「人は2度死ぬ」という話しを聞いたことがあります。1度目は実存の死。そして、2度目は人々の記憶から消える時。ソウルで過ごした1年間に出会った方々は、皆さん強烈な個性を放っていて、それぞれに忘れがたい想い出があります。その中でも特に深く刻まれた想い出は、1991年当時、既にご高齢だった皆さんのことです。今となっては既にお亡くなりになられている可能性が高く、再会は叶わないかもしれない皆さん。私の記憶の中で今でも元気に生き続ける皆さんのことを書き留めておくことにしました。
・深夜の誤報
1991年当時、ソウルでは月一回(確か15日)の正午過ぎに、20分間のミンバン(民防)というものがありました。北朝鮮からの攻撃を想定した防空訓練のことです。ソウル中にサイレンが鳴り響き、二度目のサイレンが鳴るまでの間、歩行者は建物の中、地下道等の退避所に入りじっとしていなければなりません。また、自動車、バスもすべて運行を止めて路上で待機しなければならず、従わないと逮捕されると聞きました。ミンバン(民防)の前には、ミンバン(民防)委員が街中に出てきて、うろうろしている人がいないか監視をします。私たち留学生も、ミンバン(民防)開始前には食堂に入るなど待ちぼうけを食わないように対処しました。計画的な訓練ですので、混乱ひとつなくスムーズに運用していたと思います。
シンチョン(新村)の下宿で過ごしていたのある日のこと。日付は忘れましたが、気候も暖かくなっていたので6月だったのかもしれません。皆が寝静まった深夜に、突然ソウル中にミンバン(民防)のサイレンが鳴り響いたのです。就寝中だった私はサイレンの音に驚いて目を覚ましました。続いて、階下から階段を駆け上がってくる音がしたかと思うと、下宿の主人(おじさん)が私の部屋のドアをすごい勢いで開けて、
「逃げるぞ!今すぐ荷物をまとめて!」
と叫んだのです。私は熟睡中を突然起こされて何が何だかさっぱりわからず、ぼーっとしていたのですが、隣の部屋の日本人のおじさん(韓国の児童文学の研究者)、また、向かいの部屋の相部屋の韓国人2人(ロッテデパートの会社員と、ソガン(西江)大学の大学院生)の部屋からは、ごそごそと何かを始めたような音が聞こえてきて、これは本当に何かが起きたのでは、と目が覚めました。
大急ぎで服を着て、パスポートと財布をバッグに入れ、階段を降りると、おじさんは興奮気味に、韓国語でおばさんに何かを話していました。そして、下宿生全員が集まったところで、次のように言いました。
「これは北朝鮮が攻めてくることを知らせるものだ。とにかくハンガン(漢江)の南へ行こう。ハンガン(漢江)を渡らないと北側に取り残されて北朝鮮に殺されるぞ!」
私は、おじさんが鬼のような形相で興奮して話す様子を聞いて唖然としました。
ソウルを東西に横切るハンガン(漢江)には、いくつかの大きな橋が架かっているのですが(その中のひとつソンス(聖水)大橋は1994年10月21日に事故で崩落)、それらすべての橋の中間地点に設置された詰め所にはダイナマイトが仕掛けられており、韓国軍は有事にはこのダイナマイトで橋を爆破して、北朝鮮軍が南に進行するのを食い止めると聞いていました。大きなリュックを背負ったおじさんとおばさんを先頭に私たちは外に出ました。その時、再びサイレンの音が鳴り響きました。おじさんとおばさんは、外に出ていた近所の人たちと話を始めました。そして、私たちのところに戻ってきて、
「誤報だったみたいだ」
と言いました。その時のおじさんの安堵した表情を忘れることが出来ません。そして、おじさんは居間に戻った私たち下宿生に昔話を始めました。
朝鮮戦争の時、北朝鮮軍に追われ南へ南へ逃避行して、とうとう釜山まで逃げた。逃げ遅れた人は捕まってひどいことをされた。だから、いまでも北朝鮮が襲ってくる夢でうなされることがある。釜山を除く朝鮮半島をすべて北朝鮮軍に占領された韓国は絶体絶命の危機に陥った。そして、マッカーサー率いる国連軍がインチョン(仁川)に上陸し占領地を奪回していった。38度線の北側へと北朝鮮軍を押し上げていき南が優勢になったところに、中国軍が参戦して一進一退となり、38度線が停戦ラインに定められた。
1991年当時は、朝鮮戦争を経験し、その記憶がまだ生々しい世代がご健在でした。ミョンドン(明洞)など繁華街では、戦争で負傷して腕や足を失った人たちが腹ばいになって、アンプ付きのスピーカーにつなげたマイクで歌を唄い、募金を求めているのも日常の光景でした。1991年、日本が太平洋戦争終結後46年を迎えたその年、韓国は朝鮮戦争停戦後38年を迎えました。その違いはたったの8年間です。しかし、両国の戦争に対する危機感は天と地ほどの開きがありました。朝鮮半島は休戦状態。目と鼻の先にいる北朝鮮がいつ攻めてくるかと戦々恐々としている人がまだまだ多かった時代でした。深夜の誤報は、普段見ることが出来ない朝鮮半島の緊張状態を見せつけられた出来事でした。
・地下道のおばあさん
次は、日本統治下で生まれ、2つの戦争を生き抜いた一人の女性の話しです。
学校帰り、また、前述したミンバン(民防)のとき、私は、延世大学正門前の大通りの下を潜り抜ける地下道の真ん中にあった「売店」のおばあさんを訪ねました。初登校の時にこの売店にふと立ち寄り牛乳を買ったとき、おばあさんは私に向かって「日本人だね。日本人が好き」と言いました。それ以来、私にとても親切にしてくれて、いろんな話しを聞かせてくれたおばあさん。この方が歩んでこられた人生の断片を知って、韓国という国は決して一枚岩ではなく、様々な価値観と、ものの考え方が複雑に絡み合って成り立っている国なのだ、ということを学びました。
おばあさんは1991年当時、既に70歳を超えていたと思います。日本統治下のソウルで生まれ育ち、太平洋戦争開戦(1941年)の時は既に結婚していたので、大正生まれだったのかもしれません。 おばあさんが持っていた日本人像は「律儀」「親切」「正直」「真面目」。少し買いかぶりすぎかなと思いましたが。。「それにひきかえ・・人は」というのが口癖でした。おばあさんは、私と話しをする時には流暢でとてもきれいな日本語を使いました。「ですます」ではなく「ございます」。尊敬語、謙譲語、丁寧語も完璧に使い分けて、まるで国語の先生から正しい日本語を教えてもらっているようでした。
一方、とても和やかな私たちの日本語の会話の合間に、大学生が売店にやってくるとおばあさんの表情は豹変し、激しく辛辣な韓国語で叱りつけました。まだ、韓国語をきちんと理解できなかった私でしたが、叱りつけられた学生の表情を見て、相当こっぴどく言われたんだなということが分かりました。そして、おばあさんは私に「韓国では躾がなっていない。これじゃ先が思いやられるよ」と愚痴をこぼしました。
おばあさんが日本人を美化したのは、日本統治下のソウルでの美しい想い出があったからです。
小学生のとき担任の先生は優しい日本人の女性だったそうです。その先生は、お弁当を持ってこれない生徒がいると自分のお弁当を分けて食べさせていた。そして、先生と一緒に歌を唄ったり、お遊戯をしたり、絵をかいたり、夢のような楽しい時間を過ごしたと。そんな話しをしているときのおばあさんはまるで少女時代に戻ったように穏やかな表情をしていました。そこに学生が来ると鬼のような表情になって叱りつける。その豹変ぶりを横で見ていて面白く、何度もふき出しそうになりました。戦争が激化し、日本の敗戦で日本人は本土に引き上げていき、朝鮮半島は南北に分断され、政情不安であちこちで物騒なことが起き始めた。そんなときにいつも思い出したのは少女時代、小学校の先生と一緒に過ごしたときのことだったそうです。朝鮮戦争でご主人を無くし、息子を連れて逃避行して命をつなげた。戦後は女手一つで息子を学校に通わせ、今、息子夫婦はアメリカにいて孫もでき幸せに暮らしていると。自慢げに写真を見せてくれたおばあさん。でも、どことなく寂しい表情を浮かべていました。いろんな複雑な事情があるのだろうと察しました。
おばあさんとの交流は私の留学中ずっと続きました。そして、日本に帰国後、就職した最初の年に韓国への2ヵ月間の連続出張があり、その時もおばあさんを訪ねました。就職して戻ってきたと話すとおばあさんはとても喜んでくれました。そして、1997年のアジア通貨危機で韓国経済が大混乱に陥った時、再びソウルを訪れた私は地下道のおばあさんを訪ねました。しかし、売店の入り口は鉄板でふさがれ、固く南京錠で閉ざされていました。その後、2000年代に入り、ソウルを訪れるたびに地下道へおばあさんを探しに行きましたが結局再会は叶いませんでした。
「日本びいき」というと、留学の最後に偶然乗ったタクシーの運転手さんのことを思い出します。私が話す韓国語で外国人と分かった運転手さんは「日本人ですか?」と質問してきました。私が「はい、ソウルに一年いました」と答えると次のことを話し始めました。
「一年の間に、いろいろ嫌な思いをしたでしょ。日本人だから悪いとか、どうとか言われませんでしたか? 私の母はね、日本統治下で生まれ育ったんですが、私たち兄弟にね「日本人だからという理由で悪く言ったりしてはいけないよ。私はとても良い日本人を知っている。韓国にも日本にも良い人もいれば悪い人もいる。だから、偏見で決めつけてはだめだよ」とね。だから、ずっとそう言われて育った私は母にとても感謝しています。」
私はタクシーの後部座席からじっと運転手さんの話しに耳を傾けました。1年間を振り返り、いろいろなことが頭に浮かんできて涙が出そうになりました。
・謎の外国人
以前のブログで紹介した、足掛け9年ソウルで過ごした勇者、Kさんが住んだ最初の下宿は、チョンノ区チェブ洞といって、李氏朝鮮時代の王宮キョンボックン(景福宮)の西側に広がる、ハノク(韓屋)と呼ばれる韓国式家屋が軒を連ねる歴史地区の中にありました。その北側には大統領府チョンワデ(青瓦台)、韓国で最も有名な道路と言っても過言ではないセジョンノ(世宗路)まで徒歩で行けるソウルのど真ん中でした。街に一歩足を踏み入れると、チャングムやファンジニのようなTV時代劇の世界にタイムスリップしたかのような街並みが残っていて、ここがとても好きになった私は、Kさんの下宿に度々お邪魔してご飯をご馳走になりました。下宿のおばさんは嫌な顔一つせず、いつも温かく迎えてくれました。
下宿は、まず門をくぐるとマダンという中庭があり、それをぐるりと取り囲むように6畳ほどの部屋が並んでいる平屋構造になっていました。トイレとシャワーは離れになっていて、その壁面にある階段で屋根に昇ると、ぐるりと周囲の家々を見渡すことが出来ました。満月の夜、ここでお酒を飲みながら、ハノク(韓屋)独特の屋根が延々と続く景色を眺めながら月見をした時の光景はため息が出るほど美しかったです。この地区は、その後再開発の対象となり、すっかり古い建物が取り壊されてしまったようです。本当に残念です。
この下宿にはKさんともう一人下宿人がいました。お名前は「ジミーCハンさん」という韓国系アメリカ人でした。がっちりとした体格で身長は180センチ近くあったでしょうか。短く切った髪、肌は艶々していて若々しい人でしたが、ご自身の言葉では70歳だと言っていたような。。ベイビーフェイスで親しみを覚える方でした。
ハンさんは、語学堪能で、英語、韓国語、中国語、日本語、ロシア語を使いこなしました。普段はずっと部屋にこもっていたのですが、たまに出てこられるとKさんの部屋を覗いて私たちと会話をしました。ハンさんの部屋にはいろいろな言語の新聞、本、そして無線機のような機械が置かれていました。時々、ハンさんの部屋から中国語やロシア語が聞こえてきて、いったい何をしている人なんだろうとKさんと不思議に思っていました。
ある日、ハンさんは私たちの疑問に答えるように自身のことを話し始めました。
アメリカ大使館に所属して軍関係の仕事をしている。朝鮮戦争の時、インチョン(仁川)上陸作戦にマッカーサーの副官として参加した。マッカーサーと並んで上陸した時の写真を私たちに見せながら自慢気に語りました。日本が好きで、力道山が友達だった。後ろから見るとハンさんは力道山と体格、背丈が一緒なのでよく間違えられた。力道山はヤクザに刺されて死んでしまって残念だったとしみじみ語っていました。
先日、Kさんと28年ぶりに再会した時、ハンさんのことが話題になって、Kさんが「あの人は本当に存在していた人だったのか、それとも夢だったのか迷うことがあるんですよね」と。私たちにとってハンさんはそのくらい不思議な存在だったのです。確かにそこにいたはずなのだけど、夢か幻かと思ってしまうような人というのは、私にとっては後にも先にもハンさんお一人だけです。ハンさんはその後、下宿を出てアメリカ軍の基地近くに引っ越してしまいました。一度、食事をご馳走になったのですが、それ以来一度もお目にかかっていません。
下宿のおじさん、地下道のおばあさん、謎の外国人(ハンさん)は、今、私が心の底から会いたい人たちです。