダ(よろしくお願いします)❗

終わり

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