違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑤)

1991年4月、ソウルでの留学生活が始まりました。韓国語学堂の授業の特徴は、韓国語以外の言語を一切使わず、先生が、韓国語で韓国語を教えることです。カリキュラムは、文章と読解、会話、リスニング、ハングル文字の学習に分かれていて、計4時間の授業を受講することで体系的に韓国語をマスターしていきます。そのメソッドは素晴らしいものでした。そして、毎日、新しく学んだ構文を使って、5つ以上の例文をつくるという宿題が出されました。伝えたいことを表現するためには、新しい単語を調べなければならず、辞書とにらめっこしなければなりません。そうやって語彙も少しずつ増えていきました。

語学は3の倍数で上達する、と聞いたことがあります。私の実感でも、最初の3週間でぐっと伸びて一旦停滞。3ヶ月でぐっと伸びてまた停滞。そして、6ヶ月目に上達を実感する。これを繰り返しながら、徐々にいろいろな言葉が理解できるようになっていきました。「分かる」ことは喜びにもなりますが、反面、分かったことで生じる戸惑いもあり、喜びと戸惑いが、ほぼ同時に増えていくような感覚を味わっていたと思います。

日々の上達のスピードは非常にゆっくりなため変化を感じることはほとんどなかったのですが、留学開始から3ヶ月ほど経ったある日、バスの車内から外を眺めていて、次々に視界に入っては離れていく店舗や道路標識、看板等に書かれているハングル文字を瞬時に読み取っている自分に、何の前触れもなく気付いきました。学ぶことは「自分が変わること」だと初めて実感した瞬間でした。

地下鉄に乗っていると、駅名や乗り換えの案内以外にもいろいろな車内放送が耳に入ってきました。そして、バスには、新聞やガムを売りに乗ってくる子供たちが次々と乗ってきて、大きな声で何かを訴えていました。何を言っているのか皆目見当がつきませんでしたが、この子供たちは一つか二つの停留所の区間だけ乗っては下車していきます。そうやって恐らくソウル中のバスの乗り降りを繰り返していたのでしょう。運転手はそんな子供たちからは乗車賃は取りませんでした。そして、前述と同じく留学開始から3ヶ月ほど経ったある日、今まで全く聞き取れなかった言葉の意味が突然理解できました。

地下鉄の車内放送は、政府機関からの通達で「怪しい人物(北朝鮮のスパイ)を見つけたら連絡をしてください」などと繰り返し放送していることが分かりました。また、バスの車内で新聞やガムを売る子供たちは、乗客に挨拶をして、自分の身の上を語り、(新聞等を)買ってくださいと懇願していることが分かってきました。意味が分かり始めると、それまで傍観者でいた自分の中にいろいろな感情が湧きあがってきました。

韓国と北朝鮮は休戦中で、いつ戦争が始まるかもしれないという緊張感。当時のソウルには多くの孤児がいて、悪い大人たちに操られて物売りをさせられていたりすることも分かり心が揺れました。他にも、ソウルで生活している以上、知らなかったでは済まされないことが次々と分かってきて、それら一つ一つの情報を一旦は受け入れ、次に自分なりに解釈した上で整理するのに精一杯だったことを覚えています。

しかし、留学生活の始まり時期における出来事で、けた違いにインパクトが大きかったのは「学生によるデモ」でした。

今振り返ると1991年という年は、日本にとっても韓国にとっても、また世界史的な意味でも、従来の秩序が変わるターニングポイントの時期だったと思います。

日本では、同年2月に、みんなをお金儲けに血眼にしたバブル経済が終わりを迎えました。

バブル景気(バブルけいき、英: bubble boom)は、好景気の通称で景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。情勢自体はバブル経済と同一であり、バブル経済期(バブルけいざいき)または、バブル期(バブルき)や平成景気(へいせいけいき)、平成バブル(へいせいバブル)とも呼ばれる。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環(内閣府の景気基準日付)という通称で指標を示している。(Wikipediaより)

また、12月には、ソビエト連邦が解体され東西冷戦が事実上幕を閉じました。

ソ連崩壊(ソれんほうかい、露: Распад CCCP)とは、1991年12月のソビエト連邦共産党解散を受けた全ての連邦構成共和国の主権国家としての独立、ならびに同年12月25日のソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビエト連邦が解体された出来事である。(Wikipediaより)

そして、韓国では、80年代半ばから始まった国民的な運動(軍事独裁政権から民主政権への移行の要望)が最高潮に高まり、大詰めの時期を迎えていました。そのような中、4月にソウルのミョンチ(明知)大学の1年生の学生が、デモの最中に機動隊(別名:戦闘警察)により殴打され死亡するという事件が起きました。もともと私が通っていた延世大学はデモのメッカだったのですが、この事件をきっかけに学生の怒りに火がついて一気に激しいデモへ発展しました。東京大学東洋文化研究所の真鍋祐子教授が、当時のことをシンポジウムで語られていますので以下引用します。

私は韓国の民主化運動についてずっと研究をして参りました。それで1987年から88年にかけて、一年間ソウルに留学をして、1991年から93年にかけて2年間、大邸(テグ)にある大学で日本語教員をやっておりまして、その間、民主化運動はまだまだ激しい時期でした。ちょうど大邱にいた時分に民主化運動の現場で抗議の焼身自殺というのが一ヶ月で11件も続いた、そういう時期を過ごしました。それは1991年のことです。4月にソウルにある明知大学の一年生がデモのさなかに機動隊に殴り殺された事件をきっかけに、抗議の焼身自殺が全国に広がったのです。私がいた大邸というところは、保守的な土地柄で、あまり学生運動が盛んなところではないのですが、在職していた大学のエントランスホールには、どこかで抗議の焼身自殺者が出る度に焼香台が設置されて、その台の上に亡くなった学生なり労働者なりの遺影と、ときには黒焦げの遺体の写真、あるいは燃えているさなかの写真が飾られていて、お焼香ができるように線香が立ててある。これが4月から5月にかけて約ひと月、10人以上も亡くなっているので、非常に私にとってもハードな経験でした。(2018年6月2日(土)東京シンポジウムでの講演「死者への追悼と社会変革―韓国民主化闘争を振り返る」より)

真鍋教授は、このシンポジウムの講演の中で、後追いで焼身自殺するというショッキングな行動の原因について、韓国人が持つ独特な精神の中にある「死者への弔い」がそうさせていると述べておられます。このことについて私は何かを語る知識を持ち合わせていませんので言及はしませんが、延世大学の学生会館にも、自死した学生の遺影と焼香台が増えていくのを見ましたし、日本から飛行機でわずか2時間程しか離れていない距離にあるところで起きていることとは、にわかには信じ難いと思った記憶があります。

学校の構内では喪章をつけた学生を多く見かけるようになり、至るところで集会が開かれていてリーダーらしき学生が拡声器で何かを叫んでいる姿が目立ち始めました。大学の正門では、亡くなった学生への弔いと、民主政権実現を実力行使で訴えようと、シンチョン(新村)の街に今にも押し出そうとする学生の一団と、道路の反対側でその動きをけん制する機動隊のにらみ合いが何日間も続きました。私はその様子を横目で見ながら下宿と学校を往復しました。当時、韓国でもデモは認められていたようですが、事前の届け出が必要なことと、実施場所は学校等の敷地内に限定されていたようです。よって、敷地から一歩外に出ると違法行為となるため、国家権力は暴力的な手段を用いてでも徹底的に排除を試みました。韓国には徴兵制(1991年当時は2年半)がありますが、機動隊も徴兵で集められた若者で構成されていて、真偽は定かではありませんが、デモで捕まった学生が徴兵されると真っ先に機動隊に回され、昨日まで一緒にデモをしていた仲間たちを鎮圧する役割を担わされたと聞いたことがあります。

そして、我慢の限界を超えた学生たちは、ついに大学の正門を突破し機動隊と乱闘になりました。

私は正門から大学構内に入ることが出来なくなり、隣のイファ(梨花)女子大学の方へ遠回りをして通学しました。そのような中、恐らく、あちこちの大学から学生が集まってきたのでしょう。小競り合いだった程度だったデモの規模がどんどん大きくなって、シンチョン(新村)の街中で衝突するようになり、機動隊は装甲車を出動させて道路を封鎖し、催涙弾を発射して町中が白煙に包まれることもありました。催涙弾は暴動鎮圧のために各国で使われていますが、当時の韓国では特に大量に使われたのではないかと思います。これも真偽は定かではありませんが、最も強力なフィリピン製を使っていると聞いたことがあります。

そんなある日の夕方、シンチョン(新村)の街の中にある食堂で一人食事をしていた私は、意図せずデモに巻き込まれてしまいました。

食事の最中停電になり店内は真っ暗になりました。警察か市政府電力の判断かは分かりませんが、デモ鎮圧のため一時的に電力供給を止めたのです。そのようなことは以前にもあったため驚きませんでした。食堂のアジュマ(おばさん)は、何も言わずろうそくに火をつけ皿に乗せ、各テーブルに置き始めました。私の目の前にもろうそくが置かれて、真っ暗な店内がゆらゆらとしたろうそく明りに照らされました。その光景はデモの真っただ中とはいえ、幻想的で美しく、今でも脳裏に焼き付いています。食事を終え会計を済ませて外に出ようとした時、アジュマ(おばさん)が「まだ、危ないからここで待っていたほうがいいよ」と諭してくれました。しかし、早く下宿に帰りたかったのでお礼をして店を出ました。

店の外に出ると、左手の坂の下の方から大きな音が聞こえてきました。そちらに目を向けると、大勢の学生が機動隊に追われて逃げてくる様子が目に飛び込んできました。その勢いに圧倒された私は、あれよあれよという間に学生の一団に巻き込まれてしまいました。そして、一緒に走り始めました。機動隊は後ろから迫ってきているはずだし、足元は暗くて良く見えないし、もし捕まったりしたらこん棒で殴られ、留置所へ入られ、日本に帰されるかもしれないなどと、いろんなことが頭に浮かびました。但し、方向感覚だけはしっかりしていて、この道を走り通せば逃げ切れるはずだということもはっきり分かっていました。そして5分ほど走ったでしょうか。イファ(梨花)女子大学の方角へと続く坂を一気に上り切り、後ろを振り返ると既に学生たちは散り散りになったようで姿がありませんでした。また、機動隊の姿も見えませんでした。ほっとしました。

しばらくじっとして呼吸が整うのを待ちました。そして、どうやって下宿に戻ろうかと考えました。その場所から見ると下宿は、先程までいた食堂の正反対にあり、まっすぐ行くとデモのまっただ中を突破しなければなりません。さすがに無理だと考えた私は、地下鉄2号線の真上を走る大通りに出て地下鉄で移動できないか試してみることにしました。イデ(梨大)駅の階段を駅の構内に向けて降りて行くと学生がたくさんいて騒然としていました。駅員が何やら拡声器で叫んでいる声が耳に入ってきて、はっきりとは聞き取れませんでしたが「シンチョン(新村)駅は通過して隣のホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅まで停車しない」と言っているようでした。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅とは、ホンイク(弘益)大学がある駅で、その頭文字をとって普通はホンデ(弘大)と呼ばれています。今では、活気あふれる若者文化の創造、発信基地ですが、当時は、駅を降りると大通り沿いに台所用品の問屋さんとか、ボイラーの代理店などしかなかった記憶があります。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅から下宿までは歩いて20分程の距離ですし、シンチョン(新村)駅があるロータリー近辺は機動隊と学生が激突して、催涙弾がまかれているのでとても近付けないと考えた私は、地下鉄で移動することにしました。

地下鉄に乗ると、ソウルの中心部で働く帰宅途中の会社員が大勢乗っていて、不安(不満?)そうな顔をしていたことを覚えています。そして、電車は真っ暗なシンチョン(新村)駅のホームを通過していきました。通り過ぎる地下鉄の車内から見えた駅のホームには、座り込む学生が大勢いたように記憶しています。機動隊から逃れてきたのかもしれません。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅で地下鉄を下りた私は階段で地上に出ました。坂を上り、次にやや下って左折し路地に入り、坂を上って銭湯の前を通過して急な坂を下っていくと遠くに下宿が見えてきました。この辺りはシンチョン(新村)の街を見下ろす高台でしたので、そのあたりまで来たら灯りが消えた真っ暗な街が見えてきて、白くもやがかかっているようでした。

下宿も停電で真っ暗でした。玄関に入り「タニョワッスㇺニダ(ただいま帰りました)」と言うと、アジュマ(おばさん)、続いてアジョシ(おじさん)が出てきて、泣きそうな顔で「今までどこにいたんだ?本当に心配したよ。でも無事でよかった」と言いました。他の下宿生も皆戻ってきていました。

さっきまでは下宿に戻ることだけに集中していたので気付かなかったのですが、靴を脱いで居間に入ると、顔がひりひり、目がしょぼしょぼして涙が出ることに気付きました。そのことをアジョシ(おじさん)に言うと、それは催涙ガスを浴びたんだと教えられました。そして「今晩、どんどんヒリヒリして痛くなるけど、決して水で濡らしてはいけないよ。ガスの成分は水と反応して皮膚が炎症するんだ」と言われました。それから翌朝迄の数時間は本当にきつかったです。顔や腕がヒリヒリして涙は出るし、むせるように息苦しく自室の布団の中でじっと我慢しました。

学生デモはその後も規模が拡大して、場所もシンチョン(新村)などの学生街からミョンドン(明洞)や市庁舎前、チョンノ(鐘路)といったソウル中心のオフィス街、繁華街へ飛び火していきました。別の日にロッテデパートにいた時にも、ミョンドン(明洞)の道路が封鎖されるくらい大きなデモがあり半日ほどその場にとどまったことがありました。そんな活発なデモは7月頃まで続いたのではないかと思います。

ちょうどその時、日本で知り合った韓国人(新聞奨学生)の二人の内の一人で、ソウルに帰って来たばかりのコ・ミョンチョルさんから

「友人の家にホームステイしないか?日本語を教える代わりに下宿代は安くしてくれるそうだよ」

と誘われました。デモに少しうんざりしていましたし、学校と図書館と下宿の往復の生活にも少し飽きてきていた私は、よく考えた末に最初の下宿を離れ、韓国人の家にホームステイをすることに決めました。

ホームステイ先の住所は、クァンアクグ(冠岳区)シンリムドン(新林洞)。シンチョン(新村)からみると、ハンガン(漢江)の反対側に位置していて、地下鉄2号線のシンリム(新林)駅で下車し、バスで南部循環道路を西に向かい、左折してナンゴクノ(路)にはいり、ナンゴクシジャン(市場)というバス停で降りたところ。クァンアクサン(冠岳山)のふもとの小さな家に、ホストファミリー(チョン(鄭)さん、奥さん、小さな女の子の赤ちゃんの3人)が暮らしていました。私にあてがわれた4畳半くらいの小さな部屋で暮らした期間は1991年7月から12月末までの6ヶ月間。その間、バスと地下鉄を乗り継いで、片道1時間半の道のりを通学しました。今振り返ると、この6ヶ月間に、留学生同士の付き合いだけでは到底分からなかった、韓国人のものの考え方や生活習慣に直接触れることが出来たと思います。日本とは全く違うので戸惑うことがほとんどでしたが勉強になりました。

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