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新時代の幸福論(回遊魚として生きる①)

私の理想は「回遊魚」のような生き方をすることです。「回遊魚」とは、成長段階や環境の変化に応じて、生息場所を移動する海や川に生息する魚のことですが、人間社会に当てはめれば、特定の地域、組織に縛られず、自由に生きることを優先して、その時々のご縁を頂いて仕事場を変え続けるということになるでしょう。

最近、尊敬するメンターSさんの紹介で、私の経験を、

「さすらいの人事マンとして働いてきた見聞録」

というタイトルでお話しする機会を頂きました。資料を作成をする過程で、「回遊魚」として生きたい私が、これからも良い回遊をし続けるためには、3つの「座標軸」をしっかりグリップしておく必要があることに気づきました。そして、この3つの「座標軸」をもれなく持つと、それらが交わる「座標」を獲得し、「座標」があると、「いま、ここ」への納得感、安定感が高まって、自ずと「回遊」を始めて、自分と他者とを隔てる「境界」を乗り越えていく。。そんなイメージが頭に浮かんできました。

私が考える「3つの座標軸」とは、

①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事

です。この内のどれかが欠けても「良い回遊」は出来ません。どれかが欠けた「座標」をもたない状態で「回遊」を始めてしまうと、「死滅回遊」してしまいます。

回遊性を持たない動物が、海流や気流に乗って本来の分布域ではない地方までやって来ることがある。これらは回遊性がないゆえに本来の分布域へ戻る力を持たず、生息の条件が悪くなった場合は死滅するので、死滅回遊(しめつかいゆう)と呼ばれる。(Wikipediaより)

社会を見渡すと、「死滅回遊」してしまった人がいることに気づかないでしょうか。おそらく前述の「座標軸」の内、どれかが欠けた状態で「回遊」を始めてしまった人なのではないかと思います。

ちなみに、私にとって理想の「座標」を言葉にしてみると、

「すべての人が、身近な人との親密な関係を築き、各々が持つ才能と能力を、人の為、仲間の為、家族の為、社会の為、地球の為に存分に発揮して、イキイキ、ワクワクした人生を手に入れることに関わること。」

となります。こんなことを言うと、

「何を青臭いことを言っているんだ。」

「仕事なんて給料をもらうためにやっているんだ。」

「生きていくためには好きなこと、やりがいなんて言っていられない。」

など、私をたしなめる(注意する)声が聞こえてきそうです。

しかし、考えてみてください。コロナウィルス感染拡大によって、私たちには「最も大切なこと」が問われていますよね。「最も大切なこと」とは、言葉を変えれば、

「一人一人にとっての幸福とは何か?」

ということでしょう。

私の考える「幸福」の条件とは、①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事 という3つの「座標軸」を持つこと。そして、それらの接点である「座標」を獲得して、「回遊」することによって自由を得ること、という考えを持っています。

一方、これまでの一般的な日本の働く人の生活環境は、仕事の場とそれ以外のふたつに単純化されていて、それは、会社員が過ごす時間と場所に如実に表されています。

長時間勤務で仕事をしている時間が圧倒的に長く、人間関係も会社中心。家には寝るためだけに帰るという人は相変わらず多いのではないでしょうか。そして、仕事以外の時間は、家でくつろいでいるか、趣味で気分を紛らわせる程度です。そこからは個人の生きがい(人生の目的)を見い出すことが難しい。それが、日本を支えてきた圧倒的多数の働く人の人生だったのではないでしょうか。

大多数の働く人が、そんな矛盾を抱えて、当然、誰でも抱くような疑問を封印することが出来たのはなぜでしょうか。それは、終身雇用と年功序列によって、将来起きることをある程度予想出来る、人生の目途が立ったからです。よって、自由度が低く、多少抑圧的であっても、個人にとって合理的な生き方だったため、企業による社員の囲い込みがうまくいって経済成長に寄与し、結果的に社会全体の生活水準向上という好循環も生じさせました。しかし、平成の30年間が終わり、令和になって、それは過去の出来事になりました。

いま、私たちには、組織に属して社会の一構成要素として受け身で生きるのではなく、人間の本来の姿(一人一人の幸福の追求)に立った生き方が求められていると思います。

私が考える人間本来の姿とは、

「身近な人との親密な関係を基盤にして、人生の目的を意識しながら、好きな仕事をしている状態」

です。それが、私たちの基本的な欲求であり、原点だと思います。

そこで、今回から3回に分けて、私の考える「幸福」の条件である3つの「座標軸」、

①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事

について、考えてみたいと思います。

今回は ①良い人間関係 についてです。

繰り返しになりますが、今、世界中がコロナウィルスに翻弄されています。

ソーシャルディスタンスによって物理的距離感だけではなく、人と人との間の精神的な隔たりも生じています。個人の行動が制限され、経済活動も抑制され、雇用が不安定となり、所得格差がますます広がる中で、私たちの社会が「分裂」や「分断」の危機に直面していることを私は強く感じています。

但し、忘れてはならないのは、コロナ禍以前にも、日本の多くの職場では、「人間関係の希薄化」という名のソーシャルディスタンスが蔓延していました。さらに、頻繁に見聞きするようになった、「生きづらさ」という言葉。それがコロナ禍により、一層深刻化したということです。つまり、すべての原因をコロナ禍に求めるというのは誤った解釈だと思います。

コロナ渦以前に既にあった、「職場の人間関係の希薄化」の原因は何なのでしょうか。諸説あると思いますが、私は、急速に進んだ「雇用形態の多様化」、つまり、「非正規雇用社員の増加」が決定的だったと考えています。

現在、正社員、非正規雇用社員(契約社員、派遣社員、パート(アルバイト))など、様々な形態で雇用される人が同じ職場で協同しています。もはや、一人一人の「働く目的」を一致することは難しくなりました。

正社員と、非正規雇用社員との間に生じた所得格差は拡大して、ランチや、職場メンバーによる会食を一緒に楽しむこともできなくなっています。

そんな一体感を感じにくくなった職場で、もし急を要する問題が生じた場合どうなるでしょうか。恐らく、多くの場合、

「問題を放置する」

もしくは、

「当事者の意見を聞かず、解決策を一方的に決めて強引に押し付ける」

のではないでしょうか。その結果、問題解決は空振りに終わるか、逆に不信感を増長することにもなりかねません。

「雇用形態多様化」により「非正規雇用社員」を増やしたことは、経営の視点では人件費コントロールに一定の成果があったかもしれません。しかし、物事には必ずリアクションを伴います。その結果としての「人間関係の希薄化」と、それに付随してい生じた問題に対しては、まだまだ有効な対策が満足に講ぜられていないように見えます。

「雇用形態多様化」がもたらした問題とは一体何なのでしょうか。

いくら働いても生活保護水準、もしくはそれを下回る程度の賃金しか得られない「ワーキングプア―」。雇止めへの不安から、結婚できない、子供が作れないという人々が増え、人口減少が止まらない社会。そして、職場内の人間関係の希薄化によるメンタル不全やハラスメントの問題、等々。

これらの現象が日本社会の不安材料だということは誰でも知っているはずです。しかし、ほとんどの人は自分事として捉えていないように見えます。

まず、非正規雇用社員の人は、他の非正規雇用社員が抱えている問題に関与する余裕がなく自分のことで精一杯でしょう。また、雇用を保証された正社員からすると、いつ仕事を失うかもしれないという不安の実感がわかず共感できない、という感じでしょうか。

しかし、これまで目の前の問題に対して積極的に対応してこなかった人々にも大きな変化の波が訪れています。

昨今のリモートワーク導入を契機として、大企業を中心に高度経済成長以降、日本企業で一般化していた「メンバーシップ型」と呼ばれる人事制度を刷新し、「ジョブ型」に改めようとする動きが活発化しています。

「ジョブ型」とは、各自がやるべき仕事と、期待される成果を明確化して、出来ている人(こと)、出来ていない人(こと)をはっきり区別することを意味していて、「働き方改革の総仕上げ」とも言える雇用(人事)の大変革なのです。

私見ですが、その実態は、正社員を峻別したい経営者と、雇用流動性を高めて産業間にあるマンパワーの過不足を調整したい政治の思惑があるように思います。

「ジョブ型」が普及した職場では、やるべき仕事がはっきりする反面、契約で決められたこと以外はしなくても良いという理由が労働者に与えられます。例えば、目の前で困っている人がいても手を貸しても貸さなくても評価は変わらない。逆に、自分が困っていても周囲に助けを求めることを躊躇するようになります。結果として、自己責任が自己増殖して、益々職場の人間関係が希薄化するという悪魔のサイクルに陥る可能性があります。

ただでさえ問題視されている「人間関係の希薄化」がさらに進むとどうなるでしょうか。個人はますます孤立化し、社会の「分裂」と「分断」が一層深刻な事態になります。失業者と生活困窮者が増え、自死を選ぶ人が増えます。犯罪が増えて治安が急速に悪化する可能性もあります。すでにその兆候は表れているのではないでしょうか。

日本社会がこのような最悪な状況に至る道を歩まないようにするためには、私たち一人一人の積極的関与が必要だと思います。それが、今回のテーマである一つ目の座標軸、「良い人間関係を築く」ということなのです。言葉を換えれば、「身近な人との親密な関係を築く」ということです。私が考える、「親密な関係」とは、「互いに強いつながりを持った関係」のことです。

人間は、かつて大きな環境変化に何度も直面しながら、その都度適応して新しい生き方を編み出してきた「叡智」を備えた存在のはずです。

私が考える、人間が持つ「叡智」とは、

「他人を他人と思わず、他人と自分とを隔てる境界線を乗り越え、あらゆる人と親密な人間関係を築く」

という実践知のことです。

前述したように、雇用形態の多様化によって、既に職場には、自分とは「立場が異なる」大勢の人たちがいます。その、かつてはマイノリティー(少数派)だったはずの非正規雇用社員は、もはや全就労人口の30%を超えてマジョリティー(多数派)化しています。まずは、その人たちとの向き合い方をどう変えるか、なのです。

「自分は正社員で雇用が守られているから非正規社員のことは関係ない」

「自分の雇用は守られているから当面は安全だ」

などと、他人事で済ませていてはいけないということです。

これは職場に限ったことではありません。私たちは、身近な人々が必要としていること、困っていること、助けて欲しいと思っていることの理解に努めて、何らかの関わりを持とうとしているでしょうか。他人だから関係ないからといって無視してはいないでしょうか。あらゆる人間の集まりにおいて同様のことが言えると思います。

私は、政府主導で進めてきた「働き方改革」は、結局、私たち一人一人に本当の幸福感を与えていないし、むしろ「生きづらさ」の原因にさえなったのではないかと考えています。ただし、今となっては悪者探しをしていても埒があきません。政府に言いたいことはぐっとこらえて、私たち一人一人が、今おかれた環境で、身近で起きる問題を自分事として捉え、その解決に向けて主体的に関わることが出来るかが、未来を決定する分水嶺です。いま、ここから「身近な人とのかかわり方を変える」ことが重要なのです。

ネット上の情報や報道を観ると、「分裂」と「分断」に逆らうように、次々と社会にイノベーションを起こしているフロントランナー(先駆者)たちがいることを知り大変心強いです。彼ら、彼女たちは、地域社会において、「身近な人との親密な結びつき」を大切にしながら、強い意志をもって、その範囲を拡大していくという共通点があります。そして、どんなにその活動の範囲が広がっていっても、その活動の起点である、「身近な人との親密な関係」を大切に温存しているという特徴があります。そこから、私たちが目指すべき指針が得られるのではないかと思います。

最後に、私が取り組みたいことを書きます。

「ひとつでも多くの組織に、身近な人々同士の親密な人間関係を育み、それをベースにした、会社、社会全体への良い人のつながりを広げていくこと。」

次回は、人生の座標軸 ②人生の目的 について書きたいと思います。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑧)

韓国留学の想い出話は今回が最終回です。

これまで8回に渡って当時の記憶を呼び出し、文字起こしを続けてきました。すっかり忘れていたことをひとつ思い出して書いてみると、芋づる式にいろんな情景が浮かんできて、人間の記憶力というのはすごいものだと改めて気付かされました。

おぼろげだった韓国の記憶を文字にすることで得られた最も大きな気づきは、

「身近な人との親密な関係の大切さ」

を、二十歳そこそこだった私は、韓国の皆さんから教えてもらったんだな、ということでした。私にとって後にも先にもない超濃密な1年間に、たくさんのかけがえのない経験をさせてくれた皆さんに、今は感謝の気持ちでいっぱいです。

一方、韓国の皆さんに対する感謝の気持ちと裏腹に、昔も今も変わらない日本の課題を再認識することになりました。

私が韓国に留学することになったきっかけは、横浜の実家の隣にあった新聞販売店に住み込みで配達員をしながら日本語の勉強をしていた二人の韓国人留学生との出会いだったと「韓国留学①」で詳しく書きましたが、私と会うまで、彼らには日本人の友達が一人もいなかった、という事実はとても重いものでした。

留学の目的は、学校で勉強するだけではなく、人々との交流を通じて様々な文物に触れ、学び、その国を包括的に理解することだと思います。そのような意味で、日本の社会は留学生に、私が韓国で経験させてもらったような「身近な人との親密な関係」を提供出来ていたかというとそうとも言えず、今でもその状況はあまり変わっていないのかも知れません。ちなみに1990年に4万人ほどだった留学生の数は2019年には30万人を超えました。数は増えていますが、留学生の心理的満足度はどうなのか気になるところです。

ところで、私達の生活に意識を向けると、ネットが人類の認知力を上回る速度で発達し、普通に暮らす上で特に必要性を感じない情報の洪水の中で、私たちの間になんともいいようのない生きづらさが蔓延したようです。

またAIの普及により、我々のうかがい知らないところで、個人情報が抜き取られ解析されてメニューが作られます。そして、本来自由で多様であるはずの生き方さえ、誰かが決めたメニューの消化を、自発的、非自発的に従うよう操られています。
仕上げは、DX(デジタルトランスフォーメーション)といって、従来、生身の人間が果たしてきた仕事を、生産性というもっともらしい言葉によって、デジタル空間に移管されていきます。その結果、働くことによって得られる人間の根元的な幸せまでもが奪われつつあるように感じています。

このような時代だからこそ我々は、

「誰にも奪われない守り通すべきことを決める」

必要があると思うのです。

そして、この「守り通すべきこと」とは、私が韓国から学んだ、

「身近な人との親密な関係」

だということに気づいたのです。

但し「過去を忘れたい日本人」と「過去を忘れがたい韓国人」が親密な関係を築き保つことは並大抵のことではありません。これまで、たくさんの先輩方が努力を続けましたが、時々の政治や社会の空気に阻まれ失敗を繰り返しました。それでも諦めずに問題に向き合い続けて来れたのは、困難を乗り越えて結ばれた絆は揺るがないという信念があったからではないかと思います。さらに、困難を乗り越える知恵は、日韓関係のみならず、世界の分裂と分断を防ぐことにも生きるということを知っていたからではないかと思います。混とんとした先の見えない今だからこそ、日本人として韓国から目を背けず向き合い続ける必要があると思うのです。

さて、最後に、留学生活最後の3ヶ月間の出来事について書いて締め括りたいと思います。

1991年の12月になり、どんどん気温が下がって氷点下になり、シンリム(新林)洞のチョンさん家からの通学がいよいよきつくなってきました。留学に残された時間を出来るだけ有意義に過ごしたいと考えた私は、年末でチョンさんの自宅を出て再びシンチョン(新村)の下宿に移ることにしました。留学当初、韓国語が出来なかった私は先輩に助けもらって下宿を探しましたが、それから8ヶ月ほど経ち、一人で探すことが出来るようになっていました。

シンチョン(新村)には、門塀にハスク(下宿)と表示されたレンガ造り戸建の家がたくさんありました。最初の下宿の位置から、もっと延世大学に近い付近を中心に、ハスク(下宿)と表示された家を一軒ずつ訪ね、部屋を見せてもらい、下宿費を確認して回りました。下宿費は、食事+洗濯+掃除込みで、トㇰパン(独房)と呼ばれる一人部屋が最も高く1ヶ月25万ウォン程したと思います。パンヂハ(半地下)になると値段が下がり、さらに、洗濯以外のサービスを外すと一ヵ月20万ウォンを下回るくらいの金額になりました。私は、パンヂハ(半地下)のトㇰパン(独房)、食事、掃除無しの条件で入居しました。

私が入居したとき、隣の部屋には既に女子学生姉妹が住んでいました。上はイファヨジャデ(梨花女子大)の3年生。下はソガンデ(西江大)の1年生でした。入居してすぐに歓迎会があり、私と女子学生姉妹が住むパンヂハ(半地下)から、上層階に住む下宿生全員と交流する機会があり、一緒にお酒を飲んで語り合いました。男子学生は全員、軍務に就く前で、女子学生も含めて全員私よりも年下でした。よって、彼ら、彼女たちは私を「ヒョン(男⇒男)」「オッパ(女⇒男)」と呼びました。特にパンヂハ(半地下)で隣の女子学生姉妹はしょっちゅう私の部屋のドアをノックして、「オッパ(お兄ちゃん)、スルマシロカジャ(お酒のみに行こう)」とか、「オッパ(お兄ちゃん)ヨンファポロカジャ(映画観に行こう)」等と誘われました。シンチョン(新村)ロータリー(交差点)には、当時、映画館や市場、デパートが集まっていて、また夜になるとポジャンマチャ(幌馬車)と呼ばれる屋台の飲み屋が出てました。映画を観て、ポジャンマチャ(幌馬車)でマッコルリや焼酎を飲みました。

年が明けて1992年は異常低温の冬でした。気温は氷点下18度まで下がりハンガン(漢江)は完全に凍りました。

そんなある日、ポジャンマチャ(幌馬車)で一人マッコルリを飲んでいて、すっかり酔いが回り気持ちが良くなってきて店を出て、すぐ裏のハニル(韓一)銀行の入り口にあった、数段の大理石の階段にしゃがみこみじっとしていたら、さらに気持ち良くなり意識が遠のきました。今考えてみると、氷点下20度近い環境で眠れば誰でも凍死してしまいます。凍死する前は眠くなって気持ちよくなると映画「八甲田山」で知りましたが、本当にその通りでした。

しばらくして、二人の若いお巡りさんが近寄ってきて、

「お兄さん、こんなところで寝ると死んでしまうよ。家はどこですか?」

と声をかけて起こしてくれました。二人は私の両腕を抱きかかえて持ち上げ立たせてくれました。意識もうろうとしていたので、どうやって二人に行先を説明したのか記憶がないのですが、自分の下宿ではなく、Aさんの下宿に連れて行ってもらいました。その後のことはよく覚えていないのですが、朝起きたらAさんの部屋にいました。二人の若いお巡りさんは私の命の恩人なのです。

また、誰から言われたか忘れましたが、「シンチョン(新村)に若い日本人の女性が住んでいて、毎朝、極寒の中を新聞配達している。非常にみすぼらしい服装で、ひょっとすると困っていることがあるかもしれない。同じ日本人として一度会って欲しい」と、その女性を紹介されたことがありました。

カフェで待ち合わせをして現れたのは、目がぱっちりした小柄の可愛い女性でした。しかし、彼女が身に付けていたのは、だぶだぶのズボンと薄汚れたジャンパー。その容姿のアンバランスさにびっくりしたことを覚えています。彼女は韓国に来て半年。ある宗教法人が発刊する新聞の販売店で住み込みで働き、毎朝夕配達の仕事をしながら韓国語を勉強していました。そして彼女はその宗教の信徒でした。「朝は寒いし配達はとても大変でしょう」と私が質問すると、「教祖様の教えがあるので傍からどんなに大変だと思われても苦しいとか辛いとか思ったことはありません」とのことでした。私も韓国留学する前に新聞配達のバイトをしたので、その大変さは理解しているつもりでしたが、彼女の場合は極寒で、しかも自転車での配達なので私の経験など全く比較にならない条件でした。

「困ったことがあればいつでも連絡してください」

と下宿の電話番号を渡しましたが、結局、電話がかかってくることはありませんでした。

他にも本当に多くの皆さんとの出会い、交流がありました。

Kさんに紹介してもらったソウル市立舞踏団のトップダンサーの男性。セジョン(世宗)文化会館に公演を観に行き、その後一緒に食事をしたことが想い出されます。当時、セジョン(世宗)文化会館の裏手には小さい平屋の木造家屋が並んでいて、その中に彼は住んでいました。ものすごくカッコよい人でしたが、ちょっとびっくりすることがあって。。。

KBS(韓国放送公社)の職員で台湾駐在時に台湾人アナウンサーの女性と国際結婚して、ヨイド(汝矣島)にあった、当時はまだピカピカだった現代アパート(日本のマンションに相当)に住んでいたご夫婦。お二人を訪ねて食事をご馳走になりました。台湾人の奥さんがものすごい美人でびっくりしたのと、二人はよく喧嘩をするのだが、その原因は常に韓国と台湾のカルチャーの違いだという面白い話を聞かせてもらいました。その時は、私が台湾人と結婚するなど夢にも思いませんでした。

チョンノ(鐘路)にあった有名な映画館、ピカデリー劇場の向かいの雑居ビルの中で、パンソリ、コムンゴ、カヤグムといった韓国伝統音楽を女性たちに教えている人間国宝のおじいさんがいらっしゃいました。練習を見学させてもらったのですが、ものすごい音圧に圧倒されました。また、女性たちが一生懸命、伝統音楽を練習する姿に感銘を受けました。

国立中央博物館の主席研究員で韓国民謡研究家のイ・ソラ先生。先生は朝鮮半島全土に口伝で伝わるアリラン研究の第一人者として有名な方でした。アリランの中のアリランは、「ミリャン(密陽)アリラン」だと。

아리아리랑 스리스리랑 아라리가 났네
アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ

と唄われました。とても笑顔が素敵で、研究に生涯を捧げるために結婚はとうの昔に放棄したのよ、と笑っておられたその時の声が今でも聞こえてきそうです。

そして、ユン・ソㇰフンさん。ウエスティンチョスンホテルにオフィスがあった、トラベルジャーナルという旅行雑誌の記者でした。ユンさんとの交流はその後ずっと続き、私が帰国後、今度は彼が日本語を勉強しに日本に留学することになり、私の実家に2年間ホームステイをしました。日本で知り合った女性が韓国帰国後にパティシエになり、二人は結婚しました。お嬢さん(アイドルグループのリーダーとして活躍)と息子さんに囲まれて幸せに暮らしています。4年前、偶然連絡が取れたユンさんと、シンチョン(新村)のトㇰスリタバン(今はトㇰスリカフェ)で20年ぶりに再会した時は、二人で抱き合って泣きました。私にとってただ一人のヒョン(兄貴)です。

他にも私の記憶の中には韓国で出会ったたくさんの皆さんの笑顔と声があります。それらはきっと私が人生の最後を迎える瞬間に鮮やかによみがえることでしょう。その時、私はきっと、そのお一人お一人に向けて「ありがとう」と感謝の言葉を贈ると思います。韓国と出会ったことで、人生の深遠さや友情や愛やいろいろなことを学び私の人生は何倍も面白くなりました。これからもずっと、チャルプタカムニダ(よろしくお願いします)❗

終わり

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑦)

シンチョン(新村)の下宿から、友人のコ・ミョンチョルさんに紹介してもらったチョンさんの家に引っ越すことになりました。日本からソウルに到着した時と同じくスーツケースひとつを転がして、地下鉄シンチョン(新村)駅で地下鉄2号線に乗りハンガン(漢江)を渡ってシンリム(新林)駅へ30分。そこで、市内バスに乗り換えてナンゴク市場迄20分。バスを降りて徒歩10分。やっと目的地のチョンさんの家に着きました。

チョンさん家族は、奥さんと赤ちゃん(イニョンという女の子)の3人家族でした。建物は3階建ての構造で1階と3階は別の家族が住んでおり、2階部分の50平米程のスペースがチョンさんの家でした。チョンさんはがっちりした体格の人で、奥さんは切れ長の目の典型的な韓国美人でした。玄関を入って右が居間で、その奥が夫妻の寝室。私は、玄関の正面奥の4畳半ほどの部屋をあてがわれました。お風呂はトイレと一体化したユニットタイプで、韓国ではどこの家庭でもそうですが、浴室に大きなたらいがあり、そこに水をためておいて、その水を用を足した便器に注いで流すのです。また、下水浄水場の機能上の制約だと思いますが、おしりを拭いたトイレットペーパーはトイレに流すことは出来ず、トイレ横の小さなバケツに畳んで積み上げていきました。シンチョン(新村)の下宿でも同じでしたが慣れるまでは抵抗がありました。

チョンさん宅でホームステイが始まってすぐに気づいたのが、専業主婦の奥さんは愚痴ひとつ言わず、しっかりと子育てと家事をこなしている人だということでした。赤ちゃんが夜泣きをして睡眠不足でも、必ず5時半に起きてチョンさんと私のために朝食をつくってくれました。授業が休みの時、終日家にいたことがあったのですが、朝食を終えてチョンさんを送り出すと、休む間もなく赤ちゃんをおんぶしてあやしながら炊事、洗濯、部屋の掃除と手際よくこなしていきました。たまには友達とお茶でもしないのかなと不思議に思うくらい主婦業に徹していた人だったと思います。

ある時、奥さんに付き添って近所のナンゴク市場へ肉、魚、野菜、米の買い出しに行きました。スーパーマーケットがない地域だったので付近の主婦たちはこの市場で買い物をしていました。主婦たちは競うように商品を手に取り、店主と値引き交渉をしていました。スーパーでなら欲しいものを買い物かごへ入れるだけのことなのに、ひとつの商品に対して何分もかけて買い物をしていたのです。主婦たちにとって、買い物は決して楽しいものではなく、ある意味「戦い」のようなものだったのだと思いました。

引越しの結果、通学は大変になりました。毎朝6時半のバスに乗り、渋滞する車に阻まれながらシンリム(新林)駅まで30分程かかることもありました。信号システムの問題なのか、主要幹線道路である南部循環道路に出る交差点のところで大渋滞になるのです。そして、地下鉄に乗り換えると車内は東京の朝の通勤時間帯並みの大混雑状態でした。すし詰めの車内を押し合いへし合いしながらやっとホンデアプ(弘大前)駅に到着。地上に出て深呼吸すると空気が新鮮でした。夏から秋、秋から冬への気温の変化が激しいソウルでは、地下鉄の駅から地上に出た時の空気の違いを日々感じることが出来ました。そして、延世大学のキャンパスに向かって歩いて行く途中にあるモギョクタン(沐浴湯=銭湯)に寄りました。

朝7時半頃に入ると既におじさんたちが朝風呂を楽しんでいました。脱衣エリアには売店があり飲み物や食べ物が売られており、テレビではニュースが映されていて、その前ではひとっ風呂浴びたおじさんたちが自由な姿勢でくつろいでいました。浴室には、熱い湯、ぬる湯、水風呂の3つの浴槽があり、大きなサウナがありました。サウナは高温室とスチーム室に分かれていて、どちらにも床には砂利が敷き詰められていていました。ここ入ると必ずと言ってよい程、誰かと会話をしました。その会話が結構、韓国語の勉強になりました。

そして、たまにテミリ(垢すり)をテミリアジョシ(垢すりおじさん)にお願いしました。競技用のスイミングウェアのようなパンツをはいた筋肉質のアジョシ(おじさん)が、すごい力で体中の垢をこすりだして、あっという間に洗い流してくれます。そして、サウナで汗をしぼり出して水風呂に入り、売店で牛乳を買い一気飲みして外に出ると、身も心も軽くなって本当に気持ちが良かったです。そうやって9時前に教室に到着するという生活を、学期の間の休みをはさんで6ヶ月続けました。

ホームステイ開始当初、チョンさんは夕食を家でとり、食後、私が日本語を教えていたのですが、徐々にお酒を飲んで深夜に帰宅することが多くなり日本語を教えることも少なくなっていきました。奥さんには、私のためだけに夕食を用意してもらうことが申し訳なくなってきたので、授業が終わると大学の図書館で勉強して、バスでセジョンノ(世宗路)に移動し、ソウル新聞社ビルの上層階にあった日本人会に寄って食事をすることが増えました。

日本人会には日本語が上手な親切なアジュマ(おばさん)がいて、ドリップコーヒー(ホット・アイス)とカレーライスの食券(10枚つづり)を売っていて、それでカレーライスを食べて帰宅しました。当時、ソウルでもカレーライスを食べることは出来ましたが、妙に黄色くて、ルーも粉っぽくてあまりおいしくなかったので、アジュマ(おばさん)が作ってくれた日本のカレールーで作った完璧に日本味のカレーは本当においしかったのです。日本人会の大きなフロアにあるテレビにはNHK BS放送が常時映されていて大相撲中継をいろんな会社の日本人駐在員と一緒に観ました。

深夜に帰宅するチョンさんは、突然友人を連れて帰ってくることがありました。それでも奥さんは嫌な顔一つせず、お酒とつまみを用意してもてなしました。私も声を掛けられて飲み会に参加するように求められました。韓国では男性は友達から求められたら断らないという常識があるので、奥さん同様、私も嫌な顔を見せずお酒に付き合いました。

一緒に飲んでいるといろいろなことを質問されました。日本社会のこと、学校のこと、家族のこと、就職や給料等々。当時、経済的繁栄を謳歌していた日本への関心は非常に高かったのだと思います。そして、酔いが回ってくると必ず口に出たのが「あらゆることに関する日本の責任問題」でした。このトピックはとてもセンシティブなので書くことがためらわれたのですが、日韓関係を考える上で避けて通れないことですので書くことにしました。以下のことは今まで両親にも友人にも妻にも話したことがありません。

私が考える、韓国の多くの人々が日本に求めていることは以下の通りです。

1、日本政府による大韓帝国併合と統治期間に行われた非人道的行為への具体的な謝罪。

2、日本の非人道的行為の対象であるすべての韓国人とその遺族に対する、全日本人による謝罪と具体的行動(天皇による正式な謝罪、金銭的補償等)の継続的実行。

日本が国際法に照らして主張している「補償問題は解決済」の根拠は、日韓基本条約締結によって実行された円借款と技術供与を前提にしています。しかし、韓国の多くの人々の心情としては、それはあまたある謝罪の一部分にしか過ぎず、両国間の問題を根本解決する必要条件とは認識されていません。

しかも、日韓基本条約締結時の政権は軍事政権であり、その政権が主導した時代は経済発展の名の下で政財界が癒着し、個人の権利や人権が無視されたという負の記憶が重なっています。その忌むべき時代の背景に日本政府とそれに迎合した企業がいたということが、現在の革新政権の誕生の背景になっているという複雑な事情があることを、私たちは理解しておく必要があります。

私は、朝鮮半島に残る神話、古代から中世に至る日韓関係の歴史、明治維新から韓国併合に至る経緯、日本統治下および戦前戦中の朝鮮半島の状況、日本の戦後復興と韓国及び韓国人への対応、朝鮮戦争と軍事クーデター、同政権による戦後復興、ハンガン(漢江)の軌跡と呼ばれる高度経済成長とソウルオリンピックの開催、民主政権の誕生とアジア通貨危機、革新政権誕生へと至る経緯を、日本と韓国両国の視点から学び、両国からみた事実の捉え方の理解に努めてきました。そこから得た知識によって、韓国の方々から「全日本人による謝罪」を求められたとき、大部分の日本人が、情と理の両面から総合的に判断して、果たしてその求めに素直に応ずるだろうか、と徐々に考えるようになっていきました。

統治に至る過程、また統治下の朝鮮半島で日本(旧朝鮮総督府)が、被支配者である韓国の人々に対して人間の尊厳を踏みにじるような非人道的行為をしたという事実があったことは事実だと思います。よって、多くの韓国の人々が「日本」が犯したことに対して謝罪し続けるべきと考えていることは十分理解できます。その一方で「過去から現在に至る全日本人が、主に旧朝鮮総督府が行った行為について全責任を負っており、そのことに対して謝罪し続けるべきだ」という解釈には、やや飛躍があり、多くの日本人には受け入れることは難しいだろうという考えを持っています。

私が「全日本人の全責任論」を受け入れるのを難しいと考える理由は、大多数の日本人自身も、太平洋戦争と日中戦争の大敗北。空襲で国土のほとんどを焼き尽くされた筆舌に尽くしがたい絶望と不幸を味わった「被害者」だからです。

では、私が考える、日本人が韓国の人々に謝罪すべきこととは何かというと、当時の日本人が、政府と軍部の行動を止めることが出来なかったこと。また、嘘の情報に踊らされ軍を支持し、被支配者に対する差別的、時に暴力的な態度をとったこと。もしくは、傍観者として見て見ぬふりをしたことだと思っています。しかし現実的には、明治憲法下における個人の権利は現在よりも制限されていた上に、軍は天皇の統帥権の下で独立し、超然とした存在となっていて、たとえ内閣でも口出しが難しく、ましてや一国民が軍部の指導に従わない、または阻止する行動をとることは命を捨てる覚悟でもない限り非常に難しかったと考えます。

一方、今を生きる私たち日本人はどうでしょうか。いまの政府がやることをきちんと監視しているでしょうか。過ちに対して明確に反対の意思表示をしているでしょうか。選挙権や情報請求権という民主憲法下で認められた基本的な権利を与えられているにも関わらず、それを活かし切れていないのではないでしょうか。私はそのことが、過去の出来事から学びきれていないという点で、日本人が韓国の人々に対して謝罪すべきことだと思っています。

ドイツのヴァイツゼッカー大統領が1985年5月8日の演説で、

「過去 に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

と述べました。

日本人は、隣国の人々に指摘されるまでもなく、日本が滅亡の寸前にまで至ったという歴史の事実から目を背けることなく、徹底的にそこから教訓を得て未来に活かさなければならないと思います。

そのことを理屈では理解していても、そういう私も、面と向かって昔の出来事、しかも、会ったこともない人々の行為について謝罪を求められても、それを素直に認めることは簡単ではないことを身をもって体験しました。

夏休み、ホームステイ先のチョンさん家族とその友人達10数名でオープンしたばかりのムジュ(茂朱)リゾートに行きました。日中何をしていたかは記憶にないのですが、夜は歌謡ショーがありチョー・ヨンピルの歌を聞きました。そして、宴会の場で例の「日本のあらゆることに関する責任問題」が話題になったのでした。

リゾートの部屋で車座になって食事とお酒を楽しんでいる最中、チョンさんの友人の一人が突然私に向かって「日本人が韓国人にしたことをどう思っているんだ?」とすごんだのです。それに便乗して他の4名~5名も畳みかけるように私をつるし上げにかかりました。

私は彼らの言っている言葉の意味を理解しようと必死に聞こうとしたのですが、チョルラド(全羅道)の方言がきつくてなかなか聞き取れない。しかも、私に対して日本に責任があると思うか? とYes or Noの返答を求められる。さらに、どの程度責任を感じているのか? と非常に難しいことを言ってくる。勝手に旅行に誘っておいて、その場に一人しかいなかった日本人の私を、まるで全日本人の代表者のように見立てて、寄ってたかってやり込めるなんていま考えてもあんまりだなと思います。でも、それくらい韓国の人たちの怒りが大きいということなんです。

私は、モルラヨ(分かりません)と言ってその場を離れようとしました。すると今度は、「日本人は教育されていないから分からないんだよ」というもっと辛辣な言葉を浴びせ掛けられました。前述したように、日韓両国の歴史については恐らく彼らよりも私の方が詳しい部分が大きかったのではないかと思います。私が、モルラヨ(分かりません)と言ったのは、「何があったか分からない」という意味ではなく、「日本人がかつて韓国の人々に対して行った行為について現代を生きる全ての日本人が責任を負っていて謝罪し続けるべきと思うか」というと分からないという意味だったのです。

結局、ホストのチョンさんが中に入ってくれて「楽しい旅行でそういった話題は相応しくないのでやめよう。大西さんは日本から韓国に来て韓国のことを学んでいる貴重な存在じゃないのか?」と言ってくれてその場は収まりました。

私は普通日本人が経験しないような極端な経験をしました。今振り返るとこの経験によって、就職後に仕事で訪れた、シンガポール、台湾、香港、中国、ベトナム等の国々で直面した同様の場面(あらゆることに関する日本の責任問題の質問や詰問)においても、ひるまずに、自分の考えをはっきり述べることができるようになりました。

私が韓国留学で得た最も大きな学びは、「真実はひとつではない」ということ。そして、一人一人が、各々が持つ「異なる真実」を述べ合い「すりあわせをする」ことの大切さです。そこにかける時間や手間を惜しまず続けることは、隣人との良好な関係を維持する上で絶対に必要だと思います。

今回は、日韓に横たわる核心的な問題について勇気をもって書きました。これらはあくまで私が経験を通じて得た教訓ですので必ずしも正解ではありません。日韓関係を真剣に考えてきた一人の人間の見聞録として読んでいただければ幸いです。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑥)

「人は2度死ぬ」という話しを聞いたことがあります。1度目は実存の死。そして、2度目は人々の記憶から消える時。ソウルで過ごした1年間に出会った方々は、皆さん強烈な個性を放っていて、それぞれに忘れがたい想い出があります。その中でも特に深く刻まれた想い出は、1991年当時、既にご高齢だった皆さんのことです。今となっては既にお亡くなりになられている可能性が高く、再会は叶わないかもしれない皆さん。私の記憶の中で今でも元気に生き続ける皆さんのことを書き留めておくことにしました。

・深夜の誤報

1991年当時、ソウルでは月一回(確か15日)の正午過ぎに、20分間のミンバン(民防)というものがありました。北朝鮮からの攻撃を想定した防空訓練のことです。ソウル中にサイレンが鳴り響き、二度目のサイレンが鳴るまでの間、歩行者は建物の中、地下道等の退避所に入りじっとしていなければなりません。また、自動車、バスもすべて運行を止めて路上で待機しなければならず、従わないと逮捕されると聞きました。ミンバン(民防)の前には、ミンバン(民防)委員が街中に出てきて、うろうろしている人がいないか監視をします。私たち留学生も、ミンバン(民防)開始前には食堂に入るなど待ちぼうけを食わないように対処しました。計画的な訓練ですので、混乱ひとつなくスムーズに運用していたと思います。

シンチョン(新村)の下宿で過ごしていたのある日のこと。日付は忘れましたが、気候も暖かくなっていたので6月だったのかもしれません。皆が寝静まった深夜に、突然ソウル中にミンバン(民防)のサイレンが鳴り響いたのです。就寝中だった私はサイレンの音に驚いて目を覚ましました。続いて、階下から階段を駆け上がってくる音がしたかと思うと、下宿の主人(おじさん)が私の部屋のドアをすごい勢いで開けて、

「逃げるぞ!今すぐ荷物をまとめて!」

と叫んだのです。私は熟睡中を突然起こされて何が何だかさっぱりわからず、ぼーっとしていたのですが、隣の部屋の日本人のおじさん(韓国の児童文学の研究者)、また、向かいの部屋の相部屋の韓国人2人(ロッテデパートの会社員と、ソガン(西江)大学の大学院生)の部屋からは、ごそごそと何かを始めたような音が聞こえてきて、これは本当に何かが起きたのでは、と目が覚めました。

大急ぎで服を着て、パスポートと財布をバッグに入れ、階段を降りると、おじさんは興奮気味に、韓国語でおばさんに何かを話していました。そして、下宿生全員が集まったところで、次のように言いました。

「これは北朝鮮が攻めてくることを知らせるものだ。とにかくハンガン(漢江)の南へ行こう。ハンガン(漢江)を渡らないと北側に取り残されて北朝鮮に殺されるぞ!」

私は、おじさんが鬼のような形相で興奮して話す様子を聞いて唖然としました。

ソウルを東西に横切るハンガン(漢江)には、いくつかの大きな橋が架かっているのですが(その中のひとつソンス(聖水)大橋は1994年10月21日に事故で崩落)、それらすべての橋の中間地点に設置された詰め所にはダイナマイトが仕掛けられており、韓国軍は有事にはこのダイナマイトで橋を爆破して、北朝鮮軍が南に進行するのを食い止めると聞いていました。大きなリュックを背負ったおじさんとおばさんを先頭に私たちは外に出ました。その時、再びサイレンの音が鳴り響きました。おじさんとおばさんは、外に出ていた近所の人たちと話を始めました。そして、私たちのところに戻ってきて、

「誤報だったみたいだ」

と言いました。その時のおじさんの安堵した表情を忘れることが出来ません。そして、おじさんは居間に戻った私たち下宿生に昔話を始めました。

朝鮮戦争の時、北朝鮮軍に追われ南へ南へ逃避行して、とうとう釜山まで逃げた。逃げ遅れた人は捕まってひどいことをされた。だから、いまでも北朝鮮が襲ってくる夢でうなされることがある。釜山を除く朝鮮半島をすべて北朝鮮軍に占領された韓国は絶体絶命の危機に陥った。そして、マッカーサー率いる国連軍がインチョン(仁川)に上陸し占領地を奪回していった。38度線の北側へと北朝鮮軍を押し上げていき南が優勢になったところに、中国軍が参戦して一進一退となり、38度線が停戦ラインに定められた。

1991年当時は、朝鮮戦争を経験し、その記憶がまだ生々しい世代がご健在でした。ミョンドン(明洞)など繁華街では、戦争で負傷して腕や足を失った人たちが腹ばいになって、アンプ付きのスピーカーにつなげたマイクで歌を唄い、募金を求めているのも日常の光景でした。1991年、日本が太平洋戦争終結後46年を迎えたその年、韓国は朝鮮戦争停戦後38年を迎えました。その違いはたったの8年間です。しかし、両国の戦争に対する危機感は天と地ほどの開きがありました。朝鮮半島は休戦状態。目と鼻の先にいる北朝鮮がいつ攻めてくるかと戦々恐々としている人がまだまだ多かった時代でした。深夜の誤報は、普段見ることが出来ない朝鮮半島の緊張状態を見せつけられた出来事でした。

・地下道のおばあさん

次は、日本統治下で生まれ、2つの戦争を生き抜いた一人の女性の話しです。

学校帰り、また、前述したミンバン(民防)のとき、私は、延世大学正門前の大通りの下を潜り抜ける地下道の真ん中にあった「売店」のおばあさんを訪ねました。初登校の時にこの売店にふと立ち寄り牛乳を買ったとき、おばあさんは私に向かって「日本人だね。日本人が好き」と言いました。それ以来、私にとても親切にしてくれて、いろんな話しを聞かせてくれたおばあさん。この方が歩んでこられた人生の断片を知って、韓国という国は決して一枚岩ではなく、様々な価値観と、ものの考え方が複雑に絡み合って成り立っている国なのだ、ということを学びました。

おばあさんは1991年当時、既に70歳を超えていたと思います。日本統治下のソウルで生まれ育ち、太平洋戦争開戦(1941年)の時は既に結婚していたので、大正生まれだったのかもしれません。 おばあさんが持っていた日本人像は「律儀」「親切」「正直」「真面目」。少し買いかぶりすぎかなと思いましたが。。「それにひきかえ・・人は」というのが口癖でした。おばあさんは、私と話しをする時には流暢でとてもきれいな日本語を使いました。「ですます」ではなく「ございます」。尊敬語、謙譲語、丁寧語も完璧に使い分けて、まるで国語の先生から正しい日本語を教えてもらっているようでした。

一方、とても和やかな私たちの日本語の会話の合間に、大学生が売店にやってくるとおばあさんの表情は豹変し、激しく辛辣な韓国語で叱りつけました。まだ、韓国語をきちんと理解できなかった私でしたが、叱りつけられた学生の表情を見て、相当こっぴどく言われたんだなということが分かりました。そして、おばあさんは私に「韓国では躾がなっていない。これじゃ先が思いやられるよ」と愚痴をこぼしました。

おばあさんが日本人を美化したのは、日本統治下のソウルでの美しい想い出があったからです。

小学生のとき担任の先生は優しい日本人の女性だったそうです。その先生は、お弁当を持ってこれない生徒がいると自分のお弁当を分けて食べさせていた。そして、先生と一緒に歌を唄ったり、お遊戯をしたり、絵をかいたり、夢のような楽しい時間を過ごしたと。そんな話しをしているときのおばあさんはまるで少女時代に戻ったように穏やかな表情をしていました。そこに学生が来ると鬼のような表情になって叱りつける。その豹変ぶりを横で見ていて面白く、何度もふき出しそうになりました。戦争が激化し、日本の敗戦で日本人は本土に引き上げていき、朝鮮半島は南北に分断され、政情不安であちこちで物騒なことが起き始めた。そんなときにいつも思い出したのは少女時代、小学校の先生と一緒に過ごしたときのことだったそうです。朝鮮戦争でご主人を無くし、息子を連れて逃避行して命をつなげた。戦後は女手一つで息子を学校に通わせ、今、息子夫婦はアメリカにいて孫もでき幸せに暮らしていると。自慢げに写真を見せてくれたおばあさん。でも、どことなく寂しい表情を浮かべていました。いろんな複雑な事情があるのだろうと察しました。

おばあさんとの交流は私の留学中ずっと続きました。そして、日本に帰国後、就職した最初の年に韓国への2ヵ月間の連続出張があり、その時もおばあさんを訪ねました。就職して戻ってきたと話すとおばあさんはとても喜んでくれました。そして、1997年のアジア通貨危機で韓国経済が大混乱に陥った時、再びソウルを訪れた私は地下道のおばあさんを訪ねました。しかし、売店の入り口は鉄板でふさがれ、固く南京錠で閉ざされていました。その後、2000年代に入り、ソウルを訪れるたびに地下道へおばあさんを探しに行きましたが結局再会は叶いませんでした。

「日本びいき」というと、留学の最後に偶然乗ったタクシーの運転手さんのことを思い出します。私が話す韓国語で外国人と分かった運転手さんは「日本人ですか?」と質問してきました。私が「はい、ソウルに一年いました」と答えると次のことを話し始めました。

「一年の間に、いろいろ嫌な思いをしたでしょ。日本人だから悪いとか、どうとか言われませんでしたか? 私の母はね、日本統治下で生まれ育ったんですが、私たち兄弟にね「日本人だからという理由で悪く言ったりしてはいけないよ。私はとても良い日本人を知っている。韓国にも日本にも良い人もいれば悪い人もいる。だから、偏見で決めつけてはだめだよ」とね。だから、ずっとそう言われて育った私は母にとても感謝しています。」

私はタクシーの後部座席からじっと運転手さんの話しに耳を傾けました。1年間を振り返り、いろいろなことが頭に浮かんできて涙が出そうになりました。

・謎の外国人

以前のブログで紹介した、足掛け9年ソウルで過ごした勇者、Kさんが住んだ最初の下宿は、チョンノ区チェブ洞といって、李氏朝鮮時代の王宮キョンボックン(景福宮)の西側に広がる、ハノク(韓屋)と呼ばれる韓国式家屋が軒を連ねる歴史地区の中にありました。その北側には大統領府チョンワデ(青瓦台)、韓国で最も有名な道路と言っても過言ではないセジョンノ(世宗路)まで徒歩で行けるソウルのど真ん中でした。街に一歩足を踏み入れると、チャングムやファンジニのようなTV時代劇の世界にタイムスリップしたかのような街並みが残っていて、ここがとても好きになった私は、Kさんの下宿に度々お邪魔してご飯をご馳走になりました。下宿のおばさんは嫌な顔一つせず、いつも温かく迎えてくれました。

下宿は、まず門をくぐるとマダンという中庭があり、それをぐるりと取り囲むように6畳ほどの部屋が並んでいる平屋構造になっていました。トイレとシャワーは離れになっていて、その壁面にある階段で屋根に昇ると、ぐるりと周囲の家々を見渡すことが出来ました。満月の夜、ここでお酒を飲みながら、ハノク(韓屋)独特の屋根が延々と続く景色を眺めながら月見をした時の光景はため息が出るほど美しかったです。この地区は、その後再開発の対象となり、すっかり古い建物が取り壊されてしまったようです。本当に残念です。

この下宿にはKさんともう一人下宿人がいました。お名前は「ジミーCハンさん」という韓国系アメリカ人でした。がっちりとした体格で身長は180センチ近くあったでしょうか。短く切った髪、肌は艶々していて若々しい人でしたが、ご自身の言葉では70歳だと言っていたような。。ベイビーフェイスで親しみを覚える方でした。

ハンさんは、語学堪能で、英語、韓国語、中国語、日本語、ロシア語を使いこなしました。普段はずっと部屋にこもっていたのですが、たまに出てこられるとKさんの部屋を覗いて私たちと会話をしました。ハンさんの部屋にはいろいろな言語の新聞、本、そして無線機のような機械が置かれていました。時々、ハンさんの部屋から中国語やロシア語が聞こえてきて、いったい何をしている人なんだろうとKさんと不思議に思っていました。

ある日、ハンさんは私たちの疑問に答えるように自身のことを話し始めました。

アメリカ大使館に所属して軍関係の仕事をしている。朝鮮戦争の時、インチョン(仁川)上陸作戦にマッカーサーの副官として参加した。マッカーサーと並んで上陸した時の写真を私たちに見せながら自慢気に語りました。日本が好きで、力道山が友達だった。後ろから見るとハンさんは力道山と体格、背丈が一緒なのでよく間違えられた。力道山はヤクザに刺されて死んでしまって残念だったとしみじみ語っていました。

先日、Kさんと28年ぶりに再会した時、ハンさんのことが話題になって、Kさんが「あの人は本当に存在していた人だったのか、それとも夢だったのか迷うことがあるんですよね」と。私たちにとってハンさんはそのくらい不思議な存在だったのです。確かにそこにいたはずなのだけど、夢か幻かと思ってしまうような人というのは、私にとっては後にも先にもハンさんお一人だけです。ハンさんはその後、下宿を出てアメリカ軍の基地近くに引っ越してしまいました。一度、食事をご馳走になったのですが、それ以来一度もお目にかかっていません。

下宿のおじさん、地下道のおばあさん、謎の外国人(ハンさん)は、今、私が心の底から会いたい人たちです。